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ただ、この率直で透明なやりとりというものこそ、今の日本社会で最も難しい、で、おそらく日本社会だけでないですね。
洋の東西を問わず、そのようなことがいろいろ起きているんじゃないかなと思うんですけれども、とりわけですね、いわゆる先進国と言われるようなところはそうなのかなと思いますが、
なんかですね、やっぱりコミュニケーションのコストが大きくなりすぎている感じはしますよね。
で、それはいいところもある。例えばコミュニケーションが雑だった。昭和の時代とかめちゃくちゃ雑だったと思うんですよ。
そうすると何が起きるかというと、対罰が起きるんですよね。
言うことを聞かないんだったら殴って聞かせるっていう形のコミュニケーション。言葉で悟すんじゃなくてね。
痛いから言うことを聞くっていうコミュニケーションっていうのは、やはり原始的ですよね。
だって体が痛いっていう不快な感情を申すので、相手の言うことを聞くっていうのは、理解して、なるほど相手の言うことに利があるなと思ってやるっていうのは全然次元が違うじゃないですか。
校舎のコミュニケーションとしては高度ですよね。
我々経験的に知ってますよね。そういう高度なコミュニケーションが通用する場面、相手ばかりではないよなっていうね。
だからそのような対罰が曲がり通ってきた。今はさすがになくなってきましたし、例えばスポーツの世界なんか一つ見てもですね、もう今本当に驚きますよ。
バスケットボールなんかは高校の段階でもね、1年生が3年生にため口を聞くようなチームの方が強いっていうわけですよ。
そういう自由な雰囲気の中で実力を伸び伸びと発揮できるようなチームが全国で優勝したりすると。
規律に基づいてですね、組織的なプレイをするみたいなところよりも強いっていうわけですよ。
いやー、びっくりしますけれども現実なんでしょうね。
そういうことっていうのは往々にしてあって、そもそも効果があるとされる規律っていうものにしたって、別に昔から日本にあるものではないし。
ざっくりとした理解で言うとやっぱり明治以降なんですよね。
欧米の文化、とりあえず系欧州ですけど、文化が取り入れられる中で、例えば大罰はイギリスの軍隊から持ち込まれたっていうふうに論文には書いてありましたね。
ですし、日本にもともと大罰ってないんですよね。
逆に日本って腹切り切腹っていうね、超大罰があるんですけど。
ただあれは、イギリス式の軍隊式の殴って言うことを聞かせるっていうことと違いますからね。
死んじゃうから、また別のものなんですよね。
そういうコミュニケーションのあり方っていうのは、確かに現代になればなるほどより繊細なものになっていて、
おかげでパワハラとかセクハラっていうものに対してはみんなすごく敏感になって、結構なことではあるんですよ。
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いやいや、もちろん問題もありますよ。何でもかんでもハラスメントっていう時代になってきて、その生きぐらしさにはね、本当に多くの人が結構モヤモヤしたり悲鳴を上げたりしてると思うんですけれども、
ただ他方、大仏罰とかそういう理不尽なことってどんどん減っていってるんで、基本的に理屈が好きな私としては大変生きやすいなと思ってるんですけど、
ただもう生きづらさも感じていて、それはやっぱりみんなが、理屈で動くというよりはコミュニケーション自体を避けるようになったようなっていうことなんですよ。
コミュニケーションをした上で、こちらに理があるからそうしようっていうふうに話が進むのではなく、コミュニケーション自体を取りやめることによって、それぞれがそれぞれに何かをしていくっていうね。
さっきのバスケットボール文にしてもですね、民口を聞いてるっていうのはやっぱりそこにコミュニケーションがあるってことじゃないですか。
だけど多くの日本社会っていうのは口を聞かない。
1年生の部員から3年生の部員に対しては口を聞かない、逆も渡し狩りっていうね。
なぜならなんか口を開くことがリスクを生むからですよ。
リスクマネジメントとしてあんまり何にも言わないほうがいい。
それが一番自分の身を守るというような態度が目立つように私は思ってるんですよね。
なんかそういう社会のあり方みたいなのが、日本テレビ小学館を挟んだ原作者と脚本家のやり取りの中でもあるいはあったんじゃないのかなっていうことですね。
