スピーカー 2
二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜。
この番組では、なかなかおもてんでない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリズナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ 取締役の勝宮すいでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだれゆうすけです。
二番経営第11回です。よろしくお願いします。
スピーカー 1
よろしくお願いします。
スピーカー 2
9回、10回とですね、世界のホンダを支えた藤沢武夫に見るNo.2論というテーマで話してきまして、
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
もう前回、僕も収録したからちょっと感動しちゃったぐらいですね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
そのお二人のバディとしての、どうやって世界的な企業を作ったかみたいな、その裏側みたいなのが話しいただいたので。
スピーカー 1
ぐっと来る感じありましたよね。
スピーカー 2
本当にぐっと来ましたね。
今回は第3回目としてですね、藤沢武夫さんに視点を当てて振り返っていければと。
スピーカー 1
はい。No.2としてトップのホンダ総一郎さんとの絡みのところを中心にですね、
1回目、2回目とお話ししてきたんですけども、経営者藤沢武夫さんにフィーチャーしてですね、話していければと思います。
スピーカー 3
はい。ぜひともお願いします。
スピーカー 1
まずですね、藤沢武夫さんがですね、その企業のトップについてどういうふうに思っていたのか。
社長観ですね。観は観光の観ですけども。
はい。
いくつか言葉を残されていてですね、藤沢武夫さんこんなことをおっしゃっています。
ホンダ技研の経営を担ったのは私でした。
それならば私に社長が務まるかといえば、それは無理です。
社長にはむしろ欠点が必要なのです。
欠点があるから魅力がある。
付き合っていて自分の方が勝ちだと思った時、相手に親近感を持つ。
リズメのものではダメなんですね。
スピーカー 2
はあ。
スピーカー 1
5回目にトップのタイプ別に見るみたいなナンバーツー論ってありましたけれども、
あの時の尖り方の
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
藤沢さんに対してオールラウンドで揃えるみたいなのがありました。
あと、欠点とかそういうのが相手に親近感を持つっていうのって、
それこそですね、6回目でやったワンピースのルフィってなんかそういう感じの
スピーカー 2
確かに確かに。
スピーカー 1
イメージありますよね。
で、その欠点についてこんなこと言ってます。
本田総一郎さんにはその欠点があります。
欠点があるから他人から好かれないかといえば、あれだけ人に好かれる人も珍しい。
社員からも好かれている欠点はたくさんあります。
私の方が欠点は少ないでしょう。
だがその分魅力がない。
だから社長協は落題ですって言ってますよね。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
藤沢武夫さんと本田総一郎さんに比べるのはちょっと申し訳ないというか、
そんなレベルなんですけども、
これなんか私すごく同じように感じているところがあって、
スピーカー 1
あとこういうこともおっしゃってます。
藤沢武夫さん、私は割に理論的です。
経営についての考え方は理論的だと思ってます。
理論的なら社長が務まるかといえばこれは別です。
社長ってものは理論なんかなくたって言いから勘でいいんです。
言いから勘ってことはなんかわかんないですけども、
なんかもう何でもいいんですみたいな感じだと思うんですよね。
ただ本物の自分を持っていること。
技術では本物だということ。
それで十分です。
あとのことは他の人がやればいいっていう。
この尖った社長は本物持ってて、
あと周りがやればいいっていうか自分が埋めるんで、
もう好きにどうぞっていう、
本田総一郎さんに対する思いみたいな感じだったんですけども、
藤沢武夫さんがおっしゃるのは、
やっぱりご自身がトップをやられていらっしゃったので、
本田経営工業の前にですね。
