面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第86回の本日は、体育館の殺人から考える新しい読書について語ります。
よろしくお願いします。 なかなかでかいタイトルにしましたね。
そうですね。今までこういうコンテンツも取り上げたことがなかったし、こういう話題っていうか、こういう話題は完全に初だと思うんですけれども。
タイトルというか、紹介する本というのは一応、形式上体育館の殺人という推理小説なんですが、
これの内容を言ってしまっても何も面白くもなんともないので、そういうものではなく、簡単に由来を語るとですね、ラスタさんが読んだって言ってたのはいつぐらいなんでしたっけ?
全く覚えてないんですけど。 去年?
去年のうちだと思います。
去年ぐらいに、おそらくそのアフタートークで話を聞いたと思うんですけど、
体育館の殺人という推理小説を読んでみて、この本が読者への挑戦というものが含まれている。
ここまで読めば、全部、謎が、秘密が全部書かれていて、それを読んで論理的に推測をしていけば、犯人というのはちゃんと確実に当てられる。
っていう、言ってみれば古い形式のフォーマットの推理小説。
それをクラシタさんは、ちゃんと推理して犯人当てるっていうのをやってみたという話を聞きまして、
自分の話なんですけど、推理小説は多分何十ぐらいは読んだことあるんですけど、一度たりともそんなことをやったこともないし、やろうと思ったこともなかった。
で、新しい娯楽として楽しめるのではないかと思って挑戦してみたら、自分の結果論だけで言うと、
あってたっていうか、あってないっていうか、っていうすごい微妙な判定なんですけど、
やはり本は読むだけじゃない楽しみ方があるなというのを身に染みて感じたんですよね。
なるほど。
で、その、やっぱね、推理小説もどうしても多くの人は予想なんですけど、やっぱ読み物にしかしていないと思うんですよ。
まあ、読み物ですからね。
ただ、例えば自分が読んでる時間より完全にその犯人を探している時間の方が長かったんですよね。
で、そういう本の読み方を、ブックガタリストのイメージとしては、やっぱり多様な本の読み方を紹介しようということを考えると、
推理小説を読み物ではなく、読むという読み方をもうちょっと、
今このコスパタイパーの時代だからこそ、訴えてもいいんではないかというのが今回の主題です。
なるほど。
まあ、もしかしたらですけど、今こういうような読み方をどう読んでいいのかがちょっと不明瞭になったわけですけど、
むしろこれが読むということなのではないかというふうに逆に言ってもいいかなとは思うんですけど、
つまり読むっていう行為、本を読むという行為は読むだけで構成されているわけではないと、また大冗談に言ってしまう。
で、ただ読むだけっていうのは、その読むっていう行為のすごい特殊なバージョンでしかないのかもしれないと。
読むってことの中には、例えばゴリゴさんは自分の本の中で、読むことは書くこととセットになっているという話を提案されましたが、
それと一緒で、例えば説くこともセットやし、語ることもセットやしっていう、その読みっていう行為の中心に読むがあったとしても、
実はそのノードネットワークが広がっておって、その全体が実は読むという行為として捉えられるのではないかっていうことが、
もしかしたら本性を通して出てくるのかもしれないですけども。
どこから話をするかというと、一応僕がなぜこの本を読んだのかっていうところと、
ちゃんと真面目に説こうとした動機づけみたいなのをちょっと確認しておきたいんですけど。
僕もミステリーとかは結構読んでたんですけども、同じくまともに、
踏んどしを絞めて犯人を当てようとしたことってほとんどなくて、読みながらだいたいこいつじゃないかなと思って最後まで読むってことをよくしてたんですね。
この体感の殺人っていうのに読者への挑戦状があるという話は聞いてまして、この作家が面白いということも、
僕、ガタリストを読書界で目にしてたんですけど、それだけではちょっとまだ読むっていうところで至らなかったんですけど、
去年かな、去年のアニメでアンデッドガールマーダーファルスというアニメ作品がありまして、これが非常に面白い作品で、
異能の存在、不死者とか、鬼とか、吸血鬼とか、そういうのが出てくる推理ものなんですね。
最近よくある不可能ものっていうか、現実にはない系のやつってやつですね。
現実にはない系の形で、例えば狼男やったら狼男の特性を踏まえたミステリーみたいな感じで、非常に面白い作品で、セリフ回しも結構かっこよくて、
僕、小説とかってセリフが好きかどうかでかなり決まるんですけど、この方のセリフ回しはかなり好きだったんで、
この青崎さんの小説が面白いって話とアニメを見て面白いっていうので、加算されて読んでみようかなと。