まあやっぱり率直に思いますね。そこを何とかもう少しうまくできなかったのかなという。
だけどこれは本当に読むと身につまらされる話で、みなさんぜひ読んだほうがいいとは思いますね。
こうやってこういう悲劇が起きてしまうのだっていうところにもっと自覚的であったほうがいい。
コミュニケーションを取らないことでこんなにその不信が膨らみ、最終的には人が人になくなるような事態に至っているっていうことの重みっていうのはですね。
重くそしてもうすぐにでも自分の身の回りでも起きるっていうようなそのリアルさがあるんですよね。
いやー、私散々話してきましたけどこれだけの繊細な作品を書けるような方ですからね。やはりこの人の気持ちとかっていうのに関しては一番敏感なところもあったんじゃないかなと想像するんですよ。
いろいろと思うところはあったでしょうね。あるいはその情報がない中で想像が膨らんでしまった部分もあったのかもしれませんしね。
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よくないですね。こういうのはね。やっぱり私はそういうお互いに、この世の中って本当に脳悪人ってあんまりいなくて、みんな結構良かれと思っていろんなことやってるんですよ。
ただそれが考え方が違うんで衝突が起きるんですけれども、そりゃしょうがないじゃないですか。人によって違うっていうのはね。
またこういう決めつけというかあんまり良くないなと思いつつも、それが割と生まれ育ちとかで規定されている。
子供の頃に置かれた環境であるとか経験によって、何が良し何が悪いっていうような判断って決まっていくもんだなと思っているんですね。
典型的には食べ物の味とかそうで、味噌の味とかね。日本人ならそうですよね。
味噌、どういう味噌が好きかっていうのは、私は赤だしが好きですけど、それは愛知出身だからであって、みんな自分が慣れ親しんだ味が好きなんですよ。
それをうまいと思っている。
同じように自分が経験してきた中でこうすべきだっていうふうに判断したことを自然にやっているのは人間だと思うんですね。
で、それがだから異文化から来た人とは対立したりすれ違ったりすると。
そうなるとですね。もうその根っこの部分で良かれと思ってやったことっていうのの最初の思った部分っていうのを理解する以外にですね。
対話は不可能だと思うんですよ。
相手の気持ちを勝手に避かってはダメで、それは所詮自分という心の中に移っているものでしかないから。
聞いてみると何考えてもわかんないんですよね。ただその聞く相手と話す。
しかもその本音を話す。本音を話してもらうっていうことのハードルは過去に例がないぐらいハードル高くなってるんだと思うんですよね。
だからその昭和のコミュニケーションは雑でしたけれども、逆に結構みんなシンプルだったわけですよ。
何々をするな、何々をしろみたいな感じですよね。なぜなら私が不愉快だからみたいな感じではあると。
そこを隠してしまうことによって無限に想像が膨らんで余計悪くなってしまうみたいなのが今の世の中のコミュニケーションのあり方だと思うと、そこを何とかしたいですよね。
わかれば相手が何でこういうことをしているのかってのがわかれば、そんなに腹が立たないってことはあるのに言わないってことはたくさんあるんですよね。
昔ある記者が私が出した記事が一面に載らないって言って怒ってたんですよね。
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ただそれはどうしてかっていうのをその判断をした人に聞くとですね、その記事を一面に載せるということによってその記者に対して書いた記者に対して起きるリスクを減らそうと思ったからっていう、あんまり細かい説明はできないんですけどのがあったんですよ。
別に間違った記事を書いてるとかじゃないですよ。ただまあそういうその時の情勢的には、今ここでそういうふうに大きく取り上げるよりも、これはこれとして掲載をしておいた上で将来につなげていくというのが最善だっていう、ベテランならではのやや広い視野に立って判断している。
ただそれ言ってないんですよね、当該の記者にね。言わないのにも理由はあるんですよ。やっぱりいろいろその複雑な事情が絡んでくる。だけどまあやっぱりそれは言うべきだったんだろうなっていうね。これがね、結果的にその記者を何か傷つけるようなことになったとしても事実を言った方が良かったのではないかなっていうようなケースは周囲にも散見されるなと思いますね。