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2024-02-21 38:02

第10回 academist × UJA 研究者の海外キャリア応援②

UJA(海外日本人研究者ネットワーク)とのコラボ企画第2弾。 今回はがん制御研究の園下将大さんに、留学の経緯やその後のキャリアについてうかがいました。

サマリー

UJAさんとacademistのコラボで、研究者の海外キャリア応援スペースの第2弾が開始されています。本日は赤城さんと園下さんがゲストとして出演し、ミドル世代研究者の海外留学について話し合われています。留学を通じてアメリカで研究経験を積んだ園下博文氏は、日本に戻って大学でキャリアを築くことを希望し、北海道大学に着任しています。留学経験を持つ学生たちにも海外留学を強く推奨し、留学の価値と可能性について話し合われています。後押しや保障がある状況で留学することをお勧めする声もあります。ご家族がいる場合は、二人分の家族のことを考慮したり、住む場所や学校などを検討する必要がありますが、立場によって準備の必要性が異なると考えられます。

UJAさんとacademistのコラボ
そろそろ、みなさん集まってきたので、本日、ミドル世代研究者の海外留学について聞きたいということで、UJAさんとacademistのコラボで、研究者の海外キャリア応援スペースの第2弾を開始いたしますので、どうぞよろしくお願いします。
本日もUJAからは赤城さん、そして今日のメインでお話しいただく園下さん、どうぞよろしくお願いします。
では、園下さんの方から、簡単にまず自己紹介をお願いします。
はい、ありがとうございます。北海道大学におります園下と申します。そうですね、がんの研究をやってますね。もうかれこれ、研究を始めてから20年以上になりますよね。熱意持ってやれてるのは幸せなことだと思いますね。
今日も多分お話聞いていただくことになるかもしれませんけど、どうやって研究したらいいんだろうっていう、何研究したら楽しいかなっていうのに、ずっと頭が悩ますキャリアでしたけれども、それがめぐりめぐって、いろんな新しい出会いとか、新しい実験とか発見につながってきているので、幸せな人生を送れているかなと思います。
素晴らしいですね。よろしくお願いします。よろしくお願いします。そして、じゃあ赤城さんからもちょっと簡単に。はい、そうですね。前回に引き続きまして、私が参加させていただきます。
海外日本人研究者ネットワークUJA理事で、現在は福岡工業大学生命環境科学科で教員をしております赤城と申します。
今日はアカデミストさんと一緒にUJAとコラボでいろんな研究者のお話を聞くということで、園下さんとのお話楽しみにしておりました。よろしくお願いします。ありがとうございます。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。そして、私アカデミストの阿部と申します。アカデミストは学術系のクラウドファンディングサイトなどを任命しておりまして、そこでいろんな研究者の方々、お悩みごと伺う中で、結構最近海外留学したいんだけど、というような、金銭的にというようなお悩みなども伺っていく中で、なんかもっと掘り下げていくと、
そもそも結構海外留学に対していろんな不安があったりとか、気になることがあるということで、いろいろそういったところ、経験者の方々のお話をもっと伺える機会を作れたらなというふうに考えて、UJAさんとコラボさせていただいているというような感じになっております。
はい、ちょっとそうですね、結構園下さんはどういった経緯で留学されたのかみたいなところを伺っていきたいんですが、まず、なんか私UJAガジェットを拝見させていただいて、37歳で留学されたというのが、なんかすごくそこ気になる。
そうなんですよね。遅かったんですよね。本当は早く行きたかったんです。もう大学卒業してからでもすぐにでも行きたいって思ってたんですけど、いろんなことが、そんな大したことじゃないんですけど、やっぱり研究が切れ目がないとかですね、なかなか。
一つ論文出したら次、また面白いことが出てきてしまったとか、いろんなことがあって、やっぱり伸びてしまいましたね。
なんかそもそも留学したいって思った、その学生の時に思ったきっかけみたいな。
園下さんの研究と留学のきっかけ
もともと外国、なんか憧れっていうのもあったんですよね。で、一時期高校生ぐらいの時に国連の職員になってみたいとかですね、英語を一生懸命勉強したらなれるかなとかですね、なんかそんな考えを持ったこともありました。
で、外国に一回行って、やっぱりいろんなものに触れてみたいっていう思いは、サイエンスと独立して持っていたんですよね。
だから、自分の好きな勉強もできて、なおかつそういう異文化にも触れられるんだったら、もう留学ってそんな素敵なことないなって思ってたのが、その時の気持ちですよね。
高校の頃はどこか海外旅行とかは行かれたりしたんですか?
