怒りたくないと思っても怒ってしまう
グッドバイブス ミッドナイト楽座 by 倉園佳三
こんばんは、ただいま6月21日水曜日の午前2時54分ですね。
随分と暖かくなってきましたね。
今日私は大歓山のティーサイト、スタイアがあるところですね。
あそこの外のテラス席でワントレをやってきましたね。
随分5時ぐらいからいたんですけどもね。
ワントレが7時から始まって、9時ちょっと前ぐらいまでずっといたんですけども、
ちょっと肌寒くなったかなという時間帯はあったんだけども、
基本で過ごしやすい、まさにこの外が過ごしやすくなってきたと。
私は8月生まれですんでね、もうすぐ誕生日なんですけどね。
やっぱり寒いよりも暑い方が好きだし、
動きやすいかなという、そういう感じがしていますね。
今日は前回ね、2つのテーマのうちどちらを話すかみたいな、
ちょっと迷ってたみたいなお話をしたんだけどね。
前回は責任を手放すという話。
これはボイトレの中で出てきた話だった、テーマだったんだけども、
もう1つのね、グループセッションの方で出てきた話題。
こちらがですね、怒りたくないっていうね、ありますよね。
怒りたくないけど怒ってしまうと。
これはですね、やっぱり人それぞれでしてね、
怒りたくないと思っている方もかなりの数いらっしゃいます。
これは私のワントレとかね、それから今回のオンライングループセッションとかでも、
本当によく出される悩みの1つというかね、問題の1つなんですよね。
そうかと思えば、いやもう怒るのは仕方なくない?みたいなね。
こんな感じで、大して気にされていない方もいらっしゃるでしょう。
あるいはね、もうちょっと先というか、
いやいやそもそも怒らなければ問題は解決しないじゃんとかね。
人は行動を変えないじゃんとかね。
何か問題があったら声を上げて怒ると。
これが1つとても大切なことなんだという、
わりと怒るということを前向きに捉えている方もいらっしゃいますよね。
だから今日の話題はですね、そんな中でも、
これはだからやっぱり人を選ぶんですよ。
しょうがないじゃんっていう方はね、
多分それほど気にしていらっしゃらないと思うし、
そもそも怒りというのはね、とても重要なツールなんだと思っている、
手段なんだと思っている方にとってはね、
ありえない話、今日の話はね、になるでしょう。
でも結構実は多いんですよ。
怒りたくないという方がね、
そんな傾げのお話になります。
怒りたくないのに怒ってしまうというね。
私もまさに、
ミドリの本、グッドバイブス、ご機嫌な仕事でもね、
この部分は相当ページを裂いて、
怒りとは何かっていうお話をしただけあって、
僕は怒りたくないと思っています。
実際もう本当に怒っていないなという実感はありますね。
10年ぐらいは怒ってないだろうなって感じがします。
微かなイラつきはね、ありますけどね。
特にね、車の運転とかしている時にね、
危ないなんかバッと飛び出しとか来たら、
やっぱりついね、バカ野郎と心の中で怒鳴ったりね、
場合によっては口に出して、
危ないなとかって言っていることもありますよね。
そういうイラッとした、
ちょっとほんの一瞬のイラはなくなりはしませんけども、
いわゆるこの人間関係の中でね、
もう真正面から怒るというようなことは、
おかげさまでね、
ほぼほぼ下義務になったかなという感じがします。
怒りの正体とは何か
だからこれは全然不可能なことではないと私は思ってますね。
僕はものすごく怒りっぽかったですからね。
いつも怒ってましたから、
そんな私でも10年怒らずに過ごせるということはですね、
この取り組みは本当にそんなに難しくないんですよ、実はね。
ただその、この何ていうのかな、
これを妨げる要因というのはたくさんある。
これは事実なんですね。
でも幸いね、その妨げる要因というのは外にあるのではなくて、
全て僕の心の内側にあるんですね。
だからこれはね、その何ていうのかな、
周りの環境とか人間関係とかそういうものをね、
一切この触ることなく、
私の心の中にあるこの邪魔する要因というかな、
怒りを手放すというこのトライをね、
邪魔する要因さえなくなってしまえば、
本当に何で怒ってたのかなみたいなね、
そんなふうに思えるぐらいスカッとここは解決できるんですよね。
何よりもやっぱ怒ると疲れますよね。
エネルギーをものすごい使う。
なんか僕はこの60年生きてきて、
いろんなことをやってきてね、
エネルギーを費やす様々なこの試みというか行動というのをね、
経験したことがありますけど、
怒りほどこの多くのね、
労力、エネルギー、そして時間もかな、
費やすものはないなという実感がありますね。
やっぱりそして1日中、ほぼ1日中、もう短くて1日中、
長い場合は1週間から1ヶ月、数ヶ月ぐらいね、
やっぱ暗い気持ちで過ごさなければならない。
で、やっぱりその仕事とかね、
私で言うとこの創作活動、
こういうものに多大な影響をこうもたらすわけね。
で、それで何を得られたかっていうと、
ほぼほぼ何も得られていないし、
失うことの方が多いかなという感じがしますね。
そしてやっぱりこの十中八九ね、
どんなにその僕の方がね、正しいと思っていたとしても、
この怒りをぶつけたというその行為自体にね、
どうしてもこの罪悪感を抱いてしまうわけですね。
で、いつもお話ししているように、
