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2024-10-08 58:50

BC099 論文を書くとはどういうことか

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今回は「論文を書くとはどういうことか」をテーマに、論文についての二冊の本を紹介しました。

* 『論文の書きかた (ちくま学芸文庫 サ-55-1)』

* 『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

それぞれ独自の魅力を持つ二冊です。

書誌情報

『論文の書きかた (ちくま学芸文庫 サ-55-1)』

* 著:佐藤健二

* 佐藤 健二(さとう・けんじ):1957年、群馬県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程中途退学。東京大学名誉教授。博士(社会学)。専攻は、歴史社会学、社会意識論、社会調査史、メディア文化など。著書に、『読書空間の近代』(弘文堂)、『風景の生産・風景の解法』(講談社選書メチエ)、『流言蜚語』(有信堂高文社)、『歴史社会学の作法』(岩波書店)、『社会調査史のリテラシー』など。

* 出版社:筑摩書房

* 出版日:2024/5/11)

* 目次

* 第1 章 論文とはなにか

* 第2 章 「論」と「文」の結合

* 第3 章 〈文〉で論ずることの厚み

* 第4 章 主題・問題意識・問題設定

* 第5 章 通念の切断と思考の運動

* 第6 章 観察と対話の組織化

* 第7 章 調査研究のさまざまな局面

* 第8 章 2 項対立のあしらいかた

* 第9 章 リレーショナル・データベースとしての社会

* 第10 章 「クダンの誕生」の経験をふりかえる

* 第11 章 リテラシーの発見

* 第12 章 読書空間のなかで書く

* 第13 章 コピペと引用の使いこなし

* 第14 章 見えかたをデザインする

* 第15 章 研究倫理の問題

* 第16 章 編集者として見なおす

『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

* 著:阿部幸大

* 日本の文学研究者。筑波大学人文社会系助教(2024年時点)。北海道出身。

* 出版社:光文社

* 出版日:2024/7/24

* 目次

* 原理編

* 第1章 アーギュメントをつくる

* 第2章 アカデミックな価値をつくる

* 第3章 パラグラフをつくる

* 実践編

* 第4章 パラグラフを解析する

* 第5章 長いパラグラフをつくる

* 第6章 先行研究を引用する

* 第7章 イントロダクションにすべてを書く

* 第8章 結論する

* 発展編

* 第9章 研究と世界をつなぐ

* 第10章 研究と人生をつなぐ

* 演習編

『論文の書きかた (ちくま学芸文庫 サ-55-1)』

本書は「論文を書くとはどういうことか」をさまざまな角度から論じていく一冊で、その場しのぎに論文を書き上げるためのテクニックではなく、研究活動の一環に論文の執筆をおき、その中でいかに研究を進めるのか=論文を書くのかが検討されていきます。

重厚な論述であり、著者の思考が垣間見れる面白さもあり、話題が枝葉のように広がっていて、それらがいちいち楽しめる魅力も持ち合わせています。

個人的には「文」に注目した論考が心に残りました。自分なりにまた展開させていきたいと感じます。

『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

きわめてテクニカルでプラクティカルな一冊。それでいて著者の熱さも伝わってきます。「まったく新しい」という看板に偽りはありません。

一冊目の本に比べると重厚な論述感は小さいものの、シャープで説得的な論考は一気に引き込まれます。でもって、アドバイスが非常に役立つ。学術寄りの知的生産を行うなら必携の一冊でしょう。

こちらも単に表面的なノウハウを提示して終わりにするのではなく、論文を書くときに必要な「頭の使い方」を提示してくれている点が魅力です。

個人的には、本編でも語ったようにアカデミックではないライティングの方向性を検討してみたいと思います。



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サマリー

このポッドキャストは、論文を書く行為の本質を探求し、佐藤賢治の書籍に詳しく紹介しています。また、知的生産の技術やプロセスについての視点を共有しています。論文執筆に関する議論が行われ、辞書の使用法や論文とは何かの定義が深掘りされています。著者は論文を単なる文書ではなく、社会的な活動として捉え、その意味の歴史的変遷について考察しています。このエピソードでは、論文を書くことの意味や文の重要性を掘り下げ、問いを立てることの重要性とその影響について話し合われています。本エピソードでは、論文執筆における主張の重要性やアーギュメントの形成方法について考察し、アンパンマンを例として強い主張の構築方法を探っています。このエピソードでは、論文を書くことの本質とアカデミックなバリューについても探求し、問いの重要性や先行研究の引用の役割を強調し、批判的な視点の重要性がアカデミックな価値を生む鍵であると論じています。

