かき揚げ塾の初回講義の内容
グッドバイです。ミッドナイトラクザー、 by クラザムケイザー
こんばんは。ただいま4月12日、水曜日の午前2時54分ですね。
今日は、かき揚げ塾の初回講義というのが、実は4月9日に予定されていたんですけども、
なぜか今回ですね、新規で参加される方がその9日になかなか出席できないということで、
こういう場合はですね、毎回何人かいらっしゃるんですけども、せっかく6ヶ月やるプログラムですので、
1回目の講義を抜くというのはあり得ないので、個別にオンラインで対応させていただくんですね。
私と1on1というか、私と事務局からのお知らせということで、
矢部聖子さんも出席していただいてるんで、1on2みたいなね、ほぼほぼ1on1セッションと同じような形でやるんですけども、
かき揚げ塾でこんな書き方をするっていうね、3つぐらいの書き方の話と、
それから文章の基本の型というのかな、
簡単に言うとこれは封印してくださいっていうやつなんですけどもね、
これを使わずに書くと、これはこのかき揚げ塾を卒業された後は自由に使っていただいていいんですけども、
一応このトレーニングというか練習の場ということもありますんで、
実際に私もお伝えしているこの封印技っていうのは4つぐらいあるんですけども、
人間止めを使わないとかね、そういうのは日々心がけてますんで、
使わないことの方が多いのでね、これを封印することで何のデメリットもないんですけども、
とはいってもここを卒業してからは自由にそこを、あれですね、
ダイリグボール妖精ギブス、古いかな、巨人の星のね、
それを外してもいいという、この6ヶ月だけはそれをつけたまま封印してくださいというね、
そういう封印の方というのをお伝えして、
そしてその方が半年かけて書く企画のフィックスというかね、
これは私が編集者だった頃によくやってた企画会議というのとほぼ同じで、
一応プロダクトを作るのでね、本といっても一応かき揚げ塾は趣味で、
自分が読めば満足みたいなのは目指してなくてですね、
これはあの今回、去年から提携した金風車さんから発売されますんで、
価格もつくし、そしていわゆる一般のね、
普通の本と同じようにAmazonで売られますんで、
一応プロダクトとしてこれをね、企画会議にかけて、
そしてそれをブラッシュアップするという、
これをやって初回は終わりなんですけども、
今回お一人にそれをやるとだいたい1時間40分ぐらいかな、
今日測ってみたらそのぐらいはかかりましたね。
で、これをやってきて、
で、なぜか面白いことにそのかき揚げ塾に来てくださる方というのは、
かき揚げ塾で勉強する人たちの取り組み
なんか割とこのいい意味でですよ、
いい意味で結構世の中のためになる本をね、
書こうとする方が多いんですよね。
今いらっしゃる方でいうと、
そうですね、ちょっと自分が調子悪かった頃のね、
その出来事、どういうふうに調子悪かったか、
みたいなことはあまりここでは言わないんですけども、
それでちょっとね、なかなか外に出られないとか、
普通の生活が送れないというような時を過ごした方がね、
同じようなことで悩んでいる方に向けてのメッセージであったりね、
そういう本であったり、
それからお医者さんがいらっしゃいましてね、
起立不対称という、朝起きられないとかね、
立っていられないという、
POTSと書いてポッツと読むんですけどもね、
私もその構成をさせていただきながら、
随分とこのポッツに関してはね、
詳しくなったんですけども、
そういうことで、これは朝起きられないから、
なんかすごくだらしない人みたいなね、
仕事場とかでそういう遅刻が多い人とか、
早引きが多い人とか、
そういうふうに扱われてしまうんだけども、
それは決してね、そういう問題ではなくて、
ポッツというこの症状がそれを引き起こしている。
かき揚げ塾で勉強する人たちの著書について
だから自分に合った生き方、暮らし方、
それから働き方みたいなことをね、
おすすめするというような、
素晴らしい本なんですけどもね、
それからソーシャルワーカーの方が書かれた、
いろんなその人がやっている活動であったりね、
まだ世の中に出てないんですけども、
5万とね、5万と言っちゃいけないか、
何冊もこの早く早く出したいなと思う本が、
たくさんあるんですよね。
もう8期ですからね。
その中で参加された方の、
もう少しで完成するという本が山のようにありましてね、
あと最近もうすぐ出る本の中で、
僕らが知らなかった情報という授業という本がありましたね。
これは高校の先生で、
まさに私の頃にはなかった情報という新しい教科、
これを教えている方なんですよ。
これが僕らは知らずに育っているんだけども、
結構大人にとっても大切な授業なんだっていうね、
内容なんだっていうことを1冊にまとめてくれた本。
これがもうすぐ出るんですけどもね、
こういうふうにね、
後ろにいっぱい書いていて、
あとほんの少し、
あと1章2章書くだけで完成という本がゴロゴロあるんですけど、
このやっぱりね、
なかなかこの仕事とか本業がある中で、
この1冊をね、
またもう1回読み直して、
足りないところを書き足すとかね、
いらないところを削っていくみたいな、
この最後のこの工程がね、
なかなかこの手が届かなくて、
もう一歩という本が多いんですけど、
今回参加していただいた今日のね、
方もまたもう見事に、
この世の中にためになりそうな本なんですよね。
この内容はちょっとね、
まだその1個も原稿が上がっていないので、
どこかで変わってしまうかわからないから、
少なくともそのいくつか原稿が上がった時点でないとね、
お話できないなと思うんですけども、
ある中国の文献を題材にした、
まさになんか今の世の中に必要な情報だなという感じの、
そんな本なんですよ。
