さっそく本編なんですけども、取り上げるのが2冊ありまして、論文の書き方。
ちくま学芸文庫から出ている本と、まったく新しいアカデミックライティングの教科書という本。
これは公文社から出ている本で、この2冊を取り上げるのですが、前提として、僕別に論文を書いてきたわけではないし、
これから書く予定なんですけど、結構たくさん論文の書き方の本を読んでるんですよね。
詳細に名前を挙げませんけども、例えば論文の教室という本がありまして、
これ結構この界隈では人気というか有名な本でして、哲学者の東山先生が書かれている本で、
ラフな文体でありながら、論文を書くという工程を紹介するとか、
あと、その世の中に論文の書き方というタイトル、そのままのタイトルの本が結構複数ありまして、
それぞれテイストが違うのが面白いんですけども、やっぱりいろいろな文章のタイプというのがあって、
小説の書き方だとどっちかというと、過去の名文を勉強して、こういう文章、微分の勉強みたいな感じになることが多く、
エッセイの書き方って、エッセイって形式がないことがエッセイの定義みたいなところがあるんで、
案外エッセイの書き方という本がないんですね。
知的生産の技術で文章の書き方の本を探すと、まず論文の書き方しか見つからないという本ではない。
それはやっぱり論文がフォーマットを持っているからなんですね。フォーマットを持っているから、その書き方について説明することができる。
だから世の中に論文の書き方の本は結構ある。逆に、論文の書き方がわからないけど書かなければならないという人も多分多くいて、
そういう人たちのニーズに応えるためにもいっぱいあるんですけど、それぞれ本当にテイストが違ってまして、
非常に学術的な重厚な論考もあれば、非常にプラクティカルというか技術的な話に特化して、
新章でこれさえ読めば論文のフォーマットはバッチリですよというような本もバリエーションいっぱいあるんですけど、今回紹介する2冊もかなり異色でして、
多分僕がこれまで読んできた本の中でもかなり特別な2冊ということだったので、その辺を踏まえながら2冊の本を紹介できたらなと思います。
まず、倉下さんが論文の書き方の本を好んで読むのは大きなベースとして知的生産と呼ばれるものに役立てたいから
ということももちろんありますし、先ほど言ったように文章の書き方を知りたいって言った時に、本当に情報がないからか
選ぶとしたら論文の書き方になっちゃうし、知的生産の技術の本をかつて書いてきた人たちは全員学者なんですね、当然、学者研究者で、その方の仕事としてそういう本が書かれることが多く、
だから論文を一切書いたことがないけど論文の書き方には詳しい人間という、論語読みの論語知らずみたいな人間がここに出来上がっているわけですけど、
フォーマットがあるからということである種マニュアル的になるかなと思いきや、案外そうでもないんですね、論文の書き方って。
まず、人文系と理工系の違いもありますし、人文系だと論じ方が結構たくさんあって、それぞれ個性が出てくるところもあって、
あんまりだから、いわゆるドキュメントとかマニュアルの書き方のような定型ばっかりでもないというところが、一つ技術として見ても面白い分野ではあると思いますね。
梅沢さんの知的生産の技術の中では、知的生産はむしろ論文じゃなくて、初古人がそれぞれ書くというか、生み出すものだっていう言い方をしていますよね。
そうですね。だから梅沢さんは市民に開かれた知的生産の技術という感じで、逆に渡部翔一さん、知的生活の方法のような方は、むしろもっと論文的な、学術論文的なものを意識されて語られていたかなというところで、やっぱりそこにも幅がある感じがしますね。
じゃあその梅沢話しか俺は知らないから、必ずしも知的生産は論文じゃなくていいんだぞっていうのも一流派なわけですね。
一流はですね、それぞれの立場とか仕事とかにおいて知的生産のバリューはいろいろあって、学者なら当然それになりますし、ジャーナリストやったらもっと記事とか見えたことになるし、一般市民であればブログ記事とかそういうことになってくる。
その辺はいろいろなんですけど、論文の書き方を知ることで、論文を書けるようになることだけじゃなくて、論文以外の書き方、論文以外のものがどのような性質を持っているのかを否定論文的な感じで知ることもできるというので、
実際に書かなくても単純に読み物として、技術系の読み物として面白いものがたくさんある印象はありますね。
はい、了解です。
1冊目、論文の書き方で書き方の型がひらがなになっているところがちょっとポイントで、著者が佐藤賢治さんという社会学者の方なんですけども、この社会学者の方が論文の書き方を語るという本なんですけど、
