面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第63回の本日は、「再読だけが創造的な読書術である」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
今回は一応、クラスターのターンということではあるんですが、goryugoさんも読まれたということで、本の概要をおさらいながら、この本について書かれたことを考えていこうかなと、今のところは考えております。
はい、前回も軽く話したかもしれないんですけど、この本に読書スランプという言葉が出てきていて、ちょうどこの本を読んでいる真っ最中というのが、自分がブックカタリスト初めて以来の読書スランプだったのではないかっていうような思いもあったりする、思い出深い本ですね。
非常にタイミングがいい感じの読書だったかもしれないね、そうすると。
一応本の内容なんですが、完全な続編というわけではないんですけども、位置付け的には同じ著者のつんどくこそが完全な読書術であるというのが、1冊目。
この本が2冊目というふうに位置付けることはできると思います。
出版社変わってるけど、編集者さんも同じって言っていたし、そこにも触れているんで、ほとんどの人は続編だと考えるでしょうね。
そうですね。基本的に本っていうのは著者と編集者で作るので、編集者が出版社を変わると出る本の続きが別の出版社が出るっていうことは結構ありまして。
ただ、完全な続編化っていうと、そこまで強いものでもなくて、この本だけ取り上げて読むことも一応可能にはなっている。
そのままちょっと重複するような内容もあるんですが、個人的にはそれを踏まえた上で、やっぱり両方読んだほうがいいかなとは思います。
ちなみに、1冊目のつんどっこそが完全な特集つつであるは、僕方室第33回で取り上げておりますので、興味があればそっちの回もチェックしてください。
30回前ってことは、半年以上ですね。
25回ぐらいが半年。違うわ、1年だ。
そうか、だいたいそういうことですね。
52週あって26回やっているはずなので。
だいたいちょうど1年前に取り上げた本の続編を取り上げるというのも、僕方室で初めての試みなので、33回と63回はリンクしているぞということだけ念頭においていただければと。
あれですね、読書のポッドキャストで読書について語る本について語るっていう、この多重構造。
そうですね、でも避けられないというか、むしろそれこそが面白いんではないかなと思うんですけども。
一応初心情報だけさらっておくと、出版社が前はイースト・プレスだったかな。
今回はちくま書房になっております。
一応章立てが1章から5章までありまして、それぞれの章は後で紹介していくんですけども、
全体として大きなキーワードが2つありまして、
1つがネットワークというもの、もう1つがテラフォーミングというもので、
校舎はちょっとなじみがない言葉かもしれませんが、この2つの軸で採読について考えていくという内容なんですけど、
ここでいう採読とは何かっていうのが、たぶん本書の一番のキーだと思うんですけど、
採読とはゆえ、実際でもこれは本を読むという行為そのものだと僕は思うんですよね。
採読というものが。
そうも言える。読書っていう一つの大きな集合があって、その部分集合である採読について述べるというようなものではなくて、
採読って呼ばれてるけど、そこで著者が謎してるものは、むしろ本を読む、読書するっていう行為全体であろうと。
大体その丸が同じ丸ってことですね。
だから採読の本やからどうこうというよりは、実はこの本は本を読むっていうのはどういうことだろうっていうのを、
採読というキーワードを使いながら考えている本であろうという僕の印象ですね。
あとあれですね、ネットワークという言葉で思ったのが、ちょうど前回の習慣の話ともものすごくつながっているというか、
脳内のネットワークが強固になっていくっていうのが習慣が作られるみたいなやつで、読書もそこに何かなぞられていろいろ書かれてましたよね。
そうですね。結構、読書本を読むっていうこととネットワークっていうのは、神話性があるというか親近感があるんですけど、
テラフォーミングっていうキーワードはあんまり親近感がないというか、
例えばこの本が出る以前に、世の中に存在する本に関するキーワードのベクトルを探したときに、
テラフォーミングっていうキーワードはあんまり出てこないと思うんですよ。
まあ、少なくとも俺の知識では一回も出てきたことないから、宇宙の話の時にしか出てこない。
だから、そこら辺がこの本の面白いところ、著者の遊び心でもあるんでしょうけど、新しいところと思います。
今の話を聞いてちょっと思い出した的な感じなんですけど、やっぱりまずここでね、あれ、再読どこ行ったん?って思いながら読んでいた気がする。
一生はね、結構わかりやすかったんですよね。ストレートに再読とちゃんとつながっていたんだけど、そういえばここ、再読の話ほぼほぼなかったなあ。そこにすごい辛さを感じたというかね、わからん感じがしていたような気がする。
