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2022-04-17 21:44

2022/04/17:目が開かれて

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2022/04/17 聖日礼拝

光田隆代師

ルカの福音書 -35


00:01
おはようございます。
名谷教会には久しぶりに訪れさせていただいています。
今、私は、教団事務所に今年2年目のホースに当たっています。
礼拝で説教するのは1年ぶりになっているので、ちょっと緊張しておりますけれども、
最後まで、私のお働きに預からせていただくことを感謝いたします。
では、はじめにお祈りをお捧げいたします。
私の目を開いてください。私が目を止めるようにしてください。
あなたの身教えのうちにあるくすしいことに、
恵みと愛に富んでおられる天の父なる神様、
あなたの尊いお名前を賛美いたします。
また、私たちの救いのために、十字架の上で流してくださった尊い父をあがめます。
今日はイースターの記念の素晴らしい礼拝を皆様方とともに迎えることができ、
また豊かな賛美と信仰の祈りをもって、礼拝を導いてくださることをありがとうございます。
どうぞ、今日も御言葉の中からあなたご自身がその真実を明らかにして、
御言葉が開かれると無悪なものを賢くするとありますように、
私たちに新しいあなたの恵みを悟らせてくださるようにお願いをいたします。
また、様々な思いをもって、ここの場にお集いの方々、
また、御自宅などで礼拝を守られる一人一人にも、
神様御自身からのお答えがありますように、
かわりにてくださることをお願いをいたします。
先に祈られた祈りに合わせて、尊いイエス・キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン
今日読んでいただいた聖書の歌詞はとても短くて、
本当でしたら、この24章全体を読んでいただいた方が捉えられやすいのかなと思いました。
しかし、今日お話ししようと思っていることは、
目が開かれる、つまり十字架と復活に対して目が開かれて、
そしてそこから新しい証人となっていくということをお話しさせていただきたいと思っています。
イエス様が十字架に架かられた後、今日登場している二人の弟子たちは、
失望の田中におりました。
03:01
期待していた方が十字架で亡くなられた。
むごい死に方をなさったので、
とぼとぼと歩いていっていることが、
その13節のところから書いてあります。
エルサレムから11キロほど離れているエマオというところに、
この子とイエス様のことを、
15節、話し合ったり論じたりしているという、
そういう状態でどういうことなんだろうか、
私たちはこれからどうすればいいんだろうかという思いで、
互いの思いを分かち合っていたわけですけれども、
そのところにあえて無理やりイエス様が入ってこられたんですね。
見知らぬ人が入ってくるんですから、
少し強引な形でイエス様が入っておいでになったような気がします。
私たちの会話、様々な会話をしますけれども、
その中にイエス様を迎え込むことができるような会話をするのは幸いであるなと思います。
1ヶ月前に東北とか関東の方に大きな地震がありまして、
その時に東京では節電のアナウンスがあって、
皆さんが協力をなさったようですが、
ある方がおっしゃっていたのは、夜いつも夕食を撮る時にテレビをつけている。
でもその時は節電のコールがあるので、テレビを消して夕食を撮ることになったら、
久しぶりに自分の主人の顔をゆっくり見ましたという声を聞きました。
私たちは今スマホとかもちろんテレビとかですね、
いろんなものに目が奪われ気が奪われて、
イエス様のことをしばしば忘れてしまう。
また会話の中にイエス様のことを全然入れない会話をたくさんしてしまうということがありますけれども、
この弟子たちのようにイエス様が思わずその中に入ってきてしまわれるような、
そういう会話をしたいものだと思わされます。
そこで今日はイースターですので、
イースターのおめでとうございますということも言わずに進んでしまいまして失礼しました。
教会の3つの大きなお祭りは皆様がご存知のように、
クリスマスから始まって、イースター、そしてペンテコステへと続いていきます。
今日の読んでいただいた聖書の27節のところに、
それからイエスは、
「モーセやすべての預言者たちからはじめて、
ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた。」とあります。
06:04
このようにイエス様ご自身が彼らと話している間に、
旧約聖書の全体を通して何が書かれているのかということを、
彼らの心が熱くなるような語りかけで話してくださったということが記されています。
それと少し前になりますけれども、
同じ24章の、お読みいただいていないんですけれども、
最初に復活に出会った人たちに見つかりが現れてですね、
7節、「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、
