面白かった本について語るポッドキャスト ブックカタリスト
第81回の本日はピダハンとムラブリの言語から学ぶ 我々の文化の価値観について語りたいと思います
はいよろしくお願いします はいお願いします
ゴリゴ的信念1回目の本の紹介になるんですが たぶんこれまでにも結構細かなアフタートークとかが多いかもしれないですけど
細かなところで影響を受けたとか面白かったってよく言っていた本 一つがピダハンというやつね
ミスズ書房から2012年に出ている本で 既にもう10年以上経過している本なのかな
この辺の分野ではたびたび参照される本ですよね この本は
そうですね もう一つがグラブリというエシュエーシャインターナショナル これは2023年の2月に出た本なんですけども
どっちもいわゆる少数民族のところに行って そこで生活をしてみて そこから学んだことってなんかめっちゃ面白いねっていうのが大雑把な話だったりして
ちょうどね1年前に運動の神話とかで 例えばハッザ族っていうなんかそういう人たちとかも出てきたりしたんですけど
なんかね話していてっていうかずっと思うのがやっぱ 全く異なる西洋文化の影響が少ない人たちの言語だったり文化だったり価値観だったりっていうものを考えてみると
これも哲学と同じく常識というものがどれだけ常識じゃないのか つまり構築的な構築されたものということかな
そうですね我々があまりにも無意識に当たり前だと感じてしまっていることって 多分一つは進化論的に生物が長年かけて人類が作り上げてきた
すべての人類にほとんど共通であろう項目っていうことと もう一つ
全く気づいてないんだけど 構築的に文化によって獲得した価値観だったりなんだったりっていうものに大きく分けられると思っていて
思ったよりその文化から影響を受けていて当たり前だと思っていることが相当多いんじゃないのか
なるほど
答えが出る話ではもちろんないんですけど そういうことを考えてみると例えばずっと考えている幸福に生きるということは何なのか
どういうことを考えたらいいのかみたいなのも この国のこの世界の文化がこれを幸福だと言っているというものが
好転的なものだとするならば対策はできるじゃないですか
確かに
っていうようなことのヒントになればいいなと思って この辺りの話を取り上げてみたいと思いました
はい 一応簡単に初始情報をそれぞれいただいていいですか
はい さっき軽く言ってたんですが 一冊ピダハンはミスズ書房から出ているダニエル・エル・エベレットさん
この人はキリスト教の宣教師です
なるほど
で もう一つがですね 村振りというのは 衆英社インターナショナル2013年から出ている伊藤祐真さんという方で
この人は確か大学生の時に民族学とかそっち系のことをやっていて 現地行ってて
フラフラしながら大学のお仕事を大学で仕事ができるようになったのに やっぱ辞めてしまったみたいな人
っていうので これも偶然なんですけど ちなみにこのピダハンを書いたダニエル・エル・エベレットさんは
キリスト教を布教するためにそのピダハンがいるところに行ったんですけど 最終的にキリスト教を辞めてるんですよね
その現地の体験によってってことですか?
まあ直接そういうふうに書いているわけではないけれども そうとしか読めないぐらいの勢い
へー
そのおそらくなんです キリスト教的な価値観をピダハンの人たちに知らしめるために
そのキリスト教ってそういうことになんかね やっぱめっちゃ予算とかをつくみたいなんですよね
意気込んで行ったんだけれども もう何年だったかな 10年20年というレベルで 違うわ30年だ
断続的ではあるんですけども 30年ピダハンのところに住んでて 最終的に家族 奥さんとも別れて
そのキリスト教というものを辞めることを決断してしまった
すごいね
っていうぐらい あらゆる価値観がひっくり返されたんじゃないのかなっていうのは
やっぱ読んでて思うんですよね
で もう一人の伊藤雄馬さんという方も この人は割と現代的な人っていうか
なんて言うんだろう 働きたくない系っていうか そのガツガツ働かない系っていうのか
雑な言い方をすると なんかつまらなくなって 結局全部辞めちゃったみたいな感じなんですけど
でも大学の仕事を捨てて やっぱ何か辞めてしまってっていうのは
何らかの感じるものがあったんじゃないかなと 思わずにはいられない
偶然というか 我々も大きな意味では会社というか そういう一般的な仕事にはしていない人たちではあるので
たしかに
何か学べるところがあるかもしれない ヒントっていうのは違うんかな
何か影響みたいなものがあるのかもしれない
なるほど
で ちょっとずつ本編なんですけど どっちピダハンにしてもムラブリにしても
共通して言えるのが まず言葉が根本的に違いすぎる
それは言語の体系が違うということ?
