面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第84回の本日は『文学のエコロジー』について語ります。
はい、よろしくお願いします。
えーと、今回は倉下のターンということで、文学のエコロジーという本を紹介しつつ、
ちょっと文学ということについて考えられたらいいなと思っておるんですけども。
文学。
簡単に、初始情報から先さらっておくと、文学のエコロジーが、つい最近出た本でして、
2023年の11月23日ということで、去年の年末近くに出た本で、
著者が山本隆さんということで、文学の劇場、ん?違う、哲学の劇場でおなじみというかの有名な山本さんが書かれた本で、
哲学の劇場をご覧の方は知っていると思うんですけども、大変本を読んでおられる方で、
その博識な知識をもって文学について書くと。
山本さんは、文学問題F++Fっていう、なつめ漱石の文学論を紹介したというか、解説したというか、ちょっと難しいんですけど、
文学論の本も書かれているので、そのつながりというか、文学について語られていることもあるので、その新しい視点から書かれた本ということで。
で、文学のエコロジーって検索すると、別の本もたまに見つかるんで、宮下志郎さんとかが書かれたほぼ同名の本があるので、
注意していただきたいと思いますけど、講談社から出ている方で400ページぐらいの分厚い本になっております。
で、タイトルが意味するとかちょっと後で紹介するんですけど、先に目次だけ追っておくと、大きく3部立てになっておりまして、5部立てか5部立てになっておりまして、
一部が後で紹介するこの本がどんな風に書かれているのかということが簡単に解説され、
2部以降から実際に文学作品を取り上げて、そこでどんな風に書かれているのか、文学世界がどのように構築されているのか、言葉を使って表現されているのかっていうのがテーマ別に語られていくと。
で、第2部が文学は空間っていうのをまずどう扱っているのか。第3部が時間というものを文学はどう扱っているのか。
で、第1部ここはね結構大きいんですけど、文学は心というものをどう扱っているか。心っていうのはその日本語で言うと英語で言うとマインドとかっていうことですね。それが結構なボリュームを下げて書かれてまして、で、最後第5部が文学のエコロジーというのでタイトル界ですね。タイトルになっているのが商題で、ここでその文学作品は何をしているのかというのが検討されるという流れで。
でね、各章にそれぞれいろんな作品が出てきまして、一番冒頭が超有名な星真一先生のSFですね。非常に最小の表現だけでSFを書いてしまう方なんですけど、ここから始まって逆に次がバルザックのゴリオ爺さんというやつでね、これが非常に緻密な人物描写とか背景描写とかを重ねていくタイプの小説。
で、あと例えば松尾芭蕉の俳句とか、ウェルズのタイムマシーンとか、ホメロスのイリアスとか、ヘミングウェイの老人の海とか、その他有名どころな文学作品を取り上げて、その作品について論じていると言えば論じているんですが、文芸批評というような本ではないです。
一般的に文学作品を上げて、その作品について解説するとなると、文芸批評におそらく位置づけられそうなものですが、僕の独立の感覚から言うとこの本は文学論ですね。もっと大きな意味での。個々の作品についてももちろん触れてるんですけど、それを通してむしろ文学とは何かを論じようとしている本というのが僕の印象でした。
一応、エコロジーというのを辞書を引いていくつか意味を調べてみると、生物と環境との関係を研究する学問。生態学、略してエコ。教義では人間と自然環境、社会環境との関係を研究し、自然や環境の保護を図ることを目指す。
日本でエコとかって言うと地球に優しい的なイメージがありますが、原理は生態学ということで。生態学と生物学はちょっと似てるんですけども、本聴でも説明がありますが、例えば虫を取ってきて解剖して足数が何本とかっていうのを調べるのが生物学的な視点ですけど、
生態学的な視点というのは、その動物、昆虫とかがどんな世界に生きてて、どんな環境に生きてて、何を食べて、どういう生活スタイルを送っているのかっていう、その環境の中での動きそのものとかを見据える視点がエコロジーという視点、生態学という視点。それと同じような視点を持って文学を眺めてみようと。
つまり生態学における文学の位置づけということではなく、文学というものをエコロジー的観点、つまり文学世界の中に動いているものを見つめていこうと。その虫を捕まえて分析するのではなく、虫を眺める、虫が動いているのを眺めるような視点で文学という文学作品を眺めてやろうと。
