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2022-10-16 37:52

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2022/10/16 聖日礼拝

犬塚直樹牧師

マルコの福音書 -50


00:01
皆様、おはようございます。
一言、お祈りをいたします。
誰でも先頭に立ちたいと思うものは、皆の後になり、皆に仕えるものになり、
また、私を信じるこの小さい者たちの一人を自慢化させるものは、
むしろ大きな衆心首に巻き、結びつけられて、海になりこまれてしまう方が良いんです。
天に向かい、天の父なる神様、あなたの皆を褒め、心いっぱい賛美を申し上げます。
そうさ、あなたの前に立つことができない、また出ることのできない子供を、
十字架の父様によって、罪許され、神様の子供となり、
今日も天のお父様、天の父様と呼び、お語り下さい、趣望べば聞いてますと、
あなたの前に出ることができ心から感謝を申し上げます。
いろいろに言葉をいただきながら、とうとう上れた人一人が、感謝と喜びをもって、
このところから使わされていくことができますように、よろしくお願いいたします。
これからの時を増し臨みます 神様の前によってお祈り致します
アメン
私たちクリスタルにとって大切なことは 信仰を持って何年いたったか
という信仰歴ではなくて またかつてこんな働きをした
こんな殿堂をしたということでもなくて 今どれほど恵みを受けているかが大切であります
いつも神様と共に歩く その連在を意識して生活するわけであります
それは御言葉と祈りによって生きることであります
けれども 原作を信じていても罪を犯したり失敗をしたり また挫折したり倒れたりします
私もしょんしゅうあります けれどもクリスタルは失敗しても
繰り改めて信仰に生きることができます そのような人とクリスタルの違いは何でしょうか
03:20
失敗して そのような時に繰り改めてもう一度信仰に立つかどうかで
傲慢な人は繰り改めません
私たちがその繰り改めの恵みを受けていると だんだんとこの世の人たちの姿から変えられていって
イエス様の姿に似ていくことになります それで心がイエス様に似てきて
そして私たちの語る言葉や あるいは生活や日々の生活がイエス様に似ていくわけであります
それは恵みを受けて イエス様のように変えられていっているということになります
私たちがクリスタルと言われる人と 信仰の話をしてみると
その人がどれほど恵みを受けているかどうかが あるいはどれほどイエス様に近づいて生活しているかどうかがわかります
教会に来ていても また歳をとっていても 信じていないような人もいるし
全然変化のない人 この方の言葉を聞いてみると
信仰があるかどうか 恵みを受けているかどうか すぐにわかってしまうので
教会では信仰の話を語りません 信仰のことはなかなか語れなくてですね
趣味の話であるとか あるいは食べ物の話であるとか
あるいは旅行の話になってしまいます
若い人たちならばスマートフォンの話か パソコンの話になってしまう
信仰のことは話されないわけです
政府協会や明大院協会の局長は 元様に信頼しながら
謙虚に信仰生活を送っていらっしゃる方が たくさんおられます
高齢でありながら元気な人を羨まない 自分にできることを精一杯
06:08
忍耐強く祈ってくださっていらっしゃる方が 大勢いらっしゃいます
その姿を見るときに そこにこそ私たちの
この無反応姿があることを見るわけです
たとえこの30節以降 再び外来役に帰ってこられた時のことを話しています
そこで元様は十字架の上がられの 事難を予告されました
元様と山に登り そして姿が変貌したのを体験した弟子たちもいました
その後に帰って 喧嘩で苦しんでいる子供を 癒した箇所も出てきました
その後 先週からの 今日は続きであります
いろいろ体験した弟子たちが 怒ったんでしょうか
私はイエス様とともに山に登って 祈っているとイエス様の姿が変わって
エリアとモーセが現れた すごい体験をした
あるいはですね 父元に戻って 玄関であった子供がイエス様によって癒された
一番近くいたのは私である そういうことも起こったのかもしれない
そういう中で議論が始まりました 議論引きである
先週の箇所でも この立法各社の文集たちと議論していました
ここでも私は議論したわけです イエス様は彼らに尋ねられました
道で何を論じていたのですか 35歳と
しかし 私たちは答えることはできませんでした
彼らが夢中になって議論していることは 世の中的に恥ずかしいことでありますから
イエス様に答えることができなかった
誰が一番偉いか 誰が一番弟子か ペテロかヨガネかヤコトか
それよりも私たちがこの世の価値観にとって 彼らは非常に弟子になりました
それが彼らの本心であり 私たちの正直な姿であるときに
出具材の二人の子が母親と共に イエス様を元にやってまいりました
09:06
