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2023-05-09 58:19

BC063 『再読こそが創造的な読書術である』

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今回は、永田希さんの『再読こそが創造的な読書術である』を取り上げます。

書誌情報

* 著者

* 永田希ながた・のぞみ

* 著述家、書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」主宰。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)。

* 出版社

* 筑摩書房

* 出版日

* 2023/3/20

* 目次

* 第一章 再読で「自分の時間」を生きる

* 第二章 本を読むことは困難である

* 第三章 ネットワークとテラフォーミング

* 第四章 再読だけが創造的な読書術である

* 第五章 創造的になることは孤独になることである

倉下のScrapboxメモ

ネットワークとテラフォーミング

本書で語られる内容をごく端的に、しかも自己啓発的に言えば「再読することで自分を作ろう」という話ですが、これではあまりにも乱暴すぎるでしょう。本書ではもっと繊細なメッセージが綴られています。

まず、現代を生きる私たちは情報の濁流に飲み込まれやすい環境にあります。これは単に情報の量が多いだけではなく、人の注意を惹きつけ、ある行動へと動員させる力を持った情報に取り囲まれている、ということです。メディアはメッセージでもありマッサージでもあるので、一つの方向に過剰に力がかかっている状態だと言えるでしょう。

すると自分がどんな方向に進みたいのか、といった認識がかき乱されます。にもかかわらず、どこかに向かって進んでしまうのですから非常に厄介な状態だと言えるでしょう。結果、「自分が求めているのはこういうことではなかった」という残念感が生じます。「自分の時間」を消失した状態です。

そうなると、その「自分の時間」を回復させることが急務だと感じられるようになるわけですが、注意したいのは「さあ、自分の時間を回復しましょう」というメッセージもまたマッサージになり、人を誘因してしまうことです。妙なたとえになりますが、独裁をふるう王様を退場させて、別の独裁する王様を据えたのと同じなのです。「民主主義」のようなそれまでとはまったく違うプロセスが確立されたわけではありません。大雑把に言えば別に何も変わっていないのです。

倉下の印象ですが、本書ではそうしたメッセージの取り扱いが非常に慎重に行われています。著者は大切なことを伝えようとしているが、しかしそれを「通りの良い形」ではなく、何か別種の変換を通さないと受容できないような形で伝えている。そんな印象です。

で、本題に戻るとそうした「自分の時間」の回復のために再読という営みが一定の役割を果たすことが語られるわけですが、ポイントは本書において創造がゼロからのクリエーションではなく既存の要素の再配置として位置づけられている点です。

再びよくある自己啓発的メッセージでは「明日から本当の自分の人生を生きる」的なことが語られていて、あたかもそこでは今までの自分とまったく自分がクリエーションされる雰囲気があるわけですが、もちろんそんな魔法のようなことが簡単に実現するわけではありません。できることは、今の自分を少しだけ変えていくことだけです。「今の自分」を捨てることなく、時間をかけて変化させていくこと。

「自分の時間」を回復させるとは、そのようなプロセスを受容することでしょう。つまり、まったく新しい「自分」の創造に駆り立てられるのではなく、今そこにある「自分」について知り、新しいものを取り込んで、少しばかりの差異を生じさせること。その結果を吟味し気に入ったら採用し、そうでなければ抑制する。そうした行為全体に時間を使っていくこと。それこそが「自分の時間」の回復であり、情報の濁流に対して別の軸を立てるために必要なことだと感じます。

一冊の本は誰かが書いたものであり、その本を読む行為は──直接的ではないにせよ──その著者との対話を試みている営みだと言えます。しかし一方では、その本のどこにも「著者」なる存在はいません。書かれた文章を読み取り(≒読み解き)、メッセージをくみ出すのは読者その人です。よって、本を読むことは半分では著者との対話でありながら、もう半分では自分自身との対話でもあるのです。

だからこそ、本を読むこと、読み込んでいくことは自分を知ることにつながり、自分を「創造」することにつながります。

と、すでに倉下バイアスでかなり強めのメッセージに置き換えられていますが、きっと皆さんが本書を読んだ印象はまた違ったものになるでしょう。そう、その差異こそが「自分」の源泉なのです。