この時点では別に僕も、読者への挑戦状にまともに取り組もうとは別にしてなかったですね。
たぶんね。 8、2ぐらいはちょっとやろうかなと思ったけど、8ぐらいはもうたぶんそのまま読むだろうなとは一応思ってたんですけど。
でも、小説作品ではそういうのを読いたことはなかったんですけど、テレビドラマかな、テレビシリーズで、『安楽一探偵シリーズ』というのがありまして、
これ見てない人は全然わからないと思うんですけど、朝日放送系ですかね。
綾津寺幸人さんと有栖川有栖さんっていう日本のスウェーデン小説の大御所、2人が脚本とプロットを考えてるドラマシリーズなんですね。
それも放送があって、解決編、問題編があって、何週間後に解決編みたいな感じで。
これも一応だから、問題編見たら犯人が当てられるというコンセプトの、完全推理もののテレビもあるんですね。
で、それは僕結構ね、ビデオに撮って、何回も見返して犯人を当てるということをしてたんですよ。
でもその時はノートを撮るとかしてなくて、ただもう映像を何回も見て、犯人を誰かなって推測するぐらいだったんですけど。
で、改めて気づいたんですけど、なぜそんなことができたかっていうと、テレビって次が放送するまで続きが読めないじゃないですか。
読めないというか、見えない。 リアルにしゃーないから待つしかないんですよね。
そうそう。で、その待つしかない時間で考えることができたと。
で、推理小説とかの場合は、もう自分がページをめくれば続きが見えるから、我慢との戦いに勝てず、さっきを見てたと。
よくよく考えて、推理するという体験はしてたんで、やろうと思えばできるだろうっていう気持ちはあったんですけど、2部ぐらいの心持ちしかなくて。
で、実際にタイプ監察人を呼んで、読者への挑戦が来たときに、ちょうどたまたま僕がその時、ゆっくり本を読むというテーマというか、
何やろうな、モットーみたいなことをやってて、1つは監督プロジェクトって言って、1年かけて1冊の本を読むとか、
あと読書日記って言って、1章ずつぐらい読んで、その日にノートに感想を書くみたいなことをやってて、そういうブームやったんですよ、ゆっくり本を読む。
で、いろんな要素がその瞬間にバチンってきて、ちょっとこれ真剣に考えてやろうと思って、やり始めたのがきっかけというか、たまたまですよね。
で、やってみて思ったのは、純粋に頭を使うことの面白さって、これ多分アフタートークでもしたんですけど、
仕事に関係するとか、自分の環境を改善するとか、何か効率的な目的とは別に、ただ頭を使うことの楽しさっていうのを久しぶりに経験したというか、
水曜日ゲームをほとんどやらなくなり、ゲームってほとんどソーシャルゲームになってきて、ソーシャルゲームって基本的に頭をあんまり使わない運営スタイルなので、
できるだけ効率化ルーチンっていうのがソーシャルゲームの王道なので、だから本当に何の実績もないけど、ただ考えることをすることの楽しさを発見したということを表明したら、
いろんな方がちょっと実際にやってみて面白かったって話が聞けたというのが一つの大きな流れですね。
そうですね。そういえば自分の感想で言うとね、面白かったっていうよりはね、ほぼほぼ悔しかったで溢れているような気がする。
でも結果として悔しかったけど、道中はどうやったのね、その考えていたとき。
えーっとね、何度もくじけそうになりまくっていて、悔しさ全開で、ただ今、次回作読んでるんですよね。
水族館の殺人。で、えっとね、何て言うんだろう、 振り返ってみればめっちゃ楽しかったんだと思う。
はいはいはいはい。 そのやってる最中はまずね、すげーわからんくってね、何度もね、あの1回やめてるんですよね。
1回やめるを繰り返したっていうのか。わからんくって、しばらく間を置いて、もうちょっと時間が経ったらもう1回やってみるとかっていうことを何回もやってみた上に、
その結論から言うと、犯人はこの人だと思うというか、考えるとそうなんだけどトリックとかわからんし、
もうこれ以上無理だっていう段階で答えを読んで、一応犯人はあってたけど、あと何もあってないみたいな感じだったんですよね。
そうなんや。 で、その結論から言うと非常に非常に悔しい感じ。
何て言うんだろう。で、何人かの方がその後が同じぐらいの時期に、俺もやったっていう話をしたら、
自分もやってみたみたいなことを言っている人たちがいて、その人たちの結果を聞くとですね、また非常に悔しいんですよ。
何かできるんやと思って。で、少なくとも自己評価で2、30点ぐらい。0点ではなかった。
けど、これを合格としたら推理小説を解いたではないなっていうレベルの結果なんですよね。
で、他の人たちの話を、まああくまでも自己評価ですけど、みんなしてね、その70点ぐらい以上取れているような印象があって。
