1. グッドバイブス ミッドナイト楽座
  2. 108 敬意と感謝の念をもって自..
2023-04-14 50:07

108 敬意と感謝の念をもって自分とは異なる他の人の個性を眺める

今日は、いつも私たちを悩ませる「自分と他の人の違い」にどう向き合えばいいかを話しています。身体とその表現を見るとあまりの違いに恐くなります。そこを看過するもうひとつの「平安な見方」があります。番組でお知らせした「仕事の不安から自由になるパートナーシップのあり方とは」のお申し込みはこちら→ https://goodvibes20230430.peatix.com

グッドバイブス合宿のお礼
グッドバイズ、ミッドナイトラクザ、 by クラザムケイザ
こんばんは。ただいま4月14日金曜日の午前3時ジャストですね。
今日はですね、最初にこの番組をいつも聞いてくださっている皆さんに、ちょっとお礼を言いたくてですね。
2つあるんですよ。2つのお礼。これをちょっと言いたくて。
1つ目は、前回前々回とね、ある種このしつこく告知させていただいた、グッドバイブス春の合宿ですね。
これが普段は、グッドバイブスファクトリーの皆さんと、それからかき揚げ塾、それから私のワントレの受講者ですね。
そういう皆さんにご案内しているんですが、あまり公に公募はしていなくて、たまたま今回ちょっとその皆さんがね、あまり都合がよろしくないという方が多くて、
少し空席がありまして、これを2回続けて公募という形で告知させていただいたところですね。
私も必ず来るという予感があるみたいなことを言ったんだけど、あの日、あの次の日かな、あの日、あの日か、前回のその番組のその時ですね。
まさに2人申し込みがありましてね、ちゃんと。
2席空いてるところに2人パッと埋まりまして、本当に気持ちいい感じで、
明日からですね、もう今金曜日ですので、土曜日から伊豆高原に合宿に行ってきます。
本当にありがとうございます。
なんかあの、言ってみるものだなというかね、この言うことよりも、なんていうのかな、この確信しておくということの方が大事かなっていうそんな感じがしますね。
どうせ言っても来ねえだろうなーって言ってこう喋るのと、いやなんか本当に来そうなんで、ぜひぜひみたいなことだとね、ちょっとこう伝わり方まさにこのバイブスが違うんじゃないかなと。
そんな感じでまずは本当にありがとうございます。
おかげさまでピタッと埋まりました。
許すという話の受け入れ
それからもう一つはですね、これはまあ、なんていうのかな、当たり前のことかもしれないんですけどね、私の思い過ごしというか、私のまさに思い込み、心象によって、
この前回のね、この許すという話があまり不人気だとかね、抵抗がある話だからちょっとあまり話すのがみたいなね、そんなことを言ったんですけども、
これがですね、なんと他の番組とほぼほぼ同じ、もしくはちょっとそれを超えるぐらいかなりね、聞いていただけたんですね。
だからこれも私にとってはとても嬉しいというかね、この番組はこの話しても大丈夫なんだなっていうかね、
これを言い方を変えるならばですね、これを聞いてくださっている皆さん、この許すという話をね、しっかりとやっぱり興味を持っていただけるんだということで、
これも本当にありがとうございますという、もうそういう感じですね。
なんか嬉しかったですね、昨日から今日にかけてね、聞いてもらえてるなというか。
それでせっかくですので、そんな感じなんでね、この数日、数日じゃないな、この数回お話ししてきた、
グッドワイブスのね、この世界をどう捉えるかとか、自分自身をどう見るかとか、そしてその許すという話とかね、
この辺が何につながってるのかっていう、そこをね、ちょっとまずは今この最初に整理しておきたくてね、
こういうのも前も言いましたけどね、この目的をちゃんと見据えてないとね、
なんでそんな、あの、もともとムカついたり腹が立ったりするやつをね、わざわざ許さなきゃなんないのよっていうところで、
よくわからなくなるんですよね、何をしてんだっけ俺みたいな。
しかもちょっとその目的を、ゴールを忘れてしまうと、それなりにちょっと心に負担がかかるようなね、取り組みに感じる。
本当はこれをやるととても楽になるんですけども、その途中というかね、うまくいくまでの間はやっぱりこの普段と違うことをやるんでね、
それなりの違和感というかね、抵抗もあるし、うまくいかないとやっぱ罪悪感を持ったりするしね、
ちょっと最初のこの入り口のところというかな、うまくいく寸前ぐらいが一番ね、ちょっとこう闇が深いというか、
夜明け前が一番暗いという例え通りなんですけどね、
人間関係と心の平安の関係
しかもその都合の悪いことに、この許すとかね、愛するとかね、そして何か一つになるみたいなことは別に私が新しく言ってることではなくて、
もう本当に僕の子供の頃から何度もこの耳にタコができるようぐらい聞いた話なんですね。
それがそのなぜこの都合が悪いことにというかというと、別のね、変な目的のために使われたんですよね。
これが何というかな、多くは多分この集団を乱さないとかね、集団の和を乱さないとか、この集団に都合よく生きる人みたいなね、
そんな感じにコントロールされてる感じがやっぱこうあって、おそらくその意図はあったと思うんですよね。
そういうことの教えの中にね、和を乱すなよ、だから一つなんだよとかね、喧嘩すんなよ、許しなさいみたいなそんな感じ。