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採読とは何か
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第63回の本日は、「再読だけが創造的な読書術である」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
今回は一応、クラスターのターンということではあるんですが、goryugoさんも読まれたということで、本の概要をおさらいながら、この本について書かれたことを考えていこうかなと、今のところは考えております。
はい、前回も軽く話したかもしれないんですけど、この本に読書スランプという言葉が出てきていて、ちょうどこの本を読んでいる真っ最中というのが、自分がブックカタリスト初めて以来の読書スランプだったのではないかっていうような思いもあったりする、思い出深い本ですね。
非常にタイミングがいい感じの読書だったかもしれないね、そうすると。
一応本の内容なんですが、完全な続編というわけではないんですけども、位置付け的には同じ著者のつんどくこそが完全な読書術であるというのが、1冊目。
この本が2冊目というふうに位置付けることはできると思います。
出版社変わってるけど、編集者さんも同じって言っていたし、そこにも触れているんで、ほとんどの人は続編だと考えるでしょうね。
そうですね。基本的に本っていうのは著者と編集者で作るので、編集者が出版社を変わると出る本の続きが別の出版社が出るっていうことは結構ありまして。
ただ、完全な続編化っていうと、そこまで強いものでもなくて、この本だけ取り上げて読むことも一応可能にはなっている。
そのままちょっと重複するような内容もあるんですが、個人的にはそれを踏まえた上で、やっぱり両方読んだほうがいいかなとは思います。
ちなみに、1冊目のつんどっこそが完全な特集つつであるは、僕方室第33回で取り上げておりますので、興味があればそっちの回もチェックしてください。
30回前ってことは、半年以上ですね。
25回ぐらいが半年。違うわ、1年だ。
そうか、だいたいそういうことですね。
52週あって26回やっているはずなので。
だいたいちょうど1年前に取り上げた本の続編を取り上げるというのも、僕方室で初めての試みなので、33回と63回はリンクしているぞということだけ念頭においていただければと。
あれですね、読書のポッドキャストで読書について語る本について語るっていう、この多重構造。
そうですね、でも避けられないというか、むしろそれこそが面白いんではないかなと思うんですけども。
一応初心情報だけさらっておくと、出版社が前はイースト・プレスだったかな。
今回はちくま書房になっております。
一応章立てが1章から5章までありまして、それぞれの章は後で紹介していくんですけども、
全体として大きなキーワードが2つありまして、
1つがネットワークというもの、もう1つがテラフォーミングというもので、
校舎はちょっとなじみがない言葉かもしれませんが、この2つの軸で採読について考えていくという内容なんですけど、
ここでいう採読とは何かっていうのが、たぶん本書の一番のキーだと思うんですけど、
採読とはゆえ、実際でもこれは本を読むという行為そのものだと僕は思うんですよね。
採読というものが。
そうも言える。読書っていう一つの大きな集合があって、その部分集合である採読について述べるというようなものではなくて、
採読って呼ばれてるけど、そこで著者が謎してるものは、むしろ本を読む、読書するっていう行為全体であろうと。
大体その丸が同じ丸ってことですね。
だから採読の本やからどうこうというよりは、実はこの本は本を読むっていうのはどういうことだろうっていうのを、
採読というキーワードを使いながら考えている本であろうという僕の印象ですね。
あとあれですね、ネットワークという言葉で思ったのが、ちょうど前回の習慣の話ともものすごくつながっているというか、
脳内のネットワークが強固になっていくっていうのが習慣が作られるみたいなやつで、読書もそこに何かなぞられていろいろ書かれてましたよね。
そうですね。結構、読書本を読むっていうこととネットワークっていうのは、神話性があるというか親近感があるんですけど、
テラフォーミングっていうキーワードはあんまり親近感がないというか、
例えばこの本が出る以前に、世の中に存在する本に関するキーワードのベクトルを探したときに、
テラフォーミングっていうキーワードはあんまり出てこないと思うんですよ。
まあ、少なくとも俺の知識では一回も出てきたことないから、宇宙の話の時にしか出てこない。
だから、そこら辺がこの本の面白いところ、著者の遊び心でもあるんでしょうけど、新しいところと思います。
本のキーワード
逆になんですけど、一冊目の積読本っていうのは、一般的な視点で言うと積読ってあんまり良くないことのように思われてますよね。
買うだけかって呼んでないっていう、ある種の怠惰とかっていうふうに捉えてるものを、実はそうじゃないんだよって、
ひっくり返したところに、一冊目の本の面白さっていうか、その手つきの鮮やかさが魅力だったと思うんですけど、
採読がいいよって、結構一般常識とまでは言いませんけど、本をもう一回読んだ方がいいっていうのは、
読書が好きな人は結構知ってるし、読書をあんまりしない人でも、本ってもう一回読んだ方がいいよねっていうことは知ってたような気がするんですよ。
たとえば、ゴルゴさんはかなり本読みやからあれですけど、ここまで本格的に本を読む前でも、多分本は2回以上読んだ方がいいだろうなって思ってたんじゃないですか。
イメージとしてはわかるかな。言われて、簡単に同意できる、納得できる感じはする。
なので、本書も採読に注目があって、採読がいいよと言ってるんで、一冊目のようなとんでも感、ひっくり返した感、茶舞台がひっくり返された感っていうのが、僕はちょっと薄かったかなという印象があります。
一応あれかな、タイトルで言う、採読が創造的であるっていうところに、おそらくつんどく的な新しさがあるんじゃないかなって感じはしますね。タイトルで言うと。
そうですね。期待ができるとしたら、もう一回読んでるっていう、リ、テイクのリっていう部分なのに、クリエーションっていうゼロ柄の創造っていう、この結びつきが多分新しい品揃えというか、メニュー感でしょうが。
僕としては、テラフォーミングっていうキーワードを持ってきたところの方が、ちょっと斬新な感じはありました。
そうですね。テラフォーミングという言葉は、この本の説明を読んで、お、すげえな、上手だな、このいい概念の持ってき方だなっていうのはすげえ思いましたね。
その説明も本文の中でされてるんで、読んでいったらわかると思うんですが、一応内容をざっと追いかけていくと。
採得による自己管理
第一章が、採得で自分の時間、これ書きカッコついてますけど、自分の時間を生きるという内容。
ここでまた、セルフケアっていう、このケアっていう言葉も、最近のこの手の人文界隈で、ライトな人文界隈で結構人気の言葉なんですけど、ケアっていう言葉。
