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2025-02-13 13:36

#15 四十にして「惑わず」ではなく、「囲わず」

古代中国の思想家である孔子の言説をまとめた『論語』という書物の有名な一節に

「四十にして惑わず」

があります。が、これは解釈違いで実は孔子は「囲わず」という意味合いを述べていたのではないか?という説をご紹介しつつ、それにとても共感してるというお話です。

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本日は2月13日の朝ですね。 今日も快晴ですね。
かなり空気も緩んできましたね。 まさに先日、立春も過ぎて、いよいよ
春になってきたなぁということに、
趣を感じています。
さて、本日はですね、
よく言われる、「四十にして惑わず」という言葉はですね、
惑わずじゃなくて、囲わずという心書きの方がいいんじゃないかなっていうふうに思ってますという話をしようと思います。
先ほどお話ししました、「四十にして惑わず」というのは、
まあ昨今の40代とかぐらいのビジネスパーソンに向かった心掛け的なので、
ちゃんとしなきゃダメだぞ的な文脈で使われたりすることが時々あるかなと思います。
この言葉というのは、もともと古代中国、大体紀元前5世紀とか6世紀ぐらいですかね。
だからもう今から2500年とか前の方ですよ。
古代中国の思想家である孔子という方がですね、論語という有名な書物の中で
正確には孔子本人が論語を書いたというわけではなく、論語に出ているものは基本的に詩、曰くというところから始まるんですね。
つまり先生はこうおっしゃいましたということなので、
弟子が孔子の言葉をまとめたというようなものではあるんですけども、
孔子がこう言ってましたよという言葉が綴られているのが論語だということですね。
その中の一つのフレーズが、始終にして惑わずというのがあるんですが、
これはもともと孔子がですね、私はこのように生きてきました、年を重ねてきましたというようなことを語った一節がありまして、
我十優吾、だから十代にして学を志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、みたいな感じが続くんですけれども、
この中で四十にして惑わずというものがですね、よく取り上げられますよねというところになります。
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実際四十ぐらいになると、働き盛り、あるいはそこからもうちょいベテランの方によって、
ちょっとこれからどうしようかなっていうふうに考え直す時期でもあり、
すでに中堅ぐらいのポジション、あるいはそれ以上のものを得てもいて、
まあもっとしっかりしていかなきゃな、みたいなところへの葉っぱ掛けみたいなのでよく使われるフレーズが多いんですが、
この四十にして惑わずというふうに孔子は言ってないんじゃないかっていう本をですね、以前読みまして、それがすごい面白くてですね、
どういうものかというと、安田昇さんという、この方はですね、農学士、農ですね、伝統芸能の、特に歌いとかをされてる方なんですけれども、
この方は非常に伝統的なものを身体感覚で捉え直そうというものをですね、
つまり学ぶというような、いわゆる性的な静かなもの、学びみたいなものと、
脳のように体を使って動かす動的なものとですね、組み合わせて新しい解釈をご提案されているという非常に面白い方ですね。
その方の著書の一つに、身体感覚で論語を読み直すというものがあるんですね。
身体感覚で論語を読み直すってどういうことみたいな、論語って普通に読むだけのものじゃないの?っていうこともあって、ちょっと手に取って読んでみたんですが、
これ中身非常に面白い本なので、ぜひ皆さんにもご一読いただきたいんですけども、実はですね、その中に先ほどの始終にして惑わずというものについて触れてある箇所がありまして、
この安田さんという方はですね、中国の古典、論語とかにもめちゃくちゃ詳しい上に、古代の文字にもめちゃくちゃ詳しいんですね。漢字の成り立ちだったりとか。
で、惑わずというのは、漢字で書くと、あるというような字の下に心というのがあって、
惑わず、惑うですね。その字で行くなと書かれているわけなんですが、安田さんがおっしゃるには、孔子が生きていた頃の時代には、心という漢字がまだなかったと。
少なくとも一般的に使われるようなものではなかったと。心というものがちゃんと認識されて、いろんな漢字に心というものが使われるようになったのはもう少し後の時代なので、
この時、孔子は惑わずというふうに書いてなかったはずだっていうふうにおっしゃるんですね。すごい面白いなと思って。
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じゃあ、なんで今、惑わずっていうふうに残されていて、みんながそういうふうに思ってるのかっていうと、
もともと古来、中国の方には、読みが同じ漢字ならば入れ替えてよしというような文化があったそうで。
まあ、どうでしょうね。ちょっと乱暴に現代的な感覚で言うなら、例えば、川に架かっている橋ですね。
その橋が美しかったみたいな仮に文章を書いたときに、発音が同じなんだから、ご飯を食べる橋と漢字を入れ替えてもいいじゃないみたいな感覚ですね。
意味全然ちゃうやろみたいな感じなんですけど、そういうような文化がかなりあったらしく、