ブックカタリストの100回記念イベント
面白かった本について語るポッドキャスト、 ブックカタリスト第99回の本日は、論文を書くとはどういうことかについて語ります。
はい、よろしくお願いします。 今回はちょっとたまたま続けて、論文の書き方の本を読みましたので、それを2冊合わせて紹介しようかなと思っております。
はい、あとお知らせなんですけれども、 まもなくブックカタリストが100回を迎える予定で、
そうですね。 ニュースレターでは配信したと思うんですけれども、11月の17日日曜日、
東京の東京駅近辺ぐらいのエリアっていう予定で、100回記念のイベントをやろうと思っています。
山手線のどこかの駅の近くということですね。 そうですね。山手線圏内駅地下でぐらいですかね。
なるほど。ちなみにそのイベントのテーマとかはどんな感じですか。 タイトル、ブックカタリストの語り方。
ちょっとメタ的な話にはなるかもしれないんですけれども、ブックカタリストを語るために各人どんなことをやっているかっていうのを100回も経験したことだし、
記念のイベントとしてそういうテーマを設けてやってみましょうというので開催しようと思っています。
まあ広く言うと、それぞれの読書術を語るみたいな感じ。
そうですね。言ったらほぼほぼイコールなのかもしれないですね。
了解です。
はい。っていうので、ぜひですね、100回お祝いしてあげるよっていうつもりでご参加いただけたら嬉しいです。
場所とか詳細とかは基本的に申し込んでいただいた方のみに詳細な場所を送るっていうので、案内は近日中にお送りします。
その申し込みの案内ですね。近日中に送りますのでよろしくお願いします。
とりあえずカレンダーの11月17日にイベントというのを仮押さえしていただければという感じですね。
そうですね。午後からイベントをやって、夜に懇親会をやってっていう予定ですね。
はい。わかりました。じゃあこちらも準備しておくんで、皆さんも心の準備をお願いいたします。
はい。
論文の書き方についての考察
さっそく本編なんですけども、取り上げるのが2冊ありまして、論文の書き方。
ちくま学芸文庫から出ている本と、まったく新しいアカデミックライティングの教科書という本。
これは公文社から出ている本で、この2冊を取り上げるのですが、前提として、僕別に論文を書いてきたわけではないし、
これから書く予定なんですけど、結構たくさん論文の書き方の本を読んでるんですよね。
詳細に名前を挙げませんけども、例えば論文の教室という本がありまして、
これ結構この界隈では人気というか有名な本でして、哲学者の東山先生が書かれている本で、
ラフな文体でありながら、論文を書くという工程を紹介するとか、
あと、その世の中に論文の書き方というタイトル、そのままのタイトルの本が結構複数ありまして、
それぞれテイストが違うのが面白いんですけども、やっぱりいろいろな文章のタイプというのがあって、
小説の書き方だとどっちかというと、過去の名文を勉強して、こういう文章、微分の勉強みたいな感じになることが多く、
エッセイの書き方って、エッセイって形式がないことがエッセイの定義みたいなところがあるんで、
案外エッセイの書き方という本がないんですね。
知的生産の技術で文章の書き方の本を探すと、まず論文の書き方しか見つからないという本ではない。
それはやっぱり論文がフォーマットを持っているからなんですね。フォーマットを持っているから、その書き方について説明することができる。
だから世の中に論文の書き方の本は結構ある。逆に、論文の書き方がわからないけど書かなければならないという人も多分多くいて、
そういう人たちのニーズに応えるためにもいっぱいあるんですけど、それぞれ本当にテイストが違ってまして、
非常に学術的な重厚な論考もあれば、非常にプラクティカルというか技術的な話に特化して、
新章でこれさえ読めば論文のフォーマットはバッチリですよというような本もバリエーションいっぱいあるんですけど、今回紹介する2冊もかなり異色でして、
多分僕がこれまで読んできた本の中でもかなり特別な2冊ということだったので、その辺を踏まえながら2冊の本を紹介できたらなと思います。
まず、倉下さんが論文の書き方の本を好んで読むのは大きなベースとして知的生産と呼ばれるものに役立てたいから
ということももちろんありますし、先ほど言ったように文章の書き方を知りたいって言った時に、本当に情報がないからか
選ぶとしたら論文の書き方になっちゃうし、知的生産の技術の本をかつて書いてきた人たちは全員学者なんですね、当然、学者研究者で、その方の仕事としてそういう本が書かれることが多く、
だから論文を一切書いたことがないけど論文の書き方には詳しい人間という、論語読みの論語知らずみたいな人間がここに出来上がっているわけですけど、
フォーマットがあるからということである種マニュアル的になるかなと思いきや、案外そうでもないんですね、論文の書き方って。
まず、人文系と理工系の違いもありますし、人文系だと論じ方が結構たくさんあって、それぞれ個性が出てくるところもあって、
あんまりだから、いわゆるドキュメントとかマニュアルの書き方のような定型ばっかりでもないというところが、一つ技術として見ても面白い分野ではあると思いますね。
梅沢さんの知的生産の技術の中では、知的生産はむしろ論文じゃなくて、初古人がそれぞれ書くというか、生み出すものだっていう言い方をしていますよね。
そうですね。だから梅沢さんは市民に開かれた知的生産の技術という感じで、逆に渡部翔一さん、知的生活の方法のような方は、むしろもっと論文的な、学術論文的なものを意識されて語られていたかなというところで、やっぱりそこにも幅がある感じがしますね。
じゃあその梅沢話しか俺は知らないから、必ずしも知的生産は論文じゃなくていいんだぞっていうのも一流派なわけですね。
一流はですね、それぞれの立場とか仕事とかにおいて知的生産のバリューはいろいろあって、学者なら当然それになりますし、ジャーナリストやったらもっと記事とか見えたことになるし、一般市民であればブログ記事とかそういうことになってくる。
その辺はいろいろなんですけど、論文の書き方を知ることで、論文を書けるようになることだけじゃなくて、論文以外の書き方、論文以外のものがどのような性質を持っているのかを否定論文的な感じで知ることもできるというので、
実際に書かなくても単純に読み物として、技術系の読み物として面白いものがたくさんある印象はありますね。
はい、了解です。
1冊目、論文の書き方で書き方の型がひらがなになっているところがちょっとポイントで、著者が佐藤賢治さんという社会学者の方なんですけども、この社会学者の方が論文の書き方を語るという本なんですけど、
まず特徴的なのが、そこまでプラクティカルなものではないというか、スキルとか技術にフォーカスして、この絵さえ読めば論文というのが1冊仕上げられますよという、例えば審判大学生のためのレポート論文術のような本が、さっきそのようなプラクティカルな本ですけど、