で、そのセルフケアとして採得をするということがどういうことかというのが語られていると。
で、モモっていう小説が紹介されるんですけど、僕たちが、モモの世界の住人のように自分の時間っていうのを失いつつあると。
で、それってあんまり良くないよねということで、それをどうやったら自分の時間を回復させられるかっていうところで、採得っていうものがいいよということが語られると。
で、どうでしたかね、ゴリゴさん。この第一章、説得的でした?納得できましたかね。
えーっとね、なんて言うんだろうかな。結果として面白かったという結論は言えるんですけど、納得的っていうのと違うな。
なんて言うんだろうな。良い、良くも悪くも論文っぽくない構造をしていて、すごく困難だった。理解をするのが。
これちょっとね、そうそう、話が真っ直ぐ進んでいくわけではない感じの文章なので、結構ね、一章読み終わった時に、個々の部分はわかるけど、全体としてスッて落ちるかっていうと、そうでもないなというところが、僕の第一、ファーストインプレッション、ファースト読書の感触で。
で、積読本、前回の1冊目の本って、僕の中でもっとすっきりストレートまっすぐに読めるタイプの本として書かれていた印象があったんで、この段階でもだいぶ違うなというのをちょっと読みながら思ってました。
そうですね。単純にね、やっぱその積読の本がレベル1だとしたらね、レベル3から5ぐらいの難しさだったような印象はあるかも。
1から2とかじゃなくて、ちょっと3いってるような感じもあって、その意図的にそうしてたのか、結果的にそうなったのかはわからないですけど、難易度の心構えとしてはちょっと難しいかもよということを感じさせるのが第一章でしたね。
内容的には、僕らがたくさんの情報にさらされていて、それが禅書では情報の濁流という言葉で表現されてるんですけど、そういう中で自分の関心事とかがわからなくなって、流行りしたりについ乗っかっていく状況になっていくと。
そこで禅書では、積読という壁を作り、その中に自分自身の環境を作っていこうということで、ビオトープという言葉が、このビオトープという言葉は見事な選択でしたが、を作っていこうと。
そのビオトープを作っていくという、単に設置するだけじゃなくて、そのビオトープをより良いもの、より適したものに変えていこうというのが、その採読の試みとして位置付けられるだろうということだと思います。
本を読む上での困難
第2章が、本を読むことは困難であると。結構トピックが飛ぶわけですけど、僕が読んでて一番、ああそうだなと。あるいは、ああそういうことだったのかと感じたのが、この章で。
本を読むことが難しいと、簡単なことではないというのが、2種類のタイプの困難として説明されてます。1つ目の困難というのは、書いてあることが理解できないとか、あるいはその悪空であるとか、その行為に対しての見返りが不確定やから、ついついそれが気になって読書ができないとか。
これは直感的な困難と書かれてるんですけど、そういう困難があると本ってなかなか読み進められない。読むのが手に取ることがなかなかできないよねと語られてるんですが、この本の説明を読んで、ああ確かになと思ったのは、僕もそのような経験を結構してたはずなんですよね。
うまく本に手が伸びないというか、あるいは数行読んで止まってしまうとかっていうことが、結構普通にあるんですけど、それを困難と感じたことが今までなかったんですよね。どうしてるかっていうと、そんなときは別にすぐページを閉じるわけですね。読み始めて読めなかったらページを閉じるとか、別の本に移動するとかっていう。
困難そのものがなくなってるわけじゃなくて、その困難に対する対処法を長い読書経験の間で身につけてきたと。
だから、例えば読書家の人って本があったら手に取ってペラペラ最後まで通して読めるかっていうと、そんなわけは全然なくて、小さい箇所箇所の困難があるんですけど、その困難をスルーする技術、技能を身につけているから、この本書で言うと読書スランプっていう状況にまで至らない。
困難は経験するけど、そこがどん詰まりになって穴にはまらない。もっと軽やかに穴を回避しながら読んでいく術を身につけているなと自覚的に反省的に思って。で、本を読むのが得意な人ってきっとこういうことなんだろうなというのがしみじみと理解した感じですね。
本を読むのが苦手な人は読めない状況に陥ったときに、どうしていいかわからなくなってしまう。
そういう感じだと思う。だから、たぶんどんな人でも、困難を感じる本に出会ったりとか、困難を感じるシチュエーションにぶつかることはあって、そういうときは読めないわけですね。読めないもんやっていう認知がある。認識があるから、それほどこだわらない。
で、時間を置いて読んだりとか、やり過ごしたりとか、別の本に移動したりして乗り越えていくと。これは慣れで、技能的な慣れで越えられるけど、もう一個別の種類の困難。さっきのがいわゆるシンプルな形の困難でした。もう一個複雑な形の困難っていうのがあって、著者が言うにはそれは、著者が意図的にそんなに簡単には読み解けないぞという形で書いている本。
これは表現的な困難っていう言い方されてますけど、これはまあそれは著者がそう書いてるんだから、どうしようもないよねということで、それは例えば再読をすること、何回か読み直すことでその困難を解きほぐしたりすることができるよと説明されているのが第一章です。
この後半の部分が本書のテーマの再読につながっているというところなんですが、僕はどちらかというと前半の直感的簡単な困難って確かにあるあるだよなというのをかなり強く確認させてもらいましたね。
再読ほぼなし
今の話を聞いてちょっと思い出した的な感じなんですけど、やっぱりまずここでね、あれ、再読どこ行ったん?って思いながら読んでいた気がする。
一生はね、結構わかりやすかったんですよね。ストレートに再読とちゃんとつながっていたんだけど、そういえばここ、再読の話ほぼほぼなかったなあ。そこにすごい辛さを感じたというかね、わからん感じがしていたような気がする。
たぶん俺は意図的にそうされてるんだろうな、あるいはそうなってしまったことものをあえてわかりやすい形に直さなかったという判断が下されてるなと思うんですけど、つまりこの本を読んでいる中でもその困難が発生する。しかもおそらく校舎の困難が発生するようにどうもなってるよなというのをちょっと節々に感じますね、これは。
たぶんなんですけど、再読してほしくてすっげー難しくしてますよね。わかりにくくっていうのかな。
すごいというほどではないと思う。著者はもっと難しくすることができるから、やっぱり加減を見ての難しさだと思う。おそらく長澤さんももっと難しくしようと思えばいくらでもできるけど、普通に読むより少し難しいぐらいのとこに落とし込んでるような印象を受けました。
この2から3ぐらいを読んでいるときに、この本を再読させ、再読の本を再読させることを目的とした本なんだなっていう印象をすごい感じて。わからんくっても飛ばしてもいいかなっていうようなことも思ったし。
