00:01
御着席ください。聖書朗読をいたします。本日の聖書の箇所は、マルコの福音書11章の27節から33節までです。新約聖書の90ページです。
マルコの福音書11章の27節。カイロはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、最首長、立法学者、長老たちがイエスのところにやって来た。そしてイエスに言った。
何の経緯によってこれらのことをしておられるのですか。誰があなたにこれらのことをする経緯を授けたのですか。
そこでイエスはカイラに言われた。一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、私も何の経緯によってこれらのことをしているかを話しましょう。
ヨハネのバプテスムは天から来たのですか。人から出たのですか。答えなさい。するとカイラはこう言いながら互いに論じ合った。もし天からといえば、それならばなぜ彼を信じなかったかと言うだろう。だからと言って、人からと言ってよいだろうか。
カイラは群衆を恐れていたのである。というのは、人々が皆、イホネは確かに妖言者だと思っていたからである。そこでカイラはイエスに答えて、わかりませんと言った。そこでイエスはカイラに、私も何の経緯によってこれらのことをするのか、あなた方に話すまいと言われた。
聖火隊の方に神聖火の155番を賛美していただいた後に、神からの権威と出して、内田牧師からメッセージをしていただきます。
聖火隊の方に神聖火の155番を賛美していただきます。
03:31
聖火隊の方に神聖火の155番を賛美していただきます。
聖火隊の方に神聖火の155番を賛美していただきます。
聖火隊の方に神聖火の155番を賛美していただきます。
皆さんおはようございます。
共に礼拝を捧げ得るこの特権を心から感謝しています。
今日も御言葉をいただき、その後、清算式に入りますが、まず御言葉を持ってお祈りをさせていただきます。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの備え物としての御子を使わされました。
06:06
ここに愛があるのです。
恵み深い天の父なる神様、こうして新しい月を迎えることができたことを感謝いたします。
ここまで支えてくださった主は、今日も変わりなく私たちの主であり、ここに御臨在してくださって、礼拝の主として最後までお導きくださるようお願いをいたします。
私たちもすべての者から解放されて、ただあなたのみを敗する者として整えてくださるようお願いいたします。
神が私たちを愛してくださった。
私たちには愛のない弱く乏しい者でありますけれども、キリストが十字架にかかってくださり、その神の愛をあらわし、また精霊が私たちにその愛を分け与えてくださることを知ることができたことをありがとうございます。
ここに愛がある。
イエス様、御自身の内にあるその愛をどうぞ私たちにも与えてくださり、また聖三を通してあなたをいただくことができるように、それぞれを導いてくださいますように、今日もまたこの礼拝に集えたことを感謝いたします。
今日もたれている日本中の礼拝が主にあって祝福されたものとなりますように、世界中の礼拝が御言葉をもって整えられ、また一定隣人となることができるその愛に生きるものとさせてくださるようお願いいたします。
今日ここに来れなかった兄弟姉妹方を覚えます。
どうぞそれぞれにふさわしくあなたが臨んでくださり、また必要なものを与えてくださるように、癒しを与え、慰めを与え、また必要な家庭を与え、また経済的な不足をも補ってくださり、何よりも天のふるさとを帰り見るその信仰を与えてくださり、
そして生かされている今日この一日を精一杯生きることができるように、それぞれをあなたがお支えくださるようお願いいたします。
私たちも今この場にあって心からの礼拝をあなたにお捧げしています。
天においてこれを清め受け入れてくださるようお願いいたします。
また私たちの霊の糧である御言葉をいただけることをありがとうございます。
どうぞ今からこの御言葉が私たちを整え、また信仰にあって成長させていただけるように信じてその御言葉に従います。
語るものを御手に隠して、どうぞ主御自身とまたその御言葉が崇められますよう、委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。
09:09
アーメン。もう早いもので11月です。
至るところでクリスマスの案内とか、あるいはおせち料理の予約を受け付けますという頃になってまいりまして、
しかし私たちは今日与えられているこの時、そしてこの礼拝の時を精一杯過ごしてまいりたいと思います。