これをこういう本に対してですね、
私がいつもするアドバイスは、
これは基本的にはその、
世の中に一石を投じる本であるはずなんですね。
許すという概念の違い
多くの方がそうではないような生き方、
暮らし方をしている。
そこに対してこういうふうにしてみたらどうですか、
というある種の提案。
だからちょっと私のグッドバイブスにも似てるわけですね。
こういう時にとかくそういうことを書こうとすると、
そうでない人たちを攻撃するというね、
このモードに入りがちなんですね。
だからやっぱりその、
世の中に一石を投じるという本を書きたいということは、
何らかの問題意識を持っているわけですね、既にね。
そしてその問題を解決するためのノウハウを書こうとしている。
とするとその問題を引き起こしている要因とかね、
なんでそんなふうにしか生きられないのみたいな、
やっぱこういうそのなんていうのかな、
本当はその人たちが一番の読者対象なんだけども、
そうでないもの、自分が書こうとしているものと
反しているものを攻撃してしまうというかね、
そこに怒りをぶつけてしまうという、
これをやりがちなんですね。
で、こうなると僕が思うにですよ、
そういう伝え方もなくはないんだけど、
私はこれをやるとまず届かないと思うんですね。
そして余計な抵抗を生んでしまうんで、
本当に必要としている人がその本を読むことができなくなるというね、
もう多大なデメリットがあるので、
ここを気をつけてくださいみたいなことは必ずお伝えするんですが、
今日の方はですね、
そういう感覚が全くないですねっていうふうにおっしゃっていて、
いやこれはすごいなというそんな感じだったんですけどね、
大体この話をするとそういえば微かにありますね、
怒りがみたいなことをね、
これが返ってくるのが普通なんですけども、
なんていうかこの方の書く本はちょっと本当に楽しみだなという、
そんな感じでした。
そしてこのやりとりを通してね、
やっぱりこの、これをなんていうのかな、
つまり攻撃をしない、そこに怒りをぶつけないというのはやっぱり許すというね、
このいつも私が言っている、いつもじゃないんですかな、
時々かな、時々というのもこの話はね、
本当に受けが悪くてね、
私はもう随分とこれ開き直って、
そこに関してはね、もう気にしないというこの心は一応持ててるんですけどもね、
やっぱりこのかわいいミッドナイトラクザという番組で、
あまりこのなんていうのかな、
受け入れがたい話をするのは気が引けるなという感じはね、
以前はあったんですけども、
そういう話題の一つなんですけどもね、
これがやっぱり関係してるんですよ、ここにもね。
で、前回、前々回、そしてこの最近ですね、
私はその世界の文脈みたいな話もしたし、
本来の私とは何かみたいなね、
これを自分で答えるのではなく、
すでにあるものを知るみたいな話をしたんですけども、
ここともね、この世界の文脈に沿うかどうか、
それに自分を置けるかどうか、
そして自分を本来のままその受け入れられるかどうか、
本来のね、自分というその姿というか、
答えを受け入れられるかどうかも、
このやっぱり許すというところがね、
非常に大きなポイントになっているんですね。
だからこの話題からは、私はこのポッドキャストではね、
ポッドキャストだけじゃないかな、
最近はもうあらゆる活動において、
ここから逃げないというかね、
どれだけ受けが悪かろうと、
強い抵抗をね、持たれるかもしれないけども、
ここからは逃げずにお伝えしていこうかなと思っていまして、
今日もあの真正面からね、
この話題に取り組んでみたいと思います。
そしてまずですね、この許すという話は、
この前提でいくつかお話ししておかないと、
すでにね、いろんな概念がここには組み込まれていて、
僕らの先入観というかね、
そういうものもありますんで、
まずはこの前提なんですけど、
この私がグッドバイブスの中でお伝えしている許すは、
まず漢字がちょっと違うんですね。
一般の許すは言文の許可というこっちを使うんだけども、
攻撃をしないことの重要性
私は御舎の舎という、赤辺っていうんですかね、
赤を赤辺とは呼ばないのかな、
舎というね、これを使って許すというふうに表示しています。
これはその漢字の意味はね、僕にとってはどうでもよくて、
要はこの言文の許すとは別物だというね、
この意図をお伝えしたくて使い分けているんですね。
一般のこの言文の許すはおそらくだけども、
それは確かに罪だと認識したままね、
多めに見てやろうという、見逃してやろうみたいなそういう行為ですね。
だから無罪方面じゃないんだよな、無罪じゃないんですよ。
有罪なんだけども多めに見てやろうみたいなそんな感じね。
これは前にも言いましたけど、
これができるのは多分ですね、力の大きい人が、
力の小さい人に余裕で下さ判断みたいなね、
こんな状況でしか多分できないと思うんですね。
この逆は多分ないでしょうね。
だから例えば上司が部下に、
まあいいよ今回は多めに見てやるよ、これはあるんだけども、
部下が上司に、わかった今回は多めに見ましょうみたいなことはまずできないし、ないでしょうね。
だからこれは本当に力関係が非常に大きく左右左右をするというのと、
それからこの許すは許す方の気分にものすごい大きく左右されるんですよ。
なんかその機嫌が良ければね、まあいいや今回いいよ、あったあった、
これから注意しろよみたいな感じなんだけど、
ひとたび機嫌が悪くなるとね、
同じことでもなんかすごいすごく言われるみたいな、
だからこういうこの気分に左右される不確かな行為、
これがなんか僕にとってはね、
そしてこの力の差が必要な行為、
これを言文の許すというふうに私は見ていて、
言うまでもなくね、これをお勧めしているわけではないんですね。
赦すことで得られるメリットとは?
