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ありがとうございました。感謝します。改めて皆さん、おはようございまーす。
今日、名谷教会のウェルカムレーハンにようこそいらっしゃいました。
初めての方々、あるいは久しぶりの方々、いらっしゃいました。本当に感謝いたします。
私はこの教会の博士としております、ユンと申します。
ユンという漢字は、日本の苗字の伊藤さんの伊の漢字の左に陰弁がない漢字を使っております。
韓国では余談ですけれども、ユン氏は人語的に金氏、伊氏、博氏、八氏以内なんですよ。
だから100万人ぐらいある苗字ではありますけれども、またこのようにして、
今日このウェルカムレーハンにおいて、また先ほど朗読していただいた御言葉から、
なぜイエスなのか、そして副題としては、すべての人を抱きしめられるイエス・キリスト、
すべての人を抱きしめてくださるイエス・キリストという題にしてお話をしていきたいと思います。
今日は普段と変わって囲んで座っていらっしゃいますので、前の方に向いていただいても構いませんし、
みんなだけ貸していただいても構いませんので、ご自由にお座りください。
ではですね、今日は歩き回って挨拶はできないと思いますので、同じテーブルの右左の方と挨拶しましょうか。
おかえりなさいました。
ありがとうございます。
今日もお祈りを短くさせていただいていきたいと思います。
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。
私があなた方を休ませてあげます。
アーメン。
どんな人も抱きしめてくださり、受け入れてくださり、希望を与え、あるいは勝利を与えてくださる天の地なる神様、
今日も本当に良い天候の中で、お一人お二人を呼んでくださって、ここに送ってくださり感謝いたします。
どうか地なる神様、唯一の主よ。
今日のこの礼拝賛美を歌う中で、あるいは聖詩を読む中で、あるいはお話を聞く中で、本当の神様にお出会いする、あるいは知りたい、知っていきたいというふうな心が生じますように。
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そしてそこで、ことの日からいただける慈しみと恵みに満たされますように。
お一人お二人を今日どうぞ、大いに祝福して、また恵みで満たしてくださいますようにお願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
それではですね、今日はウェルカムにあるテーブルにですね、一つの封筒があります。
開封をお楽しみにとありますが、ちょっと開けてみてください。
はい、どうぞ。中に何かが入っていると思いますので、一枚ずつ差し上げてください。
余るものはそのテーブルの上に置いておいて構いませんので。
今日はですね、聖書のお話の一人として、普段は神道さんがほとんどですので、聖書でお話をしていきますが、
今日はお話の素材としてまた話をさせていきますけれども、
オランダの16世紀の有名なタカさんのレンブラントの宝刀息子の機関という素晴らしい傑作がありまして、
そうからね、キリスト教の話を、あるいはイエス様のお話を紐解いてお話をしていきたいと思います。
それはですね、誰も知らない私だけ知っていたサプライズプレゼントでしたのでね、お受け取りくだされば嬉しく思います。
今日の副題はもう一度申しますと、全ての人を抱きしめてくださるイエス・キリストという招待であります。
世界に親子の絆とか、親子の愛を描いた絵画作品は今までたくさんありましたし、また今からもたくさん描かれると思うんですけれども、
世界では世界一とても素晴らしい作品と言われる、あるいはとても素晴らしいという言葉だけでは、この作品の価値を十分に表現しきれないというほどの作品が、
今日皆さんに差し上げました、レムブラントという作家さんが、ちょっと前のほう、レムブラント・ハルメソン・ファンディ、名前難しいですね。
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おらない方で、バロック機を代表する、それは若い時の自分の絵なんですけれども、この方が海外に関心のある方はよくご存知だそうです。
私も今回このメッセージのために調べているうちに知ることができましたけれども、夜景という作品でして、これがなんと結構大きいんですね。3.6メートル、4.3メートルくらいの大きな絵画ですが、
後からまた今日の放送の期間ともそうですが、このレムブラントというこの方は、いわゆる明暗の天才と言われます。明るいところと暗いところをよく描写して、
本当に明るいところに見る人に、その目が心がそこに自然に向くように絵を描く、そういう素晴らしい人であります。
