でも僕からすると、ここも中心地な、南区っていうバイアスがなければ感じしますけど、ここ住んで何年ぐらい?
この場所に来たのは実は3ヶ月前なんです。
最近じゃないですか。
最近。だけどパリには取材でもう何十回も来てるから、パリのことは知らないわけじゃないんだけど、やっぱり生活してみないとマチって覚えられない。
住んでみてやっと、今まで朧げに見てた光景が、パズルみたいにハマってきた感じがします。
私も宮下さんの御著書とかも拝読して、やっぱりもう中身はもとよりですけど、どうしても仕事柄、僕も本を書いた人とかのプロフィールとかをすぐ見ちゃって、
そうするとスペインとフランスを書店に活動されたり、アメリカに留学されたり、僕はそういうのに憧れてできなかったタイプなんで、
スペインも個人的にも大好きで、バスク地方でもサンセバスチャン行ったりとかすごい好きなので、
まさにスペインとフランスを股にかけて、世界を股にかけてやってるんで、それだけでもすごく惹かれるんですけど、
ジャーナリストって一口に言っても日本でずっと続けてる方とか、出張で海外に来たりとか、いろんな方いると思うんですけど、
そもそも、シンプルに、なぜジャーナリストになろうと思ったのか、そして、なんで日本じゃダメだと。
一番これはね、子供の時代に遡らなきゃ、ぜひもならないんですけど、小学生の低学年の時に金曜ロードショーとかあるじゃないですか。
ああいうのを見てて、テレビのリモコンで複音とかって、あれを使ってて、あれ?と思って、何で急にこの人たち違う言葉喋ってるんだろう?ってなったんですよね。
その時に、なんか自分の言葉じゃないって思ったんです。この言語をこの人たちと喋れるようになりたいなっていう漠然とした思いがあって、
それで小学校の高学年ぐらいから自分で英語を勉強し始めて、その時にもうなんかこう、親が、この子供は英語が好きそうだから英語の単語帳とかを買ってあげようみたいな感じになって、
お風呂でも濡れても大丈夫っていう単語帳を買って、それでラジオも濡れても大丈夫だ、ラジオっていうのがあって。
それでNHKの英語放送とか聞いてたんです。それでもう英語がすごいハマっちゃって、中学に入った時に中学1年の英語がすごい楽だった。
中学3年になった時に英語弁論大会っていうのに出たら、長野県で優勝。
すごい。いきなり。
その頃から自分は本当に英語が好きなんだなと思って、アメリカにしてみたいっていう思いがあった。
で、高校の時にアメリカに1年留学しようかなと思ってたんですけど、後ろの父親が、高校の1年の留学を選ぶか大学を選ぶかどっちかでしょって言われて、
その時にやっぱり長くいたいから大学を選んだんです。それであえてアメリカの大学の推薦がある高校に入ったんです。
それを前提に逆算して。
そう。進路希望調査を3年間、3つの希望を書かなきゃいけないんだけど、3つとも全部アメリカの大学を3年間書き続けたんです。
すごい。
それでいよいよアメリカに行って、アメリカに行ったら今度はまた別の言葉の人たちが集まってるんだな。
この人たちの言語も覚えたいなと思い始めた。
別の言葉っていうのは英語以外っていうことですか?
英語以外です。スペイン語をしゃべる友達がすごいたくさんいたから、スペイン語を学び始めたら、南米かヨーロッパのスペインに行きたいなと思った。
実際に交換留学生というか、アメリカの学生としてアメリカ全土から集まった人たち100人でスペインに行ったんです。
スペインに1年間留学してスペイン語を話し始めたら、アメリカと違ってスペインのすごい熟した文化、人間の親しみ深い性格のスペイン人とか、ご飯も美味しいし、
なんかちょっと日本と似てるとこもあるなと思って、付き合いやすかったんです。
どんどんハマって、いろんなところで予報するようになったら、スペイン語がけっこうペラペラしゃべる友達だった。
そうは言っても大学、アメリカに戻って卒業しないといけないから、1回アメリカに戻って卒業して、またスペインに行きたくなって、スペインの大学院で勉強した後に、
その頃に本当は最初は、最初の大学院で勉強したのは国際関係とか国際機関の大学院だったんですけど、
ジャーナリズムまでは行ってなかった。
ジャーナリストになりたいって思ってなかった。
今の話を聞くとね、どちらかというと言葉とか。
人と交流することがすごい好きで、いろんな世界の人たちとの交流を繰り返していくうちに、
最初は国連とかそういう国際機関で働きたいなと思ったんですけど、大学院が終わる頃に、
本当に自分は組織で働くことが向いてるのかって考えたときに、あんまり自分は向いてないなと思って。
昔から輪の中に入れない子供だったんですよ。
輪の中に入ってみんなと同じことをやるくらいだったら、全く違うことをやりたい、輪の外に出たいっていう難しい子供だったんですよね。
今振り返ればね。
大学院が終わるときに、やっぱり国連とかそういうのも向いてないかなと思って、
じゃあ何をしたいのかと思ったときに、いろんな人たちとの交流を、
例えば自分が見てきてる世界を伝えたいって思い始めたんです。
そのときにどういう仕事があるかって言ったら、ジャーナリストっていう仕事があるかなと思ったんで、
最初はスペインの現地の新聞社に入りたいと思って、
大学院卒業した後に現地の新聞社に少し入ってやってみて、
それからさすがにあの時代って給料がすごい悪いんですよ。
ちょうど何年ぐらいですか?