そうですね それをちょっとずつ順番に紹介していこうと思うんですけど
やっぱ言葉が違うから考え方が大きく変わるっていうか
我々が文化として獲得してるものって まず大きな意味でめっちゃ言葉に縛られてるんじゃないのかなっていうことも
読みながらすごい思ったところで
例えば まず絵っていう話で言うと
ピダハンの言葉はまず色というものが存在しないらしい
赤とかレッドとかブルーっていうものを呼称する名詞とか形容詞がない?
名詞がない 例えば黒っていうのは日本語に翻訳するとなんですけど
血は汚いっていう言い方をすると 黒を表現するものになる
だから逆に日本語で言うと 血は汚いがある種メタファーとか例えとして
黒を表すときに使われるかもしれないけど
もうそのメタファーを遊ぶのが色的なものとして扱われてるってことかな
そうですね だから色というものがなんて言うんだろう
概念として多分入ってきていないんですよね 思考の中に含まれない
もちろん彼らが色を見分けられないわけではないですよね
多分ただ言語がないと解像度が下がるので
そうか そもそも見分けられてるかどうかを実験はできる
だって我々も例えば緑って言うけど 緑の境界線ってすごく曖昧で
それを日本だとうぐい水路みたいな言葉があることで ああいうところにラインが引けるんですけど
そういうところが多分もっと少ないからもっと解像度は低いんじゃないかな 色の見え方に対する
だからとりあえず色そのものを名指す名詞がないってことね
そうですね 白のことをそれは見えるとかそれは好きっていう言い方をしたりだとか
緑は今のところ未熟
なんか分かるね 語感は分かるよね 日本でもメタファーとして
あいつはまだあの青いやつやとかっていう言い方をするから
そっちの青いやつっていう方が概念として成立されてるっていう なかなか不思議な感覚やね
うん だとか他にもなんじゃこりゃっていうので言うと
世界をどう見ているかそのものがもう違ってるってことだよね
そうやっぱあの結構ね哲学に繋がってくるんですよね
大体がその違うゲームをしているになるのか
だから例えばピダハン語で哲学は可能かみたいなことを問うこともできるよね
だから俺たちができる哲学ではないものにはなるんですよね
だから言語がないと哲学ができないというか
あの外国語の哲学を学ぶことがいかに難しいかというか
結局だから多分カントを理解しようと思ったら
なんならドイツ語を学んだ方が早いんじゃないかとも言えるかもしれないし
ドイツ語の彼がよく使っている述語とかの関連になれるためには
そのドイツ語の文脈で捉える
特にドイツ語その例えば日本語の存在っていうその言葉のニュアンスも
多分違うはずでそこは言語に慣れてからのほうがいいでしょうねきっと
そうですねあのハイデガーとかがよく言われてますからね
あの現存在とかあのあたり足らねえから無理やり当ててるけど
やっぱドイツ語で考えればもうちょっと簡単だみたいなことを言われるし
うんあのなんだっけSみたいな言語言葉になんかつけたりとかしているんだったかな
なんかっていう感じで何もかも違っていて
あと同じようなことがその村振っていう民族とかでも言えるようなことがあったりして
村振でね代表的にねすげえなって思うのが
上がると下がるという言葉から受けるニュアンスが逆の意味で使われる
日本語で例えば上がるって言うと例えばその何かが上昇するとか気分が興余するとかっていう意味やけど
逆の印象を覚える反応?