まず特徴的なのが、そこまでプラクティカルなものではないというか、スキルとか技術にフォーカスして、この絵さえ読めば論文というのが1冊仕上げられますよという、例えば審判大学生のためのレポート論文術のような本が、さっきそのようなプラクティカルな本ですけど、
そういうのとかなり違っていて、むしろ論文とは何なのかという論考が展開されているというのが特徴で、しかも論文論、論文についての論が展開されているのが特徴で、文章をどう書くかレベルの話はほとんどなされていません。
あー、すごい初歩的な話でデスマスとデアルを混ぜないようにしましょうとかっていう、そういうテクニックっていうか、心得は何もない。
そう、用紙はこの用紙にしなさいとか、一行目地下記はどうするかみたいなテクニカルな話はもう一切ない。だから、今例えば自分が大学生で何かしらの論文を書かなければならないって時に、この本を読んでももう遅いというか、
この本はそういう役に立つ本ではなくて、そもそも論文を書くとはどういうことなのかという入り口に立つための本であるというのがまず特徴が一つ。さっき言った論文とは何かを論じているわけですけど、当然のように著者は社会学者、特に歴史社会学というアプローチを取られていますが、歴史社会学的な観点から論文を書くということを考えていくという本になっています。
ドストレートなターゲットの人はめっちゃ少ないってことなんですね。
そうですね。ただし、この本を読むことで社会歴史学者の思考法とかまなざしっていうのがわかる。
研究を進めている時にどういう観点とかどういう思考法を持ってこの人は研究を展開していくのかということがかなり実際的なレベルで明らかにされていて、そういう意味で研究の進め方として役立つ本で、研究を進めた結果書かれるのが論文なわけですから、論文を書くときに前段階の研究の思考法みたいなのを学べる本だと思った方がいいと思います。
基本的にそのトピックが論文を書くことに関する思考なので論考なので、むしろその論文を書くことに関して付随するもろもろトピックが本書は面白いんですけど。
よくある論文の形として何々について講義園で調べてみるとっていう書き出しで始まっている論文は大抵うまくいってないということを書いてるんですけど。
辞書を引いてほにゃららって書いてあると。書いてあってなんとなくわかった気がしてしまう。
で、そうなって理解がその段階で止まってしまうものは全然論文としては面白さがないというか魅力がないものになっていると。
ここで著者が言いたいのは辞書を引くなということじゃなくて辞書をどう使うかという話なんですけど、辞書って言ったら一応標準的公平的一番丸い。
一番多数がそう解釈している。
いるような言葉で、つまり意味の動心園っていうのを描いたときに一番大きい園のところを語るわけですね。
それは別に間違ってはいないんですけど。その局地がそのwikipediaで、wikipediaって論文で引くとただ一文でまとめられてるんですよ。
論文とは学問の研究成果などのあるテーマについて論理的な手法で書き記した文章と。
文だけ読めばまあそうやな。
とても分かりやすい。
でもそれ以上にいけない。
このwikipediaと対比で辞書を引いたときに2つの文で構成されているんです。2つの意味で構成されている。
1が議論する文。理義を論事極める文。論策を記した文。
2つ目の意味が研究の業績や結果を書き記した文。
この2つの意味が丸まった意味がさっきwikipediaの説明として出てくる文。
まあそれはそうやなと思うんですけど。
著者はここに歴史を見るんですね。
おー。言語の変遷があったこと。
そう。つまり1の意味で最初使われたけどだんだんそれが広がったりとか応用されるようになって2の文が出てきたと。
1と2っていうのは分かれてるっていうのは当然意味の違いもあるとともに言葉の変歴もあると。
だからこういう風に辞書を僕は見たことがなかったので。
これが歴史的なものの見方やなっていう風に。
歴史社会学者的な。
っていう的な見方やなっていうのが。
だからこの段階で論文の書き方とかいう別の問題として、社会学的な視点の面白さがこの本の魅力としてあるわけですね。
そういう風に辞書をこのように使ったらいいと。
その起点として引くのはいいけど。
むしろそれは答えではなくてむしろ考える手がかりとして使うのがよろしかろうということで。
辞書の使い方を示しながらこの論文とは何かが論行されていくんですけど。
一応著者が定義する3つの条件があって。
1つ目が論と文の組み合わせであると。
論文ですからね。論と文の組み合わせである。
2つ目が問いが明確に提示されそれに対する答えの案の是非が検討されている文。