もう一つの私がいつも使うこの赤のね、恩者の謝の許すはどういうことかというと、
まず罪と罰というのは人が作った仕組みであるという、
この認識が重要なんですね。
そしてそれは前回、前々回とかでお話ししたこの本来の私ね、
愛そのものである私にはふさわしくない、
まずね、まずこの私、この本来の私にはふさわしくない、
必要ないという、これは意思なんですね。
こんなものがなくても大丈夫だという意思なんですよ。
そして次に、だとしたらこの他の人ね、
本来の他の人、僕以外の人にもふさわしくない、
必要とない、必要ないという意思なんですね。
これはその同時にね、この私の、本来の私の定義、
私とは愛によって作られた、
この宇宙の真羅万象と一つにして同じ価値を持つ、
愛そのものであるというね、
これを確信するということでもあるんですね。
この許すというのはこれを確信するという行為でもあるわけ。
なぜならば、もしあなたと私が一つだとしたら、
あなたを傷つけることは自分を傷つけることに他なりませんよね。
あなたを悲しませることは私を悲しませることと同じなんですよ。
一つであるんですからね。
そんな馬鹿げたことはしないと、
こういうことはしないよという当たり前の判断、
これができますよ私はという自分への信頼なんですね。
あなたと私が一つなら、その私であるあなたを傷つけたりはしない、
そんな馬鹿なことはしないよ、この僕はという、
こんな判断ぐらいできるよねという信頼っていうことですね。
怒りの正しい認識とは?
これが私にとってまず一つの定義です。
まあ整理するとね、
罪と罰は人が作った仕組み、
それは本来の私には必要ないというね、この意思ですね。
これが第一。
そしてもう一つは、僕らの怒りというのは、
自分の罪悪感を相手に投げることで生まれるという正しい認識っていうね、
これ相手正しいよってここで使いますけどね。
これね、例えばそうだな、
これ以前にもお話ししたんでね、
あんまり詳しくはちょっと今日はやらないんですけども、
結構前にある相談者がいらっしゃいましてね、
これは1on1のセッションの相談者だったんですけども、
その方が周りの人にどう思われてるかを気にして、
なかなか言いたいことが言えないというね、
こういう悩みを抱えていたんですね。
悩みというか課題ですね。
これを何とかしたいですねっていう話だった。
で、セッションをやりながらその人がね、
なんとなく何か言えるようになってきましたねっていう、
このいい感じになってきた頃に、面白いんですよ。
そういう頃に事件は起こるんですよね。
小学生の息子さんがいたんですね。
で、この息子さんが友達と遊んでね、帰ってきた。
そしたら、僕は本当はサッカーがしたかったとね。
でもみんながその日ゲームばっかりして家にいて、
なんかつまんなかったよみたいなことを話したらしいんですよ。
その時に、その方はね、お母さんなんですけども、
めったに怒らないと子供をね、
子供を叱るようなことはあんまないんだけども、
その時にものすごく腹が立ったらしいんですよ。
で、どうしてそれをはっきりね、その時言わないで、
こんなもうみんながいない、帰ってきたからぐじぐじぐじぐじ、
そこで文句を言うんだっていう風に怒ってしまったらしいんですね。
でもその方はその瞬間、そのぶわっとこう言った瞬間に、
あ、これはかつての自分に腹を立てているんだっていうことがわかったらしいんですよ。
つまり、自分の罪悪感ですね。
赦さないことで被る損失とは?