この僕ら本来の自分、価値マックスというのはですね、
これは罪悪感がないという状態でもあるわけね。
要は無垢、イノセントということなんですよ。
要は真っ白ってことなんですね。
そこにこの罪の意識っていうのが入り込んでくると、
そこに黒いシミがね、ずっとこうついてしまうような感じ。
これを僕らは見てしまうから、
とてもじゃないけど私は価値マックスと思えない。
そして他の人にもこの罪の意識を見ますからね。
僕の周りにいる人がとてもじゃないけど、
価値マックスには見えないというね。
一番僕はここが大きいと思っています。
さっきのエネルギーを費やすとかね、
暗い気持ちで過ごすというのは、
まあまあそのなんていうかな、許容範囲というかね。
というのもこれ、冷めればまた元に戻りますからね。
だからまあそこはいいだろうなと思う。
でもこのやっぱり罪悪感を抱くということだけは、
やっぱり放っておけないということですよね。
じゃあどうすればいいかと。
毎年何度かもうこの問題はね、
この番組で取り上げているんですが、
これまでのお話はね、
多くはその頭の中でね、
この負のストーリーを作り出さないというようなね、
そこに重きを置いていたんですけども、
いやどうしてもそれをやっちゃうんだよねと。
このストーリーを作らないっていう理屈はわかるんだけど、
やっぱどうしてもこのカチンと来た時にね、
怒りを手放すためのアプローチ
なんてひでえ奴なんだ、
なんてひでえ話なんだっていう、
やっぱストーリーをどうしても作ってしまうと。
だからここで頭ではわかっているけど、
やめられないという場合は、
もっと根っこの部分に目を向けなければ
うまくいかないわけですね。
今日はそのあたりまで踏み込んでみようかなと思います。
まずですね、最初の入り口はですね、
怒りとは何かっていうのを、
やっぱり一度真剣に考えてみるっていうね、
これがすごく大切だと僕は思います。
この表層のところというかね、
なんとなくあまり深く考えずに、
怒りって何って考えたら、
僕らは多分ですね、
もうこの悪に対する正当な攻撃というように
多分見ているはずなんですね。
何かその正さなければならないものが目の前にあるんだと、
それが他の人の言動であったりね、
組織の運営であったり、
まあ様々なね、
それを放っておいてはいけないと、
こういう時に僕らは怒りをぶつけるんであると、
まあこういうね、
なんとなくこのまさに一番表で見えやすいところ、
怒りの正体というね、
この怒りとは何かの答えとしては、
なんとなく悪に対する正当な攻撃、
このように見ていますよね。
世の中一般にもそのように捉えられているんじゃないかなと思います。
でもね、よく考えてみると、
なぜその間違いを正すのにね、
怒鳴る必要があるのか、
言葉を荒げる必要があるのか、
相手の行動を正したり、
組織のやり方を改善する、
これが目的であれば、
やんわりとそれを話し合うというね、
それじゃ絶対に直らないって言うかもしれないんだけども、
本当にそうかと、
なぜここで怒りというね、
フォーマットというか、
この形を取る必要があるのかっていうと、
やっぱりこの間違いを正すからだよとかって言うだけでは、
説明できないような気がするんですね。
話せばわかるっていうのもあり得ますからね。
実際に自分に置き換えてみた時に、
必ずしも怒られなければ、
あ、わかりましたって言ってね、
行動を改めないかって言ったら、
そんなことはないですよね。
やんわりと優しく、
ちょっとこうしていただけないでしょうかって言われる方が、
むしろね、
あ、わかりましたって非常に受け入れやすいんじゃないかなって気もするわけ。
だからやっぱりここにはね、
もう一つ何か目的があるんじゃないかと僕は思うわけね。
しかもですよ、
もしこれがね、
本当に正当な攻撃っていうふうに自分で認識できていたら、
これは悪に対する正当な攻撃なんだと、
この怒りというのはね。
そのように自分でしっかりと認識できていたとしたら、
そもそも今日のお話のね、
最初起こりたくないとかっていう悩みが生まれるはずないんですね。
これはやっぱり、
多分そうじゃないんだろうなっていうことを自分でね、
わかってるんですよ。
だからできれば起こりたくないと言ってるわけですね。
怒らなくても多分物事進められるはずなんだという、
ある種の自覚があるんですよ。
だからここで怒りとは何か、
もっと真剣に掘り下げてみる。
ここで一つのヒントはね、
怒られると私はどうなるんだっけっていうのを思い出してみるんですね。
何度も怒られたことあるなと、
その度に必ず私の心に沸き起こるものは何か。
これはもう罪悪感ですよね。
怒られると多分例外なく、
どんなケースであろうと僕は罪悪感を抱くと思うんですよ。
つまりここでわかってくるのは、
怒りとはですね、
相手に罪悪感を抱かせるための行為ということなんですね。
これを何ていうのかな、
こう受け入れるというかね、
その通りだなと思うのはものすごく難しいかもしれない。
でも多分そうでなければ起こる必要はないんですね。
ただただ行動を改めるとかね、
状況を改善するという時に、
ここに怒りのフォーマットを持ち込む必要はない。
ここで起こるということは間違いなく私の中にね、
怒りは相手に罪悪感を抱かせる手段
相手に罪悪感を持たせたいというこの願望が必ずある。
