1. テツセカ ~哲学の世界を知りたい!~
  2. #53 神はロゴスを通じて自らを..
2024-02-03 40:34

#53 神はロゴスを通じて自らを顕す

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キリスト教へ至る哲学②

00:03
神はロゴスを通じて自らを表す、テツセカ。
この番組は、哲学を知りたい3人が、知らないながらも、知ろうと足掻きつつ、
聞いている人たちを死にたい気持ちにさせたいなと思っている番組です。
ミソです。
モーです。
トモキです。
はい。
なんか語弊があるんだよ。
なんかこの話でも、ほんとずっと言ってるけどな。
語弊があるんだよな。
いいよ、語弊があっても、もうそのままいきましょうよ。
それはそれでいいっていうね。
もう語弊だらけだから、私なんかもう本当に何言ってるかわかってないから。
確かにね。
ほんとそうです。前回の愛がわからないについても、
僕が言いたいことは言えなかったなっていう感想でしたね。
伝えたいこと伝わらなかったなっていう。
モーさんのせいとかじゃなくて、僕のせいでね。
そう、語弊しかないから。
語弊しかない。大変なんだ。
言いたかったんじゃねーんだよなーみたいなね。
難しいよね。
難しいんですよね。
私は頑張って聞こうと思ってたのに、やっぱりわかった感ほとんどないもんね。
ですよね。そうですよね。誰にも伝わってないというね。
まあまあまあね。
わかろうとしてたんだよ、一緒に。
いやいやいや。ただ、でもあのね、話す、あの場が楽しいからね。
それでいいんですよ。ソクラテスもそんな感じのこと言ってましたよ。
その対話のね、その時にしか生まれないことがあるからっていうね。
あ、言ってたんだ。
言ってました、はい。
そこは本当だ。
なるほどね、わかった。対話と性行為は似たようなもんであるということだね。
えー。
こっち持ってくんだよな。
ごめんごめん、もうちょっと話が進まないからちょっと。
どうだね、どうだね。
えーと、だから前回、まあちょっと2つ問いがあるって言ってて、
1つ目の国家の権力との結びつけはパウロとだよみたいな、
パウロからだよみたいな話したんですけど、
まあここからね、いよいよどうやってギリシャ哲学がキリスト教と融合していく、
融合というか、解釈として入っていくのかみたいな変遷を見ていきたいなというふうに思っています。
というところなんですが、まあもちろんすごい長い営みなんで、
全部話せるわけじゃなくて、
まあ何人かその時の哲学者というか、
なんていうのかな、ギリシャ教父とか、
まあそんな呼び方をされたりするんですけど、
そういう人たちの人物を取り上げながら紹介していこうかなみたいな感じなんですけど、
ちょっとディティール話す前にざっくりとなんですけど、
どういうふうにギリシャ哲学がキリスト教に影響していくのか、
どう混ざっていくのかっていうのを、
なんかちょっと理解したところだけ話すと、
これすげーつまんなく言ってしまえば、
03:02
キリスト教が広まった地では、
すでにギリシャ哲学があったわけです。
ギリシャ哲学がすでにやってる人たちがいた。
もともとギリシャ哲学を学んでいた哲学者が、
キリスト教に改修したりすると、
あれこれってギリシャ哲学でも考えられてたことだよねとか、
そういうふうにギリシャ哲学のこの考え方応用できるよね、
理解、こうも理解できるよね、
ってなったりするみたいな話で。
だから普通にギリシャの哲学やってた人たちにキリスト教が入れば、
それはそうなるよねみたいなところは、
普通にあるんだろうなーみたいなことは思ったっていうところですね。
あとはパウロの下りでも出てきましたけど、
初期のキリスト教っていうのは鉄器がめちゃくちゃ多かったんで、
いつ潰されてもおかしくなかったから、
ユダヤ教とかからいじめられてたりしてたんで、
ちゃんと理論武装をしないと、
理論武装してユダヤ教から、
いやそれはそういう解釈だとおかしいだろうって、
論理的にどう考えても問わないだろうみたいなことを言われても、
否定しようがないような神学っていうのを用意する必要があった、
