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2024-11-14 31:25

『西鶴のかたり』_感想

サマリー

今回のエピソードでは、富岡太子が『西鶴のかたり』についての感想を述べています。江戸時代の人物である伊原西鶴の作品やその描写の詳細について考察され、作品のテーマである語ることと歌うことの違いにも触れられています。『西鶴のかたり』において、作家の富岡は朗読やワークショップを通じて自身の作品を伝える試みについて話しています。特に、音声メディアの発展によって作家自身が朗読する機会が少ないことや、教育や文化の違いについて考えられています。

本の紹介と著者について
はい、雑記噺です。 今回は以前のように、最近読んだ話の自分のアウトプットも兼ねまして、感想を話していきたいと思います。
今回読んだ本がですね、 西鶴のかたりという本で
富岡太子さんという作家の方が書かれた本です。
えーと、発売というか出版されたのが1987年初版で、なのでちょっと古めの本にはなると思います。
岩波書店から出ている本です。 アマゾンでちょっと見てみたんですけど、中古もしか取り扱ってないみたいですね。
もしかしたら、絶版になっている可能性もなきにしもあらずという感じではありますが、 今日はこの本についての感想を話していきます。
で、きっかけとしては、ちょうど今ジェミーで、タイトルにもある西鶴って、伊原西鶴のことなんですけど、
その伊原西鶴の作品を取り扱っているので、 それの何か
参考になればいいなと思って読んだ次第でございます。 内容としては、これは本になる前に、その実際に
なんかワークショップみたいな形で、全3回に分けて 公演をされたものを改めて書籍に、という形で
残してあるというか、 出版されたという形で。
結論から言うと、西鶴に関する何か研究とか、そういう作品の分析というわけではなく、
西鶴の作品とかを通して、
著者の富岡さんが伝えたいことを述べているっていう感じの本ではあったので、
まあきっかけとしての、
西鶴の研究っていうのには、ちょっと 窓外れではあったんですけど、でも読んでいて面白い本でした。
まあそうですね、たぶんそもそも伊原西鶴って誰だよっていう方も いらっしゃるんじゃないかと思いますので、そこの
説明を ちょっとしておきますと
伊原西鶴っていうのは、漢字だと 井戸の井に原っぱの原、で西鶴が西の鶴と書いて西鶴です。
江戸時代の人で、同年代だと
松尾和尚とか、地下松文在門とか、そういう人たちが生きている時代に西鶴も生きていた人です。
で、職業としては、最初、俳介師、
和歌とか、短歌とか、漣画とか、そういう歌を読む人から始まって、その後
そうですね、小説家って言っていいのかな。 浮世造詩とかを中心に
その物語を 書いて
いくっていう 経歴を持っている人です。
で、最初 その
歌を読むっていう風だったんですけど、 逸話的に残っているのが
やかず俳介だったかな、っていう
1日で西鶴1人で2万とかっていう、本当に 万単位の
数の歌を読むっていう風で、本当に 上記を維持しているというか、そういう記録を持っている人で
まあただその 作品全部が残っているかっていうと
さすがにそれを全部を書き留めるのも難しかったので、結局その最後の方の歌しか
今は残っていないっていう風で、 全貌は明らかにはなってはいないんですけど、そんな
まあ逸話というか伝説というか、そういう
ものを持っている人でもあります。
というのが、居原西郭の 雑とした説明ではございます。
ということで、その本の内容に入っていきますと 最初にその
日本における、なんていうかな まず語りっていうところから入りまして
そこは西郭の話はあんまり出ず、その 例えば
日本文学とか、そういうものに対する あと芸術、演劇とか、そういうものに関する
大枠を扱って、そこにおける語りとか 歌うっていうものがどういうものか
っていうところから始まって、じゃあ西郭は どういうふうにその言葉を扱っていったのかとか
っていうことを、その西郭自身の経歴とか、 まあ人生とか
あとその若葉とかっていう徘徊っていうのは
言ってしまえば死なので 定型死と言っても過言ではないというか