はいはい。まさにね、まさにそういうことなんですね。そう、まさにそういうことで。もうちょっと話がいきなりずれますけど、ずれないか。例えばですけど、この前、習慣と脳の科学の本を2人読んだって話をしましたよね。
で、ゴリラさん、コラムで出てくる神経科学の難しい実験どこで止まった?みたいな話して、僕は結構飛ばしながら読みましたっていうふうに言ったんですけど。おそらくそこなんですね、結局。本を読み慣れてる人は、わからない部分に出会ったときに、速度を下げるんじゃなくて速度を上げるんですね。
で、ここはわからないとして読み飛ばしてしまうことを自分に許可している。で、本はうまく読めないっていう人は、むしろギアを下げてしまうんですね。で、なんとかそこを理解しようとしてしまう。当然それはもう非常に苦しいストレスフルな体験なので、それを続けていくと、どんどん読書って苦痛なものになってしまう。
そこの読解力があるかないかっていう以前に、わからんとこは飛ばそうっていうことが自然に思えるようになっているかどうかが、読書慣れしているかどうかの差。読書が日常的になっているかどうかの差ではないかなと。前回の話をしながら、こういうことかと思いながら聞いてましたけど。
ちょうどあれなんですよね。この本の1章のところで、読み捨ては悪ではないっていう言い方をしていて、わからない部分は飛ばしてもいいし、間違えててもいいし、また次に読めばいいって考えて、読み捨てないと結局、再読する本に出会えないみたいな言い方をしていたのかな。
再読するべき本、本書の第1章のテーマを一応細かく紹介すると、本っていうのは再読したほうがいいし、再読に値する本を読み返すのがいいけども、そもそもどんな本を再読したらいいのかはわからないから、いろんな本を手当たり次第読み捨てていくと。その中で出会ったこれやという本を再読していくのが良い。
だから2つの手段。いろいろ乱読して、これっていう本を見つけるルートと、その見つけた本でこれっていうものを再読していくっていう、この2つの原理性を使って読書したらいいんじゃないかっていうことが提案されているんですけど、やっぱり再読することを許容すると、さっき言ったように読み飛ばせるようになるんですね。
まあ、今はわからなくていいかが、今はわからなくていいかに変わる。
ああ、それはわかりやすい良い言葉ですね。
こうなると読書ってかなり軽やかに進められるようになるんですね。で、最初に言ったこの本は再読について扱ってると言ったけど、読書について扱ってるって言ったのはそういうことなんですね。
基本的に本読みの人っていうのは、この本を1回読んでもう理解しようっていう心持ちじゃ多分ないんですね。で、そもそも本を買って家に置いてる時点で、2回以上読める権利を買ってるというか。
例えば図書館で1週間か何回読めない場合は、その趣旨で読み切らなあかんっていうタスクになってしまうわけですけど。買っただけでいつか読めたらいいかっていう積読と、1回読んで読めなくてもまた理解できる時に読み直せばいいのかっていう、この積読と再読って実は読書っていう大きな行為のプロセスに含まれてるんですね、実は。
だから、本を読むっていう言い方をすると日本語で言うと、その本が単数なのか複数なのかは見えないですけど、実際読書って一冊の本を読むことじゃないと思うんですよ。その本を読み続けていくっていう流れ。
本を読む vs ブックスを読む
あれですね、プロジェクトじゃなくてエリアだっていうやつですね。 かもしれん、そうかもしれん。プロジェクトは終わりがあるけどエリアはない。エリアがないからその本をいつ読むのかとか、読み終えるとか、1回読んだら終わりとかっていう概念からは遠ざかって、とりあえず買って本棚に置いとくと。
読みたくなったら読んで、わからなかったら戻してまた読むみたいなこと、行為そのもの全体が読書っていうことなのではないかと。この本の話からちょっと外れますけど、僕は読みながらそういうことを感じておりました。
一般的に本を読むっていうと、この再読とは再読だけが創造的な読書術であるという本を独領するという1プロジェクトになってしまうけれども、そうではなくて、たくさんの本を読み続けるという常にコミットし続ける存在で、その中に再読を一度読むという行為が入ってくる。
っていう感じで、おそらくそういう射程で本書と全書っていうのは位置づけられるんじゃないかなと。だから本を読むんじゃなくて本本を読む、複数形、ブックスを読む、あるいは読み続けるっていう行為に再配置できるんじゃないですかね。この2冊の本を読むと。
そうだな。そういえばなんですけど、この本をちょうど読んだか読み終えないかぐらいに読書の仕方を変えていて、割と。このブックカタリストで本を紹介するようになってから、読みながらメモを書くというのを基本手段にしていたんですよね。
それはファーストリーディングの段階からってことね。
ウィズファーストリーディングでライティングをしていた。週刊等々の科学とこの本を多分同時ぐらいに読み進めていたんですけれども、どっちも困難すぎて、それを一回諦めたんですよね。まずとりあえず一番後ろまで読んでみよう。
もう一回読みながら読書メモを書いてみようっていう風にやってみたら、総書用時間はちょっと不明なんだけれども、より分かった。間違いなく分かったと言える。あと気分的にあまり苦労せずに分かれた。
そうでしょうね。それは分かります。
っていうのがあって、それはやっぱり2回目だから強弱をつけやすくなったっていうのかな、読み方の。
まあそれはそうだと思います。
ここは1回目読んだから飛ばしていいところでみたいなこともできたりして、短期間での再読だと。そういう点でもちょうどその転機となった本とも言えるのかなと思いました。
まあある意味その多分1冊目の本もゴリゴさんの読書感を多分揺るがした本やったと印象していますけど、この本も何らかの形で結構な影響を与えている。
そうですね。だから直接的な影響というよりも、そこから得られたメタな影響の方がでかいかもしれないけど。
この本って、全長について読書術って書いてあって、まあ確かに術っぽいことは書かれてるんですけど、むしろ読書論ですよね、この本は。
うーん、なんていうんだろう、ビジネス書的な要素はないとは言わんけど、ほぼないですね。
そうですね。細かいティップスはもちろん出てきますけど、やっぱりもっと大きい度胸の話をされてますね、この本の中では。
だからよりあれなのか、大きく変えるというのか、根本的なところ。これを真似しようとかそういうものではない影響の与え方をしてくるというか。
読書におけるネットワークとテラフォーミング
確かに。次、だいぶ2章で膨らんだんですけど、第3章が中心的なネットワークとテラフォーミングということで、ネットワークに関して言えば、もう少なくとも僕の中で説明する必要のないことで、一冊の本は複数の本と繋がっているっていうことはもう自明じゃないかな。
その方が読書が面白い。そう考えた方が。
実際僕が一冊本を書くのにも、参考文献という本が課末にリンクとされているわけですよね。完全に網目のネットワークがあって、それぞれの本にもその本を書く上で参考になった本というのがあって、それをマップにしたらすごいことになると。
