面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第35回の本日は、「浄土はこうして作られる」について語ります。
はい、よろしくお願いします。この本自体は読み終えたのは、ちょっと昔で2月ぐらいに読み終えているんだったかな。
すっげー分厚い本で、400ページ以上あって、しかも字もすっげー細かく書かれていて、最初の100ページ分ぐらいは半ば義務感として読んでいたような気もしつつ、
読み慣れてきたら、すげー面白かったんですよね。最終的にすごく面白くて、ちゃんと理解して語れるようにしたいと思って、
読んだものをいろいろまとめていたりだとか、関連するような、似たような本みたいなのをここから広がってとも言えるのかな、いっぱい読むようになっていて、
ちょいちょいアフタートークだったり本編なんかでも語ってると思うんですけど、大雑把に言うとこれは脳神経科学の話といって良いのではないかと思うんですが、
なんかね、あの、めっちゃ哲学ともう被っていて、どっちがどっちか良い意味でわからんというか、興味という点で言うと、哲学とごっちゃになっていてすごく面白いんですよね。
うーん、まあつまり、ホニャララとは何かっていう結構根源的な問いが取り組まれてるっていう感じですか?
そうですね、その脳みその仕組みがだいぶわかってきてしまって、哲学で考えていたところを科学の側面でも考えるようになってきていて、
さらに現状、実際に脳神経科学とかそっち系のものが哲学の分野に輸入されて、哲学者たちがそのことについて考えていたり、
逆にその哲学者たちの考えていることがヒントになって、そういう研究の仕方アプローチみたいなものが、新しいものが見つかっていったりみたいなことが、おそらくこの10年から20年ぐらいにものすごく進んでいるみたいなんですよね。
いろんな理論があるんですが、大雑把に脳の仕組み、認知の仕組みというものを、この本は神経的な分野から考えた本と言ってよいのかな?
視聴者は、プロフィール的には?
リサ・フェルドマンバレットさんという方で、ノースイースタン大学の心理学部教授。
心理学の教授なんですね。
ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院研究員。
この人、プロフィールで言うと心理学と神経科学の両面から浄土を研究している。
言ってた話が、この場合は心理学にもなってくるんですけど、心理学、神経科学、哲学あたりが、最近すごく深く絡み合っていて。
この本に書いてあったわけではないんですけど、脳神経科学の発達とかが、現状の機械学習とかAIみたいな分野にもものすごく影響を与えていて。
そこで、近いうちに取り上げようと思うんですけど、フリストンの自由エネルギー原理という脳の仕組みみたいなものが、ここ最近だいぶ日本でもいろんな本が出てきていて、
脳神経科学業界を設見している理論みたいなんですが、そのあたりの脳みそはおそらくこうやって考えてるんじゃねっていうやり方を機械学習とかに応用してやると、
実際に結構うまくいっていて、これ以上深く込み入ったことはわかんないんですけど、おそらくそういうアルファ号が出てきただとか、そのあたりもこのあたりの研究が進んだことと大きく絡んでいるのではないかなという印象があります。
というので、ここ2010年代は自分の中で行動経済学ってめっちゃ面白いなって思ってた10年ぐらいというイメージなんですけれども、最近この哲学分野と脳神経科学あたりの分野がめっちゃ面白いなと思ってきていて、今後機会があればこのあたりを順番に掘り下げていこうかなと思っています。
この人の本のタイトルなんですけど、「浄土はこうして作られる。副題が脳の隠れた働きと構成主義的浄土理論。」
はい、ちょっと難しそうですね。
暮らしさんすげえから、この構成主義的浄土理論っていう話をしただけで、なんかそんな感じの話でみたいなことを語れていたと思うんですが。
はい、構成主義はわかります。
そうですね、いきなりこれを話していっても難しくなるので、本編で順番に掘り下げながら、構成主義ってこんな感じなもんだなっていうのと一緒にそのあたりを話せていけたらいいかなと思います。
最初にこの人、おそらく心理学の研究だったと思うんですけど、若い頃に研究が全然うまくいかんかったらしいんですよ。
なんか、あなたこういう時にどう思いますかみたいなテストをしてみても、全く自分の期待した結果というのが得られずに、なんか若い頃というか当時ひたすら苦労して、なんかもう全然ダメじゃん、これおかしいじゃんっていうのですごーく苦労していたんですけれども。
なんかね、ある時ふと気がついたのが、実験が悪いんじゃなくて、これってなんか人間の感情に対する考え方がめっちゃ違うんじゃね?っていう感じのことに気づいたみたいなんですよね。
それは自分が理解している感情のメカニズムそのものが誤ってるんではないかっていうことを発見したって感じ?