いや、行ってないんですよね。行ってなかったので、行ってみたいなっていうそういう憧れもあって、頭の中で妄想ばっかり膨らむみたいな。
いっぺん行ってみたら、どんなとこかな、ほんと楽しいんじゃないのかなって思ってましたよね。
特に高校の時とかってインターネットなんてない時代でしたから、テレビか新聞かっていうところで、だから詳しい情報もわからないし、
だから、極端にいいところとか極端に悪いところとか、そういうのは聞こえてきてたと思うんですが、漠然とした憧れみたいなもんでしたよね。
学生時代とかに、例えば学会とかで海外行かれたり?
そうですね。大学院に入ってから行けるようになりましたね。
それは非常に幸せでした。初めて行ったのが忘れもしない2001年の韓国だったんですね。
韓国とアメリカの合同願楽会というのがありまして、それで韓国に行ったのが、なんと9.11が起こったまさにその日だったんですね。
朝テレビつけたらビルが崩れ落ちてて、なんだこれはっていう、なんか映画でしたかっていうぐらいの衝撃で、
街角にも韓国軍の兵士とか銃構えて立ってるし、もうそれがすごい印象的で、だから気づけばそうやって覚えてますね。
行った日が9.11だったんですか?
行ってね、2日目ぐらいとかじゃなかったのかなと思います。
それ無事帰ってこれたんですか?
日本人はなんとかもう大丈夫で、でもやっぱり怖かったですよね、そういうのって。どうなるんだろうって自分の国にいたわけでもないので。
そうですよね。
それは衝撃的でした。学会そのものもボスにくっついてただけだったんですけど、いろんな話聞けてそれも刺激的でしたし、いろいろ印象深い体験でしたね、初めて。
そこから海外まで留学したいなって思いがある中で、なかなか行けない状態が続いて、じゃあそのきっかけというか実際に行くってなったきっかけって。
僕が研究の時に首都葵でいたその時の先生が武藤誠先生っていう京都大学の医学部のご出身の先生で、それで東大の薬学部にいた時に出会ったんですね、彼がそこの教授をしていて。
武藤に戻るということで、お前どうするついてくるかっていう話になって、僕も京大の大学院に進学したんですね。
だからずっと一緒についてたんですけれども、なかなか行きたいんです先生外国に留学してみたいっていうこと言ってたんですけど、こっちの仕事やってみようかみたいな。
僕もすごく勉強になることが多かったので、考え方にしても技術的なことにしても。なので、それはそれで幸せなことでした。
天気が訪れたのは、彼が退官の時だったんですよね。2013年に退官されて、春にですね。それで、じゃあ行ってもいいでしょうかっていうことで、よしっていう話になりまして。で、行ったっていう次第ですね。
なるほど。
その行こうってなって、そこから実際に行くまでの期間ってどれくらいあったんですか。
実際にはどうでしょう。半年ぐらいだったかと思いますね。
それはすごい早いですよね。
もう少しあったかもしれませんけれども、とにかく直感的に、この人のところに行きたいってもうそれしかないんだみたいな、なんかすごい行きたい気持ちが出まして。それでもう最短で組み立てていったような感じでしたかね。
それは元々のコラボレーターとかではなくても本当にパッと見つけた感じですか。
そうです。論文に一目惚れでしたね。
で、その時に悩んでたことがあったんですね。
ガン研究でマウスとかバイオ細胞とか使っていろいろやっていくと、この遺伝子がガンが育つのに大事だとか、このタンパク質の働きを薬で阻害したらガンガン治るかもしれないっていう発見とかアイデアが出てくるんですけど、なかなかマウスを使って効率よく進めるっていうのが難しいっていうことにも同時にジレンマ感じてまして。
だからその研究を加速したいと思ってたんですね。
ハエを使ったガンの研究
かといってデモホニュー類は大事な人への橋渡しの一つのステップなので、ないがしろにはできないしと。
であればそれを捨てるというよりは何か別のものをそこに組み合わせたらどうだろうっていう発想だったんです。
