独学大全に関連する本とか、あるいはその著者の独章ザルさんが、
この本いいですよっていうのを集めたフェアが、
ブックフェアが梅田のブックファーストさんで行われて、
僕それにちょこちょこっと行って、
本棚を見てたら、啓蒙思想2.0というのを見つけて、
前々から名前は知ってて気にはなってたんですけど、
ちょっと分厚めの本やったんで、敬遠してたんですが、
ここで出会ったか、みたいな感じで買ったと。
で、しばらくは読んでなかったんですけど、
文庫化されるという話を聞いて、
ハードカバーで買ったのに文庫化されるって、
悔しいから先に読もうと思った。
先に読んだろうと思って、読んだというのがきっかけですね。
一応ね、この本、僕の中の感じで言うと、
今までのブックカタリストで、僕らが紹介してきた本の、
ある種、総集編というかね、
いろいろな本にリンクというか、
ネットワークが張られてる、ちょっとハブ的な、
ある種、まとめというか、一段階の区切りになるような本かな、
という位置づけでおります。
書いてある内容とリンクすることが単純に多い。
今までのこの本にこんな感じのことが書いてあったっていうものと、
繋がることが多い。
そうですね、それで単に集まっているだけじゃなくて、
一つの大きな方向性を見せてくれる、まとめてくれている本かな、
という感じです。
なので、重複することもあるんですけども、
新しいことももちろんあります。
そうですね、確かに30回ぐらいある程度、
いろんな本を紹介してきていると、
ある意味、方向というものは割と定まってきているかもしれなくて、
自然とそれと似たようなものも選ばれてくる方向がどんどん、
どんどんではないかな、固まっていくみたいなのがあるかもしれないですね。
そうですね、この本以降の紹介で同じルートになるのか、
この本を区切りにして一旦別のルートに行くかは分からないんですが、
この手の話題を通るんであれば、
一回読んどいた方がいいかなという感じの本です。
で、大まかな構成なんですけども、
章は13章あって、
部、パートが3パートありまして、
まず冒頭に序章があります。
で、頭vs心というので、
まあまあ、要するにそういうことですね。
ここの序章を読めば、だいたい全体的に本章が何を言っているのか、
大まかに分かると思います。
で、具体的な内容が1部、2部、3部とあって、
この3部のパートで構成されているんですけど、
1部が古い思考、新しい思考、
まさにファスト&スローですね。
理性と呼ばれているものと、理性じゃないもの、
感情とかですよね、
との性質とかその特徴の違いみたいなものを、
ちょっと再確認しようというのが第1部。
ここは、僕らがよくこれまで上げてきた本の話が、
頻繁に登場しますと。
で、第2部が不合理の時代って言って、
現代において、我々はどんなところで、
どんな情報環境とか環境で生活させられているのだろうか、
ということを一旦確認しようと。
本章の中心的な話題が結構アメリカの政治の話なんで、
ちょっと身近じゃないかもしれませんけども、
現代的な、いわゆるトランプさんとかの
ああいうところにつながる流れが語られております。
最後の第3部、正気を取り戻すというところで、
じゃあどうしたらいいのかっていうのを、
ちょっと考えていこうというのが、
最後のまとめというか流れですね。
この1、2、3、理性の特徴を考えるっていうところと、
現代において人間はどんな環境に置かれているのか、
どんな不都合をこう思っているのかっていうのを確認して、
最後、じゃあどうしたらいいのかっていうのを論じていくのが、
大きな柱ですね、本章の。
めっちゃあれですね、今までそういう本いっぱい紹介してきたって感じですね。
そうですね。
Kモーション2.0で、
副題が政治経済生活を正気に戻すためにという副題がついてまして、
正気っていうのが一つのキーワードですね。
正気、理性的であるということなんですけども、
正気に戻すためにというタイトルがついてるってことは、
正気ではない時代であるという問題認識が本書にはあって、
もう現在では右とか左のイデオロギー的な対決じゃなくて、
正気と狂気の対決。
真実と真実っぽいものを信じる人の対決みたいな構図になっているというのが。
結構強い話ですね。
あおり文句ですけども。
だから、そういう方向性、
正気イコール合理性理性っていうものをもう一回取り戻そうというのが本書の狙いと。
タイトルなんですけど、Kモーション2.0。
KモーションってEnlightenmentっていうのの2.0を考えるということなんですけど。
現代もそれなんですかね、向こうのタイトルも。
現代もEnlightenment2.0というタイトルですね。
2.0とかそういう感じ。
そうですね。
まず2.0ということは1.0があるわけですね、当然。
Kモーション1.0っていうのがいわゆるKモーションというやつで、
Kモーションっていうのが一番有名なのが18世紀ぐらいのフランス革命中心とされた、
人類すべてっていうか市民すべてに理性を開いていこうと。
いろんな教育とかを施して人々に理性の光を取り戻そうと。
その理性的なものの象徴として光っていうのがよく使われるんですけど、
光を取り戻そうと。
で、こんな話以前どっかでしましたよね。
闇の自己啓発の時にしたと思うんですけど。
この個人に理性を取り戻すっていうのは、ヨーロッパ的な思想でいうとだいぶ古くからありまして、
例えばずっと振り返ると、まずデカルトは正しい認識を追い求めた人。
個人がどのように理性的な判断ができるか、効率的な判断ができるかを考えた人ですし、
もっと前にいくとプラトンですね。
プラトンっていうのが、哲学者っていうのが理性を使って物事を正しく認識できる。
だから哲学者が国を導いた方がいいんだみたいなことを言ってますけども、
プラトン時代は特別な人だけが理性を持ったらいいっていうところだったんですけど、
フランス革命以降、我々は市民社会で民主主義になったので、
ただ我々自身一人一人も理性を持つし、理性を持てばこの社会はうまくいくだろうと。