その時に経営がどの会社もうまくいってるように見えたんですけども、
何か感じるものがあったのかもしれませんね。
スピーカー 2
だから藤沢さんから見た社長官から、
一つのナンバー1、ナンバー2の綺麗な在り方というか、
一つの形が見えてきますよね。
その分藤沢さんがロジカルにサポートしてたってことですよね。
スピーカー 1
結局。
スピーカー 2
だしその欠点を補ってたみたいなことだもんね。
社員も含めて。
スピーカー 1
まさにですね。
そこの欠点を補うっていうことで、
一人じゃ立てないけど、
二人いれば、あるいは組織全体として形をなすっていう。
藤沢武夫さんもそうだと思うんですけれども、
他の社員の方たちもきっと、
ご自身たちの役割これだなと。
自分にこの役割があって、
このホンダっていう会社を世界に羽ばたかせていってるんだなっていう、
手触り感っていうのを、
当時の皆さんは持たれていたんじゃないかなっていうのを、
なんとなくちょっと思ったりしますね。
これは社長官ということで今お話したんですけども、
ずっとホンダ総一郎さんに引っ張られた感じなんですけども、
こっからは藤沢武夫さん経営者として、
すごいっていうところを、
もうちょっといくつか語っていきたいと思うんですけども、
一つ目はですね、
これは営業販売の天才としての藤沢武夫さんなんですけども、
まずですね、このホンダという会社はですね、
オートバイを売ってる会社ですと。
ただ最初の頃はですね、実はオートバイではなくて、
自転車にエンジンをくっつけたものを売ってたんですね。
これなんか自転車にエンジン。
原付自転車ってね、原チャリのこと言いますよね。
自転車にエンジンですよ。
スピーカー 2
すごい発想ですよね。
スピーカー 1
すごい発想ですよね。
でもそれが当時はやっぱりモビリティとして最適な乗り物であったと。
今考えても、
私東京都内に住んでますけども、
最強の乗り物って電動自転車だと思うんですよ。
スピーカー 2
いや、わかります。すごいわかります。
スピーカー 1
ですよね。今電動になりましたけど、
当時はエンジンで動かしていたと。
なのでそれを売っていました。
自転車にエンジンを付けたカブF型っていうのがヒット商品だったんですね。
その自転車になんせくっついているものなので、
自転車屋さんで扱っていたりもするんですけども、
ただバイク屋であるということで、
実はバイク店に卸してた製品だったんですね。
バイク店っていうのが当時1940年代、50年代、
日本に何店あったかというと300店だったそうなんです、全国に。
そのうちホンダ製品を取り扱ってくださったお店が20店舗ですね。
スピーカー 2
20店っていうのはちょっと少ない印象がありますよね。
スピーカー 1
なのでバイク屋さん20店でホンダ製品を売っていたんですけども、
それを藤沢武夫さんはもっと全国に売らなきゃいけないと。
このエンジン付きの自転車、どこで売るかと。
バイク屋300店しかないんだったら自転車屋で売ってもらおうということで、
自転車屋にダイレクトメールを送りました。
当時の自転車屋さん数5万5千件です。
300店しかないバイク店じゃなくて5万5千件の自転車屋さんですね。
そこにダイレクトメールを送りました。手紙ですよね当時。
スピーカー 2
ですよね。Eメールじゃないですもんね。この頃メールないもんね。
スピーカー 1
手紙の発送なんですけど、実は事前の中にもなかったんですけども、
藤沢武夫さんってもともと仕事の始まりが筆行屋さんだったんですよ。
筆行屋さんって分かります?宛名書きです。
それを最初は経営者じゃないんですけども、それでお仕事を始めていらっしゃったので、
スピーカー 2
招待状とかご依頼するときに使う筆行屋さん。
スピーカー 1
そういうアイデアの元もあったと思うんですけど、ひたすら手紙を書きまくりました。
5万5千円送って、なんと返信が3万件から返事が来ました。
スピーカー 2
すごい時代だな。なるほど。
スピーカー 1
なんかその製品いいんで、ちょっと興味があります。
スピーカー 2
興味があったら返事くださいって。興味ありますか?3万通届けました。
スピーカー 1
そこで3万通来たので、そしたら申し込まれた方から順番に製品を送りますと。
小売価格は2万5千円です。卸価格は1万9千円です。っていうのを書いて返信しました。
そしたらじゃんじゃんじゃあ申し込む申し込むっていうのが来ました。
で、この卸価格1万9千円っていうのはもう前金にしたんですね。