これを小学生の息子さんにこう見てしまっていたんですね。
これがまさにね、その僕らの怒りというのは、
自分の罪悪感を相手に投げることで生まれるという、
まさにその良い例なんですよね。
だとしたら、このお母さんにとってね、
この息子さんのこの言動ですね、
これを許すということは、
そのまま自分の罪悪感を許すことと同じになるわけです。
で、普段僕らはこのような認識を持っていなくて、
投げてしまった罪悪感は自分の外にあると思い込んでしまうんですね。
だからそのさっきのお母さんというと、
自分とは関係なくね、
息子さんが何か言いたいことも言わずに、
かえってグジグジ言っているという、
息子がそのような行動をするから、
自分は腹を立てたというふうに思ってしまうわけ。
これを私は間違った認識というふうに呼んでいるわけですね。
あえて正しい間違ったというふうに呼んでいるのは、
この認識をね、正す方がいいと思うからなんですね。
これは外にあるのではなくて、
もともと自分の中にあったもんだというこの認識、
これが私にとっての正しい認識なんですね。
心象を見ずに現実を見るということでもあるかもしれない。
で、許すことによって、
僕らはこの正しい認識を持てるということですね。
あ、この私が許しているのは相手ではないんだなと、
私の罪悪感なんだなというこの認識を持つこと、
これが許すということです。
それから3つ目。
これも大きいんですけども、
許すというのは、この罪というノイズを取り除いて、
純粋な問題だけをテーブルに上げる行為だと僕は思っています。
例えばチームの中でね、
ある人がミスや失敗をしたとしますよね。
これを多くの場合、僕らは罪だと見るわけよ。
そしてその人を罪と見て、
この罰としての怒りをぶつけたり、
ちょっと嫌な扱いをしたりね、
ちょっと疎外感を感じるような扱いをしたりするんだけども、
この時僕らは何を見ているかというと、
原因はその人が迂闊だからというふうに捉えているんですね。
その人が迂闊だからミスや失敗をするというふうに見ている。
これもさっきの罪悪感を投げるに近いものがあると思うんだけども、
因果関係と問題解決
本当は僕はそうではないと思っているんですね。
これはよく本当のことはわからないの中で、
ある出来事がどんな結末を引き起こすか本当のことはわからない。
つまり因果関係がわからないということです。
だからある人がミスをするという、
この因果を僕らは原因ですね。
原因の因の方をその人の浮かしさにあると見て、
それを罪というふうに認識してしまうんだけども、
本当はそうではないんですね。
多分、細かく言うといろいろあるんだけど、
例えばスケジュールの設定とか仕事の割り振り、
それからスキルと仕事のマッチングとかね、
とにかくこの人がミスする要因というのは、
実はその人にあるわけではなくて、
その人だけにあるわけではなくて、
おそらくチームの中にあるはずなんですよ。
つまり僕らは本当のことはわからないんでね、
それをはっきりと突き止めることはできないんだけど、
このように見る方がおそらく問題というのは、
純粋に浮かび上がってくるはずなんですね。
その人のうかつさだけを責めて、
その人に反省を促すだけじゃなくて、
そもそもこのスケジュール設定ってどうなのよとかね、
叱るべき仕事が叱るべき人にちゃんと渡されているのか、
このチームの問題みたいなのをしっかり解決しなければ、
根本の問題は消えないはずなんですね。
ここに罪の意識を持ってくると、
もう何が問題なのか全くわからなくなる。
許すことによってこの罪を消し去ってしまうと、
その反対にまさに最初に言ったように、
純粋に問題が浮かび上がってくるんですね。
なおかつこれをできたら、
チーム全員の問題というふうに捉えることができて、
そしてみんなの力を合わせて解決するということができるわけです。
これがもっと小さな家族とかパートナーとか、
そういう間であっても、
誰が何をしたかというのはあまり問題じゃないんですね。
そのチームや家族の中の誰が失敗したり、
誰がミスをしたとしても、
このメンバーとこの環境の中で起こったただの間違いというふうに認識できるんですよ。
この罪がなければね。
罪があるとそいつが悪いと、そいつのせいだと、
そいつがうかつなんだと、
そいつが何か思い入れがないんだとかね、
そいつが怠けてるんだとか、
そういうことになってしまう。
でもこれは僕らが本当の因果関係がわからない、
僕らが本当は判断できない。
だとしたらこのメンバーとこの環境の中で起こったただの間違いというふうに認識する方が、
多分問題が純粋に浮かべ上がってきて、
そして何を解決すればいいかということもわかるわけですね。
許すというのはこのような効果もあるということです。
罪の意識と行動制御
こういうふうにこの許すという前提を持っておいて、
おそらく残る問題はね、
罪の意識を持たずに、
人はそのおかしな行動を自分で制御できるのかっていうね、
多分この問いなんですね。
これに関しては以前も言いましたけども、
これをね社会問題のようなマクロな話に僕はするつもりはなくて、
なぜならばこれをね、
その公の問題としてね、
その議論の話題にするには、
多分あと何十年もしくは何百年かかかるんですよ。
だから例えばその法律はいるのかとかね、
罪、その犯罪に対して処罰というのは必要なのかみたいなこんな議論は、
とてもじゃないけど、
この今日明日できることではないんですね。
しかもこれを公に議論するみたいなことはね、
僕もそんなことが起こるとは思っていないし、
多分望んでもいない。
そんなことをすれば多分ね、