つまり怒りとは相手に罪悪感を持たせるための手段ということになりますよね。
しょうがない。ここをまずですね、
しっかりとこの認識しておくこと、
ここを受け入れておくことが、
この怒りを手放すということ、
試み、取り組みにおいてはものすごく重要なんですね。
これがなんとなく見えてくるとね、
次はじゃあ、
なぜ、どんな時に僕らは相手に罪悪感を抱かせたくなるのかっていうね、
次の問い、
次のこの踏み込みというかね、
ここに行けるわけですね。
これは私は二つあると思っています。
一つはこの番組でも時々お話しする投影というやつですね。
プロジェクションラッピングとか私が呼んで、
あんまりいい言葉じゃなくて、
最近言わなくなったんですが、
要は僕らはね、
自分が罪悪感を抱くとやっぱり苦しいわけですよ。
なんだかのね、
そうするとどうするかというと、
まずはこれを抑え込むみたいなことを努力もするんだけども、
それができないときには、
自分以外の何かに自分の罪悪感を投影するわけですね。
まさにこのプロジェクションマッピングの映像を相手に浴びせているかのようにして、
自分の罪悪感を誰かもしくは何かに投げるわけですね。
まずね、
ポンと、
そしてそうするとそれがあたかもね、
今まで自分の中にあったんだけども、
外にあって、
そしてこの外から自分が苦しめられているっていう風に見ることができるんですね。
不思議なんだけどね、
最初は自分の罪悪感だった。
でもそれを持つのが苦しい。
だからこれを何か外にあるものに、
人とかね、
出来事とか、
物の場合もある、
それから環境もあるでしょうね。
そういうものに投げるわけですね。
そしてプロジェクションマッピングのようにブワーッとこの映像を投影するわけですね。
そうすると、
この罪悪感が外にあるように見える。
僕じゃなくて、
他の人たちがそれを持っているように見えるということね。
つまり、
私がここで、
自分が罪悪感を感じたときに、
ここで怒りをね、
くり出して、
誰かに対してそれをぶつけると、
その人が、
さっき言った怒りとは相手に罪悪感を持たせる手段なのでね、
まさに相手がその罪悪感を持ってくれれば、
この僕の中にあった罪がね、
相手という、
その外にあるように見えるということですね。
これが一つ目なんですよ。
投影をするために起こるということですね。
だから最初に自分に罪悪感があるってことなんですよ。
ここがとても重要なポイントなんですね。
つまり、
怒りというのは、
罪悪感なしには起こり得ないということです。
これはね、
間違いないと思いますね。
私も随分と、
罪悪感のない怒りというのはあり得るかっていうのをね、
自分の心であったりとか、
周りの人たちとのやり取りの中でね、
随分と観察してきたんですけども、
例外なくと言ってもいいと思いますね。
罪悪感がまず自分の中にある。
かすかにでもあるんですよ。
ここは気づきにくい場合もあるんですけどもね。
だから私はその、
いろんな場面でね、
この怒ってしまうんですという相談を受けたときに、
具体的なシチュエーションを伺いながら、
最初に罪悪感がなかったですかっていうのはね、
絶対に確認するようにしてるんですね。
ほぼほぼもう十中八九、
これもありましたっていうふうに、
即答で答えていただけます。
場合によっては、
分からないっていうケースもある。
その時はいろいろ、
二人で話しながら探っていくと、
やっぱりあったりするんですね。
これが直接その時じゃなくて、
過去に持った罪悪感がそこで出てくるみたいなケースもあってね、
ちょっと分かりにくいんだけども、
まあでもだいたいその十中八九、
そのやりとりの中で自分に少し追い目を感じている。
この時に僕らは怒りを使いやすいということですね。
で、どのように使うか。
今話した通りですね。
僕が怒れば相手が罪悪感を抱いてくれる。
それによって自分の中に最初にね、
抱いてしまったこの罪悪感を外に投影することができる。
相手の罪なんだなっていうふうに、
見ることができるということですね。
罪悪感を投影することで怒りを外部に向ける
例えば、僕が仕事の中で上司から渡されたミッションがあって、
それを例えば期限が守れなかったり、
頼まれたその質が担保できなかったね。
言われた通り、依頼された通りのものを完成させることができなかった。
この瞬間僕はもう既に罪悪感を持っているわけですね。
でもこれをね、例えばすごく説教されながら、
何やってんだよとかって言われているうちに、
この罪悪感を抱えきれなくなった途端、
これを、いやいや、お前の栽培がおかしいんだよっていうふうに、
この外に投影をしてしまうわけですね。
この時僕は怒っているわけです。
で、怒ることによって、相手が上司の場合はね、
怒鳴りつけるなんてことはできないんだけど、
僕は態度でそれを示すことができるんですね。
はい、はい、はい、みたいな感じでね。
これをやりながら、相手に罪悪感を抱かせようとしているわけね。
そして僕の罪が外にある、お前の罪だよ、みたいな感じで、
こう見ることができたら大成功というね、
これは基本、成功はしないんですけどもね、
これをやりたくなっているということ、これが一つですね。
要は今、なぜ、どんな時に相手に罪悪感を抱かせたくなるのか。
一つは投影。
これはですね、これをやる相手っていうのは、