十字架につけられ三日目によみがえると言われたでしょう。」
というふうに伝えています。
そのように、以前から十字架につけられ三日目によみがえられたということを、
何度もイエス様がおっしゃっていたということがわかります。
そして今、先ほど27節を読みましたように、
イエス様はそのことを旧約聖書全体を通して、
そのことをきっとお話になったと思います。
また、読んでいただいてはいないんですけれども、
この後ですね、
11人の弟子たちを中心にエルサレムに集まっている人たちのところに、
その教の二人が帰っていった時に、
イエス様がまた現れてこられて、
144節に、「そしてイエスは言われた、
私がまだあなた方と一緒にいた頃、
あなた方に話した言葉はこうです。
私について、
孟子の立法と預言者たちの書と紙幣に書いてあることは、
すべて成就しなければなりません。」
ここにも、
孟子の立法と預言者たちの書と紙幣に書いてあることといって、
旧約聖書全体を示されているわけですね。
そして、その続きの25節に、
それからイエスは聖書を悟らせるために、
彼らの心を開いてこう言われた。
次のように書いてあります。
キリストは苦しみを受け、
三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、
罪の許しを得させる悔い改めが、
あらゆる国の人々に述べ伝えられる。
エルサレムから返しして、
という、あなた方はこれらのことの承認となります。
というふうに続いておりまして、
ずっとこの聖書全体のことと、
そして十字架と復活、
そして今読みましたところには、
罪の許しを得させる悔い改めが、
あらゆる国の人々に述べ伝えられるとありますように、
09:01
この聖書全体と、
そして十字架と復活は、
罪の許しを得させるための悔い改めを告げるものである、
というふうに繋がっていくわけですね。
このようにイエス様の十字架と復活というのは、
ただ私たちがイエス様を信じて、
死ぬことのない命をいただくということに繋がっているんですけれども、
その十字架と復活で何がなされたかというと、
やはり罪の許しを得させる悔い改めが起こる、
というそのことにたどり着くわけですね。
イエス様は私たちの全ての罪の代わりに身代わりの死を遂げられましたから、
罪の許しはもう私たちに、神様の側からは与えられています。
ですから私たちはいつもそれを喜んで受け取る、
そのことが求められているだけです。
このすぐる週も様々なことをおそらく経験しておいでになったかと思います。
決して嬉しいことばかりではなくて、
辛いことがあり、また自分自身の心を痛めるような出来事、
自分で自分を痛めるようなこともあったかもしれませんし、
知らずに誰かを傷つけたり、また傲慢になってしまったり、
いろんなことがあったかもしれませんけれども、
キリストの死と復活は、私たちに神様との隔たりという罪というものを壊して、
私たちをどんな状況からでも神のもとにもう一度立ち返ることができるという道があるということ、
人間に失望することはあっても、神様に失望することはないということ、
いつも期待していいということ、そのことを十字架は私たちに教えてくれています。
ですから、どんなことが起こっても失望にはいたらないということ、
神様に望みがあるということを私たちは教えられます。
そこでもうご存知かとは思うんですけれども、
今見たところは、イエス様が聖書を語られたということで、旧約聖書を説明されたということを申し上げましたけれども、
この続く新約聖書は弟子たちが人として記したものです。
その四つの福音書がありますけれども、
新約聖書の福音書はイエス様の誕生のあたりから大体書いてありますけれども、
12:02
マルコの福音書のように、全然そういう誕生を書いていない福音書もあるわけですね。
でも、この四つの福音書が重ねて重ねてどれも重点を置いて書いているのは教えの話ではなくて、
キリストがどのように十字架で苦しまれてそして蘇られたかという部分に、
そのページの三分の一とか四分の一とか非常に多くの枚数を用いて書かれています。
ですから福音書全体の中心はやはりイエス・キリストの十字架と復活ということに重きがあるということを覚えるときに、
私たちは聖書が私たちに語ろうとしているのは、
これによって私たちが神様から罪の許しを得て神様と和解をするように、
神様がずっと導いていらっしゃるということを教えているわけです。
聖書は、イエス様も聖書をお方になりましたけれども、
創世紀の始めから黙示欲の終わりまでずっと神様の救いの計画が記されているわけですね。
その中の大きな山場でポイントが、
その先週の十字架、そして今日の復活、
神様が私たちを完全に許してくださるんだということを私たちに宣言しているわけです。
イエス様がどのように具体的に弟子たちに、聖書のこの箇所でこうでこうでとお話しなさったのかは具体的にはわかりませんが、
メッシアの予言も旧約聖書にはたくさんあります。
でもその中で、神様が私たちを救ってくださるということに関して、
また許してくださるということに関して、非常に強いメッセージを聖書は語っています。