たぶん俺は意図的にそうされてるんだろうな、あるいはそうなってしまったことものをあえてわかりやすい形に直さなかったという判断が下されてるなと思うんですけど、つまりこの本を読んでいる中でもその困難が発生する。しかもおそらく校舎の困難が発生するようにどうもなってるよなというのをちょっと節々に感じますね、これは。
たぶんなんですけど、再読してほしくてすっげー難しくしてますよね。わかりにくくっていうのかな。
すごいというほどではないと思う。著者はもっと難しくすることができるから、やっぱり加減を見ての難しさだと思う。おそらく長澤さんももっと難しくしようと思えばいくらでもできるけど、普通に読むより少し難しいぐらいのとこに落とし込んでるような印象を受けました。
この2から3ぐらいを読んでいるときに、この本を再読させ、再読の本を再読させることを目的とした本なんだなっていう印象をすごい感じて。わからんくっても飛ばしてもいいかなっていうようなことも思ったし。
はいはい。まさにね、まさにそういうことなんですね。そう、まさにそういうことで。もうちょっと話がいきなりずれますけど、ずれないか。例えばですけど、この前、習慣と脳の科学の本を2人読んだって話をしましたよね。
で、ゴリラさん、コラムで出てくる神経科学の難しい実験どこで止まった?みたいな話して、僕は結構飛ばしながら読みましたっていうふうに言ったんですけど。おそらくそこなんですね、結局。本を読み慣れてる人は、わからない部分に出会ったときに、速度を下げるんじゃなくて速度を上げるんですね。
で、ここはわからないとして読み飛ばしてしまうことを自分に許可している。で、本はうまく読めないっていう人は、むしろギアを下げてしまうんですね。で、なんとかそこを理解しようとしてしまう。当然それはもう非常に苦しいストレスフルな体験なので、それを続けていくと、どんどん読書って苦痛なものになってしまう。
そこの読解力があるかないかっていう以前に、わからんとこは飛ばそうっていうことが自然に思えるようになっているかどうかが、読書慣れしているかどうかの差。読書が日常的になっているかどうかの差ではないかなと。前回の話をしながら、こういうことかと思いながら聞いてましたけど。
ちょうどあれなんですよね。この本の1章のところで、読み捨ては悪ではないっていう言い方をしていて、わからない部分は飛ばしてもいいし、間違えててもいいし、また次に読めばいいって考えて、読み捨てないと結局、再読する本に出会えないみたいな言い方をしていたのかな。
再読するべき本、本書の第1章のテーマを一応細かく紹介すると、本っていうのは再読したほうがいいし、再読に値する本を読み返すのがいいけども、そもそもどんな本を再読したらいいのかはわからないから、いろんな本を手当たり次第読み捨てていくと。その中で出会ったこれやという本を再読していくのが良い。
だから2つの手段。いろいろ乱読して、これっていう本を見つけるルートと、その見つけた本でこれっていうものを再読していくっていう、この2つの原理性を使って読書したらいいんじゃないかっていうことが提案されているんですけど、やっぱり再読することを許容すると、さっき言ったように読み飛ばせるようになるんですね。
まあ、今はわからなくていいかが、今はわからなくていいかに変わる。
ああ、それはわかりやすい良い言葉ですね。
こうなると読書ってかなり軽やかに進められるようになるんですね。で、最初に言ったこの本は再読について扱ってると言ったけど、読書について扱ってるって言ったのはそういうことなんですね。
基本的に本読みの人っていうのは、この本を1回読んでもう理解しようっていう心持ちじゃ多分ないんですね。で、そもそも本を買って家に置いてる時点で、2回以上読める権利を買ってるというか。
例えば図書館で1週間か何回読めない場合は、その趣旨で読み切らなあかんっていうタスクになってしまうわけですけど。買っただけでいつか読めたらいいかっていう積読と、1回読んで読めなくてもまた理解できる時に読み直せばいいのかっていう、この積読と再読って実は読書っていう大きな行為のプロセスに含まれてるんですね、実は。
だから、本を読むっていう言い方をすると日本語で言うと、その本が単数なのか複数なのかは見えないですけど、実際読書って一冊の本を読むことじゃないと思うんですよ。その本を読み続けていくっていう流れ。
ノートを作って、ノートのリンクを作るみたいなやつは、感覚としては近いかなって思いますね、それでいうと。
で、リンク作ってノートとつなげるのが、たぶん第一ハブみたいなもので、やっぱりあるスパンで少し大きめのトピックノートを作ったほうがいいなっていうのは実体験としてありますね。
そうですね。大きめというか、あるな。難しいな、その辺はまだ。
どう言ったらいいんだろう。
うまくできてないことがいっぱいある。
トピックかミニテーマか何でもいいんですけど、あるテーマでちょっとまとめる。だから、本を作るとかもそれに近いんですけど、結局。