ここはだいたいさっきの1つ目と2つ目の意味が近いんですけど。
3つ目、これは公示に載っていない。他者によって審査される文章であると。
論文というのは当然どこかに提出してOKをもらったり否定されるということが起こり得る
ある種の公共的な活動であるということが先ほども出てきた辞書ではあまり見えてこないんだなというところを補足して
この3つの条件に整えるというプロセスがこの第一章で論じられている。
つまり辞書を引いて辞書から考えたこととか足りないことを埋めて
著者なりの論文という形式を整えるところがこの第一段階。
もうだからね、この知的操作が面白いんですよ。
論文とは何かをただドグマ的に定義してこうであるって話をするんじゃなくて
ここに至るまでの論考を結構細かく提示していくっていうこの話の流れが面白いと思われたら
この本は論文書かなくても絶対面白いと思います。
ちなみに日本国語大辞典という辞書が歴史社会学的な観点でちゃんと語義を歴史を追って時系列に並べてくれてるんですよね。
そういう意味で言うとその日国と呼ばれるやつとかは結構面白いかもです。
今、もの書き堂の生鮮版日国で論文調べると
議論する文という言葉はおそらく1868年の万国広報という
義の文帝が書いた言葉を西山根さんが翻訳して書いていて
学術的な研究の業績や結果というのは法治新聞で明治39年1906年におそらく初出であろうというのが書かれていました。
実際この順番で言葉の意味が広がってきたってことね。
そうですね。さらに言うとその間実は40年ぐらいしかない。
逆に言うと翻訳されるまで議論というような議論するとかっていう語義は日本にはなかった。
議論はあったんじゃないかな。論文がなかったんじゃないかな。
論文がなかったのか。
多分。
そうかもしれない。
同じく議論で言えば1477年に出てきてますね。
四季の名訳に出てきてるのか。
それまでは別の言い方。対等の立場である論説を交わし合うということはあんまりなかったかもしれないね。
熟語が高度すぎて文字として出てこないとダメなので結局記録に残らないとベースにはならないから
最初に記録として文章として残ってきたのが1477だし、さらに言うと四季の名訳なので
しばせんの四季の時代にはもう議論という言葉は中国語では書かれていた。
ある程度の学術的な研究をしている人の中で行われる会話というような感じがするから
そういう人たちが少なくとも存在した社会でないと生まれないでしょうね。
そうですね。さらにそれが書き残されないといけない。
こんな風に論文とか議論とか言葉一つ取っても当たり前に考えてるようだけど
意味が変化してきてる。歴史があるということ自体の見方が面白いですね。
そこで論文がまず言葉が検討されて、最初に出てきた論と文の組み合わせであるという
僕最初の時何を当たり前のことを言ってるかと思ったんですけど
何を当たり前のことだって思うね。
でもこれが第二章、論と文の結合というところでより深掘りされるわけですけど
まず論文ではないものから考えるということで
論文というのは手紙や日記とは違う。何が違うかというと
宛先となる他者の形式が違う。ここも難しい表現ですけど
誰が読むのかが想定されているのが違うということで
手紙は他の送り主が読むこと。日記は主に自分が読むことが想定されているわけですけど
論文の読み手っていうのは具体的な他者ではない。存在する他者ではなくて
想像された虚構の公共的な他者なんですけど
要するにこの社会に存在してその問題に興味を持っている人たちの
イマジナリーなグループが読むことが想定されている。
だからこれそのイマジナリーな他者、具体的な他者じゃないから
論文の文体が決定されているという話があって
これは以前紹介したかな。日本語からの哲学。
なぜデスマスで論文を書いていらないかという問題にちょっと絡まってきます。
その論文という文章の中でどんな言葉の実践が行われているかというと
当然その論ですね。
論という言葉が筋道を立てて述べる。ことの利比を主張するというものの述べ方。
今は論文と呼ばれていますが、かつては議論文とか論説文
論説文は確かに来ていますね。とか呼ばれていたと。
だからその論文ということは議論文論説文で
その論文のその論というところに注目すると
一つの問題に対していろんな説の
これは良いとか間違っているとかこの部分が正しいとかというところを
検討することが行われている。その論理的な構築というのと
順番に筋を立てて話を聞いた人が理解できるように
自分が今度正しいという主張をすることという
その名責に語るというこの2つが含まれているということが
その論という言葉からまずわかると。
次の文なんですね。論文は当然文なんですけど