そのそこに至れる、その悔しさがネガティブなものではなくて、結果広い意味での楽しいものになっている気はする。
なるほど。でも珍しい体験というか、本って結局一人一人読み方が違うというのがよく言われることですけど、実際その通りなんですけど、この趣味においては、犯人を当てて満足したかっていう共通の価値基準軸っていうのが生まれる珍しい例ですね。
そう、極論誰も物語が良かったとか良くなかったとか何も言っていないんですよ。
そうやな。
この物語が良かったとか、この文章は好きだった、嫌いだったとか何も言っていなくって、みんなができたと感じられたのかどうかだけを語っていて、まあ嘘をつこうと思えばいくらでもそんなものなら嘘をつけるのでわかんないんだけど、
そして、みんなが一応にというか、少なくとも読み切ったという人たちは面白い体験だったと言っていた。
そうですね。ネガティブなことをわざと言う人はいないということを指し引いたとしても、報告されるぐらいの不成功例というか、うまいこと言った例というのがいくつかは確認されてますね。
そして、ちょっと自分が知らないだけかもしれないんですけど、やっぱり推理小説、ネタバレ、トーク回みたいなものっていうのはあまり目にはしないような気がして。
まあそうやな。それは多分読書会じゃないから、さっき言ったように、ストーリーがどうとかキャラクターがどうとかっていうことがあんまり主眼にならないからでしょうね。
でも逆になんですけど、これなら誰でも語れるなとも思ったんですよね。
まあそうやな。強要的なものっていうのは多分語る上ではそんなに必要じゃない。
その人がどういう格闘、知的格闘したのかっていうところの体験を語れると話に参加できるわけですからね。
そうそう。そういう意味では、やはりそれもまた読書を通じて人と交流するというものの可能性とか受け口を、間口を広げるというのかな。
まあそうやな。書くことが違うという感じかな。
そういうのはあるかな。
そもそもだって、人を殺される小説読みたくないみたいなのもあるわけやから。場合によっては。あと推理とかどうでもいいっていうのもいるから。
だから、ある種のハイカルチャーなものとは違う関心を持つ人たちで共通の話題を提供してくれる。
特に知的なプロセス、考えるというプロセスが好きな人にとって面白い話題になるでしょう。
ミスケンがやってるような読書会はこういう話でしょうね。
ミステリー研究会は多分ニュアンスが近いのか、きっと。
ここでやってることと近い。だからそのフィールドが、読書会のフィールドとミスケンのフィールドが重なる部分がここにあるってことかな。
まずね、その日本語を忘れていたということを思い出しました。ミステリー研究会という概念が。
自分がね、その中学高校とね、基本的に体育会系ではあって。
あんま体育会系な根性とかは好きじゃないし、あんまりないとは思っているんだけれども、それは多分そう思っているだけで結構そういうところがあるのかもしれない。
あると思いますね、それは多少。
そういえば文化系の部活にはそういう多様な世界が存在しているんだということを頭から抜け落ちていたかもしれない。
そういうのが多分見えてないし、今回復されつつあるというところじゃないか。
文化的な活動っていうのは特に他にいった者との交流こそがというところはあるからね。
そうね、ちょっと自分語り的なものになるんですけど、結構いろいろなものがリバイバルというか、若い頃にやっていたことが。
あれかな、ちょっと余裕が出てきたのかな、いろんな意味で。生活とか人生とか。
そういうことだと思いますね、きっと。
去年20年前やっていたギターを弾くようになったとか、スイル小説とかもね、言ったら20歳ぐらいまでは、まあまあって言ってあれか、読んでないことはないぐらいだったんですけど、
よく考えたらブックカタリストを始めてからひょっとしたら全然読んでいないかもしれない。
僕もそうですね、僕も大人になって、30代になってからは以前のようには読まなくなったね。
しかもその若い頃読んでいてたって言ってもね、やっぱね、かつての何も覚えていない読書の典型で、物語は読んでたんだけど、
例えば20歳ぐらいの頃、綾辻ユキトさんのなんとかの館シリーズとか、ブックオフで100円で売っていたので、なんかいっぱい買ってきて、雑に順番に読んでいったというのかな。
手につくものを雑に読んでいったとかなんですけど、残念ながら何一つ記憶に残ってないんですよ。
うん、まあ、そうでしょうね。
どのタイトルを読んだか読んでいないかも覚えていないし、
もちろん犯人なんてもってのほかだし、どんなトリックがあったとか何一つ覚えていなかったりして。
だからもう一回読めますよね。
それは逆に言えばそうなんですよね。
はい。
でもそのぐらいね、やっぱね、結局それは果たして読んだと言っていいんだろうか?
