鬼滅の刃ファンの自己制御
グッドバイです。ミッドナイトラクザー by クラザムケイザー
こんばんは。ただいま4月10日月曜日の午前2時41分です。
あのー、鬼滅の刃のね、新シリーズが始まりましたね。
刀鍛冶の里編ですか。私はあのシーズン1というかね、最初のテレビシーズンから見始めて、本当に気に入ってというか、もう大不安でね。
で、最初のテレビシリーズが終わった後、その後無限列車編まで待てなくて、
Kindleでね、コミックを3、4冊買いましてね。一応あの無限列車編は先にコミックで読んだんですよ。
ところが、アニメが好きすぎてね、いろんな意味でアニメが好きすぎて、多分声優さんもすごいし、もうアニメの絵自体もすごいし、
音楽もいいしね。そういうものがそのコミックにはないからね。もともと最初からコミック読んでれば、昔みたいにね、子供の頃みたいにジャンプの連載で読んでいれば全然いけたんだけど、
ちょっとね、なかなかこの違和感がすごくて、やっぱこの無限列車編を読んだ後にね、やっぱダメだなと。コミックで先に読むのはやめて、
もう何年か経ってもこのアニメをね、待とうという風に決めましてね。それからはもう本当に、あの漫画は一切読まずに待ってるんですよ。
で、前回いう画編が終わり、ずいぶんね、待ちましたよね。半年ぐらいかな、1年ぐらい経ってるのかな。
もう今か今かと待っていて、ようやく今週からね、しかもなんか1時間の長尺でね、見られてとても満足していますね。
で、実はあのデッサン教室のね、講師で僕と一緒にやってくれてる加藤さつき君の息子さんが6年生なんだけどね、まあものすごく仲良しなんですよ、僕は。
で、彼に会うとね、ついついこう聞きたくなっちゃうね。やっぱ彼はもうコミック全部読んでるから、最後まで知ってるわけですよ。
だからあの前回のこのいう画編の時もね、今度の柱は生き残るの?とかってこうボソッと途中で聞いちゃうんですよね。
そうすると、あのとてもいい子でね、いやそれを話してしまうとつまらなくなるので、僕は言いませんみたいなことで絶対教えてくれないんですよ。
で、時々もうあの最後は柱何に生き残るの?とかね、炭治郎はどうやってあの最後の敵を倒すの?とかっていう話をポソッとね、気軽にこう何気なく振って振って言わせようとするんですけどね、まず彼は教えてくれないんですよ。
まあまあ教えてくれなくてありがたいんですけどもね。
ジャズピアニストの思考
で、こうyoutubeとかであのなんつーのかな、このネタバレみたいな動画を探したくなるんだけど、そういう誘惑もね、グッと抑えて待ってるわけですね。
うん、だから本当に今日はね、ちょっとあのやったという感じで、もう11時15分の始まりなんですけどね、もう待ちきれなくて、えっと10時15分ぐらいからね、
なんかずっとその前の8chのテレビ、あの宮根さんが出てるニュース番組かなんかをつけっぱなしにしてね、早く早くみたいな感じで過ごしてましたね。
うん、もうこれから毎週楽しみだしばらくね、コミックは絶対に読まないで待ちます。
あ、そしてあれなんですよ、この鬼滅の刃はね、随所随所に私はこれはグッドバイブスだっていう思うね、このお話シーン、描写みたいなのがね、出てきましてね、
えーなんつーかまた機会があればね、どのあたりがその鬼滅がグッドバイブスなのかみたいな話もね、できたらいいなと思ってるんですけどね、今日はちょっと、今日は鬼滅はここまで。
土曜日にジャジンワークやってきまして、南大阪ですか、今回はリアルに2名参加していただきましてね、よく本当に来てくださるなと、こんな遠くまでね。
で、オンラインも結構な数参加していただきまして、またとてもね、良い6時間を過ごしました。
で、私はついにですね、この6時間の中で2時間半ぐらいかな、新刊を執筆し始めてね、それでもまあ戦時行くか行かないかぐらい、
まあこの最初のね、出だしはしょうがないんですよね、本当にこうスラスラと行くような感じではない、まあなんつーのかな、まさにこの文脈コンテキスト、世界観みたいなのをね、作っていくとても重要な場面なので、
この最初はやっぱ遅いんですけども、そこがまあ戦時ぐらいかけたっていうのはね、僕にとってはすごい前進、ここからはね、もうちょっと、もうちょっとこの時間を過ごせば後はスラスラかけていく感じがしますね、
とても良かったなと思っています。そして今回の、もういろいろ、まあ、ありがたい感想というかね、嬉しい感想をいただいたんですけども、
その中でやっぱりちょっと今回心に残ってるのはね、休憩時間にいつものコーヒーを飲んだら、そのコーヒーがなんかとても美味しく感じたっていうね、この話はね、これは深いなぁと思いましたね、
僕らのその知覚というのかね、今日の話にもこの後で出てくるね、知覚というのがちょっと出てくるんだけど、この五感ですね、見る聞く、匂いを嗅ぐ、味わう触る、これは本当にですね、心と一体なんですね、
知覚というのは心のための道具と言ってもいいのかもしれないね、心で最初のイメージを持ち、そのイメージ通りのものを集めてこようとするっていう、そういうインプット装置なんですね、
だからその外にあるものをありのままに捉えるカメラとかね、マイクとかそういう機能とは全然違うんですよね、最初に心が動くんですね、このように見たい、こういうもんだろうな、その通りにこの知覚というのは機能してくれる、
ということはその味がね、コーヒーの味が美味しかったというのは、心が美味しかったんですよ、最初にね、ここで美味しいコーヒーを飲みたい、ここでいつもより美味しいコーヒーが飲めるといいなっていうね、この場であればコーヒーが美味しくなるんじゃないかなみたいな、そんな感じかな、
ジャズピアニストの感性
