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2024-11-15 1:53:02

#77|SESSION「実存と公共性」by 室越龍之介[muro] (M&M of A St. / のらじお)&メチクロ

from雑談[SESSION]では、雑談にお越しいただいた方との偶発的な”雑談”を不定期にお届けします。〈収録2024.9.25〉


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【室越龍之介[muro]|M&M of A St. / のらじお】

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マンガ・オーディオ・アート・クラブミュージックなどの第一線で、分野横断的に活動するクリエイティブディレクター。 グラフィック&プロダクト両面のデザインのみならず、編集&ライティングからブランディング&プロデュースまで多様なスキルセットを駆使する。 これまでの経験と知見を活かし、『JAPAN PODCAST AWARDS』では創設メンバーとして、2019年創設〜2021年まで3年に渡り理念&審査レギュレーション設計、選考委員選定、ノミネート作品選考、グラフィック&トロフィー造形など中核業務の全てを担当。 作品選考作業においては、年間平均2000作品・2000時間強に及ぶ聴取・リサーチ・分析を行い、アワードという一つの基準において、国内ポッドキャストシーンの可視化とクオリティの定性評価に寄与した。 現在、自身のポッドキャスト作品としては、ぷにぷに電機と共に制作する『LAUNDRY AM』を配信中。 『雑談』では、より広く、より深く、音声作品の可能性と魅力を伝えるべく、さらなる能力を解放する。@maticlog───────────────────────X|https://twitter.com/zatsudan_co_jpInstagram|https://instagram.com/zatsudan_co_jp©︎雑談|https://zatsudan.co.jp/