まあ、第一水準の読んだとは言えるけど、第二水準の読んだには至っていないというところは言えるでしょうけども、そう言えるようにようやくなったというか。
あー、そうか。その読書レベルが上がったからってことか。
初めて言えるようになるんだって。初心者は誰も第一水準の読書から始まるから、それは避けがたいんじゃないかな、きっと。
そっか。じゃあそういう意味でやっと大人になれたという感じなのかもしれないですね、自分の中で。
大人になったから読みのレベルが上がったみたいな感じ。
あと、余裕が出てきたっていう話と、あと、お子さんと触れ合ったことによって子供的な楽しみ方の筋肉が戻ってきたっていうこともあるんかなとちょっと話してみましたけどね。
あー、筋肉ではないけど、息子、奥さんには結構影響を受けていて、自分より純粋に楽しむことを楽しめるんですよね。
そうでしょうね。
なんかね、これまた俺の話なんですけど、なぜかやたら競技に従るというか、勝ちたがるというか。
そんな負けず嫌いなつもりはなかったけど、思ったより相当負けず嫌いとか、上手くなりたいという意思を、よく言えば上手くなりたいなんですけど、悪く言うとやっぱちょうど前回の話と似ているスパルタ的になってしまう。
はいはいはいはい。
自らで自らをスパルタ的に追い詰めようとしてしまう。結構体育会根性だなって最近気がついたんですけど。
っていうのが、その中話というか、もうちょっと中間的な目線で考えることができるようになったとかはあるかもしれない。
そういうのがないとゆっくり楽しむ、ゆっくり本を読むということは全般的にできないし、当然そうなると2倍速3倍速みたいな話になるし、小説に至ってはもう概、あらすじだけ読んでみたいなことになる。
そのなっていることに疑問を覚えないというような状況になるわけですけど。
別にそれはそれでいい、そういうのも楽しい、そのやってる本にが楽しかったら別にそれいいわけですけどね。
例えばゆっくり読むことがより深い楽しみやから偉いんだとかと言ってしまうと、だいぶヤバい感じになるわけですけど。
でも体験の質は明らかに違うものになる。質が高い低いとかじゃなくて、質の方向性そのものが違ってくるっていうことはあって。
それはもう本当に時間をかけないと、時間と手間をかけないと得られないし、結局どんなに頭が良くてもパッと読んだだけではね、どんなものでも文学小説だけじゃなくて、文学とか哲学だけじゃなくて、こういうミステリーですら僕らはほとんど何も読めてないということなんですね。
分かってないんですよね。驚くほど分かっていないから。
ここの部分だけに注目、これも前の文学のエコロジーって話しましたけど、ここの部分しか見てないから、結局話の全体像も見てないし、ロジックも終えてないしっていうまま、とりあえずストリームを体験して終わりっていうことが第一水準の読書で。
第一水準の読書とは違う第二水準の読書に入った時に得られる感覚というのが確かにあって、時間をかける、ゆっくりと理解するっていうことをすると、視野が広がるというのも違いますけど、脳が断片的でしか見えてなかったもののピースが組み合わさって、より大きな図に至れるという経験ができるということを
一番身近な場所で感じさせてくれるのが、このミス推理小説ではないだろうかという話ですね、今回は。
そうですね。だから、まず最近よく聞くというか、言われて思ったのが、まず読書メモを書くのって難しいんですよね。
どういう難しさがあるんでしょうね。
例えばで言うと、やっぱり何したらいいかわからないという意見が聞きます。読書メモを書くとは何をしたらいいのか。
本質的な質問だな。
何をしたらいいのかわからないと言われると、それに簡単にコンピューターに理解させるように分からせるというのはやっぱり難しいような気がして。
なるほど。
で、その場合に同じく何したらいいかわからんは同じなんだけれども、推理小説の犯人を探すために書いて考えましょうという言い方をすると、読書メモが何したらいいかわからんという人の中では何人かの人は、それなら書けるかもしれないと思うかもしれない。
それがなぜ起こるのかは、結局犯人を当てるという一番大きい目標が設定されているからでしょうね。
そうそう。そして他人に分かるように書くとかそういうことではなくて、学校で学んだ訓練が活かしやすいんじゃないか。そっちの方が。
学校の訓練でその大目標が固定されている中で、その大目標に対してどうアプローチするかっていう階段上り式なアプローチなわけで、それをより読書に応用するとそうなる。
逆に言うと、読書メモの書き方がわからへんのは、読書メモを取ることを通して何をしたいのかが決まってないからってことですよね。逆向きに言うと。
本を理解したいって言いますけど、本を理解するとかどういうことかわからないから。
それが曖昧すぎるから結局難しいんですよ。
その点、一種のゲームが行われるわけで、そのゲームの中でのメモの取り方であれば有限化が行われているわけで、考えやすいし、教えやすいというところも多分あるでしょうね。
そうそう。例えばなんだけど、登場人物一覧表を作ってみましょうとかっていうのだったら、根性の有無は別にして、ほとんどの人ができると思う。
