眠っている神
はい、こんにちはカズです。ちょっと久しぶりになってしまいましたが、あの音声を取っていこうかなと思います。
今日の配信のテーマなんですけど、あんまりその結論が今回まとまらないというか、整理できてないことを、まあただちょっと今の僕の暫定的な理解の範囲で共有する、シェアするみたいなね、そんな配信をしようかなと思ってます。
テーマ的には結構スケールのでかいことを話そうと思っているので、まあよかったら聞いてね、楽しんでいただけたら幸いです。
話をね、どこから始めようかと考えたんですけど、あの僕らは眠っている神であるっていう、この言葉から話を始めたいかなと思います。
というのは、えーとね、僕がスピリチュアルを広く色々突き詰めて漁ってみた結果ですね、どうやらこういうことらしいということが結論なんですよね。
あの僕ら本当は神様なんですよ、神。なんですけど眠ってるんですよね。眠ってるっていうのは神としての自分を忘れているってことです。
じゃあ神としての本当のアイデンティティを忘れて、じゃあ自分が何なのか、何だと思ってるかって言ったら、その地球という舞台に存在している〇〇っていう名前のキャラクターの一人だと、そういうふうに自分を思い込んでるってことですね。
だからその肉体としての人間の一人だと、それぞれ思い込んで生きてると思うんですよ。
それが、えー、眠っている神様状態なんですね。
だから、うーん、まあ、催眠にかかった状態とも言えるかなと思います。
そう、僕らは眠っている神様なんだよっていうこと、実はね。
で、さらに言えるのはですね、人生とはすでに書かれた脚本の通りに再生されている映画であるっていうことなんですよ。
これね、奇跡講座もそう言ってるし、インドのね、マハルシとかマハラジとかアラメシとかの各社もこのように断言していることなんですよ。
人生はね、台本があって脚本があって、その通りに進んでいるだけのデキレースなんですよ。
だから、これ言い方変えたら自由意志はないっていうことなんですよね。
えー、すでに撮影済みの撮り終えたビデオテープがあって、それを再生して追体験しているのが人生だっていう話です。
これ奇跡講座の的な説明なんですけど、で、映画の中の人物に自由意志ってないじゃないですか。
その映画の結論は決まってるし、エンディングは変えられないし、っていうのが映画なわけですけど、
でもその映画の中のキャラクターっていうのは、自分が自由意志があるかのように一生懸命人生やって行動するわけじゃないですか。
それと感情移入して、観客の方もドキドキハラハラ楽しむのが映画だと思うんですけど、そういう感じなんですよね、人生も実は。
僕らそう思ってないけど、本当にね、その次元のレベルを1個上げて考えてみてくださいっていうことなんですよね。
映画の主人公が一生懸命、その撮り終えたビデオテープだとも知らずに一生懸命頑張るのと、全く同じように僕らも人生で同じことやってるんですよ。
実は台本があって、人生っていうのは脚本があって、出来レースなんですよね。自由意志ないんで。
だけど自由意志があるかのような前提で、人生を一生懸命頑張っているのが僕らなんですよ。これが眠っている神様状態っていうことですね。
占いとかが当たるとか、スピリチュアルのリーディングで未来が読めるっていうのは、シンプルに考えてほしいんですけど、なんでそういうことが可能なのかって言ったら脚本があるからなんですよね、言ってる通り。
単純な話、脚本が全く一切なかったら、こんな風に未来予知とか言い当てるとかっていうのはできないんですよ。
単純に考えてほしいんですけど、すごい実存主義的な発想でね、人間一人一人に無限の金添えっていうか、何をするにもその人の自由みたいな、そういう自由意志が100%内蔵されているとしたら、
もうそこから導かれる未来の展望っていうのは、もう可能性が複雑っていうか、もう無限すぎて、それを予知するとかできないじゃないですか。
だからそういうことが可能なのは、星星座とかの動きで運勢を言い当てることがある程度、改善性があるのはできるのは、
台本があるから、脚本があるからってことなんですよね。
だからこの映画の台本を運命って言い方をしてもいいと思うんですけど、そういうものが存在するから未来予知ができてる、成立してるわけなんですよ。