そういうイメージです。
なるほど。
実際にこの人の実験というか、そこで著者が立てた仮説というのが、例えば欲打つという感情と不安という感情。
これって、まず俺自分がですね、この2種類の感情って何がどう違うのって言われたら上手にうまく説明できる自信があんまりないんですけど。
実験をしてみると、その打つと不安みたいな気持ちをどうやったらこういう時にはこうなりそうみたいな実験をしてみると、全然うまくいかなかった理由って、実はみんながこの2つの感情をそもそも区別できてないから、実験って全然うまくいかなかったんじゃね?っていうことに気がついたみたいなんですよね。
つまり、その非実験を受ける人の中で不安と欲打つっていうのが識別されてないから、その実験結果としてもそれを2つが区別して出てこないという。
そうですね。例えば欲打つというものを辞書でお引いた結果なんですけれども、調べてみると、心が不細で不快なこと、抑えられて心が晴れ晴れしないこと、不安というのは気がかりなこと、心配なこと、これから起こる事態に対する恐れから気持ちが落ち着かないこと、またその様。
確かに俺はっきり言って、これを読んでも2つを感覚で区別できるって言われたら、あんまり自信ないんですよね。
まあでも確かに難しいよね。今こういう状況になってるけど、あなた今不安ですか?それも欲打つしてますか?って言われても、ちょっと答えられないところはあるでしょうね。
実際自分もそうだし、きっと聞いている方も多くは、違うか、どっちも嫌な感じという表現ですか、感覚ってわかんないんじゃないの?っていうようなことから研究が進んでいくというか、この人独自脳ではないのかな、この本の主題に入っていくというか、そういう流れになっていて。
要するに今までの感情の研究というものは、人間には例えば不安とか怒りとか悲しみっていう感情がそもそも先に存在していて、何かがあった時にそういう感情を味わうんじゃないって思っていたんだけれども、どうやらそれは間違いで、
この本によると感情というものは、自分が知っていない感情は経験できないって言うんですよね。何らかの外部からの信号、体内の物質のことも含めて、何らかのデータが入ってきた時に、これはこういう感情だと脳が予想して認識したことによってその感情というものは生まれるので、
例えばその欲打つ不安というものをちゃんと本人が理解して認識できていないと、この時は欲打つ状態で、この時は不安な状態だということを認識することはできないって言ってるんですよね。
そこが、最初の前半というのは結構そのことについてずっといろいろ語っていて、正直多分その部分がすっげえ長かったから、最初に読んでいる時、なんか苦痛というか、これ終わんねえな、どうなんだろうなっていう感じのことを思っていたんですけど。
例えば有名な話というか、出てきたサンプルとして音楽の話が出てきたんですけれども、西洋の人たちって12平均率、ドレミファソラシドの音しか浄土というか脳の認知として、その12平均率の音しか音楽として認識していないので、
インドの音楽みたいな平均率じゃない音楽が流れるものを聞いてしまうと、なんじゃこの気持ち悪い音は、変な音は何なんだ、これが音楽って言われると、その音楽だということを信じられないというか、そういう感情を味わうみたいなんですよね。
つまり、西洋風の音楽と同じような意味合いで音楽として受け取ることができないと。
そうですね。その12平均率にならわない、自分の脳内の処理として存在しない音楽が流れてくるので、それを音楽だと感じ取ることができないっていうのかな。
雑音とかノイズを聞いているときと同じような脳の反応になってしまう。
そうですね。言われてみるとそれと似たようなことって、例えば音楽の話でもすごくよくあるような気がしていて。
例えば音楽ばっかりになるんですけど、自分が中学、高校生の頃だったかな、エレキギターを買って練習をしたりするようになったんですけれども、ギター弾くまでギターの音って聞こえなかったんですよ、音楽を聴いても。
なるほど。
ギターを弾いて、ベースとかドラムってこういうことをやっているんだなって認識ができるようになって初めて、
音楽を聴いたときにボーカル以外の音が雑音じゃなくてちゃんと音楽として聞こえるようになったんですよね。
おそらくそれと同じことが音楽ではない趣味の分野でももちろん起こるし、人間が感情を感じるという分野でもそれと同じようなことが起こっていて、
脳みそというものは何らかの経験をもとにして、そこを概念として理解ができるようになってからじゃないと、その何かというものを認識することができない。
なるほど。で、多分議論を先取りしてしまうんでしょうけど、あるものがないとその感情は経験できないとして、スタート地点が難しいですよね。