だから扱う情報の質がまず限定されている。人と場所とタイムラインぐらいですよね、基本的には。
ちなみに途中途中、ゴリコさん挫折したと言われましたけど、一応全体的に通してどんな感じで本を実際読んで読むっていうプロセスを辿られたんですかね。
大体の流れなんですけど、まずは何も考えずというか、今までと同じ感じで解決。ここからこの後犯人がわかりますよっていうところまで、特にゆっくりお意識せず普通に読んでいった。
ファーストリーディングね。
割と文章量多かったなと思います。この本。
そこまで読んだ上で、今度はiPadのProDraftsという自由手書きメモノートっていうのかな。
というものを使って、どう書いていったって言ったらいいんだろう。
わかることをたくさん並べて、書き並べて、デジタルツールは移動ができるので、書いたものを近そうな場所に持っていくということをいろいろごちゃごちゃやってみた。
そこで書かれたものは例えば、この人はこれを持ってたとか、この人はこの時間ここにいたみたいな断片的な情報ってことかな。
そうですね。どっちかっていうか割と全体的にそういう感じかな。
あとはあれですね。先頭にあったスクリーンショットっていうか、地図みたいなやつ。その辺りを貼り付けて、この時間にこの人はこういうことをやっていたとかっていうのを書いてみたりとか。
全般的に言ったらキーワードとか単語が多い。
誰々何時、何時誰々どこどこにいるとか。
何々部の人たちは何時にこの人が来て、何時にこの人が来てっていうのを書いてみたりとか。
あとは重要な鍵になる。犯人探しでおそらく重要だと思われる道具について、こんな情報があったっていうのを周りに書いてみるとか。
なるほど。
っていうことをやってみて、まずそこで一度挫折しております。
ちなみに、その最初のファーストノーティングをした時っていうのは、先達の読書推理メモっていう手本がなかったわけじゃないですか。
そうですね。完全に思うがままにやってみた。
だからこうしようというお手本もないけど、どう書いていいかわからへんっていうことで戸惑ったこともなかった。
どう書いたらいいかわからんという点では戸惑ってないかもですね。そういう意味で言うと。
とりあえず見つけたことを書いていきゃいいかぐらいの黙算で始まったわけですね。
そうですね。そこはある意味、いろんな目的が削走していて、デジタル手書きノートブックは動かせるという前提で、だから何も考えずに書こうと割り切って書いたっていうのもある。
なるほど。
後付けでわかったことは、だから何も考えずに書こうあまり良くなかったかもしれない。
あらかじめ整理しよう。でも違うな。第一歩の一歩はこうじゃないと無理だった気がする。
かもしれない。迷走かもしれない。
次回はだから何も考えずに書こうだと、あまり上手ではない気がする。
はい、確かに。
次回だったら、まず人物表とタイムラインみたいなのを最初に枠として設定するかな。
なるほど。
っていうことをやると思うんですけど、だから、失敗から学べることとか他の人にぜひ伝えたいのは、書いたからって一回でわかるわけではない。
そうですね。
まず一回書いてもわからんかった。
2つの意味で判人わからんし、これが上手い書き方かどうかもわからんっていう。
こういう書き方でわかるようになるかわからないし、どう書いたらいいかもわからない。
まだ。
なるほど。
しばらく間を置いて、次にこれはもう本当に思いついたっていう感じなんですけど、わかりにくいから一回このプロドラフツのやつを消したり、今度は並べ替えることだけを目的にぐちゃぐちゃやってみたんですよね。
はいはい。
この情報に犯行現場の情報をまとめようとか、傘の情報をまとめようとか、タイムラインを縦に並ぶようにしてみようとかやってみたんですけど、同じくこれも1、2時間ぐらいやったと思うんだけど、そのあたりで挫折をしました。
まだ考えるに至らない。
なるほど。
情報を整理するだけで精一杯。
どう整理したらわかりやすいのかもわからない。
2度目の挫折がそこで終わり。
3度目はそれもまたどう思いついたかわからないけど、ちょうどあれですね、Obsidian Canvasというツールに興味が出ていて、そのObsidianの中で好きにカードを並べられる仕組み。
Obsidian Canvasでこの練習を兼ねてこの情報を整理してみようと思いついた。
Obsidian Canvasというものを使って、セミデジタルというかデジタルでいいのかな。
デジタルにその情報を並べてみて、一応そこで理論的にはこの人しか犯人になり得ないよなというのはわかった。
なるほど。
というところで一応大きな流れはそれかな。
はいはいはい。
だからやっぱり変な話、3つ目のObsidian Canvasが適切な方法だという話もありつつも、やっぱり1回目2回目がある種の素材出し、材料出しになってたからそこがスッとできたんだろうなとも思いますね。
そうですね。多分なんだけど、多くの人に勧めたいのはとりあえず1回紙で書いてみて、もう1回ぐらい紙で書いてみて、最後に聖書するぐらいならいい感じがわかるんじゃないのか。