そう感情が上がってくるというのは良くないことらしいんですよ
あーなるほど
感情というのは下がることが良いことで
これは村振っていう民族の特徴みたいなんですけど
とにかくね争い事が嫌いで人と喧嘩をしたくない
さらに言うとこれは歴史を踏まえた上での著者とか学術門方面での予想なんですけど
どうやらかつて農業をしていたのにその中から一部の人たちだけが逃げ出してその農業を捨てた民族臭い
その創始者も何人とかっていうレベルだったかな
村振60人のDNAが500年から800年前のたった一人の母親に繋がっていた
っていうレベルの超遺伝子が近い人たちの集まりで
多分やっぱ性格というか性質としてもすごく似た人たちが多い
とにかく人と争うのが嫌だから感情が上がってくるということがネガティブなこととして表現される
テンション上がると喧嘩の原因にもなるもんね
良い状態というのは散るい状態だっていう表現をされていて
すげーわかりやすいなっていうか
さらに言うと最近の文化だから下がることがポジティブに日本でもなってきているというか
チルという言葉を形容詞化することによって
我々も下がることが良いことだっていうような概念とかも獲得していたりするとか
村振の人は丸太がたくさん積まれた写真を見て心が下がるといった
これは何だとかいうといい気がたくさんあってそれが良いことだって感じるらしい
安心感みたいなものとしてフォーカスしてるわけね
丸太いっぱいあるぜっていう高揚感にはならないということよね
森林で生活している人たちなので
多分木というものに対しての価値観というか良さというか
木というものが我々を守ってくれるみたいな概念というのもあるんじゃないかなっていう
なるほど
あと村振で他にも面白いところで言うと
持つっていう言葉といるだとかあるっていう言葉が同じ単語で使われている
だからどっちか知らないけど英語で言うとハブがBと同じような役割になってる
あるいは逆Bがハブと同じような役割になってるみたいな感じか
だから私がお米を持っています
ここにお米がありますが同じ文章として表現されている
まあでも確かにそれはそうだよな
確かに今聞いて思ったけど同じことを示してるね確かに
所有の概念を持っていなかったらそうなるというか
それによって所有の概念というものが人間は獲得していると言えるのか
そうやね確かにね
所有の概念を私たち新たに別に持ってるってことだよねそれを逆に言うと
まあ所有の概念ってだってよく考えたらやっぱ難しいですよね
物がそこにあるというのは物理現象やけどそれが誰かの物であるっていうのは
ある人の人格を想定しないと成立しないもんやもんね
さらに家の中でも俺の箸とか俺のコップという概念があって
あるね確かに
でもそれは言われてみるとやっぱ変だよね
私が使っているコップなら正しいかもしれないんだけれども
何を持って私のというオブを付けられるかというのは結構難しいもんだよね
このオブっていうのにももう一個村振り語の特徴があって
村振り語でオブに相当するような言葉があるんですけど
オブが使えるのは自分の身体と親族にしか使えない
だからやっぱりその所有の感覚がかなり限定的なものしかないってことか
私の手とか私の足は言えるんだけれど
私のおじさん私の息子はあるんだけれど
それ以外に私のコメという表現ができない
もうできないっていう言い方しかできないんじゃないかなと思うんですけど
多分付けたとしたら不自然な言葉として理解されるってことね
多分理解されないのかな
ちょっと想像してみないと難しいんですけど
っていう感じでやっぱ所有という概念すらも
言語から来ているという可能性もすごくあるし
もう一個は方言がめっちゃ面白いっていうこともあったりして
村振りの人たちは森の中にみんなして逃げたんですけど
どっかのタイミングで各地に散らばって何個かグループができたみたいなんですよね
もともとそんな大きい母数じゃないものがさらに分かれたってことですか
さらに分かれた
著者が理解しているというか分かっている限りで少なくとも方言は3つぐらいあるらしいんだけど