その心に従ってこの味覚がね、いつもと違う味を味わわせてくれるという、だからとてもなんか、それはいいねっていう感じでしたね、ジャジュンワークっていうのはそういう効果もあるのかっていう、皆さんとてもいろんなことがはかどったとかね、思い通りにできました、思っていた以上に何かできましたみたいなね、そんな感想で土曜日は終え。
そして今日はですね、久しぶりに佐々木翔太さんとね、グッドバイブスファクトリーのコミュニティ向けの動画、グッドバイブスTVというね、これの収録をやりまして、本当に久しぶりなんですよ、4ヶ月ぶりくらいかな、その間別の方との対談を3回とっているので、ちょっと佐々木さんにはお休みをいただいてね、ちょっと趣向を変えてみようかなとか思ったんですけど、
久しぶりに佐々木さんとお話しして、これは面白いことにその3,4ヶ月、僕も佐々木さんもそれぞれ違う人生を歩みながらね、やっぱり何かね、その以前とは違うところに行ってるんですよね、まあこれは成長志向で言うと成長してるみたいな言葉で表すんでしょうけど、
僕はその成長してると言うよりも、何かこう、なんて言ったらいいのかな、こう深くなってるとかそういう感じかな、そんな感じがして、久しぶりに佐々木さんとね、このなんて言うのかな、こう、ガチな感じでね、グッドバイブスの話ができたっていうかね、まあ本当に理解者の一人ですんでね、本当にその余計な説明がいらないんで、パパッといろんな話ができて、
多分ですね、今まで一度も話したことがないようなことを、4はね、たっぷりね、お話しできた感じがしますね、うん、とてもいい時間を過ごせました、本当楽しかったですね、今日はね、んで今日はこのまさにね、佐々木さんとのお話の中で、一つとても興味深いテーマがたまたま出てきて、これがその自分とは何かっていうね、こういう話なんですよ、自分とは何か、つまりこれを誰が決めるんだっていうね、こういう話が出たんですね、
で、これは確か前回の番組で、えっと、カチマックスなあなたは幸せに妥協しなくていいっていうね、そういうお話をした、で、この時も、えっと、自分をどのように認識しているかによってね、私こんなもんですからっていうこの感じだと、完全無欠の幸せを選ぼうという気にはなかなかなれないと、
そのそれにふさわしいんだっていうふうに自分を見た時に、えっと、それを選べたくなるみたいなお話をしたんですよね、で、これとまあほぼほぼ同じなんだけども、その中のね、じゃあその私とは何か、この認識ってどうやって決めるの、どうやって探すの、どうやって見つけるの、みたいなそういう話なんですよ、で、これをね、ちょっと今日お話ししたいんだけども、あの入り口はですね、あの緑の本、グッドバイブスごきげんな仕事、
あの中に書いたこのビッグバーンですね、えっとここから始まるんですよ、要は原初の点というのがあってね、これが何らかの揺らぎによってこの大爆発、ビッグバーンを起こし、で、ここから空間が生まれ、まあいろんなガスとかが集まりながらね、えっと超新星爆発みたいなのもあって、そして星々が生まれてね、で、その中の地球っていうのがあって、
で、この地球にはなぜかこの生命が育つような環境が出来上がり、そして僕らが誕生したっていうこういう流れがある、で、これを僕は、えっと、原初の点による創造というふうに見てるわけですね、創造、クリエーションですね、作った、原初の点が空間を作り、星々を作り、そして僕らを作ったっていうふうに見てるわけです、で、その通りだとしたらね、私たちはこの宇宙の真羅万象の一部である、
こんなふうに捉えるのはそんなに傲慢なことじゃないと思うんですよね、なんかその、えっと、たまたま僕らはその宇宙とは関係なく、たまたまこう片隅にね、ポツンと出来たもんですよって言うんではなくて、まさにこの宇宙が広がりながらブワーッと創造されていく、その中の一つとして生まれたわけだから、まさに僕らは宇宙の真羅万象そのものだよねって、これはそんなに傲慢な発想ではないと思うんですね、
そしてこの原初の点がどのようにこの宇宙を作ったかというと、僕はこの点が自分を広げながら作っている、これはね、あのよくこの種とね、植物の関係に例えるんだけども、種がビッグバンの原初の点だとすると、種が自分自身を広げながら植物を作ってますよね、
だから種とこの植物というのは、いつもいつも切り離されてない、作者と作品のようなこの切り離された関係になっているのではなくて、作者そのものが作品であるっていうね、広がりながら作っている、
もしこの原初の点が自分を広げながらこの宇宙を作ったとするとね、このまさにこの宇宙に存在するすべては永遠に一つですよね、種と植物が一つである、そしてその植物のあらゆる部分、茎、枝、根っこ、葉っぱ、花、そういうものは全部一つですからね、
このような、こんなふうに広がりながら宇宙が作られたとすると、もうそこにある空間、これはもう形があるなしに関わらずですね、エネルギーだろうと物質だろうと何だろうと、さまざまな力ね、重力とか磁力とかそういうものは全部原初の点の広がりから生まれてますから、ここに存在するすべては永遠に一つ、そして多分完全に等しい価値を持っているはずなんですよ、一つですからね、
これは植物で言うならば、根っこよりも葉っぱの方が価値があるとかね、茎よりも花の方が価値があるってことはないはずなんですよ、もちろんここにね、人の価値観というかな、人の評価が入って花は綺麗だから葉っぱよりも価値があるとか、実は売るとお金になるから、
イチゴで言うならばね、茎よりもイチゴのなった実の方が価値があるってなるんだけども、それは完全に人が売るとかね、ビジネスみたいなことを、もしくは鑑賞とかね、見て楽しむみたいなことをその糸を持って見たときにできる価値であって、本来の価値とは関係ない、そういう本来の価値の方で見るならば、
この原初の点が自分を広げてこの宇宙を作ったとするならば、形のあるものもないものも、ここに存在するすべては永遠に一つであり、そして完全に等しい価値を持っているっていう風に僕は見ているわけですね、それからこれを私は広がる創造と呼んでいてね、つまり作り手と作ったものが一つになる創造、これは自分自身を広げるように作っているから必ず一つになるんですね、
