1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/02/10:聖日礼拝(旧音源)
2013-02-10 29:11

2013/02/10:聖日礼拝(旧音源)

2013/02/10 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
プログラムの一つ一つが祝福されていますことを感謝いたします。
御言葉をいただく時が来ました。一言お祈りをして、今日の歌唱を開きたいと思います。
誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追うて、私に従ってきなさい。
大気の深い天の父なる神様、今日もあなたを期待、そしてあなたを愛するために、この御堂へと招かれてまいりました。
この礼拝の主であるあなたが、私たち一人一人に御霊を注ぎ、そしてあなたを見上げるその思いと、またあなたを信じる信仰をさらに増す具合でくださるようお願いいたします。
どうぞ一人一人の思いをこの主に向けて、そしてこの御方を愛して、この御方に信頼を捧げて、この生涯、この地と共に歩んでいけるその幸いと、また恵みに生きることができるよう、どうぞお導きください。
そのための御言葉でありますから、今日もあなたのお声を聖書を通して聞くことができるように、どうぞ導いてください。
この明大教会も20周年を迎えるとお祈りにございました。
ここまであなたが支えてくださり、さらにこのところから大きく羽ばたき、また進んでいこうとしております。
どうぞ届く一人一人をあなたが成長へと向かわせ、またあなたに仕えて全てを捧げて歩んでいくことができるように、そして御霊の導きに従いつつこの教会が成長し、また福音を伝える基地として、
そしてこの交わりが祝され、そしてこの隣人を愛する愛へと向かわせてくださり、この地の人たちがイエス様を信じる信仰へと向かわせてくださり、救われる人が起こされることを願ってありません。
そのために私たちがまず主の前に悔い改めと、また献身を捧げて、そしてそれぞれにお使わしくださるようにお願いいたします。今からの御言葉の時をも祝福してください。
そしてあなたのお導きをもって、またそれぞれの置かれたところで福音宣教の働きに預かっていくことができますように、どうぞ導いてください。語る者乏しく貧しい者ですから、最後はですが支えてくださるようお願いいたします。
今日来ることができたことを感謝し、また来れなかった人たちの上にも、どうぞ主が等しく臨んでくださるようにお依頼をし、主キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
03:12
今年のイースターは3月31日の日曜日であります。そのイースターの前の46日間、これをレンとあるいはジュナン節と申します。
ですから今年は2月13日からこのジュナン節が始まって、そしてイースターへと向かっていくわけですが、またさらにこのイースターの前の1週間、これをジュナン週と言います。
そのようにして、このジュナンを覚える、これはイエス様が私たちの罪をあがらうために多くの苦しみを受け、そして重機関にかかってくださったことを言うわけですが、私たちが日ごろ、残念なことに忘れがちであります。
でも、こういうジュナン節、ジュナン週を通して、そのイース様の受けてくださった苦しみをもう一度思い起こすという、いわば一つの記念のような、そういう時であろうかと思います。
脳性麻痺という病で、動くことも話すことも閉ざされた水野玄蔵さんという方がおられますが、彼は瞬きによって多くの死を残されました。
そのうちの一つ、「苦しまなかったら。」という詩ですが、
彼はそのように読みました。私たちもこの時期、イエス様の苦しみを覚えて過ごすことができたらと願っています。
さて、今日の箇所ですが、ここはイエス様が捕らえられて、そして裁判にかけられる場面であります。
まず第一に、イエスを訴える者たち。55節のところを読みますが、
さて最初たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。
06:08
イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。
すると数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして次のように言った。このように続いているわけですが、