プログラムが進められていっておりますが、この御言葉の時、今日はマルコの福音書の中からお言葉をいただいております。
そして神からの権威というタイトルを付けさせていただきました。
権威という日ごろあまり使わないんですけれども大切なことでありますので、このことを確認させていただきたいとそう願っております。
権威というのは国語辞典によりますと他者を征服させ、服従させる力、支配力とかそういうふうに書いてありました。
聖書では権威というのは神にのみあるものだということですね。
そしてこの世の他の権威は神に服従すべきものである。
すべて権威というものは神にあって、また神から来ている権威こそが私たち人間にも征服されるべきものとしてあるんですというわけですね。
権威というのは例えば政治的な権威とかあるいは国家の権威とかいうふうなところにも使われていますし、これも本来は神から来たものである。
神によって立てられた権威として認められているということですね。
そのことを当時のローマ帝国のそのことにも触れているんだと思うんですが、当時のローマ帝国一つの権威国家ですけれども、これもまた神の権威のもとに立てられている。
そしてその国家は神の力と神の御支配のもとにあるのだということを言っているわけですね。
12:00
ローマ人への手紙の十三章一節二節。
人は皆上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられたものです。
したがって権威に逆らっている人は神の定めに背いているのです。背いた人は自分の身に裁きを招きます。
第一手もての二章の一節もそうですね。
そこでまずはじめにこのことを進めます。
すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために、願い、祈り、取りなし、感謝が捧げられるようにしなさい。
王、国家の長としての王、あるいはそれに随する高い地位にある人たち、そういう人たちも権威を持って仕えている。
ですからその人たちのために願い、祈り、取りなし、感謝が捧げられるようにしなさい。
神様の願いというのは、どの国、どの場所にあっても、そこにいる一人一人が幸いに生きるようにという、そのことを願っておられるわけです。
ですから私たちがどこか無人島にでも行って、そこで一人で暮らせばいいとか、そういうことは願っておられないわけですね。
どこかに例えば所属して、そこで人間生活、社会生活を営んで、そこで幸いを得るようにという、それが神様の願いである。
ですから私たちも自分の意思とは関係なく、この日本に生まれ育ち、そしてこの日本人として所属している。
そこで私たちは幸いな生活を営んでいくことを神様は願っておられるわけですね。
その国とか国家、それも一つの権威としてがあって立てられているんだという、そういうことですね。
ですからその権威に私たちも尊重し、福していく。
もちろん国が、本当に政治が立てられている者たちが、これはどう考えてもおかしい、間違っている。
とてもじゃないですけれども神様がこんなことを願っておられるんだろうか、そういうものは論外です。
それはもうそういうことを言っているのではなくて、私たちが所属しているその権威のもとには私たちもそれを尊重し、そしてその支配の中で守られて、そして生きていく。
15:14
それが相応しいことである。
もちろん人間のしていることですから、時には間違ったり、あるいは十分でないという。
それはお互いがまたそれを議論し合ったり協議し合ったり、ここをこうしていきましょうという、そういう中で進められていっている。
それはもちろんのことですが、私たちは神によって与えられた権威のもとに生きている者として、その権威に従っていくべきだ。
何でもかんでも盲目的にその権威に従うということでもありません。
きちっとした判断をし、そして皆がその権威の源である神を崇め、そしてそれを尊び、そしてそのことに私たちは服従していくという。
それがこの権威の持っている意味であるわけですね。
権威というのも一種の力です。
ですから、それは権力ということにもなるわけですね。
権威によって与えられた支配力、あるいは拘束力、あるいはそれを行使する力。
それも、やはりこの権威のもとに与えられている力であるということもきちっと理解しておかなければならないわけです。
ですから、この権力というものを振りかざすというようなことで与えられているのではない。
きちっとした理性とか、あるいは謙遜というものをもとにして、その権威と力を行使することが許されている。
それは政治の分野でもそうでしょうし、経済的な組織の中でもそうだと言えます。