この社会をうまく生かすために人々に理性を持ってもらおうという啓蒙活動が啓蒙思想1.0だったんですね。
2.0を持ち出したってことは、1.0はあんまり良くなかったということなんですね。
そうなりますね、流れから言えば。
2つ主要な反論がありまして、1つは古く、反啓蒙思想という考え方。
そういうタイトルの本があるんですけど、啓蒙思想がヨーロッパの思想家を中心に提示されたと。
理性を持つ人は全てを合理的に捉えて正しい答えを導き出せるみたいな考え方で、
インテリズムじゃないですか、要するに。
しかもヨーロッパの民主主義を例えば他の国の、今民主化されてない国に啓蒙しつつっていうのはだいぶ傲慢だよねっていう反論があったと。
もう1個は近代的な、さっきも言った暗黒啓蒙とか闇の自己啓発って言うんですけど、
そういう理性的なものを良きとするあまりに、そこから外れてしまうものが見過ごされたりとか遭害されてしまう危険性があるというような2つの軸の反論があるんですけど。
重要なのは1つ目の方。ヨーロッパ的な啓蒙思想があまりにも傲慢であったために、いわゆる反知性主義的なものが生まれるわけですね。
傲慢だからそういうことになったというふうに考えるわけですね、まず。
だから例えば、あらゆるものが合理的に捉えられるから、この通りにしたらうまくいきますよって言うけど、結局うまくいかない事例の方が多いわけですね。
例えば、それを突き詰めると共産主義とか社会主義の考え方になりますし、さっき言った植民地のやり方、政治システムを勝手に民主化してしまうのも、
それがうまくいったらいいですけど、うまくいかないことも多いと。だからその理性の限界っていうのがそこで突きつけられたと。
じゃあ、理性が限界があるによっては理性なんか頼るべきじゃないか、みたいな反動があるわけですね。
おそらくトランプさんがうまくいったのは、そういうことだったっていうやつですよね。
俺の言う通りにすればうまくいくって言われたのに、全然うまくいかんかったから、お前たち言っとることちゃうやないかってなって。
っていう反論が当然出てきて、いわゆる啓蒙思想が掲げていた理念みたいな、理性の力ってダメだよねと。
理性なんか使わんほうがいいんじゃないか、みたいなのが反時政主義として起こってきてしまったと。
で、現代もそれは起こっていると。だからチョタとしては何とかしたいと。
そこで考えるのは、やっぱり理性が仮にうまくいかないとしても、理性を捨てていいかっていうのはちょっと極端だよねっていうことなんですよね。
僕らはこれまで非常に話してきて当たり前なんですけど、理性っていうのはそこまで強いものではないと。
ファストアンドソロで言うとシステム1とシステム2で言うとシステム2を担当するものなんですよね。
システム1を一応復習しておくと直感的な判断がシステム1で、理論的分析的な判断がシステム2やと。
理性が担当するのはシステム2なんですけど、システム2が弱いとは言えシステム2なしのシステム1だけでうまくいくかと言ったらこれはうまくいかないだろうと。
これを何とかしようというのが啓蒙思想2.0という著者の目指したいところですね。
最近そういえばなんですけど、現代哲学の最前線という本の中で自由論の話とかユルギン・ハーバーマスの熟慮の政治ってこのハーバーマスが言ってたやつでしたっけ。
っていう話が出てきていて、すごいそこと繋がるというか、やっぱ直系なんだなっていうのをちょっと思ったりして今。
人が正しくあるために理性みたいなものをどうしたらいいのかというところなのかなみたいなちょっと曖昧な反応なんですが、っていうのを今思ったりしています。
これ、クソ分厚い条件感の本なんですけど。この本もタイトルから想像されるように、同じように理性っていいよねっていうことを言ってるわけですよね。
現代社会ってどんどん良くなってきてるってことを主張した本なんですよね。
だから、さっき言ったインテリ批判みたいなのは的外れだと。
この世界は徐々に良くなってきてるし、これからも良く知れるために理性っていうのが大切だっていうことを説いてるんですけども。
本書との差がこの2.0っていう言葉の害にあって、著者が1.0じゃなくて2.0って言ったのは何でかっていうことを、
インターネット、そもそもこの言葉がインターネットから出てるわけですけど。
1.0と2.0の大きな違いっていうのはGoogle的なもの。
つまり中央集権型ではない、非集権化されたモデル。
つまり昔はYahooのインデックスモデルだったわけですね。
一つのページにインデックスがされていて、そこをたどってみんなページを見に行くっていう中央集権モデルだったんですけど、
ページはとりあえず適当にあって、それらを集合的に扱うGoogleというプラットフォームによって、
いろんな普段インデックスされへんような小さいページとかも見つかり繋がるようになったっていう、
その中央集権から非中央集権的なモデルの移行っていうのがこの2.0という言葉に込められてます。
寺田 それがWebの世界の1.0と2.0と同じように、その啓蒙思想に関しても同じようなニュアンスが込められてるってことですね。
寺田 そうです。そこが結構重要なところなんですけども、先に言っておくと何が違うかというと、個人に焦点を当てすぎないってことですね。
寺田 当てすぎない。
寺田 はい。もちろん個人が頑張らなあかんのは確かなんですけども、その個人個人って言ってたとこに問題があったんではないかっていう問題意識が著者にはあります。
寺田 そのイメージと今の話を聞くと逆だったような印象なんですけど。
寺田 結局だからこれは話の中とかでも出てくると思うんですけど、知性ってどこにあるかって話以前しましたよね。知ってるつもりだったかな。
寺田 そうですね。知ってるつもりで知性はコミュニティが持っている。
寺田 認知的分業っていう話をしましたけど、だから著者が目をつけてるのはそっちなんですね。
寺田 個人じゃなくコミュニティに理性って言っていいんですか?理性を求める?