さあ、今日のこれが放送息子の期間という作品ですけれども、晩年に亡くなる1年か2年前に描かれたそうです。ところが、この絵をなんとオランダの国がロシアに売ってしまって、
そしてロシアはこれはラッキーポイントですね。第2回戦争の時にも山脈の炭鉱に隠しておくほど、今は残念ながらこの絵はオランダにあるんじゃなくて、ロシアにある。
一度見に行ってみたいなと思うんですけれども、実はこの絵は聖書のルカの福音書という聖書がありまして、そこにあるエピソードをテーマにして描いた絵であります。
そのお話をちょっとお話をしていきたいと思います。ある父親がいて、そこに息子2人がいました。そして、次男さんがある日、私が受ける分の遺産を欲しいからそれをちょうだいとね。
そういう意味もねだって、そしてお父さんは自分の財産の遺産をひとし分けて長男にも次男にも与えました。長男はそのうちで残って、いわゆる壁をすいで地球のもとで熱心に仕事をしていました。
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ところが、この次男さんはですね、「やったー!」このお金を持ってですね、遠い国に旅立って行って、そこでいわゆる宝刀断売をして挙ぐ。もう空っぽになってしまいました。人生がボロボロになってしまいました。
お金もない、食べ物もない、もう盆底の生活になってしまいまして、乞食のように生活をしていました。ところが、この次男さんがふと思い出しました。
あ、そうだ。私の父の家には家がある、食べ物がある。また父も兄もいるじゃないかと。このままではどうにもならないと考えたこの次男さんは勇気を出してね、実家へ前に戻る決心をしたんですね。
それも大きな決心だったと思うんですよね。一度家出をして失敗したらなかなかね、戻ることは難しいかもしれませんが、この次男さんは勇気を出して戻ることにしました。
ところが、ここの中で思ったんですね、この次男さんは。いや、もう父にはあってぐらいだかもしれないと。あるいは、行ってあっても、おそらく親との縁も切られるんじゃないかと。
そういうふうな不安や、あるいは少しの期待を持ちながら家に帰るところでした。ところが、その父親の態度は全く次男さんの予想していないびっくりするほどのものでした。
父親は親子の縁を切るところか、息子が久々に帰ってきたことを心からもう喜んで口づけをして抱きしめてくれて、そして家で飼っていた牛をさばいてもう宴会のパーティーをしてあげようと言いました。
その聖書にこういうふうに書かれています。私から読みます。
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思いがけない死の許しと、言い表せない愛に触れた次男は、きっと受け入れられないだろうと思ったその次男は、無条件に受け入れて抱きしめてくれる、いやもう喜んでくれる父親のところに、
この絵のように抱きしめられて、ただただ父親の懐で応援する日がなかったという話であります。
今日のこの絵について、私専門家ではありませんが、今日のために勉強させていただきますので、この絵からまた教えられる素晴らしいところがありまして、画面を見てください。
拡大しながら解説をさせていただきたいと思います。次のページ。
よくご覧ください。まず光が父親の両手に当てられているんです。そして両手をみなさんよくご覧ください。何か右と左がちょっと違っているように見えませんか?
そうでしょ。父親の左の手はお父さんの手なんです。筋肉が長い間仕事していて、労働していたその父親のたの申、強い。
そして親指が実はよく見たらぎゅっと押されているんです。帰ってきた息子を頼もしいその父親の手で息子を抱きしめて触れている父親の手なんです。心強い父親の手なんです。
ところが右の手はどうでしょうか。すでに違いますよね。まるで女性の手のように見えます。力を入れていません。ふんわりとやわわりと息子の背中に乗せている感じじゃないでしょうか。
そこで安堵感や慰めを温かさを感じることができるのではないでしょうか。
ここに光を照らして見る私たちに、皆さんこの両手がまるで私たちの唯一の神様の愛の二手なんですよと語っているように見えるのではないでしょうか。
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そしてこの両手は先ほど申しましたその生徒のお話のように若いとゆるし、癒し、抱きしめてくれる手なんです。
実はレムラントは彼も若いときに放盗をしたそうなんですね。ところが自分自身も本当の神のおそころにかえって抱きしめられた自分がこの放盗無双の気持ちをよくわかってこの絵を描いたというお話もあります。
この両手はどんな人も抱きしめて許してくれる無双の愛の神様、天皇父なる神様のその愛を表現しているんですね。
次の画面をご覧ください。