それとまあなんかその方がいい人っぽいとかね、よくわからない。
この教えてる先生とかも道徳とかも教えながら、一体何を目指してるんだみたいなところがあんまり伝わってこない。
だからここはね、はっきり人がなくてはいけなくて、もともと僕は自分が40年近くやってきたこの生き方みたいなことに疑問を持ってね、
なぜかというと結果が伴わなかったからですね。
この結果というのは2つあって、いわゆるこの人が作った仕組みの中で得られるもの、お金とかね、知名性、ある種のサクセス、そういうものはね、結構手にしたんですよ。
まああの、なんていうのかな、すごい注目されるほどではないんですけども、それなりにいい暮らしもしていたしね、贅沢もしていたし、その辺は一応手に入れたつもりなんですよね。
まあもっとね、もっと欲を出してね、このまま邁進するという手もあったんだけど、もう一つのね、いかんせん、もう一つの結果が伴わなくて、僕はなんかこのレールというかね、この道に疑問を持ったんですね。
そのもう一つの結果というのが心の平安です。
その反対は恐れや不安。つまり僕はそういうね、いわゆる目に見える結果を手に入れながらもずっと恐れや不安が消えることがなかった。
そしてその恐れや不安を抱くとね、やっぱり僕らは人を攻撃したくなったり、自分を責めたくなるので、どうしてもこの人間関係というものを失い続けてきた。
自分の平安という入り口
そしてやっぱり一人では決して幸せになれないという緑の本、ご機嫌な仕事で冒頭に書いた事実に気づきね、これじゃまずいなと、なんか私は間違ってるんだろう、何かを間違ってるんだろうなというそういう感覚をね、必死と抱き、
残り40歳くらいだから半分くらい来たってことかな、この人生の半分をこのまま折り返す気にはなれなくてね、当然僕のいわゆる体力とか視力とか動ける時間みたいなのもどんどん減っていきますからね。
そんな中でこのどうにもならない恐れや不安を抱えたまま、そしてなぜか平安を得られない。平安を得られないということはこれは僕にとって幸せの土台なのでね、何をしていてもやっぱり楽しくない、本当には楽しめていない。
そして人との付き合いを安心して営めていないという、ここにものすごく大きな疑問を感じて、これを修正しなくてはいけないということで始めたんですね。
そしてたどり着いたのがまさにこの毎回お話ししている話なんですよ。だから他でもない。まずは私が幸せであるためのそのお話に過ぎないんですね。やり方に過ぎない。
簡単に言うと40年やっていた習慣を変えていくということ。これからやってみるとわかったんですけども、まさにこの真逆のやり方。ほとんど全部真逆のやり方になるというね。少しここを変えるとかね、ここの心掛けを変えるとかそういうことではなくてね、ほぼほぼ反転するというかね、全く真逆だったんだなということに気づいたんですね。
なぜ真逆になるか。これはとてもシンプルでね。僕がいたのはその心象の世界というかね、まさにそのイリュージョン、自分で作り出した心象の世界。だからその現実か心象かということで、これが真逆にひっくり返るんですね。面白いことに。
2人の自分という言い方で表してもいいんだけどね、本来の自分とこのガーディアン、いわゆる恐れや不安の自分、ここの考えていること、認識、それから何が幸せ、何が安全かみたいなものが全部ひっくり返っているってことなんですよ。そこを一つ一つね、自分の中でひっくり返しながらトライしてきた。それがこの話であるということですね。
だからそのガーディアンの世界で言うと許すありえないでしょ、みたいな感じのものが、いや許すと全部が解決するじゃん、みたいなふうにひっくり返っていくってことですね。同じ世界に生きているんだけど、なぜかそういうおかしなことが起こるという。これが私がお話しているグッドバイブスなんですよ。
そのようにして自分がだんだん平安な状態になっていくにつれて、やっぱりもう一度その一人では幸せになれないっていうところに戻っていくわけですね。僕一人が平安っていうことは基本的にありえないんですけどもね。
まあまあでも一人でいるときにはこの平安というのをパッと感じられる。でもそこに誰か別の人が現れた瞬間にね、またこれは一人でこの平安というのを作ってもしょうがないんだなということがわかってくるわけですね。
そうするとこれは分かち合わないといけないという結論に達するわけですよ。つまり僕らは生きていてね、いろんな出来事に遭遇する。そうすると私も今でも不安に襲われたり怖くなったりすることはしばしばある。
そんな時に、例えば二人でいるときにね、どちらか平安な方が、より平安な方がね、二人でこの恐怖のどん底にいるということも少なくはないんですけどもね。
でもそれにしてもまだ僕の方が平安かもしれないっていう方が、いや違うな、恐れや不安が少ないから、もうその恐れや不安があると平安ではないのでね、まだ僕の方が怖がってないから不安が少ないからっていう方がね、恐れや不安を和らげていくという、多分そういう分かち合いみたいなことを通さないと僕らは本当に平安な状態にはなれない。
ここでやっぱり自分だけではなく他の人というのがね、とても大きいんだなということが分かってきたわけですね。
