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皆さん、おはようございます。今日もお礼にお越しいらっしゃいました。では、メッセージの前に隣の方と解説しましょうか。
おはようございます。ありがとうございます。一言お祈りいたします。
私はあなた方に平安を残します。私はあなた方に私の平安を与えます。
私があなた方に与えるのは、与が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。アーメン。
主よ、この時代を見ても、我ら自分自身を見ても、イエス様の平安が私には絶対的に必要です。
どうか、イエス様が与えて下さるその平安の中に生きるものとならして下さい。
そして、平安のうちに喜び、一生の間、死を褒めたたえ、また、死のために生きる我らとなりますが、
死のために生きる人生こそ、自分の人生においても最高の人生である、その真理の秘訣を悟ることができますように。
そのための今日のこの御言葉の時となりますように、神様御自身が私たち一人一人に語って下さって、
その主の御言葉が生き物として、私たちの霊の板に刻まれて、その御言葉に生きるものとならして下さい。
主を求めます。私たちは上渇いています。聖霊様、どうぞお語り下さい。
悟りを与え、気づきを与え、また御言葉通りに生きるものと祝福して下さい。
いざねます。どうか主をお語り下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
四年の国書の公開説教が続いています。
今日は四十三回目。
イエス様が与えられる平安に生きる。イエス様から与えられる平安に生きるという題です。
私たちが生きているこの時代を見るならば、現在もそれずし、あるいは未来に対するいろんな形の不安を抱えたままで生きている時代ではないでしょうか。
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そこを日本だけ見ても、いつどこで地震とか津波とか洪水とかあるいは災風による災害が、いつどこでどんなふうに起こるか知れない。
だからその未来に対する不安をあるいは心配を、私たちはそれぞれ抱えたまま生きていると言っても囲んではないと思います。
ですから他のいろんな理由もありまして、人々は何か慰めになりそうなものあるいは人を探しているんじゃないかなと思います。
あるいは人々は自分の苦しみと言いましょうか、未来に対する不安と言いましょうか、あるいは心配と言いましょうか、それをしばらくでも忘れたくて面白そうな映画を見たり、
あるいはどこか海外でも旅行に行ったり、あるいは本を読んだり、あるいは友達、友人に会って熱くおしゃべりしたり、もちろんそれらが一時的に慰めになったり喜びになったり楽しみになることは確かにあると思います。
それは否むわけではない、あるいはそれが悪と言っているわけではありません。
ところが皆さんここで少し立ち止まってですね、私たちは一体どこで、どこからあるいは誰から本当の平和をいただけるんだろうかということを考えていきたい。
あるいは私たちが求めて探して得ようとしている平安というものは、実は自分が何の平安、どんな平安を求めていたんだろうかに気づきたい。
そのためには聖書が教えていることの平安、それをまず知っていただいて、そしてそれを味わっていただいて、そしてまたそれを豊かに体験、体感していただきたいと、そういうふうに願っております。
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すべての真理は神様が私たちにくださった神の御言葉にあり、だから良い信仰の習慣、経験のね、信仰的に経験が良い習慣とは何かの答えを求めているとします。
それが平安であろうが、なごさめであろうが、何かの答えであろうが、解決の口であろうが、それを探して求めているとしましょう。
そのときに私たちはこの神の御言葉に行かなければならない。
第一は、それを常にそういうふうにする信仰的に良い習慣をぜひ身につけていただきたい。
さあ、まず今日の御言葉の27節、27節を一緒に読みたいと思います。
いいですね、はい。
私はあなた方に平安を残します。
私はあなた方に私の平安を与えます。
私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
皆さんこれは、いつどこでイエス様が語るような言葉でしょうか。
まだこの杉越の食事のその時の話がまだ続いているんです。
これはイエス様が十字架につけられて殺される前の日の夜に、弟子たちとともに、
いわゆる杉越の食事をされた時、弟子たちに対して語られた教えです。
そして続いて28節、私が読みますと、
私は去って行き、またあなた方のところに来る、と私が言ったのをあなた方は聞きました。
あなた方は、もし私を愛しているなら、私が父のもとに行くことを喜ぶはずです。
父は私よりも偉大な方だからです。
と言われていますように、イエス様はすでに、
ご自身が間もなくこの世を去ることになることを告げておられました。