そういうものに乗って、孔子がもともと書いた心という字が含まれてないものを、惑うという字に書き換えてしまって、それが広がったのではないかというのが、安田さんの説でして。
じゃあ、孔子が書いたのは惑うじゃなかったら何なんだっていう話になってくるわけなんですけど、
結局、惑うっていう字から、当時は孔子がいた時代は心っていう漢字がなかったっていうことで、心を取り除くと上の部分ですね。
今だったらあんまり使わないですけど、あるいはみたいなふうに使ったりとか、あとは旧字体、昔の書き方で書いたときの国っていう字の中の部分が残ると。
これが中国の漢字の発音で言うと、日本語で読むとあるいはっていうのと惑うっていうのが同じ発音なんで、これ差し替えられちゃったんだろうと。
つまり、孔子がもともと始終にして書いてたのは、今の読み方で言うとあるいはっていうこの字だったであろうと。
で、この安田さんの論調がまた面白くて、孔子がその先ほど言ったような割れ十五にしてほにゃららからずっときて、
で、始終にして惑わずっていうのは、孔子はたぶんこんなことをいきなり言わないみたいなことをしたんですね。
めっちゃ読み込んでるというか、孔子はこんな人じゃないみたいな、俺とは解釈違いだみたいな感じで書かれてるのがまた面白いんですけど。
つまりポンポンポンと流れてきて、始終にして惑わず、つまり何も惑わないほどきっちりしなさいみたいなこと、たぶん孔子は言わないと。
で、じゃあなんて言ったかというと、さっきの字ですね。つまり、あるいはと読んだりするような、あの字はですね、実は領域の域ですね。
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地域の域から地変を取ったらあの字になるわけなんですけども、結局その領域とかですね、教会みたいなものをもともと示している字であるということだそうなんですね。
それに、要するに否定ですね。もともと惑わずっていうふうに言われたぐらいなんで、否定の漢字である不思議の不がついてるんですね。不可能の不。
ノット、つまり教会を作らない、つまり囲わないみたいな意味合いで、もともと孔子はこれを書いていたはずだというふうにおっしゃっていて、
つまり、人間、歳を重ねて40ぐらいにもなれば、でも当時の、だって2500年前の40歳ですからね。当時、だって信長の時代でも人生わずか50年って言われてたぐらいですから、
たぶん40まで、40になるまで生きてらっしゃらない方も結構いらっしゃったような時代での40ですから、かなり、もう今の時代で言うとかなりご老人に近いぐらいなニュアンス、初老ぐらいな感じじゃないですかね。
そういう時代、年ぐらいにもなっていくと、要するにいろいろ凝り固まってきて、自分の考え方とか、こういう関係とか、何かをやるスタイルとかが固まってきてしまうと。
だからこれはこういうもんだ、それは違う、みたいなふうに、要するに自分がこうだと思うこととそうじゃないみたいなものを分けて、教会で分けてしまいがちだと。
そういうことはしなさんなよというふうに孔子は言ってると考えると、非常に負に落ちるというようなことが安田さんの書に書かれていて、これめっちゃ面白いし、僕も同意するわっていうふうに思ったんですね。
だから当時の40っていうと、今でいうと50とか50代とか、下手したら60ぐらいの扱いとかでもいいのかもしれませんけど、いずれにしてもやっぱり人間年取ってくると、本当に僕も結構いい年なんでもう実感するんですけど、
いい意味で言うとスタイルが固まってくるっていうことなんですけども、とか自分の信念みたいなものですね。それは柔軟性に欠けてくるっていうことでもあってですね、特に今その予測不可能時代みたいなこと言われていますし、いろいろもう激動で本当に数年後何がどうなるのやらさっぱりわからないみたいな。
今みたいないわゆるチャットGPTみたいなことが出てくるっていうのを例えば10年前に予測できた人っていうのは誰もいなかったと思うので、本当にそういう時代のなんか、今までこうだったから、俺としてはこれでうまくやってきたから、今後もこれでいくっていうのはまあいろんな意味でちょっと通用しないよなみたいな。
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ということは、僕は特にエンジニアなので、やっぱり新しいものが常に生まれたり、これを身につけていかないとみたいなところでやらせていただいているので、特にこの心分けは大事だなと。だからそれこそもう40代ぐらいになったら、それをですねやっぱり打破するっていう意味でも、この僕は安田さんの説ですね。
始終にして惑わずではなく、ちょっと僕なりに書き下し文、現代的な読み方にしてしまえば、始終にして囲わずっていう心がけはですね、とても大事なことだなと思います。
実はですね、もう半分この言葉っていうのは僕の人生訓みたいな感じにもなっていまして、実はここからつなげて、もうちょっと深いというか広い意味での囲わないっていうのは、とっても大事なことなんじゃないかっていう話につなげたくてですね。
それはですね、ちょっと次回、また別途僕のすごい好きないろんな本を書かれてる方がいらっしゃるんですが、その方のご紹介と一緒にちょっとそういったあたりのお話をしようかなと思います。では本日は以上とさせていただきます。ありがとうございました。
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