面白いのが定住しない人たちなので
地名で区別するということもできなくて
何々っていう概念もなかったりするんですけど
彼らは他の村振りのグループたちは人を食べるから気を付けないといけないみたいなことを教えられているらしくて
それを避けるために方言によって言葉の意味がねじれているっていうのかな
例えばなんですけど村振り語では米を食べるっていう時と肉を食べるっていう時に
使う食べるっていう言葉が違う動詞を使うらしいんですよ
書いてあったやつが うっていう言葉とぶんっていう言葉があったりするんだけど
ある民族Aは米を食べるっていう時はうって言って
肉を食べるっていう時はぶんっていう
ある民族Bは米を食べるっていう時にぶんって言って
肉を食べるっていう時にうっていう
が例えばある対象についてしゃべ ってるとあ私たちの違う人たち
だってのがその会話の使ってる 動詞で分かるってこと
おだしょー うんでさらにそこがね男言葉
女言葉みたいなのもねじれがある らしくって
おだしょー はい
おだしょー あのよくいまだに日本 だと英語の人たちの翻訳文章とか
だと女の人がしゃべってるとそんな ことないわ昨日は最高だったわ
ねみたいな翻訳をされたりだとか 男言葉は最高だったぜハニーみたい
な言葉を使うんですけどそれも 民族によって全く逆の言葉使い
になったりするこれもやっぱ森 で突然誰かと会ったときにこいつ
らが同じ民族かどうかというもの を瞬時に見分ける方法なんじゃない
かっていう おだしょー
しかしですよしかしですよ会話 する言葉を交わさなければならない
わけじゃなくて少なくとも最低限 ねその場合はそうすると見ただけ
でわからないわけじゃないですか 逆に言うと
で例えば見た目とか衣装とかに 違いはないですかねその方言部族
の違いによっておだしょー そのどうやらそういうのは何にも
ないっぽいですよねおだしょー それ不思議だよねむしろそうし
そうな感じだけどはいおだしょー でも確かねぬらぶりはそうだった
か忘れたけど装飾品とかが限り なくないところなんじゃなかった
かなおだしょー ああそうかその場合そうか区別
するアイテムがないからもう仕方 がなく言葉っていうことなのかな
おだしょー そのピダハンもそうなんですけど
アフリカの民族たちって結構着飾 ったりとかするんですけど確か
そのピダハンとかぬらぶりとか その着飾るという概念も多分なかった
と思う そうかああそうか日本とかって着て
いる着物の色が紫だって偉いとか そういうのがあるわけですけどそも
そもそういう装飾がなかったら 目印になるものもないというんで
言葉は絶対使うわけだからそこで 読み分けるようになったってこと
なのかな おだしょー 多分どっちも温かい地域でおそら
くその半裸というか上半身裸ぐらい はみんな当たり前でその服両服
という概念が多分かなり薄いはず で着飾るおめかしをするってやっぱ
だいぶ好奇になってというか人が ある程度集まるようになってから
多分あれも集団の中での格付け のために使われるものだと思うん
ですよね 確かに
だとすると着飾るという概念という かそこに多分エネルギーも使う
気がない使う余裕もないし使う気 もない多分両方だと思うんですけ
ど そう考えると言語の動詞の使い分け
は低コストよね確かに
どうやってなったんだろうなって 思うんですけどねそんな短期間
で予想なんですけど5 600年前に一人の祖先から別れてたみたいな
言い方をしていたりするのでそうだ としたらたった数百年でそのぐらい
言葉というものは分岐してしまう
多分でも意図的なものは強かったん じゃないかなおそらくある種
ひねくれ者たちがいてキャツラ と違う使い方業界用語で逆に言う
のと一緒で多分どっか意図的に 差別化としてやったからよりクイック
リーに起こったんじゃないかな 多分自然淘汰じゃなかった気が
するけどねこれは
きっとそれは仲間を見分けるそっ かでも業界用語なんて10年ででき
てるんですもんね