今度は父親の顔を拡大をしました。よく見ると目がつぶれているように見えてよく見えないんです。そしてどこを見ているのか皆さんの話を見たらどこを見ているのかわからないんです。息子を見ているかどこを見ているのかわからない。半分見えなくなっている父親の話です。
聖書から言うと、あの次男が家を出た後、お父さんはおそらく毎日毎日ずっとずっと次男が帰ってくるだろう帰ってくるだろう、待って待って待っていたに違いない。
おそらくですね、このレンブラントさんはその聖書の父親のそのことをこの絵にして目が見えなくなるほど息子を待っていたお父さん。
そしてやがてはもう見えなくなっていて息子が帰ってきて両手は触っているんだけれども息子を見えない。でも喜んで受け入れてくれるお父さんの顔を表しているんじゃないでしょうか。
おそらく涙をもって横顔表してきた父親の姿をそれを表している。
それを通してこのレンブラントは実は神様ご自身の懐に帰ってきて抱きしめられる私たちを神様が待っていてくださるその天の父なる神様の愛を表現しているんではないでしょうか。
次は、これは息子さんの足なんです。またスコマですね。皆さん長く見たらもうボロボロズタズタなんです。
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みじめで本当にかわいそうであります。
さっきも言ったように髪の毛はあまりないんです。赤ちゃんみたいになっている。
だからある解説の人はまるでお母さんの中から生まれたばかりの赤ちゃんのような息子の姿をレンブラントさんは描いていたのではないかとほにほに解説する人もいました。
毎年言ってもそんなボロボロの息子、傷だらけ汚れだらけの彼を父は受け入れてくれた。歓迎してくれた。
画面はここまでしていまして、キリスト教の真実な神道だったレンブラントは自分自身も若い時に迷いに迷って
そして多くの宗教画をたくさん描きましたけれども、自分の晩年にこの宝塔息子の父親のような愛を描きたかったのではないでしょうか。
これこそどんな人も受け入れてくださり、抱きしめてくださり、慰めてくださる天の父なる神様を表している世界一の傑作品とも言われるところであります。
キリスト教が語る天の父なる神様は宝塔息子の父親のようなお方であります。
それよりはるかに崇高な愛、想像を超える慈しみ、人間はその前で号泣するしかない愛のちょっと話し変わって結構前からのことだと思いますけれども
2000年代以降、家庭の崩壊という言葉がよく話題になって言われていると思います。
特にその中で深刻なことは親子関係のダンテスと言われます。
少子化のこともありましょう。あるいは競争、社会、また基本主義、金銭主義、あるいは様々な機会や様々な楽しみの故に急速に親子関係が希薄になっていると新聞や雑誌やテレビでよく言われています。
例えば親子同士なのに会話が全くなくなっている。互いが互いを無視したり、子供が親を親として認めていなかったり、あるいは親は子供の気持ちをわかっていなかったりする。
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この頃は家族がどこに旅行に行っても食べに行っても、特にお互いに人々はゲーム機あるいはスマホを使っています。
そして、例えばアコドナルドとかそういうところに親子が座っているんですね。お母さん、お父さん、息子、娘が座っているでしょう。
4人はハンバーガーを食べながら何をしているのか、皆さん聞いたことありますか。顔を見ないんですよ。
みんなスマホを見てゲームをしたり、なぜあそこで4人に行ってハンバーガーを食べているのか意味がわからない。
遅い時代であります。それがただの現れた証拠ではありますが、心が通わない。
そういう親子が非常に増えている社会現象が日本だけでなく世界に本当に急に深刻化になっているということであります。
でも皆さんよく考えてご覧ください。本来は親子の絆ほど美しくて麗しい関係はないんじゃないでしょうか。
本来はね、あえて申し上げるならば、人間が非常に生まれてですね、生まれてから体験できる最も深くて嬉しい遠い関係は親子関係じゃないでしょうか。
特にお母さんの皆さんは、お父さんもそうですけれども、そう思いませんでしょうか。
もちろん、夫婦や兄弟、親友との絆も深い関係であることに違いはないと思いますけれども、やはり親子の絆は格別と言ってもいいのではないでしょう。
親子の絆、それは子供や親が何を願い、何を考えているかを無意識中にそれを感知というかね、分かってですね、お互いを理解し合って受け入れ合うという関係が、
実は神様が、天の父なる神様、創造主の神様が、そういうふうに家庭を、親子関係を、夫婦関係を、麗しい関係としてお作りになったということであります。
それが実は原型なんです。元の型なんですね。