創造と愛
これは私に言わせるとね、愛によってしか実現しないと思うんですね、これは例えばですね、ちょっと身近にこの例えを引き寄せてね、私がこの自分の分身のような作品を作るとするじゃないですか、まさにこの本はもうクラゾの自身だみたいなね、もしくはこの曲はもうまさに私の生き写しだみたいな、そんな作品を作るとするならば、その作ろうとしてでも愛してなければ絶対にできないんですよね、
私自身も多分愛してなければこれを表現しようとしないはずなんですね、こんな嫌いなものを表に出すかみたいな感じでは多分できないと思うので、まず自分を愛し、そしてその自分が作っている作品を愛しているときに多分私たちは作り手と作品が一つになるこの広がる創造っていうのができるんじゃないかと思うわけで、そうするとこの広がる創造は多分愛によってしか実現しないという感じになるわけね、
で、この反対に恐れや不安っていうのがあるわけですよ、愛の反対は恐れや不安だと僕は思っていて、なぜならばこの恐れや不安がないっていう状態は多分愛なんですよね、まあもっと別の言い方というかね、言い換えるならばこの恐れや不安があるところに愛は存在しえない、愛が存在するところに恐れや不安は存在しえないっていうそういう感じかな、だから多分僕は大局にあると思ってるんですね、
で、もしこの恐れや不安を持って創造するとどうなるかというと、えっとこれは広がる創造には絶対ならないですね、多分分離していくか、その作り手と作品が分離していくか、もしくは破壊に向かうはずなんですよ、なぜならばその作ったものが恐ろしいものになるからですね、恐れや不安によって何かを作ると作られたものは恐ろしいものになるから、
見たくないと言って分離するか、もしくはこんなのは存在してはいけないって言って消してしまう、つまり破壊してしまうからなんですね、で、この宇宙はですね、間違いなく広がる創造によって今も広がり続けていく、分離も破壊もされてないはずなんですね、だからまあある種の調和が保たれていて、私たちはこのようにその地球という一つの星の上で生きることができているわけね、
つまりこれは愛によってしか実現しない創造であるというふうに私は見ているわけです、つまりこの原初の点もね、そして創造のプロセス、すべてのプロセスも、その結果生まれたこの宇宙とか生命も、多分一つの例外もなくすべて愛そのものであると、こうでなければ多分広がる創造によってこの宇宙はできなかったなっていうふうに捉えているわけね、
で、これを全部まとめると、僕ら、私たちとは何かの実はね、この完璧な答えが浮かび上がってくると私は思っているわけです、整理すると最初にまずその私たちもまた宇宙の死んだ場所の一部であるというね、この事実が浮かび上がってきて、
そしてそこにこの宇宙に存在するすべては永遠に一つであり完全に等しい価値を持っているという、これが2番目ね、そして3番目にその創造は愛によってしか実現しないのであれば、つまり今お話ししたようなすべての創造のプロセス、そしてそれを始めた原初の点、その結果である宇宙、生命、これらはね、多分一つの例外もなく愛そのものである、これが3つ目ね、
これをまとめると、つまりこの中にいる私たちの定義が完璧に浮かび上がってくるってことですね、これは私たちとは愛によって作られた、この宇宙の死んだ場所と一つで、そして同じ価値を持つ愛そのものである存在という、決してそんなね、なんかね、大げさな話ではないんですね、ごくごくこのようにこうまとめていくと、こうなるっていうところに落ち着いてくれるわけですよ、
で、さっきも言いましたけども、もし僕らがこのまさにビッグバンド原初の点のその広がる創造によって生まれたとするならね、こんなふうに自分を認識することはね、ある意味その誠実な姿勢なんですよ、ありのままに、ああそうかと、愛によって作られたこの宇宙の死んだ場所とね、一つ、そして同じ価値を持つまさに愛そのものである存在なんだなと、この流れの中で生まれてますからね、
えっと、ありのままにこの事実を受け入れている誠実な姿勢であって、決して傲慢じゃない感じが僕はするんですよね、うん、なんとなくこの言葉だけね、えー、俺は愛そのものである存在、そして宇宙の死んだ場所と一つで同じ価値を持つ、まさか、みたいなそんなの傲慢だよねって、文章だとそのように感じられるかもしれないんだけども、でも今言ったように整理していくとね、いやそれはありえるよねっていう、むしろそのように捉えることは、
決して傲慢じゃないなっていう感覚は、その持てると私は思うわけです。で、まあここからはその私のね、この探索の話なんだけど、探索の道のりというかね、まあこの仮説をまず持ったわけですよ、でもまあこれもね、えっとなんていうのかな、まあ本当かどうかわからないと、流れとしては悪くない着地点だなという感じがするんだけども、じゃあ本当にこれがね、えー、その私が、えー、認識していい自分の姿なのかどうかっていうのはね、
やっぱこれをそれなりに自分で、えー、確かめなきゃいけないっていうね、えー、で、そこで、えっとじゃあどのようにすればね、このような自分であるというふうに思えるのかっていうところにまずその立って、えー、普段そのように感じられませんからね、自分が愛そのものであるとかね、この宇宙と価値が等しいとか一つであるみたいなことは、ね、私と他の人が一つである、この宇宙と一つであるみたいな感覚は持たずに僕は生きてましたから、