その意味で言うと、生物学的な視点というのはどっちかというと、さっき言った文芸秘書に近いものですね。一つの作品を取り上げて、この文がこう機能しているから、この作者はこうだ、みたいなことを分析的にいくのではなく、むしろ文学というものがそこでどのような駆動をしているのかを見つめようという視点を持っているのが、まず本書の結構大きな特徴の一つ。
で、もう一つ、シミュレーションということが最初の冒頭で示されるんですけど、シミュレーションってコンピューターシミュレーションをイメージしてもらったらいいんですけど、山本さんはゲームデザイナーであり、プログラミングとかシミュレーションにも精通しておられるんですけど、シミュレーションという比較対象をもって文学作品を眺めてみることで、新しく見えてくるものがあるのではないかと。
で、そこにある文学世界が描写しようとしている世界とか、あるいはそこでシミュレーションの視点を取ってみるということは、本書の中でもあるんですけど、文学のその専用観察っていう視点。
専用観察っていうのは社会学者とかよくやることなんですけども、民族学者とかもいいかな。あるグループを外から観察するのではなく、実際にそこに参加してみて、その内部から、内部にいて外部者のような視点で観察していくっていう研究。
だから、文学作品を完全に外から眺めるのではないけど、あたかも読んでいる人のかのように、しかし外部者の視点で分析していくという、非常にアクロバティックというとあれですけどね、今までになかったタイプの文学論が展開されていますと。
本書で中心的に示されているのは、それぞれの章では文学と呼ばれているものには何がどのように書かれているのかっていうのが主な検討対象なんですけど、それらの検討を通して最終的に文学を読むときに一体何が起きているのかということが、おそらく最後ら辺で大きく検討されている、示されているというふうに僕は思いました。
だから主題、表の主題は文学には何がどのように書かれているかの分析なんですけど、背後的な背景的な通年的なテーマとしては、その文学とは何かっていう大きな話をしている本でございます。
ちょうどここら辺で概要の文章がイメージしやすいかなと思うんですけど、文芸作品をコンピューターで動くシミュレーションとして作るとしたら何をどうすれば良いだろうか。作品をゲームクリエイターの目、プログラマーの目で眺める。構造やメカニクスに焦点を当てる技術を駆使し、文学をエコロジーとして見る。
作品世界を探検するための地図をもと。小説には何が書かれて、何が書かれていないのか。客観的に作品を眺めることで見えてくる。楽しめる作品世界とその魅力。って言われて気づいたんですけど、確かに小説を読んでも何も書いてないんですよね。最初に出てくる星真一さんの話とかも思い出すと。
星真一が一番典型的なんですけど、本当に俳句みたいな感じで最低限の描写しかなくて、だいたい人の名前もないんですね。NCとかN博士とか。 博士は言った。これで最強のタイムマシンだみたいな、なんかそんだけですよね。
で、ごく短い会話のやりとりと背景描写だけで話を進めていくと。それがミニマムな感じの文芸作品、文学なんですけど。例えば本章の話で言うと、それだけの情報しか与えられていない場合ってコンピューターシミュレーションっていうのはまず作れないんですね。あまりにも情報不足すぎて。
そもそも博士は何歳なのかとか、見た目はどうなのかっていうことをデータを入力しないとまず造形ができないし、例えば博士が会話するときにどういうリアクションをするのかっていうこともかなり細かいパラメーターを設定しておかないと自然な会話にはならない。だから僕らがコンピューターシミュレーションで何かを見ている世界っていうのはだいぶ背景に大きなデータ記述があるんですけど。
それを文芸作品で読む、あるいは体験するっていうことだった場合に非常に少ない文字数でやっていける。で、例えばそのゴリオおじいさんにもかなり緻密な背景とか人物を描写するんですけど、かといって全部が描かれているわけではないですね。そこの世界のすべての建物とか生きている人とか、そこに働いているルールとか法律っていうのがすべて記述されているわけではない。コンピューターシミュレーションではその世界に働くすべての法則というか力学をすべて記述しないと成立しないものが、
省いた形で記述されて成立している。ここがそのシミュレーションとコンピューターの違いとして対比されているんですけど、これあえて今ここで対比されたからわかりますけど、先ほどゴリオさんも言われたように、僕らは記述が少ないことにすらまず気づかないですね。その小説を読んでても。で、なんでだと思います?
