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2024-10-22 1:23:16

BC100ブックカタリスト・ビギンズ

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記念すべき第百回は、いつもと趣向を変えて二人の読書の略歴を語ってみます。

二人が紹介した本は

……。

出てきた本をぜんぶ列挙しようとしたんですが、あまりに数が多くなったのであきらめました。

倉下は赤川次郎『三毛猫ホームズの推理』からスタートするミステリ系統を出発に、神坂一『スレイヤーズ!』から始まるライトノベル・SF・異世界転生もの系統、野口悠紀雄 『「超」勉強法』から始まるノウハウ・自己啓発系統、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』から始まる文学・ハードボイルド系統が、青年期の読書を構成していました。

事前のメモではそれくらいでだいたいカバーできていると思ったのですが、大学時代はプログラミング言語の本を読み漁っていましたし、コンビニ店長時代では経営学・経済学の本にも手を伸ばしていました。これらも系統ではあるでしょう。かなり多岐にわたっています。

ごりゅごさんはむしろもっと限定的で『三国志』ものを契機に歴史物を中心に読んでおられて、途中潜伏期間があった後、Obsidianによるノーティング技術の向上およびブックカタリストのスタートを契機にして再び読書欲が盛り上がってきたというお話でした。

その一つの契機に「インターネットが未来をワクワクさせてくれるというビジョンがあった」という話は非常に印象的だと感じます。人を本を読む気にさせるものは、やはりそういうワクワク感なのでしょう。「知的好奇心」と言ってしまうとあまりにも漠然としますが、読書というのは平静・冷静な知的活動ではなく、ある種のワクワク感に駆動されるドライブなのだと思います。

読書に歴史あり

そんな風にそれぞれの人にはそれぞれの読書の経歴があります。歴史と呼んでもよいでしょう。

私が今、一冊の本と対峙するとき、その背後には常に私の歴史が蠢いています。その本を読みたいと思うかどうか、読んだ後どう評価するか。そうした反応は歴史に由来するわけです。

だから同じ本でも読みたいと思うかどうか、面白いと思うかどうかは人によって違ってきます。個性による違いというよりも、歴史による違いなのです(あるいは、個性とはそれぞれの人の歴史である、とも言えるでしょう)。

広義で言えば、読書はたしかに「インプット」な活動です。でも、その表現では「歴史」の感覚が立ち上がってきません。均質的ではなく、個別的な活動。一度きりではなく、連続性のなかにある活動。それが読書です。

だから、「本を読むことは、本を読み続けることである」なんてことが言えるかもしれません。

ぜんぜん関係ないですが

二人の読書の歩みはまったく違っているのに、人生の歩み方においてすごく重なる部分があることが今回わかりました。

しかし、考えてみれば、本当になにもかもがまったく違っているならば、こうして二人でポッドキャストをしていることはなかったでしょう(政府が命令して無作為に選んだ二人にポッドキャスト運営を強制しないかぎりは)。重なる部分があるからこそ、活動を同じくしている。でも、多くの部分で違いがある。

たぶん組み合わせというのは、そういう感じのときうまくいくんじゃないかな、なんて思います。

皆さんも自身の読書のヒストリーを振り返り、自分のヒストリーで語ってみてはいかがでしょうか。

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サマリー

ポッドキャスト「BC100ブックカタリスト・ビギンズ」では、ホストの二人が読書の歴史を振り返り、小学校時代からの本との出会いやその影響について話しています。三国志や赤川二郎の作品に触れながら、個々の読書体験の形成過程を探ります。このエピソードでは、赤川二郎や宮城谷正光の作家から始まった文学や小説への興味が語られています。また、村上春樹の作品を通じて文学を深く理解するプロセスや、高校時代の読書経験が知的成長に与えた影響についても触れています。 さらに、大学時代のプログラミングや書籍に関する経験が語られ、特にHTMLやC言語の学習過程が振り返られます。自己啓発書やハードボイルド小説との関わり、コミュニケーションの変化についても触れられています。このエピソードで、自己啓発書や大学での影響を受けた著者の読書体験や知識の変化が語られ、森川の「Web進化論」や松下幸之助に触れて、自己啓発や経営学の重要性が強調されています。 読書とその影響についても語られ、知的好奇心が人々をどのように結びつけるかを探ります。また、ブックカタリストに至るまでの過程や、人文学への関心がどのように読書体験を豊かにしているかにも触れられています。このエピソードでは、千葉哲学やウィトゲンシュタインの影響を受けた哲学への関心の深まりが語られ、ブックカタリストのイベントについての告知も行われています。