下手すると自分から離れていくことがあるわけですね。
僕が怒りをぶつけているわけだからね。
いやいや、もうクラザの勘弁してよ、つって。
その関係が非常に壊れやすくなる。
だから割とこれを覚悟して、僕はやっているってことね、この時はね。
まあそうですよね、外にその罪があるというふうに見たいわけだから、
投影した相手は私にとってはもう悪になってしまうんでね。
こいつには近寄らないって、
こちらからごめんだよっていう関係になってもいい相手。
多くの場合はここにこの投影が使われるということね。
これだけでも本当はいいんですけどもね。
なんとなくその僕がですね、おとといこの話をちょっと躊躇したのはね、
この二つ目の話をするのがあんまり気持ちよくないっていうか、
あんまりこの話はしたくないなっていうのがあるんだけども、
でもこの怒りを手放したいというね、この取り組みを成功させるためには、
どうしてもやっぱりここを避けて通るわけにはいかないんですね。
これはですね、さっきの私の罪を外に投影して、
相互の罪悪感のやり取りによる関係の維持
こいつ悪だと見る、こんなやつ近づきたくねえやと思ってもいい関係ではない、
もっと親密な関係の中で行われる罪悪感の一つの使い方なんですよね。
要はですね、これはもう本当恋人とかパートナーとかね、
夫婦とかね、そういうごくごく親しい間柄で交わされるこの罪悪感のやりとりなんですね。
分かりやすいように最初ね、よくあるこの例え話みたいなのから行きたいんだけど、
そうですね、あるプロダクションに所属する人気のタレントがいたとします。
その人は相当ね、このプロダクションに利益をもたらしている人気タレント。
この人が独立を考えました。
社長にね、この契約の更新の時に、そんなわけで独立したいので、
今年で契約を打ち切りたいと、更新しないでやめさせてくださいっていうふうに話したとしますわね。
当然だけども、この稼ぎ頭を失いたくない社長はね、
いやいやもう一度考え直してくれよとかって説得するわけですよね。
いや何だったらギャラもアップするからみたいな感じで提案するんだけど、
タレントはそのお金欲しさに独立を考えているわけでもないので、
何かね、一つ自分のもう第二の人生なのかわからないけども、
別の可能性を模索しなくて独立を決意した。
だから全くこの決意は揺らがないわけですね。
そうすると、このいや全然絶対に独立させたくないっていうふうに考えている社長がね、
ここでどんな手を打ってくるかっていうのをちょっと考えてみてほしいんですね。
おそらくこれはよくあるワイドショーとかでも聞く話なんだけど、
おそらくこの社長はね、最後の最後は、
いやいやお前が今のようなスターになるまでに、
一体俺たちがどれだけの時間と労力とお金をお前にかけてきたと思ってるんだと、
注いできたと思ってるんだみたいなことで、
ある種怒鳴りつけるような感じでこれを言うんじゃないかなって僕は思うのね。
そうするとどうなるか。
このタレントはまずすごく大きな罪の意識を抱きますよね。
だってこれは事実だもんね。
きっとその時間と労力確かにかけてもらったな売れないときに、
随分とその宣伝にお金かけてもらったり、
いろんなタイアップを打ってもらったりとか、
番組にバーターで出演させてもらったりとか、
ここの社長さんには本当にお世話になってるよなと。
これがきっと僕が売れないときは赤字だったんだろうなみたいなことをね、
現実としてこの人は知ってますからね。
それを言われたらものすごい罪の意識を抱いてしまいますよね。
場合によっては、これも多くの場合、
多くの場合こういうことが起こるんだろうと思うんだけど、
この重さね、この罪の重さに耐えきれずに、
もう涙を飲んでわかりました。
じゃあもう数年頑張らせていただきますみたいなことで、
プロダクションに残る選択をするってことがあり得ますよね。
こんなふうに話すとごくごく普通の話のように見えるんだけども、聞こえるんだけども、
僕はこの社長は意図してこの手を打ったっていうふうにやっぱり思わざるを得ないのね。
意図してこの一つの洞窟みたいなこのセリフの中に、
罪悪感を持たせようという意図が多分あったんですよ。
これがその意図と言いながらもほぼほぼ無意識のうちにやってしまうんだけどもね、
僕らはこのやり方を知ってるってことなんですね。
つまり、罪悪感で人をつなぎ止めることができるというこういうやり方なんですよ。
だからこういう時よくお前恩を忘れたのかとかって言うんだけど、
これ内心ではお前罪悪感持たないのそれでっていうふうに多分言ってるんですね。
これを僕らはさっき言った恋人、パートナー、夫婦、ものすごく親密な関係の中でこれをやってるんだってことなんですね。
要は相手に罪悪感を持たせて自分から離れないようにするというある種の捨て身のやり方ですよね。
これは片方がやってるというよりも相互にやるので、
僕らはお互いにこの仕組みに関しては基本的に見ないようにしようというコンセンサスが取れてるんですよ。
罪悪感を使った関係の仕組み
だから二人とも恋人であろうと夫婦であろうとパートナーであろうと意識の下にこの罪悪感の仕組みを隠してるんですね。
だから気づかない。
でもここに確実に怒りというのが絡んでくるので、
さっきのプロダクションの社長が怒られつけたようにここに怒りというのが必ず生まれるんで、