で、まあそこからいろいろあって、つまりはこの一つなんだなと、あなたは私、私はあなただから、一つだから、だから僕が平安であってももう一人の人が恐れや不安を持っているとしたらね、これは一つとして見たときにやっぱり完全な平安ではないわけですね。
だから僕とその周りにいる人たちが全てこの平安な状態になっていくということがゴールだということが見えてきて、そして一つ意識だとかね、与えるだとか、そういう話につながっていっているわけですね。
まあでも結局何をしているかというと、それはやってみたらそうかそうか、自分だけ平安でも平安になれないんだな、だからしっかり他の人とここを分かち合わなきゃいけないんだっていうことは、最初の私はどうすれば幸せになれるだろうかという取り組みをただただやっているだけなんですよね。
なんか人助けのために何かをしているとかっていうのは、その最初の目的ではなくてね、正直に言うとですよ、そんなためにこのグッドバイブスは始めたのではなくて、結局私の平安というのはこの周りにいる人たち、少なくともこの半径5mにいる私が関わっている人たち、ここがハッピーでなくては成り立たないという、それが必然的にそこにつながったから、この取り組みはそこまで広がっているというね。
そういう感じなんですね。
だから、何だこれみたいなね、何のためみたいな時に、自分が幸せ平安になるためなんだなってところに立ち返ればね、それでこれやってんだなってこれを思い出すことがね、とても重要かなと思います。
そんなわけで、せっかくなのでね、この許すという話から続いて、ここでどうしてもやっぱり取り上げておかなくてはいけないのはね、つまりこの私一人という、私がグッドバイブスで白帯と呼んでいるね、まずは自分の平安だよっていうこの後ですよ、ここから必ず他の人が関わってくるんですね。
これもよくこの番組でもね、何度かここについてはお話ししましたよね、自分はグッドバイブスでも全然グッドバイブスじゃない人が現れたらどうすればいいんですかみたいなね、当然そういう疑問が湧いてくる。
ここに要はね、僕らが最初にクリアしなければならない、つまり他の人との関わりをいい感じにするため、この僕の平安を他の人に分かち合う、そして基本的にはみんな平安だよねっていう、いわゆる完璧な平安というのかな、ゴールとしての幸せ平安を得るためにはどうしても通っていかなくてはいけない入り口があるんですね。
これはもう入り口なんですよ。
これが自分と他の人の違いというかね、これをどのように捉えるかということなんですね。
人間の個性と異なる視点
これは私の攻撃のないコミュニケーションという本でもかなり最初の方に出てくるお話、そしてご機嫌な仕事にも書きましたね。
この世界には80億の人が住んでいると、そしてその80億の中に自分と完全に同じ人間は一組もいない。
これは全員違うってことなんですよ、つまりね。
そうすると私がよく言うその一つ意識とかっていう話をしたときに、当然ですけども誰もがね、最初から一つであるはずのね、僕らがなんでこれほどまでに何にもかもが異なって見えるんだっていうね、この疑問を抱かずにはいられないですよね。
この話をね、今日はしたいんですよね。
これをどう捉えて、どう扱えばいいのか。
で、なんで僕らはこれほどまでに異なっているのか。
この答えね、この答えは僕らの中に2人の自分がいる。
その2人は真逆の見解を持っているはずなんですよ、これについてね。
1人目の自分、これは自分を体とみなす自分ですね。
私はこの体なんだというね、これはまあ恐れや不安の自分という、つまり自分を体とみなしているので必然的に恐れや不安を抱いてしまう。
そしてその自分を守ろうとしてあれやこれをやる、これをガーディアンと呼びましたね。
自分を守るためにいろんなことをやるガーディアン。
こちらの見解というのがまずあるんですよ。
これはまさにその違いこそがね、現実はバラバラ意識だよっていうのを証明してるんだよと。
バカなこと言ってんじゃないと。
永遠に僕らは一つになれないよと。
みんな自分の利益、これを優先して生きてるじゃないかと。
だから出し抜かれたり欺かれたり騙されたりしないように十分に警戒していきなきゃダメなんだよっていうふうに見てるわけですね。
これがそのガーディアン、恐れや不安の自分、体を自分と見ている自分の見解ですね。
なぜこんなに違うのか。
もう一方、本来の自分というのがいるわけですね。
僕はこれがいると思う。
これがいてくれるから私がやろうとしたトライが成り立つということなんだけどもね。
本来の自分の方はどう見てるかというと、80億の違いはね、
この世界の幸せが80億の役割によって作られてるというね、
そういうすごい事実を表してるんだよってことですね。
例えばもし全ての人がね、この同じ得意と苦手を持っていたとしますよね。
もしくは同じ強みと弱みみたいなのを持ってたとしたら、
そこがみんな同じだとしたらですよ。
多分風が一つ吹くだけで、もう誰も前に進めなくなるんですよ。
この時に風に弱い人と風に強い人がいてくれる?
風が吹いたらもう無理っていう人と、いやいや風大丈夫だよっていうこの違いがあることによって
僕らは前に進めるということですね。
つまりこちらの自分はね、他の人が自分と異なっていてくれることに
もう感謝と敬意を贈りたいぐらいな感じを持ってるってことね。
自分自身の二面性
だから僕らはこれによってまさにこのワンチームなんですよ。
一つの完璧なチームである。
それはなぜか?
