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2022-12-11 31:22

2022/12/11:新しく歌う

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2022/12/11 聖日礼拝

光田隆代師

ルカの福音書 -56

00:02
おはようございます。
アドベントの時に出席させていただいて感謝いたします。
先回の時には雨が降っていましたので、もしかしたら今日も雨女になるのかなと思っていたんですけれども、
一応晴れてきましてよかったです。
教会堂がクリスマスの雰囲気に変わられていて、
今年も幸いな時を得ることができることを感謝いたします。
はじめにお祈りをいたします。
私の魂は主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。
私、ご覧ください。今からのち、どの時代の人々も私を幸いなものと呼ぶでしょう。
恵み深い天皇お父様、尊いお名前とあなたの流された十字架の血をあがめて感謝を申し上げます。
様々な出来事が起こるこの時代に生かされながら、私たちは今日もあなたを褒めたたえることができることをありがとうございます。
もう一度、救いの恵みを固くしていただき、私たちを男性まで導かれるあなたをこのところであがめさせてください。
今日もご精霊が豊かにお働きになって、御言葉をどうぞ渇いていらっしゃる一人一人に豊かにお届けくださいますようにお願いします。
死状で御心が行われるように、両谷教会を通して死の御心が行われ、どうぞ福音が豊かに述べ伝えられることができるように、教会を祝福して名を用いてください。
始めにあたって、イエス様のお名前に乗ってお祈りいたします。
いつもこちらに来させていただいて、本当に豊かな祈りが捧げられているのに、私が恵まれて教えられていることを感謝しています。
今日のお読みいただいた46節からのところに、マリアのサンズリが記されています。
ご存知のようにマグニシティカートと呼ばれているところなんですけれども、
それは死をあがめという言葉があがめる、ここで使われている拡大されるように、死の皆が拡大していくようにという、そのところからこの死についてそう呼ばれています。
つまり、マリアのサンズリは、もうちょっと身近な言葉で言い換えると、私の生き方、生活を通して神様が拡大してみせられるようにという、そういう祈りであるわけです。
03:16
ということは、私たちの生活自身が、神様がどういうお方であるかというものを拡大教のようにしてみせるためにあるということを自覚させられます。
主の祈りの皆をあがめさせたまえのあがめとは、この言葉は違う言葉が元々の言葉を使われています。
主の祈りの皆をあがめさせたまえは、聖なるもの、あなたの皆が清いものとしてくださいという言葉が使われているんですけれども、こちらは拡大されますようにという、そういう祈りと願いが込められた言葉です。
私が新学校におりましたときの、1年下に下級生が入ってきたときに、そのお姉妹は今四国で伝道隊の中で奉仕をしておられますけれども、新入生の挨拶か何かのときに、ここのマリアの賛歌を暗唱なさってみんなに披露してくださったのを覚えています。
女性にとっては、女性が歌った歌ということで心惹かれるところがあるのだと思いますが、皆様の哀傷、哀傷、また暗唱できる聖書の歌詞はどのくらい終わりでしょうか。
それをもって慰めて励ましと力を受けることができることは幸いだと思います。
今日はマリアの賛歌を読んでお読みいただいたんですけれども、印象付きの聖書をお持ちの方は、小さい文字で出ている46節の解説のあたりに、第1サムエルの2章の1節から10節のところが書いてあると思います。
そこは何が記されているかというと、預言者サムエルの母のハンナの祈りが記されているところです。
内容はちょっと似ている、重なる部分もあるんですけれども、全く同じというのではありません。
しかし、新役のマリアが捧げた賛美の下には、もしかすると旧役のハンナの祈りが土台にあって、それが記憶に残っていて、そこから生まれた可能性もないわけです。
そのハンナのことを最初にお話しさせていただきます。旧役サムエル1の2章の方ですね。
06:05
そちらのハンナは、ご存知の方が多いと思うんですが、夫にとても愛されていたんですね。
10人の女にも勝るよ、あなたはと言われるほど愛されていたんですけれども、残念ながら子供がなかったということで、他の女性の方から非常に蔑視されていたというか、下に見られていて非常に辛い思いをしていた女性だったわけですね。
しかし神様の宮に行って祈って、そこで確信を得て、神様がくださる子供は絶対あなたに捧げます、その与えられた子供は捧げますと言って、祈って帰ったわけなんですね。
するとその祈りが控えて約束を与えられて、その通りに男の子が与えられます。彼がサムエルとなっていくんですけれども、その子は3年間血離れするまで、お乳を飲まなくて良くなるまではハンナの元にあって、それから妻子に仕えるために本当に捧げられていきました。