人の集まるところ、すべて権威があってそこに権威の力、権力が与えられている。
しかし、それは聖書が言うように、神から与えられたものとして、それを謙遜に受けとめ、そして神の許しと、また神様の愛とか、そういうものをきちっと踏まえた上でそれを行使していく。
しかしそれを間違って、権力というのは自分が獲得したもの、自分が思うようにそれを行使していいんだというふうに間違ってしまうと大変なことになってしまう。
18:07
聖書はあくまでも権威は神から与えられたものである。
ということを私たちはもう一度ここで確認させていただきたいと思います。
ですから、権威というものが、それじゃどういうふうにしてそういうものができるのでしょうか。
それは、やはり神から与えられているものということを基盤にするということですね。
ですから私たちは幸い、聖書を通して誠の神を知り、またそれを信じて、その信じている神から来たものとしての権威を知っていますが、
それじゃその権威の源を考慮しない、そういう世界にあってその権威がもし語られ、そして権威の力としての権力が行使されるとするならば、
これは間違った使い方、認識がされるということもあり得るわけですね。
ですから私たちはきちっとその権威というものを理解して、またそれを人々に伝えていく必要があろうかと思います。
それともう一つの権威というのは、やはりその実質の力です。
あるいは人々を納得させるだけの力があるということ、それも一つ権威として覚えておかなければならない。
誰もがそれを認めてこその権威である、そういうことも私たちは覚えておきたいと思います。
聖書には時々このような、普段私たちが使わない、あるいは考えない、そういう言葉とか単語が出てきますけれども、
聖書は柔らかいものだけではなく、固いものもちゃんと咀嚼して理解して、そしてそれを自分のものにするように。
それは私たちの成長のためにも必要なことである。そのことも併せて覚えたいと思うんですね。
権威ということなんですが、例えば一つの権威、それは聖書の権威ということを考えてみたいと思います。
21:03
聖書というものがただの読み物ではない。これは聖書として、権威あるものとして私たちはそれを読み、そしてそこから養いをいただき、
そしてまたこの聖書に基づいて人々にその福音を伝えていく。
聖書による側は、もしそこに権威を認めていないならば、そういうものは要らないし、そんなものは結構です。私はもっといい読み物を知っています。
それはやはり聖書の権威というものをそこで共有していないからですね。でもこの地上には多くの人が共通の理解を持っているわけです。
第二手もての中に、この聖書は神の霊感によって書かれたもので、人々が今しめられ、そして正しく歩んでいくのにふさわしい書物である。
神の霊感を受けて書かれたものだという多くの人の認識と、誠にそうだ、そういう認識が生まれたときに、この聖書に権威というものを私たちが認めて、
そしてある者はそこに目覚めて、そしてお互いにこの聖書というもの、神から与えられたお言葉としての権威をここに覚えるわけですね。そういう聖書の権威というものがあります。
ですから、ある国の大統領が就任するとき、あなたは大統領としての任務を与えられ、そしてそれにふさわしくそれを務めていきますか。はい、そのようにいたします。
それは何によって誓うんですか。聖書の上に手を置いてその誓いをする。それは聖書に権威があって、そのもとにその権威がまた大統領にも与えられる。
それは神から来た権威として皆がそれに服従していくという一つの表しとして、聖書に手を置く。それは聖書に権威があるからということですね。
ですから一人でも多くの人がそのことを共有し、またそのことに目覚めていく。そして、ただ権威があるだけではなくて、皆がなるほど、やはり権威ある聖書の聖書たるゆえんがやはり本物だ。
24:14
神の霊感を受けて書かれた書物、その聖書はやはり力があるということを皆が認め合っていく。さらにその権威が権威として成り立っていくという、そういうことが私たちももう一度確認しておきたいと思うんですね。
でも日本ではまだまだ聖書の権威、あるいは権威ある聖書、神のお言葉としての聖書が認められていない現状、本棚の片隅で埃をかぶっているとするならば、これは非常に残念なことであります。
一度は聖書を買ったり、あるいはいただいてそれを読んでくださったんでしょうけれども、あと一歩、その聖書の素晴らしさに踏み込めずに本棚に行ってしまったという、そういうことであるならば、私たちはそこに使命があると思うんですね。
そういう人にもう一度、この聖書の素晴らしさ、そしてその神様のお言葉には神の権威と、そして力があるんだということを知っていただく、その働きがあるわけです。