読書の始まり
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。第100回の本、実は、ブックカタリスト・ビギンズについて語ります。
はい、よろしくお願いします。 はい、お願いします。
ブックカタリスト・ビギンズという本があるわけではなく、なんと今回、ブックカタリスト第100回ということで、記念すべき3桁に乗ったということで、
2人がこのブックカタリストを始めるまでにどんな本を読んできたのかという、ヒストリーみたいなものを語れたらなと思っております。
はい、そうですね。お互いの、別に結構普通に知らんよねっていうバックグラウンドみたいな感じですかね。
そうですね。僕もあんまり語ってこなかった話なので、こういう、そういう本を読んできて、今こういう本を読んでるんだなという、
過去の点から今の点に向けて線を引いてもらえるような話になったらいいかなとは思います。
ですね、順番に言ってるよりは時系列に、そうだ、偶然というかなんというかなんですけど、俺と倉下さんはそういえば同い年で。
そうですね、そうです。 1980年から1年ずつ振り返るとかさすがにやってらんないので。
まあ、ちっちゃい頃、学生の頃、大人30になるぐらいまでその後ぐらいですかね。大雑把なイメージとして。
で、順番どうしますか。一人半分ずつか交互に行くか。
まあ、なんか、それぞれの時代を順番に説明、喋りながら語りながらっていう感じでいいのかなと思うんですけど。
なるほど。じゃあ、読書、例明記。読書し始めるぐらい。まあ、人によって違うでしょうけど、小中学生あたりですかね。どうですかね。
えっと、自分のまず思い出で言うと、なんか幼稚園の頃はね、さすがに読んだ本とか覚えてないんですよね。
一応でも読んでたような気はする?絵本とか本は全く嫌いな子供やったっていう印象はない?
一つ多分今の自分につながる重要な話で、毎晩寝る前に母親が世界昔話、日本昔話みたいな、
10ページか20ページぐらいの本、冊子に近いやつなのかな。そういうのの5、60冊セットみたいなのがあって、
何歳とかは覚えてないんですけど、ある程度の年齢までほぼ毎晩読んでくれていたような気がします。
これは結構英才教育じゃないですか。
ですね。今思い出した。そういえば、たぶん原点はそこにある。
一応それは変な話。一方的に与えられるというか、読んでもらうというものだと思うけど、自分で本を選んで読み出したのはどのくらいですか?
小学校の図書館ですかね。ちなみになんですけど、その時に本の話で言われたのが、
3兄弟なんですけど、俺だけめっちゃ質問して読むのが終わらんかったって言ってました。
あー、そのなんでとかなぜとかを聞くタイプですね。
すげー聞きまくっていて、弟と妹は基本的に聞いたら寝てしまって、最初の体験が俺だったから、
逆にあれ、そんなんだのっていう雰囲気もあったみたいなんですけど、
ただ正直記憶にはほとんどないんですよね。
でも逆に言うと、記憶にはないぐらい人格の地層にあるかもしれないね。
小学校時代の本との出会い
可能性は、物語を物語として捉えるみたいなのが、たぶん基本的に俺本を読むとき全体的にそうなるんですけど、
可能性はあるのかもしれない。
一応その図書室、図書館で読んでた本ってどんな本?
一番覚えてるっていうか、いくつか覚えてるタイトルはあって、
まず小一の頃たぶんハレトキドキブタとか、
大泥棒ホッツェンプロッツとかね、
あとルドルフといっぱいあってなとか。
知らんな。
もうちょっと大きくなって、高学年とかになると、たぶんズッコケ三人組シリーズを読んでいた。
それは今話聞いてて、なんか自分も読んでた気がする。
ぐらい、図書館でめちゃくちゃヘビーなユーザーだったかとは思わないけれども、
常に何かしら本を借りて読んでるぐらいはあったような気がする。
一応基本的には全部物語ベース。
いわゆる小説がそれに属するヤングアダルトな物語って感じかな。
あとはおばあちゃん家に行った時にお小遣いをもらったら、
それを持ってちょうど小学校の頃に近くに、当時ちょっと大きい本屋ができて、
そこで学研の学習シリーズみたいなのをいろいろ買ってたのを覚えてます。
ちなみに子供の頃の家には本棚みたいなのあったの?両親とか祖父母とか。
母親がいわゆる小説を読んでいた以上のものは特にないですね。
本を読むといえば、そういう小説を読むということになるわね、当然。
学研の不思議シリーズとかだと、算数の不思議、恐竜の不思議みたいなやつとか。
算数の不思議が一番すげえ覚えていて、
長より上の日本語の大きい数字を全部暗記したりとか。
奥長、境外、上長ってやつね。
上長、高官、精細、極、豪華者、麻生儀、苗板、不可思議、無料体数。
10の72乗で終わるんだったかな、日本だと。
そこは知らんけど。でも俺も同じように暗記した覚えがあるね、それ。
暇だった。あと算数の時間は教科書に演習率が書いてあったので、演習率暗記してたりとか。
今どこまで言える?
3.1415926535897932384626までぐらいかな。
まぁまぁまぁ、そうやな。覚えてる。
すごいな、この勇気よくは。
とか、地図帳国語引覧みたいなやつとかも授業中に結構読んでいて、
コンテンツに飢えていたのかもしれない、そういう意味で言うと。
特にその時代はね、僕らがまだ若い頃は、
ファミリーコンピューターより少し手前ぐらい、あるいはちょっと出たばっかりぐらいで、
子供が容易に時間を潰せるものであんまりなかったからね。
うん。で、例えば国語の授業に国語引覧を読んでいても怒られないんですよね。
確かに。
とか、社会の時間に地図帳を見てても怒られないから、
割とそういうのを見てた覚えはある。
うーん、そういう読書をしてて、なんか変化した。
進化したというか、より深く入り込んでいったか、
別のところに手を伸ばし始めた記憶みたいなのある?
別のところ。
小説以外を読むようになったとか、その手のこと。
基本的にそこから、歴史小説につながっておしまいぐらいな感じかな。
もう一個、自分の中で思い出した大きな出来事が、
小4、5、6、ちょっとどこか忘れたけど、
テレビアニメで三国志がやってたんですよね。
横山見てる三国志のアニメ版。
へー。
で、結構楽しんで見ていて、よかったんですけど、
どう見ても打ち切りだろうっていう。
マニアックな話になるんですが、石壁の戦いで関羽が曹操を見逃した後、
そこで終わってしまうっていう。
で、親に三国志ってこの後どうなったって聞いても知らんくって。
で、なぜかその後本屋さんに行った時に、
横山見てる三国志全8巻みたいなやつを買って、
最後まで知りたいと思って読んだことを覚えています。
漫画とはいえ、歴史に興味が。
横山やってたっけ?吉川英二三国志。
ああ、そっか。の全8巻か。それは小説だよな。
そこが大人の本を自らの意思で購入して読んだ最初の第一本なんじゃないかな。
それが読書ことはじめという感じがするね。
いわゆるその図書館から本を読むに進んだのかなっていう。
まあ図書館も本を読むやが。
自動書じゃなくなった。
自動書じゃなくなって、自分の知的関係、興味ですね。
ネットがあったら絶対読まんかったと思うんですよ、それ。
古本屋と読書の旅
まあググって終わるよね。
今だったらwikipediaで三国志見て終わるので。
でも当時は調べる手法も知らないし、知っている人もいなかったし、
じゃあ本を読んでみるかという結論に至ったというか、
たまたま本屋で見て、あれこれ読みたいなと思ったのかな。
梨太さんは?同じように小学校とかちっちゃい頃とかは。
そんなに言うほど読書家ではなかった気がして、
その先ほど述べられた自動書あたりはもちろん読んでたと思いますが、
まずその一つも思い出せない。
あれ時々豚とか覚えてない?
タイトルは覚えてるけど、
なんか空から豚が降ってくるシュールリアリズム的なものやったぐらいの。
まあでも俺もそんなもんかなっていう。
言われなければ思い出せなかった部類の記憶になってるね。
あれ時々豚はちなみに日記に書いたら実現してしまったっていうやつで、
正体に気づいたら日記がダメになってしまったとかそういう系じゃなかったかな。
あんまり覚えてなかったし、それで読書にはまり込んだという思いもあんまりないですが、
さかのぼると、今の読書につながってるような本で言うと、
赤川二郎か、小学校の後半ぐらいか中学校頭ぐらいかな。
小学校はほとんど読んでない、漫画を読んでたけど、
そういうノベルブックは小学校の頃ほとんど読んでなくて、
例えば文字だけですっていうのを自分の好みで教科書に載ってるとかじゃなくて、
読んだのが多分赤川二郎かなというかな。
それは自分で買った系ですか?
どうやって赤川二郎に出会ったのか。
姉が戸塚は警部ものっていう時刻表を使ったやつ、西村京太郎か。
多分わかる。
本が何冊かあって。
家にあった。
何冊か。
その辺に興味を持って、赤川二郎で言うと三毛猫ホームズシリーズ。
一番有名かな、多分。
の一巻を多分古本屋さんで見つけて買ったんちゃうかな。
当時100円とかで買える感じのおやつ。
そこからミステリーものというものへの芽生え。
全然本格推理もんじゃないけども赤川二郎さんは。
それでも読んでいくうちに謎が提示されて、読み進めていくうちに解いていくという流れの小説を結構楽しむようになったっていうのが起点で。
それからいろいろミステリーもんは読むわけですから。
三毛猫ホームズという名前があったり、ホームズに興味が湧くわけですよね。
本家のやつね。