今の話を聞いて自分なりに考えたことなんですけど、やっぱり脳に無数のというか数えきれないほどの経験値があって、博士というフレーズ一言で自分の中に博士という像は出来上がるんだなぁと思いました。
だから僕が思い浮かべる博士っぽい人がいて、ゴリオさんが思い浮かべる博士っぽい人がいてて、で、自分のある種の記憶の貯蔵庫みたいなのからそのイメージを引っ張ってきて保管しているから、破綻なく読めるというか。
そうですね。なので例えば博士っていうと、なんとなくね、手塚治虫の書いた鼻のでかい人のイメージがあるんですよね。自分の場合。白衣を着ていて、背が低くて、なんかああいう感じの人。
コナンの赤澤博士がパッと思いつきます。そういうイメージの貯蔵庫みたいなのから引っ張り出すから、全てを記述しなくていいっていうのはまず第一にあると思うんですね。
で、思うんですけど、博士についてぼんやり思い浮かべるじゃないですか。で、でも僕、これはその本の中に書かれてるわけじゃないですけど、例えば博士について書かれてる時に博士以外のことをイメージしてるかどうかなんですね。
ああ、えっとね、星真一作品を何個か読んでいると、自分のイメージを絵にするとなんですけど、あのね、無機質ななんか白い壁みたいな部屋にいるイメージがある。
で、あの、そうですよね。だから逆にその省略されてますよね。背景情報みたいな。だいぶ荒っぽい。ほとんど何もない。
漫画で言うと背景何も書いてないみたいな感じでイメージしますね。で、例えば博士の人間関係とか、これまでの歴史みたいなことは普通、思いを馳せないですよね、基本的には。
そう、チューブラリンのまま読み進めていきますね。
で、それで問題ないじゃないですか、特に。で、ここで全然違う補助線を引く本として、その心はこうして作られるというニック・チェイナーの本がありまして、これは言語の本ですね。
言語はこうして生まれるの相方の方かな、書かれた本で。で、この心はそうして作られるっていうのは色々僕の中で反論の余地はあるものの、人間の認知の薄っぺらさというかを解説した本なんですけど、例えばどんな絵でもいいですけど、例えば頭の中でそのやや大きめの円をイメージしてください。
で、それを例えば縦横の線で4分割してください。で、右側4分の1を青、その下を緑、さらに青、さらに緑みたいな感じで、青と緑で2色ずつ仮に塗り分けたとしますよね。で、そういうものを僕らが目にした時って、色が2つに塗られた円っていう風にイメージするじゃないですか。
言語化すれば。でも僕らの近くを調べてみるとそうではないと。青の時を見てる時は青を見てて緑が見えてない。でも緑を見てる時は緑が見えてて青が見えてない。で、その切り替わりがものすごく早く起きる。つまり青を見た瞬間に緑見てるから、僕らは全体を見てるような気がしているけども、僕らの注意は実はそのある瞬間に1個しか向いていないと。
注意が非常に限定的。でもその連続性の中で、なんとなく全体像みたいなのがあるような感じがする。と、このニックさんは言ってるわけですね。で、そこから考えると、僕らが欲しい一の小説を読んで何も破綻しないのは、注意が1箇所しか向かないからですね、僕らの認知が。だから博士のことが書いてあって、博士のことを思い浮かべて、それ以外は空白でも実は何ら問題ないというか、むしろそれしかできない。
――数数が遅くなっていれば変わらんってことなのか。 ――そうそうそうそう。で、ちょうど小説っていうのはリニアに進んでいくから、世界を同時に知覚するわけじゃないから、例えば博士について書かれたことが博士だけ、博士以外のことが省略されても、僕らの認知は何ら問題ないどころか、むしろそれが最適な書き方なんですね。
もっと言うと、だからこれ情報処理、円を見るって話ですけど、僕らのそもそも世界の認識の仕方がむしろそうなんですね。 ――うんうん、なんとなくイメージはできる。 ――なんとなく僕たちは全世界を相手にしているような、全世界を知覚しているような気がしますけど、実は瞬間瞬間に細かいとこしか見ていない。
それが、注意がすごく連続的に速く動いて、何か世界全体というものを僕らが捉えているように感じるけども、ニックさんが言うてはそうではないと。僕らはその瞬間瞬間に部分、今僕は今マイクを見てますけど、マイクを見てる瞬間は他が見えてないし、っていうことの連続性の中で、僕らの世界そのものが体感されている。
だから小説を読むときに起こっていることと、僕らが世界を知覚していることっていうのは、実は相似なのではないかというのが、この2冊の本を読んでて感じたことです。 ――なんとなく、あのね、思っていることと近いなぁという感じがしていて、何て言うんだろう。結局人間が見えてるものって、