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だから、天の父なる神様は、私たちが家庭においても、とても温かい親子関係であること、とても愛し合う夫婦であること、家庭が最高の居場所であり、慰めや喜びでいっぱいで、本当に幸せな場所として作ってくださったんですね、本来は。
しかしどうでしょうか、私たち人間の立候補心、中心的な生き方、貪欲、競争、社会、親善主義等々、こういったこの世の空気に触れるにつれて、いろんな影響を受けてしまって、
元の型とは遠く離れた形の家庭や親子関係、夫婦関係が少しずつ、少しずつ、まるでですね、絡まった糸みたいになっている場合もあるかと思います。
もちろん、違いますよ。うちの家庭はとても平和です。何の問題もありません、とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、そういう私たちのために、まるで何かがこじれて、あるいは絡まった糸のように、あるいは何かがすれ違っているような、我々の本当の人生のために、
それを知らせるために、導くために、天の父や神様はイエス・キリストを私たちに伝わってください。それは私たちが本当の指で幸せな人生を送るためなんです。
そして本当の意味で幸せな家庭を、その生活をするためであります。あるいは、友好の関係を持つためでもあります。もちろん、だからといってですね、世の中の全ての方々の生活や、そういったあらゆる関係が不幸だとか、そう言っている話ではありません。
実はそういうふうに苦しんでいる方々が少なくはないという話であります。ここで、心を温かい一人の女性の和名詞を聞きたいと思います。本名は田内千鶴子という女性の方です。千鶴子は千と鶴子の漢字ですけれども、1928年頃の和名詞です。結構ね、昔ですね。
この田内さんは、そのときの韓国の朝鮮総督府の管理の娘として、韓国の南西にある木方という町がありますが、港町ですけれども、そこで暮らしていました。
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この田内さんは、なぜか神様を知っていて信じていたんですね。ところがその木方に、キリト教の私のような伝道師、しかもこの方はユンさんですけどね、ユンチヨという伝道師がいました。
その当時、1928年、あの年代でしたから、孤児たちが韓国にもたくさんいたんですね。戦争で亡くなった、あるいは捨てられた、そういう孤児たちがたくさんいたので、このユンさんは共生園という施設を立ち上げました。
共に生きる、ここにちなみに愛生園もありますが、私が知っている限りは共生園が、そういった何々、生園のもとだそうなんですね。それを作って、そこでたくさんの孤児たちをですね、最初は7人でしたけれども、どんどんどんどん増えて、自分もとても貧しい生活の中で孤児たちを面倒見ていた。
その街に住んでいたこの田内さんも、そのユンさんの活動を知るようになって、少し関わるようになって、まるで今のボランティアみたいに関わるようになって、とても感銘を受けた。
自分も食べ物がないほど貧しい生活の中で、たくさんの孤児たちを面倒見ている、父親になっている、そのユンさんの働きに感銘を受けて、そして共生園で放棄を仕上げるようになりまして、やがてはそれが、なんと運命的なお出会いでありました。
そしてこの千鶴子さんは、そのユンさんの強い信仰と人間愛に本当に感銘を受けて、やがて二人は夫婦に、そしてもっと多くのね、孤児たちの母になって世話をしていました。
ところが敗戦があり、そして共生園の監獄の中で、なかなか暮らしにくくなって、このタオチさんは母と二人の子供を連れて、夫はそのまま置いといて、公式に引き上げました。
ところがこのタオチさんは、あの木宝に残した自分の夫や、あの孤児たちの母が、毎日のようにですね、帰りたがって、涙でですね、もう帰りたい、そして帰ってきて翌年、もう木宝に帰ることにしました。
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それでですね、そのお母さんは、もうね、あのもう行かないでとね、言ったみたいなんです。当たっていきました。
そんな中で、ある日でのことでした。その旦那さんのユンさんが食糧を調達にですね、あちらこちら周りに出かけた後、必ずとも行方不明になってしまいました。帰ってこなかったんです。
そこかでですね、亡くならないと思いますけれども、それで不思議に、このキリストの愛を知っているこのタオチさんは、弟の石を引き継いで、監獄に留まって、56歳で天国に行かれましたけれども、そこまでなんと3000人ほどの孤児たちの母となりました。
そしてですね、1960年代には、もう亡くなられた後の話ですけれども、監獄では国民勲章もその彼女に与えた。その息子さんのユンキという方が、神戸にも京都にも大阪にもふるさとの家というね、そういう施設をやっていらっしゃるところであります。