80億の個性と違いによってこのチームが成り立ってるってことですね。
同じ人は一人もいらないってことですよ。
役割が異なっているからうまくいくんだよっていうこの2つの認識。
これがこの見解がどこから生まれてるかっていうのが重要なポイントなんですね。
これは自分をどのように見ているか。
まさにここから生まれてるってことです。
さっきのその恐れや不安の自分はさっき言った通り
私とはこの体であると思ってますよね。
この薄くて弱い皮膚に守られて傷つきやすくて
最後はいつかはこの世から消えてしまう儚いこの体なんだっていう風に
恐れや不安の自分は認識してるわけです。
そうすると当然ですけどもこの認識通りに僕らは人を見ますよね。
私は体でも他の人は体じゃないこんな風には見られないわけ。
僕とはこの傷つきやすくて儚い体なんだって見てるということは
他の人も同じように体っていう風に見るわけです。
もうちょっとこの細かく見ると体だけじゃなくて
体とこの体が表現するその言動ですね。
体と表現を見てるんですよ。
体と体を使ってする表現っていうかね。
これが僕らが多分認識する他の人の全てなわけですよ。
つまり僕から見て例えば矢部静子さんというのは
矢部静子さんが持っている体と彼女がする表現
多分これ以外ないと思うんですね。
僕にとっての佐々木さんは佐々木さんというあの体
今頭に浮かんできてますけどね。
あの顔を持ったあの体を持ったあれが佐々木さん
そしてその体だけじゃなくて
彼が喋ること、表現すること、文章もそうでしょうしね。
行動、言動その全てですね。
体がすることですよ。
これ以外に多分僕らは
いわゆる矢部さんとか佐々木さんみたいなことを認識してないはずなんですね。
これがこの認識こそが僕らに恐れや不安を抱かせるわけですね。
どうしてかというと
それを僕らは何で捉えてるかって言ったら
この五感で捉えてますよね。
目や耳とかね。もしくは匂いとかもあるかもしれない。
あんまりそのお二人とも私はその匂いを感じたことはないんですけどもね。
五感から入ってくるこの体と表現の情報なんですよ。
これはこれが何もかもが自分とは異なってるんですよ。
これが僕らこの異なっているぞと
佐々木さんの体は俺と違うぞと
矢部聖子さんの体も俺と違うぞと
そして二人のする表現、この言動が
僕とは全く違うぞっていうね。
何もかもが違うぞっていう
これが僕らに恐れや不安を抱かせてるわけです。
しかもですね、この時僕らが使うのは先言ったように
近くなんですね。五感というのは近く。
この近くはこの番組で何度かお話ししましたけども
ありのままに何かを捉える装置ではないんですね。
マイクとかカメラではないんです。
これは心が決めた通りにね
僕らがその心で何かを思い描く
頭で何かを考える
自己理解と他者理解の違い
そうすると心象がそこに描かれるわけですね。
心の像が描かれる。
この通りだよねっていうね。
現実はこの通りだよねっていう
証拠を集める役割を担っているんですよ。
だからこいつは嫌いだ、こいつは憎いぞと思った瞬間に
僕らの近くはそいつがどれだけ憎いかの証拠を集めにいくということですね。
だから近くというのはこのフラットなインプット装置ではない。
これを使ってみているとどうなるかっていうと
程度っていうのが生まれてくるんですよ。
この程度という概念がね。
差が大きいか小さいかみたいなこの程度なんですね。
これは近くがその心に沿うことによってより強化される。
そうするとこの私が見たね、この佐々木さんとか矢部聖子さん、僕以外の人
これが自分とあんまり違っている、
これあんまりにも差異が大きいぞって感じるとき
僕らはですね、もうこいつは自分とは異質のモンスターやエイリアンみたいな
危険な存在だっていうまさに心象なんですけどもね。
これを作り出してしまうんですよ。
これが僕らを怖がらせているってことですね。
これに対してこの本来の自分はね、
これもこの番組で言っていますけども、私とは体ではないんですね。
他の人と完全に同じ価値を持つ愛そのものである存在。
つまり私とは形のない存在というふうに認識しているわけです。
体が見えないということではないですよ。
でも本体はどちらだよっていうね。
この体確かにあるよねと。
でもこれをこちらの本来の自分はまさにこの形のない思いみたいなものがね、
この世界で何かを表現するために使う道具と見ているわけですね。
だからこれは道具であって運転手ではない。
車と運転手でいうと運転手がこの形のないまさにこの思いのようなもの。
これはちょっと表現できないんですけどね。
これを表現するとこれも何ていうのかな。
言語化すると既にある既存のいろんなものと重なってしまうんで、
私はなるべく言語化せずに形のない存在としか言ってないんだけども、
こちらは運転手なんですよ。
そして車はその運転手が移動するための道具なんですね。
これが私たちの体にあたるということね。
運転手と車、思いと体というふうにそういう関係になっているということね。
だからさっきの恐れや不安の自分、ガーディアンの自分はこの車を自分だと思っているんですね。
でもこれって僕らはついついここをやりがちなんですよね。
すごいデコレーションしたトラックとか、
もしくはすごい改造して飾ったり、
もしくは内装とかもいろいろいじっている車に乗っているというケースであると、
まさにその車が自分のように思えてくるんですよね。
この取り違いみたいなことは僕らは普通にできるんですよ。
だから僕らの心の創造力というのはすごくてね。