何て言うんだろう。視覚情報として認知されているものと、頭の中に描かれている情報が違うっていうのかな。物事の解像度が違う。それって多分なんだけど、脳内で考えるときに、自分がよく知っている物事ほど高度なチャンク化ができるっていうのかな。 ――そうだね、きっとね。
で、高度なチャンク化を連続して繰り返すことで、一瞬の間により多くの情報をつかみ取ることができる。 ――その代わり、その細かい部分は多分荒くなっているけど、大雑把に全体図をつかむことはやりやすい。 ――そうですね。で、多分処理が得意なところは、それはより早く、より精度高くつかめるのかなという印象があって。
で、文字を読むときにも同じようなことが言えるのかっていうのが、ちょっと今の話を聞いてわかったっていうのか。 ――文字を読むときは、純粋に文字の内容を読むことだけじゃなくて、文字を読むときそのものも、ある行とかある単語に注目しているときって視野をチェックする、実験すると、他の行って全く目に入ってないらしい。
おぼろげに見えてるとかじゃなくて、もう全然見えてない。ある行を見ているとき、その横の行すら見えてない。そういう視覚の狭さがあるってことを本書は言ってるわけですよ。文学のエコロジーに引き付けて言うと、その意味内容を理解して世界をイメージすることですら、僕らは部分的にしかやってない。
で、ゴリオ爺さんっていうのは、デカめのアパートに住んでいる人たちの描写があるんですけど、それぞれの階について、隣の部屋には誰が住んでてみたいな描写があるわけですね。で、全部を突き詰めていくと、なんか長尻が合わないらしいんですよ。
そうなんだ。 建物。でも、気づかないじゃないですか。そんなことは。読んでても。結局、僕らは全体を本を読んで、そこに建物があるようなイメージを浮かびながら読むわけですけど、実は全然細部はあらないんですね。結局、ある部屋の傷があるときはその部屋のことだけを思い浮かべるし、隣の部屋の傷が映ったらその傷に映る。
だから、これはアパートの部屋だけの話ですけど、もっと言うと、その世界とか人間のありようとか部分に、僕らは常にその部分しか見てない。で、そこの整合性っていうのはなんか非常に大まかな形でしか浮かんでない。だから、小説っていうのが例えばシミュレーションに比べて情報を規定する情報が少ないとか、書かれてないことがたくさんあるのに成立するっていうのは、そもそも僕らの情報処理が、世界を捉える情報処理がおそらくそれだけしかないだろう。ないからだろうな。
ということを本章2つ合わせてちょっと思ったところで。で、それがこの話がどこに続くかというと、本章は個々の作品における文学のエコロジーというか、文学作品のエコロジーをそれぞれの章で見ていくんですね。
ある、例えばそのヘミングウェイやったら、老人が海に出てカジキマグロと戦うみたいな、その作品ない世界を言葉がどう作っていくのか。で、それを読者がどう知覚するのかっていうことの、その言葉の働きとか描写の働きを追いかけるわけなんですけど、もっと言うとその読んでいる人に何が起きているのか。
文学という作品を人が読むときにどのような作用があるのか。その人の脳に何が起こっているのか。起こっているのかっていうことですね。要するに。まあでも最後の方には射程を言ってるんですけど、僕らは世界そのものを知覚しているというよりは、ある種演算しているというか、シミュレーションしているって多分言えると思うんですね。
で、ある種だから、すごく擬人化する。擬人化というか擬コンピューター化すると、暮らした只乗りOSの中に世界演算シミュレーションAPPみたいなのが入っていると。それの働きによって僕は世界を知覚、理解、把握していると。で、だとしたら、文学作品一つ一つが、ある種のシミュレーターとして働いているとしたら。
文学作品一つ一つは、世界を描いているわけですね。世界を描く装置として働いている。ということは、それを頭から最後まで読むことを通して、世界のシミュレーション引き出しを増やしているのではないかと。
おーすごいなぁ。そうか、その新しいAPIを手に入れるっていうか、なんかそういう感じ。 そういう感じで、もし捉えるとしたら、文学作品っていうものの見方がちょっと変わってくる。だから知識が増えるとかではなくて、むしろ世界、僕が世界をどうシミュレーションするかを変更する、ないしは増、プラスするような効果がある。
だから文学のエコロジー、文学の生態系ということですけど、文学っていうのは、文字が書かれたものがそこにあるだけでは文学じゃなくて、それを読む人が初めてそれは文学ってなるわけですよね、基本的には。だから文学のエコロジー、つまり働きを考える場合って、文字を追うだけではダメなんですね。