それは書いてあったわけではないんだけど、歩くという方法にしてもきっとそうなんだろうし、うまく走ったりとか、何もかもが統計的な経験によって、そのことによって最適化していって、あと自由エネルギー原理だと何かがあったら予想するみたいな言い方をしてますよね。
それと同じように、これもほぼ同じことを言っているんですけど、その概念というものが存在することによって、概念によって予測ができるようになるというのかな。
これでも結構ややこしいというか、例えば僕の耳がインドの音楽を音楽として認識しない、認識しないというか、知覚しない、あるいは知覚しても意識に昇らせないとした時に、
そのままではそれが経験として醸成されないですよね、なんて知覚してないわけですから。だからそれとは違うバックグラウンドでその情報処理を、統計的な情報処理を担っている処理をどこかでしているということですよね。
そうでしょうね。だから例えばやっぱり、そこが個人差というか個性というか、そういう部分になってくるんじゃないかと思うんですけども、
インドの音楽を聴いた時に、インドの音楽を素早く情報処理して、自分の脳の神経回路を切り替えることが早い人というのは、言語としてインドの音楽と相性が良いというか、インドの音楽が好きな人というか、そういうふうに言えるのではないか。
そうか、だからある、インドの音楽ばっかり出てくるけど、インドの音楽を好ましいと思うニューロンネットワークの構造が到着点とした時に、そこの到着点に近い構造を持っている人と遠い構造を持っている人はいるでしょうね、きっと。
いるでしょうね。その学習によって多分、より早くそのインドの音楽を理解するためにたどり着くというやり方もできるだろうし、統計からうまく学習できるというタイプの人もいるだろうと思います。
当然のごとく、様々な国の音楽に触れている人ほど早く音楽として認識できるようになるでしょうね、これはもう単純に考えて。
そうでしょうね、だから多様な音楽を聴いていれば聴いているほど、おそらくよりもっと多様な音楽に対して聴ける幅が広がっていけるのではないかなという感じはしますね。
だから、脳は仮想性があるとよく言いますけども、その環境における自由エネルギーを最適化する動きに加えて、環境が変わった時でもその新しい環境に向けて最適化してくれるという動的な状態が脳では常に保たれているということなんですね、ということは。
そうですね、ちょうどそれが本の中盤から終盤にかけて、その辺りを踏まえて実例だったり概念というか、この辺りを自己啓発的というかライフハック的というか工夫によって結構うまく対処できるみたいな言い方をしているんですよね。
その辺りがちょっと前に話したパーソナリティを科学する、ビッグファイブというやつとも似ているんですけども、脳科学的自己啓発と言っていいのかな、ちょっとそれを言うとすげえ安っぽい感じになってしまうんですけど、そういう要素も結構面白いことがいっぱい書いてあったりして。
例えばなんですけど、この著者が今アメリカに住んでるんですけど、もともとアメリカに住んでた人ではないみたいなんですよね。
ちょっとどこの国か忘れちゃったんですが、やっぱりアメリカに住んでみると全然違うらしいんですよ、いろんなありとあらゆるというか細かい文化みたいなところで。
さらに言うと、アメリカ人が考える快楽の感情というものが、言ったら自分の国の快楽とは種類が違っていた方。
例えばなんですけど、ここ本に書いてあったアメリカ人の情動の特徴というものが書いてあって、アメリカ人ってよく微笑んで称賛をして愛想を言い合って励まし合う。
あらゆるレベルで成功者に対して賞を与える。ポジティブであるということを褒める。
それってアメリカの文化でもあったりするんですけども、文化ではあるんだけれども、感情の文化というものが、要するに統計的に大量の経験をしてしまうと、みんなそれがいいことだというふうに擦り込まれてくるっていうのかな。
しかも思い込みのレベルじゃなくて、脳の配線がそっちに寄ってしまうってことですね。
寄ってしまうみたいですね。
ネットワークの話とかもあったと思うんですけど、倉下さんの。
だからやっぱり周りの人と親しく距離感が近い人と一緒にいる時間が長ければ長いほど、感情の感じ方みたいなものすらも周りと同じものになっていく。
ある意味で伝染してしまうと。
そうですね。
例えばテッドラストってめっちゃアップルの映画でやってた。あれってめっちゃアメリカ人の典型っていうイメージで面白いんですけど。
やっぱりああいうことしかしない人たちばっかりで集まっていると、みんなああいうことをするようになってしまう。
アメリカっぽい表情っていうか、ふーんっていう感じの変な顔つきだったり。
フェイス、ボディーランゲージにしてもアメリカ人は口元で喋るだったかな?マスクが嫌いなんですよね。
だから感情が何か反応したときに口元で大きく動作をして、日本だと逆に目で喋るって言いますよね。
なるほど、なるほど。