みたいなモチベーションもあった。
たぶんこの2つなのかという感じかなというふうに思ってますね。
だからなんかギリシャ哲学っていうインフラがあるところに、
キリスト教が入ってって混ざり合ったっていう、
ラッキーなことにギリシャ哲学の中では、
長い歴史の中であらゆることが考え尽くされてたんで、
ギリスト教の解釈に使えるような概念がある意味揃ってたみたいな、
感じなのかもしれないっていうのをちょっと感じましたね。
すいません、ローマの方が弱っちかったの?この時。
ローマは強いですよ。
ギリシャもローマの一部なんで、この時。
あ、そうなんだ。
ただその学問領域っていうか、
そういうのはローマのオリジナルってあんまない。
やっぱこの頃そのギリシャ哲学とかがローマで流行り始めてる時期なんで、
やっぱその学問はギリシャのものをベースに使ってるっていうところに、
キリスト教が入ってるから、
ギリシャ文化がある意味ローマにも広がってるっていうようなイメージですね。
名前いるの?なんかすごいスペシャルな先生みたいな、
その両方をやってたせいですか。
それがこれから出てきます。
それがそういう人たちがこういうふうに解釈してたんだ、
みたいな話をしていこうかなと思うっていう感じなんですけど。
ちょっとさっき言ったとおり、
その概念が揃ってたっていうのは、
キリストがなんだろう。
キリスト自身は神が精霊を通じて降りてきて、
06:07
人間の体に受肉したみたいな考え方とかあったりするじゃないですか。
こういう受肉みたいな概念も、
ピタゴラスの輪廻転生とかでも現れてるとも言われてて、
そのピタゴラスの考えはプラトンにも受け継がれてるから、
それはギリシャ哲学の中にあるよね。
そういうのを応用すればいけるよね、みたいなのとか、
神であり人であるみたいな考え方とかも、
普通に言ったら何言ってんだって感じなんですけど、
アリストテレスが言ってた目の前の古物とか目の前の人にも、
エイドス、イデアが宿ってるんだ、みたいな。
イデアっていうのを目の前の人に見出すみたいな考え方を、
ある意味応用することで解釈することもできるかもしれない。
みたいなのが、そういう要素がギリシャ哲学の中に揃ってたから、
解釈しようがあったみたいなところもあったらしいっていう感じなんですよね。
ここめちゃくちゃ神であり人であるみたいな話は、
めちゃくちゃ深い議論があるんで、
今そこは立ち入らないですけど、そんなことも言えるかな。
逆にデモクリトスの原子論とか、エピクロス派とか、
あとはソフィストの思想とか、
そういうのはそこから外されてるわけですよね。
相対主義とか原子論的な考え方っていうのは、
キリスト教には応用できなかったっていう面があったんだろう。
だから一時期忘れ去られた思想みたいな感じになっていたんだろうな、
っていうのも面白いなっていう感じですね。
だからこそ近代とか現代になってから、
再発見されるみたいな流れになっていくっていうのはあったんだろうな、
っていう感じですよね。
で、改めてどういう人たちがいたのかっていう話なんですけど、
最初これがキリスト教じゃないんです、この人。
ユダヤ教の人なんです。
これ、パウロとかペテロが積極的に不教活動を行ってたのと同じ時期の人で、
アレクサンドリアのフィロンっていう人がいたんですね。
このユダヤ人なんですよ、この人もフィロンっていう。
この人は本当最後までキリスト教に回収することなくユダヤ人のままだったんですけど、
ピューロン、会議主義のピューロンと名前に似てるけど違う人です。
関係ないです。フィロンですね。
そのフィロンっていう名前も結構多いらしくて、
ユダヤのフィロンとかね、アレクサンドリアで活動したからアレクサンドリアのフィロンとかって呼ばれてるんですけど、
09:04
端的に言うと、このユダヤのフィロンがユダヤ教の教義を、
ユダヤ教の教義をギリシャ哲学で解釈するみたいなことを最初に始めるんですよ。
本当に最初かどうかわかんないけど、文献上のことはこの人が最初だったと言われているということで、
なんかね、このフィロンっていう人は、わかんない、わかんないですけど、