そうだね。だから感覚的なものやから、例えば推理メモするときにこう書いたらいいよっていうテンプレートを示したとしても、それが本人の推理感とぴったりくるとは限らないわけで。
だから作るしかないよね。自分なりのフォーマットを模索していくしかないというのは大分めんどくさい話になってるけど。
クッソめんどくさいですよ。言ってみれば。だからやっぱり意識高い系の自分の人生に役立てるみたいなことでやってしまうと苦しいんですよ。
楽しみ的なものがないと、1回目でも聖書しきりたい感じになるもんね、きっと。
しかも趣味として遊びとしてやっていても何回も挫折しているぐらいなので、まずわからないことが楽しめるモチベーションが必要ではないかと思っていて。
結果的にすごく役に立つは間違いなく言えるんだけれども、役に立たせようとしないことから見つけられるものはきっとある。
ちなみにこれ、ボードゲームで社会が変わるっていう、ボードゲームの効能を話してる本、新書の中でも、ゲームをすることによって心理的なケアが起こるんだけど、
例えばそれを行政が主導して、このゲームをすることでメンタルをっていうことをすると、作業感が出てきてダメになるみたいなことが書かれてたんで。
遊びは遊びとして真剣にやることが重要だという話なんですけど、これも一緒ですね。
そうですね。今の話を受けて言うと、やっぱり真剣に遊ぶって結構難しいんですよ。これは結構真剣に遊んだと思う。
僕も先調べたら、去年の10月16日に買って、読料が29日になってるね日付が。
もう2,3日で読めたんですね、とりあえず。
だから、そこから読めて至るまでに、ゴリラさんと一緒で途中で諦めて、続き読もうかなという場面が2,3回ありました。
でも、やっぱりそこで、先ほどと同じですけど、自分の設定した目標に負けたくないマインドがあって、一応わかるまではと思って、
全体としては楽しかったけど、箇所箇所でモヤモヤと苦難との遭遇みたいなのはあったっていうことはちゃんと伝えておくべきだなって聞いて思いましたね。
ずっと苦労しっぱなしでしたね。
そういう苦労が現代では薄れているというか。
やらない方がいいこと枠にあると思う。たぶん、こういう行為は。
社会とかテクノロジーがそういうのをどんどん排除していく中で、簡単に言うとネガティブケイパビリティみたいな。
ネガティブケイパビリティはかなり近いかもしれない概念として。
啓蒙的にネガティブケイパビリティを得ようというよりは、頑張って推理小説を読んでみようっていうことによって、それを寛容していくっていうのはちょっと面白いアプローチだね。
やっぱね、真面目にやるのは辛いんですよね。どんな訓練だろうがなんだろうが。
そこをいかに遊びと絡めて、役に立つことを目的としないことによって役に立つという難しいところではあるんですけど。
さっきの最初の話で言うと、第一水準の役立つと第二水準の役立つっていうのがあるんやろね。
そういうことでしょうね。だから目の前の安っぽい役に立つみたいなのはないんだけど。
でもだからこそ、たぶん一回やってみるだけでも結構これによっていろんなことが分かったなって客観的に振り返るんじゃないかという気はするんですよ。
だからまず分かるとはどういうことかが体感的に分かるやろし、分かるために何が必要なのかも分かるようにやっていくのかな。
例えば自分がこれをやってみて分かりやすくした新しい概念として、きれいに並ばないと考えるのが難しいっていうのを初めて身に染みて実感できたというのかな。
自分が手書きのメモとかノートが好きじゃなかったのは、きれいに並べることが技術的に得意じゃなかったから。
デジタルツールは比較的簡単に指の技術が低くてもきれいに並べることができる。
確かに。
それによってさらにタイムラインというものをきれいに並べることができたら、結構それだけで同じ情報を整列させるだけで分かりやすさが増えた。
認知的な処理の負荷が減る分、情報処理の方に頭が回るようになるということだよね。
っていうのも、言語では得られない感覚みたいなのはやってみて分かったというのかな。
それはあると思うわ。
例えばコピペで済ますんじゃなくて同じものを手で打ちましょうみたいなのも、スクリーンショットを見ているだけでは全く分からないわけですが、手で打つとはっきり分かるからね。
それはどんなに口で言っても耳で聞いてもダメで、やってみないと分からないじゃないですか。
そうですね。それは間違いない。
なぜなら僕らは単体ではないから。犯人当てなくても困らないし。
何にも困らない。物語は勝手にそっちで続いているので。
だから、やっぱり一回真剣に、しかも基本的にロジカルだし、このシリーズだったら同期で犯人を当てようとさせへんから。
純粋にロジカルを追うだけっていう経験をするのは、ある種数学的な訓練と似た価値がありそうですね、これは。
そうそう、それの話でいうと、つい数日前に数学の先生のチョイヤキさんが分かったって言って、
ネタバレありまくりの読書メモっていうのを見て、あれもすごく参考になって。
こうやって人は推理小説を推理するのかっていう、その過程を、その実例を見せてもらえると、
自分がすごい苦労してわからなかった経験があるからこそ、人のやり方がより参考になる。