そういう感覚というのも周りがみんなそういうことばっかりやっているから、そういうことを認知する能力が、脳の配線が変わってそういうものを認知するようになって、
自分もやっぱり真似する動物だと言われているので、人間はそれを真似して自動的にそういうことが起こるようになる。
それ、例えば快楽とかが文化によって変わってしまうのならば、公理主義ってすげーややこしいことになりますよね。
多分ね、そう、もうややこしいというか、やっぱり哲学にも繋がってくるんですよね、そういう意味で言うと。
数値計算、多分無理ですよね、それは。
もちろん、さらに言うと、例えばこの人の同僚なんかは、どうしてもアメリカ文化に馴染めずに去って行ったりしている人なんかもいるんですよね。
この著者は、もともとそんなタイプの、要するにそんな性格じゃなかったのに、アメリカにいたら、そういう愛想を言って励まし合って、フォーかっこいいみたいな感じのアメリカっぽいノリ。
そういうノリが、もうなんか普通になってしまって、できるようになったんだけれども、やっぱりできない人はもちろんいるとも言える。
うん、なるほど。
だけれども、多くの人はやっぱりそういうふうに自然に変わっていってしまって、だから文化が難しいんですよね、やっぱり公理主義にしても何にしても、どうなることをやってあげると、
その、会う会わないもあるんだけれども変えることもできるっていう、両方が言えてしまって。
文化によって感情の受け方が変わるっていうことは、例えば、アリストテレスのリリー観とか、人生の目標が何が最高の達成だっていうのも、結構アングロサクソン的な考え方で、他の国では違うこともあり得ますよね、それは。
まあ、ありますよね。例えばで言うと、やっぱり日本人が引っ込み事案であまり主張しないというのは、西洋が当たり前の日本の文化では、なんかカッコ悪いことだって言われているんだけれども、まあそれすらも、だからそれは西洋の価値観からしたらカッコ悪いけれども、少なくともかつての日本は多分それは良かったことなんですよね。
間違いなくね。
確かに俺は西洋の価値観に毒されているので、何か言いたいことを言えた方が、確かに便利なことは多いだろうなとやっぱり思ってしまってはいるんですけれども、それすらも文化によって、どちらが正しいではないっていうことももちろん言えるし。
そうですね。
結局、文化と脳の仕組み的にそういう、みんな真似してしまうというか、この辺りもコミュニティともつながってくるというか、だから知識はコミュニティが持つんだみたいなふうにも考えることもできるだろうし。
逆にインターネットによって多くの人々が一つのプラットフォームに集まることによって、文化が画一化されてしまうっていう問題にもつながりますね、ということは。
そうですね。画一化という可能性もある。そうですね、結構あり得ると思いますね。
しかもその画一化っていうのが、おそらくアメリカンナイズドされたカルチャーに画一化されてしまうってことでしょうからね、きっと。
今の日本においては、ほぼアメリカの影響なので、アメリカナイズドな文化に寄っていこうとしてしまう。何も考えていないと。
そういうことか、なるほど。
というのはあるような気がします。
他にも、著者が経験した話でちょっと面白いのがあって、
昔、大学時代だったかな、全然興味のない男性にデートに行かないかって誘われて、
あんまり興味なかったんだけど、たまたま暇だったからか何なのか、デートに行ったらしいんですよね。
デートの最中に食事をしている時に、なんか頬が膨張して、胃がソワソワした状態になったりして、
自分ってこの人に全然興味ないと思ってたんだけど、ひょっとしたらこの人のことを素敵だと思っているのかもしれないって思って、
そのデートはおしまいになったらしいんですけども、
家に帰ったらインフルエンザだったらしいんですよね。
はい、なるほど。
そのドキドキソワソワしていた感情というのは、その人に対してドキドキソワソワしてたんじゃなくて、インフルエンザだったからドキドキソワソワしてたらしいんですよ。
なるほど。
これって一般的に、勘違いしてたっていう言い方をすると思うんですけれども、
この本の意見でいうと、それは勘違いじゃなくて、実際に本当にそう感じていたんだって言うんですよね。
うん、なるほど。
結局、自分がそういう体の状態になった時には、自分はドキドキしているという風に言語化できていないということは、
本当にやっぱりこの人のことを素敵だと認識している。
自分自身も勘違いという言い方でも言えるのか、本当にそのように感じていたと言えてしまう。
うーん、なるほど。
釣り橋効果とかってよく言われているのが、まさにそれだと思うんですけど、
釣り橋の上のドキドキした状態で男の人にアプローチをされると、ついついそのドキドキを相手に対してドキドキしているというのと勘違いしてしまう。