恐れや不安を増大させるだけだと思うんですね。
この現在の認識の中でね。
そんなことはね、
この今やるメリットはね、
全くないなって感じはします。
ただそれがね公の話題になるのを待たなくても、
そんな何百年も待たなくてもね、
僕のこの半径5メートルぐらいの世界というのかな、
毎日の日々の生活ですよ。
ここでいうさっきのマクロではなく、
ミクロな視点での取り組みはできるんですね。
この私がこの日々の暮らしの中で、
罪と罰の仕組みを使うのか、
この罪の意識を持つのかっていうこの取り組みは、
その公になるのを待たずにもできるんですね。
だから私の意思で早く始める方がいいなと思って、
私はこれをやってるわけ。
で、さっきのね、
この罪の意識を持たずに人はおかしな行動を制御できるのか。
だからここからはあくまで私の夢物語、
それがいつ起こるかとかっていう話は置いといてね。
僕のこの感覚では、
私がその心象を見てるときね、
心象を見ながら恐れや不安を抱いたりしながら、
このおかしな行動をね、制御できるとはとても思えないんですね。
少なくとも僕はできなかったんですよ。
だから以前この人間関係をね、
破壊し続けた、デストロイし続けてしまったんですよ。
ダンとこうね、強い怒りを抱いて、
そして相手を攻撃する、傷つけるみたいなことをしながら、
さまざまな人間関係を壊していった。
で、これは後で気づくことはできるんですよ。
何やってたんだろうって。
でもこの怒りを爆発させてるその瞬間ね、
このまさにこの心象を見てる瞬間に、
この自分の行動を罪と認識することさえ無理なんですね。
無理だったんですよ。
だからこの仕組みで私をどうこうすることは多分できないんだと。
後で罰することはできるんだけども、遅いんですよ、それでは。
そうではなくて、この人間関係を壊そうとしてるその時に気づいて、
いや、それは間違ってるよっていう風に自分に教えなければ、
何の意味もないんですね。
だから後日反省するとか、後日罪の意識を感じて罰を受けるみたいなことは、
何の役にも立たなかったわけです。
許すことの意味と前提
それでは私の行動は変わらないんでね。
そこで僕は前回とかお話した本来の自分を思い出すという捉えをしたわけですね。
そうするとこの愛そのものである、そして一つである、価値マックスである、
自多共にね、この認識を持った時に、
どんな理由があっても人を傷つけたいとは思わなくなったんですよ。
だから私はそれで十分いけるんじゃないかなと今は思ってるわけですね。
これはでも少なくともさっき言ったように、
僕の半径5メートルの世界に限った話であって、
これを社会に適応しようとかそんなことは今夢にも思っていないです。
こんなあたりがね、ずいぶん長くなりましたけど前提になるわけ。
前提はいいとしてね、重要なのはどうやって許すかなんですよ。
やっぱり私もこの話をするたびにどうすれば許せるんですかって質問をね、
本当にもう今まで数えきれないほど受けてきたんですね。
これについて今日はね、ここをお伝えしたかったんですよ。
前提も結構大切なんですけどもね。
もっと重要なのは、じゃあどうやって許すんだっていうここ。
この時にまずね、ちょっと今日は根本的なところからね、
この話題について見直してみたいと思うんだけども、
要は例えばね、僕らには面白いものを見ると笑うっていう性質が備わっていますよね。
これはもう芸人の芸でもいいし、あとなんか今で言うとおバカ映像みたいなね。
あと動物が間抜けなことをするみたいなことを見ると自然に笑いますよね。
この笑うということによってちょっと僕らはハッピーになるんで、
僕にとってはこの笑うというのはある種の能力のような感じがするんですね。
つまり僕らはこの笑うという能力を生まれながらに手にしていると、こんな風に捉えておくわけです。
でも面白いことに、僕もそうですけども、皆さんも経験してると思うんだけど、
人生にはね、とても今は笑えないよねっていう感じる場面がありますよね。
だからそういう時は誰がどんなギャグを言ったって全く笑えないっていうね。
これは生まれながらに手にしている笑うという能力を使えなくなっているってことですよね。
じゃあなんでそうなるのかっていうと、僕はね理由は一個しかないと実は思っていて、
多分その時なんかがあったんですよ。不機嫌である何か出来事がね。
それを受けて笑いたくないっていう、僕らは意思を持って自分でこの笑うという能力を封印している感じがするのね。
でなければ自然に手にした能力が使えないということはありえないんですよ。
それなのに何を見ても今は笑えねえよって感じがするということは、笑いたくないという意思を持ったということですよね。
これと同じようにこのイルスを捉えてみるんですよ。
このイルスというのがね、僕らにとって何か特別な訓練とか鍛錬とか練習をしなければできないものではなくてね、
あるいはその誰かに詳しくね、こうやってやるんだみたいなことを教えてもらわなければできないものではなくてね、
車の運転みたいにね、何か学ばなければいけないものではなくて、
僕らがその生まれながらに手にした自然の能力だとすれば、さっきの笑えないっていうのと同じように、
許せないというのは、許せない理由はですね、許したくないという意思が発揮されているからだっていう風に捉えることもできるわけですね。
私はここが何かとても重要なポイントだと思っているんですよ。
許すというのは私たちの自然な能力として備わっているという風にまず認識する。
許すことで得られるメリット
許せないのは、許せないのではなくて、許したくないという意思が働いているからだっていう風に捉えておくわけ。
