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2022-07-05 1:11:12

BC041 『THINK AGAIN 発想を変える、思い込みを手放す』

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今回の本は、なんだかこれまで紹介してきた本を全部まとめて一冊にしたかのような、すごくいろんなことが「THINK AGAIN」という一つのテーマにまとめられた本でした。

個人的には書いてあったことはだいたい知ってたことではありました。

ただ「ブックカタリストで紹介した本から一冊だけお勧めを選べ」と言われたら『独学大全』かこの『THINK AGAIN』を選ぶのではないか、というくらい網羅性が高い本でした。

ざっと思いつく範囲で、以下の回で語った内容と大きく関連した話が出てきます。

* BC037『現代思想入門』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

* BC036『CONFLICTED 衝突を成果に変える方法』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

* BC030 『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』 - by goryugo - ブックカタリスト

* BC029『NOISE: 組織はなぜ判断を誤るのか?』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

* BC023 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』 - by goryugo - ブックカタリスト

* BC014 『How to Take Smart Notes』 - by goryugo - ブックカタリスト

* BC011 『Learn Better ― 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ』 - by goryugo

網羅性だけでなく、本の中に出てくる事例は素晴らしいものが多く、本編でも長々と語った「学習」についてのエピソードは、様々な場面に応用できそうな素晴らしいものでした。

「再考」というものがベースのテーマにあるんですが、たとえば「決めつけてはいけない」(バイナリーバイアスに気をつける)だとか「リレーションシップ・コンフリクトとタスク・コンフリクト」という2種類の人間関係の衝突についてなど、事例や考え方に対する名付けの上手さも注目できる内容でした。

たくさんの理由を連ねるより一つだけの理由の方が効果が高い、なんていうのもなかなかに興味深い話。

1冊で450ページもあって、正直これは「長いわ」とは思うんですが、それでも10冊分くらいのブックカタリストで紹介してきた本の中身が凝縮されてる、と考えれば長くはないと言えるのかもしれないです。(これまで紹介してきた本を全部読まれている方であれば、興味深いところだけ読むような読み方で十分だとも言えます)



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サマリー

『THINK AGAIN 発想を変える、思い込みを手放す』という本は、自分の考えを再考し、他人にも再考を促すことで、学びと成長を続ける社会や組織を作る方法について述べています。本書では、思い込みを手放すことがどれほど重要かについて考えています。自分自身のアイデンティティを価値観で定義することで、自分自身のアイデンティティを変えることができます。また、一年前の自分を振り返って成長することも大切です。コンフリクトは必ずしも悪いわけではありませんが、人間関係による衝突は好ましくありません。本書では、タスクとリレーションシップの違いを説明し、「バイナリーバイアス」に注意することが重要であることを述べています。感情的な知性についても慎重に言葉を選び、注意深く補足説明やニュアンスを付け足すことが求められます。本書では、さまざまな思い込みを手放し、新たな発想を持つことの重要性について考察しています。