その中で、伊沢書の43章以降のあたりにいろいろ書いてありますけれども、
ちょっとお読みします。伊沢書の43章の1節から少しお読みします。
もしお開きになられれば、1237ページになります。1節、2節をお読みします。
だが今、主はこう言われる。
ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形作った方が、恐れるな。
私があなたをあがなったからだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。
15:06
あなたが水の中を過ぎる時も、私はあなたと共にいる。
川を過ぎる時と渡る時も、あなたは押し流されず、火の中を歩いてもあなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかないとあります。
このように、私はあなたをあがなったという言葉は、今の私たちにも適用される言葉です。
イエス様はそのようにして、私たちに和解の道を提供し、今も許すために私たちを招いてくださっています。
遺罪書の中には、すべての罪が霧のように消されるということも書いてありますし、
私たちはこのイースターの朝に、イエス様がいつも許しの招きを持って待っていてくださるということを確認したいと思います。
イエス様が聖書をお話しくださって、ネシアについて語り続けていてくださった時に、
私たちは復活ということが信仰の中に初めて組み込まれていたのです。
それまでは復活なんて信じられないという中にいたのですが、
イエス様の言葉を聞いて信仰が湧いてきて、初めてイエス様の復活、そして目の前に見えているのだということを確信してスタートしました。
それは赤死人としてのスタートです。
彼はもう一度エルサレムに帰って、弟子たちと一緒に、私たちはこういう経験をした、こうなんだということを語ることができるようになったわけですね。
まだ当時は精霊の豊かに喰らわれる前でしたから十分な理解はなかったでしょうけれども、
彼は自分の口でイエス様は生きておられる、このようなことを語られているということを赤死することができる生き方へと変えられていきました。
赤死をするということを皆さんお好きか得意か分かりませんけれども、
自分の経験、神様がしてくださったことの経験を、平易な言葉で自分の口で証言するということですので、
特別に難しいことではなくて、自分の信仰の姿をありのままに表していくことが、おそらく普段の生活の証言になるんだと思いますね。
特別な時だけにお話しするのではなくて、イエス様に救われた、愛されていることが分かった人たちは、
18:08
普段の生活が証人になることができるのだと思います。
ここ3回ほど、キリスト新聞の中に、今京都信愛教会に使わされていらっしゃる大津先生の文章が載っていまして、もうこの週で終わったんですけれども、そこに老い子さんの話が出てくるんですね。
大津先生がイギリス留学をしていらっしゃった時に、3週間だけ老い子さんがイギリスに来られて、クリスチャンではなかったんですけれども、
同じ宿舎に滞在している間に、そこのホストをしておられるトマスというミシスの方にお世話になったそうなんですね。
その方は、そこの寮生の非常に高感度の高いご夫人だったそうなんですけれども、ご主人はもう天に帰られていたようです。
その方が掃除をしている時も、早くから歌を歌うので気になっていたそうです。いいなと思っていたのではないんだけれども、気になっていたそうです。
帰りの近くになって、3週間が過ぎようとしている頃に彼が彼女に尋ねたわけなんですね。
なんであんなにいつも歌っているんですかと言ったら、彼女が、あの歌はイエス様を賛美している歌だということを教えてくれたこと。
そしてご自分は、数年前に膝の手術をして、夜眠れないほど痛いことがあるんだけれども、朝になると鳥がさえずっているのを聞くと、私も賛美をせざるを得ないと言って教えてくださったそうです。
そのことを聞いた彼が、彼女の生活自体が神様を褒めたたえるものになっているということを教えられたという文章が載っていました。
またその3週間のうちに、教会にも行かないし、聖書も読んだことがなかった彼が大津先生の導きで、罪を許していただいて、信仰を告白して、また救われたという経験もその中には書いてありました。
それは素晴らしい恵みの証なんですけれども、私たちにとっても、いつも神様に招かれて、愛されて、許されているということを毎回確認、本当は毎日ですね。
そして礼拝のたびにそのことを褒めたたえて感謝して、私たちが普段からキリストの良き証人となる言い方をさせていただきたいと心から思います。
21:13
そしてまた今日はこのように聖さんの恵みに預からせていただきますが、これこそ神様の十字架と復活を私たちに感覚を通して、目に見える形で教えてくださっていますので、これが神様の和解の招きであることを今日も感謝して受け取らせていただきたいと思います。
それではお祈りをいたします。
21:44

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