売れる前にまず払ってくださいと。そしたら製品バンバン売れます。
3万件から問い合わせが来て、1万5千件卸すことができるようになった。
スピーカー 2
すごい。
スピーカー 1
当時の日本のバイク屋さんが300店。うち20店舗しか扱ってくれなかった。
スピーカー 1
ただ販売の天才としての藤沢太郎さん。
スピーカー 2
これはすごいですね。
スピーカー 1
もう一つ藤沢太郎さんのすごいところなんですけども。
商品企画プランナーとしてのアイデアを持った天才と言えると思うんですけども。
どんな製品かというと、ホンダっていう会社が世界企業になった一番のきっかけと言ってもいい製品。
スーパー株ですね。
スーパー株、お蕎麦屋さんの配達おなじみの株は誰でも知ってると思うんですけども。
1956年、先ほどの経営機器の話がありましたけども、それから2年後なんですけども。
ホンダさんと藤沢さんで2人でヨーロッパの視察をされていました。
その時に藤沢さんがホンダさんに50ccで乗れるバイクっていうのを作ってくれと言いました。
その頃作ってたのは200ccとかそういうバイクをたくさん作ってたんですけど、これ50ccで頼むと。
そしたらヨーロッパ回ってるんで50ccのバイクあるかなって見るんですけど、
ホンダ総理長が全然ないと、どこでも売ってない。ないよ、50ccのバイクに乗って。
そしたら藤沢拓夫さんがね、ないから作ってくれと。
50ccのバイク、ヨーロッパ、当時のオートバイの先進国を回って、どこにも売ってないんですよ。
どこにも売ってない、成功事例がないところででも50ccっていうのを作れっていうのは固くなにこだわったんですね。
で、じゃあ藤沢さんが言うならっていうので一生懸命試作をしました。
それでスーパーカブの試作っていうのができましたと。
それを当時の藤沢拓夫さんに、ホンダ総理長さん、技術部門の皆さんが見せましたと。
これ何台売れますか?って言ったら藤沢拓夫さんが、月に3万台は売るって宣言したんですね。
月に3万台どういう数字かというと、当時ホンダさんは月に6千台から7千台っていうのが販売台数だったんです。
日本全体で月に売れるオートバイの数っていうのが4万台だったんですよ。
そういう中で月に3万台売るって言い切ったんですよね。
ここからですね、マーケティングの天才でもあって、当然ダイレクトメール送りまくりますよね。
あと宣伝、新聞のチラシだったりとか一面のけたりとかっていうので、
当時こういう言葉があったかなんですけど、今で言うティザー広告っていうのをちょっとずつ出していく感じですね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
なんかこう後ろの部分だけチラッと見せてとか、なんかハンドルアップだけとか。
なんかそういうのをずっと仕掛けて仕掛けて、
あとですね販売価格っていうのを5万5千円っていう結構戦略的な価格だったみたいなんですけども、
なんかそういう根付けをして出したらですね、それが大ヒットという感じですね。
スピーカー 1
ちなみにその宣伝っていうのはすごくフサワさんとこだわってたみたいでですね、
1963年に本田さんは先ほどの大衆車向けの一般車であって、前回ご紹介したH1300ではなくてですね、
その前にスポーツカーっていうのを最初に作ってるんですね。
そのスポーツカーっていうのは本田のS500という車なんですけども、
今でもマニアの方はS500ってすごくイメージ持たれると思うんですけども、
スピーカー 2
それもですね売ろうと思って当然出すので、自動車のですね価格当てクイズっていうのをキャンペーンでやったみたいです。
スピーカー 1
で当時ですね、皆さんそのスポーツカーってみんなが買う製品でもないですし、
当時の物価のイメージ私もうわかんないですけども、
なんかこう回答でこの車5、60万っていう回答が多かったそうです。
まあなんとなく5、600万みたいな感じかもしれないですねスポーツカー。
5、600万って日本国民がみんなこれは5、600万出す車だって言って買えるかわかんないけどっていうところに、
正解は45万9千円っていう価格にしましたと。
皆さんのイメージのちょっとしたの金額を出すと。
この天才性ってやばいですよね。
スピーカー 2
いやすごいですね。
スピーカー 1
5、600万するんでしょって言ったら450万なんかちょっと安いかもしれない。
スピーカー 2
安いかもしれないと思いますもんね。
だからそれをクイズ形式にしてやったってことだ。
スピーカー 1