そして残される弟子たち、弟子たちはこの地上に残されるわけなんですね。
その弟子たちに、今日のこの御言葉、私はあなた方に平安を残します。
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私はあなた方に私の平安を与えますと言われたわけなんです。
イエス・キリストは、私たちご自身の民の罪をあがなってくださるために、
償ってくださるために十字架にかかって、
そして私たちの罪に対する刑罰を私たちに代わって受けてください。
それによって私たちの罪は完全に償われた、あがなわれた、許されたわけなんです。
もう一度申しますと、私たちの罪に対する刑罰があるはずなんです。
しかしそれをイエス様が十字架において執行されて終わっています。
もう完了したのです。
それで私たちはこの後決して罪の刑罰としての裁きを受けることはありません。
神を信じ、イエスを救い主として信じる者にはありません。
このようにイエスキリストの十字架において私たちの罪に対する最終的な裁きが執行されているからです。
イエスキリストは私たちの罪がもたらす地獄の刑罰を私たちに代わって受けてくださいました。
ですからイエスキリストにとってこのよう去ることは、私たちすべてに代わって無限の苦しみを伴う地獄の刑罰をお受けになることを意味しています。
ここにはある種の対比があります。
イエスキリストは弟子たちを残して去っていかれます。
ここには去っていくものと残されるものがあります。
去っていかれるイエスキリストは十字架の上で弟子たちに代わって無限の苦しみをお受けになります。
その一方で残される弟子たちにはイエスキリストが言われる私の平安が、もう一度申しますがこのお話は杉越の食事の席で語られたのです。
しかもそれは十字架の刑罰の前の日の夜の話です。
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ここでどうしても杉越の祭りについてお話したいと思います。
その昔、孟瀬の時代ですね。
孟瀬の時代に主なる神様が力強い御手を持ってイスラエルの民をエギプトの奴隷の身分から解放してくださったことを記念して清くするための祭りが杉越の祭りです。
主なる神様はイスラエルの民をあの奴隷の身分、その奴隷として苦役につかせていたエジプトに順次銃の裁きをくださりました。
ところが裁きが積み上げられていってもいってもあのエジプトのパロはどうしたのでしょうか。
イスラエルの民を晒せることはありませんでした。
嘘ばかりついていたんですね。
そして最後に十番目の裁きがくださる。何ですか皆さん。
主はエジプトの地にいるすべての老い子を討たれました。
それに先立って主はイスラエルの民にそのための備えを教えてくださりました。
聖書を開きたいと思います。
出エジプト記十二章。
杉越聖書の創世記。
その次の出エジプト記十二章。
まず三節です。
私の提供では114ページです。
まず三節をご覧ください。
十二章三節。
イスラエルの前回収に告げていえ、この月の十日におのおのその父祖の家ごとに羊一頭を、すなわち家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
その後六節七節をご覧ください。
あなた方はこの月の十四日までそれをよく見守る。
そしてイスラエルの民の全集会は集まって夕暮れにそれをほふり。
七節一緒に読みたいと思います。
その地を取り羊を食べる家々の日本の門中とカモイにそれをつける。
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そしてさらに十二節から十四節を私が読みしますのでご覧ください。
十二節。
そもよ私はエジプトの地をめぐり、人をはじめ家畜に至るまでエジプトの地のすべてのういごを討ち、またエジプトのすべての神々に裁きを下そう。
私は主である。あなた方のいる家々の地はあなた方のためにしるしとなる。
私はその地を見てあなた方のところを通りこそ。
私がエジプトの地を討つときあなた方には滅びの災いは起こらない。
この日はあなた方にとって記念すべき日となる。
あなた方はこれを末の祭りとして祝い、世を守るべき永遠の起き手としてこれを祝わなければならない。
と記されています。
さあ、エジプトの地にあるすべてのういごが討たれたとき、皆さん考えて想像してみて下さい。
すぎこしのこひすぎをほぐって、その地をもんじゅうとかもいにぬってある家のうちにあるその長男ですね。
わかりやすく言うならういごですからね。
最後の息子を討たれることがなかった。
それはどういう意味でしょうか。
その家ではすでに裁きが執行されているとみなされたからです。
つまり、すぎこしのこひすぎがその家のういごの身代わりとなった、その命の血を流したということなんです。
このすぎこしのこひすぎはイエスキリストを託しめしているんです。
ですからこのイエスキリストはこのすぎこしのこひすぎの養生として来られ、
十時間にかかって私たちの罪に対する裁きを私たちに代わって受けて下さい。
ですから私たちはこのイエス様が私に代わって受けて下さったことを長い間信仰を持っていて、