2001年とか、ちょうど通貨が変わるときだった。現地通貨。
ユーロの前は何でしたっけ?
スペインはペセタ、フランスはフランス。
そこからユーロが導入される年、その転換期にいたんです。
まだユーロがすごい弱い、経済力のない国っていうのはヨーロッパの中にたくさんあって、
その一つがスペインだったんですね。
そこでお金を当ててもあくっていけないから、スペインの月刊誌とか週刊誌っていうのをやりながら、
日本がすごい活気に満ちてた時代になって、
日本の週刊誌とか月刊誌とかをやりながら、その後はフランスに住んだんですけど、
フランスに住みながらそういう仕事をして、
そうしてジャーナリストになったわけです。
そうなんですね。
いろんななり方とかあると思うんですけど、まずジャーナリズムだったわけじゃない?
自然にジャーナリストになったパターンで、最初からジャーナリストを目指したんじゃなくて、
自分が生きてきた過程で、いろんなものを見て伝えたいっていう思いが自然と湧いてきたんです。
それ以外にどういう仕事があるのかって探した結果として、ジャーナリストって、
そうか。
肯定的というか。
ジャーナリストになることが目的というよりも、
手段ってちょっと誤解あるかもしれないですけど、結果としてそれが。
不思議というか、今の話が浮かっていると、
最初から海外に対する、
さっきもスペインで記者やろうと思ったとか、
さらっとおっしゃいますけど、
もう当たってたからっていうのもあると思いますけど、
あんまり海外に対する、
単刀直入で言うとビビるとか、
さすがに日本人だから無理じゃないかなとか、
そういうのって全く昔からそういう意味でイフしてるとかなかった。
今それを振り返ると、
ものすごい単純な子供で、
やりたいことをただやる。
人と同じことは絶対したくない。
人と同じものを買いたくない。
同じ服も着たくない。
本当に問題主というか、
もう厄介な子供だったんだなって今は思うんですよ。
だけど、その鈍感さがあったというか、
そういう行動をしてても、
周りから見たらすごい変なことをしてる子供かもしれないんだけど、
気づいてなかったっていうのもあって、
今も高校の時の同級生の友達が、
たまたまバルセロナで出会って、
その彼が今パリに遊びに来てる。
彼にも昨日言われたんですけど、
高校の時からあんまり変わってないよねって言われて、
もともとすごい自信過剰で生きてきたみたいだけどって言うのが出て、
確かにそういうふうに見られてたのかなっていう思いは、
今思うとあり、
自分をそれでも信じてやってきたっていう、
その鈍感さ、自信過剰なのかもしれないけど、
気づいてなかった。
やっぱり、相当子供の頃とか浮いてました?
めちゃくちゃ浮いてました。
あえてステレオタイプに伺いますけど、
今みたいな時代でもないじゃないですか、
多様性じゃないけど、
その中で我を貫く、
そして長野県の東京のど真ん中とはやっぱり違うわけですよね。
そうするとその中で、もう一人で世界を見てるじゃないですけど、
なんか部活やってたとかもないんですか?
そこでも集団の組織な感じじゃないですか?