で、さっき言ったインドの聖者ですよね、マハール氏、マハラジラメ氏とか、この辺の人たちは、ラメ氏かな、
人間とは肉体精神機構であるっていうふうなズバリな断言をしてるんですけど、だから人間は要は生命機械なんだよっていうプログラミングされている、そのように自動で動くだけの生命機械なんだ、生命ロボなんだっていう言い方をしてます。
自由意志はないよって言ってるんですよね。
これが人生とはすでに書かれた脚本の通りに再生されている映画であるっていう話です。
自由意志の幻想
ここを、その映画のキャラクターが見破ることができたら、これは悟りっていう現象なんだと思うんですよ。
だからタイタニックのジャックが、ジャックはその自分がタイタニックっていう映画の俳優の役の一人っていう自己認識は絶対ないわけじゃないですか、ジャックはジャックだと思ってるじゃないですか、自分のこと。
だけども、どっかのタイミングで、あ、これ映画なんだみたいな物語なんだっていう、タイタニックは絶対沈むし、それはもう避けられないんだっていう。
で、自分は一生懸命運命を変えようと翻弄してるかもしれないけど、それは結局全部デキレスで決まったことなんだっていうふうに、メタ的に気づいてしまう。
そういうことが人生っていう場面で起こった時に、それはいわゆる悟りって呼ばれる境地になるんじゃないかなと思うんですよね。
で、ここまで聞くとちょっとネガティブっていうか絶望的な話にも聞こえかねない話だと思うんですけど、でも実は僕は自由意志ないとは思ってないんですよね。
自由意志が本当になかったら、じゃあ自由意志がないとしたら、人生って何なんだって言ったら運命論なのか決定論なのか、何か人生であれこれ頑張ることって全く意味がないのかって言ったら、僕は全然そうじゃないと思うんですよ。
なぜなら、どん底のところで自由意志あるっていうことだからなんですよね。
さっき言った自由意志がないっていう話は、あくまでもその映画のフィルムの中での話だったんですよね。
そのタイムラインでの話というか。
三次元的な自由意志はないよ、幻想だよ、すべて決まってるよっていう話なんですよ。
この三次元的な自由意志は幻想なんだよっていう話だけで言えばですね、
農科学の分野でベンジャミン・リベットさんの実験とかが結構有名ですけど、このくらいだったらスピリチュアルだけ、スピリチュアルの領域じゃなくて、もう現代科学の領域だけでかなりの程度、すでにですね、証明されているって言ってもいいレベルで証拠が実は揃ってるんですよね。
そういうのを読みたい方はおすすめの本がですね、社会心理学講義っていうちょっと難しい本にはなるんですけど、すごくいい名著なので、もし興味ある人はこれ読むとかなりの程度、自由意志マジでないんだなっていうところに納得がいくような本になってるんで、もし読みたい人はすごく名著なのでおすすめですね。
で、三次元的な自由意志っていうのは、だからもう奇跡講座や、さっき言ったね、科学的な根拠も揃ってるし、インドの各社たちもそう断言してるし、奇跡講座もそう言ってるしっていうことで、三次元的自由意志っていうのはあるようで実はないんですよね、本当に。
なんですけど、じゃあ決定論なのか運命論なのかって言ったら、それは実は違って、じゃあどこに自由意志があるかっていうと、撮り終えた映画のフィルムの中では、だから映画はもう撮り終わってるんで、映画の内容を変更することはできないんですけど、その映画そのものを選択する自由はあるよっていう、実はこういう話なんですよね。
パラレルワールドっていうのがあるじゃないですか、それとも関わる話だと思うんですけど、撮り終えたビデオテープの内容をいじっくることはもうできないんですよ、それはすでに撮り終わっていて変更不可能で、人生っていうのはそれを再生して追体験することしかできないんですよ、三次元的な自由意志はないからね。
意図的な現実創造
だけど、じゃあどこに自由意志の余地があるんだいって言ったら、そもそもどの映画を見るか、体験するかっていう、そこにあるっていうことなんですよね、この部分を選択できる自由が実は僕らにはあるんだっていうことなんですよ、だってなぜなら僕ら神だからっていうことなんですよね、これが意図的な現実創造と呼ばれることなんですよね、意図的な現実創造。