もしね、その今の自分がそうでないとしてすればね、えっと僕がこのことを忘れてるというふうに捉える以外ないんですよ、可能性としてはね、全くそのようなものではないとしたら、えっといくらその理屈でね、こうたどっていって、ああ確かに愛そのものであるに着地するなあと思ったとしても、これ事実に反しているんであればね、えっと多分そんな自分にはなれないはずなんで、もしそうだとすれば多分私はこれを忘れているんだろうなあっていうふうに捉えたわけですね。
自己認識の探求
まあ仮説を立てておいて、そう今自分がそのように感じられないということは多分忘れてるんだろうなと、そのような自分っていうのをね、まあこれはなんとなくね、えっと自分について自分がこうであるっていうのを忘れてしまうってよくあることなんでね、そうだろうなと、まあ思ったわけです。
そして、じゃあその忘れてる原因はなんだって思ったときに、さっき言ったね、この愛の反対にある恐れや不安、これを持ってるからだろうなと思ったわけですね。
そしてもう一つ、おそらくその愛の反対にもう一つ罪悪感というのがあるなあと思ったんですよ。
まあこれ前も言いましたけどね、多分罪悪感と恐れや不安は同じなんですね、一つなんですね。
僕らがそのどちらを先に認識するかっていうことの問題であって、多分同じなんですよ。
だからもし僕がね、この恐れや不安と罪悪感を手放すことができたら、もしかしたらこのさっき言ったね、愛そのものである自分っていうのを思い出せるかもしれないっていうふうに考えたわけですね。
で、やってみたんですよ。まあここは非常に長い取り組みで、じゃあどうやって恐れや不安をその手放すんだ、罪悪感を手放すんだ、いろんなトライがあって、
これを私はこの番組でよくお話をしているわけなんだけども、まあ一通りやってみて、結構いけたなっていう感じになった時がありましてね。
で、そうするとどうなるか。ここが重要なんですよ。そのような自分であるという、まあこれは完璧にできたのかどうかはわかりませんけどね、
多分近づいたなあという感じは実感はあった。
確かに恐れや不安はない、罪悪感もないぞっていうこの感じになった時に、
私はその自分はものすごく平安だったんですね。
で、この一点に一点を取って、これはおそらく本来の自分であるから平安なんだろうなっていう感じがしたんですよ。
だからもし事実と反してね、本来の自分ではないものになってしまっていたとしたら、
おそらく僕はそこで平安を得ることができない。
本来私はそのようなものであるという認識を思い出したから、
平安になれたんだろうなというふうに考えたわけです。
そしてもう一つその自分はものすごく自由なんですよね。
本来の自分との平安と自由
これはもう簡単に言うとですね、
日々人をさばいていないってこと、これだけでもものすごく自由なんですよ。
そして頭の中でね、恐れや不安を抱くようなことを考えていない。
これだけでもこの2つがあるだけで相当自由なんですね。
もう逆を考えればわかります。いつもいつもこの恐れや不安を抱くような
思考を持っている自分、そして目にするもの、目にするもの、人、もの、それから組織、環境、こういうものをね、
いいか悪いか、これは罪だよ、これダメだよっていうふうにさばいている自分と
それをしていない自分っていうね、
もう当然だけでも恐れや不安と罪悪感がない自分というのはものすごい自由なんですよね。
どこにでも行けるし何でもできる、そんな感じがする。
なんかここには近づきたくないなとかね、
この人とは一緒にいたくないなっていうそういうものがないわけですからね、ものすごく自由なんですよ。
そして3番目にその僕はね、えっとおそらくだけでもこの最高の想像力、クリエーション、想像力を発揮できるんですね。
まあ作っていてわかるんですよ。うわ、これはなんかいい感じで作れてるなっていうね。
で、やりたいことがなんか何でもできるみたいなそんな感じの自分が現れてくれるんですね。
で、この3つをなんとなく実感したときにね、これもリアルに実感したときに、
えっと気丈の空論ではなくてね、
いやこれは多分方向としては間違ってないなっていう、まあものすごい手応えを得たわけです。
他者の理解と愛の視点
これがまあグッドバイブスの原点というか、これをかけるなって感じたそのきっかけなんですけどもね、
まあこれまでに相当な年月を5年ぐらいはかかってますけども、
要はもう一度繰り返しますけどもね、さっきのこの
原初の点ビッグバーンが宇宙を想像するプロセスの中に自分を置いたときに、
私とは何かという答えがね、
愛によって作られたこの宇宙の真羅万象と一つにしてね、
同じ価値を持つ愛そのものである存在というふうに
自分を認識する。これが私なんだなというふうに、
まあこれをね、思い出すもしくは知るということかな、
認めるということでもいいかもしれない。これはすでにもう決まっていたことなんですね。
決まっていること、
そのようにして、えっと自分を認識する、自分を捉えることによって、
僕は今言った、まず平安を得られ、自由であることを得られ、
そしてクリエーション、これが非常になんかいい感じでできる。
そしてやりたいなと思ったことがね、
思いのままに動けるみたいな、この3つを得たときに、
この方向で間違いないなという確信を得たわけですね。
で、そこからもう一つあってね、
そのような自分で他の人を見るとどうなるかっていう、ここがものすごい発見だったんですね。
そうすると当然ですけども他の人は、そのなんていうのかな、このさっきの
恐れや不安と罪悪感を抱きながらね、
やっぱりおかしな行動を繰り広げるわけですね。
当然僕に何か起こってきたり、攻撃をしてきたり、
なんかその、なんだろうな、まさにおかしな行動をしたりするわけですよ。
で、普段の僕らは、それがその人だと思ってますからね。
そういうことをするやつなんだ、こいつはっていうふうに、それがその人の姿だと思っているんで、
ここでもう本当に嫌になったり、怖くなったり、怒りを抱いたり、
分離したくなったり、拒絶したくなったりするんだけども、