その時に祈った祈りが第一サムエルの2章のところに書かれているんですけれども、神様をおめたたえて、そして低く見られていたものを高く引き上げてくださるというような祈りを捧げていくわけなんですね。
彼女の場合は子供が欲しかったのにできなかったけれども、祈って神様がそのように導かれて、子供が与えられて、本当だったら取っておきたいような子供なんですけれども、神様としっかり約束をしていたので、
その時が来て血離れしたらもう帰ってこないんですね。もう捧げてしまうので帰ってこないんですけれども、その約束通りその誓いを果たしていって、そしてそこでもう一度祈った祈りが2章のところに出てきています。
この姿勢を見るときに、ハンナという人は自分の願いで子供が欲しいと祈ったかもしれませんけれども、結局は神様の境のために自分自身と、そして与えられた家族を捧げていきますという、そういう祈りをしているわけです。
ですから、勝手気ままに自分の願いをこの世で実現してほしいというよりは、神様の御心がなっていくために私は捧げて捧げていきますという祈りをその中で捧げているわけなんですね。
09:12
逆に言うと、神様はこの救いの歴史を進めるために必要な人物をいろんな境遇の下に置かれて、整えてその神様の御用のためにお持ちになるということが見えてきます。
ですから、私たちがいろんな環境の中に置かれ、また苦難を通されたとしても、神様の御支配がある中では、それはちょっと難しいかもしれませんが、御心の中にあるということですね。
ですからそれを私たちは拒否するよりも、受け入れるということはとても大切な信仰の一面ではないかと思います。
次に、今日読んでいただいた聖書の歌詞なんですけれども、その前の39節のところから、もう一人の人物のエリサベツという親戚の女性のことが書かれています。
それは、1章のもっと初めの方に、最初、ザカリアの妻エリサベツが、こちらもなかなか子供が与えられていなかったんですけれども、神様の前に正しいと見られていたご夫妻に、突然、密会ガブリエルが子供が生まれまして、
年をとっているので、とても望みがないと思っておられたご夫妻に、密会が子供が与えられるということ、そして、ヨハネという名前を付けなさいというところまで教えてもらえるその婦人が出てきます。
ですから、このルカの1章のところには、2つの男子の誕生というのが予言されています。
エリサベツが、子供が与えられて、まだ胎内にいるとき、6月のときに、マリアがそこのところに行くんですけれども、このエリサベツとマリアの出会いというのは、また素晴らしい親子者の出会いなんですね。
親戚であったので、お互いの今までの話をして、お互いになぞんで、お疲れ様、よかったね、大変だったねということの話もしたでしょうけれども、
この聖書に書かれているのは、2人ともですね、神様は何と素晴らしいんでしょうかということと、そして聞いて信じる人の幸いと、そして神様に導かれている私は何と幸いなものでしょうかという、
12:16
この2人とも、神様のもとにあって私たちは幸いだということを、親戚関係の中で分かち合っているんですね。
ですから、この親戚関係は単なる決定ではなくて、信仰によって導かれて、そして神様をしっかりと見上げているというところが非常に特徴的であると思います。
しかもですね、この今から2000年前、さっきのハンナの話は今から3000年前の話ですけれども、このエリサベツとマリアは今から2000年前の話です。
このエリサベツの方は今も申し上げましたように、45節の、主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸いですと言って、マリアのことを喜んでいるわけですね。
このマリアは、今日はお読みしていただいておりませんけれども、こちらにも見つかりが現れて、そしてイエスの誕生の約束を与えます。
その時の彼女の態度は、皆さんもご存知のように、同じページの中にありますように、ここではないですね、ごめんなさい。
私は主の端溜めです。どうぞあなたのお言葉通り好みになりますようにと、突然の動きに対してこのように答えることができる信仰を彼女は持っていたわけなんですね。
これ自体がとても驚くべきことではないかと思います。
人間の頭で理解しようとしたらとても無理だったんですけれども、彼女はこの時14歳くらいでいなかったかと言われています。
若いんですね、経験が少ないと思います。
しかし、自分が受けた神様の導きに対して、非常に大胆に信仰を持って答えます。
15:07
つまり、それまで彼女がどういう礼拝の仕方をしていたのかはわかりませんけれども、神様が素晴らしいということと、
そして、私はいつでも神様に身を捧げていこうという決心ができていたということが見えてくるのではないかと思います。
その旧約のまだ聖書自体が整っていない時代ですよね。
39巻これだけですというのがまだ言われていない旧約の時代で、
彼女の伝えられてきたことを聞いて信じた信仰の中に非常に確かなものがあったのと、
おそらく安息日ごとに御言葉を聞いていたとは思うんですけれども、
日ごとに神様の約束を信じて神様を見上げるという訓練は、