自己の思い込みを手放す
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第41回の本日は、「THINK AGAIN!発想を変える思い込みを手放す!」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
とりあえず、初始情報を確認しましょうか。
はい、三笠書房から2022年の4月に出た本。
アダム・グラントさんという方が書いた本で、
あれですね、ギバー、テイカー、マッチャーっていう言葉を聞いて、
ああ、なんか聞いたことがあるって思う人が多いんじゃないかと思うんですが、
簡単に言うと、あの概念を発明した人、広めた人と言えるのかな。
うんうんうん。あれはいい本でしたね。
なので、単純に著者の力というか、おそらくきっと結構売れているだろうし、
おそらくきっと結構評価も高いだろうし、
こういうジャンルの本をしばらくちょっと読んでなかったんですが、
幸いにも興味を持つことができたので読んでみて、
すごい簡単な感想を言うと、知らなかったことはそんなに多くはない。
大体知っていることでした。
ただ、やっぱり言語化と事例が上手いなと思っていて、
例えば、知っていることに関しても、
すげえ上手な名前をつけて説明してくれるので、すごく覚えやすいとか、
サンプルの事例というのが、それは確かにすげえなっていう話だったり、
サスペンスミステリーというわけではないんだけど、
実はこれはこんなことなんです、みたいな物語的な見せ方も上手かったりして、
結構分厚いし、感想として長いなとは思ったんですけれども、
そうだとしてもやっぱりすごい本だな。
本を一冊選べと言われたら、これを選ぶんじゃないかっていう、
なんかね、そのてんこ盛り感。
てんこ盛りって言うとあれか、でもてんこ盛りが近いな。
その、とりあえず何読んだらいいと思う?みたいなことを言われたら、
これを読むと最近重要だと思われていること、
ブックカタリストで今まで語ってきた40回分ぐらいの半分ぐらいのことは、
ここに込められていると思うっていう感じにもなると思います。
分厚いけども、ほにゃらら対戦的に必要なことが結構がっつりまとまっていると。
ですね。文中というか話しながら、もういろいろ折り混ぜていこうと思うんですが、
今までブックカタリストで話した本と、
つながりそうなコンテンツというものがすげえいっぱいありました。
ぱっと先にタイトルを挙げてみると、
とりあえずって思いついたやつなんですけど、ちょっと前に話したコンフリクト。
事実はなぜ人の意見を変えられないのか。
ノイズ、組織はなぜ判断を誤るのか。
Learn better、現代思想入門、パーソナリティを科学する、
How to take smart notes。
これはね、その本はもうダイレクトにつながりそうな気がしますね。その最後の本は。
この辺りのことが、もうすごい。
この辺りのことの役に立ちそうなことがいっぱい詰まっているというのかな。
うんうん。
少なくともAmazonのレビューを見ると、
すんげえ人生を変えた一冊みたいな書き方がされたりしていて、
そこまでと言われるとちょっと疑問ではあるんですけれども、
すごい本だな。あと著者すげえなって思いましたね。うまいな。
ということは、アダム・グラントらしく、別に難しい学術書というよりは、
ビジネスパーソン向けにこの手の話を読みやすくまとめてくれる感じの本なんですかね。
もう完全にそうだと思いますね。
最近読んでいた、例えばその哲学の本とかって、
なんていうんだろう、わからないことがあるとわからんというか。
日本語で書いてあるけど理解できないみたいなことはいっぱいあるけれども、
これはちゃんと日本語で書いてあって、日本語がちゃんと理解できる。
ところどころ、細かいことを言うと翻訳にちょっと不満があったりするところはあったんですけど、
そこは個人の意見みたいな部分もあると思うので、ちょっと難しいかな。
ここはカタカナじゃないほうがいいんじゃないかとか、
逆にここはむしろ日本語にしたらわかりにくいんじゃないか、
みたいなのはないとは言わないぐらい。
大きくパート1、2、3っていう感じで、3つに分かれてます。
最後、パート4が結論。
テーマはThink Again。
もうカタカナで十分通じると思うんですけど、
もう1回考えよう、再考しようということをテーマにしていて、
パート1はまず自分の考えを再考しましょう。
相手に再考を促す方法
自分自身をちゃんと冷静に見つめ直して、
いろんな思い込みにとらわれないようにしましょう、みたいなニュアンスが大きいかな。
2番目は相手に再考を促す方法。
おだしょー これ結構興味深いテーマですね。
ある意味、ダイレクトに事実はなぜ人の意見も変えられないのかを
アダム・グラントさんが語っていたというふうな言い方もできるかもしれない。
パート3が学び、再考し続ける社会、組織を創造する方法。
おだしょー 再考し続けるの、再考は当然、再び考えるという。
おだしょー 再び考えるですね。
学ぶということも考え直そうよとか、これはある意味ちょっと2章ともつながるんですけど、
社会全体で、社会とかチームとか組織もやっぱり再考し続けることが重要だよね。
あと学び続けることが重要だよね。
最近よく聞くようになったアンラーニングみたいな言葉。
そんなような概念のことも軽く書かれたりしていたかなという印象です。
オープニングから上手いんですよね。
やられたっていう感じがして、すげえなって思ったんですけど。
事例は有名だから知っているかもしれないんですけど、
スモークジャンパーっていう山火事を消しに行く消防士の話。
アメリカとかって結構山火事がよく起こるみたいで、
それをスモークジャンパーと呼ばれる職業の人たちが、
それを消しに向かう、消防に向かっていくんですけども、
当然めっちゃ命かかっている危ないお仕事で、
そういう怪我をしたり死者死亡したりすることというのもすごい多いみたいなんですよね。
ワグナードッジさんという方が事例として出てきたんですけども、
訓練をしていると、例えばなんですけど、
スモークジャンパーって火を消すための装備というものが、
お前にとって相棒であり人生のすごく重要なものだっていう教えられ方をしているせいで、
急いで逃げないといけないときにも、それを捨てて逃げるということを思いつきもしなくなったりしてしまう。
多分過剰適応みたいに言われたりするようなことかな、最近言葉で言うと。
っていうようなことが起こりやすくなって、
このワグナードッジさんっていうのは火が迫っててやっべーって時に、
マッチで地面の草に火をつけてうつ伏せになったら、
生き残ることができたらしいんですよね。
現象としてはエスケープファイヤーっていうらしくて、
自分の周りの草を先に燃やしておくと、
三層がなくなって燃え広がらないってやつですね。
そうですね。っていうのを、とっさな場面として思い出すことができて、
おかげで助かることができたぞ。
こういうメンタルフィットネスっていう言い方をしているんですけれども、
メンタルフィットネスっていうのは大事だよねっていう始まりだと思ったんですよ。
だと思った。
うまいなと思って、ここまで初めにで長いこと書いてきて、
さらっとこの人書いてるんですけど、
我々スモークジャンパーの命を助けないといけないとか、
スモークジャンパーは思い込みを手放して、
助かるための柔軟な思考をしないといけないとか言ってるんだけど、
シンクをアゲインしてみましょうと。
そんな書き方をしたってわけじゃないんですけど、
山の火消す必要ないんじゃない?
そもそもアメリカで山の火を消すという、
小屋が出た場合に無理して消してしまうと、
かえって大きな火というもの、大きな火災というものを呼び寄せやすくなってしまうみたいで、
究極スモークジャンパーってそもそもいらないんじゃないかって。
本当にやばい火は消さないといけないということがわかっていて、
それはもうすでに1880年頃にそういうふうに言われていたらしいんですよ。
多分この事例が何年だったかっていうのは確か書いてなかったんですけれども、
おそらく20世紀の出来事のはずで、
究極的なこと言えばその山の火を消しに行く必要すらなかったかもしれないし、
その小屋を消すことをしてしまっていたせいで、
巨大な山火事というものが起こってしまっていたかもしれない。
アメリカのルールで、小屋があったら翌朝10時までに消さないといけないみたいなルールがあったらしいんですけれども、
その法律が変わったのが1978年。
研究として言われ始めて100年経ってようやくそういうことに気がついた。
まずこの話を聞いて思ったのが、
2歩か3歩ぐらい下がってみないと気づけないことがいっぱいあるよねっていうのを思い知らされて。
だから下がるという言い方でもいいですし、一つ上の階層に立つという言い方でもいいですけど、
視点を切り替えるというよりは視野を広げるというような感じですよね。