というのも、実際に要するに勘違いではなくて、その感情をドキドキしているというものと区別できない人にとっては、それは事実なので、
だから確かにテクニックとして有効だって言えるんですよね。
あー、なるほどね。うん、わかるわかる。
で、そこで出てくるというか、ここからが本で出てきたその面白い、実際にじゃあそういうことを踏まえた上で、
より概念、情動みたいなものを工夫できるようにしようというか、自分たちで対処できるようにしようというのが、この本の面白かったところで、
一言で言うと、何をしたらいいかというと、概念に言葉を与えてあげるというのが一番効率が良く、その概念を習得できる方法らしいんですよね。
この場合の概念の習得って、例えば不安やったら不安っていうものに名前を付けるっていうことですね。
そうですね、こういう感情の時はその欲打つ状態であるだとか、こういう感情の時は不安な状態であるというのを、
なんかそのなんとなく嫌な感じという言葉では、ダメって言ったりがいかないのか、
では結局自分自身が分類できないので、言語を使って概念を分類してあげるというのが、最も有効な新しい概念の習得の仕方というか、
情動の流動を細かくするっていうふうに著者は言っていたりするんですけれども。
日本で言うと、解像度を高めるって言い方をしますね、よく。
そうですね、感情も解像度を高めることができる。
一番手っ取り早い方法というのが、新しい言葉を、こういう気持ちの時はこういう感情だっていうふうに言葉として作ってあげることが、
最も情動の解像度を高めることができる方法だって言っていて。
それは新しくないといけない。
いろんなやり方があります。
でも、新しいというか、多様な表現ができた方がいいというイメージなのかな。
新たな空問を自分の中にも追加するという感じか。
そうですね。本に書いてあった事例で言うと、幸福なっていう言葉は大雑把らしいんですよね。
幸福なという言葉をもっと例えばで言うと、糖水的なっていう言い方をしたりだとか、
私服のっていう言い方をしたりだとか、啓発されたっていう言い方をしたりするっていうのが、
より情動というものを言語として細かく分類する方法になる。
つまり、語彙が豊富な人ほど、情動をより鮮やかに捉えているっていうことになりますね。
そうなんですよね。だから、これに影響を受けて、いろんな感覚というものを、
めっちゃできるだけ自分は細かく言語化したいというか、いろんな言語化をしようって思っているんですよね。
そこの影響がすごい大きくて、他にももちろん、言語化以外にもよく言われているすごい分かりやすいもので言うと、
旅をするとか、本を読むとか、映画を見る、食べたことのない料理を食べるみたいなことをするのも、
やっぱり情動流度というものが上がっていくらしいんですよね。
うーん、勝手な感覚で言うと、例えば旅をしたり食べないものを食べると、その行為に注意が向くからでしょうね、おそらくは。
そうですね。新しい体験というものが新たな経験として、情動をより細かく区別するきっかけになるのかな。
ここに関しては、あんまり本の中でも詳しく科学的に突っ込まれた話というのはきちんとされてはいなかったんですけれども。
まあ、そうでしょうね。
まだね、中盤から後半は、調査本にも語っているんですけれども、まだ研究中の部分もまあまああるみたいな言い方をしていて、
おそらく正しいであろうけれども、その絶対そうだっていうふうに、まだそこまで言えるようなレベルではないものというのもいっぱいあるみたいなことは言っているんですけれども。
そうか、自分で名前を付けることがやっぱり重要なんかな。
その、例えば他の人に何か話をして、それは例えば不安だよって言われるよりも、自分内で完結した方がいいのかな。
やっぱり他人の手を借りても。
これはね、特にどっちでもいいみたいですね。どっちが大事みたいなことはないみたいで。
調査たちが、自分たちで名付けたって言っているやつが、ポテチ気分みたいな感じの言葉で、そのポテトチップスを開けてしまった時に、ついつい全部食べてしまうような感情。
残すのは中途半端で全部食べてしまうんだけれども、なんか食べちゃったら食べちゃったで、ちょっと食べ過ぎてもったいなかったというか、良くなかったな残念みたいな言葉っていうのをポテチマインドみたいな名前を付けてあげると、その時の気分というものをより明確にポテチマインドという言葉で覚えておくことができて、その情動というものを他と区別して、ちょっと残念な気分だけではないと思うんですよね。
それを例えば、罪悪感っていう大きい言葉で言ってしまうとややこしいことになる。
まあ、そうでしょうね。
結局全てはここで戻ってくるんですけども、寝てる間に当たり前ながら身体予算というやつもやっぱり回復するみたいで、言ってみたらそこを無理矢理起こされたら、脳はもっと寝てようと思ったのに体に起こされてしまって、きっと身体予算は嫌な気分で減ってくるんですよね。