広告戦略、スーパーカブはこういう製品が絶対に売れるからっていうのを技術人に言った製品企画、商品企画としてのセンス。
またそれを市場に出していくときの宣伝広告のセンス。
でもすごく卓越したものをお持ちだった話ですね。
すごいですね。
スピーカー 2
なんかある意味ちょっとエコというかそういう先端でもありますよね。
どっちかと言えばモリモリにしていくんじゃなくて引き算っていうか、
あえて50ccでカジュアルに使いやすいバイクを作ろうってことですよね。
スピーカー 1
多分どれだけたくさんの製品を世の中に出していくのかっていうことなんでしょうね。
当時の一般大衆の方がどれぐらいの価格で買えるもの、どういうものが使いやすいのかっていうのを
きっと藤沢さんなりの考えがあって出した答えなんでしょうね。
すごいプランナーとしても天才だなと。
そういうヒット製品、特にスーパーカブっていうのが日本で爆発的なヒットになりました。
そこからホンダっていうのが世界企業になっていくんですけれども、
アメリカ進出の話。
アメリカ進出の前にスーパーカブが売れました。50ccのバイクです。
この50ccのバイクを世界中で売っていくって考えたときに
50ccのバイク売れるエリアってどの辺ってイメージあります藤沢さん。
スピーカー 2
やっぱり気軽さ小回りみたいな話だと思うんですよね。
それこそ蕎麦屋の出前みたいな。
自転車っぽく乗れるみたいなことを想像しちゃうと狭い土地というかそんなイメージがありますけどね。
スピーカー 1
ありますよね。狭くて本当にごちゃごちゃしてるということで、
当時ですね、ホンダ技研の皆さんっていうのは
じゃあ世界進出に行くときにはこのスーパーカブを売るんだとしたら東南アジアがいいだろうと
思ったんですよね。今でも東南アジアってバイク走ってるイメージすごくあるので
そこを最初の海外進出拠点として考えるっていうのは当たり前のことだと思いますし
普通に鉄板だと思うんですよね。場所としてもロケーションも近いしと。
なんですけどもみんなが前者そういう東南アジア進出っていうところを考えたときに藤沢武夫さんが
いや違うと。資本主義の中心はアメリカだと。
アメリカで成功してなんぼだって言ってもうアメリカってもう決め打ちですね。
当時のアメリカのオートバイのイメージってもうイージーライダーの世界ですよ。
不良が革ジャン着て乗るって今でもそのイメージありますけれども。
スピーカー 2
ハーレーダビットソンみたいな。
スピーカー 1
ハーレーダビットソンですね。あんだけでかい土地を50ccでなんかちょこちょこ走るってイメージが
今でも全然ないじゃないですか。
なんですけどもいやアメリカで成功しないと資本主義社会の天下取れんって言ってこだったんですよ。
だからどう考えても売れる要素がないんですけども。
ここもですね。いわゆる巧みな広告宣伝を駆使してですね。
スピーカー 2
アメリカでもスーパーカップ大ヒット。大成功。
スピーカー 1
これアメリカでも売れたっていうことで一気にですね。
1959年にですねアメリカ本田を設立されてですね。
そこから大成功して世界企業になっていく。そういう礎を作ったというところですね。
すごい。
なんかまあ藤沢武夫さんもともと俺は営業が得意、売るのが得意だ。
経営が得意だっていうことをおっしゃってて。
まさに流通網を整備して売れる製品を考えて。
で、広告宣伝考えて。で、新しい世界のマーケットっていうのを切り開く。
そういうことをですねやって。これ世界的な本田っていう会社を作っていったと。
これもう全部藤沢武夫さんが指揮してですね。やられたと。
なるほど。
で、1954年からというふうに書かれていたんですけども。
ここからですね藤沢武夫さんは本田っていう会社は当然東京都内にあります。本社は。
なんですけどそこの役員室とかにいるんじゃなくてですね。
銀座にですね自分でオフィスを借りてですね。
自分の書斎じゃないんですけどそういうところを作ったそうなんですよ。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
で、そこにひたすら行ってですね試作に吹ける。
まあそういうので先ほどの話とかも全部出てくるらしいんですけれども。
そこでもひたすら経営のことを考え続けたそうです。
もちろんものすごい読書をしてですね。
当時のその日本外交誌っていう本ですとか。
鎖国なんとかっていう。なんとかっていうのもあれなんですけども。
なんかそういう本をものすごく読まれたそうですね。
スピーカー 1