あの、エイブラハムとかバシャールとかの宇宙存在たちはね、この辺のことを伝えてくれているんですよ、ずっと、望みなさいって言うじゃないですか、好きな現実を望みなさい、そして望んだものを自分でクリエイト、創造して、そして遊びなさいっていうふうにずっと言ってくるんですけど、
それはこういうことですね、映画の内容自体はもう撮り終えていて、すでに変更不可能で、それは台本の通りに進んでいくんだけど、その最中でもね、その体験に、体験が好きじゃなかったら居心地が良くなかったら、もっと居心地の良い映画にジャンプすることができるんだよっていうことなんですよ、
パラレルワールドシフトみたいなことですね、並木さんも言いますけどね、これ、これが多分ね、5次元意識であり、並木さんのいう新銀河人類っていうことだと思うんですよ、自分が宇宙の中心であって創造主だったんだっていうことですね、
並木さんが言うのはね、YouTubeのチャンネル、見るチャンネルを切り替えるように、現実も自分の見たい現実を見ていいんだよっていうように、そのくらいの気楽さでね、話してると思うんですけど、
3次元的な自由意志はありません、ないんですけど、どの映画を見るか、味わうか、体験するかは、実は僕ら選べる、そういう潜在能力を誰もが持ってます、なぜなら、本当は神様だからねってことです。
で、ここも意図的な現実創造ですから、ちゃんと眠りから覚めて、だから眠りっていうのは台本とか運命に操られている状態ですね、自分にその映画を、だから映画の中のキャラクターだと自分が思い込んじゃって、その役割を必死にこなしているような状態が眠ってるってことなんですけど、
そうじゃなくて、タイタニックの例で言えば、ジャックがそのメタ的になって、あ、これ、自分、あの、なんだ、ジャックはいいか、ちょっとわかりにくくなっちゃうんで、なんか自分は映画のキャラクターの一人だったと思ったけど、実はそうじゃなかったんだっていう、映画を見ている主体が本当の自分なんだ、
で、この体験している映画って、居心地いいかな悪いかなって改めて考えたら、ちょっと居心地悪いな、なら、あ、実は自分神だから、その、何、映画をそもそも変えることができたんだ、じゃあそうしようって言って、つまり意図的にタイムラインを移動する、現実を創造するってことです。
ここまでできたら、おそらくそれはね、マスターと呼ばれる、人生のマスターですよね、人生をマスターしたっていうね、そういうレベルになると思うんですよ。
以前から結構ね、スピリチュアルで、なんか現実創造系と悟り系と、そういう潮流というか、なんか方向性がなんとなくあるなぁと思ってたんですけど、それはこういうところだと思うんですよね。
悟り系は、あ、そうか、これそもそも映画で夢なんだっていうのを気づく、活発するのが悟り系、そこを目指しましょうよっていう、で、意図的な現実創造、自分自身で望む現実をクリエイトしていきましょうよっていうのが現実創造系、引き寄せ系だとかね、そういう感じじゃないかなと思うんですよ。
うん。で、多分、話はね、こういうことだと、僕は現時点で思ってます。
なんかね、ここまでの暫定的な考えを、ここまで喋って共有して今日は終わろうと思うんですけど、なんかこの状況がね、僕はすごいね、悔しいなっていう気がしてるんですよね。
自分がその映画のキャラクターの一人であることにずっと気づかないまま一生を終えるっていう、要は眠ったまま、催眠から目を覚ますことのないまま人生を終えてしまうっていうのがすごいね、僕はね、ちょっと嫌なんですよね、多分。
なんか悔しいなっていう、神様が仕掛けた催眠ゲームみたいな、自分で自分を眠らせて、催眠をかけて、眠って、体験型アトラクションみたいな感じで楽しんでるのがおそらく人生なんですけど、
なんかね、その催眠を解かぬまま人生を終えるのがすごいね、ちょっと悔しい気がしていて、今後も色々学びを深めたいというか、いう風に思っているところなんですけど、そんなところで今日はシェアが目的なので、話はこの辺にしてね、ちょっとあんまり結論ないまま終わらせてもらおうかなと思います。
なんかね、もしいいなと思ったり、共感していただける部分があったら嬉しいなと思います。感想なんかもね、レターで気軽に送っていただけたらとても嬉しいです。
というわけで終わりにしたいと思います。どうもお聞きくださりありがとうございました。