寺田 理性的な合理的判断を出しやすいのはそちらの方だというところに注目してる。つまり啓蒙思想1.0はどこまで行ってもその個人の理性を高めようっていう方向でしかなかったわけですね。
寺田 ああ、それをそうじゃなくなってきて。
寺田 もっとコミュニティ的なものの見方をしないとダメだよというその大きな転換、個人から集合へっていう転換が図書館型からGoogleへっていう意向に対応してると著者は言いたいわけですね。
寺田 それが図書館からGoogleに変わった。
寺田 そう、インデックスでまとめられた集合体あるいはその得り分けられたものたちじゃなくて、すべてを対象にした大きなグループの中で情報のやり取りをしていくっていう1.0から2.0へのその大きなモデルの転換と同じ転換が必要だっていうことですね。
おだしょー モデルの転換っていうならわかります。
寺田 というところが本書の大きな論史です。ここを理解するときは大体本書のことがわかったと思っていいと思います。
おだしょー 細かく見ていくと第一部、古い思考と新しい思考なんですけど、要するにさっき言ったシステム1システム2、二重仮定仮説かな、原理かなっていうものの紹介で割と馴染みのある話ですね。
理性は万能ではないが結構パワフルなツールでそれが文明を作ってきたっていうさっきの話。当然ファスト&スローは参考文献として挙げられると思いますし、理性と感情的なものが違うっていうのが事実はなぜ人の意見を変えられないとか、そういう話にもつながってきます。
この本の出会いになった独学大全っていう本なんですけど、あの本って外部足場っていう言葉を使ってるんですね。
寺田 確か出てきましたね。巨人の肩に乗るの方が覚えているイメージはあるんだけど。
寺田 まあ要するに人間の独力で何とかするというよりも、ツールとか環境とかに助けてもらうことによって人はより大きな、いわゆる望む成果をあげられると。だからその自分の外側に足場を作れば何とかなる。それが多分さシステム2をうまく使うための一つの方策だと。
寺田 っていうその元になっているのが本書の考え方ですね。
だから独学大全の元になったと言えるってことですね、この本が。
寺田 これだから市民社会において、例えば政治的なとか個人の中で合理的な決定をするときに、その個人の理性を高めるんじゃなくて、外部足場的なものをうまく作っていこうという提言がなされているわけです。
寺田 理性は多分脳から生まれてると思うんですけど、ちょっと議論が分かれるところなんですけど、理性っていうこの働きが進化的にどれくらい適応的なのかっていうことなんですね。
寺田 その進化の産物であることは間違いないですけど、例えば1から1000までを数えられる能力が進化の結果として生まれたかっていうのは結構難しいじゃないですか。
おそらく1から1000まで数える能力は文明ができてからですよね。その話でいうと。
寺田 適した生存というか、種を保存しやすいから生まれた能力ではなさそうですよね。
おだしょー その能力は別の本で読んだんですけど、脳の専用仮説みたいな話で。
寺田 そうですね。
おだしょー そのたまたま得意な機能を使ったらそれができた?