で、いろいろと勉強してみたら、面白いモデル生物が実は100年以上前からいるっていうことに気づいたんですね。
それがショウジョウバイっていうゴマ粒ぐらいの大きさのハエだったんですね。
ショウジョウバイって遺伝子を改変したり操作したりするのが非常に簡単で。
しかも次の世代が2週間あれば生まれますし、遺伝子もよくよく人と似ているものが多いので。
だからそういう利点を自分がジレンマ抱えてたスピードとかコストとかそういうのを解決できるいいモデル生物になるんじゃないかってちょっと思ったんですね。
これやったらいいかも、これちょっと勉強してみようかな、これ自分で緊急スタートしてみようかなって思っていろいろと文献を調べてたらあったんですよね。
ちょうど行くことになったラボがまさにそういう研究をネイチャーでバーンって出したんですよね、2012年でしたけど。
それを見てびっくりして、2つの気持ちでしたね。
半分はすごい悔しかったんですよね、サイエンティストなんで、先越されたと思って。
でももう半分は嬉しかったんですよね。
なんか自分の考えってそんなに的外れじゃなかったと、ちゃんとやったらロングモデルじゃないかって思って。
でももうそんなロングになっていることなんて何年も前からやってるはずだから、これもう行っても勝てるわけないから、であれば日本語のことわざでいうところの長いものにはまかれろというか。
言い方になった方がいいなと思って、それですぐにネタを書いたっていう流れでした。
なるほど。ちょっと専門的なことになっちゃうんですけど、発生のところでは症状倍がよくモデルにはなると思うんですけれども、
ガンに関して人の病気がハエをモデルとしてやるっていうのがすごい接点だなと思ったんですけれども、
ハエでも腫瘍化するような細胞が出てくるってことなんですか?
そうなんですよ。勉強し始めた時はなかなか追いつかなくてそこまで知識がなかったんですけれども、よくよく勉強してみるとやっぱりそういう試みっていうのを症状倍でやってる人たちっていうのがいまして、
僕が留学先に選んだロスケガンさんはですね、まさにその走りの一人だったんですね。
彼は元々目の発生、副眼で800個ぐらいの小さい細胞が規則正しく並んでるんですけど、それがどうやって規則正しく発生するかっていうことを研究してた人だったんですね。
よくよく振り返ってみると、ラスとかEGFRとか、要はガンで壊れてるような遺伝子が同じように関わってると、同じ因子が三角してるっていうことに気づいて、
じゃあこれ名を遺伝子変えたらちょっとガンっぽくなるんじゃないかっていうところから彼は試みたっていう、それが最初だったんですね。
で、彼がすごかったのは、それを減少の観察だけじゃなくって、その名を異常にしたハエに対して、
餌の中に薬の候補になるような化合物を混ぜ込んでおいて、それをハエに食べさせるっていう実験器を立ち上げたんですね。
そこまでやってるんですね。
そうなんです。それをイギリスのアストラゼネカっていう製薬会社がありますけれども、あそこと手を組んで化合物をたくさん試して、
その中で最終的に妊婦までたどり着いた化合物を強度研究で導体するところまで行ってるんですよね。
甲状腺癌だったんですが。
なるほど。そんな方法があるんですかね。
そうなんです。で、まさにその辺りの仕事をですね、僕が見たっていう。
他にもですね、今京都大学で教授やってらっしゃる井垣達史さんをはじめとする人たちも、
ガンで壊れてるような遺伝子異常をですね、ハエの中で再現して、腫瘍のように異常に細胞が増えてくるとか、
そのメカニズムは何だっていうことを司材に検討している人たちがいて、
そういう人たちにも今もですけれども、大いに勉強させていただいてますね。
なるほど、そうなんですね。なんとなく僕、哺乳類でしか研究進んでないのかなと思ってたけど、
症状場合でもガンの研究が進むんですね。
意外と無脊椎動物と脊椎動物、昆虫と哺乳類で進化の系統中で行くと対極にあるような感じのイメージを。
そんな気がしますけどね。
でも確かに遺伝子が壊れてるっていうのがガンの病気ですよね。