この表現に騙されないっていうことに気づいたんですよ。
自分が私は愛そのものであると、この宇宙の神羅万象と一つでありね、
同じ価値を持つ愛そのものである存在なんだっていう、この心を持って
自分と他者を愛そのもので見る
他の人を見るとですね、どれだけおかしな表現、おかしな行動をしていても、
その人も自分と同じように愛そのものである存在に見えるっていうことに気づいたんですね。
これがやっぱり、この4番目が僕にとってはもう本当に大きかったですね。
これはすごいなぁと。
多分、この4番目ができないと、
私がやってるね、このワンワンのセッションのワントレーツーみたいなことは不可能なんですね。
で、これもこんなような感じでわかるまではですね、
えっと、なんつうのかな、この心を変えてもらうというか、考え方を変えてもらうっていうアプローチをしてたんですよ。
つまり、まあ、恐れや不安を抱くようなことを考えないようにしましょうね、みたいなことで、
どうすればその考えないようになりますかね、みたいなことを、
まあ、一生懸命一生懸命その相談者とやるんだけど、
えっと、これではうまくいかないケースがもう本当多発するんです。
なぜかというと、以前お話ししたように、これはえっと、僕らの中のね、
まさにこの愛そのものであるという認識ではないもう一人の自分、つまりガーディアンですね。
こちらが、えっと、やりたいことに反するからなんですね。
そうすると、僕と話している時はまあいい感じでわかりました、つっても、一人になった時に、
このガーディアンの抵抗に絶対に勝てないんですよ。
で、これで何度も何度も同じことを繰り返すってことをやっていたんだけども、
この4番目ね、えっと、愛そのものである自分で他の人を見ると、
えっと、相手も愛そのものである存在に見えるという、このまさに鏡の法則なんだけどね、これに気づいてからは、
えっと、あまりもうそういうアプローチはせずにね、
えっと、ただただ、そのような心を携えた自分で相手を見るというやり方に変えたんですね。
私は愛そのものであるっていう、そして、えっと、その相手もね、あなたも愛そのものであるっていう、
この見方で相手を見るというやり方に変えたんですよ。
で、これがバイブスなんですね。まさにね、私がそのような自分として、まあそれを確信しながら、
えー、その相手の前に立ち、そしてその人もそのように見るということをするとですね、
これが必ず相手に共振して、私がその、
このような心がゴールですっていうところに、
それを感じてくれるんですよね。
自分とは何か?
で、そうすると、その考え変えましょうとかね、心を変えましょうみたいな、この、
会話でのアプローチなしに、まずはその結果がストーンと訪れてくれるわけ。
で、そうすると、これかっていう風にね、気づいていただけるんですね。
で、そうすると、そのここが、ここを目指せばいいんだっていうところが分かるのでね、
えっと、一人になった時にも、
ここを目指すために、この恐れや不安、罪悪感を手放していくんだなっていう風に、
えっと、ずいぶんと、このうまくいくようになったんですよ。
で、このように、1,2,3,4というのを、えっと、味わいながら、
これと、さっき私が頭からね、説明してきたこの流れ、これを2つ組み合わせた時に、これはもう間違いない。
この、もう私は何かは、えっと、もうこれでいいっていう風に、まあ、僕は、その、なんつうのかな、そこを確信するに至ったというかね。
だから、決してこれは傲慢な解釈ではないと思うんですよ。
ごくごく自然な、ありのままの解釈なんだろうなっていう風に思うわけね。
で、むしろね、えっと、これ、この事実、まあ、私は事実と呼ぶんだけどね、
えっと、この事実に目を背けて、
この、私とは何かを自分で定義しようとする方が、はるかに傲慢じゃないかなと僕は思うんですね。
だって、もともと僕らは、自分で作ってませんからね。
私たちは、私たちが作った存在ではない。
知覚と思考による自己認識の限界
僕らは、この宇宙の真羅万象、この広がる創造、
現象の点によって創造されたもの。
それであるのになぜ、自分とは何かは、
その、作られた私たちが、自分で定義しなければならないのかってことなんですよね。
うん、でも実際僕らは、もう本当に昔から、そして今でも、えっと、これをやってるはずなんですよ。
自分とは何だっていうことをね。そして、えっと、よく自分を見て、よく考えれば、
えっと、正しい答えが得られるとね、割と信じてるんですよ。
これは私も、若い頃ずっとそうだったんで、若い頃というかね、
このように、さっき言ったように、自分を捉えればいいんだっていうふうな答えにたどり着くまでは、
えっと、これを自分で見つけ出し、
そして、これを自分で定義することが、まさに人生の目的だと思っていたんですね。
でも、残念ながらですね、これでは、多分、永遠に見つからないんですね。
なぜならば、さっき言ったように、僕らはその答えは、どうやって見つけようとするかというと、
自分をよく見てね、そして、その結果、よく考えるっていう、この知覚、まさに知覚と思考を使うんですよ。
さっき、あのコーヒーの話で出てきましたね、この知覚、語感ですね。
これと、この考えるという思考を使うんですよ。
でも、この2つはですね、必ず判断や解釈が伴ってしまうんですね。
さっき言ったように、知覚というのは、ありのままを見るんじゃないんです。先に心があって、
このように見たい、このように見た方がいいだろう、みたいなことに
沿って、僕らにそのインプットした結果を、そのように見せてくれるのが知覚なんですよ。
そして、思考はまさに、この判断や解釈をするものですからね。
だから、この、私とは何かっていう、これを知覚と思考によって、この答えを得る、を得ようとするとね、
必ず、もう様々なね、外側にある要因で、