寺田 っていう認識されて、複適応というか、サブ適応というか、本来とは違うけども、その機能を使えばできるし、やっちゃおうかということでできるようになったんではないかと。
理性っていうのは、進化の最適応ではなく、ある適応の応用でしかないと。だから僕らは理性はそんなにうまく使えなくて当然なんですね。
おだしょー そもそも理性というのが、別の機能として重要だったやつをちょっと使ってみたらうまくいったんじゃねえかっていう、おまけ機能として考えるってことですね。
寺田 そうですね。だから鳥が飛べるように僕らは理性は使えないということですね。なんせおまけなので。
おだしょー 本来はそんなことのために使う機能じゃなかった。
本書では有名な学説としては、言語。言語によって理性が生まれた。僕らが言語を使うから理性が生まれた。だからこの2つは共通というか、先に言語あり。
見方としては先に理性があって、だから言語が使えるっていう見方もあるらしいんですけど、本書では言語があるからこそ理性的なものが生まれたというのが一つの見立てですね。
個人的にはそっちの方が納得感はあるし、脳科学の最近の話を読んでてもそういう印象はありますね。
寺田 だから進化って面白いのは、AI、インテレクチャルデザイナーか。つまり知性的なデザイナーがいなくても成功なものができてしまうっていうプロセスなんですけど、
でも進化ってすごい雑なんですよね。つまり適用できたらなんでもいいんですね。生存できたらなんでもいいという考え方なんですよね。
で、大体その機能がちょっと変わるっていう感じで出てきて、例えば大体積み上がっていくんですよね。
位置から作り直さない。当たり前ですけど。
前の機能をちょっと変化させたらうまいこといったみたいなやつですね。
寺田 だから、いらない機能もよく残っているという話で、例としてしゃっくりがあげられるんですけど、人間の。
しゃっくりって何の適用もないですけど、エラ呼吸と肺呼吸を切り替えるために昔の生物が持ってたらしいですね。
今の僕らには全然いらないけど残っている。それは使わないけど害にもならないからって言って置いとかれてるわけですね。
で、人間の記憶も何種類かあるじゃないですか。短期とか長期とか。あれも結局階段状に新しい機能が上に積み重なってて、いろんな記録のバリエーションがあるのもそういう進化的な積み上げでしかないと。
だから、進化っていうのは確かに最適にはなっていますけど、最適なためにゼロからデザインしたわけじゃなくて、いろんなものが残っていて、
その生存環境をやり過ごすことができたらOKっていう風に進んできてるというのが。
記憶の弱さを外部ツールによって補うっていうことが代表例ですね。で、もう一個重要なのが、さっきの言語と理性の合理性化、合理の関係なんですけど。
さっきシステム1とシステム2は直感的と分析的って言いましたけど、この分析的なものの特徴っていうのがあるんですよね。で、分析的なものって、まず明示できる?表現できる?
言語化できる?あ、言語じゃなくていいのか。
まあ言語じゃなくて言語化できる。例えば直感はなぜそうなったのかが、自分でもそう判断したのかなぜなのかわからないじゃないですか。直感。
なんかこっちがいいと思ったですよね。
でも合理的な判断っていうのは、インポットがこういう情報があって、自分はこういう判断したからこうしたっていうことがまず明言できると。
で、基本的にそれは短期記憶を主に使って行われる作業であると。で、その論理的な合理性の論理っていうのは、ちょっと批判あるかもしれませんけど、普遍的であると。
つまり、例えば三段論法あるじゃないですか。論理学の。は、日本でもアメリカでも同じですよね。三段論法は。
三段論法の仕組みと言っていいですか?
仕組み。その論理の流れが、地域とか文化で変わることはないですよね。三段論法っていうものは。だから共通的なんですね。
三段論法のやり方というのは、言語が変わっても共通ですね。
だからその合理性っていうのは一般性でもあるわけですね。だから、ちょっと話はずれますけど、言葉にすることによって合理的な思考ができるし、合理的な思考をしようと思ったら、言葉にしなければならないっていう。
これはだから、たぶん最近ゴリソコさんが書いてる本に通じる話だと思います。
それも似ていると思いますね。現代哲学が全部言語に興味を持ったっていうのもそのあたりのことですよね。結局言葉じゃないと考えられないし、考えることは言葉じゃないといけないから、言葉を考えよう。
はい、そういうことです。言葉にするということの重要性。もちろん言葉っていうのは非常に遅いんですね。直感に比べると非常に遅いし、直線でしか進めない。言語化っていうのは。
リニアにしか進めないから直感って結構並行処理のシステムなんで。
直感は概念だから言葉にせず、なんかいろんなことが同時にいっぱい浮かんできますよね。
そうそうそうそう。でも合理的思考っていうのは必ず一本の線にしか進まないから非常に遅いんですけど、さっき言ったように理性的な思考でないと答えられない問題とか判断を間違ってしまうことがあると。
で、人間そのシステムでいうと大体システム1で解決するじゃないですか。大体のことは。で、システム2が顔を出すときってどういうときかっていうと、間違ったことに気づくときなんですよね。
それって違いますよとか自分で気づくとか他人に言われたときに初めてシステム2が生きてくるんですよ。