そういうのとかなり違っていて、むしろ論文とは何なのかという論考が展開されているというのが特徴で、しかも論文論、論文についての論が展開されているのが特徴で、文章をどう書くかレベルの話はほとんどなされていません。
あー、すごい初歩的な話でデスマスとデアルを混ぜないようにしましょうとかっていう、そういうテクニックっていうか、心得は何もない。
そう、用紙はこの用紙にしなさいとか、一行目地下記はどうするかみたいなテクニカルな話はもう一切ない。だから、今例えば自分が大学生で何かしらの論文を書かなければならないって時に、この本を読んでももう遅いというか、
この本はそういう役に立つ本ではなくて、そもそも論文を書くとはどういうことなのかという入り口に立つための本であるというのがまず特徴が一つ。さっき言った論文とは何かを論じているわけですけど、当然のように著者は社会学者、特に歴史社会学というアプローチを取られていますが、歴史社会学的な観点から論文を書くということを考えていくという本になっています。
ドストレートなターゲットの人はめっちゃ少ないってことなんですね。
そうですね。ただし、この本を読むことで社会歴史学者の思考法とかまなざしっていうのがわかる。
研究を進めている時にどういう観点とかどういう思考法を持ってこの人は研究を展開していくのかということがかなり実際的なレベルで明らかにされていて、そういう意味で研究の進め方として役立つ本で、研究を進めた結果書かれるのが論文なわけですから、論文を書くときに前段階の研究の思考法みたいなのを学べる本だと思った方がいいと思います。
基本的にそのトピックが論文を書くことに関する思考なので論考なので、むしろその論文を書くことに関して付随するもろもろトピックが本書は面白いんですけど。
方法的思考とその重要性
まず一番最初にチラッと出てくる方法的思考というのはこれ結構重要で、論文とは何かっていうのを考えるときに、論文というのがなぜ書くのか、何が求められているのかっていう基準から方法を立ち上げるという思考が方法的思考ということで。
何を求められているかという?
要請されている基準とか、どんな成果物が必要であるかっていうのを考えた上で、それに至るためにどんな方法を取ったらいいのかっていうのを考えるのが方法的思考という名付けられてるんですけど。
例えばゴルゴさんが誰かにブログってどうやって書いたらいいんですかって聞かれたら困りますよね。
どうやって書いたらいいんですか。答え質問になっていないですね。
パソコンを使って書いたらいいと思いますとか。
どんな記事を書いたらいいんですかとか、どのように記事を書いたらいいんですかっていうくらいにもう一段具体化してもやっぱり答えられないですよね。
それは結局、あなたはブログを通して何をしたいんですかっていうのが見えてこないからですよね。そこ答えられないのは。
例えば本書では別に名付けられてないですけど、ブログとはこう書くべきみたいなのは方法的思考じゃないわけですよ。
ある心理による定義みたいな。そうじゃなくて、何を成したいのか、何を成すために何が必要なのかっていうところから至るための手順とかっていうのを考えるのが方法的思考と。
別に掘り下げられてないんですけど、このキーワードは結構僕は使えるなと思いながら読んでました。
引用してある文章とかを見るとめっちゃ難しそうな本ですね。
結構固い感じはしますね。おちゃらけな大学生に向かい向いて書かれた本というよりは、これから学問を目指すためにこの本に取り組んでみようというような本なので。
ちくま学芸文庫というのもあって。
だいぶレベルの高いやつなんだな。
プリマーから比べると2、3段階上の本なので、ちょっと固い本ではありますが。
でもそうやな、大冗談に偉そうに語るという雰囲気はないんで、まさに学校の先生、大学の先生と講義を聞いているような感じが近いかもしれませんね。
当然、論文とは何かっていうのを考えないと、その方法っていうのを考えられないわけですけど。
まず最初に著者は辞書を引いてみようと、論文とは何かって辞書を引いてみようと始めるんですけど。
論文の初歩的理解
よくある論文の形として何々について講義園で調べてみるとっていう書き出しで始まっている論文は大抵うまくいってないということを書いてるんですけど。
辞書を引いてほにゃららって書いてあると。書いてあってなんとなくわかった気がしてしまう。
で、そうなって理解がその段階で止まってしまうものは全然論文としては面白さがないというか魅力がないものになっていると。
ここで著者が言いたいのは辞書を引くなということじゃなくて辞書をどう使うかという話なんですけど、辞書って言ったら一応標準的公平的一番丸い。
一番多数がそう解釈している。
いるような言葉で、つまり意味の動心園っていうのを描いたときに一番大きい園のところを語るわけですね。
それは別に間違ってはいないんですけど。その局地がそのwikipediaで、wikipediaって論文で引くとただ一文でまとめられてるんですよ。
論文とは学問の研究成果などのあるテーマについて論理的な手法で書き記した文章と。
文だけ読めばまあそうやな。
とても分かりやすい。
でもそれ以上にいけない。
このwikipediaと対比で辞書を引いたときに2つの文で構成されているんです。2つの意味で構成されている。
1が議論する文。理義を論事極める文。論策を記した文。
2つ目の意味が研究の業績や結果を書き記した文。
この2つの意味が丸まった意味がさっきwikipediaの説明として出てくる文。
まあそれはそうやなと思うんですけど。
著者はここに歴史を見るんですね。
おー。言語の変遷があったこと。
そう。つまり1の意味で最初使われたけどだんだんそれが広がったりとか応用されるようになって2の文が出てきたと。
1と2っていうのは分かれてるっていうのは当然意味の違いもあるとともに言葉の変歴もあると。
だからこういう風に辞書を僕は見たことがなかったので。
これが歴史的なものの見方やなっていう風に。
歴史社会学者的な。
っていう的な見方やなっていうのが。
だからこの段階で論文の書き方とかいう別の問題として、社会学的な視点の面白さがこの本の魅力としてあるわけですね。
そういう風に辞書をこのように使ったらいいと。
その起点として引くのはいいけど。
むしろそれは答えではなくてむしろ考える手がかりとして使うのがよろしかろうということで。
辞書の使い方を示しながらこの論文とは何かが論行されていくんですけど。
一応著者が定義する3つの条件があって。
1つ目が論と文の組み合わせであると。
論文ですからね。論と文の組み合わせである。
2つ目が問いが明確に提示されそれに対する答えの案の是非が検討されている文。
ここはだいたいさっきの1つ目と2つ目の意味が近いんですけど。
3つ目、これは公示に載っていない。他者によって審査される文章であると。
論文というのは当然どこかに提出してOKをもらったり否定されるということが起こり得る
ある種の公共的な活動であるということが先ほども出てきた辞書ではあまり見えてこないんだなというところを補足して