いっつも、ゆらゆらゆらっとこう、揺れ動く、揺れ動くね、不安定な自分の像しか、多分、出来上がらないんですよ。
私とは何かについて
えっと、そうでなければですね、えっと、もっともっと早い段階に、僕らは、私とは何かっていう答えをね、
自分で、はっきりとこれだっていう風に認識して、信頼して、確信できるはずなんです。
で、多分、何度も何度も、僕も、私とはこういうもんだ、私とはこういうもんだっていう定義をね、
し終わった感じはいつもしてたんですよ。若い頃から。
いやー、しばらくはこれでいいんじゃないって。でも、必ず何かの要因によって、これ揺れるんですよ。
確信が持てなくなる時が来る。
なぜかというと、これを、あの、この答えを決める手段が、えっと、僕らにとってその手段は、知覚と思考だからなんですよ。
ここに判断や解釈が伴う以上ね、その時々の判断、その時々の解釈にならざるを得ない。
だから、外側の要因によって、その判断解釈が危ぶまれた時に、えっと、僕らが定義した、
これが私だっていう、この姿、自分の像が、いつもいつもこう揺れ動いてしまうんですね。決まらないってことなんですよ。
まずそれは、僕らの判断や解釈が揺れ動くからなんですね。
だから、決まらないんですよ。いつまで経っても。
まあ、永遠にこれはやることになるんでしょうね。
まあ、だからこそ、これが人生のテーマっていう風な捉え方もなくはないんだけどもね。
でも、これはやっぱおかしいですよね。ずっとずっと揺れ動かなければならない。
そして、知覚と思考というね、このあまり頼りにならないものを使っている。
で、たぶんその結果どうなるかというと、
ここで僕らは本来の自分よりも、遥かに小さくて弱いイメージしか持てなくなったんだろうなと思うんですね。
とてもさっき言ったような、愛によって作られた、この宇宙の神羅万象と一つにして同じ価値を持つ、
愛そのものである存在、なんていう結論にはたどり着かないんですよ。
そのように僕らの知覚と思考はね、自分自身を見て判断解釈できないんですね。
だから時には少し自分を大きくしたりね、強くしたりできるんだけども、
このゆらゆら揺れ動く中で、結局はやっぱり、
このさっき言ったような愛そのものである存在よりも、
たぶん小さくて弱いイメージしかね、持てなくなっちゃったんですね。
で、まあ、あの、自分で決めるんだったら、
怒りと自己評価について
下手するともっと大きく見てもいいんじゃないか、みたいなね、
そんな可能性もなくはないんだけども、
やっぱりこの、
なんていうのかな、そこには結構割とはっきりした理由があるんじゃないかと僕は思っていてね、
まずは、その、よくここの番組で言っている成長思考ですよね。
僕らは成長していくんだから、今の自分に満足してはいけないと、
つまりこれは永遠に完成してはいけないという教えでもあるわけね。
完成すると成長が止まりますからね。
だから常にやっぱり不足を見なきゃいけないと、
これによって僕らは本来の自分よりも、
遥かに小さくて弱いイメージを持つという、これ自然な流れですよね。
これが一つ。それからもう一つはね、こちらの方が大きいなって感じがするんだけど、
これは僕のね、かつての自分を振り返るとなんとなく見えてきたんだけどね、
たぶんね、この世界に怒りを抱いているからだと思うんですよ。
古くはね、メディア、雑誌、新聞、テレビとかね、
今はね、ソーシャルメディアがたぶんこれを重聴している。
この世界に僕らが怒りを抱くという、この感覚を
メディアとかソーシャルがね、強めている、そんな感じがする。
このメディアとかね、ソーシャルには、ものすごく才能がある人とか、
めちゃくちゃ成功をする人とか、
めちゃくちゃ多くの賞賛を得る人っていうのが映し出されますよね。
これを僕らは日々見せられている。
まあ、えっと、見たいから、見たいと思うから見ているのかもしれないんだけどもね、
そうすると、やっぱりこの、おお、すげえ、とか思いながらも、
僕らはやっぱり心のどこかでね、これは不公平だよなっていうふうなことを感じるわけね。
まあ、いろんな意味でですよ。
もしかしたら育った環境かもしれないし、持って生まれた能力みたいなことかもしれないけども、
なんかこの世界は不公平だよねっていう感じがするんですよね。
で、ここでまず最初の怒りを抱きますよね。
うーん、この世界はなんか不公平だよね、ムカつくよねっていうこの世界に対する怒りなんですよ。
で、当然だけども、そのようなね、成功する人とか才能がある人と、
自分が同じ価値を持っているみたいなことを考えるとね、
まさにその自分が日々やっていることが虚しく見えますよね。
そして何か、もしかしたら同じ価値を持つのに同じような結果が出てないってことは、
自分がサボってるからか、努力が足りないからか、みたいなこの罪悪感も持つじゃないですか。
で、いつも言うようにこの罪悪感を持つと、僕らはそれを何かにぶつけるんですね。
で、これがやっぱりこの世界の不公平さみたいなことと相まって、
僕らは結構、その
僕らが生きているこの世界に怒りを抱いているわけですね。
そしてこの怒りを抱いた結果として、
やっぱり本来の自分よりも遥かに小さくて弱いイメージというのを
持たされているっていう、そんな感じもしているかもしれない。
だから、この怒りはすごく大きな原因な気がします。
人間が創り出したゲームの世界について
でもね、今言ったようなこのメディアがあります、ソーシャルがあります、そこに才能のある人とか成功、
賞賛、そんな人が出てくると、
で、これって全部、全て人が作り出したゲームや競技の世界なんですよ。
そこでのこの才能があるとか、成功したとか、賞賛が得られたとかっていう、その結果なんですね。
まさにゲームのその結果としての商品というかね、順位だったりする。
だからこの宇宙の死んだ場所とは何も関係ないんですよ。
これ完全に僕らが作り出した競技の中の話なんですね。