だからそれまでは大体直感的な判断をすると。で、この間違ったときに気づけるっていうものを一番生かしやすいのがやっぱり集団なんですよね。つまり2人以上。
2人以上の方が誰かが間違っていること、自分一人では間違いに気づきにくいから、2人よりたくさんの人が誰かの間違いに気づいてあげることは圧倒的に効率は良くなる。気づきやすくなる。
そう。逆にそうでないと気づけないことがたくさんある。で、自分の考えを反省すること、内省すること。内省の限界は内省ではわからないっていう文面があるんですね。
それはそうですよね。定義から言って。だから内省には必ず盲点があるわけですよ。内省にはわからないことがある。
だからそれは絶対に複数で考えないといけないというところが内省の一番大きなポイントですね。
なんかラシタさんが最近人と一緒に何かやる、何か考えると言っていることと見事に繋がっている話ですね、ここは。
ここまでの話をして理性の力弱さと他人との共知的な闘技でないと見つからないっていうのがあったはずやのに、昔の啓蒙思想はさっき言ったように
一人で考えろって言ってるっすね、言ってみたら。
そうそう、理性思想すぎたり、頭で考えたら、本を読んで考えたらその人は理性に至れるっていうところがあった。
それが啓蒙思想1.0が失敗したところというところを定義するのが第一部です。
一人だと結局間違いに気づきにくくて、間違いが気づかないと結局直感しか働かなくなってしまうので、
一人で全部何か考えたり判断させるというんじゃなくて、みんなで考えようという方がうまくいくんじゃないかという話でだいたいあってますかね。
そういうことです。もちろんこのみんなで考えようっていうのがいわゆる集団思考と呼ばれるものになったら意味はないわけですよ。
そうじゃなくて、みんな一人一人考えようけど考えたことを口に出して言い合おうというようなことですね。
まさに熟慮の政治みたいなのになってる感じですね。
そういうことです。一応一人で考えるためのポイントみたいなのも紹介されてまして、一応ノウハウ的に言うと、さっき言ったクルージーっていう言葉使われてますけど、
7つのクルージーって言って、7つのライフハックって置き換えてもらったらいいと思うんですけど。
まず一人になることですね。静かな場所。馴染んだ環境。あと性的な刺激がないもの。大般環境。健康で空腹が乱されていて休息が取れていること。
元気であるってことですね。危機的な状況にないっていうところで初めて理性を働かすことができると。逆にこれがないと一人でじっくり熟慮することっていうのはなかなか難しいなと。
つまり外部足場がない状況ってことですね。これは逆に言うと。
そこはあれですね。進化論で考えるとすごいわかりやすいですね。生きることに余力がある場合にそういう余計なことを考えるエネルギーが使えるようになる。
だからそういうのを意図的に作らないと逆に言うとじっくり考えるのは難しいっていうのが一応ライフハック的なテクニックです。
ちょっと面白いなと思ったのが、例えば旅行に行くのとかって新しい刺激が出て新しいアイデアが閃くっていうので、旅に出ようとか見知らぬ場所に行こうっていうことを割とこういうジャンルのものって進めたりすると思うんですけど。
じっくり考えるということをやる場合にはいつもと違う場所というのは良くないんですね。
そうですね。馴染んでないんで。新しい刺激を得るために、発想とかを得るためには良くても、ある合理的な問題、例えば転職するかどうかとか。
確かに旅行行って自分探ししたがるじゃないですか。そうやって考えると。
それはだから直面する問題から逃げてるということじゃないですか。きっと。
だからそういうところの方が落ち着いて考えやすいということ。だから頭をうまく働かせようと意志を働かせるよりは環境を整えた方がいいってことですね。
それはそうですね。そのリールパワーとかにもすごい出てきたやつですね。それで言うと。
そうですね。で、その話が引き継がれるのが第2部の不合理の時代なんですけど、ざっくり言うと現代ほど理性が働かせにくい時代はないということなんですね。
そんな風に言われてしまうんですね。
はい。で、いろいろ。例えばニュースとかは特に顕著ですけども、さっき言ったじっくり考えるためのクルージーっていうのが狂わされている。
むしろ考えさせないような逆向きのクルージー。外部マイナス足場みたいなのが出来上がってますよと。
で、一番厄介なのが、本書でも言われてますけど、有害なニュースや行き過ぎた商業主義、消費主義っていうもの。
そこはやっぱり同じところにたどり着くんですね、全部。
ここはやっぱり同じ、そうですね、ところにたどり着きますね。
で、例えばウィルパワーでは認知資源っていう言葉が出てきますけど、僕らは広告とかを見るたびにそういう認知資源が微妙に使われていくわけですね。
それを買うとか買わへんとか。
気になるものが目に入ったら絶対に無視できないってやつですね。
で、ウィル社会心の有害ソフトっていう大難書があるんですけど、認知資源を使わすもの、人間の合理性を狂わすものほど残りやすいというね、この厄介な性質があるわけですね。
例えば、人の心をキャッチーに引き付けるウェブタイトルほど使われやすいわけじゃないですか。これはもう。
残されるからみんなそのタイトルになっていくわけですよね。
それで、しかもそれがノウハウとして確立しちゃって、ウィルスに広まるわけじゃないですか。