キリスト教に対抗するみたいな意味合いもあったのかもしれないですけど、
ユダヤ教を、ユダヤ教ってだからユダヤ人だけの思想で宗教で、
ユダヤ人だけが救われるっていう思想なわけじゃないですか。
だけどユダヤ教もユダヤ人だけじゃなくて、
いろんな人たちに普及するような普遍宗教にしたいっていうモチベーションがあったらしいんですよね。
よくわかんないんですけど。
なんか、なんだからって感じだよね。
そしたらユダヤ教じゃなくねっていう感じがしちゃうけど。
そうなんでしょうけどね。
一応ユダヤ教と呼ばれてるけど、もはやユダヤ教じゃないんじゃないかなと思いつつ。
そういうモチベーションで、そのためには、
みんなのある意味インフラになってる共通言語である哲学みたいなのを使って解釈していくっていうのは、
ありなんじゃないかなみたいなふうに考えて。
だからそれこそ旧約聖書をプラトンの用語を使って、
例えばその創造神ヤハウェイとかをデミウルゴスって呼んだりとか。
ダイレクトにデミウルゴスって呼ぶんですよ。
あとは神はイデア界を作ったみたいなね。
だからデミウルゴスがイデア界を作ったっていう。
このプラトンのストーリーで説明していくわけですよね。
これもよくわかんないんですけど、
神が6日間で世界を創造して1日休んだとかいう話があるじゃないですか。
だから休息だとかね。
6日間で世界を創造したっていうこの6っていう数字は、
全然僕はわかんないんですけど、最初の完全数らしくて。
最初の完全数だからこれはめちゃくちゃすごいんだみたいな。
これってピタゴラスが数字にめちゃくちゃ注目してた人なわけですよ。
数字が世界のある系だ、コンポンダみたいなことを言ってた人なんで。
これピタゴラスの教えの中でもこういうのがあるらしくて。
そのピタゴラス的な説明をこの旧約聖書の読みに使ったりとかね。
イデアっていうのは神のロゴスなんとか、
あとはアブラハムが元々ウルっていうメソポタミアの街にいて、
12:02
そっから神の形状を聞いてカナンの地に旅をするっていうストーリーとかも。
あれは偶像崇拝をする現実界。
偶像崇拝ってクラトンのいう幻象界みたいな。
幻象界にいたアブラハムをカナンの地というイデア界とか地勢界みたいなね。
に連れて行くみたいな、そういう読み替えとかをしたらしくて。
なんか知らないけどあのストーリーをクラトンで解釈するとかおったりするんですよね。
面白いね。
それって旧約聖書って書物みたいにしてあったんだっけ?
うんうん。もうこの時はなってますね。
なってるんだ。
なってるなってる。
もう多分バビロン保守とかの前500年とかかな?わかんない。
ちょっと多分そんぐらいには出来上がってきてたみたいなことは言われてますね。
新約はまだですよ。
前500年だよ。
新約は起源550年とか多分そんぐらいなんで。
そんなもんなんだ。
だから比べて勉強したみたいになってるわけだよね、このフィロンさんは。
そうそうそう。旧約聖書を実際に多分読み込んで、クラトンも読み込んで、
こういうふうに解釈することって可能だなって思ったらしいみたいなね、話で。
このフィロンっていう人が神はロゴスを通じて自らを表すっていう言葉を載ったわけですよ。
そんなフィロンという人物がいたんだよってことだけどね。
最初にユダヤ教の解釈をクラトンとかを使ってやっていったっていう人がいたというのが、
これが起源後30年とか40年とかそんぐらい。
だからパウロとかが布教してた時期と重なってるんですね。
だからこの営みみたいなのがちょっとキリスト教に影響を与えるというか、
そんなことやっていいんだ、哲学で解釈するとかありなんだ、
影響を与えていくみたいなことが言われてる。
全然関係ないユダヤ人の人の作ったものにキリスト教の人が逆に感動したってことですね。
そうそうそうそう。いいの?そんなのやって?みたいな。
なるほどね。
らしいということですね。
新しい人たちのほうがそういうの受け入れやすいよね、ほんとね。
そうかもね、確かにね。
いいねいいね、柔軟性があるね。
そうかもね。
たぶんこういうのをやってた人はもっといたのかもしれないけど、
文献上残ってるのはこの人フィロンが最初で、その後出てくるのはユスティノスっていう人です。