中学生ぐらいの時はコナン・ドイルも読んでたし、コナン・ドイルを読むようになるとアガスター・クリシティも読むようになる。
これは多分全部古本屋さんで買ってたね。
そうか、古本屋さんか。
もちろん赤川二郎さんとかは本の数もめっちゃ多いわけで、全家安心感で揃えるのはまず無理ですから。
昔は古本屋さんがいっぱいあったんですよ。
ありましたね。歩ける範囲にあったね。
自転車とか歩ける範囲で行く古本屋さんを巡って、そこにたまたま置いてあるものを結構見つけようと。
未読の赤川二郎を見つけると買うみたいなやつ。
赤川二郎の近くにあるようなものも興味向かって読んでいく。
読書仲間っていうのがいなかったんで、結構古本屋のセレンティビティみたいなものに導かれて読み進めていく。
あるいは、みけ猫ホームズから普通のホームズへみたいな本から本の連観をたどっていくという感じで、僕のミステリー系統がそこで結構確立された感じですね。
小学校の図書室、図書館とかはほとんど活用していない?
活用していないんちゃうかな、きっと。
その頃から自分のものにしたかった系なんですね、本は。
そうなのか、そういう場所に親しんでなかったのか、どっちかはわからないけど。
家で買って読むということはコレクション欲は多分あったよね。
事故分析しかないけど、その時の気分はわからんけど、コレクション欲は結構強かったのではないかと思う。
自分が入りが、多分小学校でその図書室行ってみましょうとか言って、適当に本を借りたみたいな記憶だと思うんですけど、
割とそこから買ったものって、三国志は買ったとか、
あとあれですね、夏休みに本屋さんに行ったら、新潮文庫、夏フェアみたいなのあるじゃないですか。
そういう感じで、偶然筒屋スタカの短編集みたいなやつとか、
本屋さんで1話目を立ち読みして、これは面白いぞ買ってみようって買ってみたとかはあったけど、
そこまで買うと借りるの区別をしてなかったぐらいの感覚があるな。
ああ、そうか。図書館使ってなかったわけではないけど、非常に小さい町の図書館なんで、
あんまりこのミステリー系はそんなに多く、もちろん赤川二郎はあったと思うけど、そこまで豊富じゃなかった気がするね。
このアンドウェルとかも多分あんまりなかったと思うわ。
それで言うと、やっぱり翻訳系はすげえ見つけるのが困難だった気がする、当時の話で。
自分も図書館、図書室じゃなくて小学校の図書室なんですよね。
その町の図書館、図書室はアクセスが悪いというか、遠くはないんだけど小学生からしたらちょっと遠い場所で、
わざわざ借りに行くよりも学校の空き時間にっていう印象があったかもな。
文学への興味の起点
うーん、そうか。だからやっぱりちょっと学校1秒でも早く出たかったから、あんまり学校の中の季節は使ってなかったっていうこともあるでしょうし、
その辺の理由はわからないですが、結構赤川二郎が起点で小説を読む、特にミステリー小説を読むということは自分の中で起点となっているんで、
逆にいわゆる日本人が書いた普通の小説、日本文学というかとかは、実は全然読んでなかったですね、この頃は。
じゃあ、やっぱり起点で言うと赤川二郎からのミステリーになっているってことなんですね。
うん、それはそうやね。そこから似たような本を広げてきたんで、結構不思議な感じだけど、ミステリーやとあんまり西洋の区別なく読めるというのが個人的には面白いですね。
あー、自分はそれで言うとね、やっぱり古典ミステリーとかおそらく1個も読んだことないんですよね。
あー、そうなんや。
話していて思ったけど、やっぱり原点が吉川三国志にあって、そこから次に宮城谷正光さんという人。今も現役で書かれているんですけど、主なそのトピックが春秋戦国時代の中国。
なるほど。
で、確かね、それも母親の影響なんですけど、三国志っていうものを好んで読んでいたっていうことを知って、新聞広告とかでこういうやつ、こういう本があるぞみたいに教えてもらって、
で、図書室で借りてきてくれたのか、リクエストをして借りてくれたのかちょっとよくわからんのだけど、借りてきてもらって、そこから宮城谷正光さんの本とかは、当時可能な限りだいたい読んでいたような気がする。
うーん、結構その件は歴史に偏ってた?
もう言ったら、あ、そうだ、筒屋スタカとかは中学校の頃に読んでいたんですけど、その中学校の印象で言うと圧倒的に春秋戦国時代。
へー。
その、変なマニアだったっすよ。すげー。自分の中でも思うけど。
なるほど。
それの影響で高校の漢文とかめっちゃできたっすもん。
それは具体的なメリットよね。
うん、やっぱね、バックグラウンドがあると違うんだなと思って。
まあそうやろうな、そろそろ思う。
そう、言語ではないんだけれども、漢文に出てくる、例えば、聖の国がどうのこうのとか、祖がどうのこうのって言われて、まず場所がイメージできるし、
そうやな。
都市名とかがイメージできて、人の名前とかもかなり高い確率で、著名人ならばわかるとかで、それは有利っていうか、漢文はできたな。
その系で続けて、高校時代も似た感じだった?
えーとね、そっからなんですけど、高校時代は多分、高校、大学はいわゆるほとんどかなり、だいぶ本を読んでいないって。
ああ、はいはい。
というか、そっからひょっとしたらブックカタリストまでほとんど本を読んでいないって。
そうか。僕はどっちかっていうと、ミステリー系を読み始めたのが小中学生ぐらいで、中学生の真ん中ぐらいだったのかな、スレイヤーズっていうライトノベルがありまして、
これはもう爆発的ヒットしたんで知ってる人が多いと思うんですけど、神坂はじめという方が書かれて、そこから僕のライトノベルアサリは始まっておるんですけど、
スレイヤーズはファンタジーなわけで、簡単に言うと、剣と魔法のファンタジー。で、同じ作者の方で、ロストユニバースという作品があって、これはSFなんですよ。
ほー。
宇宙戦艦とかが出てくる。
うーん。
で、同じ作者の人で、被害リクエストっていうのがあって、これは異世界転生なんですね。
当時出ていた異世界もの。
転生というか異世界ものかな、異世界に行っちゃうっていう作品で。だからもう、今僕が読んでるものの流れがほとんどもうその彼に、神坂さんの作品にあって。
で、SFに思うようになったのは間違いなくこのライトノベル系。ライトノベルって結構SF風設定のものも多いんで。
うーん。
そういうのから、いわゆるガチSF、つまり早川で出てるようなSFに繋がっていったんで。だから結構両方ともミステリーもライトから始まったし、こういうSFとかファンタジーもライトなところから始まってますね、大体。
そうか、SFとか自分は、それで言うとだから多分筒屋スタカを読んでいたくらいしかないのかな。
まあいわゆるSFなんだけど、そのショートショートではあるっていうか。
まあそういう要素が強い印象ですね、自分の場合。
うーん、そうか。
例えばスレイヤーズとかやったらファンタジーということで、これ指輪物語とかに繋がってるわけですね、これまた本格。
うーん。
そういえば結構電撃文学とかフジミファンタジアはSF作品が多くて、その辺から宇宙専門のSFに入った。最初に、でもアイザック・アシモフはね、確か中高の時に読んだ記憶がある。
ああ、その辺も読んでるんですね。
これ何?三発的になんか家に本が置いてあったらちょっと読んだとか、その宮城谷正光のやつとか多分高校時代もちょいちょい読んでいたような気がするんだけど、
割とね、運動部、陸上部とか高校の時とか、一応新学校で、なんかよくわからんけど文化として読書に縁がなくなってしまったっていうのかな。
まあ環境の影響が大きいですね。
環境が大きく変わって、どっちかっていうと、部活の友達と一緒に遊んでいることが多くて、例えばその本と関わるみたいな出来事が純粋に少なかった。
だから潜伏中の期間ってことね、今はまだ。
高校時代は振り返ってもいわゆる印象に残っている本みたいなのも、そうだな、その三発的に春秋戦国時代ぐらいだな。
僕の高校時代だけザラッと言いますけど、結構起点になった本、三冊目が野口幸男先生の超勉強法。
あれって高校の頃?
そうそう、僕が高校の英語の勉強とかの方法を考えている時にちょうど出てた本で、ハードカバーで買って読んだんです。
いわゆる学校の勉強法とは違う勉強法が書かれていまして、英語なんてテキストの本文を丸暗記せよという提案なんですよね。
それ超勉強法に書かれていた?
超勉強法か、そうか、超整理法じゃないんですね?
そうそう、これ超整理法の後に、随分後に出てる。
人気が出てから全部超がついたシリーズですよね。
そうそう、それの勉強法で、パラシュート勉強法とか英語テキスト丸暗記法とかそういうような、少なくとも自分が生きてきた中の勉強というカテゴリーで語られたノウハウとは全然違うことが書かれていて、しかも非常に説得的に知的に書かれているわけですね、この本が。
うっかり鵜呑みにするわけですけどね。実際僕は英語のテキストを丸暗記する勉強もしましたが。
確かに役に立ったと思うんですけど、そこからいわゆる方法への目覚めという、アウェイクフォーメソッドみたいなものがあって、当然野口さんのこの本が面白かったら野口著作を漁るわけですね。
大体そうなりますよね。
で、調整理法に出会って、なんと革新的なということを覚えて、その辺から僕の今の知的生産への技術の関心が、この本一冊で喚起されたという起点となる本が一つあったのと。
もう一個はもう決定的ですけど村上春樹さんのねじ巻きどりクロニクルという本を、高校3年生の夏休みの読書感想文で確か読んだ。確か3年生やったと思う。