イエス様 あなたが憎みにつくときに 私の子供を右と左につかせてくださいと言いました
最も注意があるところに 子供をつかせてください
私たちの生涯では 誰が一番偉いのかという議論はしません
けれども心の深いところでは 私に何ができるだろうか
何を持っているだろうか どんな伝統障害であったのか
自分と人を比べたり あるいは人と人を比べたりするものがあります
誰が偉いかとは言わないけれども 自分は信仰的に霊的に豊かであって
あの人よりも自分の方がマスターというような 気持ちになりやすいわけです
私たちはこんなことをしたんだ こういう境界生活だと思っていらっしゃる方が何人かおられる
知識もありプラスト配布もできる元気であり あるいはこんな伝統をした
あるいはこのような未知兵器でお祝いをすることができる 信仰について
あるいは皆さんが持っている持ち物や性別について 住んでいるところについて
いろんなところにおいて私たちは議論するわけです
でも皆さん信仰というのは人と比べるものではなくて 神様に対するものでありますから
神様の前に自分を引き受けしていただければ
自分の信仰がだんだんとはっきりしてくると 今まで気づかなかった自分の信仰に気がつくわけです
皆さんが神様を信じて 聖書を読みそして祈っていけばいくほど
いかに自分が小さいものになるかということが分かってきます
自分こそ許されなければならないものになるということを 知っていくわけです
神様に近づけば近づくわけです
私たちクリスチャンは 自分のものを知るということは
信仰生活にとって大切なことです
ですからイエス様はこのティービーの2章の3節から
12:04
蹴り下ってただいに人を自分よりも優れたものを覚えなさい
自分のことだけでなく他人のことをも変えなさいと
どんな人でもどうぞ皆さん 人を自分よりも優れたものを覚えなさい
ということをすべて言うわけです
さて私たちがここでまず大事に学ぶことは
非常に勉強で熱心な 活動的なクリスチャンの中であったとしても
謙遜の足らない人が多いということです
伝達を見てください
彼らの心のうちには イエス様に仕えていこうというような
無縁のような思いがありました
そしてイエス様のためには 全てを捨てていってもいいんだという
その熱心さもありました
彼らはイエス様を信じて イエス様を愛して
その御命令に従ってまいりました
二人分になって 主の名によって悪霊を追い出し
病気を癒してきなさい
はい分かりました 先生ということで
彼らは出かけていって そこで神様のお宿を愛したわけです
そして自分には誇ってまいりました
彼らの生き方は素晴らしいものだった
この世の中におにぎりのような条件がある
私たちは見た目のたまものを多く持ち
それをもって喧嘩に注いでいらっしゃる方
頭の下がる思いで
いろんな余的な知識を持ってきて
あるいは語学が堪能な人もいればですね
リーダーシップを持っている人もいます
また音楽に才能のある方もいます
自分と比べてればですね
あの人はいろんなたまものを持ち
神様に仕えているなと思われるような方がたくさんいます
けれども
いろんな試みが来たとき
あるいは
その人たちと親しく交わっていくときに
いろんなたまものを持っているけれども
悲しいことですけれども
15:01
最も大変な喧騒を持っていないこと
気づきました
この42節以降
また私を信じるこの小さいものたちの一人をつまずかせる者は
むしろ大きな石打ちを首に結びつけられて
海に投げ込まれてしまうのが良い
続いて
もしあなたの手があなたをつまずかせるなら
それを知りなさい
足がつまずかせるならばこの足を切り落としなさい
あなたの目がつまずかせるなら
それをえぐり出しなさい
これは恐ろしい厳しい言葉です
ここまで来る間
私たちはですね
誰が一番偉いのかという議論をしていました
この偉いと訳されているのは
大きいという意味の言葉です
これは今日読んだ先に読んだ聖書の歌詞に出てくる
小さなものという言葉の対照的な言葉であります
自分たちの中で誰が大きいのか
それを理論していただいた時に
イエス様は小さいものをつまずかせるなら
小さいものにつかえなさいと言われました
一番先になりたいものは
全ての人の後になって
全ての人につかえるものと言います
みなさん注意深く読んでみてください
一番を目指すことが我々ではありません
子供たちも勉強
勉強も
また運動も
またお金を儲けることも
どうぞみなさん一番を目指してください
どんなことでも一番を目指して
努力してください
でも次が大切です
そのいろんなものを用いて
イエス様は人々につかえなさいと言われたわけです
イエス様が私たちに求めておられるのは
謙遜であります
それをもって神様に御奉仕しておく
18:04
二つ目のようには
イエス様が来られた時に
私はその方の靴のひもを解く値打ちもありませんと言いました
靴のひもを解く人というのは奴隷であります
私は奴隷からと言いました
私たちは注意しなければならない資源は
お金や理性や名誉でもなく