ユスティノスがキリスト教で初めてギリシャ哲学で解釈しようとした人っていう感じ。
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これも本当にこの人が初めてだったかわかんないし、そう言われてるって感じなんですけど、
この人自身は起源後100年生まれなんで、ちょっとフィロンと間空いてるんですよ。
だからその間にもね、もしかしたらいたのかもしれないんですけど、
有名なのこの人っていう感じで、ユスティノスですね。
だから起源後100年生まれとかだから、まだ新約聖書とかできる前なんですよね。
このユスティノスはアテネとかローマで様々な哲学を学んだ後にキリスト教に改修した人と言われてる。
老人と対話したりとかしてる中で、キリスト教こそが真の哲学であるっていうふうに確信して開始したんだ。
面白いこと言った。
面白いですよね。
しかもこの人生まれはサマリアっていうイスラエルの近くというか辺りなんですけど、
だけどもともとキリスト教とかユダヤ教ではなく、ユダヤ教だったらちょっとわかんないですけど、
哲学を学んで後からなっていうね。
主にストア派とか中期プラトン主義、新プラトン主義まだこの時出てきてないんで、
中期プラトン主義とかを学んでいたそうで。
さっきフィロンは神はロゴスを通じて自らを表すって言ってたけど、
ユスティノスはそうではなくて、
ストア派とかで言われていたロゴス、あのロゴスですよね。
万物に行き渡るロゴスっていうやつですよね。
日本語だと訳しようがないというか、
理性とも言えるし言葉とも論理とも秩序とも原因とも根拠とも訳せるような、
あのロゴスっていう万物に行き渡っているロゴスっていうの自体が神なんだみたいなことをユスティノスは言います。
ロゴスイコール神、ことを言ったりしてます。
まあちょっとわかんないんですけど、
ロゴスイコール神だし神イコールイキリストなんで、
そこはもう全部イコールで結ばれるんだということを言っていると。
これはなんかその、これも旧約聖書とかを解釈していくと、
神は光あれと言って、言葉ロゴスによって世界を創造したと。
すべての原因でもあるという意味でロゴスであり、
言葉という意味でもロゴスであり、
そのロゴスが受肉したことでキリストという人であり神であるという、
万物に行き渡るロゴスだからそれは受肉することもあるよねみたいな、
18:00
そういうのも矛盾なく成立するんだ。
ここもめちゃくちゃ細かい論理構成が書いてあったんですけど、
ちょっとそこは立ち入らないで。
なんですよ。そんな感じで言ってて、
あとは何かユスティノスが言ってるので面白かったのが、
私たちはイエスキリストが生ける神の御子である、
子供であるということを学んだと。
それが理にかなっていたためにキリストを礼拝します、
ということをユスティノスは言っていて、
僕らの感覚だとキリストが神の子であるということが、
理にかなっているっていうのがちょっと意味わかんない。
意味わかんないじゃないですか。
それ理にかなってんの?みたいな。
そうだね。
ただユスティノスはそう感じたっていうのと、
たぶんちゃんと深い信仰と哲学的な理解があったりとか、
もちろんプラトンとかの理解があれば、
これは理にかなっているんだと。
ストア派とかが言ってた、理にかなったものみたいなね。
あの表現ですよね。
だからちゃんとやってた人間からしたら、
理にかなっているからこそ、礼拝するし、
信仰するんだというのが面白いね。
そういうふうになるんだみたいな。
じゃあ2人も理にかなっているからって言って、
いろいろ下ネタを言いますとかさ。
だってあなたたちの理にはかなってるわけだから、
自由に言っちゃっていいってことになるね、これを見ると。
これは要言わんですね。
理にかなった下ネタほどなんかダサいもんないですよね。
別に理にかなってないから。
私にはかならないから、私のとってはね。
ごめん、またおかしなこと言っちゃったね。
多分ユスティノス的には本当に深く、
うわ、めっちゃこれ理にかなってるやんって、
論理的に考えて、どう考えても、
イエス・キリストは神であり、神の子であり、