もしこれを手放したい、この怒りを手放したいというのであれば、
僕らがこの人間関係において使うこの罪悪感によって人をつなぎ止めておこうとするこのやり方っていうのをやっぱり見に行かなくてはいけないんですね。
おそらく僕らは幼い頃から無意識のうちにこの手法を使ったり使われたりしているんだと思います。
じゃあこれ具体的にどういうプロセスを踏んでこの罪悪感で人をつなぎ止めるということを僕らがやっているかというと、
おそらく最初の一歩はどちらかが私はこの関係の犠牲になっているっていうこの心象を作り出すんですね。
犠牲というとすごく強い言葉に聞こえるかもしれないんだけども、
ほんのちょっとしたこの人のせいでたくさん動かされているとか、
私の方がすごく労力を費やしているんじゃないかとか、
あと我慢を強いられてるんじゃないかとかっていうこういう感覚、
これはでもやっぱり犠牲になっているという感覚なんですね。
これを最初に作り出す。
そして次にその犠牲になっているというこの感覚からいわゆる何らかの攻撃を繰り出すわけですね。
相手にね。
これは人によって様々でしょう。
怒りをぶつけるあるいは不機嫌に過ごすというのもありますよね。
それからもう話をしなくなるとかね。
コミュニケーションを立つみたいなね。
こういう感じ。
要はこれ全て相手への攻撃なんですね。
そしてこの攻撃は目的はさっきと同じように相手に罪悪感を抱かせるというのがこの攻撃の目的ですね。
ここに怒りも入っているわけです。
そうするとどうなるか。
さっきのタレントと同じようにこの攻撃された方はね、
罪悪感を持ちますわね。
そしてこの関係の犠牲になっているというこの主張というのは、
さっきの社長のお前にどれだけの時間努力とお金をかけたんだというのと同じでね。
2人の間では確かにそうだなと分かるようなものであるわけ。
だからこれをね、これを理由に攻撃されたこの相手はね、
どうやってもやっぱりこの罪悪感を持たざるを得ないんですね。
そうすると、なるほどと。
僕もね、もし僕がそれを言われたとしたらね。
ああ、そっかそっか。
僕の相手は私とね、その人のこの関係の犠牲になっているんだと。
それをこの人はね、怒りをぶつけたり不機嫌に過ごしたりしながら、
私にそれをね、見せているんだと。
当然僕は罪悪感を持ちますね。
攻撃と罪悪感の関係
すまなかったなと。
これは罪悪感は罪の意識ですからね。
ああ、俺の罪だなと思うわけです。
そうすると当然だけども、私もね、
この恋人やパートナーともしくはその結婚相手と同じ犠牲を払って、
この罪をあがなわなければならないって感じてしまうわけですね。
そうすると僕はそのために、その相手といるという選択をするので、
2人はこれで一緒にいるっていうことが叶うわけですね。
僕は相手を犠牲にしてしまったんだと、そして罪悪感を持ったんだと。
そうかそっか、僕も同じくらいの犠牲を払わなければならないって言って、
その人と一緒にいるという選択をせざるを得なくなるわけね。
これを私はですね、罪悪感の鎖というふうに呼んでるわけですね。
非常に強いというふうに僕らはこれを信じていると思います。
でもこれ、さっきのね、社長とタレントと同じように、
これをやるとどうなっていくかというと、
体は同じ空間にいるんですよ。
さっきのタレントもこの事務所に所属しているわけですから、
社長のいる空間の中にいますよね。
そしてこの恋人、パートナー、一緒に住んでいるとすれば、
同じ家という空間にこの体は一緒にいるんですね。
でもここで僕らがやっているのは、攻撃をして相手に罪悪感を抱かせる、
そしてその罪を贖うということで一緒にいるという、こういうやり方をしているので、
心はどんどん離れていくんですよ。仕方ないですよね。
おそらくこのさっきのタレントもこの社長のやりとりを通して、
残るという選択をしたとしても、おそらく相当心は離れているはずですよね。
これはもう代償なんですね。
この罪悪感で人を繋ぎ止めるという、これをやってしまうと、
体は同じ空間にいるんだけども、心は離れていくという。
そして僕らはそれを知っているんですね。
ある種ここを犠牲にしているんですよ。
もうまさにここを犠牲にしているんですよ。
その時どういう風に捉えるかというと、
心というのはそれぞれ個人的にパーソナルなもんだよねと。
そんなものはそもそも共有できっこないんだから、
そこはあまり問わないようにしようと。
でも一緒にいるというこの関係が壊れてなければいいよねっていう風に、
とてもセカンドベストどころか、おかしな選択をしてしまうわけね。
さらにこれをやるとどうなるかというと、
僕らはどんどんコミュニケーションをしなくなるんですよ。
なぜかコミュニケーションをして話し合ってしまうと、
この仕組みが表に出てしまうんですね。
どういうことかというと、
ここにもさっきの社長とタレントの例が当てはまるんだけども、
この話の中でさっきはタレントが強い罪悪感を感じて、
分かりました、じゃあ残りますと言ってしまったんだけども、
ここで彼が一個ぐっと踏みとどまって、
コミュニケーションと愛の代替
ちょっと待ってくださいと社長と、
今あなたは私にどれだけお金を費やしたか、
どれだけ努力を費やしたかと言いながら、
僕に罪悪感を抱かせようとしてませんか?
そしてそれによって僕をつなぎ止めようとしてませんか?