それでも大切
注意しなければなりません
けれども
今日私たちにイエス様が教えていくことは
傲慢にならないように
気をつけるべきです
エンジャルが倒れたらもう傲慢でありました
自分を信じすぎて
たとえみんなのものが倒れても
私は決して躓きません
たとえあなたが死にたろうが
国に入ろうが
私はあなたに近なってもあります
彼は自分に自信があったわけです
けれどもイエス様は
今日あなたは鶏が鳴く前に
三度私を知らないと言うだろうと
助言されました
そんなことがあっても私は裏切りません
でもその言葉を聞いた時に
私たちは手と足と一緒です
目を覚まして
祈らなければならなかったのに
まだ傲慢が残っていました
そうする対比に
教会の中に
教会の外でもそうです
活動的だと思える人の中に
最も大切な
謙遜がないことがあります
それを大事に学ぶことは
良くな政治的な知識を蓄えても
個人的な努力があっても
あるいは傲慢を克服し
優しい振り下った心を
培うことができるのです
知識も努力も必要ですけれども
この難しい悪い
イエス様に学び
イエス様に働いていただかなければなりません
3年間私たちは
イエス様と共に歩みました
イエス様はさえず
お国であるとは何であるか
ということを教えられました
私は心を優しく振り下っているから
私に学びなさいと
何度も何度も教えられました
21:01
せっかくに会いたい人たちに
あるいは群衆に
神様の栄光に至るうちは
謙遜だということを伝えられました
口で語るだけではなく
人の子が来たのも
仕えられるためではなく
帰って仕えるためであると言って
手の振りを腰にまとって
弟子たちの足を洗われました
単にその言葉は言いません
それはあなた方の模範なるためだ
イエス様の模範を守らなければ
私たちにとって
知識や経験があることもいいことです
お金が多く
知恵が高いことも
また能力があることもいいことです
でもそのような一つ一つが
喧騒と結びつくときに
そこに神様の栄光が現れてきます
でもこのような教訓も
彼らにとって無益でありました
それから22章の24節の最後の晩餐の石像でさえ
なお誰が一番偉いのかという議論もしていました
まさにイエス様が亡くなろうとする前の
そんなことだけだった
何度もかえらはイエス様の教訓を学びました
そこでもう二度とイエス様を悲しませることは
しないと決心したんですけど
でもダメでした
その頃私たちにたくさんの教訓を教えていた
どのような聖書的な教えも
また様々な話し合いや授業も
謙遜の美徳を称える意識も
決意も努力も
高ぶりという悪魔を追い出すことができないと
何か言いたいのか
そうです私たちの人生の技では
もうどうにもならないということです
学んでもダメだ
ですからイエス様は
あなた々は神の力添い
御手のもとにへりくだいなさいと言いました
文豪トルスと言いました
謙遜な人より力ある人はいません
24:02
なぜなら謙遜な人は
自分を捨てて
神様と共に
神様は高ぶる者に敵対して
へりくだる者に恵みます
もし私たちは謙遜であるならば
力があり信仰が生まれてまいります
なぜならばそこに神様が恵みを注いでくださること
ある人は
何十年も
いや
一生共感していても
恵みを受けることができません
その理由は何でしょうか
皆さん知っているでしょうか
傲慢さがあります
恵みあふれてこの礼拝に出てきても
全く恵みを受け取ることができません
自分は高いところにいて
自分のうちに神様の声を聞こうとします
ああこのことは私は知っている
もう何度も聞いた
ある時は腕を組んで
ああ今日のお話はきっと面白くない
これは私には必要ない
主よお語りください
主語め聞きます
あなたの声を聞いて
神様と共に歩んでいきますという思いがあります
そして第三番目は
私たちが
まことに喧騒になるためには
神様の喧騒を褒めておられる
イエス様の大義勇によって進むしか
道はないわ
私たちは
傲慢やさかぶりという原罪を
アダムエヴァから受け継いでいます
どうしたらいいんでしょうか
イエス様は心を入れ替えて
幼い頃のように生まれ変わりなさいと言います
すなわち人は
新しく生まれ変わらなければ
天国に入ることができない
いつも絶えず
幼い頃のように自分を低くして
博多に渡したように
自分の無能を知る
そして
幼子が母親に頼って安心しているように
イエス様は神の子ではいなかった
自分を低くして
私たちの手本として
私たちの足をついてくださった若い子
27:03
父をカエロを許してください
カエロは自分で何をしているのか分からずにいるのですと言って
十字架で祈り
私のために死んでいく
イエス様は
耐える人です
そして私たちの生き方もそうです
私たちは何よりも
自分の罪を悔やらされなければなりません
そうするとイエス様の身力が
自殺の中に入ってこられ
ご自身の身力で悪魔を打ちこぼったように
罪を処理し
永遠の償いをさせてください
だからイエス様を信じた時に
悔やらかめて明け渡しましたよね
信仰のスタートです
そしてその一回だけではなくて