それは本という一つのオブジェクトについても言えることですけど、本の中身についても、いわばその一つ一つのトピックがオブジェクトとなって、その本の中に存在する他のトピックとネットワーク関係を形成している。だから、再起的な構造がそこにはあるし、これは本という外側の情報について言えることと同じように自分がそれを読んで得た知識についてもネットワークがある。
このネットワークがあるというのは、勉強法とかでも散々言及しているので、いちいち言いませんけど、この外側にあるたくさんのネットワーク、内側にあるたくさんのネットワークっていうものを、ネットワークを成長させるというのか変化させるというのかよくわからないですが、読書という意味ではそのネットワークに作用を与えることだということは、特段新しい話ではないんですけど、後半ですよね、テラフォーミング。
テラフォーミングというのを一つのキーワードと挙げていまして、SF好きならほぼ知っているキーワードだと思うんですけど、テラというのは地球ということで、地球にフォームする、形作るということで、火星のテラフォーミングとかがよくあるキーワードで、要するに簡単に言うと、人類が住めるようにしようということですね。
地球じゃない星を人類が生活できるような環境に変えていこうという行為を指すというのかな、結果でもある。
テラフォーミングされたということを、一応動詞でしょうね、テラフォーム、テラフォームドっていうのかな、された環境っていうのは。これ、例えば地球の近くにコロニーを作ってそこに住もうっていうところはテラフォーミングとは言わないわけですね。それはゼロからの構築なので。
テラフォーミングで意図されているのは、そこにもともと何かがあると。環境っていうのがあると。しかしその環境はもともと人類に適したものではないから、その人類に適した環境に変更しよう、変化させようと。ゼロからのクリエーションというよりは、英語でこれ何て言うかわからないんですけど、変化、チェンジじゃないよ。チェンジだとなんか弱い気がするけど。変更しようという試みがテラフォーミングだと。
本書でいう、再読することによって起こるテラフォーミングっていうのは、ここは本書で語られる、何をテラフォームしているのかがわからないんですけど、本書では多分明確されてないですけど、おそらく自分の中にある知識とか認識とか世界観の感じをテラフォームするということだと思います。
これは、例えば外側にある本をテラフォームすることができないですし、本のネットワークを書き換えることができないし、本の中身を書き換えることができないと。僕らが書き換えられるのは、自分がその本をどう解釈するのかとか、あるいはその得た知識をどう組み換えるのかということだけが操作の対象なので。
だから、おそらくその本とかを読んで、自分が生きていける、生き延びられる、快適に生きられるような世界観、世界というよりは世界観のネットワークを再編しましょうという意味というか、そういうふうに僕は解釈しました。
同じくそんなイメージですね。自分というものがこの世界でよりうまいこと生きていけるように本を使おうというイメージかな。
そういう感じかな。そこまで直接的には書かれてなくて、何をどうテラホミングという言葉のイメージが語られているだけなんです。そこは読者がどう受け取るかなんですけど、僕はそんなふうに読みまして。
読書姿勢と性について
第3章で2つのキーワードの狭間に、フラットに読むという技法じゃないか、姿勢かな。姿勢、スタイルが語られていまして。ここがね、ちょっと難しかったですね。
おだしょー 俺の読書メモには書かれていないから、多分印象に残らんかったか飛ばしたかどっちかですね。そのキーワードみたいなやつ。
おだしょー 激しい性っていうのが出てきまして、資本主義社会においては消費を駆動するかのように、性に激しさが求められていると。僕らはそれについつい乗っかってしまって、ある種テラフォームからはほど遠いような環境に置かれてしまうと。
一作目に引き付けていくと、情報の濁流っていうのは激しい性に晒されているということだと思うんですね。結局、モッドな感じになってしまう。モッドと情報を求めてしまうと。
この本もそうですし、前の本も多少そういうところはあるんですけど、例えば、つんどくがいいですよと。つんどくが効果がありますと。だから、もっと本を買いましょうって言うと、それ自身が一つの情報の濁流になりかねないわけですね。
採読も一緒で、採読がいいですよって言ってストレートに、つまりビジネス書風に褒めてしまうと、結局それも情報の濁流の一部になってしまうっていう、たぶんジレンマがあって。だから、ストレートに書いて市場に乗っけてしまう危うさみたいなのを、著者は危惧してるんじゃないかなとはちょっと思ったんですが。
一つの対策として語られている、濁流的な情報に対してフラットに読む。フラットに読むっていうのは、フラットって真ん中中央っていうことですけど、一つの極が激しい声に晒されるってことですね。モッドモッドという気持ちで読む。逆側、片方をプラスと言ったらマイナス側は、つまり虚無。何も受け取らない。そんなのは無視。
あるいは、下に構えてこけおろすみたいな態度だと思うんですけど、それがマイナスとしたら、その間にある位置で読むのがよろしかろうと。読むのがよろしかろうということにも、僕はちょっと同意しかねるんですけど。同意したとしても、どうしたらそう読めるのかっていうのが、ちょっとイメージがつきにくいなと思ったんですよ。
3回も再読したら、それだけでフラットになるかっていうと、たぶんそうでもなくて、おそらく普通にフラットに読むと偏見みたいなのが強まってしまうっていうことは本書でも書かれてて、後半でおそらくフラットに読むヒントみたいなのが提示はされるんですが、3章を読んだ時にフラットに読むって言われても、もう一方、イメージが湧ききらなかったなっていう点はありました。
で、フラットに読むことが本当にいいことなのかについても、ちょっと個人的にそうではない可能性っていうのを読みながら思いまして、つまり僕の体験じゃなくて本を読みながら思ったんですけど、本の中にあるエピソードで、僕ら現代で生きてて、プラトンが書いたソグラテスの像っていうのを読み聞くことができるわけですよね。
で、プラトンの師匠である人は、書き言葉をあんまり信用してなかった人なわけですよ。でもそれに逆らってプラトンが書いたわけですよね。で、彼の中に激しさはあったんじゃないかと思うんです。
その資本主義に駆動されていない形でしろ、ある種の高い熱量、常時には持ち得ないような激しさってたぶんあったんじゃないかなと思うんですね。で、そうしてプラトンが書いた本を、その何世紀か後に原稿を見つけてきて出版に載せた人もいるわけですよね、誰か、個人的な人が。で、その人も絶対ある種の激しさに駆動されてて、しかもそこにはほんのり資本主義の駆動力もあったと思うんですよ。
だとしたら激しい性を取り払ってしまうと、意図しない形でマイナス方に動いてしまいかねないかなとちょっと思ったんです。