集団です。
確かに。
だけど脇役にはなりたくなかったです。
なるほど。
やるんだったら一つ違う。
一番自分が満足できることをやりたいと思ってたから、
もちろんずっとエースとか、
それ以外のことは考えられない。
ちょっとなんか、やっぱり日本人っぽくないですね。
だから多分いろんな意味で失ってきたものもあるんだと思うんだけど、
そのことはあんまり気づいてない。
根幹なところがある。
でもやっぱりさっきのね、一つの最初のターニングポイントで、
災害に行きたいとか、いろんな英語とかっていうときに
お父様が高校行くか大学行くかみたいな、
差し支えになれば、ご両親なんかどんな感じの方で、
例えばお父様も、やっぱり勝者で海外いろいろ行ってたとか、
どんな感じからこの宮下幼稚園生まれるのかな?
長野の田舎で、普通に周りが田んぼがある町で生きてきて、
親も長野市の人で、生まれ育って普通のサラリーマンをやってて、
まさかそういうところから、さすがに勝者の人とか東京にいっぱいいるような、
そういう両親とか。
違う典型的な長野の田舎の人なんです。
ただ、日本でバブル真っ只中だった時代に、
脱サラをしてるんです。
父親も自分を信じてたんだと思うんですけど、
それで起業をしたんです。
近場近だったと思います。
バブル真っ只中で、
中心雇用制度の一番時代で、
会社にいればどんどんお金もよくなっていくわけで、
そういう時代にもかかわらず、
あえて仕事は自分でやりたいことをやるから会社辞めるって言って、
38歳で辞めて、就業したんです。
その父親が言うには、
僕は長男だから、田舎では日本的に言うと、
長男が会社を継ぐっていうのが当たり前、
みたいな風潮があるんですけど、
そういうことよりも、
確かに後継者がいないということで、
何年も何年も悩んできたんだけど、
自分の父親はずっと僕に言ってたんです。
自分が好きなことをやって起業して、
会社を作って、今こういう人生になっただけであって、
自分がやりたいことをやった。
だから、お前も好きなことをやって生きろって言ってくれたんです。
うちの父親は父親の人生を歩んで、
一つの物語だったわけですよ。
だから、それを僕はやりたくないんだったらやる必要はない。
自分がやりたい人生を歩めって言ってくれたから、
こういう生活が今、自分でやりたいように生きてるのかなと思います。
めちゃくちゃ素敵なお父さんですね。
背中を見て育った感じですね。
その中で、いわゆるジャーナリストになられて、
もう30年近いんですか?こっちで。
仕事を始めて2003年ぐらいから始めてるんで、
20年目ですね。キャリアは20年目で、
海外生活は1994年からなので、来年で30周年。
今まで帰りたいとか、今の感じでホームシックはなることないんじゃないですか?
ホームシックは1回だけなったことがあります。
それはなぜ?
アメリカの大学1年目でホームシックにならずに、
日本に帰ったんですね。
帰って日本で夏休みを過ごした後に、
今度はアメリカの学生としてスペインに行かなきゃいけなかった。
その時に一人で成田からシアトルに飛んで、
シアトルからニューヨーク空港っていうのがあって、
そこから100人のアメリカ人学生が集まって、
みんなそこからスペインに行く。
その時に、全く知らない世界にこれから一人で行くんだと思った時に、
シアトルのホテルで、
あと1年間は日本に帰れないんだなと思った時に、
帰れないって思っちゃった時に、
すごいホームシックになって、
でもそれ以外全くない。
その時はちょっとしばらくホームシック?
ホテルで数えましたよ、あと何日で日本に帰るか。
ちょっと今の宮下さんからは想像つかないですね。
自分でもあのホームシックって何だったんだろうなと思って。
でもまあなんとか乗り切って。
スペイン行っちゃったらもう日本に帰りたくないみたいな話になっちゃって。
宮下さん聞きたいこといっぱいあるんで、
どっから伺おうかなと思ったんですけど、
でもやっぱりね、今の話伺うと、
僕なんかもずっと英語勉強してもなかなか、
海外で長く暮らしてないんででもありますけど、
6カ国語?
6カ国語って何ですか?
日本語、スペイン語、フランス語、英語。
カタルニア語。
カタラの語。
ポルトガル語も日常会話少し。
2年くらい前からは中国語勉強してて、
中国語も少しずつ。
よく言うじゃないですか、
1カ国語学ぶと次は特に欧州の学びやすくなるとか、
あと同時に学んだほうがいいとか、
この辺って宮下さんの感覚的にはどうです?
3行けば行ける。
3?
3行けば4。
え、3行けば4って言うのは、まず3カ国語できるようになるってこと?