みんないかがでしたかっていうし。
言い出すっていうところがあって。
それはだからウィルスとかミームのようにどんどん残ってしまうし、たぶん強力にすらなっていくと。
そこは悪化は良化を駆逐するになってしまうんですね。
特にそうすれば儲かるっていう金銭的利益とそういうのが結びついたときに、より厄介な状況になると本書では指摘されてますけど。
それはもう僕らは2022年でだいぶ体験してることですけど。
まあまあおそらくはその通りだろうなと。
これはだからその認知システムに対するハッキングみたいなもんですけど。
だから僕らは意識しないとどんどん認知資源が浪費されてしまうので。
前回か、積読本の話しましたけど。
僕らは何の掘りも立てなければ、ただ生きてるだけで認知資源が浪費されてしまうから。
なんかカバーが必要なんですよ、やっぱりこれは。
何のメディアも見ないっていう人生であってもたぶん緩和版とか広告は目に入りますし、ちょっとマシですけど。
だいたいどっかメディアを見るわけですから。
普通にただのらりくらりと生きてるから僕は関係ないとはたぶん言えなくて。
何かしらの遮蔽物を作っていく必要は、ウイルスが蔓延してるからそれは必要だと。
そうか。だから今が一番理性が使えなくなったって言ってるのはそういうところなんですね。
そうです。だから理性が使いにくい環境になって。
情報的にもニュースとか広告とか的にも、いろんな意味で理性が働かせにくくなってるっていうのがまず情報社会方面。
でもう一個は、これはアメリカの政治の話なんですけど、感情的な同じフレーズを何回も繰り返すような人たちが政治で主導権を握っている。
だからそれも一番それが効果的だからですね。
それを僕ら何回もこの部下たちで確認してきましたけど、その感情的に訴えかけるのがやっぱり強いからその手法がやっぱり残ってしまうと。
でそれはもう当たり前になってきてしまって、悪さが見えてこない感じられなくなってきている。そういう不合理の時代になってきているというのが第2部の話です。
なんかねやっぱそういうやり方が一番有効になってしまって、政治がやっぱパフォーマンスになってしまっていますよね。そういうところで言うと。
やっぱそれが力確かに効果を発揮するという点で、進化論的適応性があるというところが一番厄介な問題ですね。
なんかねやっぱねイノキ、アントニオイノキのなんか123だとかをみんなでやるっていうのはあのすげー気持ちがいいというのはすごいすごいわかるから。
でもそれを政治でやってしまってはいかんよねっていうのはなんか思うけどもなんかやりたくなってしまうのもなんかわかるような気もして。
でさっき言ったように理性っていうのは非常にパワーを使うんで、できれば使いたくないし、自分が間違ってるってことを自覚しない限りはシステムに行って発動しないので。
だから何もないとだいたいシステム1で終わらせてしまうっていうのが、そういう性質につけ込まれているのが現代社会であり現代の政治であると。
特に政治の方は厄介ですよね。本来一番合理性を発揮させてほしいところなはずが発揮されてないわけですから。
政治の仕組みが根本的に個人が理性を持って人を選ぶはずだっていう前提で成り立っていた考え方なのでやっぱり今の仕組みだったら変わんないですよね。それで言うと。
個人を対象にしたエンハンスをしている限りはきっと無理っていうのがちょっと暗い予測ですけどでも事実でしょうねきっと。
細かなところで言うと直接民主政治よりも間接民主でリーダーを選んだ方が利にかなっているっていうところになるんですかね。
そうですね。代表性民主主義するとかあるいは上院下院をわざわざ分けるっていうところの意義を本書でも確認されています。
出てくるんですね。その辺の政治の話とかも。
一応あとこれもよく確認されてきた話ですけどリベラルな人たちがそうじゃない人たちに向けて理性で語ってるけど通じない非常に寒々しいスローガンになってるっていうところも一応指摘されてますね。
だから感情と理性戦った時に感情が勝つんでその当然そのリベラルな作戦は通用しないっていう。で実際そういうことが起こったっていうのが現代でしたっていうところが第二部です。
ある意味欠乏の経済学とか遺職足りて冷静を知るとかその目の前の問題が解決しなかったら理性は働かないですよねってことですよね。
そうですね。この理性と感情ないしはその政治的な考え方っていうのは反共感論とか感情化する社会とかあと21世紀の道徳も多分ちょっと似た話題が触れられてますけどこれは非常に現代的な問題ですね。
で第3部最後じゃあどうしたらいいのかと。で第10章で掲げられているのはつまり。
第3部の一番頭ですね第10章は。
例えば僕がそのリベラル派だとしてその感情的な文句を言ってくる人たちと論争になった時にどうしたらいいのかっていうところで一つの方策としてジョークでずらすっていう。
いいんだそんで。
ジョークでずらすっていう例えばコメディアンとかが茶化すことで向こうの間違いとか根本認識を洗うことで具体的な論争に入らないと。
論争したら向こう感情派なのでその感情的なことを言ってる人が勝っているように聞こえちゃうんですね。
勝つんじゃなくて勝ってるように聞こえる。
勝つように聞こえちゃうっていう人間にとってで特にそのさっき言ったその真実と真実っぽいものっていうで昔の理性主義者っていうのは真実正しいものを求める。