食べ物というものも、体が本来これを必要としているのに身体にそのエネルギーが入ってこない、ビタミンが必要なのにビタミンが足りていないというのは、身体のニーズと脳に今これ入ってきたぞ、ビタミンきたぞということが一致しないというのも当然バランスが崩れることになるし、
そもそも人間は体が運動するようにできているので、身体のニーズというのは基本的に毎日疲れて寝たいはずなんですよね。それを一致させなくなってしまうので、身体予算というものがうまく動機がされなくなってしまう。
そもそもその嫌な気分という話がさっきクラッシャーさんのところからも出てきたんですけども、その嫌な気分というのが予測のエラーに対してうまく体が反応できていない状態というのが嫌な気分というものを生み出すと言えるのかな。
こうなってほしい。なので常に身体予測が外れてしまうので、予算の割り振りを変え続けないといけない。それによって疲れてしまって嫌な気分になる。
イメージとしてはあれなのかな。計画通りにいかないとムカつくっていうのが、計画通りにいっていなくて計画を修正している最中というのはちょっと嫌な感じがして、ずっと計画を修正し続けたらそりゃ嫌だよねっていう。
できるだけ計画の修正みたいなものをしなくて済むようにしてあげるというのが、身体予算を良好に保つための秘訣だというふうに言われています。
一つ思ったのは、それが破産した時にどうなるのかっていうのと、結構認知資源と似てるよねと思ったのが二つ目かな。
おそらく認知資源とニアリーイコールというか究極的には同じなんじゃないかなというふうに思っています。
破産した場合というのが、簡単に言うと破産すると心の病気になる。
なるほどね、そういうことか。
常に調節し続けてしまっているんだけれども、調節がもう調節し続けられなくなってしまって、調節機能が破産して、いわゆる心の病と言われるものになってしまう。
そうか、だからある種の予測が完全に止まってしまうっていうことですね、ある種の無気力みたいな状態っていうのは。
そうですね、確かいろんな、そのあたりもちょっとパッと出てこないんですけど、農家学系のものが出てくると、心の病だとかその精神の障害みたいなのはだいたいやっぱり何かの物質がうまく分泌できてなくて、それを足してあげると治りやすいとか、結局そういうことなのかなというバランスを保てなくなってしまうと、どんどんおかしくなってしまう。
本に書いてあった書き方で言うと、ストレスを感じるというのは、要するに常動と同じ仕組みとして同じものだ。確かにそうだよなというか、脳みそが何らかのその状態を予測して、こういう脳の体内のバランスがそういう状態になっている。信号がそういう状態になっている。
というのは脳みその気分を感じる、常動を感じるというものと同じ仕組みなんで、要するにその常動に対する対処の仕方というものとストレスに対する対処の仕方というのは根本的にやることは同じで、対策の仕方も同じで。
例えばで言うと、細かく言語化してできるだけ常動を細かく区別してあげることで、この予測が細ければ細いほど予測が崩れにくくなる。予測と合致しやすくなるという言い方もできるし、たくさん寝たりすることで、ちゃんと体が求めているものと脳がやろうとしていることというのが一緒にしてあげるというのも、すごく本質的に同じようなことだというふうにも言えるし。
このきちんと区別することの大切さっていうのは、例えば恋のドキドキとインフルエンザを取り違えると対処方法が間違いますよねっていうのと。
そうだよね。現実的な社会的なレベルでのそういう話もあるし、どっちもあるんでしょうね。
ストレスに関して言っても、個別の対処方法が個別の細かい状態によって違うから、きちんと区別できた方が適切に対処できますよっていうことですよね。
きっと多分、細かく言うと脳内に流れている物質というのは量とか割合が違うと思うんですよね。
それに対してできるだけきちんとした言葉というか概念を割り当ててあげれば予測がより正しくなるから、
嫌な気分を味わった時も嫌な気分というものの早く調節できるので誤差が少なくできる。
嫌な気分というのが味わう時間が短くなるということにもなるのかなと。
例えばなんですけど、恐怖心というものも細かな情動表現で克服できるって言っていて、
雲を見ただけで気持ち悪いと感じる人も、その雲というものをできるだけ細かく描写して、
何が嫌いなのか、どういうことが嫌いなのかっていうものをできるだけ詳しく書いて、こうだこうだっていうふうに自分を説得してあげると、
恐怖心、本能的につい無意識でも生理的に嫌いみたいなやつっていうのは対処できるみたいで。
実験によると少なくとも1週間なんですけど、1週間は雲を見た瞬間で気絶するような人は、
大丈夫な状態が続いたりとかもしているみたいです。
ちなみに神経症って呼ばれるのはこれと逆のことが起こって、つまりどんどん対象がでかくなっていくんですよね。
