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2024-01-16 57:32

BC081 『ピダハン』と『ムラブリ』から考える価値観への文化の影響

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面白かった本について語るPoadcast、ブックカタリスト。今回は『ピダハン』と『ムラブリ』という2つの民族から考える新しい価値観について語りました。

ムラブリは読んでから半年以上、ピダハンは1年以上経過している本ですが、どちらも今でも強く印象に残っていて、読書メモもそれなりにきちんと残っています。

そのおかげで、メモを見ながらであれば、だいたいのことを思いだすことができて、だいたいのことは「語る」ことができるようになったな、と実感した回でした。

ブックカタリストを始めて、現在で大雑把に3年くらいが経過。やはり、そのくらいの期間続けていると、いろいろなことが「スキル」として身に付いてきたな、と感じられています。

今回は(たぶんごりゅごとしては珍しく)テーマを設けて、そのテーマに従って本の紹介をするというスタイルでした。

こういう形式で本を紹介できるようになったことも、これまた今までとは違う本の読み方ができるようになったからなのかもしれません。



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サマリー

ピダハンとムラブリの言語から学ぶ文化の価値観について語られます。ピダハンの言語では、色や親族を表す言葉が存在しないなど、数々の特徴が共通しています。また、ピダハン語は長い単語や音の上下で意味が変わる言葉もあります。また、ピダハン人の信仰は素朴な精霊信仰であり、言語からもその影響が感じられます。一方、村振りの言語では所有の概念が限定的であり、方言によっても言葉の意味が変わることがあります。また、村振りの人々は感情が上がることを嫌い、下がることをポジティブに考える傾向があります。さらに、男言葉と女言葉の使い分けや着飾りの概念の違いも存在します。これらの言語の変化や地域の特徴は、考え方や生活に大きな影響を与える可能性があります。日本のテレビに慣れた我々からすれば、感動の再会がないと成り立たないという村振りの人々の価値観や文化の違いについて考えさせられるお話です。言語の影響としては、例えば英語学習やテレビ番組用語の表現の違いを感じることがあります。言語の観点で見ることで、身体化しやすくなるかもしれません。

ピダハンの言語と文化
面白かった本について語るポッドキャスト ブックカタリスト
第81回の本日はピダハンとムラブリの言語から学ぶ 我々の文化の価値観について語りたいと思います
はいよろしくお願いします はいお願いします
ゴリゴ的信念1回目の本の紹介になるんですが たぶんこれまでにも結構細かなアフタートークとかが多いかもしれないですけど
細かなところで影響を受けたとか面白かったってよく言っていた本 一つがピダハンというやつね
ミスズ書房から2012年に出ている本で 既にもう10年以上経過している本なのかな
この辺の分野ではたびたび参照される本ですよね この本は
そうですね もう一つがグラブリというエシュエーシャインターナショナル これは2023年の2月に出た本なんですけども
どっちもいわゆる少数民族のところに行って そこで生活をしてみて そこから学んだことってなんかめっちゃ面白いねっていうのが大雑把な話だったりして
ちょうどね1年前に運動の神話とかで 例えばハッザ族っていうなんかそういう人たちとかも出てきたりしたんですけど
なんかね話していてっていうかずっと思うのがやっぱ 全く異なる西洋文化の影響が少ない人たちの言語だったり文化だったり価値観だったりっていうものを考えてみると
これも哲学と同じく常識というものがどれだけ常識じゃないのか つまり構築的な構築されたものということかな
そうですね我々があまりにも無意識に当たり前だと感じてしまっていることって 多分一つは進化論的に生物が長年かけて人類が作り上げてきた
すべての人類にほとんど共通であろう項目っていうことと もう一つ
全く気づいてないんだけど 構築的に文化によって獲得した価値観だったりなんだったりっていうものに大きく分けられると思っていて
思ったよりその文化から影響を受けていて当たり前だと思っていることが相当多いんじゃないのか
なるほど
答えが出る話ではもちろんないんですけど そういうことを考えてみると例えばずっと考えている幸福に生きるということは何なのか
どういうことを考えたらいいのかみたいなのも この国のこの世界の文化がこれを幸福だと言っているというものが
好転的なものだとするならば対策はできるじゃないですか
確かに
っていうようなことのヒントになればいいなと思って この辺りの話を取り上げてみたいと思いました
はい 一応簡単に初始情報をそれぞれいただいていいですか
はい さっき軽く言ってたんですが 一冊ピダハンはミスズ書房から出ているダニエル・エル・エベレットさん
この人はキリスト教の宣教師です
なるほど
で もう一つがですね 村振りというのは 衆英社インターナショナル2013年から出ている伊藤祐真さんという方で
この人は確か大学生の時に民族学とかそっち系のことをやっていて 現地行ってて
フラフラしながら大学のお仕事を大学で仕事ができるようになったのに やっぱ辞めてしまったみたいな人
っていうので これも偶然なんですけど ちなみにこのピダハンを書いたダニエル・エル・エベレットさんは
キリスト教を布教するためにそのピダハンがいるところに行ったんですけど 最終的にキリスト教を辞めてるんですよね
その現地の体験によってってことですか?
まあ直接そういうふうに書いているわけではないけれども そうとしか読めないぐらいの勢い
へー
そのおそらくなんです キリスト教的な価値観をピダハンの人たちに知らしめるために
そのキリスト教ってそういうことになんかね やっぱめっちゃ予算とかをつくみたいなんですよね
意気込んで行ったんだけれども もう何年だったかな 10年20年というレベルで 違うわ30年だ
断続的ではあるんですけども 30年ピダハンのところに住んでて 最終的に家族 奥さんとも別れて
そのキリスト教というものを辞めることを決断してしまった
すごいね
っていうぐらい あらゆる価値観がひっくり返されたんじゃないのかなっていうのは
やっぱ読んでて思うんですよね
で もう一人の伊藤雄馬さんという方も この人は割と現代的な人っていうか
なんて言うんだろう 働きたくない系っていうか そのガツガツ働かない系っていうのか
雑な言い方をすると なんかつまらなくなって 結局全部辞めちゃったみたいな感じなんですけど
でも大学の仕事を捨てて やっぱ何か辞めてしまってっていうのは
何らかの感じるものがあったんじゃないかなと 思わずにはいられない
偶然というか 我々も大きな意味では会社というか そういう一般的な仕事にはしていない人たちではあるので
たしかに
何か学べるところがあるかもしれない ヒントっていうのは違うんかな
何か影響みたいなものがあるのかもしれない
なるほど
で ちょっとずつ本編なんですけど どっちピダハンにしてもムラブリにしても
共通して言えるのが まず言葉が根本的に違いすぎる
それは言語の体系が違うということ?