そうすると次の質問は、じゃあ何が私たちに許したくないと感じさせるのかっていうね、この問いが立ちますよね。
当たり前にできるのに許したくないという意思によってそれを封印するのはなぜかってことですよ。
僕はおそらく自分のこの感覚からして、僕が許せないって時に何が要因になっているか、
その許したくないということを感じさせる要因になっているかというと、
おそらく許してしまうと、この許さない状態よりも多くの被害を被るというこの判断なはずなんですね。
判断というのか感覚なのかわからないんですけどね。
許さない方がいいっていうことです。
許してしまうと許さないよりも多くの被害を被るはずだっていうこういう判断。
だとすればね、これが正しいのか間違ってるのかっていうことを見極める必要があると僕は思います。
具体的には許すと何を失うのか、許すと何を奪われるのか、許すとどんな風に傷つくのかっていうこの答え、
それと許さないと何を失うのか、許さないと何を奪われるのか、許さないとどのように傷つくのか、
この答えを比べてどっちの損失の方が大きいかっていうのを明らかにした方がいいと思うんですね。
そうしないとさっきの許したくないという感じさせる要因が、
許してしまうと許さないよりも多くの被害を被るという判断だとしたら、
ここは確かめないといけないですよね。本当にそうかと。
許すと許さないとどちらの方が損失が大きいんだってことですね。
許さないことで被る損失の確認
僕らは当然許す方の損失が大きいと感じるから許さない方を選ぶわけですよ。
これが本当にそうかということ。
このために多分僕はこのポッドキャストを話しているときは、
次回何を話そうかなんて全く考えてないんだけども、
おそらくこのために前回のこの宇宙の成り立ちから紐解く自分とは何かっていうお話をしたような気がするんですね。
これを繰り返すと私とは何かの定義はですね、
愛によって作られたこの宇宙の真羅万象と一つにしてこの同じ価値を持つ愛そのものという定義なんですけども、
ここは分解していくと三つの項目が入っているんですよ。
一つは私とは愛そのものであるですよね。
もう一つは私とはこの宇宙の真羅万象と同じく価値マックスである。これが二つ目。
三つ目は宇宙の真羅万象と一つであるというこの三つが含まれているわけですね。
もしこんなふうに自分自身を感じられないとしたら、
心象に関する考察
僕はこれをこの三つをないものにする真逆の心象を見ているような気がするのを見ているからだと思うんですね。
要は僕らの心の中で打ち消しが起こっている。
こんなふうに考えてみると分かりやすいんですよ。
つまりこの愛そのものである、恐れや不安が愛を否定するんですね。
僕らが恐れや不安という心象を見るときにこの愛というのは完全に否定されるわけ。
もう一つの価値マックス、これを否定するものが罪悪感なんですね。
要は罪の意識を持っている自分であれ他の人であれ、これを価値マックスとは思えないからですね。
そしてもう一つ意識、これを否定するのは怒りなんですよ。
どういう怒りかというとおそらく世界も他の人も僕に何のいいことをしてくれてもいないというこの怒りなんですね。
いいことは何一つしてくれなかったよねっていうこの怒り、これが一つ意識を否定するんです。
繰り返しますね。恐れや不安が愛を否定するんです。
それから罪悪感が価値マックスを否定するんです。打ち消すってことですね。
そして世界も他の人も僕にはいいことは何一つしてくれなかったという怒りが一つ意識を否定するんです。
この3つの心象を持った瞬間に僕らはこの愛そのものである価値マックスそして一つ、これが打ち消されてしまうってことですね。
実はこの3つは同じなんですよ。完全に同義なんですね。同じことを言ってるんです。
つまりこの愛そのもの価値マックス一つは同じことの別の表現にしか過ぎないんですね。
だから面白いことにどれか一つでもこれは私だっていうふうに実感できると残りの2つも自分のものになるんですよ。
どこから入るかはそれぞれなんだけどこれ価値マックスだなって本当に実感できたらその自分には足りないものが何もない。
つまり恐れや不安がない。だから愛そのものなんですね。
そして自分もそのように見るということは鏡の法則が働いて他の人もそのように見るので一つであるというふうにつながっていくわけです。
つながっていくというか同じことなんですよ。たまたま日本語という言葉を使って3つを分かりやすく別の表現で置き換えているというだけのこと。
だからこの反対もしっかりなんですね。この3つのうちの一つでも否定すると残りの2つも自分のものではなくなる。
つまりそのように自分を認識できなくなるということですね。
ここでは罪悪感が価値マックスを否定するということがところが重要になってくるわけです。
つまり僕が誰かのした言動をさばいてこれは罪だとみなせたとしますよね。
この人はもう僕にとって価値マックスと見ることはできないということです。
これはもう分かりやすいですよね。価値マックスな人は罪を犯しませんから。
これを罪だと見た人はもう僕にとって価値マックスではない。
相手に罪を見たらここに鏡の法則が働いて僕も罪悪感を持たずにはいられなくなるということですね。
つまり私は誰かに罪を見た瞬間にこの3つのうちの私とは価値マックスであるというこれを持てなくなるということですね。
許すことのメリットとデメリット
つまり自分に罪悪感を持つと相手に罪を見るのも同じなのでこの罪を見た瞬間にこの3つのうちの価値マックスが否定される。
多分こうして僕らは私と他の人が等しく価値マックスというこれは僕にとっては最強でしかも無敵の後ろ盾のような感じがするんですね。