そうそうそこにいる人たちがそれを 使おうと思ったらそれが文化として
成立してしまうもんねから
それも出てきてヒギカって呼ば れているらしくてスシをシース
だとか銀座をザギンって呼ぶこと によって仲間意識ができるって
言われるとすげえよく分かって 高校生たちがいまど新しい言葉
を開発するのってやっぱ俺たち だけの秘密だよねっていう仲間
意識を作るために新しい言葉を 作る
だからそれの部族版が起きたん じゃないかなきっと
そしたら5 600年で起こり得るなって 2 3世代変わったらもう区別できない
ですもんね
きっとね
っていうぐらいやっぱり言語の 変化というものもいかにすごい
大きいのか
確かに
母数がちっちゃいからっていう のもあるんかなちょっといろいろ
分かんないんですけど
普及はしやすいよね間違いなく
一瞬で移るでしょうからねその ぐらい言葉からものすごく
影響を受ける生物でありつつ同時に 言葉というものが実は集団によって
一瞬で変わってしまったりもして
はい
なんか言葉が変わってしまえば 考え方も変わり得るしやっぱ今の
生活に困っていたら日本じゃない 国に住むっていうのは大きな解決
策だと思うし
逆に例えばだけど日本の国内でも 沖縄に住むだけで多分変わる気
がするね
だからダンクルないさって言っと きたくなるもんすげえ
完全に価値観がもうちょっと違う はずやからその段階でだから国内
逃亡というか移住も一つ変化を 生むんじゃないかなこの考え方
をそのまま使うんであれば
そうですね10年ぐらい前に沖縄 に行って地元の人たちと飲み会
みたいなものやったことがあって やっぱすごくいい意味でみんな
適当で
分かる分かる
台風のときとかに現地の人から 本土の人から電話がかかってくる
のがめっちゃ嫌だって言ってて もうそんなときに本当に台風は
結構命の別れ目だったりもする みたいで台風という言葉とか概念
に対する警戒度とか理解も違った しそんなときなんて絶対働かない
的なその意思の強さも感じたし
こういうふうに言葉とか地域そうですね 地域を変えるっていうのも大きな
手段として伊達金稼ぐんだっていう 話になってくるんだけど
そうやねもっとマイクロレベル で言えば所属している集団グループ
によってもいわゆるさっきの専門 用語みたいなのが違うわけじゃない
ですか流通してる言葉の質感とか が違うわけでだから普段使わへん
語彙のグループに属するだけで 多分価値観ってちょっと変わって
いくことがあるかもしれないね そうですねだからやっぱ会社と
家庭以外の第三のサードプレイス みたいなところを作らんといかん
というのはそういう言語的な観点 からも言えるのかもしれない
でも価値観を動かすには言葉が 違うグループに入りみたいな感じ
やな そうですよね例えばラシタさん
といきなりギターの話をしよう としてもどこから説明すればいいん
だろうっていうところになって きてしまうけれどもそういうの
が通じる人だったらいろんなこと を省略して話せますからね
そうそうでそうやって向こうから 受け取る言葉とかで自分の価値観
とかあるいはもちろん相対的に 見られるっていうのもあるけど
やっぱりそこで発生してる価値観 が変わるということのほうが多分
大きいんじゃないかなミュージシャン 例えばヘナン氏本を書くっていう
仕事をしててもさとりあえず締め切り に間に合わせたらいいって思ってる
作家の人たちとちょっとでも良い ものを書こうって思ってる人たち
がいてそれは同じ職やけどやっぱり 喋ってるようなときに生まれてる
ものっていうのが多分違うはず で言語として喋ってるものは
同じでもそこの触れられる価値観 っていうのは違うわけかな
サード言語プレイスっていうのを何か 意識して持つないしある観光客的に
他の言葉の使い方にちょっと触れて みるみたいな感じだから移住まで
しなくても旅行とか観光だけでも ちょっと変わるところは本格根本
的には変わらないかもしれない けどなんかちょっと変化があり
そうな気がしますねこうやって 話聞いてるだけでちょっとすごい