で昨今のその感情的な真実っぽいもので満足しまうっていうところがあってで真実っぽさって何かっていうと自信満々に言ってるとか同じこと何回も言うっていう非常に単純な方法で成立してしまうと。
真実っぽいのを使う政治家っていうのが一番決定的なのはその嘘をついても気にしないっていう。
昔の政治家は嘘をつくにしてもそれが嘘だと指摘されたら気まずい思いをしてたはずなんですけど現代のそういう人たちは知らぬ存ぜぬを通してしまうと。
だからもう真実性っていうのは会話の外に置かれていると。だから真実をちゃんと追求したい人と真実っぽいことを追求する人が同じ土俵で戦ったら絶対にこっちは勝てないんですね。
これ例えば科学で言うと本当の科学者は断言しないってよく言うじゃないですか。確かなことはわからない。でも素人は断言するじゃないですか。
同じことを聞いたらこっちの方が正しそうっていう。真実っぽさの方が正しそうって聞こえてしまうのがあるんで。論争はしない方がいいと。
じゃあ言われたままにしときゃいいのかっていうんじゃなくて、茶化すっていうのが一つの方法としてはあるよとは言われてるんですけど。
一応最後にはでもこれは根本的な解決にはなってないよね。
それはならないですよね。
11章ではもっとよく考えろっていう啓蒙主導が、個人がもっとよく考えろって言うけど、結局それができないから問題だっていうのが再確認されて。
12章、精神的環境を守る。ここがいわゆるナッジ的な話ですよね、要するに。
環境を社会が作っていく。
自分の情報環境を整えようという、どんなニュースが。特にニュースとか。ニュースを問題視したのはヒューマンカインド。
ヒューマンカインドはニュース絶対みんなあまり言ってないけど、そういうことを言っていましたね。
っていうことをここでも早めに言ってたところを確認して、最後に13章、スローポリティクス宣言っていって、さっき言ったゆっくり決断すること。
時間をかけて決めていくことをしようと。さっき言ったように上院とか下院のような非効率な無駄に見えるものでも、
その決断が行われるまでの時間があることによって、僕らはもう少しだけそれについて考える余裕を得られると。
だから早期に決めるんじゃなくて、時間をかけて政治をするようにしようっていうのが一つの提言ですけど、
だから具体的にどうしたらいいのかは別に抱えてないんですけど、そういうことが言われてると。
感情で言ってくる人たち、単純化して言ってくる人たちに対して単純化して言い返すっていう方法もあるじゃないですか。
それ同じ土俵に乗るっていう。でも結局それはある程度は重く言っても、重要な問題を抱えてると著者は指摘してて、
オキパイ運動でしたっけ。証券会社の前に人が集まって何パーセントの人たちとかいう政治運動がアメリカにあったんですけど、
それは運動としては盛り上がったんですね。人が集まってデモ的なことをするっていうのは成功したんですけど、
結局例えば証券取締法とかに影響を与えたかっていうと、結局何の影響も与えなかったっていう結論があって、
結局その運動を起こすためのメッセージが単純であったら複雑な政治に言及できるわけがないんですよね。
ああ困りましたねそれは。
だから単純な方、つまり僕らは二つの派閥があって、片方は感情的で単純な方、もう一個は理性がつくる感情では納得できないことを構築していく。
税制とか市場とか大規制民主主義を守りたい人たちは単純なメッセージで人を集めるとその理性を否定することになってしまうので、
本当に複雑なことを作るために理性が必要なので、結局単純なメッセージで集めては本末転倒になっちゃうわけですね。
だから僕らはかなり不利な立場、僕らっていうか今僕らって言ってますけど、不利な立場に置かれていると。
だから同じ土俵に乗ってもいけないし、ジョークでずらしてもあるけど、完全な方法ではないと。
本書では答えというよりは提言としてさっき言ったスローポリティクスがあるんですけど、やっぱり僕が本書を読んでいると思うのは、
コミュニティとかカルチャーにいかにして働きかけていくのかっていうことが多分中心的な、実際に解決できる問題だろうなと思って。
例えば言論戦記ですよね。言論戦記という本で、今までの視聴者とのやりとりが変わったという話も出てきますし、
コンバージェンスカルチャーという本でも、インターネット上の掲示板でグループの知識が育っていくって話も紹介しましたけど、
ここにしか解決がないというか、つまり個人でもダメだし、一気に大きな政府の施策に行こうとすると、政治的な派閥で負ける問題があるんで、
その中間的なところ、人の集まりの中で、より理性的なものを立ち上げていく環境をちょっとずつ作るしかないんじゃないかっていうのが僕の考えで、
でも、力弱く感じるじゃないですか、そんなのって。でもね、もう一個その時に思い出したのが、ヒューマンネットワークという本も紹介しましたけど、
ヒューマンネットワークという本で、特に強い差別意識はなくても、ちょっとだけ白人を好む人とちょっとだけ黒人を好む人が一緒に住んでると、
時間が経てば、きっちり白黒分かれてしまうっていう話を紹介しましたけど、同じようなことが起こるんではないかなと。
つまり、白黒分かれるということよりは、理性的な人のグループがちょっとずつ増えることによって、それに影響されて理性的な判断をする人たち、
ないしはそのグループがちょっとずつ増えていくということが、時間がかかるにしろ考えられるんじゃないかなと思うんですよ。