人であり、神であるっていうのは、
もうどう考えてもそうだよねっていうことしか言いようがないから、
信仰しますっていうふうになるっていう。
まさになんか、分かんないんですけど、
この父と子と精霊の三味一体論みたいなのあるじゃないですか。
あれを初めに言い出したのはどうやらユスティノスらしくて。
これ新約聖書にも直接的には出てこない表現らしいんですが、
だから論理的に理にかなった方法で考えた結果、
三味一体論に至らざるを得ないみたいな感じだったらしくて、
21:02
全然多分ユスティノスとしては無理矢理みたいなイメージはなかったらしいんですよ。
僕は昔思ってたのは全然意味わかんないから、
すげえこじつけでいろいろ考えたりしてんだろうなとか思ってたんですけど、
実は多分そんなことはない。
ちゃんとプラットンとかの言説をちゃんと読んでいくと、
こうなるよね、こういうふうな理解しかできないよねみたいなことで理解してたっていう感じだと思うんですよ。
だからこの辺はたぶん、もしかしたらパウロとかは国家権力に従うべきだみたいなのは、
若干無理矢理みたいなところがあったかもしれないけど、
ユスティノスとかはすげえリズムで考えてこういう結論に至ったっていう感じなんで、若干違うのかなって。
それってさ、別にイエス・キリストを対象に選んだからそういうふうに、
それを研究していった結果そう思うっていうだけの話であってさ、
別に神様的な存在っていうのはいろいろいたわけじゃないですか。
古くは、ギリシャの神々、ローマの神はギリシャの神と一緒だけど、
ローマ皇帝っていう最高神器感を兼ねてる人もいるわけですけど、
そういう人たちじゃなくて、キリストに対してその対象を求めたってことは、
この人はやっぱりキリストが好きな何かっていうのがめっちゃあったんでしょうね、なんかね。
いや、だから、なんだっけな。
なんかどっかの学校で教えてくれたおじいちゃんがいて、
その人の話がめちゃくちゃ突き刺さったみたいな、そんな感じだったんですよね。
そこで戒心してるっていう話なんで。
やっぱまあ、そこにはなんか、ある意味エクスタシーというか、
言語化できない何かみたいなのがあったのかもしれないですけどね。
でも人間らしくていいんですよね。
多分そのぐらいのやっぱ、うわ、これだってビビってくるものがあった上で、
調べていくと、うわ、こういうふうにしか解釈できないじゃん。
その前提がないと多分難しいですね、言う通り。
思い込みあり。
他にもあるじゃんって言い出すと、そりゃそうだよねって感じはありますけど。
ちょっと挟みたいのは、言うかどうかすごく悩んでるんだけど、
でもね、そんなにいっぱい聞いてもらってないっていうことにして、
さっきコテンラジオの番外編を聞いておりましたが、
菅原道真子が神様になっちゃったわけで、
そういうのも、神様に、この日から神様にしようみたいになったのは、
理にかなったからなんでしょうかね、どなたか。
どうすかね。
24:02
人間じゃダメじゃんみたいな、もうすでに。
いや、多分それ理にかなったとは違うと思いますよ、ユスティーノスも。
多分それは、左遷しちゃったし、申し訳ない気持ちとかもあったりとか、
そういう悪霊じゃなくて、呪いみたいなのを恐れてやるとかね。
そういうことか。
そういうちょっと日本人気なのかなとは思います。
菅原道真だけじゃないですからね、そういう神的な感じになったので。
日本で。
それよりも前とかにも、やっぱり非業の死を遂げた後に、
なんか、たたりみたいなのが起こったっていうことで、
祀られてる天皇とか天皇の王子とか、そういう人って結構いるんですよ。
確かに。平野政門。
そうだね。ちょっとそれは後かもしれないけど。
だから結構そういう文化があって、
その中で特別ミセザネが有名っていうような、そういうイメージなのかなって感じです。
なんかたぶんリニックかなったは、やっぱちょっと独特なギリシャの合理主義というか、
そういうのはやっぱあったと、日本人にはちょっとない感覚なんだろうなとは思います。
なかなかここまで突き詰めないでも、別に日本人ってふわっとなんか信仰できる気がしていて、