なと思うんですからまず
そう作家はなんていうんだろう 締め切り遅れる自慢というかああいう
世界の人たち多いですよね
そうやって喋ってるとそういう もんやっていうふうにインプリント
されていくわけやんかどんどん そうあれねいまだにどう考えても
おかしいしねなんか悪いことじゃない みたいな言い方までする人が大半
じゃないですか良いものを出すんだ から限界まで良いものにするんだ
っていう職人根性ともちろん褒 めることはできるんだけれども
個人的にはそれは非常にけしからん 風習だと思っていて
そういういろんなグループに触れる ことで違う考え方もあるんだよ
なっていうのは多分覚えるでしょう ね
やっぱりそこにはそういう文化 ができてしまっていてそこから
外れると変なものになってしまいます から締め切り守れるなんてすごい
ですねって言われるって
言われるね
それだって普通大人はやるべき ことだよねっていう
昔の作家さんはちょっとそういう 社会のレールに乗れない人たち
の集まりやったからね昔の作家 さんは今はちょっと違うと思う
けど
割合で言ったら社会のレールに 乗れない人の割合が高くなるのは
多分職業が特殊であればあるほど 母数がちっちゃければ起こり得る
とは思うのでそういうことが起こり 得るんでしょうねそうやって文化
がそんなレベルでも変化したり するので
だからゴロッと変わることも全然 あると思うね逆に
そうねゴロッと変わる可能性も あるのか
あるとこれこそ言葉は後ろに価値観 があるから価値観の概念があって
そこから発される言葉が考え方 とかを広めていくというある程度
狭いグループのほうが広まりやすい というのはあるでしょうね
そうですねそういうのもあるかも ですねあと村振りの中で最後に
っていう感じで一番影響を受け たというか考えさせられた大きな
お話があってその村振りの著者 が村振りの人たちと何ヶ月かな
一緒に暮らしてて遠くに離れた 家族がいてその人に会いたいって
すげえ言ってるやつがいて著者 もちょっとやる気になってよし
俺が頑張ってお金を出して家族 のところに連れてって言ってやる
かって言って車を借りてえとか だったかなちょっと細かくはあれ
なんですけど家族を遠く離れている 家族を一緒に会いに行って連れて
行って感動の再会っていうテレビ 的なやつっていうところに連れて
行ってあげたんだけどれども抱きしめ あって涙を流して喜ぶみたいな
ことも未人も存在せずただ隣にいて いつも通りな感じで喋って盛り上がった
りも何もせず普通にノーノーと しているというの何もいつもと
変わらない感じでやった会えた みたいな感情が未人も感じられ
なかった著者からしたらそれって 日本のテレビに慣れた我々から
したらそこで感動の再会がない ってテレビとして成り立たんやん
っていう
おだしょー 没フィルムになってしまうねそれは
大平 でも村振りの人たちの感覚 は感情を表に出すことはよくないん
ですよねかっこよくないし幸福 だと思わないし誰かと一緒に会って
盛り上がってるっていうことが 良いことだと別に思ってないんですよ
ねそういう人たちの感覚でいえば ずっと会いたいと思っていた人たち
に会って笑って騒いで盛り上がって ということすらも価値観として宗教
というか文化が作り上げた価値観 なのではないかっていうのを読ん
で例えばせっかく友達と会った のに全然盛り上がらんかったな
みたいなのって日本の的な価値 観でいうとお前それ本当に仲が
いいのみたいに言われると思うし とはいえもうちょっと現代的な
話で言うとただ恋人同士ただ隣 にいてお互い漫画を読んでいる
だけでそれが幸せな時間の過ごし方 だという価値観は存在はしているん
だけれども
おだしょー オタク界隈では存在している
おだしょー やっぱ主流ではない ですよねでもさらに言うとマッチョ
な人たちがそういうオタクを見て うわキモーとかって言ってるっていう
印象はあるんですけどそれは正しい あなたにとってはキモいかもしれない