それを読んでる人、文学作品と読んでる人がセットになって、その読まれたことがどう変化を与えるのかっていうところまでが、おそらく文学の生態系ということなんだと思います、きっと。だから本書が示しているのは、その個々の作品のエコロジーを確かに追ってるんですね。それは間違いなく、ヘイミングウェイとか作品がどう書かれたか、具体レベルのエコロジーを追いかけつつも、それらを通して全体的に言うと、
文学っていうもののエコロジーを追いかけているという、かなり巨大な仕事をしている本っていうのが僕の印象です。
何だろう、本を読むと何がいいのかみたいなのを、例えば小学生とかがよく言いそうだ気がするんですけど、小学生に噛み砕いて言えるようにしたい感じですね。この話を使って。
これは難しい。だからまず、僕らそのものが世界そのものを直接理解しているっていうのが自然な感覚じゃないですか。でも例えば、哲学とか脳心芸学を学ぶと、いやそうじゃないんだよっていうことを理解するわけですね、おそらくは。
そうすると、じゃあ僕らの脳の作用によって世界の語り方っていうのが変わってくる。で、この語り方そのものが外部的な作用によって変更するのではないかという2階か3階の階段を上ると、
この見方になって、文学を読むことの効能、実際的な価値というか役割みたいなのがわかってくると。で、今僕が言ってるのは山本さんの話を引き受けて、僕が他の本を読みながら至った考えなので、別にこの本ってそこまで強く出張されてるわけじゃないですけど、最後の第5部の文学エコロジーで、この辺の文学作品を何をしているのかというのが語られて、ここが一番面白いというかエキサイティングするところですね。
あの、そうだな。なんか哲学を学んだことで、世界の見え方が変わったっていうのはなんとなく実感としてあるんですけど、文学をそういうふうにも使えるってことですよね。
で、おそらくだからそういうふうな役割があったから文学は生き残ってきたのではないかとすら言えるのかもしれない。で、実際その文学の実行っていう本があって、文学の学は難しい本の学で、実際の実に効果の効で、
これもかなり分厚い青い本なんですけど、これもたぶん似たような、その人間の精神にどういう影響を与えるのかっていうのがパターンとして分類されている本で、たぶん似たような話が展開されている。
でもその価値はもちろん価値で、むしろ一番深い価値かな。人が生きる上での一番深い。なぜならその人が世界をどうイメージするかを変えてしまうわけですから。簡単に言ったら、私はこれが価値がありますっていう、その価値平面を崩しかねない大きな価値がそこにはあるんでしょうね、きっと。
そうですね。これはあれだな。俺、例えばなんですけど、老人と海とか別に読みたいってなんとも思ってなかったんですけど。 いや面白い、普通に。 ちょっとありなのかなってちょっと考えが変わった気がする。
老人、あれはね、人が言うと楽しかったけど、老人がでかい魚と格闘するところもいいですけど、老人に関しては孫みたいなのがいて、そいつも漁師やね、その子供も。指定関係というほどではないけど、かつて教えたみたいな関係で、その二人のやりとりもなかなかいい。認定味があってなかなかいい。
そうだな。その手の名作に、なんていうんだろうな。何もお勉強のためにしか面白いと思わなかったっていうのかな。例えばそういうものが。言ったらないですけど、結局それ教養のために読むみたいな、なんかそういう印象があって。
老人の海読んだことあるって聞かれるときに、はいって言いたいみたいな。 そうそうそう。でも確かにそういう読み方もあるし、全ての文学作品が同じように人の心を変えるわけじゃないから、当たり外れというか、相性みたいなのもあるけど、もし稀なものに出会ったとしたら、そういうソフトウェアないしはOSにまつわる世界の見方そのものが変わってくるようなところ。
変わってくるって言うとすごい大きな変化があるように見えるけど、ちょっとキビが増えるとかヒダが増えるような感じの変化が多分起きてくる。15章。小説の登場人物に聞いてみたっていう回がね、ちょっと面白くて。インタビューになってるんですね、この章だけ。ヘミングウェイのさっき言ったおじいさんにインタビューして。
で、やりとりがあんねんけど、内事というと、チャットGPT4にあなたは小説老人読みに出てくるおじいさんですと。そういう想定で僕とインタビュー、会話してくださいっていう感じでしゃべるんやけど。だいたい突っ込んだことを、普通は果たんなくそれっぽいことを話すねんけど、なんか突っ込んだことを聞くと、私はそのチャットGPTですのでそれには答えられませんみたいな。