日本語含めて。
日本語、英語まで行けますよね、普通。
その次の言語をちゃんとしゃべれるようになれば、
その次の言葉はコツがつかめちゃえるんですよ。
必要な動詞が何なのかっていうことが、
なんとなく頭でわかってる。
それはやっぱりヨーロッパ圏の言葉の…
似てる言葉だからっていうのもあるかもしれない。
かなり近いって言いますよね。
そうそう。
それもあるんだけど、
例えば今中国語勉強してても、
絶対に日常会話で必要な動詞とかっていうのは、
もう頭に入ってるから、
言葉の繋ぎ方とか、
そういうものをもう何十年も自分で考えて生きてきてるから、
日本人は多分3カ国語をまずできるようになれば、
そういうこと大事って。
耳の人と目の人っていうタイプだから、それは一概に言えないんですけど、
僕はどっちかっていうと耳で育ってきたから、
そういうふうに思うのかもしれない。
だけどそういう人じゃない人も実際にいるわけで、
どうしても目で覚えなきゃダメっていう人。
その人はその人たちなりのすごい強い長所があるわけで、
僕なんか耳で生きてるから、目で育ってないから、
その分目で生きてる人が持ってる才能っていうのは、
僕が持った一生行ったんですよね。
一つだけ言えることは、
日本の外国語教育っていうのはコンプレックスを作ってしまう。
いろんな人たちをこの30年間海外で見てきたんですけど、
外国語に関しては優等生だろうが、
勉強が全然できなくても関係ないんです。
だからそれで英語のテストができる人が
英語を学べるようなふうにしてしまうのよりも、
全然勉強はできないんだけど、
もしかしたら外国語の能力がめちゃくちゃ高い人たちがいるはずで、
そういう人たちを切り捨てちゃうっていうのは良くない。
極端な例を出すと、東大の生徒が英語をペラペラ喋るかっていうとそうじゃない。
大学を出てない人が英語を喋らせたら東大生よりも上手い。
こんなのいくらでもあるわけで。
テスト勉強によって、
あなた英語はできないんですよって言ってしまうことは本当に良くない。
そうですね。
いつもインタビューをご視聴いただいてありがとうございます。
この度スタートしたメンバーシップでは、
各界のトップランナーから戦争体験者に至るまで
2000人以上にインタビューしてきた僕が、
国内外の取材、そして旅の中で見つけた
人生をアップデートするコンテンツをお届けしていきたいと思います。
ここでしか聞けない特別インタビューや、
地蔵トークにもアクセスしていただけます。
随時、これは面白い、これは良いんじゃないかというコンテンツも
アップデートしていきますので、
そちらも含めてどうか今後の展開を楽しみにしていただけたらと思います。
なおいただいた皆様からのメンバーシップのこの会費はですね、
インタビューシリーズの制作費だったり、
国内外のインタビューに伴う交通費、宿泊費、
その他取材の諸々の活動経費に使わせていただきたいと思っています。
最後になぜ僕が無料でインタビューを配信し続けるのか、
少しだけお話しさせてください。
一番の理由はですね、僕自身が人の話によって
うつや幾度の困難から救われてきたからです。
そして何より国内外のたくさんの視聴者の方から
これまで人生が変わりました。
毎日進む勇気をもらいました。
救われましたという声をいただき続けてきたからに他にありません。
この声は、世界がコロナ禍に見舞われた2020年頃から
一層増えたように思います。
これは本当にありがたいことです。
ただ、同時にそれだけ心身共に疲弊したり、
不安を抱えたりしている方が増えていることに
かならない、その裏返しであると僕は強く感じています。
正直に言えば、かつて僕自身も15年以上前に起業して以来、
最大のピンチといっても過言ではない時期を
この数年送り続けてきました。
でもこんな時だからこそ、森に入ることなく
インスピレーションと学びにあふれるまだ見ぬインタビューを
送り続けることがインタビュアーとしての
自分の使命なのではないかと強く感じています。
世界がますます混迷を極め、先の見えない時代だからこそ
僕はインタビューの力を信じています。
これまでのようにトップランナーや戦争体験者の方への
取材はもちろん、今後は僕たちと同じ姿勢の人、
普通の人の声に耳を傾けたり、ややもすると
打ち抜きになってしまう、今こそ海外でのインタビューに
力を入れていきたいと思っています。
そして彼らの一つ一つの声を音声や映像だけでなく、
本としてもしっかりと残していきたい、そう考えています。
そんな思いを共感してくださる方が
このメンバーシップの一員になってくださったら
これほど心強く、そして嬉しいことはありません。
ぜひメンバーシップの方でも皆さまと
お耳にかかれるのを楽しみにしています。
以上、早貝大平でした。