車でさえ自分自身だと思えるっていう。
例えばすごく大事にしているコレクション、
そういうものって自分だみたいな感じになりますよね。
自分の一部だみたいなね。
一部だったらいいんだけど、
車とかその辺だと自分そのもののような感じになる可能性まであると思いますね。
体をそのように見ているということですね。
だからこの道具である体が私自身だと見ているか。
そうじゃなくて、いやいやそれは道具なんですよ。
運転手ここにいますからって言ってその運転手の方を自分と思うかっていうね。
この大きな違いによって僕らは他の人が自分と異なっている点、
それを全く違うように、違う形で認識しているってことですね。
整理するとそのガーディアン、恐れや不安の自分は体を見ていますからね。
体とその表現を見ていますから、ここは本当にもう自分とは全く異なる。
そして知覚はさらにそれを強めてしまう。
そして程度という概念を持って大きい、ものすごく差異が大きいみたいなことを認識してしまう。
そうするともうその人は人ではなくてモンスターやエリア、自分とは全く異なる存在だ。
ガーディアンと本来の自分
よくなんか生まれた星が違うみたいな感覚を持つこともありますよね。
この人は異星人じゃないみたいなね。
そんな感じですね。
よく昔、新人類みたいな言葉もあったじゃないですか。
あと今というとこのZ世代みたいなね。
こういう表現って多分自分とは異質だってことを表してるんですよね。
そしてそれを何がその異質だと思わせてるかっていうと、やっぱり表現ですよね。
体もちょっとやっぱりなんか最近の若い人たちはスラッとしてますからね。
なんか食べるものが違うのか、その星座とかうさぎ飛びをしなくなったからなのかわかんないけど、
なんか僕が見るにね、やっぱ最近の中学生、小学生あたりの子供はね、
本当にこうスラッとして足が長かったりとかして、
こんなスタイルの人は僕の子供の頃は滅多にいなかったなっていう。
まさにこの体も違って見えるんですよね。
世代が変わるとね。
これにその恐れや不安を抱き、僕らは一つではないよねと。
こいつら全然違う存在だから警戒してないとまずいぞっていう、
これが恐れや不安の自分、ガーディアンの見方。
自分と他人の違いの見方
でも本来の自分はその体は道具だとわかってるんでね。
この本来の自分が私は形のない、例えば思いのようなものだとするならば、
相手もそうだと思いますから、その体表現の違いを、
自分とその人の違いというふうには見ないわけですね。
道具が違うだけだなって。
もちろんだから見えてるんですよ。
こちらの本来の自分もね。
あ、体と表現違うなと。
でも同じようにその恐れや不安の自分が自分は体だと思った、
その認識の通りに相手を体と見なすようにね。
こちらの本来の自分は、自分は形のない存在だ。
その認識の通りに他の人も捉えるわけですね。
だから五感から自分とは全く異なる体や表現という情報が入ってきたとしても、
自己と他者の捉え方
別にそこで恐れや不安は抱かないんですよ。
例えるならば、さっき車に例えたんで、自動車が飛行機を見るような感じね。
この恐れや不安の自分だとすると、こいつ羽根がついてて気持ち悪いみたいな感じなんですよ。
自動車が飛行機を見て、あとエンジンの音うるさくねみたいなね。
俺のエンジンの音こんなうるさくないんだけどなとかね。
あとこいつめちゃくちゃ整備に時間かかるじゃんみたいなことをね、
こう思いながらこの体を見てますからね。
期待を見ながらこの恐れや不安、暇感を持つわけですよ。
でもこの本来の自分は、それは道具であるとね。
ここを動かしてる運転手、そこを見るんですね。
だから相手を異質な存在とは見ない。
恐れや不安も抱かない。
ただただその互いの役割、ここを尊重しながらね。
例えば、おーっと。
他者の個性の捉え方
今日君は空を飛んで海外に人を運ぶんだねと。
相変わらずいい仕事してるよねと。
こっちはね、高速道路で九州まで荷物運ぶんだよとか。
今日もお互い幸せ作っていきましょう。
お疲れ様みたいなね。
こんな感じの挨拶を交わせるはずなんですよね。
だからこちらの自分にとっては、
体はね、80億分の1の役割を担うために扱えられたみたいな感じかな。
その人だけの唯一無二の貴重な道具みたいに認識してるってことですね。
でももちろんね、この道具が違えばですよ。
そこからね、個性あふれる言動がそれぞれ発せられるわけですね。
それもこの道具の一部にしか過ぎない。
そんな風に見てるわけですね。
エンジンの音がうるさいとかね。
これがまさに表現なんだけどね。
自動車が飛行機を見て別にそこは気にならないわけですよ。
これはこの人の役割を担う道具の個性あふれる表現の一つなんだなっていう風に見えるわけです。
この道具を動かしているのは思いであると。
そうするとそこは形がない。
これはもう目で見るとか耳で聞くものではないわけですね。
でもこちらの本来の自分っていうのは自分自身がそのようなものだと分かっているので、
相手のそこを、これを相手も見ると言うと変なんだけども、そこを分かっているわけですね。
そうするとここには違いがないなと。
私と一つだなっていうことが分かる。
こんな感じなんですね。
このように他の人の個性と違いというのを捉えると。
これをやりたいわけですね。
このように見たいわけですよ。
他の人と他の人が僕と異なっているということをそのように見たいんですね。
だからゴールは敬意と感謝の念を持って自分とは異なる他の人の個性を眺める。
これができればいいんですよ。