この3つの条件に整えるというプロセスがこの第一章で論じられている。
論文と文の定義
つまり辞書を引いて辞書から考えたこととか足りないことを埋めて
著者なりの論文という形式を整えるところがこの第一段階。
もうだからね、この知的操作が面白いんですよ。
論文とは何かをただドグマ的に定義してこうであるって話をするんじゃなくて
ここに至るまでの論考を結構細かく提示していくっていうこの話の流れが面白いと思われたら
この本は論文書かなくても絶対面白いと思います。
ちなみに日本国語大辞典という辞書が歴史社会学的な観点でちゃんと語義を歴史を追って時系列に並べてくれてるんですよね。
そういう意味で言うとその日国と呼ばれるやつとかは結構面白いかもです。
今、もの書き堂の生鮮版日国で論文調べると
議論する文という言葉はおそらく1868年の万国広報という
義の文帝が書いた言葉を西山根さんが翻訳して書いていて
学術的な研究の業績や結果というのは法治新聞で明治39年1906年におそらく初出であろうというのが書かれていました。
実際この順番で言葉の意味が広がってきたってことね。
そうですね。さらに言うとその間実は40年ぐらいしかない。
逆に言うと翻訳されるまで議論というような議論するとかっていう語義は日本にはなかった。
議論はあったんじゃないかな。論文がなかったんじゃないかな。
論文がなかったのか。
多分。
そうかもしれない。
同じく議論で言えば1477年に出てきてますね。
四季の名訳に出てきてるのか。
それまでは別の言い方。対等の立場である論説を交わし合うということはあんまりなかったかもしれないね。
熟語が高度すぎて文字として出てこないとダメなので結局記録に残らないとベースにはならないから
最初に記録として文章として残ってきたのが1477だし、さらに言うと四季の名訳なので
しばせんの四季の時代にはもう議論という言葉は中国語では書かれていた。
ある程度の学術的な研究をしている人の中で行われる会話というような感じがするから
そういう人たちが少なくとも存在した社会でないと生まれないでしょうね。
そうですね。さらにそれが書き残されないといけない。
こんな風に論文とか議論とか言葉一つ取っても当たり前に考えてるようだけど
意味が変化してきてる。歴史があるということ自体の見方が面白いですね。
そこで論文がまず言葉が検討されて、最初に出てきた論と文の組み合わせであるという
僕最初の時何を当たり前のことを言ってるかと思ったんですけど
何を当たり前のことだって思うね。
でもこれが第二章、論と文の結合というところでより深掘りされるわけですけど
まず論文ではないものから考えるということで
論文というのは手紙や日記とは違う。何が違うかというと
宛先となる他者の形式が違う。ここも難しい表現ですけど
誰が読むのかが想定されているのが違うということで
手紙は他の送り主が読むこと。日記は主に自分が読むことが想定されているわけですけど
論文の読み手っていうのは具体的な他者ではない。存在する他者ではなくて
想像された虚構の公共的な他者なんですけど
要するにこの社会に存在してその問題に興味を持っている人たちの
イマジナリーなグループが読むことが想定されている。
だからこれそのイマジナリーな他者、具体的な他者じゃないから
論文の文体が決定されているという話があって
これは以前紹介したかな。日本語からの哲学。
なぜデスマスで論文を書いていらないかという問題にちょっと絡まってきます。
その論文という文章の中でどんな言葉の実践が行われているかというと
当然その論ですね。
論という言葉が筋道を立てて述べる。ことの利比を主張するというものの述べ方。
今は論文と呼ばれていますが、かつては議論文とか論説文
論説文は確かに来ていますね。とか呼ばれていたと。
だからその論文ということは議論文論説文で
その論文のその論というところに注目すると
一つの問題に対していろんな説の
これは良いとか間違っているとかこの部分が正しいとかというところを
検討することが行われている。その論理的な構築というのと
順番に筋を立てて話を聞いた人が理解できるように
自分が今度正しいという主張をすることという
その名責に語るというこの2つが含まれているということが
その論という言葉からまずわかると。
次の文なんですね。論文は当然文なんですけど
哲学的な問いと日常
さっき手紙は日記と対比しましたけど
こっちは声と詩、ボイスとポエムとの対比
文というものはボイスとも対比できるし
ポエムとも対比できると。これは非常に有名な議論で
ウォルター・J・オングという方が
声の文化と文字の文化というものを対比しているんですけども
非常に若いですけど声の文化というのは語りであるし
重複とか繰り返しとか感情的な強調とか
あるいは聞き手に共感してもらう
あるいは聞き手がイメージしやすいことを語る
いわゆるスピーチですね。演説的な
技巧を用いられる
相手を説得するというよりは共感させて納得させる
みたいな感じの文化であると。
これは基本的にずっと続いてきたんですけど
文というのはそれとは違うと
語りの中では出てくるような
冗長さとか繰り返しとか
そういうのをまず一切なくす
話の筋をちゃんと通す
会話って今僕もやってる通り
あんまりまっすぐじゃないんですよね
結構行ったり来たりしながら喋っていく
でも文という形で整えられるものは
そういうものがなくなって
非常にシンプルにまっすぐに整えられる
そして読み手の共感に耐えるというんじゃなくて
いわゆる理屈、理論で物事を成立させていく
だから声で使われる感情的な
つまりシステム1的なものではなくて
立地的なもの、システム2的なものに
耐えるというか訴えかけるというか
それによって成立するのがまず文の文化
声の文化とは違う文字の文化
文の文化というのがまずあると
その中で出てきたのが
謎かけと謎解きの違いなんですけど
謎かけというのが声の文化なんですね
謎解きというのが文の文化なんですけど
歌詞の機はなぜ頑丈かという謎かけがあったときに
ここではもうすでに歌詞の機の頑丈さの理由を
考えさせられるわけですね
でも実際歌詞の機は本当に頑丈なのだろうかという
根源的な問いがそこで封鎖されているわけですよ
もうだから歌詞の機はなぜ頑丈ですかって
声で語りかけられるときに
もう頑丈さというのは固定されたものになっている
ただし謎解きになった場合に
そもそも本当に頑丈なのだろうかと
検討しようというのが生まれてくる
その根本的な問いの根源
あるいは自分が認識している前提そのものを
揺るがしてしまうもの
これは非常に危険だと述べられているんですね
言ったら僕らが日常的に考えているもの
当たり前のもの
日常生活を成立させているものを揺るがしてしまうからですね
例えば哲学的な議論で言うと
哲学的ゾンビというのがありますよね
意識を持っていないものやけど
ふたち振る舞いとしては人間に見えるっていう
例えば僕が今ゴルゴさんと喋っているときに