そうですね それをちょっとずつ順番に紹介していこうと思うんですけど
やっぱ言葉が違うから考え方が大きく変わるっていうか
我々が文化として獲得してるものって まず大きな意味でめっちゃ言葉に縛られてるんじゃないのかなっていうことも
読みながらすごい思ったところで
例えば まず絵っていう話で言うと
ピダハンの言葉はまず色というものが存在しないらしい
赤とかレッドとかブルーっていうものを呼称する名詞とか形容詞がない?
名詞がない 例えば黒っていうのは日本語に翻訳するとなんですけど
血は汚いっていう言い方をすると 黒を表現するものになる
だから逆に日本語で言うと 血は汚いがある種メタファーとか例えとして
黒を表すときに使われるかもしれないけど
もうそのメタファーを遊ぶのが色的なものとして扱われてるってことかな
そうですね だから色というものがなんて言うんだろう
概念として多分入ってきていないんですよね 思考の中に含まれない
もちろん彼らが色を見分けられないわけではないですよね
多分ただ言語がないと解像度が下がるので
そうか そもそも見分けられてるかどうかを実験はできる
だって我々も例えば緑って言うけど 緑の境界線ってすごく曖昧で
それを日本だとうぐい水路みたいな言葉があることで ああいうところにラインが引けるんですけど
そういうところが多分もっと少ないからもっと解像度は低いんじゃないかな 色の見え方に対する
だからとりあえず色そのものを名指す名詞がないってことね
そうですね 白のことをそれは見えるとかそれは好きっていう言い方をしたりだとか
緑は今のところ未熟
なんか分かるね 語感は分かるよね 日本でもメタファーとして
あいつはまだあの青いやつやとかっていう言い方をするから
そっちの青いやつっていう方が概念として成立されてるっていう なかなか不思議な感覚やね
うん だとか他にもなんじゃこりゃっていうので言うと
ムラブリの言語と文化
例えば親族を表す言葉ということがめちゃくちゃ少ない
親とかおじいちゃんとか孫とかひいとことかそういうことね
日本だと例えばで言うと兄と弟を区別するけれども
英語では兄と弟は全部ブラザーで一括りですよね
とか漢字で書けばおじいっていうのは父方と母方で分けたりするけれども
多分現代の日本人はそこを感覚としては分けていないですよね
そうですね 確かに
ただそれを例えばどこの国か忘れたけど
そういうのをやっぱ明確に区別する言葉もあるんだけれども
ピダハンはその親族を表すっていう言葉がめっちゃ少なくって
その親と同胞 娘 息子ぐらいしかないみたい
一親と二親とぐらいを区別する
しかも直近の一親と二親とぐらいを区別するってことか
ですね きっちり書いてあったわけじゃないんで分かんないですけど
父親母親みたいな言葉すら多分ないんじゃないかなっていう
息子娘はあるっぽいんですけど
それ面白いね
でもある人間とか子供に対する保護者的なものはあるけど
それが男女の性別によって区別はされないってことね その場合は
さらに言えばたぶんおじさんもおじいちゃんも一緒なんですよね 大雑把に言えば
なんとなくイメージはつくね
さらに親族を表す言葉が少ないことと関係しているのかどうか
近親婚も多い
それはでも関係してそうよね
組織がちっちゃいっていうのはもちろんあると思うんですけど
そういうものがないだとか
まだまだいろいろあって
さらに言うと比較級みたいなものもない
ほにゃららと比べてほにゃららだっていう言い方がない
みたいですね だとか
さらに言うと数の概念がそもそもなんかないっぽい
よく言われる
1 2 3 までは区別できるけど
4以上区別できひんってそういうノリなのかな
そういうノリで数えるとか計算をするということが
そのやっぱ概念として存在していない
なるほど
なんかピダハンの人たちに頼まれて
8ヶ月間ぐらい
その著者が数字算数を教えたんだけど
成果がですね
10まで数えることはできなかった
でこれね全くというか
ほとんど同じ話が村振りにも出てくるんですよ
村振りの人たちも
数字が10までしか存在してなくて
4という言葉っていうのが
たくさんっていう意味も持っている
でよく飲み会とかで盛り上がると
10まで数える遊びっていうのが発生するらしいんですよ
よし俺やるぜとか言って
多分なんですけど
1 2 3 4
C1分からんみたいになるっていう
でもそれは多分どうやら
絶対に覚えられないわけではないよね
きっとその脳的に
脳科学的に覚えられないというよりは
慣れてないから
慣れるのに時間がかかるという感じなのかな
まああの多分書いてあったことを踏まえての
想像なんですけど
結局全く興味を持てない
っていうことだろうね
この人たちは数えるということが
そういう雑学ゲーム的に
勉強するかもしれへんけど
それも生活の知識にとしては
定着しないってことだろうね
きっとなんかね
俺たちが徳川十五代を順番に言うより
もっと興味がないんだと思う
そうよねきっとね
っていうぐらい数えるということに
共通する特徴
全く興味が存在ないし
その少なくとも
村振りって東南アジアのタイと
ミャンマーの国境辺りだったかな
でピダハンって南米大雑把に言えば
ブラジルなんですよね
地域的にうんぬんというわけではなくて
やっぱ多くのそういう西洋的なというか
文明的なっていう言い方は
よくないかもしれないけど
そういうところに馴染んでいない人たちが
やっぱまず数とか数字みたいな概念が