本を書くことも。そういうテーマごとのまとめでハブを作っていくっていうのは、わりかし有用かなと思って。
最後第5章が、想像的になることは孤独になることであるというタイトルなんですが、このタイトルがしっくりくるかはちょっと人によって分かれるかなと思うんですけど、
いろいろな実践の仕方が3人ほどの実例が挙げられていて、いろいろ本の読み方、採読のスタイルみたいなのが語られてるんですが、
それが参考になるかならないかというのはちょっと人任せなんですけど。語られることで重要だなと思ったのが、自分のための時間。
セルフケアとして採読していくっていうのは、自分のための時間を取り戻すことだと。自分のための時間が失われてるからそれを取り戻すことでテラフォーミングしていくんですけど、
それは非常に自己充足的なもので、自己完結的なもので、それに浸るってことは孤独になることだということが語られてまして、
これは結構あっさり語られてたような気がするんですけど、本を読むことで起こりがちな、起こりがちって言うとネガティブな感触ですけど、起きることですね。
これは孤独になる。孤独になることは良いことでもあるし、それだけではちょっと危ないことでもあるので、その孤独と孤独性とどう付き合うのかは多分各自がちょっと引き受けなければならない問題だなとは思います。
まったく5章はそんな印象なかった。
5章はいろいろ読み方があって、松岡清香さんの話とか結構ノウハウっぽいですが、この辺は個々人で読んでいただければなと。
今の話を聞いて、勉強の哲学をすごい思い出して、勉強するとバカになるっていうのと、読書をすると孤独になるっていうのがニュアンスとしてものすごく近いなっていう印象があり、結局、良くも悪くも変わっていってしまうし、変わっていくことを認めないとテラフォーミングはできないですもんね。
そうですね。勉強の哲学でいうと、最初はもうキモくなるしかないと。だから孤独になるしかないけど、どっかでその孤独を切り替えしていくこと、逆方向に進んでいくことで、自己充足的な時間を持ちながらも他者に向かって開かれているような存在に至れる。
至れるみたいなことを言うと、また激しい性問題に繋がるんですが、そういう可能性があると。やっぱりそれは、例えばこのブック語りストでもそうですよね。
一冊の本を一人で読んで、はい終わりっていうのは自己充足的で、ああこういうことだなとかって勝手に思うのは非常に楽しい時間ですけど、他人に向かって説明するっていうことで、自分の読みが揺らされる?揺さぶられる?いうようなところがあって。
で、これは孤独の反対なんですけど、それによって広がる世界も当然ありますから。だから、よくその中世っていうのは、真ん中じゃないんですよね。つまり、程々じゃないか。程々に孤独に読んで、程々に開くっていうことじゃなくて、すっげえ孤独に読んだ後開くってことなんですよね。
程々の中央って、例えば本を読む。ツイッターとかで同時参加しながら本を読むと、これ程々な感じですけど。一回まずその孤独に読み切ってしまうっていう、一人で再読するとかっていうこともやってしまった上で、それを公開する、パブリッシュすることで、自分の孤独さが揺さぶられていく感じ。
で、孤独であることは別に悪いこととは書かれてなくて、むしろ自分の孤独さがあって、本の向こう側にも孤独があって、その孤独がいろいろ存在しているのを確認できるのが本を読むことの良いことではあるんですけど、それは同じことですよね。
だから、こうやって物語とすることでも、読書会することでも、そんな読み方あるんだとかっていうことがたびたびあるので、その発見って面白いんですよね。宇宙で地球によく似た、でも全然違う星を見つけたぐらいの面白さがありますね。
本の感想は、みんな面白いぐらいに違いますからね。聞いてみれば見るほどそうなる。
一番面白いと思ったところとか、疑問点に思ったところとかも違いますし、同じ箇所についてこういうことを思いついたとか、こういうことを考えたっていうのも違う。
それは結局、ここの人が内側に抱えているネットワークが違って、そのコンテンツと接触する部分、ネットやから網なんで、全体がペタッと接触せずに、網部分しか接触しないから、その反応部分が違うという。
ネットワークがそれぞれ違うなっていうことを確認できるのも、こういう場で読んだ本について語るからですよね。一人で読んでるだけでは絶対に体験できないものがそこにあるので。
だから、孤独であることを否定しない上で、しかも開くっていうことができたら、読書って非常に良い試みであるでしょうし。
基本的に黙読っていうのも近代の発明というか発見でしょうから、昔はもっと大人数で誰かが声を上げて読んだのを聞くっていうもので、現代に入って一人で読むっていうのになって、
現代以降はみんなが一人で読んで、その結果がネットワークされるっていう風に、読書そのものも1.0から2.0、3.0的に変化していくものなのかなというのは本の感想ではないですが、思いましたね。