私は何度も聞いて何度も聞いても当たり前のように考えてしまいがちなものである。
イエス様が当然そうして下さらなければならない責任があるかのように思ってしまう。
ところがどうでしょうか。
普通に我々人間関係において、誰かのために代わりに弁償すること。
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例えば皆さん私が、うちは借金はありませんけど、借金がうちに100万円あるとしましょう。
皆さんの中で我々の代わりに100万円弁償してくださる方がいますか。いませんね。
同様に人間同士の何かを弁償する、償うことは、家族の中ではなかなか難しいことではないでしょう。
ところがイエス様は、お金や物資はそんなものではないんです。
自衛を超えて死ぬことなんです。
それをしてくださった、そのことを私たちは忘れてはいけない。
当たり前のように考えてはいけない。
観察して観察しても、する必要はないわけではありません。
そしてその代わりに、死んでくださって刑罰を受けてくださって、
二国の刑罰を受けてくださって、そしてその小羊としてイエス様が、
このすびこしの祝辞の席において、私はあなた方に平安を残します。
私はあなた方に私の平安を与えますとおっしゃったわけなんです。
つまり、すびこしの小羊の本体として、あの羊は品方である、余裕に過ぎない本体はイエス様なんですね。
イエス様がすびこしの小羊の本体として、本物として、私たちの罪に対する裁きを、
私たちに代わって受けてくださったことと深く関わっているのが、この平安なんですよ。
ただの神秘的な何かの異動の問題、それを遥かに超えるものなんです、皆さん。
イエス様は、私はあなた方に平安を残しますと言われました。
ちょっと言葉的なまなざしを少ししましょう。
この平安という言葉は、この新約聖書に書かれているギリシャ語ではエイレーネと言いますね、エイレーネ。
ヘボル語では、皆さんご存知のシャロームです。
この言葉は、私たちの内側にある平安はもちろん、私たちの外側の状態である平和を意味しています。
だから日本語の聖書は、あるところでは平和、あるところでは平和と訳されています。
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語源は一緒なんですね。
言葉としては、エイレーネもシャロームも平安と平和、両方の意味を持っていますが、
この二つの言葉を使う人々、つまりギリシャ語的あるいはヘボル語的に背景によるちょっと違ったニュアンスがあります。
調べてみたら、まずこの新約聖書のエイレーネという言葉、日本語の平安というのは、
当時のギリシャ人との文化の背景から言いますと、
そのエイレーネは波風の立っていない状態にあることによる平和、平安です。
つまり争いがない、揉め事がない、心配がない、問題がないから平安であるという意味が深いです。
私たちも大体これと同じような概念を持っているんじゃないでしょう。
これに対してヘボル語的なシャロームはちょっと違います。
シャロームという平安は、波風が立っていても立っていなくても関係なく平和であり平安であることなんです。
それはなぜでしょうか。神様が、主なる神様が私たちと共にいてくださることによってもたらされる平和、平安なんです。
だからたとえ嵐のような人生を歩んで苦しんでいたとしても、主が共にいてくださるなら、それを信じるものなら、そこには何があるのでしょうか。
シャロームとしての平安と平和がそこにあるわけなんです。
たとえ憂いのない人生を歩んでいたとしても、主が共におられないのであれば、そこにはシャロームとしての平和も平安もありません。
聖祖が示している平和や平安は、この意味におけるシャロームなんです。
そして、今日のこの27冊、ヨハネの文章の14の27冊、9の平安は、さっきのギリシャ語的なあの平安じゃなくて、このシャロームとしての平安なんです。
だからイエス様が、心を騒がしてはなりません、恐れてはなりませんと言われたわけなんです。
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どうでしょうか。私はだいたい心配がなくなること、貧しさがなくなること、人生の波風がなくなることが欲しいです。人間的に考えるから。
でもそれらがいくら除かれて取り除かれて、なくなってなくなって、そしてしかも金持ちになって、しかも体は元気であったとしても、
主が共におられないなら、そこには誠の平安も誠の平和もないんじゃないでしょうか。
だからイエスキリストは、私はあなた方に私の平安を与えます。
私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。
この世が与える平安はどんなものでしょうか。
しばらくは平安になっているかもしれませんが、それは朝の霧のように強い風に吹かれたら一瞬にして消え去るものではないでしょうか。
ここではイエスキリストが与えてくださる平安について二つのことが実は言われています。
一つは、イエスキリストは単なる平安を、どこかにある平安を拾って、それをこれをあげるね、と与えてくださるわけではない。