で、いくつか聞きたいことがあって。まず、調整理法という本に出会ったのって高校生?大学?
大学での読書体験
調整理法を読んだのはどうやら大学あたりかもしれん。超勉強法を読んだのは高校っていう自信があるけど、調整理法はもしかしたら大学かもしれん。
何て言うんだろうな。今の目線で高校生大学生を振り返って、超整理法的な手法って全然必要じゃなかったように感じるんですけど。
紙の書類の整理に困ってたということは全くないね。
ですよね。だから自分の必要性があったというよりも、まず方法論っていうものの面白さ。何か手法を取り入れることによってこんな風に問題が解決できるんですよという素晴らしさが提示されていて
野口先生の軽描で知的な文章に心を打たれたという感じ。だから問題解決のためというよりは、まさにメソドロジーとしての興味として読んでたって感じだね。
繋がったんですけど、俺GTDに受けた衝撃っていうか、すげえっていうのがそれと同じ気がする。
そうやろうね。
当時別に何も困ってないんだけど。それを知って、うわこれすげえ、こんなやり方をしたらなんかかっこいいぞっていう印象っていうのかな。それと同じってことなんですね、おそらく。
最初のポイント。でも実際押し出しファイリングで僕は今でもファイルは整理してますし、当然のように。
やっぱり先入れ先出し、FIFOか。
ファストインファストアウトかな。
ファストインファストアウトとその逆の考え方みたいな、その方法をどう捉えるのかっていう観点とか、
例えばそのパソコンを使っているときにこの押し出しファイリングっていうのを見ると、例えばエディターとかで最近使ったファイルを開くっていうメニューがあるわけですけど、
これってまさに押し出しファイリングや、みたいにその情報を捉える視点が磨かれた感じがあったね。
もう一個、超勉強法という本をどう見つけたのか。
書店に並んでたと思うよ、きっと。その時はヒットしてたはずやから。
その頃は高校生?本屋さんとかは結構日常的に行ってたってことですかね。
その頃からね。
いつぐらいから本屋さん、小中高ぐらいのラスターさんと本屋さんみたいなのが聞きたいかも。
だからもう中学生の後半ぐらい赤ヶ次郎を集め出した頃からは、もう街中の本屋、古本屋と新幹本屋を巡ってたね。
その、なんていうんだろう、例えば学校が終わって帰ってきたら、チャリに乗ってそのいろんな本屋を巡る。
そう、休みの日とかはちょっと遠い古本屋行くとか。
30分ぐらいかけていろんなところまで到達してとか。
結局だからもう休みの半日は巡るので終わるみたいな、そういうの。
ほとんどの休日そうだったぐらいですか?
ぐの漢字、友達と遊ばない日は書店とか、書店巡り。
今日はちょっと、あれ、どうやって遠くの古本屋の情報を見つけたか知らんけど、隣町のどっかの本屋さんとかに。
結構ね、足で見つけるとかがある気がするよ、そういうのって。
ただ通りかけて見つけるっていう。
そうだよな、うろちょろしてるうちに見つけて今度行ってみようと思うみたいな、そういうことで巡ってたね、だから。
ねじ巻き鳥との出会い方は、じゃあ同じ本屋さん?
ねじ巻き鳥クリニックルは、感想文書くときって推薦図書みたいなリストがあるわけじゃないですか。
うん、あります。
で、その中で絶対誰も読まなそうな本を選んだんですね。
つまり中二病的な発想で。
で、めっちゃ分厚いんですよ。
あれ上下じゃなかったっけ?
上下か、上中下か上下か。文庫本やったら上中下かな。単行本やったら上下か。
まあまあめちゃめちゃ分厚いし、分かりやすいか分かりにくいかというと非常に分かりにくくて、読書感想文書けたかどうかわからなかったんですけど、
ここで自分は文学と出会って、こんなものがあり得るのかという、今まで読んできた系統の本とは全くジャンルもあり方も違う本で。
で、村上春日作品って結構他の作品に言及していることがあるんですね、文学作品に。
例えばねじ巻き鳥クリニックルやったらトーマスマンっていう人の魔の山っていう作品が出てくるんですね、紹介される。
で、当然のようにそれは魔の山を読むわけですよ。魔の山っていうのはその頃岩波文庫から出てるんですよ。
いきなり後半、いきなりじゃない、だんだん後半のところに。
で、一応読めたか読めなかったかで言うと、あんまり読めなかったぐらいストーリーを終えたぐらいだったんですけど、
で、当然岩波文庫とか後ろの方に機関のリストみたいなのがあって、そっからちらほらと文学作品を読むようになった。
だからそれが、はるき作品を読んだのが高校の夏休みだったんで、文学作品を本格的に読み始めたのは大学の頭ぐらいからかな。
で、僕はそこで初めて大学の図書館に通い浸るようになりました。
大学の図書館は俺もうマジで全く行ってないからな。
僕は多分一応情報工学学っていう理系にいたんですけど、多分図書館で文学の本を読んでた時間の方が長いんじゃないかなと思いますね。
それで言うとね、大学生の時にね、まず一番最初に影響を受けた本はタイトルまで正確に覚えてないんですけど、HTML入門で。
はいはいはい、わかりました。
青い表紙の分厚いやつ。その後赤のCSS入門も買った覚えはあって。
多分俺も持ってたと思う。
出版社とかも覚えてないんだけど、あの感じの辞書みたいな形っていうのかな。
で、そのウェブ学校、授業に出ずにコンピューター室でホームページを作っていた。
プログラミングとの出会い
確かにリナックスだったよね、きっとね。
そう、リナックスとWindowsもあったけどリナックスを使ってましたね。ターボリナックスだったかな。
全く同じことをしてるね。面白がりに全く同じことをしてるね。
大学に行ったらコンピューターが使えるし、インターネットも無料で使えるし、メールアドレスももらえてたのかな。
学生用のアドレスが手に入る。
それでウェブ上にスペース借りてちょこちょこっとアップロードする。
トホホのHTMLとか読みながら自分でサイトを作るみたいなことを自分からやってましたね。
俺その頃すごい覚えてるのが、授業でホームページを公開してみように近い感覚だったんですけど、
ユーザーごとにディレクトリーが割り当てられていて、
パブリックみたいな場所にファイルを置くと開けるんですよね。
ウェブの話になっちまうんだけど、背景が灰色なのがすごい嫌で。
当時CSSなしだとグレー背景だったんですよね。
これはすごい気持ち悪くて、もうちょっとどうにかしたいっていうところが入りだった気がするな。
HTMLを勉強するためにその本を買ったと。
ので、大学を卒業できない道に進んでいってしまった。
ちなみに大学時代、HTML以外にコンピューター系の本とか買った記憶ある?
コンピューター系の本。
大学、HTML、CSSをやって、そこからあんまり本には頼ってない気がするな。
言語の習得とかも基本的に検索とかそれですもんね。
大学でちゃんと出てないけど、2、3単位分ぐらいはC言語みたいなやつをやっていて、
あとは体系的に読んだのはもう30ぐらいになってから気がする。
20代後半ぐらい。
僕は一応情報工学科という名前だったんで、C言語の本5、6冊は持ってたね。
そして全く書けなかったね。
いやー面白いわ。
その頃はやっぱり参考書を沼にハマってて。
買えばできるようになる気がするやつでしょ。
そうそう。
まさにその通りで。
明快C言語とか読んで、書いてあることわからないけど書けへんなみたいな別の本を読んでってことをずっと繰り返してて。
それは多分プログラミング言語だけじゃなくて、英語の勉強とかでも同じことをしてて。
その当時参考書がいっぱいあったね。
参考書みたいなのは大学受験とかでもあんまり買った記憶がなくて。
なるほど。
何を勉強していたんだろうって。
それでいうと王道の学校から与えられた問題を教科書、テキスト、問題集みたいなのを地道にやっていたような気がするな。
今そういった話を思ったけど、超勉強法的な方法への関心からそういう入門書をいっぱい読んでたけど、結局手を動かすしかないという当たり前の。
ロックあるノウハウばかになってきた。
っていう時期はあったね。
それが片方ではそういう方法論の本ばっかり読む。
教育している画面に変えてないけど、あれはどのくらいだろうな。
大学生くらいからPHP審査とか文庫とか、自己啓発の。
PHP審査の措置系。
その辺をこの時代、大学生くらいの生きることに悩みを抱えていた時代からも、
今、ミステリーとライトノベルとノウハウと文学の話をしてたけど、実はもう一個、自己啓発っていうのがあって、
でもこれは多分ノウハウからの派生かなという感じがする。
結構近いというか、割と書店も一緒にしているというか。
そういう印象はある気がするな。
大学生くらいまでは基本的にここまでで、もう一個言うの忘れてたけど、
村上春樹さんって、当然海外の作品をよく読んでおられて、エッセイとかにも言及されるんですけど、
ロバート・B・パーカーというハードボイルド小説を書かれている作家がいられまして、
スペンサーシリーズというのがあって、早川から出てるんですけど、それにドハマりしてまして、
もう今は作者がなくなっているので続編出ないんですけど、
それで僕はそのハードボイルド作品を読むようになったのと、
こういう言い方はあれだけど、生き方っていうのも僕はそれで学んできたところはありますね。
ハードボイルドでこじれた。
いいか悪いかは別として、生き方の指針みたいなものを結構ハードボイルド、
つまりある種のタフさと個人主義でやっていくっていうのを習得してきた感じ。
学んできたっていう感じがあります。