なんかあれですね、読書界的なやつをもうちょっと積極的にというか、よりいろんな場所とか人とか環境とかテーマとかでやれると良さそうですね、そういう意味で言うと。
今僕、1年かけて一冊の本を読むという感読プロジェクトっていうのをやってるんですけど、人が賢くなる道具という本の読書メモをそれぞれみんなスクラップボックスで共有しようみたいな感じで進めてるんですけど、今ちょっと2ヶ月目なんで2章をやってるんですけど、
彼の本がね、アウトラインが非常にまとまってないんですよ。思いついたままにその話してるやろみたいな感じで、読書メモを取るの苦労した賞ですねって書いたんだ。これ苦労してた僕だけじゃなかったんですかみたいな反応をいただけて、それもやっぱ分からないんですよね。
なんで自分の知的能力が足りないのか、本そのものの構造が悪いのかが、本と自分の1対1の関係だけでは分からないので。読書メモを取るときはもちろん一人でやるしかないですけど、その行為そのものがある種のネットワークになってると、新しい発見とか見方っていうのは必ず広がってくるんで。
ここはだから、この本の絡みってネットワークっていうものを人的ネットワークとして同時代の、しかし価値観とか興味を持つ人たちのネットワークに広げることで、本の読み方って変わってくるでしょうし、闇の自己啓発っていうのもあれ読書会でしたけど、あれも結局そういう感じですね。独自のネットワークで読み解くみたいな感じがしたんで。だからやっぱ本はネットワークで読めっていうタイトルで本書けるんじゃないですかね。
おーおーおーおー。
読み方として言うと、読めないところで詰まったら飛ばせみたいな、読まないで読むっていう。
読まないで読むは前作からよく言ってることですよね。
読まないで読むっていうのがね、読書陣が多分普通にやってることなんですよね。
そもそも積読も買ったままにしとくって、読まないで置いとくっていうことで。
多分読むっていうイメージの完全性を剥ぎ取ろうっていうのが、この両作の志のことだと思うんですけど、それは見事に成し遂げられてて。
自分自身がそれをやってるな、確かにやってるなっていうのを、この本では確認させていただきました。
だから最初にも言いましたけど、全体を通して採読の本というよりは読書ってどんな行為だろうなっていうのを、結構実践的なレベルと抽象的っていうか、ある種哲学的な話の行ったり来たりしながら語られている、非常に珍しいタイプの読書術の本だったなという感想です。
今の話を聞いてちょっと思ったのが、人によって読書の感想が違うということは、完璧に全員が読めていないというか、読み方は人によって違うということで、それが認められれば一回でわからなくてもいいということを認められるし、間違っていてもそれも変じゃないというか、
そういうことを、間違いという言葉自体が間違いというのか、おそらく。
感想っていうのはすべてあること、解釈にすぎないからね、基本的には。もちろん曲解っていうのはあるけど、それを除けばどんな印象依頼だろうかっていうのも人それぞれ、人それぞれっていうのがデフォルトで、こういう読み方が正しいっていうのは著者ですら決められないことですかね。
書いた著者も一時以降覚えているかって言ったら、そんな人はおそらく全く存在していないわけで、著者が言いたいことというものは、この一冊を全部読んで全部から伝わったものでしかないっていうことでもありますからね。
それに、自分が書いた本を誰かが書評とかを書いたのを読むと、俺が書きたかったのはそういうことだったのかなっていうふうに、他人から教えてもらうこともあるので、そういう不完全性、人間の不完全性を前提にした本の読み方っていうことですよね。
そうですね。人間が不完全なんだから、読書なんて完全にできるわけがないっていうことでもあるのか。
そうね。でも、ついそれを求めてしまう、そうでなければならないと思ってしまう風潮がもしあるとしたら、それは避けてとったほうがいいですし、おそらくその風潮はさっき言った情報の濁流に大いに関係している気がしますね。
そうだな。やっぱそうなってしまいますね。
だって適当に読めばいいんじゃないって思えないのって不思議ですよね、でも。
適当に読めばいいんじゃないと思えないけれども、でも割と適当にみんな読んでいるような気もするし。
だから、そこの規範性のずれ、実態のずれが読書術っていうノウハウの購買意欲になるわけですよね、きっと。
難しいですね。
まあ別にいいんですけど、だから基本的にこの本は読書術が語られ、広い意味での読書術かな、読書の姿勢っていうのを結構根本的なレベルで、
全く新しいことを言ってるというよりは、まさに本ってそうやって読まれてきたなっていうのを確認した本でした。
確かにね、その摘読というのは概念としては少なくとも俺には全く新しい概念だったけれども、摘読全肯定。
でももう僕よりもはるかに本買ってる人はみんなそうなってるはずですからね。どう考えても。
こっちに関して言うと確かに、聞いたことがない概念というよりはやっぱ深まったっていう、それ自体がやっぱ才読的ですよね。
そうですね。