ってこの問いを立てたとしますよね。
なかなかこれを言えることじゃないんだけど、
これをコミュニケーションということで彼が口にしたとする。
そうすると社長は、いやいやそんなことはないよ、
そういう意味で言ったんじゃないと言わざるを得ないですね。
というのも僕らは攻撃をまともに相手にぶつけたら、
それはもう全く人間関係を壊してしまうということを知っているんですよ。
だからここに必ず何らかの逃げ道を用意しておく。
いやそうじゃなくて、
お前に残ってほしいからこのようなことを言っているんだ、
君のためを持って言っているんだっていうね。
これは何かというと、
これがこの罪悪感の鎖の正体なんだけど、
愛の代替っていうかね、
愛の代わりにこれを使っているんですよ。
本当はここは愛でつなぎ止めておくということが多分僕らにはできるんだけども、
そこを信じていないのでね。
でも正面からの攻撃は絶対に愛に見えないということを僕らはちゃんと知っているから、
愛に見えるような逃げ場っていうのかな。
ここをしっかりと用意しているんですよ。
でもこれはコミュニケーションをすると、
そちらに持って行くしかなくなってしまうんですね。
予想だよ、罪悪感いだけよっていうふうにまともには言えない。
それを言ったら攻撃になってしまう。
これはお前を愛していないぞって言っているのと同じなのでね。
これは関係が壊れるやり方なんだっていうことを僕らは十分承知している。
だからもしここを突かれたら、
いやそんなことはないと、
いやどれだけ僕が君を大切に思っているかということを言いたかっただけなんだよっていうふうに
話を持って行かざるを得なくなって、
もうこの罪悪感の鎖というのが使えなくなってしまうんですね。
だから僕らはこれをやってその繋ぎ止めているという関係においては、
コミュニケーションをすることをとても恐れるわけです。
本当のことが表に出ないようにしなければならないというふうに思っているんだね。
もっと言うと、これをじっくり話し合うとですね、
許してしまう可能性があるんですよ。
というのも、僕はいろんな事情を知らない。
相手に対して、俺はこの関係の中で犠牲になっていると思って攻撃をする。
そうすると相手が、いや実はっていろんなことを話してくれる。
それを聞いているうちに、
いやそれなら仕方ないかもっていうふうに許してしまう可能性があるわけ。
そうするともう相手に罪悪感を抱かせることができなくなりますよね。
これを成長に恐れているわけです。
だからこれをやり始めるとですね、
次第に次第にラブラブだった関係の時から比べるとね、
どんどんどんどん腹を割って話をするというかね、
心の底を打ち明け合うみたいなコミュニケーションの頻度がどんどんどんどん少なくなっているはずです。
だからここは一つの目安なんですよね。
なんか俺たち最近全然話さなくなったなとかね、
なんか部屋に一緒にいるんだけど、
まるでそれぞれ個人が勝手なことをしていると、
そういう関係になっているなあという時はですね、
おそらくこれは体は同じ空間にいるんだけども心が離れ、
そしてコミュニケーションをすること、
そしてコミュニケーションを通して相手を許すということ、
ここを非常に恐れているということ、
つまり罪悪感の鎖を使ってしまっているということ、
ここに一つ気づく大きな目安になるんじゃないかなと思います。
もっとシンプルに言うと、
例えば相手に申し訳ないことをしたなと思って、
この親密な関係の中で罪悪感を持った直後というのは、
ものすごい優しくしなきゃまずいなって思うじゃないですか。
これなんですよ。
これは相手にとってはよっしゃっていうことになりますよね。
ということは、僕に罪悪感を持たせれば持たせるほど僕は優しくなると、
そしてこの人から離れられなくなるという関係が気づかれるわけですよ。
悲しいからね。
これが要は愛の代替っていうことなんですよ。
愛の代わりに罪悪感を使っているんですね。
残念ながらね。
ここをしっかりとね、
そうかと、僕らはこの人間関係において、
親しい関係、特に親しい関係ここにおいてね、
愛の代替、この代わりに、
多分ね、僕らはその愛をあまり信じてないんですね。
だからここに愛は頼りにならんと、
愛なんてものは心がかりするし、
そう長く持つもんじゃないっていうふうにどっかで思ってるんでね。
だからもっと強力な鎖はないか、
ここで見つけたのが罪悪感なんですね。
これはおそらく子供の頃から、
この鎖を多分使われたり使ったりしてきたからなんですよ。
知ってるんですね。
ここに一つ目を向ける、見たくないけど、
ここをですね、自分とその親しい人との間に、
これを自分がやっていないか、
そして相手もその手段を用いていないかっていうのを、
よく一回ね、確かめてみるというのが大切だと思います。
で、これがね、この二つが見えてくると、
ここから対策が浮かび上がってくるわけですね。
結論として、罪悪感がなければ僕らは起こることはできないし、
起こる必要もないということね。
罪悪感を自分に投影せずに怒りを解放する
それから、罪悪感を愛の代わりに用いなければね、
この怒りという相手に罪悪感を抱かせる手段、攻撃ですね、
これを使う必要がなくなるということ、
この二つをしっかりと認識しておくということですね。
これが最初の前提というかね、
なるほどねと、怒りと罪悪感の関係というのは、
そういうふうになっているんだなというふうに、
この認識を持っておくこと、これが前提になります。
そして具体的にどうするか、
気をつけておく場面というのが二つあるわけですね。
一つは投影です。
自分が罪悪感を持った時に、それを自分以外の外にね、
これを投げて、そしてそこにある種の映像を映写してね、
あたかもこの罪悪感が外にあると思いたいと、
こう感じている時、ここでこれまではね、