それともう一つは、キリストの権威ということですね。キリストの権威。私たちが聖書を権威ある書物として認めるならば、そこに記されているイエス・キリスト、ここに権威を認めるのは当然であります。
キリストが神であり、そして天から使わされた神の御子であるということを多くの人が認め、そしてなるほど、このイエス・キリストにこの権威を認めていく。
もちろんその実質においても、彼は救い主として、私たちの慰めとなり、または力となり、私たちの救い主であるということにおいても、イエス・キリストの中にその権威を認めているわけであります。
群衆が最初イエス様に会ったときに、この人は誰だろう。何かガリレーの方から来た一人の人としか思わなかった。しかし彼が群衆を前にして、神の国を解き、そして神の救いを語っておった。
27:14
そのときに人々は、他の立法学者、パリ西人、西市長たち、彼らが語るのとは違う何かを感じたわけですね。そのことをマルコの福音書の1章22節あたりにも書いています。
人々はその教えに驚いた。それはイエスが立法学者たちのようにではなく、権威あるもののように教えられたからである。
何が権威なのか。権威あるものというのを形やあるいは言葉や示して、これが権威あるものだという、そういうものはないんですけれども、立法学者たちとは違う権威あるもののように私たちに教えてくださっている。
次第次第に人々の中に、イエスキリストの中に権威というものを見るようになった。
さらにイエスは彼を叱って黙れ、この人から悪霊を出て行けと言われた。
するとその穢れた霊はその人を引き付けさせ、大声を上げてその人から出て行った。人々は皆驚いて互いに論じ合って行った。これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。
穢れた霊も出て行くとは。ここにまた彼らはイエスキリストの中に悪霊を追い出すことのできる力、それを権威ある力というふうに見たわけですね。
次第次第にイエスキリストの中に権威を認め、その権威は神から来たもの、そして神の力がこの人に宿っているのだということを認め出したわけです。
もう一つの権威、それは教会の権威ということですね。私たちもちろん聖書に権威を認め、イエスキリストに権威を認め、そしてその教会の頭であるのがイエスキリストであるならば、その教会も神によって権威が与えられているという。
そのことを認めるわけであります。教会というのは神によって召し出された人たちの群れであります。ですから神によって招かれた人たち、そして救いをいただき、またその神を礼拝している人たちの群れ。
30:01
そこには神の権威というものが及んでいる。ただ、誰かが皆さん集まりませんかと言って人を集めて、そしてそこで何かする。
同じ人の集まりですけれども、かたや神の権威のある教会、しかしかたやは何の権威もない、ただの人の集まりということになるわけです。
ですから教会の頭はイエスキリストであるということによって、そこに神の権威というものがある。私たちもそれを認めているわけです。
ですから、教会に与えられている神による権威と、あるいはその権威によって使うことのできる力、そういうものもやはり神の権威というものをしっかりと覚えて、
それを自分勝手に使ったり、それを濫用したりするということはあってはならないわけです。
すべて神の権威のもとに与えられたものとして、それを認め、それを使用させていただくということ。これが教会の正しい在り方であります。
教会の権威を認めるならば、そこにある神の権威のもとに立てられた、例えば役員会であるとか、あるいは役職のそういうもの、それもまたそこに神からの権威が与えられている。
役員ということではなくて、その教会の一つの群れとしての組織の中の役員会ですね。役員会は神によって権威が与えられている。
ですから、教会員の皆さん、あるいは信徒の皆さんは、その役員会を認め尊重し、そして神からの権威によって立てられた役員会としてのその役員会を支え、そして従うことが幸いである。
それが何よりの神からの恵みである。
先ほどの全ての人のために、また王と全ての高い地位にある人たちのために願い。
私たちは教会にあって何が高いか何が低いか、そういうものはないんですけれども、神の権威によって立てられたそういう役員会、あるいは役職、そういう人のためにはこれを祈り、また従い、そしてまたそれを支えていく、そういう務めがあるということですね。
33:17
もちろん役員会もその与えられている権威と、権力という言い方はしないまでも、その与えられている力をきちっと神の権威に基づいて、その神の権威を汚すことのないようにしっかりとそれを行使させていただく。