この裁判は、とにかく彼らが最初、立法学者、教老たち、とにかく早く判決を出したい。
そういう焦りにも似たような状況の中で、実は夜が明けるのが待てずに、真夜中に議会を開いて裁判をしたというように言われています。
とにかく異例であった。あるいは異常でもあったということが言えるわけであります。
それはなぜか。本来、裁判をかけるということは、まずその罪の理由、あるいはその訴えられている理由とあるいは証拠が集まって初めて逮捕、捉えられ、そして裁判にかけられます。
それが普通の裁判でありますけれども、ここはそうではない。イエスを死刑にするために、彼らにとってまずイエスを死刑にするんだ、十字架にかけるんだということがまず先にあるわけです。
そのための訴える証拠をつかもうと、彼らは必死になっていたわけです。ああでもないだろう、こうでもないだろう、いや、こうだ、ああだ。このことをとってみても異常であったということであります。
そのイエスを訴える理由がいろいろと挙がったわけですが、どれも一致しなかった。彼らの間でも、ああだろう、いや、こうだろう、そうじゃない、こうだ、この方がより確かだ、そんなことを言い合っている。
そういう議員議会の状況が目に浮かぶようでありますが、結論として彼らがイエスを死刑にする二つの罪が挙がったわけです。
それが、一つは神殿を侮辱した罪。これが58節のところで、このように言っています。私たちはこの人が、私は手で作られたこの神殿を壊して、三日のうちに手で作られない別の神殿を作ってみせる、というのを聞きました。
これは神殿を侮辱している、ということで一致した。全会一致で、そうだそうだ、これは許されざる罪だ、そうなったわけです。もう一つは62節に挙がっております。
09:12
イエスがこのように答えた。私はそれです。あなたは法務べき神の御子、救い主キリストか、そう聞かれたときに、そうです。人の子が力ある方の右の座につき、天の雲に乗ってくるのをあなた方は見るはずです。
これは神を謀得した罪、そのことを彼らは死刑にする罪として挙げたわけです。万情一致で、このようにしてイエスの死刑が確定した。しかし56節にもありましたように、これは偽装であって本当のことではない。
偽装ということが何回か出てきます。56節イエスに対する偽装、57節イエスに対する偽装。この偽装ということを私たちは思い浮かべることがあります。
これはモーセを通してイスラエルのために与えられた、彼らに与えられた十の戒めのうちの第十番目の戒め。それはあなたたちはあなたの隣人に対して偽りの証言をしてはならない、そういう戒めが与えられていたわけです。
彼らがこの裁判で偽装をしているという、そのことを見るときに、彼らこそ神の戒めを守らない罪人ではないだろうか、そのように言うことができます。しかしおそらく彼らは反論するでしょう。
あなたの隣人に対して偽りの証言をしてはならない。私たちにとってイエスは私たちの隣人ではないのだから、彼をたとえ偽装であっても訴えてもいいのだ、そのように彼らは言うでしょう。だからこの戒めには抵触はしない。
彼らにとっての隣人というのは自分たちの同胞、そして自分たちの仲間たち、今イエスを訴えている最初であり立法学者であり相撲たち、今議会にいるこの者たち、これが私たちの隣人であって、このイエスは私たちの隣人ではないのだ、そのように彼らは言うでしょう。
12:01
しかしイエス様はすでに新しい立法、新しい戒めをスライの神、そして私たちに与えておられるわけです。神を愛し、そして自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。
イエス様の言うその隣人、それは神御自身がここに置くよ、あなたの隣、ここに置くよと言って置かれたその人のこと。それは性別を超え、年齢を超え、そして身分を超え、あるいは肌の色を超え、民族を超え、国籍を超え。
すなわちどんな人でもそれはあなたの隣人、神様が置かれた隣人である。そしてもう一つは、そこにいる人にあなたが行ってその隣人になりなさいとおっしゃったわけです。
イエス様はご自身が私たちすべての人の隣人になるために神の国から来てくださった。それにもかかわらずこの全議会、ここに集う人たちはイエス、神の御子、その隣人を廃して、見捨てて、そして死刑に定めたということ。
これがイエスを訴えた人たちの姿であったわけです。