だからこの緑の本にも書きましたけどね、
その世に活躍する人は本当は僕らの可能性を見せてくれているはずなんですよ。
もちろんね、全ての人がその大谷翔平になれるわけじゃないですよ。
大リーグでその大谷翔平みたいに活躍できるわけではない。
それは無理です。
でも、ここにそれぞれの個性に紐づいた役割というのがあるはずなんですね。
その役割においては、僕はまさにその大谷翔平が活躍している、
そのような同じ価値をそこで発揮できるんじゃないかと思うわけ。
だからその意味において、
お、人ってすごいねっていうこの可能性をいつもそういう人たちは見せてくれている。
そのように捉えるのが僕はいいんじゃないかと思います。
で、どれだけ評価されたり、もてはやされたりするかっていうのはね、
まさにこのトレンドの話でもあるし、
あと視聴率とかの話でもあるわけですよ。
視聴者がどんなものを見たいっていうときに、
こういうお金持ちを出そうとかね、
こういう大成功した人を見せようみたいなことでやっているだけであって、
これも僕らの本来の価値とは本当は関係ないんですよね。
だからこんなふうにその世界を捉えて、
これは僕らが作り出した、そして多分僕らが求めた世界でもある。
で、そこで何だか知らないけど、
この才能がある人、成功する人、賞賛を得る人に対して不公平と感じね、
そしてこの人たちと同じ価値なんて持つとんでもないよとそんなことしたら、
何かやってることが虚しいじゃんって言って、
罪悪感を持ちながらやっぱりこの世界に対して怒りを抱く。
これをですね、この僕らが作り出したこの世界をやっぱり許した方がいいなと思いますね。
この世界が悪いわけじゃなくて、僕らがその世に捉えてしまったっていうね。
で、そして次にね、そこに怒りや罪悪感を抱いて、
自分を小さくて弱いものという風に捉えてしまった自分を許す必要があるなっていう風に思います。
で、その上でもう一度ね、私が最初にお話したようにね、
私はどこでどんな風にして生まれたのかっていうことをね、
ありのままにこう見直してみるわけですね。
ゲームの世界、競技の世界で生まれたわけじゃないんですよ。
で、人が作り出したゲーム競技というのは、やっぱり何かに長けていたら有利ってことで、
だからそんなもので不公平だっつって、この世界に怒りを抱くのではなくて、
いやいやいや、もともとは広がる想像によって、
僕らはこの宇宙の森羅万象から生まれたんだよなってところに戻るわけですよね。
で、そうすると、さっき言ったね、
なるほどと、この愛によって作られたこの宇宙の森羅万象と一つにしてね、
同じ価値を持つ愛そのものである存在というのは、
決して受け入れがたいものではなくなるような気がしますね。
だからまずはその2つあるんですよね。
あ、3つかな。
1つは、もともと僕らはこの私とは何かを自分で定義しなければならないというふうに勘違いしてしまったと。
で、これは大きな勘違いです。
なぜならば、僕らは自分自身を想像していないからですね。
僕らが自分で作って、自分で作って、
僕らが自分で作っていないなら、それは何かの答えは、
自分で考え出すものではないはずなんですよ。
これは知ればいいんですよ。
こういうものだったんだなって。
自分で作ったものであれば、これはこういうもんですよって定義していいと思うんだけども、
僕らは自分で自分を作ってませんからね。
だから、この私が何なのかの答えは、
僕が決めるのではなくて、すでにあったんですよ。
広がる想像力の力を信じる
この宇宙の想像によってもう終わっているんですよ。
僕が何かっていう、このね、これに答えるということはね、
それは知ればいいだけなんですよ。
で、これが一番目。
で、二番目は、まさに成長思考ですね。
この成長思考を持っている限り、
この本来の自分の認識というのは、絶対に持てないと思いますね。
持ってしまうと終わるというふうに考えられているから。
でも、さっき僕が言った三番目。
これによって私は多分、自分の持っている想像力をいかんなく発揮できるかもしれない。
多分これが、私がその宇宙から頂いた原初の点がね、
この宇宙を想像するほどすごい力。
これを受け継いでいるということですよ。
で、これを使えるんだなっていうね。
もちろん僕らが宇宙を作ることはできないんだけども、
この日常の生活半径5メートルの中で、
まさにいつも言うように、この広がる想像。
私自身の思いを広げて、いろんなものを作っていくということができるわけですね。
そしてその力を持っているという認識がある方が、
多分私はパフォーマンス、ポテンシャルを最大限に発揮できるはずです。
だから思い通りにいろんなことがきっとできるようになるんだと思うのね。
本来の自分を捉える
これに比べて、この成長志向の自分に不足を見て、
そこを補っていくっていうやり方は、
どう考えてもこちらよりも良いとは思えないんですね。
本来の自分はこのようなものだという認識を持って動くのに比べて、
自分を小さく見ながら動くというやり方は、
どう考えても優れているとは思えない。
これが2つ目ですね。
だから成長志向で本来の自分を捉えない。
ゲームの中においてはいいんですよ。
例えばもっと打率を上げたいなとか、もっと営業成績を上げたいな。
これは競技の中のスキルを上げていくということなんで、
これに関してはまだまだ足りないなと思ってもいいと思うんですね。
そうではなくて、自分自身に不足を見てはいけないということです。
自分自身を許す
そのように捉えてしまうと、
この本来の自分の認識は多分持てない、絶対持てないでしょうね。
それから3番目。
この世界に抱いている怒り、これを許すということです。
不公平だと感じるのは、まさにこの人が作った仕組みだからなんですよ。
それは目に見えてしょうがないんですね。
しょうがないんですけどもね。