彼女自身にあったからこそ、この旧の訪れに対応することができたのだと思うわけです。
先週ある先生がお話しされているのを聞いたのですが、
アメリカにサドルバーク教会という有名なサンフランシスコの方ですかね、大きな教会があります。
そこはとても何万人という大きな教会なので法師もいっぱいいるようですけれど、
年に一度その法師を慰労するための集いが、その人たちだけが集まる集いがあったのがそうです。
そこの主管の先生がそこでメッセージをされた時に、
私は皆さんに大変いろんな法師を要求してきましたけれども、
私はそれに対して、ごめんなさいね、大変だったでしょうというようなことは言いませんとおっしゃったそうです。
それの理由は、つまり法師をするためには、いろんな努力と忍耐と準備が必要で大変なんだけれども、
それを通して教会の法師が作り上げられる、そのために必要なことなので、
私はごめんなさいと言いませんとおっしゃったそうです。
今もこちらの教会にも教会の役員の方がいらっしゃったり、いろんな法師に預かっていらっしゃる方々がおられるわけですけれど、
人に見えない忍耐があり苦労があり、いろんな大変さ、こまごましたこととかいうことがあると思うんですけれども、
それらの一つ一つをやり遂げていく、その方向に自分を捧げていくことによって、
法師として苦労したとしても、それによって作られていくという恵みがあるということですね。
教会はそのように多くの人たちの信仰と愛と犠牲によって成り立っておりますけれども、
18:05
神様はそのような人たちを用いてこの教会自身を作り上げようとしておられるということです。
話を戻しますが、マリアも無理やり、
お願いします、救い主の母親になってくださいと言われたのではなくて、こうなりますよと言われた時に、
私は主の始ためですと言いましたし、このエリサ別にあった時は、
私の魂は主を崇め、私の霊は私の救い主である神を褒めたたえますと言って、
最初から神様を賛美するところから始めているわけなんですね。
先ほども読みましたように、
どの時代の人々も私を栽培なものと呼ぶでしょうと賛美するわけですけれども、
まさにそのことが今2000年の時代にも行われています。
ですから、彼女が神様を愛してそして使えるという姿勢を常に持っていたこととともに、
自分は主の始ためですと言いましたように、
自分に対して謙遜なものであったということですね。
そして神様に従うという方向を崩さずにいたということが、このところに見ることができます。
ですから自分自身の願いを優先するよりも、神様の求めを優先しようという思いが強いわけです。
そして自分自身のことだけではないというのは、
54節から、主は憐れみを忘れずに、その主もベスライドを助けて下さいました。
私たちの人たちに語られた通り、アブラハムとその人に対する憐れみをいつまでも忘れずにと言っていますように、
自分の民族のことも神様が借りてくださっているということを賛美しています。
つまり自分のことだけではなくて家族や国やそれらのことも心の中に入れていたということを思うときに、
私たちの祈りも個人の自分の願いのためだけの祈りではなくて、
家族のためや国のため、世界のために本当に心を寄せて祈る必要があるということを教えられるのではないかと思います。
この大胆な決断をした姉妹の生涯、皆さんに一つずつ言ってくださいとお願いしてもきっと言っていただけると思うのですが、
21:04
33年の後にイエス・キリストは交渉会に入られました。
ですからそれまではお家のことをしておられたのだと思うんですけれども、
その間にもうヨセフの名前は出てきませんから、ヨセフは早く亡くなっていたと思います。
ですからマリアは夫を早く亡くした女性です。
イエス様の他にも兄弟が何人かいらっしゃっているようですので、決して豊かな生活ではなかったことがわかります。
そしてちょっと話が本当に戻りますけれども、
その誕生の月もガリライの方からユダのところまで1週間か10日ほどかかる距離を、
大きなお腹を抱えて別編まで出かけていくということがあり、
そしてそこでも宿屋には泊まらずに家畜小屋に泊まったということや、
それから命が狙われそうなのでエジプトに逃げるようにという、
幼子を2歳くらいではないかと言われていますけれども、
幼子を連れてエジプトの方に逃げ、そしてまた落ち着いたら今度はガリライのナザレの方に帰っていくという、
幼い子供やまた妊婦であったとき、幼い子供を抱えていたときに、
何回も移動を迫られていくというような状況もあったわけですね。
そしてイエス様が交渉外に出られた後も、
故郷では預言者は敬われないとご自分でおっしゃっているように、
近隣の人もイエス様のことを受け入れなかったでしょうし、
自分たちの家族でさえそのようなことを言ったような状況の中で、
母親としていろんなつらい思いや、どうなるのだろうかということを全然感じなかったとは思えないんですね。
生活の苦労もあり、また人からの誤解、子供に対する誤解も受け、
いろんな思いで苦しんだこともおそらくあったと思います。
そういうことは聖子は語らないんですね。
なんか、誕生の時の素晴らしい恵みのことだけを語っていますけれども、