神の権威によって立てられた役員会としてふさわしくそれを運営していくということが望まれるわけですね。
ですから神の権威に立てられた役員会に対して、例えばそれを非難するとか、批判するとか、それに従わないとか、そういうものはやはり神そのものの権威をないがしろにし、それを従わないものとして、これは大変大きな罪であるわけです。
ですから私たちは神の権威をしっかりと覚えるということは非常に大事なことであります。
従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと従わないようにしっかりと
それを尊重していく
そしてまたそれに神にふさわしく
神の御心にふさわしくそれを運営していくということ
そういうこともこの機会にしっかりと覚えておきたいと思います
私自身の一つの今問いかけがありますが
この霊天における権威というものがどこにあるんだろうかということですね
なるほど教会あるいは役員会それぞれ与えられた役職
そういうものに神の権威はあるんですけれども
霊廃というものをどのように進め
またどのようにそれを霊廃していくのかという
そういう形式であったりプログラム
そういうもののこれを決める権威あるものは誰なのか
もちろん教会の中で行われているものでありますから
36:04
どこかにそれを決める権威があるんでしょうけれども
まだはっきりとした答えが出ずにいます
私たちが霊天として認められているのは
プロテスタントでは精霊天として認められているのは
洗礼式と清算式であります
しかし霊廃については聖書は何もそのことに触れていない
ただ神に受け入れられる生きた聖なる備え物としてそれを捧げ
そして霊と誠をもって私たちが
崇められるべき霊廃されるべきお方に向かって霊廃を捧げる
そのことは書いてあるんですが
どういうプログラムでどういうことをそこでし
それが30分なのか1時間なのか2時間なのかそんなことも書いてない
それを私たちは誰かにどうすればいいんですかということを聞きたいんですけれども
その確かな権威ある人の言葉というものを待つんですけれども
それがどこにあるのかわからずにいます
それをどなたかに尋ねると大抵返ってくる言葉は
いや今までこうしていたからこういうふうにしているんですという答えなんですね
それじゃあずっと遡って
それじゃあなぜ今私たちの霊廃の形式がこういうふうになったのか
あるときそこに権威ある人がそれを決めなさったのか
そのことを知りたいわけですね
そういうことも含めてもう一度私たちの教会のあるべき姿
特に毎週の日曜日の霊廃というのは大変大事なことであり
日頃接することの少ないお互い日曜日の午前
こうして時と場所を一つにして神様を霊廃している
この霊廃が本当にその教会の主であられるイエス様
そして神御自身が精霊としてここにおられる
そのお方が権威あるお方ということをわかっているんですけれども
そのお方にふさわしく私たちが霊廃を捧げていきたい
そのためのもっともっと祈り合うこと
39:00
あるいは豊かな霊廃とはどういうことなのか
その権威あるお方が本当に喜ばれる霊廃
そして交わりというものがどういうものなのかということも
改めて考えてみたいと思うんですね
この権威あるお方がこうしなさい、ああしなさい、これはいけない
そういうことを言ってくださったら本当に助かるんです
あるいは聖書にこうしなさい、ああしなさい、これはいけませんよと
霊廃について書いてあるならそのようにさせていただくんですけれども
それがわからないのでいろいろと今祈りの中にあります
どうぞ皆さんも合わせて祈っていただきたいと思います
しかし洗礼式と清算式は間違いなく聖書の権威のもとにこれを行いなさい
そういうふうに記されていますので
それは権威ある神からのお言葉としてそれを守っていきたいとそのように思っております
それではお祈りをして清算式に移ります
天の神様今日は神からの権威ということでいろいろと考えました
また課題もありますけれども私たちが聖書にその権威を認め
またキリストこそ神の御子であることをまた認め
そして教会に与えられているその権威と
またそこに神御自身が臨在してくださっていることを覚えます
どうぞ私たちがこの神を我が神として
このお方が私たちの日々の生活の中にも私たちの主としていてくださり
また私たちもそのお方を心から礼拝するものとしてどうぞ整えてくださいますように
ただ今からの清算式もどうかそこに神の権威を認め
これは神様から与えられたものあるいは備えられた恵みとして
しっかりとこれを受け取ることができるように
聖霊御自身がお導きくださいますよう
おゆだねし主キリストの皆によってお祈りをいたします
アーメン