ゴルゴさんがもしかして哲学的ゾンビではないかって考えだしたら
これはもういきなりコミュニケーションが破綻するわけですよ
だから僕たちの日常っていうのは
当たり前によって成立しているけど
より根本的な問いと向き合うために
その当たり前を切り崩す必要があると
論文と文の関係
それを安全に行うために書き言葉っていうのが必要となる
つまり自分とその距離を置いて文として取り組むからこそ
自分の常識はそのままあるけども
それについて考えることができる
それが語りかけ、声の分解と
感情が動いてしまうので
もしそれが根源で崩れたら
自己認識そのものが緩んでしまうと
だからこの文という距離
声とは距離の空いたものの
メディアによって思考することによって
よりラディカルに考えることができる
それが論文の文というものが担当しているという論だってですね
ここも面白いと思います
人文の極みみたいな感じのやつですね
そうですね
論説の論、議論する論と文
声じゃない文というこの2つの組み合わせが論文であるというのが
1章と2章で確認されて
ここまで読んでも全然論文を書けるようにはなりませんけど
ああそういうことかというような発見とか
あるいは視線の転換というのが起こるというところが
1章と2章ですね
やっぱ論文論って感じがしますね
論文論という感じがしますよね
そこが普通に読んでて面白くて
第3章が文の文化をより掘り下げるというところで
問いを立てる重要性
文って僕らが言ったときに
当然文字で書かれたものを意図するわけですけど
実際その天文学の文って文ですよね
文って書きますよね
人文学の文も文
つまりこの文っていうのはあることわりというか
中身、仕組みみたいなものを匂わせる言葉であると
だから著者から言えば
社会も読み解くべきものであればそれは文であると
読み解くべき対象は全て文として捉えられるということが
まず第3章の前半で語られて
中盤でその文を読み解くということをすることによって
初めて主体っていうのが立ち上がる
主体っていうのは主体的に何かを読み解こうとすることで
逆説的に立ち上がるものだって
主体が何かを読み解くんじゃなくて
読み解こうとするそのものが主体であるという構成
だから文があって
文っていうのは文章じゃなくて
社会でも現象とか何かがあって
それを読もうと読み解こうとするとこに主体が立ち上がる
ここが文と読むっていうことの関係の重要性であると論じられて
これが真ん中の部分ですけど
第3章の最後が
そうやって読み解いて知ろうとするのが文の機能であるとともに
書かれた文がわからないっていうことが起こり得る
わからなさと対峙できるのも文の機能だということが
この章を通して語られて
3つ目
わからなさとの対峙する手段って文っていうのが
これは非常に読書論と関係するんですけど
読んでてわからない本っていっぱいあるわけですよね
で、わからないことがわかったわけですよ
分からないということを分かることができた
で、当然そこに本として形だったら何度も挑戦することで
分かる階段を上がっていくことができる
そのわからなさと
わからなさをハンドリングすると言うとちょっと大げさだけど
わからないっていうのを
わからないから捨てるとか知らんとか無視するんじゃなくて
わからないものがまずあったと
その中でどうわからないとかどうしたら分かっていけるかろ
っていうステップを踏むようになることが
文という在り方で可能になる
声っていうのが一方的に与えられて
共感するなり感動して終わるっていうのは
これ全部分かる世界なんですね
分からないものが基本
分からないものはもう認知の外に消えていくんで
もう分からなくって
分からないことすらも
分からないまま領域の外で消える
文は分からないものがそこに残って
分からないと対峙し合うことができる
そういう機能を提供するのが文を使うことの
機能というかメリットとして語られる
これは論文論とは何かというよりは
文とは何かということなんですけど
これも非常に興味深い話ですね
本章13章ぐらいだってだいぶ長いんで
全部は追いかけられないんですけど
一応次の本と関連する第4章
主題問題意識問題設定という章で
問いを立てるっていう項目の
その1にあたるんですけど
論文っていうのはまず問いと答えを持つと書いてあるんですね
何かが問われて
それに対して答えを与える実になっていると
本章は問いとは何かと
次問うわけですけども
問いとは何か
何かっていうのは問いなんですけど
問われるわけですけど
興味関心をただはてなマークを付けて提示したら
それは問いとなるかというとそうではないと
むしろ論文の中の問いというのは
まず何かしらの主題とかテーマとか
論題っていうのが文の形で表されて
その内実としては書いている人が
どんなところに興味を持って
どう知りたいのかと思った
あるいはその人が何を知ってて何を知らないのか
っていうのをわかった上で書かれた
提出されたもの
その当人の問題意識と関わっている
その上で何について調べたのかっていうのが
きちんと定義されている
例えばある社会の中で自殺が多いって言った時に
自殺率の変化みたいなものを
定量化されたデータに当たって
それについて考えるっていう具体的なレベルで
展開していくのがこの論文の中の問いと
だから自殺とは何かとか漠然としたことで
始まってもいいんやけど
それを論文の問いに落とし込むためには
もっと具体的なレベルで
ある年代のこの社会における自殺率の変化みたいなことを
考えることによって初めて
論文の問題設定となるというところが確認されます
これはあまり変わらないですね
よくあることを難しく考えている感じの話ですね
次のかなり駆け足で飛ばしますか
第5章が問いを立てるのその2で
問いを立てるというその行為そのものが
ダイナミックな動きと
ダイナミックな動きとはどういうことかっていうと
例えば1980年ぐらいに
なぜ日本の経営者は女性ばかりなんだろうかという問いを立てたとしますよね
この問い自体がすでに問題を提出してますよね
つまり女性の経営者が少ないのは何かおかしい
あるいは他の社会と比べたときに変わっているという
その新しい視点が提供されてますよね
逆に言うとその問いがない段階では
誰もそれを疑問に思ってないわけですよ
それを当たり前だと思っている
社長というのは男性であるべきだという価値観が
むしろ自覚されないままに持たれているところを
そのような問いの形を提出することによって
初めて社会的な問題が立ち上がってくる
だからどう問いを立てるかで何が問題であるか
どこに異常があるのかという
なざしが行われていると
だから単に疑問に思ったらいいということじゃなくて
その問題の立て方
問いの立て方は問題の立て方がある
その後に続く思考の流れをかなり強く規定してしまう
だから問いっていうのはどう立てればいいかという
あんまり安直なマニュアルはなくて
その立て方自体が一つの課題である
研究においても論文においても
問いの立て方自体が一つの大きな課題であると
この4章と5章で合わせて語られています