例えばそれが僕らの中にあるこの主義とか正しさとか美意識とか、それに反していたとしても怖がる必要はないと。
これがこの80億の違いがこの世界の幸せを作っているんだっていうこういう仕組み。
これをイメージしながら怖がるのではなくて、まさにその敬意と感謝の念を持ってみるっていうね。
興味を持って観察するでもいいかもしれない。
なんでこの人こんなに違うんだ俺と。
佐々木さんってなんでこういう体してんだと。
なんでこんな発言するんだと。
なんでこんな行動するんだみたいなね。
これを興味を持って観察するっていうことですね。
私はまさに今これをお勧めしているのでね。
このように見る一週間を一生懸命一生懸命つけてきたんですけども。
そのようにしてみるとね、本当にこの矢部聖子さんとか佐々木さんとかは僕を言わせるとおかしな行動をやっぱりいろいろするわけですよ。
これも僕の正しさからくるおかしいという表現なんだけどね。
だからこのここだけを見てたら多分だけどもそう長くは付き合えないなっていう感じは否めないわけですよ。
でもこれがこの人の役割のために必要なんだなっていうことをね。
しっかりと認めると受け入れるとですね。
この人もこの人も80億分の1の個性と役割を担うためにこのような体を持ちこのような言動をしてるんだなっていうふうに見ると。
とても微笑ましくなるんですよ。
すごくやっぱり興味が湧きますね。
なんでなんで自分にはないからね。
どうしてっていうふうにね。
そこがわかればわかるほど愛せるというかね。
やっぱりこの人は愛すべき人なんだっていうこんな感覚にやっぱりなれるんですよね。
これを私はお勧めしたいんですよ。
提案したいんですね。
じゃあこれをどうやってやるかっていう。
まさにここがないとね。
提案はわかるんだけどどうすりゃいいのって話になってしまうんで。
まあ私もねドンズバでこうすれば身体や表現ではない形のないその人を見られるみたいなね。
ここはドンズバでこれが正解ですとかこうやればうまくいきますみたいな答えは持っていないんですね。
ただこんなふうにやるといつかそれが見えるんじゃないかなみたいなこのぐらいの説明になってしまって申し訳ないんですけどもね。
これは本当に言語化するのが難しい。
でも2つの見方があるんだってことを認識しておくのは重要なんですね。
可能性としてできるかできないか置いておいて。
ムカつく見方と心が揺れない見方
簡単に言うとねムカつく見方っていうのと人ですよ。
他の人を見るときにムカつく見方とそれほど心が揺れない見方の2つがあるんだなっていうこれを信頼しておくんですね。
そしてムカつく見方の方はこれはもう先ほどからお話ししているように相手の体や表現を見ているわけですね。
これを何で見ているかっていうとさっき言った知覚で捉えているわけです。
知覚というのは心に沿うありのままを見るインプット装置ではなくて心に沿う証拠集めの道具みたいなものなので
必ず見る聞くというその互換の中に考え判断解釈を伴っているんですね。
だからムカつく見方をしているというときはつまり今こいつ見てムカついてるっていうのがこのムカつく見方なんですけど分かりやすいですよね。
他の人を見てなんかムカついたりざらついたりしているときは俺はこちらのもう一方の今見方をしてるんだな。
それは何かというと知覚という考え判断解釈を伴ったインプット装置を使っているんだなというふうに捉えておくわけ。
これはさっき言ったように全く頼りにならないんですね。
しかも見ているのは体と表現というこの道具から発せられる言動これを見ているのでこれはその人ではないということですね。
今はそちらを見てるんだなだからムカつくんだなというふうに捉えておく。
そしてもう一つそれほど心が揺れない見方っていうのがある。
これは何かというと少なくともこの知覚ではないなってことですね。
そのように見ているとき僕らはこのいわゆる心に従ってしまう考え判断解釈を伴う知覚で見ているってことではないってこれ分かりますよね。
そうすると何で見るか。
でも僕らには目と耳と五感しかないんでね。
ここを閉じてしまうと目を閉じて耳を塞いでしまうと相手がいることすらわからなくなるんで同じこれを使うしかないんですよ。
でもこの知覚ではなくてここにつまりなるべく考えとか判断とか解釈を混ぜないっていうねこれをピュアにするっていうことです。
できるだけそのマイクとか完璧には無理なんですけどね。
カメラのようにありのままに捉えるっていうことを心がける。
ピュアなインプット装置
これを僕は行使計帳と呼んでいるわけですね。
同じ目や耳を使うんだけれどもいわゆる騙されている近くではなくてそこの余計なノイズ考え判断解釈。
意味付けと言ってもいいんだけどね。
それを取り外した状態でここは何とかそれに近づけるというところで妥協するしかないんだけども。
でも騙されっぱなしで見るよりは全然多分違う反応をしてくれるんですね。
これをステアリスン行使計帳と呼んでるんだけどもこれを使って私がやってる感じで言うとね。
まず体が見えますからこれを感化するんですね。
見過ごすというかね。
ここに騙されずにこの中に入っていくんですよ。
そして表現、これはもう本当に受け流す。
こいつに騙されちゃいけないんでね。
受け流す。
多くの場合この表現というのは恐れや不安の自分がいろいろおかしな表現をしてくるのでこれをその人だと思ってはいけないんですね。
そうするとこのムカつく見方の方にコーンと持っていかれるんで体を見過ごしそして表現を受け流すんですよ。
それ以外何があるの?