この認識を持っている私は本当に無敵な感じがする。
この後ろ盾を多分失ってきたんですよ。
この損失がどんだけ大きいかっていうね。
しかもこれよりこれに勝る被害というのが僕らの人生にあるかっていうことをねやっぱりこう真剣に考える必要があると思うんですね。
というのもねさっき言いましたけども僕らはえっと許さないよりも許す方が被害が大きいと思ってるんですね。
許すことで許さないよりも多くの被害を被るという風に判断して許さないという選択をしているわけ。
ところが許さないということはえっと相手に罪を見るということなんですよ。
そうするとこの自分は価値マックスであるというこの認識を失ってしまうんですね。
そこを否定してしまうんですよ。
だからこれがねさっきの2つ目の問い。
許さないと何を失い何を奪われどのように傷つくのかの答えなんですね。
許さないと私たちは自分と他の人が等しく価値マックスというこの認識を失うんですね。
許さないことのメリットとデメリット
つまり自分のもともと持っていたこの価値マックスというこの認識を奪われてしまう。
そしてその自分は傷つきますよね。
価値マックスであったのにお前は価値マックスじゃないんだってことになってしまう。
これは明らかに大きく傷ついていると僕は思いますね。
これがその許さないことで僕らが失っているものなんですよ。
ここでもう一つの問い。
つまり許すと何を失うか何を奪われるかどのように傷つくのか。
これは例えばね悔しいとかね日が済まないとかねそういうなんていうかな気持ちですよね。
これとさっき言ったねこの価値マックスの認識どちらが大きいのかってことですよ。
それから場合によってはねこの悪事を見逃すのは我慢ならないとかね。
悪人をのさばらせてはいけないみたいなね損失もなんか感じることもあるでしょう。
でも僕はこの罪と罰の仕組みではねこの正義は実現しないと思うんですね。
それはさっき言った通りです。
これで罰したからと言ってね僕はそのよく罰されていたんですけども。
この私と倉園という悪人はねずっとのさばったまんまでしたね。
おそらくこれはですねこの許したくないという意思をこの喚起するために作り出している僕らの心象の一つなんじゃないかなっていうふうに思うんですね。
しかもこれがそう思ったとしてもね実現しないんだとすればね。
僕がその人を罪と見ればこの悪事がこの亡くなる悪人がいなくなるそんなことは多分ないんですよ。
だからこれも実は損失のように思えて大した損失ではないっていうかこれはなんかねもう本当に何も失っていないに近いんじゃないかなって気がする。
そうするとやっぱり気分ですよねなんか悔しいとてもちょっとここで許す気になれないみたいなね。
これが多分許すことによって失う損失なんですよ。
価値マックスと罪の意識
許さないことによって被る損失それはさっき言ったように私たちは価値マックスであるというこの認識なんですね。
だからここはやっぱりこのどう天秤にかけてもねこの悔しさなんか気が済まないみたいな小さな気晴らしなのかな。
ここで満足するほどの価値があるのかなというそんな感じが私はしています。
そう思ったからね僕はこの許すという方を選んでいるんですけどもね。
このようにしてさっき言ったこれわざわざそのなぜこんなことをしているかというとどちらの損失の方が大きいのかということをある種この冷静に判断するための比較なんですよね。
先ほどからお話ししているのは僕らが許せないというのは許したくないという意思が邪魔するから。
なぜ許したくないと思うのかというと許してしまう方が損失が大きいと思っているからですよねこの判断なんですよ。
要はこの判断がどうなのかということをまあ私なりにこう見てきたわけですね。
僕にとってはやっぱり許さない損失の方がもう大きすぎるというか多分これね比べ物にならないぐらい大きいんですよ。
これによって僕らはその本来の自分のね愛そのものである愛によって作られたこの宇宙の死んだ場所と一つそして同じ価値を持つ愛そのものである自分というこの認識を持てなくなっているということですね。
これをまあその阻害しているとかね邪魔しているのがまさに罪の意識であるというそんな感じです。
まあこれはえっと以前ね2人の自分がいると言ったんだけどもこのガーディアンはとにかく嫌なんですよ。
この愛によって作られたとかね価値マックスとか愛そのものである一つであるみたいなことがねこれをだから否定したいんですね。
そのように認識するとガーディアンが消えてしまうからなんですよ。
守る必要がなかったね私はっていうこと。
そんな心象とかを抱きながら恐れや不安を抱いて自分を守る必要がなかったってことに行き着いてしまうので完全にガーディアンは消滅してしまうんですね。
だから僕らの中のもう一人の自分が存続をかけて何としてもそのように捉えることを妨害しようとするわけですね。
そして3つの打ち消しを持ってくる恐れや不安で愛を否定する罪悪感で価値マックスを否定するそして怒りで一つ意識を否定するということをやっているわけです。
許さんないという選択はえっとこちらの選択なんですよ。
まあ簡単に言うとこちらの片方を担いでいるってことですね。
で僕はここから抜け出すここから抜け出してそのガーディアンにはそのご退席いただいて本来の自分を取り戻すためにこの許さないというねこの意思を手放すトライをしているということですね。
だからこうしてみるとそのさっき前提として許すの定義をしましたけどもね。
つまり許すというのはこの自分をありのままに認識するために通過しなければならない課題っていうことがわかりますよね。