なので、遺伝子とかシグナル伝達経路が保存されてるものっていうのは、
工夫すれば上手いことモデルとして使えるんだなっていう、そういう気づきでしたね。
なるほど、面白い。
すいません、どうぞ。
いえいえ、すごい。この研究の話だけでも聞いてみたいっていう感じなんですが。
そういった運命的な論文の出会いがあって、ネタを書いて、そこから実際に留学、どういう仕組みを使ってとか。
どういう風にして留学、実際にするところまで行ったのかっていう、その準備。
これすごくタイミングが良かった出来事があったんですね。
それが今はもうなくなってしまったんですけれど、当時僕京都大学におりましたけれども、京都大学で準教授やってたんですね。
京都大学の若手教員、教員を海外に出して研鑽を済ませようと。
アメリカでの留学プログラム
それで日本に帰ってきて、京都大学の発展のためにその知識とか技術を活用してもらおうっていう、そのままジョンマンプログラムっていうのが始まりまして、
2012年だったんですが、後半に始まって、留学を決めたのが2013年の初めぐらいだったので、
ちょうどまだまだ教大の中でも知名度が低いプログラムだったんです。
中身はすごくてですね、給料がフルに出るんです。
フルに出て、なおかつ研究費も希望すれば与えられるっていうようなプログラムで、
それで、だから教大の身分を保持したまんまで行ってこいよっていう風に送り出してくれるプログラムだったんですね。
それがめちゃくちゃ大きくて、普通は行こうと思うと、その職を辞めて現地のポスト区になるとかですね、
なんかそういう留学、海外学士に取るとか、美女成人を取って、スカラシップ取って、現地に行って、現地の身分になるっていうことが多いと思うんですけれども、
自分の場合は、なので最初は正確に言うと教大の職員でありつつ、現地の大学の客員研究員という形でしたね。
そのジョンマンプログラムは、まずは1年間ですか。
そうです。1年間で、で、それっきりっていう話だったんですけれども、運がさらに良かったことに、
少し始まって、始まって現地に行って、少ししたぐらいで、延長をちょっとやってみようと、思考的にやってみようと思いますみたいなことが案内がきまして、
興味あるかって聞いてきたんで、1年間延長ですよね。もちろんって言って、即返答しまして、応募をしましたね。
なるほど、それはいいタイミングでしたね。
すごくラッキーでした。
先方も、その人さんのお給料は払わなくていいってことですね。
そういうことです。
それは先方にとってもいい話だね。
そうなんですよ。彼にレターを書くときに、行くにあたって給料が大事なのはよくわかっていると。
で、自分でできれば確保していきたいと思っていると。で、これこれ、こういうジョンマンプログラムっていうのがあるから、これに応募したいんだけど、
受け入れ側の承諾が必要だから、これを獲得できたら、お前を受け入れるっていうふうな、確証を欲しいっていうようなレターを書いてですね、何を含めかのときに。
それで実際に面談もして、いいよと、保証してやるよっていうふうに言ってもらえたっていう次第です。
なるほど。今はなかなかそういうシステムないですよね。
そうなんですよ。すごく良かったと思っていて。で、実際にそのプログラムで、今PIになっている人も多いんですよね。
そうなんですね。
例えば京都大学の放射線センターで、今センター長でやってらっしゃる原田博先生、彼もですね、自分の同期、一つ前だったかな、第1回目だったかもしれませんが、
同じ時にですね、その時はまだ面識なかったんですけれども、イギリスに留学されるきっかけをそれで獲得されて、でもうトントン拍子のキャリアですね。
やっぱちゃんとしっかりした人が採択されていて、今しっかりしたキャリアを歩んでるってことですね、皆さんね。
そうですね。
素晴らしい、素晴らしいシステムだ。
復活してほしいですね。
本当ですね。
ある時、ふと何年か前にウェブサイト見たら、もう終わりましたっていう感じで、初期の目的を果たしましたっていう感じで。