この役割でしゃべってくださいっていうのを簡単に無視してくるわけね。彼は。で、しかも、例えばその小説内の世界では、その老人が知ってるはずのない知識もパッと出してくる。
だから、それっぽいことはできんねんけど、何を知らないかを知らないねん。チャットGPT4は。
チャットGPTはみんな知ってるからそうなってしまう。そうそう。だから、あの時代の小説の登場人物がやったら、例えばスマートフォンみたいなことは絶対に言わへんっていうのは俺らわかるわけじゃないですか。基本的にイメージできますよね。
だから、演技をしようと思ったらそれは言わないけど、チャットGPTはそれが少なくとも現時点では判断できない。その知ってる情報を盛り込むことはできるけど、その当事者がどのような知識を持って、どのような知識を持つべきではないのかっていうモデルがない。
そうですね。チャットGPTはそこにそうだな。で、例えばヘミングウェイの登場人物で仮にモデルを持っていないとしたら、すごく強引に敷衍したら、チャットGPT4は世界についてのモデルを持っていないのではないかとも、とりあえずは言える。
世界についてのモデル。大きな意味で言うと、その感覚で言うとチャットGPTにモデルはないですね。チャットGPTというモデルしかないのか。
この世界がどうなっているのか。これはまだちょっと議論が分かれているところではっきりと断言できるけど、この世界のモデルがないとしたら、彼は指示したらいくらでも小説作品を作ってくれるけど、それは彼が持っている世界を描写した者ではない。
ということは、そこに書かれたものは、著者が頭の中でシミュレーションした世界ではない。ということは、文学的深みを持つ可能性はもしかしたら低い。
そこをインタビューの限界をしながら語っているんだけど、世界のモデルの欠如ということが軽く触れられていて、持っていると言っている人もいるみたいだけど。でも、仮に持っていないとしたら、どこまで行ってもこれまで書かれた文学作品っぽいことしか書けないんだろうなと思いますね。
基本的に常に小説作品というのは、どういう形であれ、作者が頭の中でシミュレーションした世界を表現したもので、だからこそ僕らの心に作用を与えると思うので、いわゆる前衛的なもの。つまり、世界の深みとかは無視して、今までなかったことを書くっていうことはできるかもしれないけど、深々と人の心のアプリケーションを変えてしまうような文学は、チャットGPT4の段階ではもしかしたら出てこないのかもなっていうのは、ちょっと併せて思いましたね。
言ったらGPT4なんて多分一時的なもので、きっとすぐに次は来るだろうっていうのは思いますしね。
だから次が、例えば処理が早くなるとか、重み付けが増えるとかっていうことを繰り返す高性能化はいいとして、そこが仮にどこまで行っても内部的な世界のシミュレーションを持たないとするんであれば、少なくとも文学については多分違う形になるし。
世界を持つってどういうことなのか僕にもわからないですけど。でも確かに人間はこの世界をこうであるというシミュレーションを常にしながら生きているような気がして、それが文学を書くエネルギー源にもなるし、材料にもなっていると思うので。
この点で言えば僕はもう生成AIなしでコーディングしたいとは思わないけど、しかも彼らに例えばそれっぽい創作物を頼むと非常にうまくそれっぽいことを作ってくれるけど、でも今までになかった文学作品が生まれるかっていうと結構怪しいんじゃない。この性能が上がったとしても同じ構造で作られている限りは難しいんじゃないかなというのはちょっと本性を読んでて思いましたね。
根本的なモデル変更というか生成AIというそのやり方ではなんかダメな気が、ダメかもしれないっていう感じがするかな。
今のところの感じで言うと、もちろんそれは別に生成AIが劣ってるというか人間の方が偉いとか、人間の創造性がすごいとかいう話をしているのではなく、内側に世界のモデルを持っているかどうかが文学の生成において重要なんじゃないかっていう観点だけから言ってるんで、その点は注意してもらいたいなと。
チャットGPTがどんなふうに動いているのかを知りたかったら、僕いろいろ読みましたけどチャットGPTの頭の中という本が多分一番コアに迫れる本だと思うので、もし興味がある方はそっちの本も合わせて読むと面白いと思います。つまり文学のエコロジーと心はこうして作られると、チャットGPTの頭の中の酸素と読むとすげーアイデアが多くなります。
【佐藤】いいですね。なんも関係なさそうな3種類っていうのが素晴らしいですね。 【岡田】いやだから本当にこの本を読むので、そこまで文学の功用というか、文学は僕たちの心に何をしているのかっていうのはあんまり深く考えてこなかったですけど、シミュレーションっていう補助線を引くとだいぶクリアになるなというのが第一感で。