母国を離れ、国境を越えて、天の助けになる神の愛を、どんな子も大歓迎する、受け入れる、そういう愛を実践した、麗しいお話でした。
このユンさんも、このタオチさんも、どんな人をも抱きしめて、許して、希望を与えるキリストの愛を知っていたから、いや頭で知っているだけではなく、それを味わって体験していたからこそ、することができた、尊い講師方だと思います。
天のつけな神様は、私たち一人一人が本当の神様を知り、信じ、受け入れて、本来の美しい人生を送ることを本当に願っておられるのです。
その美しいお知らせを私たちに伝えるために、この詩にイエス・キリストがおいでになりました。
今日の御言葉、イエス・キリストがこう語られました。
全て疲れた人、主に追っている人は、私のところにしなさい。私があなた方を休ませてあげます。
まさにこの御言葉は、あの宝刀息子の機関の、あの父親のその愛をそのまま表している言葉ではないでしょうか。
天のつけな神様、唯一の神様は、私たちの魂が幸いを得て、生きる本当の目的を知り、作られた目的にふさわしい人生であることを願っておられます。
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それで、私たちだけの名前を呼んでおられるのです。
しかしいかがでしょうか、私たちはそれぞれ自分の考えや価値判断によって生きていくと思うんですね。
ところが皆さん、よく考えていただきますと、それが40年であろうが50年であろうが、一度歩いてきた人生の道を取り戻すことはできますか、できませんか。
できませんね。
例えば皆さん、大きなイベントとかですね、コンサートのようなイベントの本番の前にリハーサルというものをやるんですね、リハーサル。
本番ではありません。練習なんです。だから何度も、劇もそうでしょうね、何度もやり直せるんです。
間違ったら何度も繰り返すことができるんです。リハーサルだったらなんです。ところがどうでしょうか、人生にはリハーサルはないんです。
例えばですね、皆さん、生まれたことに対して考えてみましょう。
生まれてですね、子供がですね、高校生や子供がですね、あ、お母さん、今リハーサルできたお母さん、じゃあまた会えたらいいかもね、さよなら。
お母さんのお腹にポンと入ることはできないわけなんです。人生にリハーサルはないんです。
結婚に対してもそうでしょう。皆さん、おそらくみんな幸せでしょうけれども、私はこの前の11月2日に結婚に22年目になりましたけれども、
ところがですね、結婚して長く暮らしていた夫婦がですね、夫からですね、あのね、実はね、今までリハーサルだったんだよって。
さあまた会えたら、まあ会うかもね、やり直しなんてできません。もちろん別れ合いことはできるかもしれませんが、元に戻ることはできないんです。
皆さん、このように私たちの人生にはリハーサルはないんです。
一度だけこの地に生まれになって、一度だけこの地から去っていかれるのが私たちの人生なんです。すべてが一度しかないんです。
今日もこの時間も一度しかないんです。最初の、さっきの始まった時間はもう取り戻すことはできないんです。
そこで、私たちは愛し、私たちがどんな人生を歩んできたのか、それをすべて知ってくださる。
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そしてその人生がどういうものであろうが、何も関係なく、唯一の神、天皇父さんの神様が、
父と息子の人やのように、いつまでも抱きしめてくださる。
受け入れてくださる皆さん、人はですね、誰かに自分が受け入れられるときに、抱きしめられるときに、そこで安堵感、安心感、平安を感じるんじゃないでしょうか。
実はこう言われました。
私が道であり、真理であり、命なのです。
私を通してでなければ、誰一人、自分の身元に来ることはありません、という御言葉があります。
ここで、この政府に出会って、もとは熱心な仏教徒であった浄土中の修行まで受け入れたある方が、この私が道であり、真理であり、命なのです。
私を通してでなければ、誰一人、自分の身元に来ることはありません、という御言葉に出会って、180度人生に変わったある方の体験談をちょっとお話をしたいと思います。
お読みする感じでお話したいと思います。
私がこの政府を初めて聞いたのは、2007年2月のことでした。
私は仏教の浄土中の修行まで受け、熱心な仏教徒でありました。
当時、私はお付き合いで知り合いに誘いで行った教会で、こういう話を聞きました。
真理に到達するには、この道しかありません。イエス・キリスト他には道がありません、というメッセージに非常に腹立たしさを覚えました。
なぜなら、多くの日本人の精神構造である和の精神に目指して、私は確かに真理は一つではあるのですけれども、それに至る道はいろいろあっていいんじゃないかと。
いや、もう実はいろいろあるんだと、そう考えていたからです。