新しいアカデミックライティング
つまり問いがかなり重要だというのが大きな観点ですね
日本語はあれですね
ちょっと俺でも分かる話だった気がする
問いっていうのは結構身近なもので
論説よりはもっと具体的なレベルで
僕らは日常的に扱っているので
問いが結構重要で
問いこそが論文とか研究を規定するという話
6章以降は面白いんですがちょっと時間がないので
いったん次の本に移りたいと思います
次が全く新しいアカデミックライティングの教科書で
安倍後代さんという著者が書かれた
結構若い研究者の方なんですけど
まずタイトルが目につきますよね
全く新しいって古代王国ではないのかという感じがするんですけど
全く新しいですね
まずちょっと思うところで言うと
さっきずっと論文という言葉をずっと使ってたじゃないですか
こっちはアカデミックライティングなわけですよね
それは違うものとして捉えた方がいいってことなんですかね
フィールドが広いとこっちの方がフィールドが広いということですね
アカデミックライティングの方が対象となる領域が広い
アカデミックというような研究活動において書かれる
すべてのものを対象にしているというリファンスです
ただ主力は論文なので基本的には論文の話になっています
了解です
まず先ほどの紹介した本が非常に重厚で
枝端の多い論考をやったのに対して
ここまでプラクティックに書けるのかというくらいスリムに書かれてます
真逆のやつ
かといってマニュアル重視ではなくて
ここでも論考が行われているんですが
論考の語りが非常にスマートというかシャープに行われていて
どっちがスッと読めるかというとこっちの方がスッと読めます
目次を見てもらうとわかるんですけど
原理編、実践編、発展編、演習編とあって
これも非常に教科書的に書かれてます
最初に原理を確認し次に実践的な内容をして
最後は発展的な補足的な話であって
演習としてあなたが実際にやってみましょうという話がセットになっているので
教科書に値する内容なんですが
横文字が多いですね
横文字というかカタカナ語が多いですね
そうですね
著者は日本の方ですけど
アメリカの大学とかで論文を書かれて発表されたので
その点が一番大きく違うところなんですけど
著者が言うには日本の論文の書き方の本というのは
基本的に日本のやり方に適合してるけど
私は提唱したいのはアメリカで通用するような
世界レベルの標準的な話だというところが
この全く新しいっていうことの表現にかかってますね
結構日本の論文本が言ってこなかったことを
本書は語っているというのが多分セールスポイントであり
実際に特徴でもあると思います
第1章を見たら面白いんですけど
第1章はアーギュメントを作るというところがあって
アーギュメントって何かって論文の主張なんですね
その論文の中で主張されていること
ルール1 論文はアーギュメントを持たなければならないと
言い換えたら論文はその論文の中で主張することがなければならない
論文の基本構造
論文とはある主張を提示しその主張が正しいことを
論証する文章であるというところがポイントなんですけど
アーギュメントっていうのは論文の書くとなる主張内容を
一文で表したテーゼ
今度テーゼが出てきますけど
テーゼっていうのは論証が必要な主張と
ここまで端的に説明しただけでは全くわからないですけど
これもまた否定心学的に
アーギュメントではないものをお説明すると非常にわかるんですけど
なぜか話題がアンパンマンばっかりなんですけど
文1 初期のアンパンマンは調子丸顔のおじさんだったという文
これ一文で書かれてますけどこれは残念ながらアーギュメントではない
なぜならただただ単なる事実であるから
主張がない
次その2
このレポートではアンパンマンにおける女性キャラクターに注目する
これもアーギュメントではない
これはただ単にトピックである
どんな話題を扱うかということを説明しているにすぎない
3 本論はフェミニズム理論を用いてアンパンマンを分析する
これもアーギュメントではない
これは結局その方法論を宣言しているだけであるから
この1から3は論文に出てくる記述ではあるけども
よく見かける記述ではあるけども
少なくとも本書が言うアーギュメントではない
アーギュメントの改善
4番目
アンパンマンを深く理解するために必要なのは
ジェンダーというテーマであるという文
なんか一見主張を見えているけど
これは価値判断でしかない
価値判断でしかない
これはアーギュメントではない
この1から4はアーギュメントではない
どうしたらアーギュメントっぽいものが書けるかという
1つのプラクティスというかコツと言ってもいいかな
この論文はほにゃららを示すという構文で書けと
これも非常に実践的
フォーマットとしてそれでいいよって言ってる
そういう風に書けばアーギュメントらしさが出てくるし
アーギュメントとして考えることができる
それが語文語
この論文ではアンパンマンにおいては
アンパンマンとバイキンマンという男同士の物語ばかりが
注目されていることを示す
こうなるとかなりアーギュメントっぽいと
その1つのリトマス試験誌的なテストって
それ本当?ほんまにそれ
じゃあちょっと示してみてって言われるような
反応を引き出すような内容を持っていたら
かなりアーギュメントっぽいと
アーギュメント?
アーギュメント
アーギュメントは書き間違えてるな
日本語で言うとどっちが正しいか知れないけど
アーギュメントだよねアーギュメント
アーギュメントです
アーギュメントはおそらくなんですけど
拡張みたいなので違う単語かな
そうですねアーギュメントです
後で読書メモは書き直してきます
結局1からさっきまであげた4は
別に本当かじゃあ示してみろというような
論章を必要とされない
論章を必要とされないというのは逆に反省されない
そういうものは基本的にはアーギュメントにはならないと
先ほど出た語の文
アンパンマンとバイキンマンという
男同士の物語ばかりが注目されてるアーギュメントであるけど
あくまでまだ弱い
レベルとして強度としては弱いと
だからここを起点としてそれを鍛えていこうというところが
第一章の第二節で確認されるんですけども
鍛えるっていうのがまたまた公文で提示されるんですけど
AがBをVするという形式の文章に落とし込むという
またこのコツが提示されて
アーギュメントの書き方のコツ
そうそうそう
先ほど思いついた弱いアーギュメントがあったときに
それをこのAがBをVするという
多動詞モデルと呼ばれてるんですけど
多動詞っていうのは主語の後に目的語を持つことができると
つまりオブジェクトが2つあると
そういうような関係性で書けば
もっと強いオーギュメントになるということで
先ほどの語の挙げた文を
仮に多動詞モデルで書き換えるというのがあるんですが
まずアンパンマンは男性キャラクターばかりを描くと
これは確かにでも事実であるけど本当かなという感じはありますよね
それは論章が必要だと
しかもこの男性ばかりを描くという提示は
先ほどの本でも提示しましたけれども