存在していなかった
だから効率なんて
多分そんな次元に至らないんですよね
計算できる効率を測定できひんしねそうそう
早く終わるみたいな概念も多分ないし
この二民族といってからは
経済圏というか生活を例えば
その糧を得るとか
自分のものを誰かに売るないしは
譲るみたいなどうなっている
えっとね全般的にどっちも
商業的な行為は限りなくないですね
いわゆる時給時速方面の濃厚をしてない
どっちもそういう生活では
そもそもカウントするという行為そのものが
日常的には発生しないということなんだろうね
そうですねだから想像なんだけど
やっぱ農業が数学に密接に関連してるのは
ほぼ間違いないじゃないですか
うんそうですね
小読みを知らないといけないとか
やっぱ農業がそういう現代的な学問を
加速させたというか
ものすごく大きなターニングポイントになったんだろうなって
感じはするかな
うーん実際例えば古代でも
この数が使われたのは
多分税金の記録とかっていう話も聞くし
やっぱりそういうやり取りの要請によって
数的な概念が人間の中で発明開発されていったけど
それは絶対的なものではないということが
この二民族から分かってくるみたいな感じですね
そうですねだからそのぐらい
何て言うんだろう
何て言うんだろう
足し算ができないと生活に困るよねって言って
小学校で教えられて
何年もかけて
九九を覚え足し引き算割り分数を覚え
小数を覚えっていう
高度なことをやっているんだけれども
その10まで数えるすら興味を持ちもしない
っていうまず生き方があるというか
そういうことが何て言うんだろう
間違っていないというか
ピダハン語の特徴
間違ってはいないね
それで生活が成立するんやったら
一つの生き方ではあるね
っていうのがまずやっぱそこに
結局は俺は読んだだけなので
そのやっぱ体感
体で感じている度合いは少ないんですけど
これを例えば一緒に暮らしてみて
何ヶ月でも過ごしてみたら
やっぱ何て言うんだろう
価値観の大きな転換には
起こるだろうなということも
やっぱ思うんですよね
誰かが持つ価値観っていうのは
その周りの影響によって
それもまた後天的に構築されていくもので
環境が変われば
それも変わっていくっていう感じだな
あとそうですね
この本この2冊の本ではなかったんですけども
高野さんの話とかでよく出てくるところで
やっぱこの手の民族
だいたいそのありがとうとか
ごめんっていう言葉がない
それも確か村振りには書かれていたと思うんですけど
ピタハンに出てきたかな
どっちにしてもおそらく
やっぱそういう概念がないんですよね
不思議なじゃあ逆になぜ
僕らはそれを持ってるんだろうね
遠い距離感の人と顔見知りじゃない人と
うまくやっていかないといけない
要請によって
ごめんなさいとかありがとうございます
という言葉が発生したっぽい
なるほどね確かにそうかもしれない
会う人が全員顔見知りであると
なんかそこの必要性というのが
やっぱ文化としては出てこないっぽいんですよね
だから変な言い方するとそのグループ
親族グループなりそこの集落っていうのが
多分ある一つの体を成しているというか
一つの存在であるとしたら
例えば僕は僕に謝らないじゃないですか
自分は自分に謝る
多分その感じじゃないかなというふうに
ちょっと想像しますね
そうですねだから個人主義というものが
あまりにも当たり前すぎて
一度もという勢いで疑ったことないんだけど
だから個人主義という概念すら
文化なのかもしれないというか
俺の命が大切すら文化なのかもしれないというか
っていうことやね
そういうことやと思うきっとね
だとすると例えばなんですけど
江戸時代の人たちが自分の身を捨てて
家を守ろうとしたとか
そういう概念とかっていうのも
やっぱ俺たち江戸時代に生きていなくって
想像はしがたいんですけど
なんか少しは理解に近づくかな
っていうような気もするし
少なくとも一方的にそれが不幸やったと
断罪することはできなくなるね
その子が残ることが重要ではないと考えて
考えてじゃないな
なんかそんな次元じゃないっていうのかな
もっとこう無意識の価値観レベルの話やもんね
っていう意味でやっぱそのある意味ね
死ぬことの恐れがちょっと減るような感じもして
こういうのを読んでみると
もし個人主義は死の恐れを強めてると言えるんじゃないかな
逆に
そうだからそういうものを知るだけでも
多少なりとも死の恐怖みたいなものは薄らぐし
いろんな悩みみたいなものも
こういう人がいるんだなって
知るだけでわかるっていうので
やっぱね文化が異なれば異なるほど面白いというのかな
っていうのがいっぱいあって
他にも何かもう無数に
例えばこれは言語の特徴でしかないんですけど
音素が少ないから
すげー聞き取りにくくって
言葉が長いとか
英語は音素が40あるらしいんですよ
AとかAとかAとかQとかSとか
ピダ半語は何か11個しかないらしくって
なんかねあの全般的に言葉がめっちゃ長くって
でそのくせに成長言語
あの音の上下によって意味が変わってくる言葉なので
なんかねものすごいね
喋ってるのが歌みたいに聞こえるって言って
そんなんとかもあの調べ
確かにYouTubeで
あのそういうピダ半の
なんか歌っていうか喋りみたいなのが見れるのとかもあったので
あの興味あったら見ていただくと面白いんじゃないかなと
とか男女で使う詩音の数に差がある
言葉から感じる信仰
どっちが多いの?