これさえクリアすればもっともっと簡単に僕らはねその愛である自分ということに戻れるというかそんなものはいらないんだなっていろんなものを手放すことによって本来の自分の認識に戻す戻ることができる。
そしてそれが私を本当は一番守ってくれるっていうことですね。
許すことで自己認識を取り戻す
これは最強にして無敵なんですよ無敵の後ろ盾なぜならば私とこの死んだ宇宙の死んだ場所が一つですからね。
これ以上のそのバックというかね俺のバックには何々組がついてるんだよみたいなこういうのがあるじゃないですか。
それの最強の奴がこのついてくれるたったその一つだけなんですよ。
この罪と見ない許す罪悪感を持たないというねここさえクリアすれば何とかなるんじゃないかと思います。
そして以前も言いましたけどもねこの恐れや不安というのは罪悪感とほぼ表裏一体なんですよ。
だからこの愛を否定する恐れや不安ここにも多分働きかけるし。
そして怒りがねもし僕らが罪悪感を投げかけること投げ相手に投げることによってこの怒りを抱くのであればね一つ意識を否定するこの怒りにも効きますよね。
だからやっぱり僕はこの許すは最強メソッドだと思ってるんですね。
でこれはあのさっきも言いましたけど悪事を見逃すとかね悪人をのさばらされるのさばらせるということにはならないんですよ。
なぜならばこれ前提のところで言ったこの罪というノイズを取り除けば純粋な問題がテーブルに上がるというねそういう現象が確実に起こる。
その方が僕らは問題を解決しやすくなるんですね。
ただの間違いにするってことです。
罪というラベルを取ればただの間違いただの問題だけが浮かび上がってくる。
そうするとこの純粋に浮かび上がってきた問題や間違いっていうのは何とか解決できるものになるんですよ。
時間はかかるかもしれないね少しは忍耐は必要かもしれない。
でも罪というラベルを貼ったらもうこの罰を与えることに僕らは必死になるんで問題の解決は二の次になっちゃうんですね。
これは相手にそれを見ても自分に見ても同じことです。
緑の本でご機嫌な仕事で書きましたけども、
罪悪感を持つ僕らは自分を責め続けるのでとても弱くなる。
その弱くなった自分は本当は解決しなければいけない問題とか間違いをもう見られなくなるんですね。
見たとしてもそこに手を当てられなくなる。
こんなことをする方が僕は悪事を見逃したりね悪人をのさばらせることになると思います。
これは許さないことによってこれがなんとかなるんではなくて、
実は許すことによってなんとかなるんだろうなと。
これが何十年後何百年後にコンセンサスが取られた時にはもしかしたら僕らはそのような議論ができるのかもしれない。
許すことで問題解決の効率化
これは私の夢物語なんですけどもね。
今は真っ黒な話にはせずにミクロなところでとどめておきたいと思います。
だからそんなふうに考えてみるとここが結論なんですけどもね。
要は歩き方とかね食べ方眠り方それから喋り方笑い方これは僕らは熟知してますよね。
誰からも教えられる必要はないですよね。
歩く食べる眠る喋る笑うこんなものは当たり前に自然に持っている僕らの能力としてこなせるわけです。
そしてずいぶん昔かもしれないけどこれまでの人生でね多分だけど僕らは何度かはこの許すということを完璧に完璧に使いこなしているんですよ。
だからそれを思い出せばいい。
なるほど許すというのはできることなんだなと。
そもそもできることをなぜこんなに難しくしてたんだろう。
それは許したくないという意思のせいなんだなっていうふうに捉える。
そうすればどうすれば許せるんですかという問いは全く必要ない。
これは僕はみんなこの私たちすべてが持っている能力だというふうにかなり確信してます。
だからそのように捉えてねこの意思の方だけ許したくないという意思を何とかすればいいというふうに捉えてみてください。
これがなくなればもう本当に笑うように食べるように簡単に許せますから。
そんな感じでちょっとやってみてください。
これが今のところ私の許すという話の答えになります。
前回と同じくまた告知なんですけどもね。
同じ告知を繰り返しますけども。
今週の末ですね15、16土日に一泊二日のグッドバイブス春の合宿というのをやります。
これもあと2名空席がありますんで何とか埋めたいなというかね。
あと1人ぐらい来ていただけるといいなというそれなりの人数が揃っているんでね。
もういい感じで開催できることは決まってるんですけどもね。
なんとなくこの番組を聞いていただいている方でどなたか参加しそうな予感が僕の中にはこのひしひしと渦巻いていましてね。
ちょっとしつこく繰り返してしまうんですが。
よかったらご参加ください。
一泊二日ですね。
それからもう一つ冒頭にお話ししたこの書き上げ宿。
2-1-1で初回講義を対応させていただきますのでこれもあと1人なんですよ。
なんかねこの空席1個埋めたいなという感じが僕の中にありましてね。
赦さないことで被る損失
なぜかわからない。
おそらく来る人がいるからだろうなっていうそんなこれも変な予感なんですけどもね。
普段はもうこの辺で諦めてるんですけどなんかいそうな気がしてぜひ来てくださいっていうそういう感じなんですね。
だからこの2つをもう1回だけお知らせしたいなと思っています。
じゃあそんな感じで今日はですね。
許せないのは許し方がわからないとかどうすれば許せるのかがわからないではなくて。
これは僕らの自然の能力として備わっているとそのように信頼して問題は許したくない意思の方なんだなってね。
なぜ許したくないのか被害が大きいから本当かっていうねこの問いかけの中でなんだろうな。
許すという選択をしながらですかね。
良い一日をお過ごしください。
ありがとうございます。