つまり曖昧になっていく。
お母さんが赤ちゃんの画面を離した時に、針で指さして、ちょっと大事件になったのが、
次から自分の手にどっか針がついてるんじゃないかって思うようになって、
布団とかにも針がついてるんじゃないかって思うようになって、
次第に外出できなくなってっていうふうに解像度が荒くなっていくんですよね。
おそらくそうですね。
だからそのベクトルを細かい方に行くと治しやすいし、
荒い方に行くと悪化していくっていう対象関係があるんでしょうね。
今回の肝でいうと、やはりできるだけ言語化して細かく区別してあげることというのが一番重要なことで、
日記なんですよ。
本にもやはり出てきていて、
浄土を手名付けるために肯定的な日記を書くのは大変良いことだっていうふうに言っていました。
なるほど。ちなみに森田療法っていう神経症の治療でも、実は日記を書いた方がいいって言われてますね。
だからやはり繋がってくるんですよね。
今までの調査されてきたところと、きっと理由付けというか、
仕組み的に同じような部分が多くて。
書いてあったので言うと、否定的な日記は良くないみたいなんですよね。
森田療法にもそれも書いてましたね。
この本の表現で言うと、否定的な浄土というものが踏み固められてしまって、
その否定的な浄土が反応しやすくなるのじゃないかなって思ったんですけど。
要するに統計的に否定的な情報が増えてしまうってことですよね。
おそらく。だからそこにばっかり対処、そっちに対処することに能力が裂かれてしまう。脳みその。
なので、否定的なものというものはできるだけ書かない方が良いみたいで。
とはいえ、一時的な怒りの対処に文章を書くといいぞみたいなことを言われていたりもするので。
だから一時的だったら良いんじゃないですか?
毎日毎日恨みつらみみたいなのを書かない方が良いっていうことだと思いますけど、きっと。
そうか、あとあれか。その恨みつらみなのと、なぜ自分が怒っているというのは別に否定的じゃないですもんね。
そう、怒りの表明とかね。で、自分がなぜそれに怒っているのかっていう風に注意が向けば、より解像度が深まっていきますね。
そうですね。だから怒りというものをなぜか感覚として、精神のコントロールが効かないものだという言い方をしてしまうけれども、
実は多分そうではなくて、より細かい情動として認識できるようになることで、
自分はこのような状態になって、その怒りの物質がたくさん分泌されているということが分かるようになれば、より細かくコントロールもしやすくなるだろうなという気はしますね。
まあそうでしょうね。で、当然日記とかにその怒りの漢字を書くことで解像度が深まるとともに、おそらく書くことで主導権が対象から自分に戻ってくるっていう。
怒らせられてたわけですよね。怒ってる状況っていうのは。主導権が向こうにあったわけですけど、外人を傷つける時っていうのは、主導権がこっちにあるわけじゃないですか。
それをどう書くのかっていうのは私の裁量になるわけで、そこで自己コントロール力が発揮されるようになるんでしょうね、きっと。
でしょうね、そういうことなんでしょうね、結局。だから帰ってくると、やっぱり書くことというのはすごく大事だとか、言語化がすごく大事だっていうのは自分の中で結構大きく影響を受けたところで。
これもあくまでも統計的なデータでしかないんですけども、浄土流度の高さと学校の成績というのは連動することが多かったりもするみたいなんですよね。
まあそれ単純に考えてそうでしょ。
例えば自分が今子供に対してすごくこれを読んでから考えるようになったのは、できるだけ今どう思っているかとかどういう気分なのかとか、そういうことを細かく言語化して伝えるようにするというか、お互いに。
その嬉しいとかっていうのも、できるだけちゃんと言語化してあげることっていうのかな。なんかいい気分というものをなぜいい気分だったのかということを考えるだったり、いい気分というのがどのような気分だったみたいなこととかっていう。
いろんな体験というものを曖昧な表現ではなくて、きちんと言語化して人に説明できるようにするというのが、たぶん学校の成績みたいな小さいところではなくて、もっと大きな部分の社会的な生き方としてすごく重要なことではないかなというふうに思うようになって。
たしかに。だからこの浄土流度、知識流度っていうのは、例えばこうやって本を読めば高まっていくわけじゃないですか。いろんな概念の細かい違いがわかるようになってくると。浄土流度を上げるために、自分の体験じゃなくて小説を読むとかいうのはこっち、浄土流度を高める役割があるんでしょうね。
あるみたいです。だから、映画にしても本にしてもなんですけども、いろいろな人の気分というか、こういう時にこういうことをしている。語彙とも言えるし、それだけではないんだけども、単純に本を読むことは賢くなることにつながるっていうか。