男が11で女が10らしいですね
あでも1しか違わないのね
逆に女性が使わない詩音があるってことか
でしょうね
多分その男臭いようななんか音っていうのがあるんだろうなっていう
でその正門閉鎖音っていう
なんかその変わった声の出し方があるおかげで
そのおそらく真似するのも難しい
喋るのもすごく難しく
全般的に単語が長くて
その音として長いとかっていうのだったり
同時にあの声じゃないコミュニケーションっていうのが多いっていうのかな
あーなるほど
口笛とか舌打ちとか
そういう音で意思疎通をする
どうなんだ割合はどっちが多いんやろうね
そのえっと
大体の書いてある文脈
漢字で言うと狩りの時に音を出さない
正門声帯を震わせる音みたいなのって
全般的になんか動物に警戒されてしまうので
そういう時の合図として
そういう舌打ちだったり
口笛だったりっていうのをよく使っていて
そういうのでだからえっとどっちかって言うと
もう極度動物に近いコミュニケーションだと思うんですけど
まあそうだね確かに
言語的ではないコミュニケーションがある
やっぱそこから言葉が発生したんだろうなっていうのも
そこから想像ができる
考えてみるにですよ
進化言語学みたいな考え方を取った時に
長すぎる単語って
本来短くなっていってもいいものなのに
それが保存されてるっていうのは
ちょっと謎めいてるというか
何か要因があるのかなというのはちょっと思いましたね
それはね言われてからの予想なんですけど
歴史と母数が少ないから
まだ収束しきっていないのではないか
そっかそっかそっか
要するにその寿命が長い生物の進化は遅いみたいなと
同じことってことね要するに
ですねあとそもそもピダハンの人数が少なくて
で所詮我々が数百年で一気に変わってるじゃないですか
で数百年レベルの誤差っていうのが
その母数が少ないから余計怒る
確かに
大雑把に言うとやっぱだから
2、3000年前ぐらいの言語に近いんではないか
というような想像もできるし
そうかな和社が少ないってことは
話されている会話そのものの
総数も少ないということで
その進化的な変化が確かに発生しにくいか
なるほど考えたことない
だからまだ収束しきっていないんじゃないかなっていう
とか結局使う場面的に困ってないから
変わらんのだろうなと思うし
日本語だってもはや横文字なしには
会話できなくなってますからね今や
確かに確かに
多分江戸時代の人とは会話ができないぐらい
言葉が変わっているし
ピダハンは江戸時代から多分大きくは変わっていない
だからそのある種言語的鎖国状態みたいな感じか
なので多分そういう学者の人たちが
やっぱそこに古代の秘密というか共通点とか
そういう進化の流れみたいなことが見出せたりするから
やっぱそっち系の人たちは
好きなんでしょうね
そういうところに行って体験するというのが
あとやっぱなんて言うんだろう
生命とか宇宙とか
そういうような感じの言葉みたいなのが
結構いっぱい言語としてなんか存在していて
なんかビギーとオイーという概念があって
なんか宇宙は階層からできている
みたいな考え方をしていて
階層は何それ漢字変換できんかったけど今
階段の階に一層二層の層
レイヤーの層が
そうですねレイヤーとしてできていて
そのあたりもやっぱり
著者も相当わからんかったみたいだし
俺もね読んでもやっぱあんまわからん
なるほど
やっぱその世界の捉え方が言語で決まるんだろうなとも思うし
そういう概念ずっとわからんかったらしいんですよ
そういうこと言われても
その何を言ってるかが本当にわからん
翻訳ができないというのはまさにそういうところで
そういうわからん概念もやっぱりすごくいっぱいあるだとか
あと官僚系という言葉すらないみたいなのもあったかな
言語と概念の関係
英語で言うとハブプラスホニャララっていう
加工分子みたいなので書くやつ
そうですね昨日魚を捕りました
っていうのが大雑把に言うと
私は魚を捕った昨日みたいななんかそういう
常に発話の時点に序述的な言葉を使うとか
なんかそのイメージなんですけど
昔の物語とかって変な日本語っていう印象があるんですよね
その時何々は言ったみたいな感じの
なんかそういう系の喋り方なんだろうなっていう
なので歴史とか創世神話とか民話とか
宗教的なものが何も存在していない
それすごいね
だからそれもまた多分集団がちっちゃかったから
精霊信仰から次の文化に行ってないんですよね
多くの人類が体験した
巨大な共同体を維持するための宗教の養成というのがなかったから
ある種素朴な宗教観だけで成立していると
できてしまっているそれが今も残っていて
それが言葉からも推測ができる
なるほどでやっぱここまで考えて思うんですけど
キリスト教をどうやって広めるのっていうのが
いかに難しいかもやっぱ想像できるんですよね
そうだよね確かに神様ないので
そうやな例えば日本の場合は神直接はいなくても
そのほにゃららの見事とかあるいは仏的なものがあるから
なんか超超超越的な存在っていうのは認知できるから
まあそこに神っていうのをスライドさせることはできるけど
そもそもそこの概念がないやったら
その新しくビルドしてもらうのはかもね
かなり難しい
存在しない言語を与えないといけないので
そうやなそうやね
なんかあのね日本でもキリスト教伝来の時って
最初期は神というデウスという言葉ではなくて
菩薩って言って神の概念を理解してもらおうとしてたらしいんですよね
ただそうすると不都合がありすぎて
あまりに違うっていうので結局そのデウスっていう言葉で
その神という概念はもう外来語を当てるしかなかった
キリスト教はそもそも出発地点から
その他の宗教の神様とかイベント的なものを取り入れて
でまあその排他的というよりは
融合的に広めてきたっていう歴史があるわけですけど
そもそもその融合させるそのものの宗教がないと
確かにそのキリスト教の根も伸びにくいよな
日本でも一応ヤオヨロズの神というか
神という言葉があったかどうかちょっとよくそこら辺はわかんないんですけど
いわゆる精霊信仰からもう一個違うような段階に
ちょっと特殊なのかな日本の場合は
それでもこの世界を作った神とかスサノオとか
ああそうですねあの辺りの古事記の話とかがあるので
だからそこは一応神的な概念はあったから
まあ一応理解は翻訳できたようなきっと
そこがそのピダハンダツのビギーとオイイなので
そのどっから手をつけたらいいかわからん
なるほどねっていうレベルでやっぱり言語がないと
だから神様という概念を説明することすら言葉がないとできない
確かに逆に言うと言葉があれば神様という一言で
なんか大体我々は共通するイメージを持つことができてしまうとも言えるし
だから逆に神っていう言葉を覚えるとき
つまり幼少期からその言葉を使えるようになるときに
その概念が一緒にインストールされるってことですね
ですねそういうことになるなだから神という言葉の二本
その二文字知っててその辞書に書いてある言葉が暗証できるとかじゃなくて
その言葉が使えるっていう段階でその概念がセットになってるから
そのやっぱりその幼少期レベルでそういうの
僕らはどんどん言葉を覚えるとともに
概念もインストールして成長していくってことねこれは
そう結構なんかねやっぱ言葉が違う言葉だから何もかもがやっぱ違うというのが
こういうことを言われてみるとどんどん思うというのかな
村振りの言語と所有の概念
世界をどう見ているかそのものがもう違ってるってことだよね
そうやっぱあの結構ね哲学に繋がってくるんですよね
大体がその違うゲームをしているになるのか
だから例えばピダハン語で哲学は可能かみたいなことを問うこともできるよね
だから俺たちができる哲学ではないものにはなるんですよね
だから言語がないと哲学ができないというか
あの外国語の哲学を学ぶことがいかに難しいかというか
結局だから多分カントを理解しようと思ったら
なんならドイツ語を学んだ方が早いんじゃないかとも言えるかもしれないし
ドイツ語の彼がよく使っている述語とかの関連になれるためには
そのドイツ語の文脈で捉える
特にドイツ語その例えば日本語の存在っていうその言葉のニュアンスも
多分違うはずでそこは言語に慣れてからのほうがいいでしょうねきっと
そうですねあのハイデガーとかがよく言われてますからね
あの現存在とかあのあたり足らねえから無理やり当ててるけど
やっぱドイツ語で考えればもうちょっと簡単だみたいなことを言われるし
うんあのなんだっけSみたいな言語言葉になんかつけたりとかしているんだったかな
なんかっていう感じで何もかも違っていて
あと同じようなことがその村振っていう民族とかでも言えるようなことがあったりして
村振でね代表的にねすげえなって思うのが
上がると下がるという言葉から受けるニュアンスが逆の意味で使われる
日本語で例えば上がるって言うと例えばその何かが上昇するとか気分が興余するとかっていう意味やけど
逆の印象を覚える反応?