ちょっとアウトローなんですよね。ハードボイルドとかのイメージで言うとなんとなく。
そうですね。必要とあれば法の道を踏み外すことは厭わないみたいな感じはあるね。
明確な悪ではないんだけど、悪じゃなくてアウトローって感じなのか。
おそらく自分の中にある正義を優先するっていう感じ。
非常に危ういんやけど、でもこのロバート・P・パーカーのスペンサーっていうのは非常にマッチョなんやけど、
たくさん本を読む探偵という結構珍しいタイプの探偵で、
彼はいろいろなことを人生哲学を語るわけですけど、探偵をしながら。
そういうのに感化されてきたのがちょうどその大学生ぐらいかな。
その生き様に憧れてみたいなのがおそらく今につながっている。
全くつながっていると思う。それは。
そうか、そういうひねくれみたいなのは自分はどこにあったんだろうな。
歴史の話で言うと、三国志の話を多少できる人に出会ったことはあっても、
春秋戦国時代の話ができる人はやっぱりいなかったんですよね。
なるほど。
小学校の友達で、そういえば三国志はファミコン、スーファミの三国志を一緒にやっていた友達はいたけれども、
その当然、言ったらゲームでキャラ名をいっぱい知っているっていう感じなのかお互い。
でも石壁とカントの戦いを比較してどっちがどうみたいな、そういうことにはならないので。
はい。なるほど。
そうだな。それで言うと、おそらく俺インターネットに出会うまで、なんて言うんだろう。
そういう意味で言う、趣味の友達がいなかった。
ある種の疎外状況に置かれていた。
それがずっと多分ね、少なくとも30歳ぐらいまではずっとそれによって鬱屈した人格になっていたと思う。
自己啓発とハードボイルド小説
ちなみにそのウェブページを持った時に、中国系の歴史について発信しようとは思わなかった?
その頃はね、どっちかっていうと、まずコミュニケーションを良くしたくてすごく。
なるほど。
ショートメール1回3円とかすげえ嫌だったんですよ。
なるほど。
通話料30秒20円とかバカじゃねえのって思ってたんですよ。
インターネットを使えばそれって実質無料にできるじゃんっていう。
さらに言うとショートメールってワンオーワンのやり取りしかできないのに、掲示板を作ったらみんなでできるじゃんみたいに思っていて。
それをどうにか実現したいっていうので。
なんかね、発信したいと思ったのは確かね、4年生かわからないけど4年目の大学の時。
それまではコミュニケーション改善ツールぐらいの位置づけだったけど、どっかの段階で発信ツールにちょっとずつシフトした?
そうですね、確かねバンドのホームページを作ろうぜって盛り上がって、それと直接関係なくじゃあ自分のホームページも作ろうって思って。
なるほど。
なんかユニコーンのアルバムの紹介みたいなそういうのを作って、雑ホームページみたいなのを書いていて。
そっから確かね1年以内にブログというものに手を出せたのかな、それで言うと。
そっから発信者としての人生が始まったわけね。
おそらくなんだけど、春秋戦国時代が誰にも話せなかったからって繋がっていて、話を聞いてくれなくてもいいからせめて言いたいとかがあったんだと思う。
そこはずっと今でもずっと続いているのかな。
大学生活と発信の変化
分かりますね、それは。
ラスタさんも大雑把にWEBとかの出会いとかそのぐらいの時期とかも大体俺と一緒ぐらいなんですかね。
やっぱり今年代外してと環境も近いんだなとはちょっと話聞いてて思いましたね。
大学生になって初めて、インターネットの名前は知っていたけれども、うちにインターネットの環境がなくて、大学に行けばそのタダで無制限に使える。
そういう期間が結構あって、もちろんどっかのタイミングでHDSL、深夜テレ放題。
ADSLとISDNのテレ放題かな。
ISDLか、その辺のことを導入してちょっと夜中に使えるようになったというところで。
全然話に戻りませんが、僕中学生時代から小説を自分で書いてたので。
早いな。
やっぱりライトノベルとか赤ヶ次郎とか読んでたから、発表したい気持ちっていうのはずっとあって、これで発信できるツールが手に入ったっていう感じはありましたね。
発表してましたか?その黒歴史時代は。
さすがに。
ネットに文章を公開はしなかった。
ネットに小説を公開したことはなかったね。さすがに。
その頃、例えば中学校の小説って今でも見つけ出せるんですか?
原稿用紙に書いたのは残ってるね。
じゃあ何作品かまだある。
フロッピーディスクに書いたのはもう読み取り機がないから。
フロッピーディスク自体がないけど、あったとしても読み出せるね。
当時その頃で言うと、ワープロとかも実用アイテムとして使ってたってことなんだ。
高校生ぐらいかな。ワープロ専用機っていうやつね。
クソでかいカバンみたいなやつで、
作るの失敗したノートパソコンみたいなサイズのやつで、
プリントアウトもできるから単体で。
インクジェットじゃなくて。
インクリボンだったよね。
それで感熱芯を押し付けて、書いては印刷してっていうことをしてたし、
フロッピーディスクに保存とかもしてたね。
ワープロとかは父ちゃんが会社で借りてきたかなんかで、
タイピングゲームをするだけで終わったみたいな感じで。
当時そういうので言うと、発表したいみたいな。
その頃は想像もしていなかったっていう印象があるな。
僕は結構小説とかショートショートとかを書いて、
友達に見せるってことは高校時代からやってた。
友達は読んでくれて、少なくとも読んで感想をくれていたってこと?
そういうこと。当然友達だからそんなひどいこと言われへんわけやけど。
授業中に授業を聞かずに原稿用紙に、その限られた時間で話を書くわけ。
で、休み時間に読んでもらうみたいな。
そういうことをしてたね。落書きの小説版みたいな感じ?
それで言うと、そこは俺のうっくつよりはだいぶ満たされていたんですね。
そうそう。だからまだハッピーなスタートを切ってたと思う。
そういう幸運なスタート。
同じく中学後半ぐらいから、いわゆる洋楽ロックみたいなやつとかを聞くようになったんですけど、
それも高校生になっても努力をしてはいないんだけど、話せる人とかいなくてね。
なるほど。
そっちもそっちで、あらゆる趣味がなぜかマジョリティじゃないところを目指してしまう。
なるほど。
ひょっとしたら、今振り返ればなんですけど、マジョリティじゃないということをかっこいいと思うという中二心がかなり強くて。
それはあるでしょうね。
そうしていたというのはあるんだろうけど。
でもずっとそれで不満で、大学の数年間だけ自分が全く知らない音楽の話が通じるというか、
自分以上の人たちがいっぱいいたっていう時代が一瞬あって。
なるほど。
そうだな。だから高校生の頃は割と部活をしていた。大学生の頃はホームページと音楽がいっぱいいっぱいだったとかっていう印象か。
だから読書に専念する期間ではなかった。
大学を最後の辞める直前ぐらいの時期とかは、フル本屋で一冊100円のミステリーみたいなものをたくさん買い込んできて、手当たり次第に読むみたいなことをしていたんですけど、
全然覚えていない。
そうやな。
今でも思うんだけれども、大学の後半とかは卒業も見込みが立たず、でも辞めるみたいなものは両親に言い出せず、大学行っているふりをして行っていなくてみたいなので、
いろんなものを書き消すために何か他のことをしていたみたいな印象があって。
なるほど。それは非常によくわかるね。
あやつじゆきとさんとか、あびこたけまるさんとか、そういう系だったと思うんですけど、たくさん読んだと思うけど、ほとんど何も記憶に残っていないっていうのが大学の後半ぐらいかな。
自己啓発書の影響
そこからビューンと飛んでもいいんだけど、一応、起点になる本をもう一冊あげさせてもらうと、たぶんコンビニで働いてた頃、25歳ぐらいかなあたりで、
仕事は楽しいかねっていう本。
はい、有名なやつ。
もう自己啓発者のバツンバツンの本ですけど、それに感激しまして。
どのくらい感激したかというと、まず本屋で見つけて立ち読みして最後まで読んだ上に、その本買って帰ったから。
ああ、立ち読みして読めるぐらい短い。
短い、非常に。感動して買って帰るぐらい。僕の中では本当の自己啓発者はその本。
その後に前後どっちか分からないけど、7つの週間も読んだけど、やっぱりちょっと違うなというふうにずっと漂ってて。
その固く決めすぎないでいこうみたいなコンセプト、僕がよく言うやつは大体その本に由来していることが多いかな。
その頃も本屋通いをやめた時期はないってことですかね。
ないね、はい。
どんな時も中学の途中ぐらいから、じゃあおよそ30年?
ずっと本屋通いしてる。
週に1回よりは多いぐらい。
それは間違いなくそうだね。
もう間違いなくなんだね。
それはそういう人生。だからそうじゃない人生をイメージするのが難しいぐらいだもんだって。
そうか、そういうことか。コンビニが冷蔵庫みたいな感覚と。
そうそう、それと一緒だと思う。
本屋は書棚みたいな、拡張書棚。
そうそうそういう感じ。漁師が海に出て漁師で帰ってくるような感じだと思うで。
そっちの方が感覚が近いのか。
今日も海に行くかという感じで。
四季じゃない限り海に行く。
そういう感じで行ってたかな。
今のいわゆる自己啓発者の興味はその辺で固まったというのがあるのと、
仕事をするようになって経営学とか経済学にも興味があり、
松下幸之助とかドラッガーとかを読み始めたのはその辺からね。
それもなんとなく、松下幸之助とかもなんとなく読んだ。