すでにばかりよっていう言葉が少しニファンスを含んでて
女性が描かれてないじゃないかという問題意識があるわけですね
その回答例には
それをさらに女性キャラクターが描かれてないという部分を
より強調して項目として立てると
アンパンマンにおいては
アンパンマンとバイキンマンという男同士の物語が
女性キャラクターを演習に追いやってるっていうのが
プラッシュアップした
かなり論文っぽい感じになってますよね
こんなふうにもともとあったものを
多動詞モデルで書き換えると
いかにも論文っぽい構図が出てきて
しかも本当にそうかっていうところが
論章しなければならない主張になってくると
最後アンパンマンにおいては
アカデミックな価値
男性中心主義的な物語が
女性キャラクターを排除しているという文として
まとまった、鍛えられた文として提示されてるんですけど
こういうキャラクターを排除しているということを
主張するのが
別にこの文に限らない
こういう主張するのが論文である
つまりアーギュメントを持っていると
これは英語圏のアカデミックライティングでは
非常によく言われていることで
まずこういう時に強い動詞を使うと
弱い動詞っていうのは
メイクとかハブとかですね
何でも使える
意味がヒロインのじゃなくて
もっと具体的な排除している
英語で何て言うかちょっと僕分かりませんけど
排除しているみたいな強い動詞を使えと
これは英語ならではですけど
受動台を避けると
女性キャラクターが排除されている
じゃなくて排除しているとすると
日本語でもそうですけど
女性キャラクターが排除されているというと
主語を立てなくてもいいんですね
基本的に
でも何をしているとすると
誰が何をしているのかっていう
主語を立てなきゃ
問題の構図がより具体的に
はっきりと向かい上がっていくと
最後に愛を使う
これも当然日本語よりは英語の問題ですけど
私はっていう個人の主張を出して
それを検証して
その結果を私が追うということをするのが
論文であると
これは非常に西洋的な感じがするんですけど
西洋の個人主義における主張っていうのが
愛を使うというテクニックとして
出てくるかなというところです
だからアーギメントを作るということが
この第一章で確認・定義・主張
主張やな
つまりこの第一節の内容自体が
もうすでに著者の主張なんですね
このアーギメントではこういうもので
論文はアーギメントを必要とするのは
っていうのは経験的な観察によって
出されたものというよりは
著者が主張していることってことですね
本書の中で著者は
この実際本書の中で言っていることを
実践している
これめっちゃすごいですね
書いて考えるをこのモデルだけで
できるなと思って
お伺いしますね
こういうふうに
しかもある種のフォーマットを提示することで
ちゃんと思考を前にドライブしていくものが
提示されているという意味で
ここまでプラクティックな論文
執筆法の本は僕は読んだことがないですね
例えばアンパンマンの話で
男ばっかだよなみたいな
曖昧な日本語から
ここまでこの手法によって
言語化できるよなと思って
かなりクリアーに
ソリッドな主張が立ち上がっていますし
こういう主張がないものは
良くないよと言いたいわけで
つまり日本語の書かれた論文は
ここまでソリッドなアーギメントを
持っていないというのが
著者なりの不満としてあるという感じはしますね
第1章で確認したのは
アーギメントというのはどういう形式のものだった
ということなんですけど
次はアーギメントの内容、価値が
第2章アカデミックな価値を作るということなんですけど
論文にアーギメントがあったとしても
それがその主張内容に
アカデミックな価値がないと
基本的にはその論文は十分ではないと
ここもかなり強めの主張なんですけど
ここが面白いんですが
基本的なつまり日本で書かれている
論文執筆のノウハウでは
問いがありその問いの答えを主張し
その主張を論証する文だとされてるわけですね
これもさっき僕が読んできた本やし
実は僕がこれまで読んできた本も
大体同じことが書かれます
でも本書は論文に問いは必要ないと
主張してるんですね
さっきのアンパンマンの話で言うと
確かに問いはないですよね
観察した結果から文が立ち上がったので
もちろんあっても変わらない
問いがあるべきではないんじゃなくて
あっても変わらないし
むしろ実際あることが多いし
あった方が論文としては
効果的に論を展開できるけど
実際そのあろうがなかろうが
政府は関係がないと
何か主張があったら
その主張から逆算するように
問いは立てられるんだと
例えばなぜアンパンマンには男性ばかりか
逆に選出できますよね
そういうものでしかないと
でもあってもなくても変わらないし
あった方が効果的なのに
なぜ論文に問いは必要ないかと
著者が言っているかというと
逆に言うと問いと答えがあれば
もう論文と成立してしまうんじゃないかという
妙な期待感というか
それを満たせば論文になると思い込む
実際先ほどの本でも言いましたけど
問いがあればいいわけじゃないですね
問いの形とか立て方が
実は重要だと書かれてるんですけど
そこの補足を見逃すと
論文の一番最初の定義で
問いがあって答えがあれば論文だ
というふうに認識しまったら
一番最初のレベルで間違ってしまう
だから著者はかなり大胆に
むしろ主張があったら論文だと
主張こそが重要なんだと
問いはそこについてくる形のように
これまで史上関係をひっくり返しているところが
論文執筆の意義
非常にラディカルで
しかもそこが非常に面白かったですね
この本を読んでて
確かに問いと答えは必要だと
よく言われてるから
問いと答えを立てれば論文になるけど
実際それは論文っぽいものでしかなくて
つまりアカデミックなバリューとか
論文が書かれた意義っていうのは
非常に弱いものになってしまう
実際のところ
例えば
なんちゃって大学生が卒業するために書かれる
なんちゃって論文っていうのは
おそらく
問いと答えが形式的にマッチしてて
他が誰も書いてないものであったら
担当教授が
丸を与えられるレベル
のものであれば
おそらく
問いと答えというやり方は通用しますし
日本の
論文執筆術の
5割は言い過ぎかな
3割くらいは
なんとか大学生が卒業するための
ノウハウが書かれてることが多いんですけど
少なくとも本書が目指してるのは
実際の研究者が現役で活動して
価値がある論文を書くための
方法論なので
そういうなんちゃってノウハウが全て
切り捨てられてて
むしろクリティカルに必要なのはこれだと
まさに日本にいなかった
問題提起の仕方であり
その方法論の提示の仕方であるとは
思います
批判的議論の重要性
この方はちなみに
どの分野というか
どういう学問を
一応文学部には
属されてるんですけど
最近はもっと幅広いところで
論じられている
社会批評に近いようなことも
されているという分野で
全体的に言うと理工科人文科というと
理工科人文の方にいらっしゃいますね
うーん
というところで
問いに論文は必要とないという風に