しかも過剰書きアウトラインで解決したんやっていう感じで。
いや、それやっぱり数学の先生ならではの頭の構造なんだよね。
変数が入っていく感じなんですかね。
きっとそう思うわ。結局、推理小説のメモも他人と共有しないし、
普通の読書メモだって基本的には他人と共有しないから、やっぱりお手本っていうのがないわけですけど、
僕らの学びは基本的に真似から始まるわけですから、読書メモ書けなくても当然なんですね、基本的に言うと。
見たことないですからね、基本的には。
見たことないから書けないし、書けないからうまくいってるのかもわからないっていうところで、
メモを共有する空間っていう、オープンな空間では難しいとしても、ある程度のクロスなところで読書メモの書き方とか、
実際に書いてるところを共有することの価値っていうのは、
そういうノウハウ本を一冊読むことよりも深いものがありそうな気がしますね。
たぶんあれなんですよね、体育館の殺人を読んで推理したらノウハウ本一冊読むより時間かかるんですよね。
めちゃめちゃかかると思う、それは。
でも、たぶん下手なノウハウ本を一冊読むよりも、はるかにたくさんのことが知ることができる。
学ぶよりもね、なんかね、身体化、それも違うか。
いやでもやっぱりそれは、やっぱり体験として考える手を動かすってことをしているからですよね。
だからその辺のノウハウ本も、書かれてることに関して実践、同じくらい真剣に実践したら学びは深いと思うけど。
ああ、そういうことですね。
逆に言うとその手の本は、読者が実践しなくても分かった感のように振る舞うから、そもそも行動が生まれないんだよね、アクションが。
でも推理小説の範囲に当てようと思ったら自分の手を動かすしかないから、その点で行動推進力があるかないかの違いが影響してくるんでしょう。
そうですね、水熱症であれですよね。
例えば毎日朝会ったら会社の人全員に挨拶をしましょうって書いてあって、
それを愚直に真似するのは、ある意味推理小説を説くより難しいですからね。
難しいと思う、だいたい。言われた人も次の日にはもう書いたってこと忘れてるからね、基本的には。
まあ、もうそうね。それも情報量も多くて、実践すべき内容が多すぎたりもするしな。
いやでも多分、書き慣れててもなかなかし…。
いやでもそうか、一冊かけて一つのノウハウを追うっていう場合の方がいいかな。
0秒メモとかも多分そういうやつだと思うけど、非常にワンポイントの話を一冊かけて紹介した方が、その行動は生まれやすいでしょうね。
ですね、そしてやっぱり効果があると思ってもらえるから、いいじゃんって思えるっていうか。
そうやね、だから変な話、どんなノウハウでも実践したら学びがあるんですよね。
それはすごく当たり前だけどすごく言える、すごく大事なことかもしれない。
だから読者に行動を生ませたら、この人は何か価値あるノウハウを言ってると思ってもらえるわけですから。
どれだけ実践可能か、あるいは実践の推進力を持っているかが多分重要で。
で、海外のその系のノウハウって、すごい立派な分実践しづらいところがあるから、そこが多分ネックで。
で、前回のタスクシュートの紙のやつもやっぱり実践しやすいところが多分ポイントなんでしょうね、あれはね。
3個書けですからね。3個書いて1分以上、それぞれ1分以上やりましょう。
で、一見するとそんなことに効果があるのかと思えるぐらい簡単なことを示すからこそ人は実践するんだし。
で、実践したらやっぱり、なんかさっき言った体験的な知恵っていう身体知恵が得られるし、それはもう一冊本読むだけでは絶対に得られないもんやから、
ノウハウ人としてはいかに行動を促せるかっていうところが鍵で。
もうその理屈とかってほとんどどうでもいいと思ってはいないけど、偏移づけというか、納得してもらうためには必要でも、
実践するときにむしろその知識って邪魔になることもあるから、なかなか書き方って難しいところはありますね。
そうですね。結局のところ、ほとんどすべてやるかやらないかだけですからね。
ほとんどほとんど。それでこの前、おとついか、おとついとある動画でノーションのデータベースの簡易入門みたいなのがあったんですよ。
英語のやつってね。で、僕が見かけたノーションのやつって本格的なダッシュボードの作り方みたいなやつで、
4つ6つのデータベースを駆使してみたいなやつだったんですけど、2つだけの簡単なやつから始めますっていう動画で、
一応最初から最後まで見て、これならできそうと思って作り始めたんですよね。
一応ちゃんと注意深く最初から最後まで見たんですけど、最初の操作からもう覚えてないんですよ。
わかる。そうなんだよね。結構そうなんだよね。
で、もう1ステップごとに動画を止めて操作に戻って、操作へまた動画戻ってっていうことを繰り返して進んだんですけど、
もうちょっと油断して2ステップぐらい動画見てしまうと、もう1個前の1ステップ覚えてないんですよ。
だから1ステップずつまでして、そこまでやったらもうその操作は僕は二度と忘れない領域になって、
むしろ人に教えられるようになってるんですけど、やっぱり動画を見て分かった木と、