そこがあるからこの本来の自分というのが見えるわけですね。
そこを信頼する。
この体を見過ごし表現を受け流すと何が見えてくるんだっていう風に相手を見るわけですね。
僕のイメージではそれは形のない心思いみたいなものなので僕が持っているものと多分同じはず。
それはどこにあるんだっていう風に自分の内側を見ていくと何となくこの辺にありそうだなみたいなイメージできるわけですね。
僕はやっぱり胸の奥なんですよ。
もしくは頭の上なんですね。
そのどちらかにいつもそれが言ってくれるような感じがする。
その辺をずっと見よう見よう見ようというね。
ある種念じながら見せてくれ見せてくれって言って頼みながら相手に少し頼みながら心の中で見せてくれとか言わないでやっていると感じる時があるんですよ。
これかもっていうね。
これはもう僕のワンワンのセッションの時は基本的にはこの見方しかしないでずっといるんですけどね。
だからねやっぱりこう普段と違う見方なんで今のところ僕はやっぱり90分やると疲れるんですよ。
目的と確信
これが疲れなくなるといいなぁと思うんですけどね。
いつかそうなる感じはするんだけど。
目で見て耳で聞いてではなくてそこの判断解釈をできるだけ手放してピュアなインプット装置にしながら体を見過ごし感化しそして表現を受け流し。
その人の心の中にあるようなこの形のないその人の本来の姿みたいなことをずっと見に行くんですね。
見よう見ようとしている感じかな。
そうするとどっかでピタッとなんかね合う感じがするね。
自分のその形のない自分と相手の形のない自分がピタッと合う感じがする。
それがすごく長く続く時もあれば一瞬で終わる時もあるんだけども。
それを一回でもねパッとこうあったぞっていうのがわかるともうそのまさにね体とか表現というのは本当にこの道具のやっているものに過ぎないんだっていう風にこうみなすことができるんで。
これによって恐れや不安をそこに抱かないようになりますね。
まあこのぐらいなんですよ申し訳ない。
だからできるだけ意味づけをせずに考え判断解釈をせずに見るということから始める。
そしているぞというこの確信ね。
いると思わないとね探せないんですよ。
これはあの家の中で何か物をなくした時と同じですね。
もうないんじゃないかと思うと探せないじゃないですか。
いやでも絶対この部屋の中にあると思ったら本当に引き出しの奥とかね本棚のその裏とかを見るんですよ。
そうするとこのあるという信頼によって見つかるんですよね。
どこかで諦めるともうこの部屋にはないなっていうことになってしまうんで探し物は見つからないんですよ。
これと同じようにあるぞというこの確信だけはね持っておいて見えなければ今回は見えなかったなっていうそんな感じでいいと思いますね。
まあこのぐらいなんですよちょっとやってみてください。
これができるとですね前話でお話した許すっていうのはあんまり意識しないで済みますね。
もうあの許す以前にうっとこう恐れや不安が取れてますから僕はその人に対してねその人のいわゆる目で見る耳で聞くこの体そして表現によるこの違いみたいなここに恐れや不安を抱かなずに済むんでね。
だからこれはですねこのように見てもどうやってもムカつく見方しかできないっていう時にどうしても無理って思った時に許すを通るしかないというそんなことなのかなっていう気がします。
だからまあこれはねあのあんまり無理をしない方がいいですね。
他者の個性を眺める
ここを無理するとあと余計嫌になってくるのでやっぱりおすすめはね攻撃のないコミュニケーションでも書いたようにこれがやりやすそうな人人しい人ですよね親しい人そして割と好きな人こういう人を練習台にしてこの体と表現を感化するこの成功体験を積むんですね。
だからまあほんと一番いいのはねもうこの大好きなこのパートナーとかねそれが一番いいですよそうするとこの人がねうわなんかこの人今ムカつくこと言ってんなーとかねムカつくことしてんなーとかっていう時にこのいやいやここを見るんじゃないんじゃないんだよねっていうこのここを感化してこの人の本当の形のない自分というのを見るんだよねっていうねこれをやると
多分うまくいくんですよこういう感じかなっていうこういう成功体験を積みながらえっとその時自分の頃がどうなったかっていうねまずここをしっかりと確認する間違いなく平安になるんですよこのイラつく見方をしている時よりもねそして相手がどう見えたかここも大事なんですねここも確認してくださいさっき言ったように愛おしくなりますうん
そして興味が湧いてきますねこの自分の心が平安になり相手がまあどんなことをしていてもそれなりに愛おしくて興味が持てるっていうこの状態をあのしっかりと覚えておくんですね
これをそれほど親しくない人にこの思いを覚えておきながら試してみるとこのトライを重ねながらあそっかそっかこのように違いと個性というのをね見ればいいんだなっていうふうになっていくというそんな感じですかね
最後にねえっとここからはその最近時々お話するその僕の夢物語の一つなんですけどもねこの体とね今日お話したこの体とその表現を緩和してその人の本質であるねこの形のない自分というのを見ることができたら何が変わるかっていう話なんだけども僕はあらゆるこの世界のね差別がなくなるんじゃないかなと思っています
多分多くのね差別というのはこの体と表現の違いにね僕らが恐れや不安を抱いてるってことですよねまずねそしてさらにその対象にね自分の罪悪感を投げて攻撃するっていうそういう行為だと思うんですよだからもう本当にねシンプルになんでそのかつてねまあ今もそうなのかもしれないんだけどもその男性が例えば女性を差別するのかこれは違いが怖いからにほからないんですよ