その平安は誰の平安でしょうか、皆さん。
27つよくご覧くださいよ。
この平安は誰の平安ですか。
イエスキリストの平安なんです。
ご自身の平安を与えてくださる。
つまり平安の源泉は、出所はどこなんですか。
イエスキリストなんです。
イエスキリストからイエスキリストによってのみ平安が与えられるということが、私の平安です。
言葉的には私のが強調という、強調型なんです、これは。
私の平安です。
もう一つは、その平安はこの世が与えるものとは違うものであるということであります。
皆さん覚えてください。
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この世の平安は一時的なものに過ぎません。
それがいくら立派なものである。
しかし、イエスキリストの平安は永遠に残るものである。
私たちを誠に平安の中に歩ませてくださる力は、イエスキリストによってのみ与えられる平安です。
信仰生活は何でしょうか。
元気になるためでしょうか。
幸せになるためでしょうか。
気持ちよく過ごすためなんでしょうか。
金持ちになるためなんでしょうか。
成功するためなんでしょうか。
それでも神様は十分お当たりになれる方なんですよ。
しかし、もともと根本的なこと、神との関係、イエス様とのこの清い関係において、イエス様がくださる平安に生きることではないでしょうか。
そして、私がもらえる平安は、もうイエス様にしかありません。
だから、新たに求めます。
と、求めいただいて、その平安に生きるものではないでしょうか。
私たちはそれを知っている、味わっているのだ。
だから、知らない人々、本物じゃなくて偽物を求め、あるいはそれをもらって喜んでいる人々に、本当の平安はイエス・キリストにありますよ。
私が味わっている、この経験している平安を、あなたも味わって欲しいのよ、と伝えるクリスタンでありたい。
金持ちじゃなくていいです。
病気のものであってもいいです。
元気じゃなくていいです。
死の平安を味わっているならば、それをもとに伝える、与える、そういうものでありたい。
ですから、もう一度申しますが、イエス・キリストが与えてくださる平安の特質は、
それが、イエス・キリストが私の平安と呼ばれる、イエス・キリストの平安であることにあります。
この私の平安とは、ミシアであるイエス・キリストによってのみ生み出され与えられる平安のことです。
そして、この絶対的な平安、唯一の平安、誰にも引き離されない平安が、イエス・キリスト様を救い主だと信じる私たちに、既に与えられているということです。
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既に持っている平安を味わいましょう。観察しましょう。確信しようではないでしょう。
先ほどお話ししたことに合わせて言いますと、杉越の小泉の本体として来られた、十字架にかかって私たちの罪のあさなびを成し遂げてくださったイエス・キリストによってのみもたらされる平安、平和が本物なんです。
さて、この世には、不審や憎しみ、分裂、争い等々あります。
一般には、このようなものが、争いが、あるいは何かの災害が、世の中の本当に様々なことがあるから、それによって我々の心の中に不安がもたらされるというふうに考えられています。
そして、それらを取り除くことをする。それで必須なんです、世の中は。確かにそのような面があるかもしれませんが、しかし、これらの不審とか憎しみとか分裂とか争いとか、あるいは様々な災害とか、
そういったものは、実は私たち人間自身の内側にある罪が生み出しているものなんです。
罪の本質的な特質である自己中心性が、不審や憎しみや、あるいは分裂、あるいは争い等を生み出してしまっているんです。
だから皆さん、不安の根本原因は、私たちの自身の内側にあるんです。また、この不安の反対である平安、平和もこの世ではしばしば、よく考えると、他の人々の犠牲の上に成り立っているんです。
例えば、私たちがおいしいものを食べて、たくさん食べて満喫している一方では、そして私たちはもう幸せだ、本当にいいね、おいしいね、食べているおかげで、一方では多くの人々が、上に来る日に毎日多くの命が失われているんじゃないでしょう。
富を豊かに蓄えているからということで安心して、いいなあと安心しているおかげで、極貧の生活にあえいでいる人々の運営が天に届いているんじゃないでしょう。
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皆さん、このイエス様の時代に、ローマのことを日本語で言うならば、ローマの平和と言われる時代だったんですね。
パックス・ローマナーと言いますが、あのローマが本当に繁盛していて平和の時代だと、殺せるような劇場でパフォーマンスを見て、楽しんで楽しんで飲んで楽しんでいるうちに、
その支配のもとで多くの民族が殺され、犠牲されたわけなんです。
それがこの世が言う幸せ、平安、平和というものなんですね。
これに対してイエス・キリストが与えてくださる平和はあくまでも、イエス様はご自分の十字架の死によって私たちに与えてくださる平安なんです。