まあ同じ扱いなので、その 定型文から
物語だとその3文 散る文と書いて3文と読みますけど
3文に移った時の その
何だろう、なんかきっかけとか違いみたいなものが
書かれてたり あとは先ほど名前挙げました
松尾芭蕉とかっていう同年代の その
同じ文字を扱う人とかとの
例えば景色について それぞれがどういう言葉を残しているのかとか
っていう 比較をしてみたり
あとは その土地感とかその当時の生きている人たちの
リズム感とか そういうものを
こういうものがあるよっていう紹介
とかっていう感じでしたね なので個人的に読んでて
なんか研究論文とかみたいに何か その人の
まあ著者の 発見とか何か答えが見つかるとかっていうわけではなかったので
なんか気に入っはなってるみたいな そうですね、とかその問いを投げかけてくるみたいな感じだったので
まあちょっとそうですね 扱ってる内容も抽象的だったりしたのであんまり
深く 理解したりっていうのはちょっと難しかったなっていうのは
感じたんですけど まあでも
そうですね その
西角の作品で 高職一代女っていう作品があるんですけど
これは一人の女性が 優格とかそういうところで
生きてきた女性が
年老いた時に自分の人生を振り返っていくっていうような話なんですけど この本ではその高職一代女を
取り上げて 話が
展開されていくっていう 形ではありました
でその西角に関することで言えば
その自分が今扱っている 作品
日本永代蔵っていう作品があるんですけど その作品とかでも出てくるように結構
描写が細かいんですよね 土地のことはもちろん地名とかはもちろん出てきますし
その 例えば
海の風景とか 町の風景とかがこと細かに描かれてたり
あとすごいのはその
自分が扱っている作品だと結構お金持ちの人の話が出てくるんですけど そのお金持ちの人たちがどういう服を着ているのか
頭から足先まで どういう服を着ているのか どういう生地のどういう服を着ているのか
あと商人とかも出てくるんで その登場人物の商人がどういうものを扱っているのか
どこどこから 下ろしてきた
その商品がこういうものですみたいなものとかが 結構本当に細かいところまで描かれていたりするので
そういうそういうディティエルな細かさが その
時には 笑いに
走っていったりとか 逆に
ちょっと物悲しさとか 誘ったりみたいなそういう物語としての面白さにつながって
いくっていう話があったり あとはそういうその
作品の描写をしていく時に 変に情緒的なものに走らないというか
その冷静に例えば何か事件が起こった時に その事件の被害者とかに何か同情するわけでもなく
淡々と本当に事実だけを書き記していくことによって 逆にその事件の例えばどれだけ悲惨なのかとか
そういうものが浮き彫りにされていったりとかっていうので そういうその冷静な視点と
ディティエルの細かさみたいなのが物語の そういう面白さの特徴の一つ 最角の各作品の一つ
語ることと歌うことの違い
特徴の一つだというふうに この本では書かれていました
まあ個人的には一番共感したのが 共感したり
読んでて面白かったのが一番最初のその 語るとか歌うっていうことを取り扱っている章の話で
で 僕も結構その
なんだろう 近世の江戸時代のから盛んになった文化的なものとか
に興味は あったりするんですけど
その 歌うと語るっていうそういう言葉がありますけど
その違いみたいなのを考えたときに 歌うだと
えっと 主情的
うーんと
一人称的な視点で 自己投水的な
感じで
何か発信するっていうのが歌うというか あとは
その 自然とか超自然的なもの
まあ例えば神とかそういうものと 一体化するために
何かを発信するときは歌うっていうふうで まあ例えば
それこそゴーシチゴみたいな 短歌とか
和歌とか 俳句とかっていうのは
あれはそうですね特に和歌とかだとその
自分が何かを見てこう思ったよみたいなことを 本当に一人称の視点で
あの書かれている作品が多かったりしますし 歌舞伎とかもそうですね
そのセリフも
なんて言えばいいかな まあ自分の思いをさらけ出すじゃないですけど
そういうものが多いし
歌舞伎に関しては実は僕小学校の時に 地元が
その地元の人たちで歌舞伎をやるっていう あの