けれども何らおかしくないよね っていうのを思い知らされた感じ
がする なるほどねそもそも人はなぜ笑う
のかというような話になってくる わけやけど基本的に笑いの構築
方法として緊張と緩和というの があるわけですけど笑いってある
種の危機的状況緊張感がここで リセットされますよというシンボル
なわけですね笑うという行為は 日常が散るの場合だから緊張がない
わけでそもそも笑うという解消 も特にいらないということねきっと
笑うことはもちろんいいことだ と思いますけどそれは裏側にある
種の緊張があったんだよということ の証明でもあってそれがなしで
済むんやったらなしで済むでいい そっちもありですよねというの
をちょっと今感動の再開のエピソード 聞いて思いましたね
あれかもしれないですね高倉健 みたいなお父さんっていう価値観
がちゃんとなんて言うんだろう なんか謎のかっこよさみたいな
評価をされたりするんだけれども そうじゃなくそういうことが良い
と感じる人たちはいるわけでだから そこら辺の人と適当に仲良くな
れたりとか喋れたりしたほうが いいよねって思ってそうできる
ように努力をしてきたと思うん ですけど自分がそれは正しいのか
正しいという言葉がちょっと雑 だけど
そうだねだから自分の人生にとって どれだけ機能的か何か適切かっていう
だから当然その各部族と僕らが 住んでる文化とか環境が違うわけ
やからその戦略をそのまま転用 はできひんわけで当然このカルチャー
におけるある種の適切な戦略っていう のはあるわけですけどだからと
いって僕らが今まで継承してきた やり方が絶対正しいとは言えない
わけでだから接中案とかではない けど何か取り入れることはだから
仲良くなれることも別にいいし 例えば30分瞬間的なバカ騒ぎして
はい解散っていうのも一つの戦略 としてはありやなとは思います
けどね
そうですねだから逆に言えばそうですね そうやってバカ騒ぎを合わせて
できるということすらもやっぱ テクニックとして使えれば
そうやね
極論だからそれはあなたが楽しい とかではなくてそういう文化で
みんなが楽しいと思うことなので そういう場の空気を尊重するという
のも別に自分の価値観を汚すとか 損なうということじゃなくてある
限定的な立ち振る舞い言葉を強 けば演技みたいなもんであって
そういうのを引き出しとして持 っといたほうが得するっていう
たれけど損しない機会は多いかな という気がします
そうなんかねやっぱ得とか損という 結論になってしまうのは良くないん
だけどでもやっぱテクニックとして 周りの人と合わせられる
うんっていうこともやっぱりそれは だから例えばピーター・ハーン
にしても何にするその人の人が 強い価値観を持ってその世に立ち
振る舞ってるわけじゃなくて文化 がそうなってるからそうしたわけ
ですね基本的に
だから僕らも僕らの文化の中が あってある種適切な立ち回り
っていうのがあるけどもそれとは 別の価値観を持つこともできる
っていう選択肢を増やすという 意味でこういう多文化多民族に
触れることの価値っていうのがあるん じゃないかなこうして日本は駄目
だろうになるとやっぱりそれは 間違ってると思うんでそれは駄目
な部分もありますけどだからそういう 相対感と自分の選択肢を増やす
という視点で見れたらなんか良いん じゃないかなとは思いますね
大平 そうですねあと同時にやっぱり
少人数で例えば結婚相手パートナー を選ぶときだとか友達を選ぶとき
にいかに一般的な価値観で判断 してはいかんかというか友達と
会ってお互い無口な人同士で全然 話が盛り上がらんかったなって
お互いに帰ってきてこの人一緒 にいて楽しいと思ってくれなかった
のかなって思うのではなくそれが お互いに良かったりもするでも
それを言葉に出さないと分からない 難しさというのがまたあったり
するんだけど
寺田 そうだよねでも一回どっかで 確認を取らなきゃそれはなんで
確認を取らなきゃかっていうと 僕らの先入観として騒げば楽しい