俺個人的に読んだ印象なんですけど、フラットに読めということを言っているというよりは、激しさとフラットのバランスを取るしかなくて、結局どっちがいいとかじゃなくて、極端に触れたらあかんぞみたいな風に書いてあったっていう印象なんですけど。
フラットがいいとまでは書かれてないと思うんですけど、フラットに読むって言った時に自分の中にある熱量みたいなのが読んだ時に湧いてきたとして、どう扱えばいいんだろうなというのを思ったわけですね。
そこにね。
激しさとフラットのバランス
フラットさをどう捉えたらいいのかが、ちょっと読みながらわからなかった点ではありますね。
俺はね、とにかく勝手にやるっていうところに赤線とかが引いてあって、より良いということ自体も強さや激しさの尺度なので、より良い方法を求めるんではなく、バランスを取って結局最終的な答えで言うと、好きなようにやれっていう身も蓋もないことになってしまうんですけど。
激しさの、あれやうさを知り、ストア派のような何もない平穏であることが書いてあるということを知り、なおかつその上で両方のバランスを取って、そのバランスというのはもう自分で勝手に決めるしかないみたいに書いてあったっていうふうに理解していました。
だからゴルゴさんの理解で言うと、例えばその両局を知った上で、最終的に自分が決めた結果が激しくなっていたもん、別にそれは許容ということですね、その場合は。
そうですね。自分がそう定義したのであればそれは正しい。
つまり、市場的なあるいはSN的な魅力に動員されて行うことを激しさは避けるけれども、自分の内側から出てきた激しさは許容する、許容というか肯定するって感じか。
そうですね。書いてあったのがあれですよね、SNSとかをやってるとどうしても激しさばっかりの方向に駆り立てられてしまうので、ついそこを意識してしまうんだけど、それを意識せずにそれでもSNSにしたいと思ったのならば、それはいいのではないか。
なるほど。それはまあ確かにそうですね。だから、自分の心の内側にある激しさを何の区別もなく否定してしまうのは怖いなって思ったって感じかな、だから僕の理解を今パラフレーズすると。
うーん、は、そのようなイメージでしたね。そのどっちかっていうと、やっぱり多くの人がおそらく激しい性とか、そういう方向にばっかり行ってしまうので、強めにそっちが書いてあったんじゃないかなっていう。
うん、なるほどね。そこら辺がまあちょっと疑問っていうほどじゃないけど、ちょっともうちょっとこう考えたかったなっていう内容の話で。で、第4章が採読だけが想像的な読書術であるということで、まあ本のタイトルですね。
おそらくメインですよね、ここは。
で、ここでそのテラフォーミングっていうのが語られるんですが、ここの趣旨はその想像的っていう言葉をちょっと再確認しようっていうことで、まあこれもそのクリエーションの話で言うと非常に有名な話で、結局新しくものを作るってことは既存の要素の組み替えをしているだけだという話が語られてて、
再読こそが創造的な読書術である
だからテラフォーミングっていうコロニーを作るんじゃなくて、火星の環境を変えるっていうことも結局想像的なことであると。で、一つにはそのただ作り変えるっていうもので提示する、まあ想像性って簡単なことだよってよくビジネス書でも書かれてますし、まあ僕もそう思うんですけど。
そうであったらそのテラフォーミングっていうその大げさなことを出す必要はないなとはちょっと読みながら思ってて、ここでハッとしたんですけど、テラフォーミングってすごい難しいんですね。技術的可能性はあるとされてても、まあ現代のテクノロジーで簡単にできるものではないと。
その困難さをこの言葉に込めたんだという話が出てまして、これはね非常に大切な指摘だと思うんですね。だから本を読むことでその好ましい自分になるみたいなそのテーマの掲げ方ってまあ危ういわけですよね。
しかもさっき言った激しい性に引き寄せる力のあるメッセージになってしまうので、本書ではそのあえてその難しい行為ですよとまあある種釘を刺しつつも、でもそこに向かって進むことができますよという構図でこの話を提示している。
そのためのあえて難しい言の言葉のテラフォーミングを持ってきているという説明がありまして、ここは見事だなと読みながら思いました。
うまいというかそのやっぱこれですよね。ある意味タイトルというかやっぱ書くはコアはこのテラフォーミングなんだなっていうのをすげえ思いましたね。
既存の情報を組み替える、既存の環境を組み替えるとかその周りの資源を組み替えるっていうことがテラフォーミングなしの創造的であるということで、ここで出てくるその有用そうなTipsが新しい本を読み始める場合に既読の本を再読せよというようなノウハウが語られてまして、これめっちゃ重要だと思いながらメモ取ってたんですけど。
メタファーで言うと、例えば火星環境を作り変えようぜっていう時に、地球ってどうなってるんだって知らない始まりませんよね。当然のごとく。
そこを知らないままに火星環境を作り変えようとしてもうまくいかないはずで。これはメタファーなんですけど、実際新しく何かを知ろうとしたことに自分が知っている知識をもう1回再確認していくっていうことは、勉強法としても極めて優れてるなと思いますし。
例えば僕も定期的に火星さんの技術を読み返すんですけど、やっぱりその時間が経って新しいテクノロジーとかツールとかが出てきた後に読み返すと、やっぱりそこらに新しい発見があって、その発見が自分自身の理解とかをより強固にしつつ、より展開させていくという力があるんで。
これは本社の中でも有用オブ有用のテクニックかなと思います。
サリエンシーが変わるんでしょうね。その自分の。その上で読んでみると、その違うことに気づくことができる。
新しい本を複数ただ読んでいるだけだと、知識みたいなのも増えるけど、自分の理解を形成しているネットワークそのものにあんまり強い作用を与えない。なぜならそのネットワークの外周やからでしょうね。要するに自分を中心としたときの。
再読によって自分の理解を強化する
何回も再読している本っていうのは、あるそのネットワークに中心はないですけど、そのよりハブなノードになっているので、そこからやり直すっていうことは、そのネットワーク理論からも何か補強されそうですけど。
確かそんなことも書いてあったんですよね。そのハブを作って、そのハブを何回もハブを重点的に分かっていればそこから広がるみたいな感じのことか。
スケールフリーのネットワークということで、ハブ型が重要というのはよく言われるんですけど、これはもうデジタルノート法論でもトピックノートですね。トピックノートが大切だという話とほぼ通じると思います。
そうですね。結局その軸になるものを一個作っておいてあげて、そこから行けるようにしておこう。そこが密な接続になるようにしておこうか。
そこを作っておくと、自分の知識とか理解の軸になる。ネットワークの軸が自分の理解の軸になってくる。それを作らないでまばらにノートだけ作っていると、なんとなく知識は増えているけど、賢くなった気がしないというか。
自分の理解が前に進んでいる感じがあんまりしない。むしろ知っていることをより詳しく知った方がいいって感じだね。