でその違いとは何かもうこれは目で見えるその体そしてその表現ですよねこれが怖いんですよ
例えばその性的マイノリティっていう話があるんだけどもそういう人たちに寛容になれないのもこの目で見るその五感で捉える体と表現が自分が正しいと思ってるものと異なるからですよね
今ね一緒にこのポッドキャスト番組知恵と園というのをやってるね知恵さんいるんだけど彼女は恋愛対象が女性なんですね
でもこの番組の中でも彼女がその恋愛で苦労してきた話っていうのはもう本当にたくさん聞いてきてね
まあ時々涙ながらに語ることもあったでもそのお話を聞きながらね僕はまさにその彼女のねこの形のない恋心この形のない方ですよ
これは私の恋心と何も変わらないなっていうのが本当に伝わってくるんですねここが一つなんですよ
だからその彼女のえっと体そしてその表現これが自分たちと違っているからって言ってなぜ恐れや不安を抱く必要があるんだ
同じ恋をしているだけですよねこの形のない方が僕らの本質だっていうことにえっとそのような見方が僕らができるようになったら
多分それと違う人を見てもその表現が体と表現の違いを怖がったり不安になったりする必要はなくなるわけですよ
そうすればおそらくこのあらゆる差別そして分断みたいなことはなくなってくるはずですね
差別との向き合い方
なんかこう今話しているとさっき僕夢物語と言ったんだけど今お話したような問題っていうのはまさに僕らが今直面している問題ですよね
どうしたらこれは夢物語とか言ってる場合じゃなくてね今すぐにこの見方を身につけなきゃならないのかもしれませんよね
なんかその人の歴史というのをたどっていくとやっぱりこの体と表現という問題に関してね
だいぶ僕らはいろんなことをクリアしているはずなんですよこの人の歴史の中でね
だからまあまあ昔よりは平和になっているわけですね暮らしやすくなっているわけ
もっと昔は酷かったと思いますねだから今さらにねさらにこのなんていうかな単に頭でね
人はみんな一つだよねとかね人類みんな兄弟だよねとかっていうその概念とかね
なんかそういうものでこうなんとかするんではなくてまさにこの見方っていうのを変えるっていうかね
形のないその人の本質を見るというこの見方というのはもしかしたらもう現代の僕らがクリアしなければならないね
人がクリアしなければならない次の課題なのかもしれませんよね
なんかその先駆けになるためでもですね先駆けってのも変ですけども
ぜひですねトライしていただければなと思います
今日のお話をねそんな感じですかねで今日もねお知らせが一つありまして
4月30日これは日曜日かなえっとですね
菅原邦也さんというこれはプロのコーチの方なんですけどもね
コーチングをやってらっしゃる方なんだけどもこの方とひょんなことから知り合いましてね
仕事の不安から自由になるパートナーシップのあり方とはというイベントをやります
これはですねいつもかき揚げ塾をやっている神保町の会議室で
だいたいそうですね定員で言うと僕と菅原さんの2人を除くと6人ぐらいかな
結構少人数な感じでディスカッションとかねそれからもうその場でこの相談をするみたいな
そういう感じでちょっとやりたいんですよねテーマはパートナーシップです
まさに今日の話題と同じ僕らはその一番大事な人一番大事な家にいる人ですね
主に一緒に暮らす人家族だったりパートナーだったりするんだけども
この人ともですね今日の言うその今日の私がお話したこの違いですね
自分との違いによってなかなかその分断していることが多いんですよ
でもこの番組でもお話したようにこのホームという機能はねとても僕らにとっては大切で
外の世界でねこの自信とか自分の価値とかねそういうものを見失った時に帰ってきてね
あなたの価値は何にも変わらないって言ってくれるそういう存在そういう機能なんですよ
パートナーシップとは
子供の頃はこれをまあね多くの場合はその親が果たしてくれていたんだけども
大人になってこの家からまさにホームから出るとねこれを自分で作らなければならないんですよ
だけども僕らはパートナーというのはねまあ最初のこの恋恋恋の恋愛してるときは後燃え上がったりするんだけども
そこが落ち着いてくるとね何かあんまりも一緒にいたくないとかねできればこの休日は一人で過ごしたいとか
まあかなりかなりこう粗末に扱うようなことをしていくわけね
そうすると例えば仕事で不安を抱いた時にそれを全部一人で解決しなくちゃいけない
そして大切なことをねこのパートナーには言えないとかねそういう結構厳しい状況になっていくわけですね
よく言うねこのも特に昭和の頃によくあった僕で言うとねもう女房のご機嫌取っておいたほうが何かと楽だよみたいなそういう話とは全然違うんですね
もっと大切なものとしてお互いでいい関係を築きそしていいホームを築きましょうっていうそういうお話
これをまあねその片方の取り組みつまりこのイベントに来ていただいたその片方の取り組みによって気づいていこうというそういうお話ですね
これができるんですよねどうやってそれを実現していくんだっていうことでね興味をお持ちの方はぜひご参加ください
4月30日です6人ぐらいなのでねお早めにお申し込みください
まとめ
じゃあ今日はですね私たちの近くに騙されずにねこの体を感化しそして表現は受け流し
敬意と感謝の念を持って自分とは異なる他の人の個性を眺めながらいい1日をお過ごしください
ありがとうございます
50:07

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