そこで、栗ちゃんである彼らの論破、彼らを論破するために、聖書の学びを自分でやり始めました。
当時に私は仏教では、死後の世界に対する教えが二つあることに気がつきました。
それは、仏教でいろいろ唱えるんですね。ナムアミタルズカ。
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それを唱えるだけで、死んだら極楽浄土に行くという教えが一つある。
この方の話ですよ。
もう一つは、この世におけるそれぞれの人の業によって、天国土とか人間土とか修羅土とか、その六道輪廻に輪廻するという教えがある。
でもここでいう極楽浄土は、天国とはまた違う場所である。
この矛盾に気がついた私は、そもそも仏教の創始者である釈迦は、死後の世界をどういうふうに教えていたのか、信じていたのか、それを調べました。
すると、たどり着いたのが、釈迦の独夜の例えという令和に行き着きました。
ここに釈迦の姿勢感が現れています。
当時インドでは、バラモン教、ジャイナ教、ヒンズ教、いろんな宗教が起こり、それぞれが死後の世界のことを伝えていました。
ある日、釈迦の弟子の一人、マルキーナ仏陀が釈迦に、こう聞きました。
あの先生、人はどこから来てどこへ行くんですか?宇宙の始まりは何ですか?などという質問をしたそうです。
その時、釈迦は、強いように答えました。
お前の大切な友人がある日、独夜に入られたとしよう。
そうすると、その場にいたお前はどうするか。
当然、あの独夜を抜いて助けようとするんじゃない。
しかしその時に、お前の友人がこう言ったらどうか。
待て、なぜ私が狙わなくてはならないんだ。
行った奴は誰だ。この毒は何の毒だ。この羽は何からできたものなのか。ガチョウかカラスか鳥か。
そのような疑問が全て明らかにされないうちに、この独夜を抜いてほしくないんだと言ったとしよう。
さて、友人はどうなる。死んでしまうだろう。
お前は今、生きているのだ。
生きていることで、目の前に解決しなければならない問題はいっぱいあるのだ。
だから、死んだらどうなるのかなどということは、考えなくてもよいのだ。
とらわれることなく、修行にやれみなさいと、釈迦は言ったそうです。
つまり釈迦は、経緯浄学的な問題には一切答えなかったし、
でもそもそもね、輪廻転生や希望の世界を否定していたわけなんです、実は。
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故に、根本仏教は哲学であったことに近づくのです。
まだね、この方の話が続いているんですよ。
哲学的思考では、誠の神を知ることはできません。
なぜなら、モッチーの釈迦の弟子たちがそう言ったように、人が神や仏を作るからです。
人が作った神や仏が、人を救えるはずがありません。
むしろ逆で、誠の創造師である神様が、釈迦をも含めて人を創造したのです。
故に、誠の神様だけが人を救うことができるのです。
という体験談なんですね、みなさん。
みなさん、本当にその通りなんです。
誠の神様だけが、人を創り、人を救い、人に誠の幸せを与え、誠の天国に導いてくださるのです。
イエス・キリストは言われました。
全て疲れた人、おもに追っている人は、私のところに来なさい。
私があなた方を休ませてあげます。
みなさん方、イエス・キリストを知ってみようではないでしょうか。
まず、知ることから始めてみようではないでしょうか。
あるいは、最初はお試しでもいいかもしれません。
そしてさらに、そこから信じる、信じ込む、そこまで入っていこうではないでしょうか。
神も唯一、イエス・キリストも唯一、聖霊様も唯一。
このイエス・キリストを信じ心に受け入れ、本当の幸せの道を歩むのではないでしょうか。
くといですが、人生のリハーサルはできません。
取り戻しもできません。
もちろん、今は幸せで何の問題もありませんよ、と思われ方がおられるかもしれません。
幸いなことでしょう。
しかし、もしもの場合、願わない目に合わされた時に、
辛い目にあった時に、どうしようもない時に、あるいは今がそういう時であるかもしれませんね。
その時に、今日捧げましたその墓地、そこの皇と息子を抱きしめてくれた父が、実は唯一の神様を表していると、
その神様を覚えていただきたい。
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私たちは皆、生まれもただ一度、歩みも人生もただ一度、この世から去っていくこともただ一度だけです。
あなたのために、創造主が備えていらっしゃっている本当の至極の道があるんです。
イエス・キリストについていく道こそ、本当の幸せの道なんです。
このイエス・キリストを知っていこうではないでしょうか。
信じようではないでしょうか。
イエス・キリストは、あなた方を呼んで笑います。
お祈りします。