多分知識が結局量じゃないんですよね。上手く言えないんだけど。
そう思います。
同じ、例えば英単語にしても英単語の数をたくさん知っているのではなく、テイクというクソ難しい単語がどのような場面でどのように使えるのかを熟知していた方がおそらく英会話はスムーズにできるし。
テイクから発生する言葉を知っていることもハブ的に理解するってことですよね。インテイクとかいろいろあると思いますけど。
テイクに全知識つけたらもうどんだけの意味があるかわからないですからね。
そういう軸になるものからを固めてそこを人知というかベースキャンプにして広げていくっていう感じで、定期的にそこに戻ってくるっていうような読み方、読み進み方。
これもよくよく考えたら、自分もさっき言ったようによくやってるんですよね。定期的にどっかのほうに帰ってくるっていうの。
でも、手法として意識したことがなかったですね、これ。自分がやってるってことに気づいてなかった。
そうか。言われてみて今思ったのが、そういえば、Learn Betterに書いてあったこと何回も見てるなって思うし。あるかもですね、確かに。
そうやって何回も見ることで、機関学習みたいなことをちょっとランダムにやってるみたいな感じかな。
大きめのテーマでまとめる
ノートを作って、ノートのリンクを作るみたいなやつは、感覚としては近いかなって思いますね、それでいうと。
で、リンク作ってノートとつなげるのが、たぶん第一ハブみたいなもので、やっぱりあるスパンで少し大きめのトピックノートを作ったほうがいいなっていうのは実体験としてありますね。
そうですね。大きめというか、あるな。難しいな、その辺はまだ。
どう言ったらいいんだろう。
うまくできてないことがいっぱいある。
トピックかミニテーマか何でもいいんですけど、あるテーマでちょっとまとめる。だから、本を作るとかもそれに近いんですけど、結局。
本を書くことも。そういうテーマごとのまとめでハブを作っていくっていうのは、わりかし有用かなと思って。
最後第5章が、想像的になることは孤独になることであるというタイトルなんですが、このタイトルがしっくりくるかはちょっと人によって分かれるかなと思うんですけど、
いろいろな実践の仕方が3人ほどの実例が挙げられていて、いろいろ本の読み方、採読のスタイルみたいなのが語られてるんですが、
それが参考になるかならないかというのはちょっと人任せなんですけど。語られることで重要だなと思ったのが、自分のための時間。
セルフケアとして採読していくっていうのは、自分のための時間を取り戻すことだと。自分のための時間が失われてるからそれを取り戻すことでテラフォーミングしていくんですけど、
それは非常に自己充足的なもので、自己完結的なもので、それに浸るってことは孤独になることだということが語られてまして、
これは結構あっさり語られてたような気がするんですけど、本を読むことで起こりがちな、起こりがちって言うとネガティブな感触ですけど、起きることですね。
これは孤独になる。孤独になることは良いことでもあるし、それだけではちょっと危ないことでもあるので、その孤独と孤独性とどう付き合うのかは多分各自がちょっと引き受けなければならない問題だなとは思います。
まったく5章はそんな印象なかった。
5章はいろいろ読み方があって、松岡清香さんの話とか結構ノウハウっぽいですが、この辺は個々人で読んでいただければなと。
今の話を聞いて、勉強の哲学をすごい思い出して、勉強するとバカになるっていうのと、読書をすると孤独になるっていうのがニュアンスとしてものすごく近いなっていう印象があり、結局、良くも悪くも変わっていってしまうし、変わっていくことを認めないとテラフォーミングはできないですもんね。
そうですね。勉強の哲学でいうと、最初はもうキモくなるしかないと。だから孤独になるしかないけど、どっかでその孤独を切り替えしていくこと、逆方向に進んでいくことで、自己充足的な時間を持ちながらも他者に向かって開かれているような存在に至れる。
至れるみたいなことを言うと、また激しい性問題に繋がるんですが、そういう可能性があると。やっぱりそれは、例えばこのブック語りストでもそうですよね。
一冊の本を一人で読んで、はい終わりっていうのは自己充足的で、ああこういうことだなとかって勝手に思うのは非常に楽しい時間ですけど、他人に向かって説明するっていうことで、自分の読みが揺らされる?揺さぶられる?いうようなところがあって。
で、これは孤独の反対なんですけど、それによって広がる世界も当然ありますから。だから、よくその中世っていうのは、真ん中じゃないんですよね。つまり、程々じゃないか。程々に孤独に読んで、程々に開くっていうことじゃなくて、すっげえ孤独に読んだ後開くってことなんですよね。
程々の中央って、例えば本を読む。ツイッターとかで同時参加しながら本を読むと、これ程々な感じですけど。一回まずその孤独に読み切ってしまうっていう、一人で再読するとかっていうこともやってしまった上で、それを公開する、パブリッシュすることで、自分の孤独さが揺さぶられていく感じ。
で、孤独であることは別に悪いこととは書かれてなくて、むしろ自分の孤独さがあって、本の向こう側にも孤独があって、その孤独がいろいろ存在しているのを確認できるのが本を読むことの良いことではあるんですけど、それは同じことですよね。
だから、こうやって物語とすることでも、読書会することでも、そんな読み方あるんだとかっていうことがたびたびあるので、その発見って面白いんですよね。宇宙で地球によく似た、でも全然違う星を見つけたぐらいの面白さがありますね。
読書のネットワーク化
本の感想は、みんな面白いぐらいに違いますからね。聞いてみれば見るほどそうなる。
一番面白いと思ったところとか、疑問点に思ったところとかも違いますし、同じ箇所についてこういうことを思いついたとか、こういうことを考えたっていうのも違う。
それは結局、ここの人が内側に抱えているネットワークが違って、そのコンテンツと接触する部分、ネットやから網なんで、全体がペタッと接触せずに、網部分しか接触しないから、その反応部分が違うという。
ネットワークがそれぞれ違うなっていうことを確認できるのも、こういう場で読んだ本について語るからですよね。一人で読んでるだけでは絶対に体験できないものがそこにあるので。
だから、孤独であることを否定しない上で、しかも開くっていうことができたら、読書って非常に良い試みであるでしょうし。
基本的に黙読っていうのも近代の発明というか発見でしょうから、昔はもっと大人数で誰かが声を上げて読んだのを聞くっていうもので、現代に入って一人で読むっていうのになって、
現代以降はみんなが一人で読んで、その結果がネットワークされるっていう風に、読書そのものも1.0から2.0、3.0的に変化していくものなのかなというのは本の感想ではないですが、思いましたね。
なんかあれですね、読書界的なやつをもうちょっと積極的にというか、よりいろんな場所とか人とか環境とかテーマとかでやれると良さそうですね、そういう意味で言うと。