でも僕ぐらいの年って、そんな37歳でスカラシップ応募してもらえるのってないんですよね。年齢がネックになってきてしまうので。
そうですね。若手向けばっかですよね。
そうなんです。だからもう途方に暮れてて、実際のところもう諦めてましたね、留学は。
なるほど。
実際その留学、現地に行ってみて、何かどうでしたか、その留学生活というか。
とても楽しかったです。これ写真とかね、今日シェアできないと残念なんですけど、やっぱり現地でアカデミックにもすごいいい刺激もらえたし、
プライベートでも大変な暮らしではありましたけど、多くの学びを得ましたね、築きが多くて。本当に濃密な5年間でした。
5年間も行ってたんですね。それは長いですね。
いわゆるJ1ビザですね。行ったんですけど、あれが本当に5年間が満期ですよね。本当に切れるときに帰ってきたという感じでした。
留学先がマウントサイナイ。
マウントサイナイ留学体験
そうです。マウントサイナイメディカルスクールというところで。
そうですよね。僕がカリフォルニアのスイダスサイナイ、やっぱりサイナイ系のユダヤ系の病院に留学してたんで。
それがね、やっぱり日本にも宗教系、宗教を大事にする病院ってありますけれども、アメリカは結構多いんだなと思って。
そうですね。そういう患者さんに対して、患者さん同じ民族に対して施しをするとかですよね。
やっぱりアラムナイとか、同じ民族が寄附をする、莫大な寄附になりますね、ユダヤ人は。
そうですよね。
そういったところって大きいと思いますね。
やっぱりマウントサイナイのほうも寄附での研究施設多かったですか。
多かったですね。よくご存知と思いますけど、アメリカって寄附した人の名前がよくつきますよね。
つきますよね。
パビリオンとかなんとかビルとかですね。やっぱりそういうのすごい多かったですし。
やっぱりそうですよね。
そういった研究環境としては、じゃあもう素晴らしい。
もう本当に行ってよかったって今でも思えますね。
マウントサイナイ医科大学なんですね。単科大学なんですね。
日本で単科大学っていうと、どうしてもやっぱり総合大学に比べると人数的にも少し規模が小さいとかですね。
研究室の数も少なめっていうのが印象としてあるかもしれないんですけれども。
そこはもう印象はもちろんなんですけど、基礎研究がとにかく充実してまして、
僕が行ったところは、その名も発生再生学部って言ってもラボが20ぐらいあるところだったんですね。
そこにはもうカエルはいるわ、センチューはいるわ、もちろんハエもいますし、
モデル生物が一通りそろってるっていうところで、本当にいい刺激になりました。
だから医科大学ってそのドクターを育てるとか、薬を作るっていうことをだけ意識してるんじゃなくて、
そういう基礎研究にもものすごい力を入れていて、もちろん日本にも入れてるところって多いと思うんですけれども、
やっぱりその規模とかですね、リソースの規模が大きく感じました。
そこから出てくるものを拾い上げて、できれば最終的に患者さんにつなげられるといいなっていう、
思惑だったっていうことだと思いますね。
日本でのキャリア構築と留学の価値
すごい、なんかそんな、でも理想の環境の中で5年っていう期間が終わるということで、
ちょっとその後のキャリアみたいなのを日本で考え始めたのって、留学中のいつ頃から?
そうですね、最初の論文を出したぐらいでしたね。
最初の論文がまとまって、今から投稿するぞと、そこからが長いんですけど、投稿するぞって言われたのが、
それから3年ぐらい、3年か3年半ぐらいでしたかね。
はい、それでそのあたりから、お前将来のキャリアどうするかねっていう話をボストし始めて、
それでいくつか選択肢があるぞと、アメリカで独立する、日本に戻る、
しかもサイエンティストはもちろんなんですけれども、いろんなキャリアパスがあるんですよね、アメリカもそうですし、
サイエンティビックライターとかもですよね、
勉強室とかも含めていろんなパスがある中で、お前どうしていきたいんだっていうところで、
やっぱりそれは自分を見つめるときに、