それ20代後半ぐらいかな、多分。
まあその辺よね、きっとね。
細かなことはいろいろあったんですけど、
ウェブでやっぱウェブからの影響が自分の場合すごい大きくて。
まず大学生ぐらいの時だと結構多分ほぼに力影響を受けているんですよね。
分かる分かる分かる。
で、ある程度進んでしょっちゅう分からんかったっていうのも何か思い出して。
いといさんと誰かが語っているやつとかを読んでも、
Webの進化と読書の習慣
よく分からんけどなんかかっこいい気がして読んでいたみたいな。
そういうのが結構あった印象があって。
よく下田孝明とかよくほぼに出てたからね。
途中からかな、ある時から何読んでも分からんなぐらいな感じになっていた印象があって。
なんだろうな、そういう簡単なコンテンツはいいんだけれども、
なんか大人な感じの対談をしていると全然分からんっていうのは結構印象に残ってて。
そこででもね、特に何も変化が訪れたわけではないんですよね。
あとはほぼに手帳みたいなやつが読書ではないか。
割と買って使わなかったことが転記になったりはしているのか。
なるほどね。
で、たぶん間がいろいろ飛んでよくは確かではないんですけど、
たぶんWeb由来の本から影響が結構大きくて、
梅田もちおさんの、何だったっけ、名前忘れてしまったっていう失礼なやつなんだけど。
まあ断札から出されてますけども。
たぶん一番最初の有名なやつだったと思うんですよね。
俺の本だの見たかった。
何だったかな。
なんかWebによって地の高速道路が走って。
そうそうそうそう。
Web進化論。
あれは新書だったっけ。
新書だったんじゃないかな。
ちくま新書だった気がするけどな。
えーなんかあれだな。
当時電子なかったのに物体としてのWeb進化論は全然記憶にないな。
ないわ。
あれ?登録してないのかな。
2013?
あれそんな新しい?
違う2006だな。
そうだね。
そのぐらいだと思う。
そのぐらいの時代インターネットはこれからすごいことになるっていうビジョンにあふれてましたね。
そうですね。だからWebがWebに期待を持たせてくれる本みたいなところから
その言ったら本、普通の本を読む習慣がちょっとずつ始まったのかもしれない。
なるほど。
そのWeb進化論はめちゃくちゃ感動したのが
ハテナダイヤリーにこのWeb進化論を読んでどうのこうのっていうのを書いたら
梅田もちおさん本人がハテナスターをつけて残していってくれて
ほー。
すげーその一位個人の感想が著者に届いて著者が認識してくれるんだ。
インターネットすげーっていうのを思ったのをすごく覚えている。
あーなるほどね。僕は当然のようにMixiっていうのをやってたわけですが
Mixi日記に数学ガール面白いって書いたら
結城先生にファボられた記憶があるね。
同じ体験すね。本当に同じ体験をしているんだね。
今思うけどさ、すごいよねその英語サーチと思うけど
どこチェックしてるのとか思うけど
そういうWebならではのダイレクト
今までダイレクトじゃなかったものがダイレクトに繋がる経験は確かにしてきてるね。
そこで結構Webに期待をしていて
そこから大学を辞める時からブログをやっていて
アフィリエイトとかで多少お金が稼げるようになったりして
Webにどっぷり、どっぷりって言い方は変なんだけど
Webがだいぶ中心的な生活をしていた中で
やっぱその21世紀、20代中盤くらいだな
Webの可能性みたいなものと本が繋がるようになってきた
ライフログの入門みたいな本とか
ライフログのススメだったっけ?
みたいなやつとか
あとWeb2.0じゃないや
フリーみたいな名前だったっけ?
フリーですね
そのあたりの話はかなり
当時の20代中盤から後半はかなり
Webの可能性の本から結構本を読むようになったような気がする
知識の広がりと人文学
興味はそうとして
本の読み方は基本的にあまり変化はなく?
今の自分からするとですね
最初から最後まで読み通しておしまい以上で
それ以上のことは何もしていなくて
例えば憲法された時に書評記事とか紹介記事をブログに書くことが多分あったと思うんですけど
それは30歳過ぎてからだからちょっと世代が変わるかな
数年開いているぐらいかな
その頃とかも
仮にそういう風に誰かからもらって読んだ本とかも
言ったらなんですけど基本的に簡単なやつだったので
言いたいことはわかるよ
簡単に書けたっていうのはあるかもしれない
例えばそういう本を読んで
今までの本の読み方をしていて
今本を違う読み方していて
違うタイプの本も読んでると思うけど
そこのグラデーションは何があったの変化はね
多分っていうかほぼ間違いなく
ブックカタリストを始めたら
ラシタさんがすげえよく物を知っていたっていうことだと思う
なるほど
あれ俺こんなに何も知らんのやなっていう
そのぼんやりと例えば名前を聞いたことがあるみたいな
例えばマクルーハみたいな名前とかにしても
100%聞いたことがないではないと思う
マルクスとかカントとかっていう名前とか
でもじゃあその人たち何なのって言われたら
何にも知らんくって
そういう分野が存在することすら知らなかったに近いんじゃないかな
なるほど
なのでやっぱ客観的に見てもいわゆる本を読んでいる人から見て
ブックカタリストを始めるまで
人文学的な知識は少なくともほぼゼロだった
なるほど
そこに至るまでそうだな
4つにでも人文学的な知識がゼロでも
まず生活で困ることがほとんどない
その知りたいという欲求を
欲望を喚起するものも身の回りにはおそらくないわけで
だから自然といえば自然な感じなんでしょうねそれはね
そうですね
例えばマルクスだとかの名前にしても
アダム・スミスとかの名前にしても
歴史学からしか出てこないんですよね自分にとっては
その人文学としてこの人は何を成したのかっていうことは
俺を例にするとあれなんだけど
やっぱまあまあ真面目に学校に行っていても縁がない
のではないかと思う
知りたいと多分あんまり思わないよねきっと
そうですね今だったらそういうことはないけど
当時例えばそのマルクスを知りたいと思える理由が思いつかない
そうよねやっぱり
そう思う
どうなったらマルクスを知りたいと思うんだろうっていう
逆にだからでもわからないよね
今例えばアダム・スミスがどういう人か
彼の提案が現代の経済学にどういう影響を与えるのか
っていう問いを自分で今立てた時に結構面白そうやなと思いますが
それはどのように開発されてきたのかは
自分自身ではわからないよね
ほぼ人に語れるようにしようとするためっていうのと
同じタイミングでやっぱそのデジタルノートをまとめるという目的のために
目的と並行してやっていたら面白かったか
あーそうか
だから片方だけだと不安定やけど
読書の知識を高めて語れるようになるっていうのと
デジタルノートの実践っていう両輪があったから結構続きやすかったのかな
ほぼ間違いなくそうじゃないかと思いますね
どっちかだけではどっちも成り立っていないと思う
特に物語人っていう必要性を喚起させる
メディア装置が自分の中にあるのは結構強力よね
あと単純な知的好奇心という言葉でも言っていいと思うんですけど
こんなに知らんかった世界があったんだっていうのは単純に面白かった
やっぱそこは大きいか
理系のいわゆる理系という分野に進むと
やっぱね全くもって考えが偏るんだなっていう
理系的な考え方になるね当然
今の自分で言うと理系的な考え方になるというよりも
文系的な考え方を知らなかったんじゃないかっていう
もうちょっと自分は両方の観点から考えられるようになったんじゃないかなと思う
理系つまり固定的で定量的な観測と解釈的で
人間を見る方ですね
幽霊とか多義性にあふれた世界ってことよね
多くの人が現代だと感じているんじゃないかと思うんですけど
そういう曖昧なものの価値を見出せていなかった?
そうかまあでもどうなんやろう
おそらく現代社会の発展そのものがその方向を向いていただろうからね
そうだからはっきり言って社会の影響というか
そういうのはあるとは思うけれども
まあでも例えば僕は思うに七つの習慣とかGTTも
だいたい理系の発想のコンセプトなんだよねあれ
そうですね全然そこからは人文には全くいかないと思う
ある種完結した非常に良い世界やってることって違うように見えて
コンセプトそのものが一緒の知的基盤に支えられている感じがすると
こういうものの見方ができるのが人文的ってことでしょうけどね
世代的な話で言うと
ちょうどポストモダンのブームが終わった瞬間っていうのが
おそらく一番そういう分野が嫌われていた時代で日本だと
まあそうでしょうねきっと
でドンピシャじゃないですか世代で言ったら
そのポストモダン5っていうのかな
うん確かに
そういうものがなんかこうダサいみたいな
そんな風潮すらもう消えていたのか自分たちの時代は
そうだねもう意識すらされていなかったんじゃないかなもう
っていうので文化的にもその接する機会が非常に少なく
逆にそのやっぱねブック語り人聞いてくれてる人とかの
そういう昔の話を聞いて
あのすげーなーって思う人が無数にいるというか
あーなるほどね
こんなにこんなにその本を昔から読んできた人たちは
こんなにいっぱいいるんだなって結構驚きますからね
まあそうよね確かに
なんかそのなんて言うんだろう失礼だけど
まあ普通の人がこんなにすごいんだっていう感じ
うんそうよねそのそういうやっぱりその偉い学者とか
なだたるジャーナリストがたくさんの本読んでって
イメージは湧きやすいけど
その辺を歩いてるって言うとあれやけど