その実際にした時の分かってない木と、自分がやって分かった木っていうこのV字みたいなのを、
機能をわざわざ経験してやっぱりやること、実際に行って動かすことって重要だなっていうのを、
なんか分かってたけどさらに確認しましたね。
そうですね。最近ね、自分がセミナーとかをやっていて、やっぱり一番重要なのは結局それだと思っていて、
自分が話している内容を文章にまとめたら5分もかからず読めるんですよ。残念ながら。
で、合理的というか、所要時間だけで考えると、1時間もそこに時間を使うのはどう考えても無駄だと思ってしまうんだけれども、
5分で読めても、残った要素が1であれば意味がなくって、
1時間かけてやっぱり50あれば、遥かにそっちの方がいいというのかな、残るものが。
だからその、情報として見たときに、メッセージとして見たときに、文章で書いたものが1で、動画で示したものが1だとしても、その1が多分細分化されて50になってるイメージなのかな。
でも情報量は単純に増えてるか。
関連情報が増えることによって、メインも残りやすくなるとかが一番デカいんじゃないかなと思ってますね。
空間とか時間すらも情報になるっていうのか。
そうだね、確かに。
その空間でそれだけの時間をかけて摂取した情報を、さらに言えば手を動かすことが可能な環境で、手を動かしながら摂取した情報だから残りやすくなる。
そうやね、やっぱり動画セミナーでもおそらくやけど、動画で例えば設定画面のこのボタンを押してくださいって言ったときに、やっぱり同時にやってもらうことの重要性というか。
本当に覚えてないからね、あれ。不思議なことに。その瞬間は絶対分かって、後でこの手順なんか簡単に。
あとは自分が一定以上必要とか興味があるとかやってみようと思った時には、そういう一見効率が悪そうなところに手を出してみる。
という方が、これもやっぱり時間をかけてやることの一環やね。
だから時間をかけて読み書きするとか、時間をかけて情報接種するっていうことの方が実践では良くなる。
だから僕らの体そのものがそんなスパン、時間早いスパンで動いてないから、体に合わせるならゆっくりやるしかないっていうことだよね。
そうですね、同じく推理小説に関しても、こんなことが面白くないと感じる人はいくらでもいると思うけれども、
聞いてくれている人の予想なんだけど7割8割ぐらいの人であれば、やってみる、一度やってみる体験としては悪くないのではないか。
まあそうよね、それ面白いと思うし。僕はその大体何につけても体系化したがる話があるので。
例えばミステリー小説の読み方、ノウハウ書の読み方、文学の読み方みたいなその読み方を細分化して包括的に捉えると、
際と共通性みたいなのが浮かび上がってきて、面白い本のコンテンツになるんじゃないかなとちょっと想像してしまいましたが。
ミステリーはね、もう一個思ったのがおまけ的な要素なんですけど、やっぱり細かいところまで読まないといけない気がしてね。
ああ、そうか。特に挑戦状を出しているやつって、論理的に解けるものが全て提示されていることが最低条件なわけですが、
ノウハウ書の場合って、著者が必要な情報を全部提示してくれるとか限らないから、そこがちょっと読み方としては特殊とか恵まれてるんかな、挑戦状の方が。練習にはぴったりか。
そう、ビジネス書はおそらく重要だと思うところは不届線になっているので、とかイラストが入っていたりとかして、そういう油断をしては付き合えない感じというのかな。
いや、それもあるし、例えば梅沢先生の知的生産の技術って本を読んでも、あれ、カードをどう書くのかぐらいまでしかわからなくて。
うん、全部は書いてないですね。
そうそう、だからそこを補うことがノウハウ書の読み方やから、きっと。だからちょっと違うんだな、方向性がね。
そうですね。だから、よりマニュアルチックというか。
うん、本だけで完結するという意味で言うとミステリー小説、てか犯人当て小説はぴったりやね、確かに。
そう、目の前にある情報をいかに上手に、情報のみからいかに上手に情報を摂取して整理して。
だから情報整理の練習ってこと?
そうそう、そういう感じ、そういう感じ。
なるほどなるほど。
そう、思考だけではない。さらに体育館の殺人で言うと、やっぱり推理は必要というか。
間違いない。
トリックに関しては、全然論理的とは言い難いような。論理的とは言い難いと言うと違うか。俺、発想がないと無理だと思ったんですよね。
あー、発想か。あれですよね、多分ドア出入りする的な話ですよね、きっと。あれはね、俺思いついたんやけど。別に自慢とかじゃなくて。だから、そうしかないみたいな感じかな、だから。
あー、だからそこが分からんけどそうだったというのは、自分の場合はそういうところで。
そうしかないという観点で文章を読んでいると。
まあ、たどり着きやすいか。だからそういう意味で言うと発想とは言い切れないか。
うん、ある種の訓練ないし、メタ情報によって解き方というか、着目点が習熟者に習熟していたぐらいかな、だから。
そう、まあそれで言うとあれかな、論理だけで初見、初見じゃないな、ミステリーに不慣れな人が解くのは難しいというのかな。
かもしれん、そこは。