この人がこのことをさらっと始めに書いていて、
フラッと読んでしまうと、そもそも火消す必要なかったんじゃないっていうものをさらっと読み逃せてしまうぐらいにも簡単に書いているんだけれど、
まずいきなりここって結構すごいなと思って。
最初にスモークジャンパーの話をして、
奥さんにこの話したら、この話はよく聞く話で有名で知っているみたいなことを言ってたんですよね。
俺は知らなかったんですけど、そういう話をありがちだなって持ってきておいて、
そもそもありがち以前にそれやらんくってもいいかもしれないことだよねっていうことに気づこうとするのは結構難しいことな気がして。
学び、再考し続ける社会を創造する方法
それをやっぱり表に1話目に最初に持ってきたというのが、やはりこの上手いよねっていうことを思って。
ちょっと昔なんですけど、Twitterでバズっていた、目的と目標を間違えるなっていう話を思い出したんですよね。
山火事を消す目的とは何なのかって、おそらく人の命を救うことだと思うんですよね。
驚かね。
でも山火事を消そうとして消防士が死んで、しかもそれが無駄だったっていうことを、火を消すことだけを目標にしてしまうと、簡単に見落としてしまう。
あとバズってたTwitterの話もすげえ面白かったんですけど、上司と私のやりとりっていうので、
お前は目標と目的がごっちゃになってるんだって言われて、すみません、わかりませんって言った時に、
お前が勇者だとして魔王を倒すことが目的になってんだよって言われたんですよね。
何が違うんですかって、違うだろうって。目的は魔王を倒すことによって得られる世界平和が目的だろうと。
魔王は目標でしかない。
この目標と目的を間違えるなっていう事例と、山火事を消すことも同じだと思うんですけど、
こういう一歩下がってもう一度思い返すということをできるようにしよう、そのためにはどういうことを考えたらいいだろうか、
みたいなところがまずパート1で、主にパート1で語られるところなのかな。
目標と目的の話はちょうど目標の研究っていう本を僕が書いてるんで、これ聞いてる方は読んでいただいたらいいんですけど。
そういう話を書いてます。
でもこれってやっぱり日本語にしてもそうだし、多分英語だと何になるんだろう。そう言えば相当するのがパッと思いつかないんですけど。
目標の方は多分ターゲットになるのかな。ターゲットとかリザルトっていう言葉がこの界隈ではよく使われるけども。
一番上の目的はパーパスって言って、最近ビジネス用語で流行ってましたけど。
パーパスってよくビジネスに出てくるイメージですね。
ビジョンに置き換えられる、結構上の概念ですね、それは目的として。
この辺りも例えばで言うと、やっぱり英語で一回概念を理解し直しておくと、日本語だけで考えるよりも一段階わかりやすいような、
今、クラスターさんにパーパスっていう言葉を聞いて、そう言えばどっちもターゲットだってもちろん目的と言えるし、パーパスだって目的と言えるしって思うけれども、やっぱり違いますよね。
これ日本語でもあれなんですけど、目標って書いてるからあれですけど、この標っていう字はひらがな、いや訓読み、音読み、音読みすると印なんですよね。
なので目印なんですね、目印。目印って目的そのものじゃないじゃないですか、目的に向かう印じゃないですか、サインじゃないですか。
こっちに向かっとけばいいよってやつですよね。
だから目標と目的っていう目印と言い換えたら非常にすっきりわかるというような説明の仕方僕はよくしますね。
やっぱり最初に気づかせるのがうまいというか、言ってみたらこれもありふれた話だとは思うんですよね。
思考の見直しとコンフリクト
そこをやっぱり上手に話してきてくれていて、この辺り大体そこからどうやって自分の思考を見直すのか考え方を変えるのかだとか、
思考の盲点みたいなものに気づきましょうとか、間違いを見つけることを喜びなさい、嬉しがりなさいみたいな話だったり、
コンフリクトと全く重なるところなんですけど、議論をすること、この本だと熱い論戦、グッドファイトというものを恐れずにやっていけみたいなことが書かれていて。
いくつか面白かった事例っていうので、例えば事実や人の意見みたいなところと似ているところだと思うんですけど、
理性を超えてくる返答体の防衛本能に気をつけましょうという書かれ方をしていて、
人間は自分と関わりのない見解とか推測っていうのはいくらでも喜んで受け入れることができるんだけれども、
自分にとって大事だと思う中核的な信念というものについて意見をされてしまうと、途端に話が聞けなくなってしまう。
おそらく理性では反応ができるんだけれども、自分にとって大事だと感じてしまうと、本能がそれを拒んでしまうんですよね。
そこが面白いんですよね。だってそれはある種概念というか考えというか信念じゃないですか。
そこが例えばある種侵食されても、生命体としてのパラメータが落ちるわけじゃないじゃないですか。
でも、僕たちは本能的に反応してしまうんですよね。
なんでなんかって言われたら、多分もう進化論的にそうだったとしか言えないので、どうしようもないので、
我々がやることはやっぱりそこを何とか理性で抑えつける術を覚えるというか学ぶというか考えていくしかないというのがまず難しいところなんですけど。
この本の著者は、なるべく理性の力を活用しましょう的な方向を提案してるんですかね。
そうですね。全体的にはそのためのノウハウだとかマインドセットみたいなものがいろいろ書かれているというようなイメージで、
たぶん今までにも話してきているんですけど、現象に名前をつけることってすごい大事だと思うんですよね。
こういう場合はこういう名前があるという認識ができれば、今俺はこういうことを言われているので、これは理性を超えて何か拒否反応が出ているんじゃないかということを一歩下がれば聞けるかもしれないだとか。
この章とは違ったかもしれないんですけど、感情的に話しかけられた場合にも感情的に話しかけられた時ほど、こっちは落ち着いた反応を返さないとダメですよっていうようなテクニックだとか、ある意味そういうことがこの本全体を通して書かれているという言い方もできるのかな。
おだしょー なるほどね。結局、例えば感情的に言われた時に、距離を置こうっていう判断は理性君じゃないですか。システム2じゃないですか。
でも、言われた段階でその言葉が耳に入っちゃったら、その理性2君は若干機能不全を起こしている可能性があるわけですよね。
おだしょー なので、啓蒙思想2.0では結局その個人の努力では限界があるから、そのシステム的な介入で外部足場を作りましょうという話が展開されたんですけど、この本はどちらかというと理性をもっとうまく使いましょうみたいな感じが全体的なトーンですか。
おだしょー そうですね。全体的には社会でどうにかしようという意見は基本的にはここには書かれていなくて、悪く言えばバータリ的な対象という言い方になるのかな。
おだしょー だから、先ほどの概念に名前を付けると覚えやすいで言うと、これを僕は理性マッチョマリズムとこれから呼ぶことにしますけども、理性を鍛えてうまく使おうということですね、この本の場合は。
アイデンティティと信念の関係
おだしょー 特に個人的に言葉としてかっこいいなと思ったところで言うと、例えば、アイデンティティというものは信念ではなくて価値観で定義することが重要だ。
おだしょー 俺これ最初に読んだ段階で全然直感的にピンとこなかったんですけれども、すごく深いことが書いてあるような気がして、いろいろと考えてみたりしていたんですけれども、まずそもそもアイデンティティというものは何なのかというか、アイデンティティが崩されるとさっき言ったように理性が暴走してしまって、本能で起こってしまうわけですよね。
おだしょー そうですね。
おだしょー その怒りに対して、著者が言っているまず大きな考え方の変換というものが、アイデンティティというのはあなたの信念ではないんですよっていうこと。
おだしょー 固く信じて疑わない心という言い方をすると、さっき言った最高、think againとは真逆で、俺はこうだと決めたら絶対に変えないっていうことになってしまいますよね。
おだしょー 英語で言うと、おそらく最適な単語で言うとbelief、信じるということ。だからアイデンティティとそのbeliefをつなげてしまってはいけない。そうではなくて、自分にとって大事なことっていう言い方が土直球になるんですけど、
あなたのアイデンティティというのは、何が自分にとって大事なのかということをちゃんと決めておくというか考えておくというか、そういうことからあなた自身というものは出来上がっているんだよと考え方を変えましょう。
おだしょー だからアイデンティティ2.0っていうことですね、要するに。たぶんだから信念によってアイデンティティが構築されるっていうのは生物学的にナチュラルな反応だと思うんですよ、きっと。
たぶん俺の中ではね、言葉として区別しているけれども人間の中にあるものは同じなんじゃないかぐらいのイメージはあります。