深い信仰までいかないんですよね。逆に言うと。
あんまり強固に固まる必要性がないですからね。日本人はね。
神様の捉え方とかが違うから、同じ言葉使ってるよね。神っていう意味がね。
面白くなってきた。
だからなんだろう、今僕らが思えば、三味一体論とかって、
すげえ無理矢理な感じがするし、ちょっと意味わかんねえなみたいなことを思うんですけど、
そんなこと言ったら、イデア論だって意味わかんねえし、無理矢理だし、あるはあるだって、無理があるわけですよ。
なんかそういう感覚だったんじゃないかなというか。
イリシャ鉄学の中では伝統的にそういうふうに言われてるし、そうなんでしょみたいな。
そういうふうに解釈すればそうでしょってところがあるのかというところで。
ちょっとこの三味一体論自体は、めちゃくちゃキリスト教の歴史の中でもずっと論争になるテーマなんで、
簡単な話じゃないし、
どっかで今後ちょっと僕がそれをちゃんと整理できれば、
どっかでその辺の歴史をやりたいなとも思うんですけど、
ここは深くは触れないと思うんですね。
三味一体論ってそもそも東西の分裂のきっかけ?
27:00
それは偶像崇拝かな。
カルケドン公会議。
よく覚えてるね。
最近すげーその辺の本読んでるんで。
その辺の話も実は面白いんですけど、めちゃくちゃ細かいんでちょっと処理ますというところで。
ユスティノスがだからそういうのを言い出した。
三味一体は矛盾なく成立するみたいなのを言い出したんだということですね。
ユスティノス自身はその後、鉄学者の衣をまといつつ、
キリスト教の説教者として各地を巡って、
150年頃にローマで、
当時唯一のキリスト教的な学校を開いたというふうに言われますね。
マルクス・アウレリウス。
マルクス・アウレリウスの頃に死んだ。
殉教したと言われて。
最後は一応キリスト教という立場でありながら鉄学者もやってますみたいな感じじゃないですか。
純粋なギリシャ的な鉄学者と論争のバトルになったらしいんですよ。
論破してしまったらしくてユスティノスが。
それで恨みを買って陰謀をかけられて捕らえられて殺されたらしい。
ソクラレスっぽくていいな。
非謀の死を遂げてます。
この説明もしたかったんですけど、
ユスティノスのモチベーション、
キリスト教をちゃんと鉄学的なもので理論武装して、
論理的に理解しようというモチベーションの背景には、
この当時流行り始めていたグノーシス主義という神秘主義的なものが、
接見し始めていたというか、
結構流行りだしてきてやばくね?みたいな時代状況があったそうなんです。
ただごめんなさい、グノーシス主義について詳しく書いてある本が、
今のところ手元になくてあまりわかんないんですけど、
なんでこれがこんだけ流行ったのかっていうのが、
いまいちよくわかってないんですが、
グノーシス主義自体は、
すごい二言論的な思考で、
心と体とか精神と物質とか、
そういうのを対立させて、
物質とか肉体とか、そういうのを悪としてみて、
グノーシス主義もいろいろあるんですけど、
キリスト教の中のグノーシス主義っていうのもあって、
キリスト教の中のグノーシス主義では、キリストが正義の神で、
ヤハウェイは物質を作り出した悪の神的な世界観で、
正義と悪が戦うみたいな、
そういうようなストーリーで話すわけです。
30:03
ユスノスとしてはそれからキリスト教のちゃんとした教えっていうのを、
ちゃんと守んなきゃいけないっていうふうに考えた。
この正義と悪みたいな考え方だと、
キリスト教の本義が伝わらない。
僕らが一神教みたいなことを簡単に考えると、
正義があって、悪があって、
善悪二元論なんでしょうみたいなふうに、
ふと思っちゃいがちなんですけど、
全然キリスト教ってもともとはそんなことはなくて、
一元論ですよね。
善しかないとか正義しかないっていうのが基本的な考え方で、
どう言えばいいんだろう。
ユスティノスが考えたのは、
旧約聖書は悪いもので、新約聖書がいいものだ。
ヤハウェイは悪いもので、キリストはいいものだ。
みたいな見方になっちゃうと、
旧約聖書に書いてある旧聖書が現れるとかね、
キリストが現れてくる前振りみたいなのも全然意味ないものになっちゃうし、