賢くて、脳の動きをどうにかすることにはつながるっていう。例えば、ある気分を表すときにカフカの変身のような気分っていうのは、もうそれ以外、表現しようがないじゃないですか。
朝起きたら変な虫になっていた気分というのをカフカ。だからね、それはさらに言うと、たぶん短く単語にしてあげるとより良いと思うんですよ。カフカ朝みたいな、なんかそういう表現というか。
だから、そういう浄土のきっかけというかね、一人しか体験できない浄土の幅が広がるし、名付けるケーキにもなってくれるという意味で、やっぱり文学作品というところは意義があるんでしょうね。
もう一個、外国語もいいみたいです。
なるほど。
その国にしか存在しない表現ってめっちゃあるじゃないですか。
なるほど、ありますね。
っていうのは当たり前なんだけど、日本語しか喋っていなかったら、日本語にある概念しか認識できないんですよね。
確かに。
最近なんかで聞いて覚えていて面白いなと思うのが、ドイツ語で人がみじめな、人間が不幸な状態になっていることで感じる幸福な気分みたいなことを指すような用語というのも、確かドイツ語にはあるみたいな話があったりだとか。
その状態というのを、人間の短期記憶は少ないので、人間がそういう気分になっていいことになっている気分という覚え方をするんじゃなくて、単語として覚えてしまうと、より現概念を習得しやすくなる。
外国語というものはそういう概念が、さらに言うと、例えばハッピーと幸福なんて、言語として別の概念ですからね、おそらく。
そうですね、おそらくそうですよね。
すごく近い部分が多いけれども、やはりハッピーと幸福は違うし、哲学とフィロソフィーだっておそらく違うと思うし、
っていう意味で、やっぱり外国語を学ぶということが、要するに浄土流度を高めるという観点からも外国語学習の価値があると言われれば、英語の学び方の違う種類の動機にもなるかなと思うし、
何やっても大体いいと言われることはきっといいんだろうなっていう感じにもなってくるんですけど。
そうですね、だから外国語だけじゃなくて、例えば自分が知らない学問の分野とか、哲学もそうですけど、そうやっていろんな概念流度の作り方を知るというかね。
概念流度を高める経験をどこかですれば、他の分野でも概念流度が高まるんではないかっていうことが多分言えるんでしょうね。
そうですね、なのでおそらく今回の話でちょっとまとめに近い感じなんですけど、浄土流度という言葉を知っておくのはきっといいことだと思うんですよ。
その浄土流度を高めるということと言語化をするというこの2つ、2個ぐらいなら覚えられると思うので、
日頃の生活において浄土流度を高めるということと、浄土流度を高めるために言語化をするという2つを覚えておくと、
あらゆる行為をする時に役に立つという言い方をすればいいのかな、すごく応用がしやすい良い概念なんじゃないのかなと思っていまして。
大体そういう感じでこの本のお話、書いてあったことは言いたいことはその辺ですかね。
あと後半にはあんま面白くなくて飛ばしたんですけど、浄土と法律の話とか病気の話とか、動物に浄土はあるのかみたいなところなんかもその観点から考えていたりもしたんですけども、そこはまた読んでいただければなという感じですかね。
なるほど。ちなみに構成主義の説明は一応聞いてたらなんとなくわかるかなと思うんですけど、あらかじめあるものじゃなくて組み立てられるものってことですね。
そうですね。初めからあるんじゃなくて細かいものがたくさん集まったことによってこの感覚というものができるという言い方でいいのかな。
僕らのイメージではだから構成主義じゃないんですよね。ある種の感情というのはアプリよりに存在していて、刺激に対して反応として感情が出てくるっていう感じやけど、著者はそういうものではないと。浄土っていうのは自分、あるフィルターを経て、ある種の解釈みたいなもんですね。文学作品の解釈みたいなもので、脳が作っていくタイプのものやと。
まさにその哲学でいう先にあるものではなくて、いろんな体験をした上でそこに名前をつけてようやく獲得できるもの。
だからもしかしたらある時代までの人類には特定の浄土はなかったみたいなことはあり得ますよね。
有名な話で日本には愛がなかったとか言いませんか。
なるほど。
愛という言葉はアメリカから英語とかのラブという概念が導入されたことによって、理解がされるようになった浄土で、それまでにはなかったって言われていて。
ナオエ・カネツグっていう武将が旗に愛っていう字を掲げていて、かっこええって婦女子たちがわりと騒いでいたりしたりもするんですけども。
たぶんその時の愛はね、今でいう愛とは全然意味が違うんですよね。
なるほどね。
その愛という漢字自体はあったんですけれども、その愛という概念がおそらくラブと結びついたのは、西洋の文化が導入されてから現れた浄土。
なるほど。