その元々のものをスライドさせることによって、アイデンティティが自由になるっていうのはおかしいけど、他者からの攻撃に影響されにくいものに変質するということで、これはさっき言った理性マッチョマリズムではありますけども、有効な理性マッチョマリズムやと僕は思いますね、これ。
おだしょー 誰でもできる筋トレ。筋トレじゃないか、マッチョマリズムも。
おだしょー アイデンティティそのものを変えてしまえば、さっき言ったように防衛反応そのものがまず起きないわけですから。防衛本能が起きてからシステム2で例えば深呼吸しましょうとかって言われても、それはもう結構手遅れじゃないですか。
でも、言われても自分のアイデンティティを傷つけないという形のアイデンティティになっていれば、それは結構システム2も余裕で動いてくれると思うので。
おだしょー その場対処じゃなくて、この概念で言うと事前準備になるのかな、確かに。
おだしょー そういうことになります。
おだしょー うまく言えないんですけど、自分の中でこの言葉がすごくいいと思うんですけど、なんかスッと入ってこなくて、すげえずっと考えていて。
おだしょー 信念ではなく価値観、だから英語に置き換えて考えてみた場合に、おそらく英語で言うとさっき言った信念はbelieveで、価値観というものはvalueシステム。
おだしょー 自分が堅く信じて疑わない、サイコアイデンティティを信念で考えてしまうと、だからthink againできないんだっていう風に考えたら、ちょっと自分の中で振り落ちたんですけれども。
おだしょー 例えば信念で言うと、例えば僕の話で言うとね、例えば暮らしたタダノイという人間は女性に優しい人間であるっていうのが信念なんですよ。
おだしょー それで、そういう信念を持っているときに、あなた女性に優しくないじゃないっていう事例を誰かから突きつけられたら、これはもう攻撃なわけですね、僕の信念に対する。
おだしょー 信念を否定されますね。
おだしょー 価値観っていうのは、私は女性を大切にしたいっていうことなんです。
おだしょー ああ、そういうことね。はいはいはい。
おだしょー これは攻撃されないですよね。
おだしょー そうですね。あなたは女性に優しくないですね。うん、そう、でも大切にしたいと思っているんですよ。
おだしょー したいと思っているっていうことで、攻撃されない。このシフトのことを多分、ご本社は言ってると思います。
おだしょー そうか、これがね、すげえいいことだと思ってたんだけど、どうしても腑に落ちなくてずっと考えていて、今の話を聞いてだいぶ理解できた気がします。
おだしょー そういうふうに、自分は何を大切にしたいのかと思っているっていうその感情の在り方で自己を定義する。
おだしょー よくあるんですよ、自分をホニャララであると定義してしまって、自分の中で思い込んでいる人はいて、やっぱり喧嘩が起こるのはそういう時なんですね。
おだしょー そういう時、いやそうじゃないよって言われた時に、ムカーッてするのはそういう信念の攻撃として受け取ってるからだと結構思いますね。
おだしょー アイデンティティー、違う、信念は本質主義であると言ってよいのか、今の話だと。
おだしょー そう、だから本質主義、ある種の自分に関する本質をアイデンティティーと呼ぶかな。
おだしょー で、価値観は実存によって作り上げていくものである。
おだしょー そうそう、持ってあるっていう感じかな。
おだしょー ああ、じゃあそうか、哲学用語にしたらちょっとわかるようになった気がしました。
おだしょー アイデンティティーのありようとか作り方そのものを別のものにしましょうってことだよな、たぶん。
おだしょー うん、そっか、哲学で言うならば、本質主義ではなく実存主義になろうというのが、そのアイデンティティーのシンクアゲインしやすいアイデンティティー。
おだしょー ということだと思いますね。
自己の成長と学び
おだしょー まあ、だから結局決めつけるなっていうことであるのは間違いないんですけれども。
おだしょー 問題はその、信念は決めつけてるという感覚すらたぶん無くて。
おだしょー ああ、それはわかる気がするな。
おだしょー だからこういうフレーズでちゃんと説明してもらわないと、自分がそれをしてるとは思わないから、やっぱりちゃんと明言されることは大切じゃないですかね。
おだしょー で、たぶんそういうことが上手いんですよねっていう、この信念ではなく価値観で定義しましょうとかって言われると、
おだしょー 俺にはなんか腑に落ちなかったというか、うまく理解できなかったことだったんですけれども、やっぱその一般的にすごく良いことだと思うし。
おだしょー あともう一個、これもビジネス系の人がすげえ言っていた明言的なやつなんですけれども、
おだしょー 1年前の自分がバカだと思えなかったら、1年で何も学ばなかったということだ。
おだしょー 自分というものが常に間違っているということとか、成長したいと思っているんであれば、
この言葉というのはすごく腑に落ちやすいというか、考え方としてすごく覚えやすい。
おだしょー なるほどね。
おだしょー やっぱり一般的に自分が愚かであるとかバカであるとか間違っているっていうことって、ほとんど全ての人は認めがたいと思うんですよね。
おだしょー そうですね。
おだしょー ただこの言い方をすると、すごくその概念を前向きに捉えられる。
1年前の俺ってバカだったよねって言えるようになれば、今の俺もバカかもしれないということに気づきやすくなるというのかな。
おだしょー まあそうですね。この表現の気になるところは、ちょっとだけ言い換えて、1年前の自分がバカだと思ったなら、
あなたはこの1年で何かを学んできたっていうふうに、ちょっと言い換えたら僕はいいですね。
なんかこの書き方やと、ちょっとネガティブな感じがあるというか。
おだしょー つまり。
おだしょー マッチョなんだと思う、この言い方も。
おだしょー 学ぶことが善じゃないですか、この表現だと、なんとなく。
学べっていうメッセージが裏に感じられるんで。
もしあなたが過去の自分のことをバカだと思っているなら、それはあなたが学んだ証拠だっていうんやったら、そうだなと僕は思いますけども。
おだしょー 書き方は、たぶん自分のメモを振り返る限り、1年前の自分はなんとバカだったんだと思わなかったとしたら、
1年で何も学ばなかったということだ、みたいに書いてあったと思うので。
言い方としては確かに強いと思うんですけど、たぶんこっちの言葉のほうが響くと思うんですよね、多くの人に。
おだしょー それは確かにわかる。でもね、響きすぎてはいけないのではないかとちょっと思っただけ。はい、すみません。
おだしょー おっしゃりたいことはすごく理解できるし、表現としてはそちらのほうがいいと思います。
おだしょー なんかこれ無力感とか残念感を引き起こしかねないんだよね、この言葉はなんとなく。
おだしょー まあそっか、捉え方を間違えたらやっぱりそうなってしまいますね。
振り返ってさ、1年前の自分って別にバカじゃないなって感じた人はさ、結構その時、
俺って何も学んでなかったのかって、そこでもっと学ぼうっていう意欲が出てくるんであればいいですけど、
そういう挫折感の生み出し方って怪しいビジネスに引っ張られかねないんで、僕はあまり好んでないっていうところですね。
おだしょー まあそういう感じで、やっぱ間違いを受け入れるということは自分も努力しているとは思っているけれども、
できているかと言われたらやっぱり全然自信はなくって。
人間関係による衝突
ダニエルカーネマンの話とかも出てきて、この人がなんかのセミナーみたいなやつで喋ったらダニエルカーネマンが聞いてたらしくて、
俺めっちゃ間違ってた、教えてくれてありがとうみたいな感じで言ってくれたみたいなんですよね。
そのダニエルカーネマンが言ってたことっていうのは、間違いに気づけたことによって自分は一つまた賢くなることができた。
だから間違いに気づけるということはすごくいいことだっていう言い方を、ダニエルカーネマンの場合の方がやっぱり言い方は優しいのかなとも思います。
なるほど。
でも、1年前の自分がバカだと思うっていう今の自分も継続的にバカだと思えたら一番いいわけで、実際そうなりますよね。
恐らく1年前の自分がバカだと感じているその気持ちは、たぶん現在の自分にも響いてくるというか、
ながらこそ学び続ける意欲があるというところで、その状態になっていると結構健全ですよね。
逆に足が止まってしまうような感覚やったら、たぶんそれは危ないサインというか、そんな感じがしますね。
うん。なので、そういう意味でやっぱりいいんじゃないかな。
1年前の自分がバカだと思えたのであれば、今もきっと1年前よりはマシになったけれども、今でもまだちょっとバカなんだと思うということが認めやすくなる。
ってことは逆に言うと、1年前の自分を振り返るタイミングはどっかで持った方がいいってことですよね。
で、帰ってくるとやっぱり記録しとけってことだと思うんですよね。