そこでどうしていきたいっていうふうに描いて。
やっぱり人にものを教えるっていうことにも、自分としてはものすごい興味があったんです。
だからアカデミアに身を置いていたいなというのが一つ希望でした。
そういうのがあって、
やっぱり研究もものすごい好きだし、
どこでやりたいかっていうと、
自分のやりたい研究であればどこでもいいかなと思ったんですけど、
やっぱり自分の国に恩返しをするような形にもなったらいいなと思ったんですね。
自分を削ぐんですかね。
そういうのがあって、
自分の国に恩返しをするような形にもなったらいいなと思ったんですね。
自分を生んで育ててくれた国に対して。
だから日本で大学で後進を育てつつ研究するっていう、
そういうのがだんだんに固まっていきましたかね。
それで実際に、
日本でのキャリア、
自分が帰ってきてからのことについて、
行動を移し始めたのっていうのは、
もう海外にいるときからですかね。
はい、その通りですね。
研究者が職を探すJRECINっていうサイトがありますけれども、
あそこから情報を得ていたっていう、
もうだから自分は恥ずかしながら、
あんまり日本にいるときにそのネットワークを大きく育てることなく、
海外に飛び出した感じだったんですね。
だからそれこそ人事ってどうなってるのとか、
ここの候補ってガチなのどうなの、
みたいなことをなかなか聞けないじゃないですかね。
だから本当にもうなかなかですね、
もちろんゼロではなかったんです。
それを親身に相談に乗ってくださった先生もいらっしゃって、
本当にそういう方には今も感謝してるんですけれども、
多くはやっぱりいわゆるガチ候補という、
もうみんなが見れるような情報を得て、
で探すっていう、それを3年半、
まさにその論文を投稿するっていう辺りから始めていきましたね。
なるほどですね。やっぱり変えるには時間はかかりますよね。
かかりました。ものすごいかかりました。
そうですね。やっぱりそこは大変ですよね。
ジョブハウントに1年半弱かかりましたね、実際のところ。
本当に大変でした。
今、園下さんのお話聞いて、
アメリカ行くときもそうだし、日本に戻るときもそうだし、
その飛び込み力というか、すごいなと思って。
そうですね。いや、今にして振り返ると危険極まりないですよ。
アメリカ行ったときって。そうなんですよね。
アメリカ行ったときって家族いたんですよね。
で、妻がいてから子供3人いたんです。
そんなにいっぱいいたんだ。
で、一番上の子が3歳でした。
で、下の2人が1歳の双子でした。
で、ダブルのベビーカーを押して行ったんですよね。
っていうその片道切符で下手したら。
これは、本当、奥さんも不安でいっぱいだったでしょうね。
そうだと思いますよ。よくついてきてくれたと思いますよね。
向こういるときも本当、毎日ご飯作ってくれて、支え続けてくれて、
もう感謝しかありませんね。
やっぱり家族で行くと楽しいですよね。
そうですよね。
やっぱり子供たちも現地の保育園入ったり、小学校入ったりっていう、
だんだんに成長していって、現地で友達も作ってとかありますし、
あのお父さんもこんなことあってさとか、
そういうのがやっぱりあちこち旅に出るっていうか、
観光に行くっていうのも、
そんな滞在していかないといけないんですよね。
観光だと本当に短いですし、
そういうのは住んでてならではのことだったと思いますね。
それでじゃあ、1年半かかって、
今の北海道大学に無事に
拾ってもらえたと。
今、北大に着任してどれくらい経つんですかね。
もうすぐ5年になりますね。
でもまだ5年くらいなんですね。
あっという間、まだ時間が経つのって本当に早いなと思いますね。
ちょっとコロナがあったからね。
失われた2年間みたいなのがあったから。
それも大きいですよね。
いろんな市役とか消耗品が止まりかけたこともありましたし、
そういうのもね、1年半かかって、
止まりかけたこともありましたし、
人の往来もそうですし、
大変でしたよね。
今ってそのラボの学生さんとかで海外留学される方とかって結構いらっしゃる?