知的好奇心と読書の重要性
人たちが少なからず知的好奇心を持って
で時間も投下してお金も使って本を読むということを
そういう営みを続けているんで
正直僕ら2人もブログってものが多分なかったら
そういう人たちと全く何も変わらない感じで
生きてたとは思うけどね
縁もなかったでしょうね
そういう人たちのことを知ることもなく
なかった
そのこんな普通にすげえ人が普通にいっぱいいるんだな
っていうことを知りようがなかった
そうよねどんなものでもさ
10年やったら一人前になるって言うけど
やっぱ本も読書も10年やるとね
何かその人の知的基盤みたいなのができる感じがあるね
でまあね思うのが逆にっていうか
やっぱ聞いてくれてる人たちに対して思うのが
こんなすごいのになぜ何も言わないんだろう
っていうのはすげえ思うんですよね
なるほど
現代の手段で言う
当時の自分の手段で言うと
そのブログを書くっていうことだと思うし
現代でいろんな手法はあるんだと思うけれども
こんなめっちゃよく知っていて
さらに言うと例えば読書会とかでも
みんな語れる人がいっぱいいるのに
何も言わんのすげえもったいないよな
っていうのはすげえ思うんですよね
まあでも変な話
本をたくさん読んでるほど
自分の知識に対して謙虚になるから
あんまり言わなくなるんじゃない
まあそっか自分がそれで言うと
知らんかったから書けたっていうのは
言えなくはないんだけど
その辺の僕もこういう本読んできたってこと
あんまり言わないし
別に言っても意味ないなっていう感じがあるから
あんまり言わないですけども
例えば特に科学的な知識とか
自分的な知識を語ろうとすると
あやふやさを自覚せざるを得ないから
ちょっと怖さはあるよね
何か言うことに対しては
まあそうですね
何を持って言うかみたいなこともあるし
そういう定義の難しさみたいなものはあるんだけれども
だからやっぱりリアルとかオフ会とか
つまりオープンじゃない場で会った時に
何か話してもらえるってことは多分あるだろうけど
ウェブにどんどん出していくっていうのは
ちょっとやっぱり頭のネジが少し
緩くないとできない感じはするし
僕らとかブロガーの例明記の人たちは
多分そうなんかちょっと変な感じ
感覚を持って発信してたと思うけど
うんまあね
何て言うんだろ10代でそういうことをやって
すげえひどい失敗をしてしまったとかは
ちょっと困るけど
だから結構
読んだ本について語りましょうというのは
簡単なようでいて難しい
メモはもうそう突っ込まれ時代やから
なかなか感想みたいなの書きにくいところはある
なんかね逆にね今抜きブログ書いてもね
その変な人にはどうせ誰にも見られんからね
安全なような気もするんだけどね
そうなると今度じゃあなぜ書くのっていうことになるんじゃないかな
そうだな書かずにいられなかった
やっぱり僕その当人の欲望が開発されてるかどうかじゃない
僕はだからやっぱりその中学生の頃とかに小説読んでもらって
面白いって言ってもらった経験が土壇にあるから
その自分が発信していられるメリットと
なんか言われるデメリットの天秤が痛い方
でもそういう
そっちの方がいいってやつですね
でもそこのメリットのシミュレーションが立たない場合って
言われる方の重りばっかりが大きくなるから
だからやっぱりちょっとこう変な話
僕語りその読書会とかで
なんかお互いに意見を言い合うっていうのが練習の場としてあって
その後にちゃんとなんかウェブに向かって発信するっていう
ステップがあった方がやりやすいんじゃないかな
そうか逆に言うとやっぱそういうすごい人たちを見つけ出して
あの書こうぜっていうのを促進する場として
コミュニティとしてやっていくというのも一つの方向性としてあるのか
それぞれの持ってる人のそのコンテンツをなんか引き出していくっていう
その本編で名前出すとあれやけど
例えば読書会で映画をむっちゃ詳しい人いるわけですけど
別にその人映画むっちゃ詳しいオーラをSNSで別に出してはらへんわけで
そういうのこういう話ができるんだよなっていうのを
本人にとって当たり前と思ってるすごいことを他者が引き出すという
言われてみると自分はそれはまあまあ得意だそういうことは
なるほど
そうあの自分が本人がすごくない自覚していないすごいことは
そうですね比較的見つけられるかもしれないそれで言うと
他人が面白がってあげることでこうやって面白がってるのちょっと書いてみようかっていう風に
アジテイトというかカルティベートしていくっていうことができたらいいな
そうですね書くとかが書くに関しては運が良かったのか悪かったのかあんま苦労せずに最低限のことはできたので
やっぱりそれは先ほど最初確認したようにやっぱり子供の頃文章を読んできた経験がやっぱり裏打ちしてるんじゃないかなと思いますけど
まあそうなんでしょうね少なくとも息子と比べて俺の方が何百倍も小学校の段階で読んでいるとは思うので
まあやっぱりでも読むことをせずに書くことは絶対できないので
やっぱり書ける人はやっぱり後ろで読んできている経験がその直近
例えばその20代と読んでない期間があったとしてもむしろある時期に集中的に読んできた経験があるからこそやっぱり書くことがそこまで苦にならないということはあるでしょう
あと思い出したけど質云々はさておき先端位でブログとかも書いているので
それは俺練習しているよなっていうのをそういえば思い出しました
いわゆる意識していかなかったけどブロガーを特に長い期間更新してきたらいわゆるその1万時間に相当する練習をしているはずなので
それをかけて当然だよねっていう感じですね
一応毎回ちゃんと頭を使ってすごく成果の高い練習ができたか質の高い練習だったかと言われると疑問は残るけれども
十分な量とそれなりの質の練習は言われてみれば確かにしている
そうねだからそのいわゆるそのコピペーテンプレートに文章を投げかし込んでっていう記事を先行書いても多分練習にはなってないけど
一応頭からその言いたいことを考えて書いて
成り立つように工夫して
読み上げて書き上げた文章を遂行して整えるっていうプロセスを自分の頭を通して踏んでるんであればそれやっぱり練習になってたでしょうね
一応1000以上はそのレベルのことしてると思うからな
だから書くことも読むこともやっぱり訓練鍛錬の上に成り立ってるし
ブックカタリストの過程
やりたいという気持ち欲望の開発っていうのも何かしらで行われてきたからこそという土台があるので
だからその3つ書くことと読むことの訓練とやり書きたい発信したいという欲望の三本柱がないと発信したいと思ってもなかなかしたいと思わないか
発信という行動が起きにくい
うん
場所があるね
そうですねあと自分はそういう意味で言うとそんな人好きだと自分では大して思わないんだけど
コミュニケーションの欲望みたいなものは結構あるのかもしれないな
それを人好きっていうことではないのか
わかんないですあの広く平等に万人に開かれた人好きではないと思うんですよね
人類愛はアガペーはないってことやろ
とか例えばパリピと仲良く遊びたいはないんですよね例えばで言うと
なるほど
時にはそういうことがないとは言わないんだけれども
基本的にそういうものは必要ないけれどもまさにあれかな
共に語れる相手は欲しいみたいな感じなのかな
結構普通の欲望やね
でもね俺の観察している範囲で言うと人間はもっとね語るだけで満足している人が大半なんじゃないかっていう
満足はするでしょうけどやっぱ深い語りをそこまで経験してなかった説
どっちかっていうとね必要というかしたいと思わないじゃないかと俺は思うんですけどねそういう割と多くの人が
どうなるの深い語りを一度経験してしまったその味を覚える気はするけどねだから学習不足という感じは僕はするけど
まあわかんないですねそのお互いの経験をもとにした感想でしかないので
一度すごい深い語りをしたけど次からもういいやっていうのはなかなかでもやっぱり深い語りをして満足をもし得たとしたら満足を得るかどうかわからんけど満足を得たらニューロンネットワークが変わるから
それによってでもやっぱり人は語りたがりだと思うけどなまあわかりませんか
対話ではなくその語れば満足っていう人が結構多いような気がする
ある種の場に参加しているその時間とか空気感があってそこである種の承認余期が満たされるってことは全然あると思うしそれはそれで間違ってないけど
心が通い合ったというとちょっとあれけど
ような時に満足感は大抵の人は起こると思うけどねまあわからんが個人としてあなたとして認められたという感じがあるっていうことやけど
ああまあそうですねさらに言うとやっぱそういうことを考えられるようになったのが哲学とかを読んだおかげだなとも思うからな
確かにねそういうものの見方とか分析の視点っていうことが広がる人間性とかを加味した上で語るっていうことができるようになってきたというのは人物的なものでしょうねきっと
っていう感じですねそうあの残りなのでブックカタリスト直前ぐらいの話もやっぱそうかだから本の話で言うと
やっぱビフォーアブックカタリストは自分の場合はなんですけどほぼほぼ小学校ぐらいに原点があってそこからほとんどブランクなんだなっていう感じかな
でそこから再起動し始めたのがオブシリアン時代みたいな
自分で言うのはなんだけど結構一生懸命真面目に読めば40過ぎてからでも結構できるようになるんじゃないかというのは思っているんですよね
いやーここ3年ぐらいのビフォーアフターは全然違うんじゃないもうそれはもう他社からの目線で見てもそぼ違うと思うけどね