われわれは議論や話し合いを、どんなちっちゃな規模であろうが、やっていかないといけない。やっていくことでしか変わる可能性がない。
おだしょー だからこれで、例えば革命してゼロベースで市民社会を作られるっていうのはまず不可能ですし、核でも落ちてこない限り多分無理だと思って。
ドクターストーンとかの技を使えばいいかもしれないね。
おだしょー そういうのでない限りは、僕らはある種ボトムアップ的とか草の根的に変えるしかなくて、でもそれが多分一番の答えで、
こうやって僕らが本を読みながら何か言ってるのも多分その一環に入れていいんじゃないかなっていうのを、本書を読みながら思ってた次第です。
そうですね。言ったら二人で話していることだけではあるけれども、少なくとも聞いてくれている人はその何十倍何百倍はいるわけで、
その人たちに多少なりとも考えるきっかけになってもらえたら、その人たちが別の場所でそういう話ができるようになるかもしれない。
おだしょー それにこうやってやり取りする、これはかなり僕らは理性的なやり取りをしていると思いますけど、
あれか、スクラップボックスのカードサイズで対話できたら一番いいかもしれないですけど。
そういうこともありますね。
話すことないしは文章として改めて見ることっていう2つ、知的精査の基礎みたいなところですけど、そういうのが合理的、合理性、理性の復興に不可欠っていうのが再確認されましたね。
そうか、そうやって違って思いついたんですけど、そうやって考えるとスクラップボックスでの対話みたいなのは面白いかもしれないですね。
やっぱり面白いと思いますよね。
逆に喋ってくれがハードル高い場合もあるじゃないですか。
人によっては、当然。
1行だけのコメントとかでも良いっていう場が両方あっていいでしょうね、きっと。
うまく考えをうまく書くが難しいな。やっぱそのブログ、でもツイッターなんですよね、感覚としてはおそらく。
ただツイッターが逆にそういうのを書きづらくなってるのが問題。問題じゃないけど。
ツイッターがリンクしないからダメなんじゃないですかね。ダメではないんだけど難しい、対話とか議論が。
確かに。
そのスレッドで縦に、そこは逆にリニアにしか繋がらないというのがあんまりよろしくないんじゃないのかなっていう。
あとどうしてもパブリックな場なのでPV狙いの人たちに絡まれるみたいな危険性もあって。
あと興味ない人の目に入ってしまって、その人たちが噛みついてくるっていう。
っていう怖さもあるんでね、ここは難しいとこですね。
でもスクラップボックスの場合ね、やっぱ誰かのフィールドになってしまうのでパブリックなフィールドではないんですよね。
そこがだからどこまでパブリックに向かえばいい。最後の最後はパブリックに向かう必要がありますけど、その中間地点で、
例えば今日インターネット始めましたって人は知人がゼロだからグループ作るのは難しいんで、その募集とかをツイッターでするのはいいかもしれませんけど、
議論そのものはツイッターでやるのは結構勇気がありますね、きっと。
難しいですね。いろいろな解決の可能性はあるけれども、簡単に答えが出るものではないですね。
あとやっぱ商業的な動機づけをくっつけると、さっき言った悪いウイルスが残ってしまう可能性がで、一度でもそういうのが芽生えると広まってしまうんで。
ちょっと言うとあれですけど、完全に殺菌された部屋みたいなのを作るためには、あんまり商業づけの動機は強くない方がいいですかね。
難しいですね。それこそベーシックインカムがあったら、商業じゃないものを動機にしやすいけれども、みんなお金がないと生きていけないですからね、今の世界では。
だからここが難しいところだよね。商売、例えばマットな商売っていろいろがいっぱいあるわけじゃないですか、当然。街のパン屋さんとかっていうのはマットな商売なわけじゃないですか。
エッセンシャルですね。
そういう規模感かな、さっき言った。規模感と関係してるのかな。大きく儲けようとしたら、多分ダメになるって感じかな。
何にしてもエッセンシャルじゃないことでお金を稼ごうとするのはやっぱ難しいなと逆に思いますね。
両方に難しさがあるね、きっと。個人メディアとか、個人じゃないな。
個人メディアだと規模感ではなくなるんですよね。
シティズンなグループというかチームとかコミュニティ、市民コミュニティの作り方みたいなのが多分一つ主要な命題でしょうね、きっと。
NPOみたいなのはある意味そういうものの一つの形っていうか、そういう組織で何かやっていくみたいなこともできるのかもしれないですね。
だから、哲学カフェとかも最近行われてるみたいですけど、近しいでしょうね、行われてるあそこの内容っていうのは。
それを市民が盛り上げていけば、そこから次の何かが出てくるかもしれないというか、期待はできそうな感じはしますね。
だから、10人中1人が理論的なことを考えられる、10人中2人が理論的なことを考えるっていう、ちょっとずつ変わっていくっていうしかないし、
ここは正規な答えを求めると感情的な方策に走るしかなくなるんで、これやっぱ時間をかけるしかないっていうところでしょうね。
そうですね、そんな感じですね。
あとちょっとおまけなんですけど、前回のつんどくこそ最強の完全な読書術である、の中で結構いろんな人から反応をいただけておりまして、
意外と一冊の本を紹介するフォーマット以外の、2人で語り合うみたいなのも割と良いのではないかなということを思いまして。