これからドクターの学生、ドクター博士号を取る学生が出てくるところなんですね。
で、行きたいっていう希望を持ってる人たちが多いです。
僕はそういう進路相談を受けるときに、海外っていう選択肢を強く押すんですね。
それは確かに大変なんだと。
大変なんだけれども、それに見合うだけのものがあるから、
見に行ってくるといいよっていうことは言います。
すごい心強いですよね、学生さんとしても。
準備の必要性
後押し、自分の先生が後押ししてくれるっていうのはいいですね。
それはね、後押ししてあげたいと思いますね。
ただ、僕が辿った道は危険な道なので、
保障が効いた中で行くといいよっていうのも言います。
金銭的なサポートとかね、やっぱりある程度は。
一人身だったらもうちょっと気楽なのかもしれません。
ご家族いる中だと、やっぱりなかなかね、
いろんな2人分の家族のことを丸々考えてっていうことになるので、
住む場所も違えば学校とかのことも考えてとか、
いろいろ入ってくると思うので、
立場によって準備の必要性っていうか、
変わってくるとは思いますけれども。
はい、さてあっという間に30分が経ってしまいました。
やっぱ短いですね、30分。あっという間に終わっちゃいますね。
なんかもっと研究のこともそうですし、
留学のことも聞きたいこといっぱいあるなって思ったし。
ありがとうございます。
また何か定期的にお話ができればと思います。
ご連絡おかけください、また。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
いろいろ聞いていただけて懐かしく思い出せて、
こっちも嬉しく思いました。
なんか今日聞いてる方以外にも、
これ録音でも配信されるので、
なんか良かったらこう、
今留学どうしようって迷ってる方に、
なんかこう園下さんからの一押しみたいなのが、
メッセージがあれば。
そうですね。
気楽なことは言いにくいんですけれども、
一度見てみなよって言ってみたいと思います。
それで、やっぱり外から見る日本とか、
外に出て感じる自分の大きさ、小ささっていうのが、
やっぱりこう、気づきとしてとても大きかったんですよね。
で、もちろん日本にいると、
日本で良い研究やってらっしゃる先生方もものすごい多いですし、
最先端の機械だって手に入る状況ってあると思いますし、
試薬だって買えると思いますし、
いろんな研究、良いことも整ってきてると思います。
けれども、僕が向こうに行きたかった理由の一つは、
将来のコラボレーターとか競争相手の顔を見たかったっていう、
彼らが何を考えて仕事に取り組んでいるのか、
それを知らないと同じ土俵で戦えないんじゃないかっていうのは、
ちょっと恐怖心みたいなのもあったんですよね。
留学の気づき
で、その点はやっぱり言って、
肌で感じることができて非常に大きい気づきでしたね。
彼らが仕事に取り組む考え方とか取り組み方、時間の使い方、
ものすごい、やっぱり言って、
見ることができて良かったと思ってます。
すみません、今ですね、
実はリスナーの方からリクエストをいただいているので、
ちょっとスピーカーになってもらいますね。
はい。
村井さん、お話できますでしょうか。
村井さん、もしお話できたらマイクをオンにしていただければ。
もし村井さん、お話できるようであればマイクをオンにしてください。
ちょっとこの時間に赤城さんの方からも何か。
はい、そうですね。
今日面白いお話ありがとうございました。
実は留学先の決め方が僕と非常によく似てたなと思って、
僕も全然コラボレーターがあったとか、
自分のボスの知り合いだとか、
そんなんじゃ全然なくて、
本当にインスピレーションで論文を見つけてこれだと思って、
で、メールを書いていいかっていう感じ。
仲間ですね。
なので、僕も家族でいて、
うちは子供一人でしたけれども、
やっぱり2歳か3歳の時に行って、
今思えば結構いろんなリスクを背負いながら行ったなと思ったので、
すごく境遇が似てて、
自分自身いろいろ当時のことを思い出しながらお話聞きました。
ありがとうございます。
村井さんはお話できない状態ですかね。
そうですかね。
ちょっとお時間になりましたので、
また何か今日ご参加の皆さんですね、
園下さんに例えば留学ちょっと聞いてみたいみたいなことがありましたら、
園下さんのこのTwitterをまずはぜひご覧ください。
園下さんのインタビューも載っているUJAガゼットなんですが。
そうですね。UJAガゼットの第2号というのが2020年ですけどね。
第2号が発刊されてまして、
これUJAのホームページの方からダウンロードできますので、
ぜひぜひご覧ください。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
発刊されてまして、これUJAのホームページの方からダウンロードできますので、
ぜひUJAのホームページにアクセスしていただいて、
いろんなガゼットを見ていただけたらなと思います。
いろんな方のインタビュー記事を私も見ていてすごく面白いので。
そうですよね。
次回なんですけれども、
今、今回のこのトークの企画はUJAガゼットの著者の方とトークしようという企画でして、
5月、次の方は今選定中ですので、また決まり次第お知らせしたいと思います。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。楽しみにしております。
では、皆さん今日はどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
では、園下さん今日はありがとうございました。
またよろしくお願いします。
失礼いたします。
おやすみなさい。
38:02

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