一人の人間として見るときに、彼女もそれなりの苦労というか大変なことを通りながら過ごすことに結局はなるわけです。
しかし恵みが与えられているのは、十字架につけられたキリストを見るところまで行くわけです。
24:02
しかしその後、死人の中から三日目に甦えられることと、
キリストが昇天された後、祈りの輪に加わっていたという名前が残っている、そこがマリアの存在の最後です。
ですので、多くのことは隠されていますけれども、
彼女は若い時に私は死の八日目ですと告白した、祈ったこと、決死にしたこと、
告白を生涯の終わり、聖書が記している終わりまで守り抜いていたという姿がここに見えてきます。
ですので私たちがここで教えられるのは、神様の主権、神様が主である、自分ではなくて神様が主であるということを中心にいつも据えて見上げて、
終わりまで従い続けていく、そのようなものにさせていただきたいと思います。
マリアも復活のキリストにあい、また聖霊を受けておそらく何倍にも増した神様の憐れみというものを受け取ったのではないかと思われます。
そこまで聖書を書きませんから、想像しかないです。
たまたま昨日私が見ていたものに、今年亡くなられた小坂中さんがいくつか出しているYouTubeがあるんですね。
それでチューズカフェというのが今でも見えるんですけれども、
その中に子羊イエスよというサーミーがありまして、神聖歌にはないんですが、その歌の紹介とともに自分のご経験を。
彼は昔ロックスターであって、その業界では非常に名の通った優れた人物であったわけですね。
あることからクリスチャーになって、そちらの世の働きを止めてしまって、主に教会関係の働きに仕事を絞っていかれました。
ある時、いつかは分かりませんけど、教会に招かれて集会をするんですね。
大抵の場合はたくさん人が集まっていたはずなんですけれども、ある業界の集会にはほとんど人が来られなかったそうです。
その時にそこの先生が、あなたはもうちょっとこの世の働きで名を打っていた方がよかったんじゃないですかと言われて、
27:00
小坂さんはショックを受けてお家に帰ってお祈りをなさったそうです。
その時に彼が神様の前で考えたこと、私は本当に罪人の頭であって、そんなものがイエス様に救われたんだから、
とにかく神様を褒めたたえる歌を作る、またそれを歌うことを私の仕事にしようと言って、
もう一度心を切り替えて、個室でイエスよという賛美を作ったということを語っておられました。
人から見たら、それぞれの行いが同期まで見られたり、全部が正しく判断されるということはこの世ではないことが多いです。
いろんなことで勘違いされたり誤解されたりすることもたくさんあるんですけれども、
しかし個人、自分がどこを向いているか、神様、自分ではなくて神様を主力に置いているかどうかということをいつも点検するということはとても大切なことではないかと思うんですね。
この朝、マリアの賛歌を学ばせていただいておりますけれども、
2000年前のイエス様の誕生、本当に信仰というか、神様に対する渇きが集まっていた時ではないかと思います。
それに合わせるように密会がいろんなところに行ってですね、働きかけて人に語りかけ、そして天使が賛美したりするという、やっぱり一つの歴史の大きな盛り上がりの時ではなかったかと思います。
私たちはこの年もこの歌唱を開きつつですね、私たちももう一度失うものが燃やされて、イエス様を愛して支えていこうという思いを厚くさせていただくものにさせていただきたいと思います。
そして私たちの関係もですね、このエリサベツとマリアのように、もう信仰の話で盛り上がっていく、そしてお互いの信仰を励まし合うような、そういう関係を作り上げていきたいものと思います。
今日は教会のお祈りの課題に、来年のために具体的に祈るようにと書かせていただいて、載せていただいておりますけれども、
昨年ですね、ユン先生がご病気になられて、本当に大変な一年をお過ごしになってこられましたけれども、新しい年、どのように導かれていくかはまだわかりませんが、
しかし神様のご支配があって、また皆様が神様を見上げて、中心に神の栄光が甘められ、拡大されて、私たちを通して、教会を通して拡大していくようにという、その方向で進んでいかれる時に後知るべしですね、
30:19
神様がどんなにかよくしてくださって働いていてくださったかということが見えてくるのではないかと思います。
最後に一つですね、有名な御言葉を開いて終わります。
コロサイリトへの手紙の3章の16節をお読みしてお祈りして終わります。
コロサイリトへの手紙の3章16節と新約聖書の405ページになります。
コロサイリトへの手紙3章16節
キリストの言葉があなた方のうちに豊かに棲むようにしなさい。
知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い。
使徒賛美と礼の歌により感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
ではお祈りをいたします。
31:22

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