そうなりますね。
で、例えばで言うと、自分の1年前、ブログを書くでもそれで言うとやっぱりすごい良い手段だと思っていて、
1年前にそのひっしこいてまとめたことというのが、1年経って読んでみたら、なんか大したことないこと言ってるなって思えたんであれば、きっとそれは良いことだ。
そうか、だから同じようなことを自分も結構強く考えていたんですよね。
ここ1、2年ぐらいよく考えていること。
大きな意味ではもっと昔ぼんやり考えていたんですけど、最近ちょっと言語化して考えることができるようになったみたいなやつで、
私、文章が下手なんですとか、書いた文章恥ずかしくて読み返せないんですみたいな話を聞くときに、
それはあなたの文章が上手くなったから、そう思えるようになったんですよっていうのをすげえよく考えているし言っているんですよね。
同じことだよねっていうのを言い方を変えて言ってくれたような気がして、そうだよねっていうふうに思ったんじゃないかと思って。
あとそれが、文章を書いたのを下手くそであるのが恥ずかしいっていうのがあると思うんですよ、きっと。
それは結局、アイデンティティと関係している気がするんですよね。
それはアイデンティティだから恥ずかしく考えてしまう。
例えば、私が文章を上手くなりたいと思っているのであれば、その下手くそな文章から上手くしていきたいじゃないですか。
でも、自分は文章が上手いのだっていうわけで。
思ってるから思う気がする、わかる。
自分のイメージとずれてしまうから、いいってなるっていうことじゃないかなと思うんですね。
そうか、だから書くことが上手くなりたいは価値観であって、
俺は書くことが上手いというアイデンティティを持ってしまったら、それは上手くならないですよね。
学べない。
だからそっか、それで言うとやっぱり本質は今の信念ではなくて価値観にしようっていうところに結びつく気がするよね、そこは。
そう、やっぱこういう感じで、たとえ話というか言語化みたいなのが上手くて、
もう一個すごく面白かったなっていうのが、自分の考えを再考する方法というところに人との厚い論戦を恐れるなというふうに書いていて。
コンフリクテッドですね。
そうそう、まんまです。もう完全にまんまで、話としては全部コンフリクテッドで聞いた話ですで終わるんですけども、
その名付けがやっぱ上手くて、衝突というもの、チーム間でのそのコンフリクト、衝突というものにはタスクコンフリクトとリレーションシップコンフリクトっていう2種類がある。
はい、なんとなくはわかりますけど具体的に。
要するにタスクコンフリクトっていうのは、仕事上でこれやった方がいいんじゃない、やめた方がいいんじゃないという、すごく大雑把に翻訳すると仕事に関する対決、対立。
リレーションシップコンフリクトというのはそうではなくて、あいつなんかムカつくよね、あいつがやること毎回遅くて嫌だよねっていう人間関係によって生じる対立。
チーム間でいろいろデータを調べたらしいんですが、およそ想像される通り、タスクコンフリクトが多いチーム、リレーションシップコンフリクトが少ないチームというのはチーム全体としての高い生産性を上げることができて、逆に言うとリレーションシップコンフリクトが多いチームというのはやっぱりうまくいかないことが多い。
おそらく想像ですけど、両方のリスクコンフリクトが少ないチームもやっぱりあんまり良くないっていうことなんでしょうね、きっと。
そう、発生しないということももちろん良くないもので、特にタスクコンフリクトが発生していない場合というのは、それはおそらく無関心が原因だというふうに言っていて。
その通りでしょうね、はい。
なので、衝突はダメじゃないんですよね、まずそこが大事なところで。ただ、人間関係による衝突はよろしくない。
グラフみたいなやつも載ってたんですけども、やっぱり新しくチームを組んだ場合というのは、最初はちょっとリレーションシップコンフリクトというものはやっぱり起こりやすい。
で、時間経過で大抵の場合、まず下がるんだけれども、その後ダメなチームというものはリレーションシップコンフリクト、人間関係の対立というものが一気に多くなってしまって、うまくいくチームというものはそこが少ないままで抑えることができる。
うーん、なるほど。
バイナリーバイアスとは
人間同士なので、これをゼロにすることはおそらく不可能だと思うし、何もかもをタスクコンフリクト、リレーションシップコンフリクトっていうふうに、きれいに二つになんて分けられるはずはないんですよね。
ない上に、タスクコンフリクトを予想を追ったリレーションシップコンフリクトみたいなものはきっとあるから、分類自体は完全ではないでしょうけど、考え方は分かりやすいですね。
そういうふうに、その言葉によって分割するとすごく区別しやすくなって、そこから次のところに行くんですけども、もう一個うまかったのが、バイナリーバイアスという言い方をしていたんですけれども、
バイナリーバイアス、01バイアス?
そう、人間というものは今みたいな感じで、物事を白黒はっきりしようとする、簡単に区別できる、シンプルにして理解しようとしてしまう傾向がある。
今の話で言っても、これはタスクコンフリクトだよね、これはリレーションシップコンフリクトだよねなんて、当たり前だけど、そんな簡単に区別できるものではないんですよね。
これを知っておくというのが大事なことなんだぞ。再考するという場合にあたって特に重要なことというのが、多分2つ、さっき言った信念ではなく価値観だっていうことと、バイナリーバイアスに陥らないようにするというのが2大重要なことなんじゃないかと思うんですけども。
僕、バイナリーバイアスって自分の言葉で言うと、白黒思考とか01思考って今まで呼んでたんですけど、バイナリーバイアスはちょっとかっこいいですね、これ。
バーでちゃんと投印が踏んでるから覚えやすいし。
そう、あとはバイナリーって言葉にどのぐらい日本人が馴染みがあるかという悩みがあるんですけども。
でも、馴染みがない分かっこいいじゃないですか。
確かに白黒思考よりかっこいい。
そうそう、だから上手いなと思いました、今。
これってめっちゃ思い出したのが、現代思想入門の本だったんですよね。
まさに。
現代思想入門で複雑なことを複雑なまま考えられることというのが、現代思想を学ぶことのメリットだって言っていて。
そのメリットということのみに関して言うと、あの本ではそこを主題にして踏み込んではいなかったような気がするんですけど。
これがまた違う目線で、白黒はっきりつけてしまうというのがよろしくないという言い方をしてくれている。
例えばテクニックみたいなものもあったりして、まず一つは考え方の幅というものがいかにあるかっていうのを知っておかないといけない。
それに関しては特に具体的な細かい話みたいなことをちゃんと書いてなかったんですけども。
もう一つのことっていうのが、曖昧な表現を意識的に使えって言ってるんですよね。
これは非常に哲学的な話ですね。
事例としてこの人が言っていたことっていうのが、感情的知性、EQというものを、この著者というのはあんまり肯定的ではなく、あんまりよろしいとは思っていないみたいなんですよね。
ただ、感情的知性という言葉について、自分の意見を言うときに注意しとくといいことっていうのが三つあるよっていうふうに言い方をしていて。
一つは補足説明を付け加えるようにすること。
もう一つが、これはちょっと言葉として難しいんですけども、コンティンジェンシーというものを強調しよう。
もう一つがニュアンスというものをちゃんと認めてあげよう。
大切ですね。
例えば、感情的知性というものを私は信じていませんって言い切ってしまうと、多分自分の思考というものも言葉によって惑わされるので、私は感情的知性を信じてはいけないというふうに多分思い込んでしまって、
シンクアゲインの余地がなくなってしまう。
だから、さっき言った補足説明、コンティンジェンシー、ニュアンスという三つをちゃんと付け加えておこう。
例えば、そのニュアンスを付け加えるのであれば、私は感情的知性の有用性を否定しているわけではない。
感情的知性というものがちょっと疑わしいと思っているけれども、有用であれば、それがあってはならないものとか、あると良くないものだと思っているわけではないというニュアンスをちゃんと付け加えておく。
他にも補足の説明として、例えば、感情的知性というものをもっと正しく測るテストというものを作ることができたら、私の認識は変わるかもしれないということをちゃんと補足として言っておく。
コンティンジェンシーというのは、これが翻訳してないのはちょっとあまりよろしくないんじゃないかなと思って、その辞書とかもすげえ調べて、いろんな用語とかを調べたりして、まず英語辞書を引いてみると、Aで引かないとちょっと理解できなかったんですけど、
A contingency is something that might happen in the future. 将来に起こるかもしれないことというのがA contingency 名詞ですね。