その繋がりが取たれちゃうと。
旧約聖書と新約聖書。
新約聖書だけを本当に正義のものとするとね。
肉体は悪いものだとすると、
受肉したキリストは人として、
キリストが全ての人の現在を背負って、
人として亡くなったっていうことに意味がある。
ちゃんと人として死んだということが重要なのに、
ただ正義の神で、ただの神なんだとしたら、
別になってそんなことしなくてもええやんって話になるわけですよ。
別に人であり神であるっていう意味が全くないというか、
神なんだから別に何だってできるんだから、
普通に救えばいいじゃんっていうだけで、
そのストーリーが崩れちゃうんですよね。
その人として死んで、
全てを背負って死んでくれたっていう、
あの人生みたいなのが意味がなくなっちゃう。
そこは絶対に譲れない線だったらしいですね。
そこでめちゃくちゃバトってたっていう感じらしいですよね。
確かにな。
解釈、そこの解釈を見せると、
途端に意味のない物事ができてしまうみたいな。
そうそうそうそう。
本当に意味なくなっちゃうんですよ。
そういうことね。
そういうふうに対抗しようとしてたということみたいなんですね。
とはいえ、新約聖書にも盛り込まれてる、
ヨハネの目視録とかにも、
あれってちょっとこう、
天使と悪魔の戦いみたいなのが描かれてたりとか、
やっぱりそこにも、
33:00
これユスティノスと同じ頃の人らしいんですよね、
このヨハネの人。
で、それがちょっと新約聖書に盛り込まれちゃってるみたいなところがあって、
やっぱりもうこの頃に、
グノース主義自体も、
キリスト教の正当派に若干影響を与えてたみたいなところがあって、
お互い影響し合って押し揉んどしてたんだろうなみたいなのが、
そこにちょっと見受けられるみたいなことが書いてあって、
そういう影響あったんだというところがあったなというところですよね。
そんな感じでユスティノスっていう人が、
初めてキリスト教を哲学で解釈したんだよっていうところで紹介したなということですね。
ごめん、グノースってカタカナでいいの?
そうですね。
日本語だと覚えるに知るって書いて各地とかって呼ぶらしいんですけど、
エクスタシーとかエクスタシスとかに近いような感じだと、
そのグノーシスに言い方をしたりするんですけど。
グノース主義は本当になんでこの時代に流行ったんだろう。
すごいずっと気になってるんですけど、そこはちょっと疑問がまだ全然晴れてない。
定期的にいろんな場所で流行るね、こういうやつって。
金欲主義っていうか、苦行をみたいなのってある意味こういう思想のような気がすると。
肉体を捨てて精神的に消化するんじゃないかみたいな。
不思議だね。
あとちょっと面白かったのが、
まあそれこそ三民一体論とかって今後カルケドン公会議とかね、
ヘソス公会議とかそういうので議論されていくんですけど、
キリストはシンプルに神でしょとか、神であり人であり精霊でしょとか、
そういうのがいろいろ議論されていくんですけど、
でもなんかあれって結構シンプルな進学論争っていうよりは、
もう国家権力と結びついちゃってたんで、その頃には。
政治と宗教が結びついちゃってたんで、めちゃくちゃ政治論争みたいな側面が強かったっぽくて。
なんかね、そこをちょっと今後話せていけたら面白い。
だってね、もし私がそんなの嘘じゃないって言って、
いや嘘ですよ、嘘じゃないって言って、
いやそんなことない真実ですよって言っても誰もそんなの確認できないわけだし、
そればっかり言ってたわけじゃないよね、言ったり。
三民。
一応だから、それぞれ一応理にかなったものとして、
いやだって神っていうふうに解釈したほうが、
その人にとってはストーリーが通るでしょっていうふうに思ったりと、
そういうのを議論してたんですけど、
実際には結構政治的な駆け引きでそういうのが行われてたりとかするみたいに、
36:04
派閥に分かれて、
清掃に近いようなところもあったっていうのが、
まあ人間そんなもんだよな、ところもあって面白いなと思いました。
わかる。
逆にさ、ユスティノスみたいな、
そんなにまだキリスト教の権威とかがないような時代にさ、