そう感情が上がってくるというのは良くないことらしいんですよ
あーなるほど
感情というのは下がることが良いことで
これは村振っていう民族の特徴みたいなんですけど
とにかくね争い事が嫌いで人と喧嘩をしたくない
さらに言うとこれは歴史を踏まえた上での著者とか学術門方面での予想なんですけど
どうやらかつて農業をしていたのにその中から一部の人たちだけが逃げ出してその農業を捨てた民族臭い
その創始者も何人とかっていうレベルだったかな
村振60人のDNAが500年から800年前のたった一人の母親に繋がっていた
っていうレベルの超遺伝子が近い人たちの集まりで
多分やっぱ性格というか性質としてもすごく似た人たちが多い
とにかく人と争うのが嫌だから感情が上がってくるということがネガティブなこととして表現される
テンション上がると喧嘩の原因にもなるもんね
良い状態というのは散るい状態だっていう表現をされていて
すげーわかりやすいなっていうか
さらに言うと最近の文化だから下がることがポジティブに日本でもなってきているというか
チルという言葉を形容詞化することによって
我々も下がることが良いことだっていうような概念とかも獲得していたりするとか
村振の人は丸太がたくさん積まれた写真を見て心が下がるといった
これは何だとかいうといい気がたくさんあってそれが良いことだって感じるらしい
安心感みたいなものとしてフォーカスしてるわけね
丸太いっぱいあるぜっていう高揚感にはならないということよね
森林で生活している人たちなので
多分木というものに対しての価値観というか良さというか
木というものが我々を守ってくれるみたいな概念というのもあるんじゃないかなっていう
なるほど
あと村振で他にも面白いところで言うと
持つっていう言葉といるだとかあるっていう言葉が同じ単語で使われている
だからどっちか知らないけど英語で言うとハブがBと同じような役割になってる
あるいは逆Bがハブと同じような役割になってるみたいな感じか
だから私がお米を持っています
ここにお米がありますが同じ文章として表現されている
まあでも確かにそれはそうだよな
確かに今聞いて思ったけど同じことを示してるね確かに
所有の概念を持っていなかったらそうなるというか
それによって所有の概念というものが人間は獲得していると言えるのか
そうやね確かにね
所有の概念を私たち新たに別に持ってるってことだよねそれを逆に言うと
まあ所有の概念ってだってよく考えたらやっぱ難しいですよね
物がそこにあるというのは物理現象やけどそれが誰かの物であるっていうのは
ある人の人格を想定しないと成立しないもんやもんね
さらに家の中でも俺の箸とか俺のコップという概念があって
あるね確かに
でもそれは言われてみるとやっぱ変だよね
私が使っているコップなら正しいかもしれないんだけれども
何を持って私のというオブを付けられるかというのは結構難しいもんだよね
このオブっていうのにももう一個村振り語の特徴があって
村振り語でオブに相当するような言葉があるんですけど
オブが使えるのは自分の身体と親族にしか使えない
だからやっぱりその所有の感覚がかなり限定的なものしかないってことか
私の手とか私の足は言えるんだけれど
私のおじさん私の息子はあるんだけれど
それ以外に私のコメという表現ができない
もうできないっていう言い方しかできないんじゃないかなと思うんですけど
多分付けたとしたら不自然な言葉として理解されるってことね
多分理解されないのかな
ちょっと想像してみないと難しいんですけど
感情と言葉の関係
っていう感じでやっぱ所有という概念すらも
言語から来ているという可能性もすごくあるし
もう一個は方言がめっちゃ面白いっていうこともあったりして
村振りの人たちは森の中にみんなして逃げたんですけど
どっかのタイミングで各地に散らばって何個かグループができたみたいなんですよね
もともとそんな大きい母数じゃないものがさらに分かれたってことですか
さらに分かれた
著者が理解しているというか分かっている限りで少なくとも方言は3つぐらいあるらしいんだけど
面白いのが定住しない人たちなので
地名で区別するということもできなくて
何々っていう概念もなかったりするんですけど
彼らは他の村振りのグループたちは人を食べるから気を付けないといけないみたいなことを教えられているらしくて
それを避けるために方言によって言葉の意味がねじれているっていうのかな
例えばなんですけど村振り語では米を食べるっていう時と肉を食べるっていう時に
使う食べるっていう言葉が違う動詞を使うらしいんですよ
書いてあったやつが うっていう言葉とぶんっていう言葉があったりするんだけど
ある民族Aは米を食べるっていう時はうって言って
肉を食べるっていう時はぶんっていう
ある民族Bは米を食べるっていう時にぶんって言って
肉を食べるっていう時にうっていう
が例えばある対象についてしゃべ ってるとあ私たちの違う人たち
だってのがその会話の使ってる 動詞で分かるってこと
おだしょー うんでさらにそこがね男言葉
女言葉みたいなのもねじれがある らしくって
おだしょー はい
おだしょー あのよくいまだに日本 だと英語の人たちの翻訳文章とか
だと女の人がしゃべってるとそんな ことないわ昨日は最高だったわ
ねみたいな翻訳をされたりだとか 男言葉は最高だったぜハニーみたい
な言葉を使うんですけどそれも 民族によって全く逆の言葉使い
になったりするこれもやっぱ森 で突然誰かと会ったときにこいつ
らが同じ民族かどうかというもの を瞬時に見分ける方法なんじゃない
かっていう おだしょー
しかしですよしかしですよ会話 する言葉を交わさなければならない
わけじゃなくて少なくとも最低限 ねその場合はそうすると見ただけ
でわからないわけじゃないですか 逆に言うと
で例えば見た目とか衣装とかに 違いはないですかねその方言部族