A contingency plan or measure is one that is intended to be used if a possible situation actually occurs.
もし何かが起こった場合に代わりに用意しておくプランというのがコンティンジェンシープランだと。
日本語の辞書なんかでも、コンティンジェンシープランというものの翻訳というか、意味がちゃんと書いてあって、これの場合でいうと、企業が為替変動の急変だとか、石油輸入ストップなどの不足の事態をあらかじめ想定し、それに対する有効な対処法を計画しておくこと。
緊急時の対応計画。
あと他にコンティンジェンシーという意味を直接調べてみたらカタカナなんですけども、現にあるがままである必然性がなく、他のようでもありうること。
偶発性、不確定性。
それは現代思想の優遇性の後手かな。
これも同じくなんですけど、我々バイナリーバイアスによってコンティンジェンシーというものを日本語に置き換えて一対一で簡単に認識してしまってはいけなくて、ぐらいの意味が一部にあるっていうふうに捉えておくしかないんですよね。
感情的知性とコンティンジェンシー
コンティンジェンシーという言葉をそのまま覚えるしかないというのかな。日本語訳してしまってはいけない。
偶然的なことと予測できていないことを表す言葉ってことね。
そうですね。強いて大雑把に言うならそういうイメージなのかな。
例えば、さっき言った感情的知性というものに対してのコンティンジェンシープランという言い方だったかな。
っていうのだと、現在の研究結果では全ての状況で有用というわけではないので事実を受け止めるべきであると。
ただ、情報が豊富で不可欠なものであるんだったらそれは有用だと思うみたいなことを考えておくのがコンティンジェンシーというものらしいです。
なるほど。逆に現在のデータではこうだけど、こういう実験でこういう結果が出てきたとしたら、私はこういうふうに考えるを変えるかもしれないっていうニュアンスっていうことですよね、要するに。
決定的ではない未知の出来事、つまりブラックスワンみたいなものが起こり得るかもしれないし、そうなったら状況が変わるんだよという、固定じゃなくて浮遊させておくというか、
図り固定っていうことを明示しておく、ないしは自分で意識しておくっていうことが重要ということですね。
結構、だからやっぱりまんま現代思想入門で重要だと言われていたことが役に立つというか、固くなってはいかん、柔らかくしよう、もう一度考え直そう。
あと、今回の場合で言うとコンティンジェンシーっておそらくみんなあんま知らなかった言葉だと思うんで、ただ語呂はいいんですよね。コンティンジェンシーっていう感じで。
つらかった。
訳せない、訳せない。少なくとも簡単に訳していい言葉ではないと思います。
なるほど、なるほど。
なので、このコンティンジェンシーっていう響きで覚えてしまって、こういうものがバイナリーバイアスとひも付けて大事なことだと覚えておくことが重要なのではないかなっていうので、
ただ、あんまこの辺がみんなわかるんですかねって読みながら思ったんですよね。こんなコンティンジェンシーってすげえ簡単に書かれていたんだけど。
英語圏内での認知度、この手の本を読む読者の想定の英語力の範囲の5位なのかどうか。
少なくとも俺は全然直感的にわからず、このぐらい辞書を引いて、まだわかったとは思えないし、人に偉そうに語れるほどコンティンジェンシーがわからない。
コンティンジェンシープランっていうのがもしかしたらビジネス界隈では割りかし普通な言葉で、僕らがただそれを圧倒的に知らないだけの可能性もあるから、ちょっと何とも言えませんけど。
中途半端な日本語にしてしまって、誤解を与えるくらいならという感じだったんじゃないですかね。
さらに翻訳で言うと勝手に付け足したらダメですもんね。
そうですね。ここ難しい。中を入れてもいいけどね。日本語ではこういう風な意味があるかみたいなことを書いてもいいけど、中が多くなると読みにくくなるから、そこは難しいところで。
確かに翻訳者の人がビジネス経済系の学者な人とかで、おそらくその人からしたら超絶当たり前のことだと思うんですけど。
おそらくは、はい。
その一素人ゴリゴとしては、ちょっとこの言葉は難しかったな。難しかったんで、逆にこうやって調べて何も知らないから、それこそあれですね、一個バカだったことが間違っていた、知らなかったことがわかったことで一個進歩はできたとは思うんですけれども。
僕はそれは完全に本の書き方として一つのテクニックやなと思ってますよ。
あえてわからないようにしてほしい。
それで読者に新しい文を教えてあげるっていうことはできるんじゃないかなと思う。意図されたかどうかともかとして、知らん言葉が入っていること自体は悪いことではないって感じ。
そうですね。それはそうだと思います。
最後にになるんですけど、この本で一番面白かったところ、学びの事例で最後の第3部が、すごい大雑把に言うとLearn Betterだったんですよね。
なるほど。
そこでアメリカのウィスコンシン州というところで、2020年にTeacher of the Yearみたいなすごい成果というかすごい評判が良かった先生というのがいたらしくて、
その人は社会の先生というか歴史の先生なのかな。
その人の勉強の教え方、考えさせ方みたいな事例というのが、これはこの本の中で一番すごいなって思ったんですけど、
先生が授業の宿題として歴史の教科書を読んでこいって言ったらしいんですよね。教科書を渡して。
そしたらその教科書の宿題、その宿題というのが生徒からすごい評判が悪くって。
なんかね、この教科書間違ったことが書いてあるとか、すっげえ分かりにくいし、なんかこれ違うと思うっていうようなことがすごくいっぱい書いてあったみたいで、生徒からの評判はすごく悪かったらしいんですよ。
で、なんでなのかっていうと、その先生が読ませた教科書というのが1940年の教科書を今読ませた。
で、その頃の教科書は当然1940年の頃にはカッコつきの真実が書かれていたんですよね。
ただ、それは2020年の現代においては、もはや真実だとは言えないことがいっぱい書かれているようになっている。
で、それによってその生徒自身に、まずその教科書というものが絶対正しいということを、そうではないということを思い知らせる。
だとか、その知識というものは普遍のものではないんだぞと。
今現在正しいことではあるんだけれども、将来いつまでもこの事実、このことが正しいという保証なんて当然ない。
ということを、古い教科書を読ませることによって、本人に、本人たち、生徒たちに、自分から思い知らせることができる。
これはすごいな。教科書、知識が変化するっていうことは、それは例えば今時、天動説と地動説の話をして、地球が周りを回っているなんてことは、太陽の周りを回っているなんて当たり前のことなんだけれども、数百年前は正しくなかったことなんですよね。そっちこそが。
そして正しくないと言ってしまったら殺される時代だったわけですからね。
というものが、たぶん我々も現代で正しいと思っていることは、地動説の話だと昔の人ばっかじゃんって簡単に思えるんだけど、たぶんそうじゃないはずなんですよね。ありとあらゆる物事において。
っていうのを教科書を見せて考えさせるっていうテクニックがめっちゃすごいなと思って。
教科書を一冊、本物のテキストを使って授業をするっていうのって、ダイナミズムが欠けてるわけですね。要するに。ステイティックになってしまうっていう。しかも今の教科書と過去の教科書の2冊を対比させることで、そこにダイナミズムを持つ。知識とか社会が持つダイナミズムを伝えるっていうのはすごいですね。それは確かに。
教科書の相対化
同時に当然それを知れば、今の教科書というのも、今最も確からしいことは書かれているけれども、これは将来変わるかもしれないということを、これだけで簡単に伝えることができる。
そうですね。その揺らぎが、要するに現代思想につながるわけですけど。そうなると、じゃあ何が正しいかっていうのが、不安定になってしまう問題がまた発生してしまうんですけど。
それはそれとして、教科書の知識そのものを疑うというか、だからシンクアゲインするために一回相対化するっていう。教科書を相対化するっていう発想は確かにでもなかったな。
いや、全く考えたことなかったですよ。古い教科書が間違っているということに、まずやっぱり思いつかなかったし。でも例えばで言うと、今の俺たちで言えば、第2次世界大戦中の教科書は、現代の感覚からすればやっぱり間違ったこと書かれてると思うんですよね。
大いに書かれてると思いますよね。
でも考えてもいなかった。その頃は、だってそれが教科書で学んでいたことなんだから、それは正しいと思ってしまうし、思わせることが簡単だし。