今僕、1年かけて一冊の本を読むという感読プロジェクトっていうのをやってるんですけど、人が賢くなる道具という本の読書メモをそれぞれみんなスクラップボックスで共有しようみたいな感じで進めてるんですけど、今ちょっと2ヶ月目なんで2章をやってるんですけど、
彼の本がね、アウトラインが非常にまとまってないんですよ。思いついたままにその話してるやろみたいな感じで、読書メモを取るの苦労した賞ですねって書いたんだ。これ苦労してた僕だけじゃなかったんですかみたいな反応をいただけて、それもやっぱ分からないんですよね。
なんで自分の知的能力が足りないのか、本そのものの構造が悪いのかが、本と自分の1対1の関係だけでは分からないので。読書メモを取るときはもちろん一人でやるしかないですけど、その行為そのものがある種のネットワークになってると、新しい発見とか見方っていうのは必ず広がってくるんで。
ここはだから、この本の絡みってネットワークっていうものを人的ネットワークとして同時代の、しかし価値観とか興味を持つ人たちのネットワークに広げることで、本の読み方って変わってくるでしょうし、闇の自己啓発っていうのもあれ読書会でしたけど、あれも結局そういう感じですね。独自のネットワークで読み解くみたいな感じがしたんで。だからやっぱ本はネットワークで読めっていうタイトルで本書けるんじゃないですかね。
おーおーおーおー。
読み方として言うと、読めないところで詰まったら飛ばせみたいな、読まないで読むっていう。
読まないで読むは前作からよく言ってることですよね。
読まないで読むっていうのがね、読書陣が多分普通にやってることなんですよね。
そもそも積読も買ったままにしとくって、読まないで置いとくっていうことで。
多分読むっていうイメージの完全性を剥ぎ取ろうっていうのが、この両作の志のことだと思うんですけど、それは見事に成し遂げられてて。
自分自身がそれをやってるな、確かにやってるなっていうのを、この本では確認させていただきました。
だから最初にも言いましたけど、全体を通して採読の本というよりは読書ってどんな行為だろうなっていうのを、結構実践的なレベルと抽象的っていうか、ある種哲学的な話の行ったり来たりしながら語られている、非常に珍しいタイプの読書術の本だったなという感想です。
今の話を聞いてちょっと思ったのが、人によって読書の感想が違うということは、完璧に全員が読めていないというか、読み方は人によって違うということで、それが認められれば一回でわからなくてもいいということを認められるし、間違っていてもそれも変じゃないというか、
そういうことを、間違いという言葉自体が間違いというのか、おそらく。
感想っていうのはすべてあること、解釈にすぎないからね、基本的には。もちろん曲解っていうのはあるけど、それを除けばどんな印象依頼だろうかっていうのも人それぞれ、人それぞれっていうのがデフォルトで、こういう読み方が正しいっていうのは著者ですら決められないことですかね。
書いた著者も一時以降覚えているかって言ったら、そんな人はおそらく全く存在していないわけで、著者が言いたいことというものは、この一冊を全部読んで全部から伝わったものでしかないっていうことでもありますからね。
それに、自分が書いた本を誰かが書評とかを書いたのを読むと、俺が書きたかったのはそういうことだったのかなっていうふうに、他人から教えてもらうこともあるので、そういう不完全性、人間の不完全性を前提にした本の読み方っていうことですよね。
そうですね。人間が不完全なんだから、読書なんて完全にできるわけがないっていうことでもあるのか。
そうね。でも、ついそれを求めてしまう、そうでなければならないと思ってしまう風潮がもしあるとしたら、それは避けてとったほうがいいですし、おそらくその風潮はさっき言った情報の濁流に大いに関係している気がしますね。
そうだな。やっぱそうなってしまいますね。
だって適当に読めばいいんじゃないって思えないのって不思議ですよね、でも。
適当に読めばいいんじゃないと思えないけれども、でも割と適当にみんな読んでいるような気もするし。
だから、そこの規範性のずれ、実態のずれが読書術っていうノウハウの購買意欲になるわけですよね、きっと。
難しいですね。
まあ別にいいんですけど、だから基本的にこの本は読書術が語られ、広い意味での読書術かな、読書の姿勢っていうのを結構根本的なレベルで、
全く新しいことを言ってるというよりは、まさに本ってそうやって読まれてきたなっていうのを確認した本でした。
確かにね、その摘読というのは概念としては少なくとも俺には全く新しい概念だったけれども、摘読全肯定。
でももう僕よりもはるかに本買ってる人はみんなそうなってるはずですからね。どう考えても。
こっちに関して言うと確かに、聞いたことがない概念というよりはやっぱ深まったっていう、それ自体がやっぱ才読的ですよね。
そうですね。
才読
1冊目が未知への激しさに駆り立てられた内容であるのに対して。
確かに確かに。
こっちはその才読でしか得られないようなものが得られるような本っていうのか。
実際2冊の本の内容は多少接続してるんで、この本を読むこと自体が1冊目の才読にもなってるという側面があるので、非常にややこしいですね。
ネットワークが複数重なると話はややこしくなってくるということなんですが。
全体としてそれほどわかりやすい本であるとは言えないと思いますけど、時間をかけて読む価値のある本だと思います。
うん。才読したいと思った本でしたね。単純に、すげえ普通にそう思った。
だとしたら著者の思惑がうまいこと言ったっていうことでしょう、きっと。
うん、だと思います。少なくとも2回読んでますからね、既に。
そうですね。そういう本でないと昨今、価値がないと思いますよ、インターネット時代においては。
うん。さっと30分で読めてしまって、楽しかったっていいけど、おそらくそれは才読必要ないだろうからな。
それはだってチャットGPTの出力に含まれるでしょう、最終的には。
そうですね。チャットGPTによっていろんな読書の価値みたいなやつもこれから変わってきそうですね。
うん。単的な答えでまとめられないものを考えるためのツール?ツールというか道具?としての本という位置づけ。
答えを教えてくれるものじゃなくて、その人の施策を広げるようなもの、広げるというか広げることをサポートするような存在っていうふうに位置づけないと、
お金を取って買ってもらうっていうのは激しく難しくなってくると思いますけど。
結果的に本が良くなり売る可能性が高まってきた時代でもあり、結論さえ書いてあればいいんだったら結論本を売る必要がないですからね。
ないそう、全くないね。
そこは今後期待していきたいところですね。読書、書籍、業界が良くなることを。
そうですね。
ということで、ブックカタリストは番組を支援していただけるサポーターを募集しておりますので、概要欄など気になる方は公式ページをご覧いただけたら幸いです。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
58:19

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