の違いによっておだしょー そのどうやらそういうのは何にも
ないっぽいですよねおだしょー それ不思議だよねむしろそうし
そうな感じだけどはいおだしょー でも確かねぬらぶりはそうだった
か忘れたけど装飾品とかが限り なくないところなんじゃなかった
かなおだしょー ああそうかその場合そうか区別
するアイテムがないからもう仕方 がなく言葉っていうことなのかな
おだしょー そのピダハンもそうなんですけど
アフリカの民族たちって結構着飾 ったりとかするんですけど確か
そのピダハンとかぬらぶりとか その着飾るという概念も多分なかった
と思う そうかああそうか日本とかって着て
いる着物の色が紫だって偉いとか そういうのがあるわけですけどそも
そもそういう装飾がなかったら 目印になるものもないというんで
言葉は絶対使うわけだからそこで 読み分けるようになったってこと
なのかな おだしょー 多分どっちも温かい地域でおそら
くその半裸というか上半身裸ぐらい はみんな当たり前でその服両服
という概念が多分かなり薄いはず で着飾るおめかしをするってやっぱ
だいぶ好奇になってというか人が ある程度集まるようになってから
多分あれも集団の中での格付け のために使われるものだと思うん
ですよね 確かに
だとすると着飾るという概念という かそこに多分エネルギーも使う
気がない使う余裕もないし使う気 もない多分両方だと思うんですけ
ど そう考えると言語の動詞の使い分け
は低コストよね確かに
どうやってなったんだろうなって 思うんですけどねそんな短期間
で予想なんですけど5 600年前に一人の祖先から別れてたみたいな
言い方をしていたりするのでそうだ としたらたった数百年でそのぐらい
言葉というものは分岐してしまう
多分でも意図的なものは強かったん じゃないかなおそらくある種
ひねくれ者たちがいてキャツラ と違う使い方業界用語で逆に言う
のと一緒で多分どっか意図的に 差別化としてやったからよりクイック
リーに起こったんじゃないかな 多分自然淘汰じゃなかった気が
するけどねこれは
方言と地域の特徴
きっとそれは仲間を見分けるそっ かでも業界用語なんて10年ででき
てるんですもんね
そうそうそこにいる人たちがそれを 使おうと思ったらそれが文化として
成立してしまうもんねから
それも出てきてヒギカって呼ば れているらしくてスシをシース
だとか銀座をザギンって呼ぶこと によって仲間意識ができるって
言われるとすげえよく分かって 高校生たちがいまど新しい言葉
を開発するのってやっぱ俺たち だけの秘密だよねっていう仲間
意識を作るために新しい言葉を 作る
だからそれの部族版が起きたん じゃないかなきっと
そしたら5 600年で起こり得るなって 2 3世代変わったらもう区別できない
ですもんね
きっとね
っていうぐらいやっぱり言語の 変化というものもいかにすごい
大きいのか
確かに
母数がちっちゃいからっていう のもあるんかなちょっといろいろ
分かんないんですけど
普及はしやすいよね間違いなく
一瞬で移るでしょうからねその ぐらい言葉からものすごく
影響を受ける生物でありつつ同時に 言葉というものが実は集団によって
一瞬で変わってしまったりもして
はい
なんか言葉が変わってしまえば 考え方も変わり得るしやっぱ今の
生活に困っていたら日本じゃない 国に住むっていうのは大きな解決
策だと思うし
逆に例えばだけど日本の国内でも 沖縄に住むだけで多分変わる気
がするね
だからダンクルないさって言っと きたくなるもんすげえ
完全に価値観がもうちょっと違う はずやからその段階でだから国内
逃亡というか移住も一つ変化を 生むんじゃないかなこの考え方
をそのまま使うんであれば
そうですね10年ぐらい前に沖縄 に行って地元の人たちと飲み会
みたいなものやったことがあって やっぱすごくいい意味でみんな
適当で
分かる分かる
台風のときとかに現地の人から 本土の人から電話がかかってくる
のがめっちゃ嫌だって言ってて もうそんなときに本当に台風は
結構命の別れ目だったりもする みたいで台風という言葉とか概念
に対する警戒度とか理解も違った しそんなときなんて絶対働かない
的なその意思の強さも感じたし
こういうふうに言葉とか地域そうですね 地域を変えるっていうのも大きな
手段として伊達金稼ぐんだっていう 話になってくるんだけど
言語のグループと価値観
そうやねもっとマイクロレベル で言えば所属している集団グループ
によってもいわゆるさっきの専門 用語みたいなのが違うわけじゃない
ですか流通してる言葉の質感とか が違うわけでだから普段使わへん
語彙のグループに属するだけで 多分価値観ってちょっと変わって
いくことがあるかもしれないね そうですねだからやっぱ会社と
家庭以外の第三のサードプレイス みたいなところを作らんといかん
というのはそういう言語的な観点 からも言えるのかもしれない
でも価値観を動かすには言葉が 違うグループに入りみたいな感じ
やな そうですよね例えばラシタさん
といきなりギターの話をしよう としてもどこから説明すればいいん
だろうっていうところになって きてしまうけれどもそういうの
が通じる人だったらいろんなこと を省略して話せますからね
そうそうでそうやって向こうから 受け取る言葉とかで自分の価値観
とかあるいはもちろん相対的に 見られるっていうのもあるけど
やっぱりそこで発生してる価値観 が変わるということのほうが多分
大きいんじゃないかなミュージシャン 例えばヘナン氏本を書くっていう
仕事をしててもさとりあえず締め切り に間に合わせたらいいって思ってる
作家の人たちとちょっとでも良い ものを書こうって思ってる人たち
がいてそれは同じ職やけどやっぱり 喋ってるようなときに生まれてる