行事というか風習が昔からありまして まあ漏れなく僕もそれに参加したんですけど
で 実際に本当にあの役者として
本当にセリフもちゃんと覚えて当日 化粧して着物着てかつらかぶってっていうふうで
あの そのまあプロの歌舞伎の役者の方
が やるのと変わらないことをしているというか
そういうことをした経験があるんですけど やっぱりそのセリフの喋り方がその西洋演劇とか
例えば ミュージカルとかオペラとか普通のその舞台とかっていうのとはまた全然
違うし
その自分が喋ってる後ろで伴奏的な形で 三味線が
まあ 流れてる時があるんですけど
それも 伴奏って言っていいほど伴奏ではないというか
どっちかっていうと藍の手みたいな形だったりして っていうふうでなかなかその
歌うとは 感覚としては
ちょっと違うけど でも
なんだろうなぁ でも確かに語るとも違うよなぁみたいな
っていう ちょっと話がまとまらないですけど
でも なんだろう この本で言おうとしていることはなんとなくわかるというか
実際に経験した身からして
ちょっと言語化するのがまだ難しいけど でもわかるなぁみたいな感じではありましたね
で一方でその 語るっていうところに関しては
えっと
事情とか その何かの内容とかそういうのを
あとそうですね あと
さっきの歌うのところでも言った 自然とか超自然的なものの由来とか演技の
そういう説明をすることと
納得させること っていうので でこの語るっていうことをする時には
聞き手の意識が入ってくるよねっていう 歌うだと完全に話し手の
まあさっきも言ったように事故闘争的なものがあったりするので
話し手だけで 歌うっていう範囲の中に入ってくるけど
語るっていうことになると 聞き手の意識も
とか聞き手の存在自体がその 語るっていう行為に含まれてくるよねっていうことが書いてありました
あとはその 名前を語るとかっていう
騙すみたいな 意味で語るっていう言葉もありますけど
そういう 嘘をつくというか
自分の その
例えば 自分がそれこそ語る内容が実際に起きたこととは違うけど
でもその 語る人の
思惑通りに聞き手を納得させるとか そういう意味も含まれるんじゃないかっていう
ことがまとめられてはいました まあこの語るだと
朗読とワークショップの意義
朗読とかが入ってくるんですけど 実際にこの本の中だと
えっと 富岡さん自身が最初詩人から始まって
で後に小説家に転身されたみたいで その
詩を書いていた時のその自分の作品を 実際に読んだり
して っていうことを
まあ実際のワークショップではされてたみたいで
その小説家に転身した後も
ドイツだったかな ドイツでなんか
イベントが行われてそれに参加した時に その自分の小説を朗読するっていう
日本だと結構詩の朗読とか あったりあと今だとオーディブレとかでその本の内容
まあ小説とか多分 ジャンル問わず
そういう音声作品になっているものって多いと思うんですけど でも
読むのって作家じゃないことが多いと思うんですよ それこそプロの
声優さんとか あと
アナウンサーの方とか 多分俳優の方とかも読んだりっていうことあると思うんですけど
そういう自分自身が 作家自身が
自分が書いた作品を読むっていう機会は まだこの音声メディアが発達した日本でも
まだ少ないんじゃないかなと思うんですけど でもその
ドイツとかヨーロッパとか海外の方では その作家の方が自分の作品を朗読するっていう機会は結構あるみたいで
そういうちょっと国の違いとかも 挙げてあったりしましたけど
っていう まあ
そうですね そういう説明したり
納得させたり まあ
自分の思いとかを相手に伝えようっていう
ことをしようとした時に語るっていう行為になるっていう話でした でここに関してはこの歌うと語るの
関係性じゃないですけど これに関しては
奥の中で1個思い当たることがあって でそれが
去年だったかな 1年経とうとしてますけど去年の12月
とかに東京の方で朗読劇があって
えっと 声歌舞っていう
朗読劇がありまして で何かと言いますとその
歌舞伎の作品を朗読劇で鑑賞しようみたいな イベント
なんですけど でそれに自分も
参加してその朗読劇を鑑賞してきたんですけど その時
自分が行った時に扱われてた作品が中心蔵 奏本中心蔵であの