やっぱり読むって行為はやっぱり不思議ですよね。改めて見ても、紙の上には黒い線しか書かれてないのに、僕らの頭の中に世界が出来上がるわけですから。これはでも本当に劇的なことで、その世界が出来上がることが僕らが世界を認識しているという方法と多分相似で、その有無がチャットGPTとの違いっていうところが思ったところかな。
【佐藤】言語というものが不思議な感じですね。言語なんてものがなかった頃はやっぱり出来なかったのかなというか、言語によって思考の幅が広がる。違う、言語自体がやっぱりその世界なのか。 【岡田】うん。だから言語自体が新しい世界の認識を作ったと言えるんじゃないかな。【佐藤】うん。なので言語が変われば世界が変わるのは当然か。
【佐藤】そうだよな。おそらくそう言えると思います。だから英語が使えるようになるってことは、日本語の文章を逐一英語にできるようになるわけじゃなくて、英語的発想ができるようになることが英語が使えることになる。それは逆に英語的考え方とか英語的文化を吸収するということ。つまりOSレベルに染み渡らせるということだから。
例えば英語の場合は複数か単数かすごく注目するということを言いますけど、物の見方がそうなっているわけですから。で、それは世界をどうシミュレーションするかっていうその素材そのものが変わってくるということなので。だから言語を覚えることもやっぱり変化をすることやし、文学作品を読んでそこに書かれている世界をシミュレートする経験も人の心を変えていく。
だからそういうシミュレーションをせずに読む場合は、あるいは必要としないままの場合はやっぱり変化は少ないんかな。だからその変な話、図解でわかる的な本はそういうシミュレーションをあんまり働かせないから、心の深い部分に落ちてはこないんだろうね、きっと。
深い。まあそうですね、でも今の話で悩ましいのがどっちが深いのかっていうところで、言語というレイヤーは上の方にあるのかもしれない。結構。
おー、なるほど。だから何と比べてっていうことやけど。例えば絵を見て理解することに比べると言語でよって世界をシミュレートする方が多分深い。その代わり言語で世界をシミュレートすることとリアルに行動することを比べるとリアルに行動する方が深い。
絵を絵のまま捉えられること、深いのかな?なんかあのモデルの上に成り立っているっていう印象があって必ずしも深いだけではないような気がするんだけどな。モデルがあるので多くの人が高度な処理がしやすいとは思うんですけど、絵を絵のまま捉えることとその文字で捉えることのその
ちょっと待って、ちょっと待って。絵を絵のまま捉えるってのはどういうこと? えーと、なんて言ったらいいんだろうね。そこで言うとそこからまず難しいか。そこから何を感じ取るか。
だからもうそれはある感じ取るっていうモデルが動いてない?つまり絵を絵のまま捉えるっていうのはもっと端的に言うと、右上の方に赤い絵の具があって、その下に黄色い絵の具があってが多分そのままの
でも言語化した捉え方じゃないですか、そこは。 今のは言語のレイヤーを返して捉えた感覚っていうイメージがあって。 そうかもしれんな、そうかもしれんな。
インドはもっと細かく和音を切ったりしてて、さらにそれを西洋人は気持ち悪いと感じがちで。
ただ多分、マイナーのラシドレミファソラっていう音は、全員に似たような感情を呼び起こす感覚はあるんじゃないかと想像します。
だからやっぱりどっちかっていうと共通的、共同体的な感情を与えやすいんかな、音楽とか美術的なものって。
大きな枠組みだけで言ったら誰にでも通じるけど、もっと細かい方向性を多くの人が同じように感じるのが難しいのではないかと予想する。
ここ難しいな。例えばさっきゴルゴさん、言語は共通、似たような意味と言ったけども、でもさっき言った言葉から浮かび上がるイメージは個々人の経験によるから、
むしろ言語による世界は個別的なものになるんじゃないかなという予想をするけども。
そうですね。個別的なんだけど、なんて言うんだろうな。だからやっぱりより細かく分けれるというのか。
そうやな。例えば文学作品って、例えばAさんがBさんに向かって愛してるのかっていうのは書かないわけですよ、基本的に直接は。
直接書かなくて、そういうような動作から読者がイメージするわけですけど、イメージできない人もいるわけですね。それを読んで、その動作を読んで。
だから経験次第で生成されるものが違う、シミュレーションされる世界が変わってくるという点から言うと、やっぱり個々人の中に世界をシミュレートする感じ、独自の世界をシミュレートする感じが強い気がするね。