ものっていうのが多分違うはず で言語として喋ってるものは
同じでもそこの触れられる価値観 っていうのは違うわけかな
サード言語プレイスっていうのを何か 意識して持つないしある観光客的に
他の言葉の使い方にちょっと触れて みるみたいな感じだから移住まで
しなくても旅行とか観光だけでも ちょっと変わるところは本格根本
的には変わらないかもしれない けどなんかちょっと変化があり
そうな気がしますねこうやって 話聞いてるだけでちょっとすごい
なと思うんですからまず
そう作家はなんていうんだろう 締め切り遅れる自慢というかああいう
世界の人たち多いですよね
そうやって喋ってるとそういう もんやっていうふうにインプリント
されていくわけやんかどんどん そうあれねいまだにどう考えても
おかしいしねなんか悪いことじゃない みたいな言い方までする人が大半
じゃないですか良いものを出すんだ から限界まで良いものにするんだ
っていう職人根性ともちろん褒 めることはできるんだけれども
個人的にはそれは非常にけしからん 風習だと思っていて
そういういろんなグループに触れる ことで違う考え方もあるんだよ
なっていうのは多分覚えるでしょう ね
やっぱりそこにはそういう文化 ができてしまっていてそこから
外れると変なものになってしまいます から締め切り守れるなんてすごい
ですねって言われるって
言われるね
それだって普通大人はやるべき ことだよねっていう
昔の作家さんはちょっとそういう 社会のレールに乗れない人たち
の集まりやったからね昔の作家 さんは今はちょっと違うと思う
けど
割合で言ったら社会のレールに 乗れない人の割合が高くなるのは
多分職業が特殊であればあるほど 母数がちっちゃければ起こり得る
とは思うのでそういうことが起こり 得るんでしょうねそうやって文化
がそんなレベルでも変化したり するので
だからゴロッと変わることも全然 あると思うね逆に
そうねゴロッと変わる可能性も あるのか
あるとこれこそ言葉は後ろに価値観 があるから価値観の概念があって
そこから発される言葉が考え方 とかを広めていくというある程度
狭いグループのほうが広まりやすい というのはあるでしょうね
そうですねそういうのもあるかも ですねあと村振りの中で最後に
っていう感じで一番影響を受け たというか考えさせられた大きな
お話があってその村振りの著者 が村振りの人たちと何ヶ月かな
一緒に暮らしてて遠くに離れた 家族がいてその人に会いたいって
すげえ言ってるやつがいて著者 もちょっとやる気になってよし
俺が頑張ってお金を出して家族 のところに連れてって言ってやる
かって言って車を借りてえとか だったかなちょっと細かくはあれ
なんですけど家族を遠く離れている 家族を一緒に会いに行って連れて
行って感動の再会っていうテレビ 的なやつっていうところに連れて
行ってあげたんだけどれども抱きしめ あって涙を流して喜ぶみたいな
ことも未人も存在せずただ隣にいて いつも通りな感じで喋って盛り上がった
りも何もせず普通にノーノーと しているというの何もいつもと
変わらない感じでやった会えた みたいな感情が未人も感じられ
なかった著者からしたらそれって 日本のテレビに慣れた我々から
したらそこで感動の再会がない ってテレビとして成り立たんやん
っていう
おだしょー 没フィルムになってしまうねそれは
大平 でも村振りの人たちの感覚 は感情を表に出すことはよくないん
ですよねかっこよくないし幸福 だと思わないし誰かと一緒に会って
盛り上がってるっていうことが 良いことだと別に思ってないんですよ
ねそういう人たちの感覚でいえば ずっと会いたいと思っていた人たち
に会って笑って騒いで盛り上がって ということすらも価値観として宗教
というか文化が作り上げた価値観 なのではないかっていうのを読ん
で例えばせっかく友達と会った のに全然盛り上がらんかったな
みたいなのって日本の的な価値 観でいうとお前それ本当に仲が
いいのみたいに言われると思うし とはいえもうちょっと現代的な
話で言うとただ恋人同士ただ隣 にいてお互い漫画を読んでいる
だけでそれが幸せな時間の過ごし方 だという価値観は存在はしているん
だけれども
おだしょー オタク界隈では存在している
おだしょー やっぱ主流ではない ですよねでもさらに言うとマッチョ
な人たちがそういうオタクを見て うわキモーとかって言ってるっていう
印象はあるんですけどそれは正しい あなたにとってはキモいかもしれない
けれども何らおかしくないよね っていうのを思い知らされた感じ
がする なるほどねそもそも人はなぜ笑う
のかというような話になってくる わけやけど基本的に笑いの構築
方法として緊張と緩和というの があるわけですけど笑いってある
種の危機的状況緊張感がここで リセットされますよというシンボル
なわけですね笑うという行為は 日常が散るの場合だから緊張がない
わけでそもそも笑うという解消 も特にいらないということねきっと
笑うことはもちろんいいことだ と思いますけどそれは裏側にある
種の緊張があったんだよということ の証明でもあってそれがなしで
済むんやったらなしで済むでいい そっちもありですよねというの
をちょっと今感動の再開のエピソード 聞いて思いましたね
あれかもしれないですね高倉健 みたいなお父さんっていう価値観
がちゃんとなんて言うんだろう なんか謎のかっこよさみたいな
評価をされたりするんだけれども そうじゃなくそういうことが良い
と感じる人たちはいるわけでだから そこら辺の人と適当に仲良くな
れたりとか喋れたりしたほうが いいよねって思ってそうできる
ように努力をしてきたと思うん ですけど自分がそれは正しいのか
正しいという言葉がちょっと雑 だけど
そうだねだから自分の人生にとって どれだけ機能的か何か適切かっていう