アコーロシとかをモデルにした作品ですね でそれを
朗読劇でやるっていうふうなんで まああの歌舞伎の方は見たことがあるんでどういうふうになるんだろうな
って 思って
見に行ったんですけど その朗読劇の中の
その奏本中心蔵 まあ中心蔵で略しますけどは
なんか その劇の
舞台設定全体が戦後の昭和 で
まあ現代劇と言いますか で
その中の ラジオドラマで中心蔵をやりますよっていう
設定だったんですね なので
まああの 歌舞伎と同じセリフをそのまま
そのまま言っても 何が何だかわかんないというか何を喋ってるのかわからないみたいな
のとかがあったりするんで そのちゃんと現代の我々が使っている言葉に直したりしてっていうふうだったんですけど
でもそこですごかったのがその やっぱり
自分たちが今生きている時代と 例えばそれこそ
西角たちが生きていた江戸時代とかっていうふうではその
時間の感覚とかその生きてるっていうリズム感 みたいなのが全然違うんですけど
で そのリズム感の違いがあるにもかかわらず
その
まあ現代語訳されたというかラジオドラマとしての 中心蔵は
その まあ原作というかその歌舞伎の中心蔵の
テンポ感とかを全く崩さずに そのまま
ほぼほぼそのまま その
現代の我々にもわかるような形に直されていて
で それこそ先ほど言った歌うと語るっていうところにつなげると
その やることは違うじゃないですか
先ほども言ったように歌うっていうことで例を挙げたのが歌舞伎 で語るっていうことで例を挙げたのが朗読ということで
その また感覚が違うというか
し やってることも
多少違ってきたりすると思うんで なんかそこの
テンポ感とか そういうまあそれこそその
観客がその話が何分かってちゃんとそれ その劇を見て何をしているのかがわからないとまあ意味がないんで
そこもちゃんと理解させながらとかっていうそこの 違い
とか まあ
その歌うと語るの行為の
壁みたいなものを なんか壊して
乗り越えて 違う形でアプローチできてるのが本当にすごいなぁなんて
この本を読みながら思い出していましたけど っていう感じで
ちょっとした まあ
余談といえば余談かもしれないですけど はいっていう感じでした
文化の違いと作品のアプローチ
まあ他にもえっと その
さっきも言った 生きるリズム感っていうところとかだと
その まあ
そもそも歩き方とかから違うみたいな 日本が
その明治維新とかで 西洋の
技術とかをいろいろ取り入れたときに その軍隊を作ろうとしたときに
今の日本人が やってる歩き方をするようになったっていうで 昔はその腕振って歩いたりとかはせずに
とかっていう歩き方の違いとか
っていうところもちょっと触れられていたっていう感じですね まあっていうのが
この本読んでいて僕が 面白いなって思った
ところでございます っていう感じで
今回は 最角と間違えた最角の語りという本の感想を話しました
まあ多分最角自身がどうなんだろう 日本史をやってる人とかは多分聞いたことあるんじゃないかなと思うんですけど
少なくとも中学の歴史とかでは出てこなかったような気がするので まあなかなかなじみない
とは思いますけど でもあの最角結構
他の作品も読んでて面白いというか
それこそ公職一代男とかだと 源氏物語にちょっと
似てる作品のその展開とかがあったりするので
現代語訳されたやつとかだったら全然 現代の我々が読んでも面白い作品じゃないかなと思いますので
有名どころはいろんな出版社が現代語訳してとか 注釈つけてとかっていうふうで
本出していると思いますので ぜひ
手に取れる機会は多いと思いますので 興味がありましたらぜひ最角の作品触れてみてください
ということで今回はちょっと我々の 僕の専門分野に近いところだったので
なかなか難しかった かもしれませんが
興味持ってくれたりしたら嬉しいなぁなんて思います はい
ということで今日はここまでにしようと思います 長くなりましたが最後まで聞いていただきありがとうございました
また更新しますので聞いていただけましたら幸いです それでは
31:25

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