だからさっきの目標と目的の話で言うと、一般的な教師っていうのはテキストの内容を教えることが目標であり目的になってるけど、その先生の中では生きてる知識を教えることが目的であって、教科書がどう使うかっていうのは目標でしかなくて、いくらでも変えていけるっていう柔軟なマインドセットのお持ち主やったんでしょうね。すごいなと思いますわ。
これは感動して。他にも授業では、例えば授業のやり方として、教科書を選ばせ、教科書を読んだ上で教科書を直すっていうことを課題というか、グループワークみたいなことでやってたりしていて。
例えば、俺はこの時代にもっと興味があるのに、あんま詳しく書かれてないから、もっとこれを補強するべきだって言って、授業のワークとして、例えばで言うなら日本で言うと戦国時代の織田信長に対する今川義元が過小評価されすぎている気がするので、ちゃんと調べるべきだって思うだとか。
その過小評価だったり足りないことというのを自らの意思を持って調べて、教科書を修正するという行為をさせることによって、教科書が絶対不変の変わり得ないものだという概念をなくさせようとしている。
教育としては素晴らしいと思いますけど、日本では受け付けられないでしょうね、きっと。
少なくともこれが2020年にアメリカ、ウィスコンシン州ってちょっとどんな州か知らないんだけど、多分地方の州だと思うんですよね。
日本で同じ手法ができるとは思わないけれども、例えばで言うと、親が子に教えてあげることで近しいことはできるかもしれないし、
まさにシンクアゲインというか、その考え方を根本的に変えてみれば、気づけないとしてもこれの真似ならできるので、教育方法自体を。
発想自体がすごく斬新。斬新なだけじゃなくて、影響力があるというか、自分を応用してみたくなるぐらいのパワーを持ってますね、これ。
これの場合は歴史の教科書だったけれども、例えば理科の教科、理科なんてね、もっと昔にしたら多分おそらくないのかな。
おそらくはね。
とか数学にしたってね、例えばで言うと変な記号、数学の記号って統一されたのは確か割と直近なんですよね。
ニュートンの頃の微分の式とか見せたら、こんな意味わからんことやってたんだぞっていうことをするにしても、なんか感覚が変わるだろうし。
あと算数と歴史で言うんだったら、そんな時代の人たち、地球がまだ回ってないっていう、太陽の外を回ってることを信じられなかったレベルの人たちが微分をやっているんだから、
いかに数学というものが歴史あるものかというか、何かこの価値の見せ方も変えることできるかもしれないし。
そうですね。ある種の絶対性を崩して相対性にするっていうことと、その相対性の中から学ぶ人そのものの動機づけを生んでいく、好奇心を刺激する要素を持たせるっていうことができれば、多分どんな教科でも使えるでしょうね、きっと。
アクティブラーニングの誤解
そうですね。だから、個々の教科書で作者の気持ちを読んで、その作者の気持ちを代弁するぐらいだったら、代わりに小説を書かせたらいいですね。
あなたならどう書きますかみたいな方が、実は国語の問題としてはいいかもしれないですね。
そう、なんて言うんだろう。ゴン狐を、あなたが書くゴン狐を書きましょうでいいと思って、ゴンは死ななかったの方がいいかもしれないし。
それでね、その結果についてお互いに議論、熱いファイトを。
なんであんたはゴンを殺さないことにしたのって考えたら、すごくいろんなことを考えさせられる。
そこから倫理の授業が多分始まると思うんですね、そこから。
だからそうですね、やっぱりこの知識を上から与えるんじゃなくて、子供の中の知識を発する気持ちを刺激する授業っていう形が、多分本当のアクティブラーニングっていうことなんでしょうね、きっと。
で、もう一個言おうと思っていた、アクティブラーニングのすごい面白かった話というのも載っておりまして、
その生徒に、いわゆるアクティブラーニングと言われる授業をやらせた場合と、その講義形式の授業を行った場合で、アンケートを取ったらしいんですよ。
でね、アンケートはね、圧倒的に講義の方が良かった。
そっちの方が圧倒的に楽しかったっていうし、またやりたいのはそっちだって言うんですよね。
でも当たり前なんだけどテストをやってみると、分かりやすいぐらいアクティブラーニングをやった人の方が良い成績が出る。
これをここから俺が考えたことなんですけど、YouTubeで学べるってめっちゃすごいしめっちゃ便利じゃないですか。
はい、分かりますよ。
でもそれって危ないですよね。
そうですね。
すごい楽しくて、例えば数学にしてもYouTube見てたらすげえ分かるんですよね。分かった気になれるんですよね。
楽しかったし、これを見てできた気になるんですよね。
はい。
でもテストをやってみるとつまんねえって思った、例えばで言うと計算ドリルの方が理解ができるようになっているかもしれない。
いやまあ確実にそうでしょ。
YouTube教育というものを、さらに言うとYouTubeが多分おそらく今や授業の先生よりも圧倒的に最も引い出た人が一番有名なYouTuberになれるじゃないですか。
だから講義はもう圧倒的に世界一の講義にはなるんですよね。日本一かな、日本語で言うならば。
だとしてもそれが簡単だからってそれを見せたらいいわけではないっていうのはすごく当たり前なんだけど、学校の授業というものをいかにどうしていくかということに関してすごく重要なことな気がして。
いやーそれはね、だから難しい。塾の人気講師の話も同じですけど、結局その聞いてて楽しい時間に満ち溢れてるってことは脳が苦労してないってことなんですよね。で、脳は苦労しないと覚えないんですね、これ残念ながら。
ノラメターに思い切り書いてあったことですね。覚えるのは脳が苦労した時だっていう。
つまりその小中学生とかのアンケートに過剰反応してあたかもマーケティングのような授業を作ってしまうことは楽しい時間の提供にもなるけど学びの時間の提供にはならないという。
アンケートの罠というようなことなんかもしれないですけど。ここはだから、公理主義で言うと、どう考えたらいいんですか、人気のコンテンツがいいじゃないですか。ここは反公理主義でないと授業は成立しないですよね、そういう意味では。
そう、それも当たり前かもしれないけれども、安易に質の高い授業というものを考え直さないといけない。
そうですね、それはまさにそうですね。
極論言えば先生が自分で喋る代わりに動画を流しておいたらこんな楽なことはないわけで。
教育のあり方
楽なことはないわけで、しかも一番ハイクオリティな授業を全員が均等に受けられるという意味では公平ですからね、とりあえず。
そう、だから少なくとも、先生は講義が上手くなることに意味はないぐらいにまで言えちゃうと思うんですよね。
いや、もう言えてるもんね。だからリアルタイムのインタラクションで何ができるかが、多分その実際の教師の価値でしょうね、きっと。
うん、だから当たり前なんだけど、勉強ができる人が先生になる必要なんて全くないと思うし。
そうですね、はい。
わかってないとダメだっていうのはもちろんあるけれども、先生の価値というのは講義ではなくなったのはもう、多分断言できることで。
とはいえ、じゃあYouTubeの良さを否定してもいいわけではないとは思うし。
いや、だから興味を持ってもらう分にはいいじゃないですか、その分野とかに。
ああ、これって面白いな、でもその興味を持つと知識が使えるようになるのこの間は結構幅があるじゃないですか。
で、この間は誰がどうしたってその人が手を動かすしかないじゃないですか、当人が手を動かすしかないじゃないですか。
で、ここをサポートするのは動画では多分無理だと思うんですよ、この苦難の道を。
そうですね、100万ビューある人が100万人に対してサポートできるわけがないからね。
こういうとここそ人のサポートを、元気つけたりとか、その人に沿ったアドバイスとか、他の子どもがやってる方法を教えてあげるとかってする、そういうコントリビューターみたいな人がいたら、それが教師として活躍できるんじゃないかなという気はしますけど、
それは教育の理念に沿った話であって、日本の教育の場合は組織でうまくやっていける人を育てるという側面があって、それとは多分相入れないところがあるんで、そこが今後どう解決されていくのかはちょっと気になりますね。
まあ、哲学な場面で教育を掘り下げていくと、そもそも国家が教育をするメリットがあっているところからになってしまうので、そこまでいくともうこの本の話の枠ではなくなってしまうので、また別のところでだとは思うんですけれども。
職業選択のあり方
そういう感じで、やっぱり考えさせられることが多く、あと教育観念で言うと、大きくなったら何になるって言ったらダメって言ってましたね。
子供に将来の夢を聞くってことですね。
おだしょー 私は大きくなったら何になりたいというのは、固定的なマインドセットを生み出してしまうことになりかねないし、何よりもこれもすげえって思ったんですけど、理想の仕事というものは、あなたにとって理想の仕事は現在想像されていない可能性すらある。