これ1960年のことだそうです。
この研究所別法人のこの組織っていうのは文賃型といって文賃の持ち手のところはここには本田総一郎さんがいらっしゃいます。
スピーカー 2
その下はもう全員フラットっていう組織。
すごい当時の時代考えるとめっちゃ新しい組織モデルですよね。
スピーカー 1
すごいですよね。
ここに本田技研工業の儲けを半分ぐらいぶっ込んで会社を作りました。
ここで本田総一郎のその天才的な技術的な能を集団で賄っていくということをしようとしたんですね。
文賃の持ち手以外でこの文賃の持ち手の総一郎さんと釣り合う。
今度はそれが技術部門ですね。
この会社本田技術研究所を設立した後なんですけども
今度はですねその会社の経営どうするか。
ご自身の後継者もそうですし技術も含めた後継者っていうのを考えなきゃいけないということで
これもですねご自身のことをすごく思われてたっていうよりも
やっぱり本田さんイメージなんですけども本田総一郎っていうトップがいて
このトップがいなくなっちゃった時に会社の経営体制ってどうしたらいいかと。
新たな天才技術部門じゃなくて会社経営の部分も現れるかっていうと
やっぱりなかなか難しいっていうのは普通だと思うので
ここからですねこんな言葉が出てくるんです。
集団志向型の役員室っていうのを考えましたと。
当時も重役の方々っていうのはいました。
技術担当役員、販売担当役員、総務担当役員ですね。
そういう重役の方っていうのは自分たちが持っている組織の長ですので
それぞれの組織にずっと皆さんバラバラでいましたと。
それをですね東京の本社に役員室を作って
スピーカー 2
全員現業から剥がしてですねそこに8人ぶち込んだんですね。
スピーカー 1
現業の販売担当とか技術担当、開発担当とかっていう職を全部解いてですね
あなたたちは重役です、役員です。
だからこの部屋にいてくださいって言ってみんな集めたんですよ。
原業から解くんでなんか変な決済のハンコースとか部下の倫理をどうこうっていうんじゃなくて
スピーカー 2
この8人の方たちっていうのはひたすら経営のことを考える。
スピーカー 1
当然技術系の方もいれば文系の方もいるっていうバックグラウンド違うんですけども
皆さん重役を担うような方たちなので当然ですねその経験も知見も豊富なんですよね。
そういう方たちが8人も集まってですね
AIのAのやっていくと皆さんのその経営力っていうのがどんどんどんどん上がっていく。
スピーカー 2
そういう姿も見ながらふさわさんは俺はなんかこのタイミングで引退してもいいんだなっていうのを
スピーカー 1
確信し始めたという感じですね。
スピーカー 2
本当にまさに本田総一郎と自分を作ろうとしている動きをしてたってことですよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
すごいなあ。
スピーカー 1
自分の息子さんがいらっしゃったそうなんですけれども
入れるわけでも本田総一郎さんもそうなんですけども
そこに手を額で埋め込んでいくんじゃなくて組織としてどういうふうに永続させるのか
どうやって大きくしていくのかっていうことを考えた結果ですね。
そういうことをされていらっしゃいましたと。
スピーカー 2
いやーすごいわ。
スピーカー 1
かなかできないことを。
よく会社も特にスタートアップベンチャーとかでいうと
役員が役員の仕事をやってなくて担当の仕事をしてるんですみたいな言葉ってよくあります。
私もよく現場仕事をずっとやって怒られることがありますけど
でも実際にそういう立場の方たちが現業で忙しいっていうのは本当にあるんですけども
そこから剥がすと多分現業ってちょっと滞ったりすると思うんですよね。
でもそこをあえてやる。
それで次の経営陣を育成していったっていう
なんか教育者指導者としても脱裂したセンスを持った藤沢武夫さん流のやり方ですね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
こういうですね、集団志向型の役員室、重役をどんどん育てるということをして
退任してもいいだろうということで前回お話したようにですね
本田技研公共の25周年の年に副社長だったんですけども
副社長を藤沢武夫さんは退任されます。
その後ですね、10年間は取締役としてずっと席はあったんですけども
前回申し上げたようにですね、経営に介入することは一切せずですね
ただ壊れれば経営しない役としてのアドバイスっていうのはあったんですけど
表舞台には一切出なかった。