僕らはもう瞬時に怒りの対象は外にあるというふうに、
もう見出してしまっているわけですね。
投影をしながら外を見始めている。
だから怒りの対象が自分ではない、
外にあるというふうに見出していたんだけども、
今までお話ししたね、この仕組みを紐解いてみると、
いや違うぞと、この怒りの根本原因は、
私の罪悪感にあるんだというふうに、
内側に向けることができるわけですね。
そうするとね、大抵はですよ、その場で、
ここに自分の追い目があるなというかね、
ここに自分の罪悪感が、
微かにかもしれないけどあるなということに気づけるわけですね。
相手に怒りをぶつける前に、
これは罪ではないというふうに言うわけです。
相手に罪悪感を持たせる攻撃をしない
ここに関してはもう少し後で説明しますが、
怒りそうになっている時に、相手を見るのではなくて、
最初にこの怒りを生み出している、
私が抱いた罪悪感は何だというふうに、
自分の心の内側を見る習慣をつけるということです。
これがまず一つですよね。
それから二つ目、これが罪悪感の鎖ね、
相手をつなぎ止めておくために、
相手に罪悪感を持たせるという、
この試みも怒りを感じた時に、
これをやろうとしていないかというふうに気づく。
これが第二のポイントですね。
これは大事な関係の中で僕らはやりがちなので、
最初にこのトライをする、
怒りを手放すトライの一番最初に、
婚輪罪、私は愛の代わりに罪悪感を持ち入れるのはやめる、
というふうに宣言することが重要です。
それをしておいて、今やっていないかという、
この怒りを感じた時に、
これは罪悪感を持たせて優しくさせよう、
それから罪悪感を持たせて、
同じような犠牲を払う覚悟を決めさせようという、
これに使っていないかというふうに、
ここにも自分の内側を見るわけですね。
ここは最初の投影と比べると、
随分と僕らは儀式の下に隠してしまっていたので、
なかなかここに気づくのは難しいだろうし、
ここにはやっぱり、
同じ空間にこの人を留めておきたいという、
強い願望があるので、
これは本当に愛なんですよ、実はね。
これが本当は愛なんだということに気づければ、
ここに罪悪感を持ち込まないようにできるんだけどもね、
ここは少し時間がかかるかもしれないし、
何度も何度も失敗しながらね、
なんとなくこのやっていること、
そしてそれがどういうことなのかが分かってきた、
という実感が得るまでには、
しばらく時間がかかるかもしれないんですけどもね、
ここもやっぱりいい関係を築くために、
そして怒りを手放すために、
これに使わないということをね、
トライするためにもね、
怒り始めて、
失敗しても罪悪感を持たずに挑戦する
この大事な人との間に怒り始めた時に、
これは何だ、
これは相手を罪悪感でつなげ止める、
この鎖を作っている、
この試みじゃないのかっていうね、
この問いを立ててみるっていうのは、
一つの悪くないやり方かなと思います。
これがですね、
どんな時にというね、
これに気づくポイントですね、
投影をしようとしている時、
もしくは罪悪感の鎖を作ろうとしている時、
この二つに気をつけておくということですね。
何か怒りを自分の心に感じた時は、
この二つをまず疑ってみるということ、
そして自分の中の罪悪感に気づき、
あるいは持たせようとしている、
罪悪感を持たせようとしているというこのね、
願望かな、ここに気づくということ。
そしてこのね、気づいた時に、
うまいことこの罪悪感を手放せるように、
日頃からですね、
二つのことをまあ心がけておくわけですね。
これがさっき言ったこの罪じゃない、
罪ではないってやつなんだけども、
要は僕の人生に、
罪と罰の仕組みは全く必要ないなって、
これを確信するということ。
そうすれば、
罪悪感を持たないということは、
そんなに難しくありません。
これは、
この番組でも何度かお話ししましたけども、
悪いことをしておいて、
罪悪感を持たないのは極悪だというね、
これはまさに偽りの自分が、
の言い分なんですね。
これも前にもお話ししましたけど、
この偽りの自分というのは、
この罪悪感をベースにしないと、
存在できないんですよ。
だからこの二人のね、
愛の関係の中に、
罪悪感を持ち込もうとする、
これは完全に偽りの自分の仕業なんですね。
こいつは僕らに、
罪悪感を絶対に手放しちゃダメだと言ってきます。
この言い分に耳を傾けないということです。
本当にそれでいいのかと思うかもしれない。
これはさっき言ったようにね、
自分は怒られて、
罪悪感をいだかされないと、
行動を改めないのかっていう風に、
自問してみれば分かるんですよ。
誰も怒られたいと思う人はいないはず。
いや私に何かリクエストがあるんだったら、
優しく穏やかに言ってくれれば、
ちゃんとそれを実行しますからって、
多分多くの人がそう思っていると思いますよ。
中には怒ってっていう方もいなくはないかもしれないんだけど、
少なくとも僕は怒らないでほしい。
怒らないで言ってくれれば、
いくらでもその相談に乗ると思う。
行動を改める。
もし自分が本当にこれは問題だなと思えば、
怒らなくても指摘してくれれば、
しっかりと改められます。
多分多くの人がそれを自覚してるんですよ。
でもここでもう一つ。
でも私はいいのよ、それで。
私には罪悪感なくても、行動をちゃんと改めます。
でも他の人は持ってくれないとまずいのよ。
多分こういう風に思っているはずなのね。
この罪悪感を他の人が持たないというのを、
想像するだけで怖くなりますよね。
だから仕方なく私も罪悪感を持つので、
あなた方もしっかりと持ってねっていう、
このやり方を採用してるわけね。
受け入れてるわけですよ、甘んじて。
でもこれは本当におかしな発想だと思います。
私がそうであるならば他の人もそうだと、
なぜ思えないのかっていうね。