まあ例えばですけど、ゴルゴさんが高校生の頃にインターネットに文章を書いてお金をもらえるなってことは想像してなかったですよね、きっと。
おだしょー うん、当然想像していない。だってヒカキンはYouTuberになってお金を稼ぐと考えていたはずがないんですよね。
そうですね、その通りですね。
おだしょー うん、でもこれも言われて初めて気がつけたことで、職業というものは今ある想像でしか想像できないんですよね、たぶん。
それはまあそうですね。
おだしょー それを今聞いてしまったら、それは子供の自由な発想をすごく妨げる、シンクアゲインの邪魔になることだろうなって思って。
なるほどね。
おだしょー 職選びはソウルメイトを見つけることとは違うっていう風にも言っていたかな。
おだしょー うまいなと思ってやっぱ。相手はやっぱあるところからしか選ぶしかないんですよね、理想の相手は。
人造人間を作って自分の伴侶にするっていう選択肢をしない限りはそうですね。
おだしょー ただ仕事はそうではないんだ。すごく当たり前なんだけれども、やっぱその当たり前のことをね、こうやってすごい納得できるように上手に説明してくれるんですよね。
まあでもその当たり前、仕事は作れるっていうのは当たり前ですけど、やっぱ日本文化の中ではそんなに当たり前じゃない。
かきかっこつきの当たり前じゃないっていうのはアメリカよりもはるかにもっと当たり前じゃない気がしますね、これは。
おだしょー さらに多分職業というものは人から求められるものを提供するのが大雑把に言えば仕事だと思うので、人が求めるものが変わらないと成り立たないですからね。
確かに。
おだしょー YouTubeが、みんなが動画見られなかったらYouTuberにはなれないですからね。
なれないですね、はい。
おだしょー っていうところまで考えて、やっぱそのうまいよね。そしてそれをあなたは何になりたいって言ったらダメだよっていう言い方でまとめてしまうのもやっぱうまいなと思うし。
まあね。でもやっぱりこの話の逆で、例えばオリンピック選手とかプロのスポーツ選手は逆に固定的であったからこそ慣れたっていうところはあるでしょうから。
おだしょー アスリートはね、また生き方が難しいですよね。
でもそういう人に憧れる日本メディア文化があるじゃないですか。
おだしょー 多分世界中そうだと思う。
だから逆にそういう固定的なマインドセットが好まれてしまう文化っていうのがあって、だからそのアンチ定義として著者がこういうのは意義がありそうですね。
おだしょー なんか文化っていうかそれすらもメディアが作っていくものなんじゃないかって思うんですけどね。
まあ確かにそれはあるかも。
おだしょー メディアっていうか資本主義が作ってしまうなのかな、多分。
いや、どっちかというとメディアじゃないかな。メディアな気がする。資本主義的には新しい職業が増えた方がリージョンが上がるはずやもん。
おだしょー ああ、そっか。俺がイメージしていたのがね、プロスポーツの世界で、最近で言うとアメフト界もね、さらに毎年毎年当たり前なんだけど過去最高サラリーを更新していくんですよね。
なるほど。
おだしょー で、同じ、例えばプロのクォーターバックの中だとしても圧倒的な差がつくし。
はいはいはい。
おだしょー それってじゃあ、30年前は多分10分の1ぐらいの給料だったとして、その人が10倍上手いかって言ったら当然そうではないわけで。
そうですね、確かに。
おだしょー それって資本主義としては、お前の方が重要だっていう場合にはお金でしか評価できなくなってしまい。
確かに。
おだしょー 結局給料を上げてあげることが、自尊心を満たすことにもつながるというのかな。
対話とコミュニケーションの重要性
だから、上手さにお金が払われてるわけじゃなくて、その上手さによって魅了する人の数とか広告費が給料に反映されてるわけだから。
おだしょー そうだとすれば、そうか間違ってはいないかもしれないですね。
資本主義としては正しい形になってるっていうのは言えると思うけど。
おだしょー うーん。
ちょっとずれてきました。脱線し始めたが。はい。
おだしょー まあ、そういう感じで。他にもね、結構いろいろ、さらっとだけなんですけど、結構いいよなっていうことも書いてあって。
そのね、人を説得する時には、たくさん理由を並べるんじゃなくて、1個だけとか数が少ない方がいいよっていうようなことも言っていたりだとか。
ほほほー、なるほど。
おだしょー その、たぶん一つの理由は短期記憶が足りないというのもあるし、数が多ければ多いほど論拠が弱いやつが出てきてしまうんですよね。
で、その論拠が弱いやつの1個を崩してしまうと、同時にその認知的不協和的な意味でも、その意見を崩し、他の意見まで説得力がないものになってしまう。
やっぱりダメなんだってことになってしまうわけですね。
おだしょー うん。っていうような話だったり、相手に強制するんじゃなくて、自分で選んだように思わせるとか、相手に自由に選んでもらえるようにするだとか、
さっき言った感情的な相手ほど、向こうが怒鳴って喋ってきたときほど落ち着いて言い返さないといけないっていうことだったりっていうような話はいっぱいありますね。
電話オペレーターの人はもうたぶんこれは最初に教えられることでしょうね、きっと。
おだしょー うん。
でも訓練できるんでしょうね、ということは、これ。
おだしょー たぶん職業的に、ただ訓練できるけど、オペレーターとかも闇みたいなものがよく書かれていたりするので、体にいいものではないような気がする。
確かに。
おだしょー あとは建設的な対話というものは、感情の触れ幅が大きいみたいな感じで、さっき言ったコンフリクトが起こらないのは無関心っていうのと同じで、
盛り上がったからいいとか、どうも喧嘩越しになったから悪いとか、そういうものではなくてっていう、その辺りのそういう細かい話もいっぱい書かれており、結構長かったんですけれども、難しいことはそんなに多くはなく、
わからないこと、事例も上手いし、上手くてすぐ使えるという言い方はちょっとインスタントすぎるんだけど、役に立ちそうなことがすごいいっぱいあって、すごい本だなということを思い知っています。
なるほど。
おだしょー あと、ちょっと振り返りというか、前回のNOの話、結構いろんな人が面白がってくれたみたいで、パーム懐かしいって言っている方がたくさんいました。
まあ、そうでしょうね。
おだしょー そうか、パームのジェフ・フォーキンスってこんなことしてたのかって驚いたっていう、鈴沖さんが言われていたりして、初期の頃からパーム使ってたらしいです。
僕はもう名前しか知らないですけどね、パームは。
おだしょー ちょっとね、俺も世代がちょっと違うのでわかんないんですけれども、フェス・ア・ブートキャンプさんも懐かしいアルファベットに似た文字をパームの入力のために覚えていました。
アルファベットに似た文字って何やろ。
おだしょー 確かパームってその小入力文字みたいなのがあるんですよ。AをAと書くんではなくて、なんか書き方みたいなのがあって。
すげーなー。機械的なハードウェア的な問題がたくさんあって、それで解決してあったんでしょうね、そういうので。
おだしょー 機械が読める英語を書く。それを人間側が調整しないといけなかった、まだその頃は。
ありがたいよな、それを考えると現在は。
おだしょー 俺の字読めねえって怒れるようになったんですからね。
すごいわ。
おだしょー あとは暇と退屈の倫理学がめっちゃ良かった、面白かったっていうような意見をいただいたりなどもしています。
読んだ上で自分はどうするのかと言われると何もわかりませんがって、確かに難しいんですよね。
ただ、積んでた本が取り上げられたから読み切れたっていうふうに言ってくれていて、タッキーさん。
それはやって良かったなと思いますよね。聞いてみて、じゃあせっかくだから読もうかと思ってもらえたとか。
おだしょー はい、そういうのをきっかけで今日って意義がありますね。
僕もちなみにこれ、文庫本がバーグが出るっていうのを知って単行本買って読んでなかったんで。
悔しかったから読んだね。
おだしょー 結構そういう動機づけ多いです。
まああると思います、そういうのは。興味を持つものすべてを読むことは不可能だっていうのはね、もうわかってしまったので。
そのあたり、感想、お便りなどなど送っていただければ、本編でも紹介したいと思いますのでよろしくお願いします。
感想をいただける場合はTwitterではハッシュタグでカタカナブックカタリストをつけていただくか、
メールの登録をしていただくとお便り用のフォームというものもそこに書かれているので、そちらからお便りなども送りいただければありがたいです。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
おだしょー ありがとうございます。
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