だから結構共感。この作品すげえ面白かったけど、他の人が読んだら全然みたいなことが起こりやすいんじゃないかな。
あれかな、お互いが感情を近づきやすいっていうのかな。
それでも逆に音楽の方が。そうなのかな。わかるけどね。音楽でこういう会話はできないと思うんですよね。まあね、確かに。
が、言語だと歩み寄る余地がもうちょっとあるっていうのかな。方向性を擦り合わせる。
いやだからその、そうやんな。会話っていうか、ある思考性を共通、統一しやすいのは言語。ああ、そういう感覚、そういう感覚。
内側に湧き起こる感情、そのものはむしろ言葉は個別化するんじゃないかな。だから逆、相反する機能が言語にあるということかな、この場合は。
個々人の中で違う観念が浮かぶけど、言葉を使うことによって共通の会話が可能になるという、なんか不思議なものよね。
そうですね。結局言葉によって、相手の脳に何が起きているかはそのうち調べられるようになるかもしれんから、まあわかるようになるかもしれないのか。
いやでも、まあわかる。どんなイメージが浮かぶかは、その有名的なやつでわかるかもしれない。まあこの辺も面白いところだよね。だから、僕らは言語について全然わかってないし、
当然、文学について、言語で合わせる文学についてもほとんど何もわかってない。でも、それらを楽しむことはできるというね。そういう暗黙化された技術ね、これは。
まあ、面白いというか不思議というか、そうだね、面白いなのかな。
あと、併せて紹介したいのが、本を読むときに何が起きているのかっていう本と、あとプルーストとイカという本。この2冊も読むっていうことについて考える上で、登場戦になる本だと思います。
あとまあ、難しいのを読む気があれば、夏目漱石の文学論を読まれると。 ああ、そうなの。山本さんの難しいやつ。
はい。 あ、違う? いや、解説した方じゃなくて、むしろ夏目漱石の方から読む。まあどっち読んでもいいけど。
読んでみると、夏目漱石の文学っていうのは、文学って結局2つのことで出てきていると。Fと、大文字のFと小文字のF。
認識と情緒、感情の2つで成り立っているっていう、何やろうな、すごい普遍的な文学論を立てたということで。
で、いわゆる科学論文っていうのは事実、Fしか書いてない。大文字のFしか書いてない。で、例えばツイッターで、ちくしょうっていうのは小文字のFしか書いてない。
で、小説ってのはその2つのものの折り重なりによって世界を記述しているんだっていうのが、夏目漱石の文学論らしいので。
まあその辺を深掘りしたかったら、山本さんの本内緒は直接、ちなみに結構難しいらしいですけど、夏目漱石の方は。 漱石が書いた文学論という本。
文学論、そうそうそう。彼が多分だから、イギリスとか西洋の文学に触れて、日本の文学っていうのを見て、全然違うわけで。
その中で、何か共通的に見えることはないかと試作した結果出てきた、その文学論だと思うんです。
俺そんなのを書いていたっていうことは全く持って知らなかったんですよね。 でしょうね。僕も知らなかったです。
まあそういうふうに、やっぱり漱石の時代っていうのは、特に海外文化と日本文化のこの折衝というか摂取というか、折り重ねの中でどうしていったらいいのかを模索した時代やろうから、
多分、イノベイティブな考え方がその時代にはいろいろあったんだろうなと推測しますね。
あの頃の文学っていうと、まあそっか、今に残っているやつしか知らないもんな。結局そういう時代にどんなものがあったとかっていうのも。
でも多分実験的なことが結構行われてたと思う。そこで多分その姿勢で学ぶことはいろいろありそうな気がします。
まあ今回その大きな文学論の話をしましたが、実際さっき言った個々の作品で何をどう意外ているのかっていうのがいろいろあって、まあ時間の話とかって結構面白いんですよね。
タイムスリップものとかって言って、あの1行先が8億年先やったりするわけですよ。でも僕らはそれを数秒で読むわけですね。
これは別に普通やけど、でも例えば人の書き格好の会話文であるじゃないですか。あえてほぼ党則なんですよね。
党則っていうのは僕が現実世界で進んでいる時間と、作品内世界の時間って会話文だけ党則なんですよ。でも字の文は違うみたいな。
今説明すると何を当たり前のことって思っているのかというと、その結構考えると不思議な文学の中で、文芸作品の中で起きていることがかなり細かいレベルで書かれてるんで。
文学読み慣れてない人がこれを読むと読めるようになるかどうかというよりは、普段読んでる人がそこにある背後で動いている面白いことってこういうことだなっていうのをわかる作品でもありますね、この本自体が。