そこで活躍する人を見ると、なんだよこいつって思うのかもしれないんだけども、
そのような見方、そしてそこで自分が抱いてきた罪悪感みたいなもの、
それからなんか虚しいよなっていうこの感覚、
これをまとめてこの世界にぶつけていたという、
この世界を許してあげることですね。
そして自分自身を本来より小さくて弱いものにしたという、
この自分のやったこと、これを許すということですね。
そしてもう一度、私はどこでどのように生まれたのかっていうところを見直せば、
さっき言ったような愛そのものである存在っていうところを受け入れられるんじゃないかなって感じがする。
おそらくこの愛というのは、科学で分析できるようなものではないんですね。
なんかこんなこと言うと、逃げのように聞こえるんだけども、
これはもう仕方ないと思います。
多分この愛というものはですね、エビデンスとか理論がなくても、
僕らの知っているという感覚で十分に存在できるはずなんですよ。
それは本当にあるのかないのかを、この科学で証明しようとかね、
論理立ててだからあるんであるとか、だからないんであるとかっていうのも、
それもいいんですけども、
そんなものがなくても私の中にそれはあるかっていうこの問いかけの中でね、
多分僕らの記憶の中に残っていれば、
あ、知ってる愛ってあるよっていう、
この知ってる知ってる多分これだよっていうこの感覚だけで十分にもう存在しているということなんでね。
さっき言いましたけど、それは何かの答えも知るであるはずなんですよ。
そして愛というのも僕らが作ったものではないんですね。
このたまたまこの宇宙の原初の点が自分を広げて作った、
それを僕らは後付けで愛と呼んでいるだけであってね、
僕らが定義するものでも多分こういうものだっていうふうに作り出すものでもないはずなんですよ。
だから僕の心の中にあるなということをこれを知るだけでいいんじゃないかなっていうふうに思います。
だからここからはね、
愛と私とは何か
まさにその自分探しとか自己実現とかありますけどもね、
これもだからさっき言ったようにこの僕らが作った競技とかゲームの中でそれをやっていくことはね、
全然構わないと思うんですよ。
でももっと根本の私とは何かっていうそこの答えにおいてはね、
ここを自分で探そうとか決めようとかする、これはまさに誘惑なんですね。
これもおそらくガーディアンの誘惑なんですよ。
いやいやお前はもっと小さくて弱いんだよっていう方が安全だと思ってるからね。
それからそのようにして作ってしまった、つまり私というのはこういうものだよねっていうね、
こういうイメージ、これを白紙に戻してね、
ガーディアンの誘惑に負けずに自分で探したい、決めたいっていうこの誘惑を手放して、
そしてすでに作ってしまったね、もうこれ不確かなイメージなんですよ。
揺れるイメージなはずなんですね。
今そのように思っているっていうこの辺りを白紙にして、
もう一度自分とは何かを問う必要はないんだっていうね、
ここに帰結するっていう、これが大事ですね。
つまり今日の結論は私とは何かを問う必要はないということ。
これは知ればいいということですね。
すでに決まっているわけだからね。
で、それはこの宇宙の神羅万象の成り立ちを見れば、
私は愛によって作られたこの宇宙の神羅万象と一つにして、
全く同じ価値を持つ愛そのものである存在っていう風に、
ここに落ち着いてここに帰結していいんじゃないかと僕は思います。
この記憶がね、心の奥底に残っていないかみたいなことを確かめるというのが、
お知らせ
私のお勧めしている、この雑誌の提案しているグッドバイブスなんだろうなと思います。
その具体的な方法は、恐れや不安と罪悪感を手放しながら、
このような自分を思い出していくという、そんな感じですかね。
よかったらやってみてください。
それから今日は二つお知らせがありましてね。
一つは以前にお知らせしたそのグッドバイブス合宿。
これがまだ2席、お一人埋まりましてね、
あと2席ありますので、
よかったら今日この番組の概要欄に詳しいお知らせのリンクを貼っておきますので、
今週末なんですよ。
だからもう15、16なんで予定が合わないともう全然アウトなんですけども、
いけるという方はぜひぜひちょっと検討してみてください。
それから書き上げ宿が4月9日に初回講義をやる予定だったんですけども、
そこに実はですね、この新規の方が出席できないという方がね、
何人かいらっしゃいまして、
個別にこの今月いっぱい、4月の間にオンラインかなんかで、
個別に補修というか、その初回講義と同じことをね、
ほぼほぼマンツーマンみたいな形でやることになりました。
というわけで、本当はもう昨日この4月9日で8期の募集は終わるはずだったんですけどもね、
こちらもあと1席空きがありまして、
これがですね、本当はもう昨日で終わってたんですけども、
今月いっぱいぐらいまで延長されるというね、
これをちょっとお伝えしておきたい。
だから本当は申し込みたかったんだけど、
やっぱりなんかモジモジしてる間に終わっちゃったな、
みたいな感じを抱いてる方はですね、
なんと今月いっぱい間に合うぞ、
みたいなそんな可能性が出てきたということで、
よかったらご検討してください。
こちらも詳細ページのリンクを2つ貼っておきますね、今日はね。
ではそんな感じで、
今日はですね、
私とは何か?
私とは何か、この問いは立てなくていいということ。
これが重要なポイントなんですね。
なぜならば、それはもうすでに決まっているから、
それは知ればいい。
どのようにして、
多分僕らはそれを覚えている記憶の中にね、
それをなんていうのかな、
自分の心の奥底にね、探してみてね、
ああ、これか、あるかも、
みたいなことをね、
ちょっと実感しながら、
いい一日をお過ごしください。
ありがとうございます。