00:00
セッション!
ご無沙汰、お疲れ様です。
いやーでも、当初のマーク通り、ほぼ純レギュラーとして。
僕のわがままにお付き合いいただいて。
恐縮です。ありがとうございます。
でもなんか、このMuroさんとのセッション、僕の精神衛生上すごく良くて、
話してアップロードした後、その振り返りをずっと頭の中で、継続して考えることができてて。
次何話そうかの話も含めて、すごく良いです。途切れない思考が。
それは素晴らしい。ありがとうございます。
僕はね、フラストレーション溜まってます。
それは、具体的にどのような感じ?
前回も、平凡と非凡の話をした後、次は品の話をしようとしましょうで終わったじゃないですか。
いやー品の話してーっていうのを、2ヶ月から溜めてるんで。
いやー品の話してーっていうフラストレーション溜まってます。
それはむっちゃ健康的じゃん。
そういう意味では俺も一緒だもんね。
品の話をしたくてしたくて、その前後を含めて、すごいいろんなことを考えちゃうって感じで。
だからなんかね、そういうのもあってね。
自分の撮ったものって、編集の時以外振り返りで聞くことないんだけど、今回のは意外と聞くんだよね。
そうなんですね。
何を話したんだろうとか、室田さんに何をサジェストされたんだろうとかっていうので。
全然メチクロさんの話聞いてなくて暴れまわってんなっていう印象があります。
そう?めっちゃ繋がってるよ。
そうですか。メチクロさんこの話したいんだろうなーって配信を聞いてると思うんだけど、収録の僕は全然そんなこと気にせずに、
この話後みたいな前の話をもう一回続けようとしたりとかしてて。
それさ、室田さんが今までポッドキャット出演してた時のストレスは解消されてるってことだよね。
何を話そうとしてるのかっていうことで引っ込めちゃうって言ってたじゃん。話したいことを。話せてるんだ。
確かに暴れてるかもしれないですね。
あの中国の話とかもしてたもんね。
中国の話もね。なんであの中国の話始まったんだって感じですもんね。
でもね、遠からずの話だから全然繋げられるんだよね。
じゃあちょっと今日もさ、時間思いのほか取れそうだからゆっくりいきたいんだけど、
前回、文化と非凡っていうタイトルでさ、お話しして、最後に室田さんが僕の人へのプレゼンテーションの仕方に最後話題がなってて、
03:06
そこで僕のやり方が人をコントロールしてるかのようなオファーのさせ方をしてるっていう話した時に、
室田さんが僕がそれをやるには貧欲それをやる自信がないみたいな言い方で結んでいたんだよね。
で、じゃあ次貧の話しようって言って終わったんだよね。
で、室田さんは2ヶ月間貧の話をしてた。
そう、なので今日ね、本当に貧の話までは持っていきたいんだけど、
やっぱりね、その貧の話をする前提で、
もう一回前回のお話の振り返りと補足と強化みたいなのをしたくて、
まずね、最初の切り出しとしては、やっぱり平凡と非凡の話というのは、
すごく大事、貧の話をする時に。
で、室田さん前回さ、都知事選の時にポスターをジャックしてた人たちの、
あのなんかダサさみたいなものを一つ表して言ってたよね。
あれってちょっともう一回改めて言うと、あれって何でしたっけ?
芸術人類学の先生が、
平凡か非凡かっていうのを分けるのは、
世の中の当たり前みたいなものを、
どれくらい自分の中に内面化してるかなんだと。
で、それを内面化せずに、そこから逸脱している人。
そういう人たちが、
自分の中にあるものを、
自分の中にあるものを、
自分の中にあるものを、
で、それを内面化せずに、そこから逸脱している人っていうのが、
非凡な人なんだけれども。
都知事選の、ああいうふうな、
掲示板をジャックしてた人たちって、
一見僕たちから見ると、ものすごい逸脱行動をしているように見えるんだけれども、
彼らがあれをできるのは、
自分の中に内面化した、
当たり前っていうものを一切疑っていないので、
当たり前ではないものを、ただやってるに過ぎないんだっていうことで。
めちゃくちゃ平凡であるっていう話になってるんだと。
だから、そういう文脈で僕は言いましたね、あれは。
そうだよね。で、そこで当たり前のものっていうのを、
あの時は室さんは社会規範。
社会規範が内面化した人が、そこを逸脱してるんだけれども、
社会規範が内面化してることに気づいてないっていう言い方してて。
だからなんか、都知事選のお話でもそうだし、
古くは学校生活における不良っていうのも、
社会規範が内面化した存在が逸脱するっていうとこに留まってるから、
校舎の窓ガラスを割ったり、盗んだバイクで走り出したりみたいな。
ちょっと脱線して申し訳ないんですけど、
06:02
昔、僕高校生の時に、生徒会長選挙に出たことがあって、
その時の公約っていうのが、生徒手帳に記載されている
校則みたいなのが、ちょっと古すぎると。
下着は白を着ろとか、髪型はこうしろみたいな。
誰も守ってないんだけど、校則には書いてある。
だけれども、生活世論先生からは校則を根拠にいろいろ言われるので、
現代的に校則を改訂する必要があるよねっていうのを公約にしたんですよ。