それはイエス様が他の人々の犠牲を犠牲させて、そしてその犠牲の家になり立つものではありません。
栄光の死であるイエス・キリストご自身が貧しくなられて、癒やしくなられて、無事をされて、命を捨ててくださったことによってもたらされた平安、平和なんです。
だから本物なんです。
皆さんどこで平安、平和を味わうとしていらっしゃるでしょうか。
誰からどこから平安、平和を求めようとしてられるんでしょう。
私は人生にあまり一度も買ったことはありませんが、日本でもアメリカでも何処でも宝くじを買う人がたくさんありますね。
国家の中でも買う人があったりするみたいですけれども、それが1億ウォンであろうが7億円であろうが、そのお金さえあれば金持ちになったら平安が平和がなるだろうと。
36:00
平素なくて、その平素の不快関係なくしての平安も喜びも幸せも平和もありません。
聖書を書きたいと思います。
ローマ人への手紙4章25節です。
私の聖書では295ページです。
ローマ書4章25節、それから5章1節ですか。
一緒に読みたいと思います。
4章の25節、それから5章の1節。
ご一緒に。
はい。
主イエスは私たちの罪のために死に渡され、私たちが異と認められるためによみがえられたからです。
ですから信仰によって異と認められた私たちは、私たちの主イエスキリストによって神との平和を持っています。
皆さん覚えていてください。
イエスキリストによってのみ神との平和を持っています。
その平和がシャローム平安なんです。
また同じローマ書の5章の8節から11節ご覧ください。
ちょっと長いですけれども私が読みたします。
5章の8節。
しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから今すでにキリストの死によって異と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのはなおさらのことです。
もし責であった私たちが御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが彼の命によって救いに預かるのはなおさらのことです。
それはばかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエスキリストによって私たちは神を大いに喜んでいるのです。と記されています。
聖書が言う平安平和は、もう突き詰めていくと、神との平和なんです。
これが大事なんですよ、皆さん。
だから私たちの不安の根本原因は、私たち自分自身の罪なんです。
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その罪に対する神様の聖なる御怒りによる刑罰としての死であるからです。
そのような私たちのために神様は贖い主として御子を使わせてくださり、御子の十字架の日によって私たちを死と滅びの道から贖いだしてくださいました。
そのようにしてイエスキリストが私たちの不安の根本原因である罪を取り除いてくださったわけなんです。
そのイエス様によってのみ、私たちに与えるのとは違いますと言われたんです。
だから皆さん、この世の平和はね、気持ちの持ち方次第というような面があるんじゃないでしょうか。
しかしイエスキリストが十字架にかかって死んでくださったことは、今から二千年前に起こった歴史の事実です。
ですから私たちのための罪の贖いも、歴史的な事実として成し遂げられたということであり、そこに基づいている平和は人間の気持ち次第というようなものではないんです。
そしてさらにもう少し掘り下げて考えていきたいことがありますけれども、
私たちがイエスキリストの十字架の死による罪の贖いのうちにあるということは、
私たちがこの世において経験する様々な苦しみや痛みは、さらには肉体的な死さえも、もはや罪に対する裁きとしての意味を持ってはいないということにしています。
私たちは自分が経験する痛みや苦しみ、あるいは死というものは、裁きとしての死の影を感じ取って不安に駆られる必要はありません。
なぜでしょうか。イエス様が十字架の上で、もう完全に罪を贖ってくださった。だからイエス様が寛容したとおっしゃったじゃないでしょうか。
寛容したんです。死と滅びの実態やそこから来る恐怖から、寛容されているんです。私たちはイエスキリストが代表される平安、平和は、
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罪の裁きとしての死と滅びという不安のあの種が取り除かれたところになり立つということであります。
そして、より積極的に言いますと、神様の愛に包まれて、神様ご自身を喜ぶところにある平安、平和があるんです。
メッセージを終わりたいと思います。
私たちのためのすいこしの小しすぎとなられたイエスキリストは、私たちにこのように確かな本物の平安、平和を。
どうか生きている限り、イエスキリストから与えられる平安、シャロームをあふれるほど喜び味わおうではありませんか。
イエスキリストから与えられる平安にあって、共に歩んでいきたいと思います。お祈りしましょう。