なのであのなんて言うんだろうやっぱ始めるに遅いがないからそういうことに興味があったらやっぱぜひやってみるといいんじゃないかっていうのが自分の結論というか現段階のその一番言いたいことかな
本を読み始めて読み続けていくことをしていけば本って要するにネットワークになってるからあの本からこの本へっていう感じで広がっていくし
どっかである種のネットワークが脳内に出来上がって何かを語れるようになってくるっていうことはあると思いますね
ラスターさんの場合はどうですかね総括すると
人文学への興味
読書的な人生というか
そうですねあの人生は本とともにあるかなんか8割は本なんだなっていうような印象
こうやって例えばさ他の人の読書履歴を聞くことで初めて自分の人生の読書の占めるパーセンテージが相当大きいなっていうのを確認するわけですけど
例えば知的生産の技術とかを読んでると僕の読書量なんか涙ぐらいしかない人たちがいっぱいいるわけですよね
造詣の量とかも桁が違う人とかいっぱいそういう人に比べると自分なんか全然本を読んでないなという感じがしてたんですけど
全然そうではなくて結構やっぱ自分の人生と読書っての割合が大きいし
読む本の系統がやっぱり広がっているのは当然なんですけど
ここ数年で加速度的に広がっているというか読みたい本のジャンルが圧倒的に増えましたねなんとなく
ルーツを見るとまだ一般的に手が出るやつですよね全部
だから大学時代のコンピューター系の本を読んでるあたりまでは全然あれだったけど
やっぱ人文的な興味が深まってきた瞬間から書いたい本読みたい本が増えてきたんで
やっぱこれ一つ沼だなというのはトータルを振り返っても思いますね
多分触れてなかったと思うんですけど人文的なものを知ったきっかけとか入ったきっかけみたいなのは
えーとねおそらくですけどソフィーの
哲学だったっけ
ソフィーの世界
ソフィーの世界かあのなんか本の表紙は覚えてる
これこれこれソフィーの世界をが多分これ1918年登録って書いてあるこれデータが怪しい
2018年
もっと前かなもっと前だと思うけど
これとあと14歳からの哲学っていうような本あたりが最初で
でももう全然わからんわけですねソフィーの世界とか読んでも全然わからんから
哲学への関心の深化
哲学という分野に興味があってほにゃらら入門とかをつらつらは読んできましたけど
本格的に読むようになったのは多分ですけど千葉先生の本を読んでからかな
勉強の哲学
千葉先生
もうちょっと難しいやつ
動きすぎてはいけない
難しいやつですねもうちょっと
かあずまさんの郵便的存在論的じゃなくて存在論的郵便的
あれ98年とか9年ぐらいでした
あの辺の本まああれも出てからだいぶ経ってから読んだんですけど
動きすぎてはいけないも文庫本で読んだんですけど
全然わからんなっていうのとある程度わかるなっていうのがあったんですね
その本にはでそれまでの例えば哲学入門みたいな
フッサールが書いた哲学入門とか
フッサールとか
もう全然わからない全然わからんから
そのどうやってもどう足掻いても無理やっていう感じが
その日本人の子を哲学者が書いた本哲学の本とちょっとわかるという感じがあって
これはちょっと読んでみようという感じになった
だから関心自体はずっとそのソフィーの世界からあったけど
人文的にちゃんと読むようになったのは
その日本人哲学者の本を読んでからというところよね
ソフィーの世界を知ったきっかけは本屋さん
多分古本屋さんで売ってたと
俺もねこの本ねなんかね
多分うちの母が図書館で借りてきたんじゃないかと予想するんですけど
なんかね本の表紙だけは家にあったのは覚えてるんですよね
なるほど
ただそのなぜかでもないけど何も興味が湧いたりもせず
その本の表紙を覚えているだけで終わった感じ
うーんそうよね
こういう分野に興味が出たのは
図書館じゃない書店で表紙を見かけたから
うーん結構インパクトのある教師もね
ラシタさんの場合はどうなんかなっていう
いや多分パラパラと見ていった中で見つけた
だから本屋さんに毎回行ってると
興味がない本でもちょっと手に取るってことが増えるから
機会が増えれば増えるほど
それでピンときたっていう感じでしょうねきっと
もうそもそもどんな本かも覚えてないし
物語の形式で女の子が手紙を読むとかなんかわからないけど
そういう話だったらもう印象自体はないけど
こういう世界があると知ったのはそれがきっかけで
本をどうやって手に取ったかも全然覚えてない
だからそれぐらい昔のことだと思う
古本屋だったのか新刊書だったのかも曖昧な感じ
でも多分これ分厚い本屋し
おそらく古本屋で買ったと思うね
新刊を手に取る
だって結構高い本を買うとなったら
自分が絶対読むっていう強い
気合が入っているはずね
でもそうじゃなかったから
おそらく安いコーナーに並んでたんじゃないかな
多分当時これ結構売れてて
古本屋で100円になりそうな印象はある
そういうので多分手に取った
でもやっぱりその子に読んだ本も分かってなかった
チセノビをしてウィドゲンシュタインの
論理哲学論語を読みましたが
さっぱり
文字を最初から最後まで読むなら簡単ですよね
統合的に何が言われているのかは分かる
今なら分かるよ
今ならちょっとウィドゲンシュタインの仕事ってのは分かるけど
その当時は本当に全然分からなくて
プラトンが書いた対話編ぐらいは
哲学ってこういうことをしてるんだな
っていうのはちょっと分かった印象があります
それでいうと偉大なのは
アズマさんとか千葉さんがやっぱ
現代においてだいぶ偉大だなっていうのは
思わされますね
日本人が最も入りやすい
ちゃんと哲学
っていうことだよね
特にデリタあたりのフランス現代思想に
真剣に興味を持った
それまでってさっき言ったように
フランス現代思想なんて
要するに学問のフリしたほにゃららや
ソーカル事件とかの印象がめっちゃあって
あったけど
動きすぎちゃいけないとか
デリタ系の思想とかを読んで
そういうことなんだ
しかも現代的な硬直性に対する
アンチテイルとして
全くもっと現代でも通用する話やな
っていうことを結構
深いレベルで理解したという感じがあるね
おそらくきっかけみたいなのは
第一歩がソフィーの哲学とかにあって
その後千葉さんと東さんとかで
手がつけられないからわかるになって
進めるようになった
土俵に入れるようになった
門には入れへんけど
この門があるなっていうのが見えるようになった
という感じかな
それまではいわゆる
面白い読み物として哲学系の本を読んでた
こういう分野があってっていう
自分で哲学するというよりは
哲学というジャンルを外から眺めてたのが
初めてちゃんと人文的に読むようになった
ブックカタリストのイベント
ちなみにそれはいつ頃の
結構最近というか
でも40手前ぐらいか
30後半ぐらいか
5年経ったか経ってないか
ぐらいのところです
ようやくだから初めて
もっと深いレベルでこの辺の本
この辺というか哲学関係の本とかを
読むようになったしやっぱりそうなると
気になることが
どんどん増える
人の名前もちゃんとメモを取ると
意外と同じ人のことを言ってるなとかなるしね
ありますね
結局その人文的な営みって
歴史性の更新なわけで
しかも哲学者そのものは
過去の哲学者の問題を引きながら
自分の哲学を論じてるから
物理学の最新の理論を学んだらOKというよりは
例えば最新の理論
哲学思想を読むと
どんどん過去のことが気になってくる
だからやっぱり増えるんだよね
読みたいものが
ですね
クリプキとかレビナスとか
その名前見ても
何も想像をつかんかったっていう気がする
ベルクソンとか
なんか聞いたことある気がする
聞いたことあるぐらいやもんね
でも今でもスピノはちょっと分かるけど
でもこの人たちがどういう仕事を
どこの辺のジャンルに
タイトルとかイメージぐらいはつくようになってきた
それぐらい
全部読むっていうのは
おそらく本職の人ですらなかなか簡単じゃないだろう
っていう想像はできるので
本職等に哲学の専門家は
むしろ自分の専門分野に近しいものを
集中的に読むやろうから
幅広く
むしろ素人はやからかすと
幅広く読めるっていうのはあると思うけど
そういう感じで
第100回
ブックカタリストビギンズか
結構それぞれ違う歴史もありながら
重なる歴史もある話
そうですね
20歳ぐらいの頃は面白いぐらいに
かぶっていた感じですね
面白いねほんまに
あと前回に引き続きなんですが
100回のイベントを開催します
11月17日
多分この音源が公開されている頃には
そういう参加申し込みとかも
できるようになっていると思うので
応援の意味も兼ねて
遊びに来ていただけるというか
参加いただけると嬉しいです
11月17日の午後から
ブックカタリストの語り方っていうテーマで
2人で話をして
夜は懇親会をして
おしまいみたいなことを考えています
ぜひご参加ください
参加ください
101回からは
今までと同じなんだけど
ちょっとだけ変えていこう
みたいなことを目指していますので
どの辺が変わったかを見つけていただけると
嬉しいなと思います
ということで
ブックカタリスト番組を支援していただける
サポーターも募集しておりますので
詳しくは概要欄などをご覧いただければと思います
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
01:23:16

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