だから当然その各部族と僕らが 住んでる文化とか環境が違うわけ
やからその戦略をそのまま転用 はできひんわけで当然このカルチャー
におけるある種の適切な戦略っていう のはあるわけですけどだからと
いって僕らが今まで継承してきた やり方が絶対正しいとは言えない
わけでだから接中案とかではない けど何か取り入れることはだから
仲良くなれることも別にいいし 例えば30分瞬間的なバカ騒ぎして
はい解散っていうのも一つの戦略 としてはありやなとは思います
けどね
そうですねだから逆に言えばそうですね そうやってバカ騒ぎを合わせて
笑いと緊張感
できるということすらもやっぱ テクニックとして使えれば
そうやね
極論だからそれはあなたが楽しい とかではなくてそういう文化で
みんなが楽しいと思うことなので そういう場の空気を尊重するという
のも別に自分の価値観を汚すとか 損なうということじゃなくてある
限定的な立ち振る舞い言葉を強 けば演技みたいなもんであって
そういうのを引き出しとして持 っといたほうが得するっていう
たれけど損しない機会は多いかな という気がします
そうなんかねやっぱ得とか損という 結論になってしまうのは良くないん
だけどでもやっぱテクニックとして 周りの人と合わせられる
うんっていうこともやっぱりそれは だから例えばピーター・ハーン
にしても何にするその人の人が 強い価値観を持ってその世に立ち
振る舞ってるわけじゃなくて文化 がそうなってるからそうしたわけ
ですね基本的に
だから僕らも僕らの文化の中が あってある種適切な立ち回り
っていうのがあるけどもそれとは 別の価値観を持つこともできる
っていう選択肢を増やすという 意味でこういう多文化多民族に
触れることの価値っていうのがあるん じゃないかなこうして日本は駄目
だろうになるとやっぱりそれは 間違ってると思うんでそれは駄目
な部分もありますけどだからそういう 相対感と自分の選択肢を増やす
という視点で見れたらなんか良いん じゃないかなとは思いますね
大平 そうですねあと同時にやっぱり
少人数で例えば結婚相手パートナー を選ぶときだとか友達を選ぶとき
にいかに一般的な価値観で判断 してはいかんかというか友達と
会ってお互い無口な人同士で全然 話が盛り上がらんかったなって
お互いに帰ってきてこの人一緒 にいて楽しいと思ってくれなかった
のかなって思うのではなくそれが お互いに良かったりもするでも
それを言葉に出さないと分からない 難しさというのがまたあったり
するんだけど
寺田 そうだよねでも一回どっかで 確認を取らなきゃそれはなんで
確認を取らなきゃかっていうと 僕らの先入観として騒げば楽しい
多文化と自己の選択
文化がインストールされてるから そこ一旦抜けるためにやっぱり
相互確認っていうのは必要でしょう ね
寺田 そういう難しさが色々あり つつも多文化を知ることで自信
が持てるみたいな言い方になる のかな自分が思ったことで言う
寺田 自分がその時点で持っている 気持ちみたいなのがあるとして
それが自分が住んでる文化との 相入れないことがあったとして
も別の文化に触れることでこういう 外れ方も別に間違いじゃない
というかそもそも外れてるのは どっちか分からないみたいな相対
感になれるってことだよね
寺田 そうですねしゃあねえから お前たちに合わせてやるかぐらい
の視点でいれば楽しく不安なく いい気分で過ごせるのではない
寺田 あんまり抑圧されない感じ にはなるね自分が虐げられてる
というよりは自分がゲームに参加 してるという感じになれるかもし
れない
寺田 そうですねやっぱ人生という ゲームぐらいの距離感で付き合える
ようになると一番人生が楽しい ような気がするのでこの人生クソ
ゲーだなって文句言えるぐらい の人生だったら一番メタに楽し
めてる感じですからね
寺田 まあそうだよな確かに
寺田 なんかねいきなりフル装備 でいきなり魔王を倒せるような
生まれの人もいればなんかレベル 1なのにスライムなんて出てきて
くれなくって突然魔王の城に入って いくしかないような生き方もあれば
っていう
寺田 もちろん
寺田 それを運の良し悪しでしかない
のは不幸とも言えるけれどもその クソゲーすらも楽しめるようになって
しまえば
寺田 そうだね確かに
寺田 結果楽しめたりもするので
そういう感じでなんかそうだな 言語から言語だけでなく言語から
こういうふうにやっぱ学べること があるというのが言語系のやつ
をやっていて新しく気づいたところ というのかな
寺田 だから言語を通してその後ろ にある文化とか価値観に触れる
ことができるってことだよねこれは
言語の影響
寺田 そうですねそしてそこに言語 というものがいかに大きな影響
を与えているのかで価値観を知る ためだと思うと例えば目的のない
英語学習なんかでも意外と面白 がれたりだとか
寺田 なるほどね
寺田 することにもなるんじゃない かなと思っていてやっぱ自分が
英語を学んでいるっていうレベル じゃないんだけど例えば向こう
のテレビ番組CMみたいなやつを 見ていてもやっぱ言語が違うと
いかに表現の仕方が違うかという かそういうのを思い知ったりして
そういう観点で言語を見てみる とより身体化しやすくもなるかもしれない
ですね
おだしょー 確かに
寺田 という感じで今回はこのぐらい にしておきたいと思います
おだしょー はい
番組のサポーター募集
寺田 はいBook Catalystは番組を支援 していただけるサポーターを募集
しておりますので気になる方は Podcast概要欄などご覧いただければ
幸いですそれでは今回もお聞き いただきありがとうございました
おだしょー ありがとうございます
57:32

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