二番目にイエスに対する仕打ちであります。今はこの日本でも大きな社会問題になっていますが、それに通じることがあるのかもしれませんが、この人たちは死刑に定めたイエスを払う限りの侮辱の数々を浴びせたということ。
ここにいくつか挙がっていますが、これはほんのわずかでしょう。65節。
ある人々はイエスに椿を掛けた。そして拳で殴りつけた。あるいは言い当ててみろ、などと言って嘲笑った。そして平手で打った。そんなことがあるわけです。
この後イエス様はまたポンテオピラート総督の下に連れて行かれるのですが、そしてそこではまた鞭を打たれて、体中が血まみれになります。そして重い十字架を担がされてゴルゴ座の丘に向かいます。
そして手足に太い釘を打たれて十字架に掛けられます。それでも彼らはまだ満足をせずに、それこそ椿を掛け、嘲笑い、罵り、あらん限りの罵倒を浴びせてイエスをなじった。
15:19
これでもか、これでもかと。こんなことがよく人間できるなというほどのことを彼らはしているわけです。
神様が人間をお作りになった、あの天使創造の6日目。神様はすべてを作られ、そして人間を作られ、それを見て、ああそれは非常によかった。満足された。神様が作ったすべて、そして人間はよかった。
自分なりに立派なもの、素晴らしいものができた。そういうふうにおっしゃったわけです。
その聖なる生き物、それが人間であったわけですが、この箇所を見る限り、これはおそらくサタン、スミのゆえに陥ってしまった、その神を侮辱する、もう獣以下の恐ろしい魔物と化している、そういう人間の姿がここに表されている。
それを作りなさった神様は、これを見て、どんな思いでそれを見ているだろうか。自分が作った、ああそれはよかった、素晴らしい、そういう思いで作ったその人間が、こんな姿にまでなってしまった。
私たちは今、この受難節にあって、イエス様のご苦難をしのぶ、そういう時が与えられています。そしてイエス様のその苦しみをお供にする、そういう時が与えられていますが、それ以上に神ご自身がまずそれをご覧になって苦しまれたんだということも覚えておきたいと。
そして三つ目ですけれども、イエスの沈黙ということです。それは六十節、六十一節のそのところに記されておりますが、そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。
何も答えないのですか。この人たちがあなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。そのように問いかけますと、イエスは黙ったままで何もお答えにならなかった。これは私たちにとっても不思議な光景であります。
18:24
偽証をされ、またこのまま行くと、おそらくイエスは罪に定められてしまう。何もしていない、罪を犯していない者が死刑に処せられてしまう。しかしイエスは黙ったままで何もお答えにならなかった。そのように記されています。
なぜイエスは黙っておられたのか。なぜ反論されなかったのか。そんなことを私たちは、このイエスの沈黙とともに、私たちも静まってそのことをイメージしながら、そしてイエス様の心に合わせながら、この偽証を読んでいく必要があろうかと思うんですね。
なぜイエスは黙っておられたのか。なぜ反論されなかったのか。
それ以上に、沈黙すべきときを心得ていることは、もっと大事なことである。それがカーライルが導かれたことであった。そんなことを書いてありました。
今この全議会でなされている、その中にただ一人イエスは置かれて、そして最初、長老たち、立法学者たち、みながいろいろと自分の思い思いのことを言っている。おそらくこの議会は疑いしていたことだろうと思うんですね。
たくさんの意見が交わされ、そしてみなでああでもない、こうでもないと言っている。そういう中で大佐氏は、あなたに不利な証言がなされているが、あなたは一体どう思っているのか、答えてみなさい。そう言ったわけです。しかしイエスは黙ったままで何もお答えにならなかった。
21:03
イエスはよく人々の前で、聞く耳のあるものは聞きなさい。誰しも耳が二つついているのですが、聞く耳のあるものは聞きなさい。
神に心を向け、そして神のお声を静かに聞こうとするその心、聞く耳のあるものは聞く姿勢、聞く心、神様のお声を待ち望む、そういう信仰と心のあるものなら、おそらく聞けば神様はそれに答えてくださるだろう。だから静まって聞きなさい。