何度もイエス様に明け渡して
イエス様と共に
生きていかなければなりません
そのために私たちは
何度も何度も振り下がっています
毎週の礼拝です
毎週そこから
上を仰いで
イエス様の救いを感謝し
それを喜んで
それを楽しんで
ここから出ていきます
ですからこの礼拝は
本当に悔やらためと
上を仰いで出発する
再出発の時です
イエス様は
あらかたのうちに
仕事を持ちなさいと言いました
新学校の食事によく
漬物が出てまいりました
私は4年間
新学校時代に
農事班で畑の仕事をよくしました
そして新学校で取れたものを
漬物にするわけです
いっぱいよく取れるというものは
茄子であるとかさつまいもぐらい
さつまいも取った後には
玉ねぎの苗を入れて
そんな時にある時に
その漬物が臭くて
味が全くしないわけです
そこで
スイジの小玉さんという
おばあさんと
この漬物だるを見に行きました
もうそこは
30:02
お汁だからあんまりいいかもな
虫虫だった
塩が足らないと
この量になるんだと
言っていました
その時から
新学校の漬物は
食べれなくなりました
わけですよね
この炭と
この古本を
イエス様のように生きることよりも
自分がリーダーシップになって
卵を多くの人たちに
鍛えていく
そういう生き方の方が
人気があるかもしれない
キッズ協会の中で
悪の性欲が大きいのが問題なので
それらが問題ではなくて
塩が足らなくて
虫虫だ
外側の問題ではなく
虫虫だ
塩の中では
生きていけないんです
イエス様の大衆される中では
罪は存在していません
だからイエス様は
あなた方のうちに
塩量を保ちなさいと言いました
自分のうちに
塩を持ちなさいと言いました
聖書に書いた
ユダヤ人の人たちによって
塩は貴重です
塩の姿はなくなってしまうけれども
食べ物に味をつけたい
また貴重な食べ物を
腐敗から防ぐものとして
神様に捧げるものとして
塩を教えます
老前の宗教もある時には
お金ではなくて
塩を与えたという文献も出てきました
それほど貴重だった
自らを隠して
味をつけ
そしてそこの腐敗を取り除いていく
余談でありますけれども
レオナルド学一の
最後の晩餐
皆さんご存知で見たことありますでしょうか
またもう一度
今日帰ったら
すぐに見たくなりました
33:01
すぐに見たくはありません
イスカリオテユダの前に
転がった塩入れが出てきました
右手はしっかりと
コインが入った袋を握っていますけれども
そのコインが入った袋
つまり右手で
塩の入れ物をこぼしたとき
つまりユダは
もうイエス様との関係など
どうでもいいんだ
その破綻を示している上である
塩なんかどうでもいい
イエス様の内重力
あるいは強め
精霊の御先によって私たちは
罪と違いから自由になります
問題は私たちの外側にある
様々な出来事ではなくて
私たちの内に
塩入れを持っているならば
あなた方は
恵みの中に生きることができる
そしてそれは
自分の力でそうすることができなくて
イエス様に来てもらうしかないわけです
心の中に来てくださることに
私たちの心の中心に
イエス様を内重してください
すると
イエス様が持っていた
命と愛があふれていきます
謙遜であれば
周りの人に喜ばれます
そして
その人の人格が成長していきます
どうせでしょう
神様は謙遜なものに
恵みを与えてください
恵みを受けて
だんだんとその人が
変わっていって
素晴らしい人格を持つようになります
ですから謙遜であれば
ある程
この祝福を受けています
幸せもそうです
謙遜なものは
いつも感謝して生きていますから
謙遜であれば
ある程
その人は幸せに生きていくことになります
たとえでしか
死にかけていたのは
この謙遜さであり
人に伝える思いでありました
自分は大きなものだ
一体誰が一番偉いのか
そんな時に
イエス様は
仲間でもなくても
その人たちを受け入れます
その時になるならば
手足さえも
目も組み合わせていきなさい
そういうイエス様の
メッセージが傍観になるならば
誠のメッセージを受け取ることができ
36:04
宙の道を歩みたいわけです
小さなものをつまづかせるならば
海に投げ込まれてもいい
自分に一心で
他者を生かす
清めの生活に進む時に
初めて私たちは
親しみを受け
幸せに暮らすことができるわけです
どうぞ皆さん
人工によって
自分に死ぬんです
自分に死ぬことは
人を生かし
回り回って
自分自身を生きることに
つながっています
それが地の潮としての生き方です
自分の姿を隠しました
元通りの姿ではない
けれども確かにその潮は
そこに挙げておし
そして腐敗から
その者たちを
とどめたわけです
ですからどうぞ私たちは
何人も謙遜を身につけたい
伝道のスキルより
清聴知識より
神様どうぞ
私の陣主がご連来して下さって
私の陣イエス様の味方が作られて
どうぞイエス様私に
健康を与えて下さると
祈りたい
お祈り申し上げます
37:52

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