純粋にこうやって研究して捉え方みたいなのを考えているみたいなのって、
とても平和でいいなと思った。
そうっすね、確かにね。
こんなことなんか、もっと政治と絡みついてきた時にこんなことを言っていたら、
そこを破門されて殺されるんじゃないかみたいな。
そうっすよね。確かにほんとそうだわ。
もう完全に権威化してたら、
ちょっと何言ってんのってなるかもしれない。
初期ならではだなって感じがする。
だって明らかにだって、解釈しようによっては、
ギリシャ哲学っていう異教の言葉を使ってるわけだから、
それってどうなのかはあるわけですね。
初期だからこそ受け入れる。面白さがある。
今日はこのぐらいですかね。
そうですね、とりあえず。
でも面白いね、やっぱり。
次回あと2人ぐらい紹介して、そこまで。
はい、では終わりにする感じでいいですか。
はい。
じゃあ今日も最後までテツセカをお聞きいただきありがとうございました。
テツセカはSpotify、Apple Podcastで配信しています。
この番組気に入っていただけましたら高評価ボタン押していただけますと大変励みになります。
お聞きのPodcastアプリで番組フォローいただきますと更新時に通知が届きます。
感想やご質問、みぞちゃんともきえのファンレターも引き続きお待ちしています。
番組概要欄のGoogleホームにご入力いただいたり、
Xでハッシュタグテツセカをつけてポストいただければ全力で探しに参ります。
いつも感想をいただく皆さんありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。
お願いします。
お願いします。
二言論的な感じでいきましょう、我々も。
どういうことですか。
善の神アフラマズダモウみたいな感じとね。
悪の神ミソトムシアンディマイみたいなね。
ゾロアスター教的なね。
違う、今日言ってたのはそっちじゃないって話。
そっちじゃないって話だったんですけど。
この場は二言論でね。
二言論的な神って言うとゾロアスター教かもダメだみたいなね、そういうところなんですけど。
キリスト教もまさかそんな風になりかけてたことがあったなんてびっくりだよって。
そうなんですよね。結構それに侵されかけてたっていうのがあったみたいな。
キリスト教ってどうしても中世のイメージっていうところが強すぎるっていうのがあるけれども、
初期って全然知らなかった分だけ新たな発見っていうか新たな知ってたことがあってめっちゃ面白かった。
意外とこういう人たちがこういう営みがあるから続いてきたんだなっていうのがね。
39:02
モンさん的に思うところはありましたか。
やっぱりちょっと最近は何も信じていない自分がいるので、
信じるものがあったらいいかなってこんなにみんな熱く自分の身を投げ打ってじゃないかもしれないけど、
そうやって頑張っていらした方がいるのに何で私は何かは一つのことを信じていないのかとか、
ちょっとやばいなあな私本当に殺されそうになってるかもしれないけど。
いやいやいやでもね、モンさんが一番エクスタシーに近いから、
なんかそれ言われちゃうと僕らはもう死んだほうがいいみたいな感じになるかもしれない。
いらっしゃいます。本当は生きててごめんって感じですね。
違うだからそういう話じゃないから本当に。
という感じでいろいろこう熱意を持って生きてきた方たちと、熱意があるかもわかんないねもしかしたらね。
ただ流れでそうなってた人もいるかもしれないけど。
まあね。
わかんないですからね。
ビビッと来ただけとかもあるかもしれないしね。
そう、だからまあそういった方たちを細かく知れることによって、
もしかしたら私も何か信じるものをつかみ取れるかもしれない。
いいですね。そしてつかみ取って火山に飛び込みましょう。
エンペドクレスじゃないですか。
そうです。ありがとうございます。
まあそんな感じで、じゃあ終わりにしましょうか。
はい。
ではすみません。ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
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