そのようにおっしゃったんだろうと思うんですが、今やイエスはこの議会に連れて行かれて、偽証され、そして様々な意見が交わされ、しかもそれらが一致しない、ああでもない、こうでもないと彼らは騒いでいる。
イエスにとってこれは愚かと思えたのかもしれない。何か彼らのしていることが茶番劇のような、もう呆れて物が言えなかったのかもしれない。
今や彼らに何を言ってもおそらくそれこそ聞く耳はないだろう。もし自分が、それは違います、こうなんですと言ったとしても、彼らはまたそれをネタにイエスを吊るし上げ、さらにその論争はヒートアップする。
そして愚かしいこの裁判がいつまでもいつまでもやむことはない。そういうふうに思われたのかもしれないわけです。イエスは黙ったままで何もお答えにならなかった。
言うべんは確かに大事である。黙っていないで主張することも大事なことであります。しかし時に沈黙は禁。言わず語らず訴えず黙っていることの方がより大事であり、より効果があるということをイエス様は知っておられて、
それをまた私たちにも教えておられるのではないだろうか。そんなことを思うんですね。私が新学校で学んでいたときに聞いた一つの話なんですが、バクストン選挙主、彼は晩年だったと思いますが、
24:00
一度日本で開拓し、そして一度イギリスに帰られたんですが、その後も何度か日本に来られて、そしていろんなところで抗議なさったということでありますが、あるとき関西学院大学に抗議に招かれたときのことだったということです。
行動に、大きな広い行動に学生たちが集まりました。学生たちはざわざわ、がやがやと騒いでおったわけですね。そういう中で、ただいまからバクストン先生に抗議をしていただきますというアナウンスが流れた。
バクストンはおもむろに立ち上がって講壇の方に向かわれた。しかし学生たちは相も変わらず、ざわざわ、がやがや、志望が止まなかったわけであります。それがどれくらい続いたでしょうか。
そういう中でしばらく続いて、壇上を見たある学生が言いました。あれ、先生がいないぞ。それを聞いた学生たちがしんと静まり返ったのであります。
と、そのときにバクストン先生は、講壇の陰から現れなさって言われた。さて皆さん、それでは聖書をいただきましょう。神の見こえを聞きましょう。そうおっしゃって、そして講義が始まったというんですね。
その講義が終わった後、実はその横からそれを見ていた人が証言なさったんですが、学生たちが騒いでいたとき、バクストン先生は講義の、講壇の陰で祈っておられた。黙って祈っておられたということを証言なさったんですね。
バクストン先生は、騒いでいる学生たちに、静かにしなさい、黙りなさいということはできたでしょう。声を張り上げることもできたでしょう。しかし、そうなさらなかった。黙って祈っておられた。
それは、そうすることは、声を張り上げて静かにしなさいということは、自分にとっても、学生たちにとっても醜いことです。あるいは、それを言うことによって学生たちにとっては恥になることです。だから、それをしないで先生は黙って、講壇の陰で祈っておられたということ。
27:13
神の知恵としての沈黙を心得ているということが、実に賢く、そして美しいことなんだなということを教えられるエピソードであります。
この議会で、大祭司に尋ねられたイエス様は、黙ったままで何もお答えにならなかった。このことを深く私たちも覚えておきたいと、そのように思っております。お祈りします。
天の神様、今日も御言葉を通して、あなたを拝することができてありがとうございます。多くの苦難を受けてくださり、私たちをあがなってくださったイエス様。
さらに十字架において血を流し、また肉を裂き、そして命までも捨てて私たちを救うために、この世に来てくださったことを覚えて皆をあがみます。その苦難を忘れがちの私たちをお許しください。
しかしもう一度、この受難説にありましても、さらに深くイエス様を覚え、そしてこのお苦しみを一旦でも私たちが味わい、また共に負うことができたら幸いであります。
神様のお苦しみ、痛みをも、どうぞ私たちが共に、そしてこのイエス様を伝え、そしてこのお方を我が使徒を信じる信仰に歩む人が起こされることを願います。どうぞ教会の選挙の働きが祝福され進められてまいりますように。
救い主イエスキリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
29:11

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