これまでのことをひっくり返しながら
でもやっぱり
問いという形を
問いさえあればいい
ということを別にこれまで
本も言ってるわけじゃないんで別に
否定してるわけではないんですけど
大学生が卒業するようなものじゃなくて
アカデミックの現役の場合
むしろ問いを
その論文が
何を主張としているのかという
アーギュメントを磨くことの方が重要だよ
ということを力点をそこに置いている
がポイントで
そのアカデミックな価値が
なければならないという話ですけど
アカデミックな価値って何かというと
多くの読者がこれを読んで面白いと思った
ときにアカデミックな価値が発生する
わけではないと
PVが多いとか少ないとか
いいねではない
結局
これまでになされてきた
先行の研究を引用して
そこに自分の
オーギュメントが何かを主張する
ことによって
そのアカデミックな会話を
少しでも
ちょっとでも更新するものが
アカデミックな価値であると
だからアカデミックな価値を
与えるためには
これまで行われてきたアカデミックの
会話に参加しなければならないと
だから引用ってのは
絶対必要なんですね
先行研究の引用ってのは必要
私は全く新しいことを得られました
どうでしょうすごいでしょうって
少なくとも内容が面白くても
アカデミックな価値っていうのは認められない
アカデミックな価値っていうのは
これまでの研究を
研究内容とか議論とかを
少しでも更新するために
行われるし更新するためには
参照しなければいけないわけですから
この流れに乗っかることが
まずアカデミックな価値を
生み出すことになると
当然そのアカデミックな価値
会話を更新するためには
これまでの研究は大変素晴らしいものでした
ではダメなわけです
何の価値もかかわらず
これまで研究したことの中で
この点が間違っているあるいは
この点が不足しているだから私は
これを付け足すっていう形で
行われるとつまり
少なくとも何かしらの批判とか否定的なものが
その方向性として含まれている
かつて書かれたものを
例えばこの本でいうと
この本の中でも書かれてますけど
この本でいうと日本の論文
執筆術は有効なものもあるから
ここが欠けている
だから私はこういう主張をしているんだ
っていう補足があるわけですね
これによって本書もアカデミックな価値を
付け足そうとしているわけ
新たな視点の提案
それと同じことが
全ての論文あるいは
アカデミックな文章において
行われなければならない
否定性が必ず
先行するものに対しての否定性っていうのが
前後手じゃない部分が
含まれているのがアカデミックな価値の
作り方ということで
これは全く僕は正しいだと思うんですけども
多分この点が
アカデミックなものが
一般社会で
生活人たちに
嫌われるあるいはあんまり
好かれない要素である
否定されるというところが
どうも
あまり馴染みがない場合
人格否定
と思われてしまうとか
自分の運動活動に反対しているのか
と思われてしまう
そうではないんだというところは
理解されないし
基本的に平行性
アカデミックな価値を足すことと
市民活動っていうところで
交わらない部分があるんじゃないかと
僕はこの本を読んでてちょっと思いました
だからアカデミックは受け入れられにくいのも
単に難しいからではなくて
そこにある否定性がある種の拒絶反応を
生んでるんではないかなと
僕がこの本を読んで
この会話に
参加するとしたら
アカデミックライティングじゃなくて
シビックライティングっていう別ざまの
否定性よりは
肯定性を含むような
つまり会話を
更新はしないけど
継続するような
リチャード・ローティーが言ってるような会話を続けるというような
価値を生む
シビックな文章の書き方っていうのを
もちろん別の方向で
提示できるんじゃないかなと思った
だから僕はこの本を読んで会話に参加する
別の糸口を見つけた
というところですね
で本書はまた
この後どんどん続くんですけど
このアーギメントと
問いっていうものの取り扱いについて
こんなに和気なスタンス
しかも内容的にも
非常に重厚あるいは片方は
非常にスマートで
シャープな論語を進めて
論文の書き方って
ここまで差があるなっていうのが
非常に解る
本当に
論文を書くってことを
達成したい場合は
全く新しいアカデミックライティングの
教科書がまさに教科書的に
使えますけど
社会学的な視点とか
知的な概念操作っていうのを
実践を読みたい場合は
論文の書き方
片側ひらがなの方を
読まれると
読み物で非常に面白いということで
対比的な2冊だと思います
両方読むと多分
めちゃくちゃ面白いと思いますね
上は雑人文書
っていう感じの
こっちの2個目の
さっきのアンパンマンの話が
すごいなと思って
これは
取り入れたいなと思って
自分も
この本は普通に
ライティング
ライティング技術の
提示の仕方として
こんな書き方があんねんなというのは
ちょっと思います
これまでは例えば
こういう
全体が
複数のパラグラフになっていて
パラフラグライティングしましょうみたいことがよく言われるわけですけど
本社はもっと
パラフラグライティングは書かれているんですけど
パラフラグライティングって
どういうものであるのかとか
その取っ掛かりには何をしたらいいのか
っていうことがかなり実践レベルで書かれているので
ここ面白いので紹介したいんですけど
ちょっと時間がないのでやりますが
どの章でも面白いですし
1番最後の
3つ目の発展編
研究と世界をつなぐっていうのが9章と
研究と人生をつなぐっていう
9章と10章の組み合わせは
知的な活動を
どうしていくのかっていう
人生論とは言うと大げさですけど
という風にも読めますので
どこを取っても面白いし
そんなに長くないし
シャープでクリティカルな
論が展開されている
全く新しいという名に
相応しい本でしたね
ですね割とアカデミック
シンキング
かつロジカルシンキング
な感じもして
良さそうですね
どちらか興味
あればどちらか読んでもらって
興味あればどちらか読んでもらったら
想像的に面白いと思います
はいあと補足というかですね
自分の
間違いの訂正なんですけども
妙薬って
つい読んでしまうんですが
小薬ですね正しくは
しわせんの四季の
小薬
手辺に少ないって感じか
そう妙っていうのは
女辺に少ないで
知識としては
知識としては知ってるんだけど
つい無意識で妙薬と
反応してしまい
これは訂正しておこう
と思います一応
訂としては
言い間違えた
はいそうですね
システム1でしゃべってしまうから
相当妙薬になってしまうすぐに
小薬ですね
皆さんも間違いやすいので気をつけてください
はい
はいということで
本日は番組を支援していただけるサポーターも
募集しておりますので
詳しくはポッドキャスト概要欄ご覧ください
それでは今回もお聞きいただき
ありがとうございました
ありがとうございました
58:50

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