これがやっぱりこの偽りの自分のものの見方なんですよ。
全く信頼していないということね。
だから少なくとも僕には必要ないというだけでも、
この罪と罰の仕組みをね、
自分の人生に持ち込まなくていいってわかりますよね。
だから何があっても罪悪感を持たない。
これでいいわけです。
そして2番目、誰に対しても罪悪感を持たせるような、
攻撃をしないというこの2点。
これを日頃から心がけておくわけですね。
そしてさっき言った2つのシーン、投影するところと、
罪悪感の鎖、これを愛の代替にしようとしているとき、
ここに気をつけて気が付くわけですね。
そうすると、おっとっと、この罪悪感いらなかったなって手放せば、
ここで怒る必要がない、投影する必要もないし、
誰に対しても罪悪感を持たせる攻撃をしないというふうに決意しておけば、
この罪の鎖で相手をつなぎ止めておこうというね、
そんなこともしなくて済むわけですね。
この2つをいつもいつも心がけておくということ。
これによって、僕は罪悪感を手放せば怒りを手放すことができると思います。
もう必要がないですからね。
怒りの目的は繰り返しますけど、相手に罪悪感を抱かせることなので、
私に罪と罰の仕組みが必要ないと確信して、
罪悪感を持たなければね、そもそもそれを投影する必要もなくなる。
当然ですけども、これを愛の代わりに鎖として使う必要もなくなるということですね。
そしてここがね、ものすごくはまりやすい罠なんですけども、
おそらくですね、この試みを偽りの自分は徹底的に邪魔しようとしてきます。
具体的にどうするかというと失敗させるんですね。
つまり怒りを手放そうとしているこの僕に怒らせるんですよ。
そして、この取り組みで怒りを手放そうとしたのに、
なんでまた俺は怒ってしまったんだろうって言って、
罪悪感を持たせるんですね。
これには本当に気をつけなければいけない。
だからこれは一長一短にできることではないというふうにね、
しっかりと認識して何度も何度も失敗しながら、
また罪悪感を持って相手に投影しちゃったよ、
また罪悪感で相手を縛ろうとしちゃったよっていう、
この失敗は何度も繰り返す、そして繰り返していいんですよ。
その度に絶対に罪悪感を持たないようにするという、
ここをしっかりと捉えておかないと、
必ずこの偽りの自分の抵抗にあって、
ここでまた罪悪感を持ってね、
結局この取り組みに挫折するということに、
そういう結果に終わってしまうので、
ここだけはものすごく気をつけておいてください。
これは失敗しても全然かまわない。
そもそも罪はないわけですからね。
ここが大事なポイント、ここを押さえておいてください。
もう一回だけ冒頭にお話したところを繰り返すんですが、
価値マックスというのは罪悪感がないということです。
無垢でイノセントということです。
価値マックスとは愛そのものであるということなんですね。
この私であらゆる人間関係を築いていくということかな。
特にこの恋人、結婚相手、パートナー、
大事な人の前では、この価値マックスであるということ、
愛そのものであるということが、
最もこの関係を確かなものにする唯一の方法なんだと思います。
ここに罪悪感という代替を使わない。
そしてこの愛そのものということで築いた人間関係であれば、
コミュニケーションこそが、
この二人の関係を強固にするものであるはずです。
よく話し、そして心の繋がりが二人の全てなんだという、
ここに立ち帰ることができるんじゃないかなと思います。
これを邪魔しているのが罪悪感ということですね。
そんな感じですかね。
今週末はジャジュンワークがあります。
これは地装製カラス山とオンラインのハイブリッドですね。
書き上げ塾の案内
とてもいい会場ですので、そんなにたくさんは入れないんですけども、
よかったら遊びに来てください。
もしくは遠方の方はオンラインでまたご参加ください。
これも罪悪感を持たずに動くという、
とても重要なキーワードになっています。
このジャジュンワークもね。
そして9月開校の第9期書き上げ塾。
これは佐々木さんとやっている、
もう4年目、5年目に突入するロングランなんですけどもね。
これが今月いっぱいは超早割キャンペーンということで、
とてもお安くなるので、
この機会を待っていたという方はですね、
ぜひぜひこの今月にお申し込みください。
これが本当に一番安いチャンスなのでね。
執筆力の高め方
書き上げ塾もですね、やっぱりこの第9期を迎えて相当進化していましてね。
金風車さんのコラボもありがたいですし、
卒業生の出来上がった書籍を金風車さんから出版していただけるというコラボなんですけどもね。
これもありがたいし、そしてさっき言ったこの邪人を吐くクーポンというのが6枚付いてましてね。
6回6時間、だから36時間かな。
私と一緒にこの執筆の時間をね、過ごすというこういう企画もあるし、
それから6回の講義、月1であるんですけどもね。
ここでリアルタイムライティングというワークをいくつか考案しまして、
その場で書きながらいろんな執筆力を高めていくという
こういう試みもあって、そして以前からそれなりに好評をいただいている私の赤入れ。
濃密な赤入れというのもね、相まってとても充実した内容になってますんで、
ぜひこの機会にですね、本一冊書いてみたい。
あるいは論文とかね、どんな文章でも構いません。
執筆力を磨きたいという方は、なんかこの時代にね、
とても僕は大切な能力になってきてるんじゃないかなと、
逆に思ったりしているんですがね、ぜひトライしてみてください。
罪悪感と怒りの関係
じゃあ今日はですね、まさにこの罪悪感さえなければ、僕らはね、
怒りというものから解放されると。
だからこれは罪ではないと自分に言い聞かせながらね、
一切罪悪感を持たずに、いい一日をお過ごしください。
ありがとうございます。