そしたら、制服をものすごく着崩してきている、
いわゆる不良っぽい人たちっていうのに、
生徒会長選挙の演説の後に絡まれて、
なにお前、スカート着てえの?みたいなこと言われたんですよね。
その制服を変えるなり、廃止するなりっていうのは、
お前がスカートを着たいからだろうみたいな論法だったんだけれども、
僕とすれば、あなたが制服を着崩していますよねと。
あなたはそういう格好をしたいんですよねと。
それを合法化しましょうっていう話をしてるんで、
すごくアラインできる話をしてると思ってたから、
それに反発されたことにすっごいびっくりしたんだけれども、
やっぱりたぶん同じことで、彼らにとっては校則があること。
平凡化された規範みたいなのがないと逸脱できないっていうのがあるんだなと思って。
これ、小林義典の戦争論読んでたら、
全く同じエピソードが出てきて、
いつの時代もそうなんだと思って、めっちゃびっくりしたことがあるんですよね。
そうなんだよね。
だから僕も学生時代とかも、いわゆる悪いやつらみたいな、
僕は全然学生服も標準を着るし、
みたいな人間なんだけど、
そういうバンカラっぽいやつらと遊ぶことがすごく多くて、
やっぱり室野さんのエピソードにかなり近くて、
彼らってやっぱり、
破るルールを与えられないと、
何かを逸脱するっていうことのアイデアが生まれない人なんだなっていうのはすごく感じたんだよね。
だからそこの平凡と非凡っていうところの、
ある意味残酷性と、ある意味自由を望む人と、自由が息苦しい人っているじゃないですか。
それと同じような意味で、
社会規範みたいなものっていうのも、
なければ困る人って実は破りたい人だったりすることもあるなっていうのは、
かなり子供の頃から僕らって身近にあるよね。
ありますね。
驚きですよね。
そう、その瞬間まで僕分からなかったからそれを。
みんな自由を欲しているんだけれども、
ルールがあるがゆえに自由になれないんだと思ってたんですよ。
まさか規則と逸脱行動に共犯関係があったとは、思いもよらなかったんですよね。
09:01
でもさ、今日ね、すげえこの話できるなと思ったのが、
都知事選っていう話もしてたからちょっと選挙にくっつけるんだけど、
現状リベラルとかって、僕ら的な生き方にはすごく相性のいい、
あるパーティーではあるんだけど、
僕がどうしてもリベラル側に、
ちゃんと軸足を置いてるって宣言したくない気持ちっていうのが一個あって、
それがさっきの社会規範と逸脱の部分があって、
野党って、与党がいないと動けない人多くね、みたいな。
結局そういう批判もあって、今回票落としたりとかしてるみたいな、
自分たちで自由をクリエイトするっていう力によって結束したんじゃなくて、
さっきの学校の話に戻すと、文句を言いたい先生や、
拘束っていうものがあって光る存在みたいな、
そこの受け皿になってるみたいな印象をあまりにも多く受けてると、
そこのバッジ、僕は付けたくないなって気持ちが起きちゃう。
みたいなのが結構近いよね。
それはおっしゃる通りだなと思って、
おっしゃる通りっていうか、僕今回の都知事選の結果が出るまで、
全くそれを理解していなかった。
っていうのは、僕にとって左派的であることとかリベラルであることっていうのは、
まさに自由な社会っていうのを作り出すための
政治的立ち位置に他ならなかったからで、
保守系の人たちが言う、彼らは批判ばっかりだという批判の意味が全くわからなかったんだけれども、
でも確かにそうなのかもしれないって今回すっごく思ったんですよね。
だから、僕が本当に何かを成したい、何か身のある行動を取りたいと思った時に、
どっちを仲間につけたいかっていう気持ちを正直に考えると、
今そっちの色がついている人たちと組むと心もとないなっていう気分になっちゃう。
自由を勝ち取るでもいいし、別にわがままを実行するでもなんでもいいんだけど、
どっちの人と実行力のある動きを取れるのかっていうことがやっぱり見ちゃうよなって。
これは政治的な総括話じゃなくて、さっきの学校の話に紐付けた比喩なんだけど。
だからその平凡と非凡って、僕はどちらが善でどちらが悪じゃなくって、
自分のポジションとして保守とリベラルと同じく、自分は平凡か非凡、どちらを望むのかっていうことって、
ある意味、室さんの前回の言い方だと引き受ける。平凡を引き受けた存在なのか、
12:05
非凡を引き受けた存在なのかっていうことを、
より自覚した方が生きやすい時代になっているような気がする。
で、なぜならって話をすげえしたよ。
ちょっと聞かせてください。
で、今さ、さっきのリベラルの話も含めてなんだけど、
平凡であることを引き受けろって言われると、
そういう人って、非凡でありたいっていう憧れとか、
ルサンチマンっていうものっていうものをまで引き受けたような、
負けた存在とか弱い存在のようなレッテルを貼られるみたいなイメージがあると思うんだけど、
それが良くないなと思う。
で、もう一個、今社会には、
労働者と消費者みたいな、みんながプレイヤーとして参加している、
多くの人が参加している立ち位置があるんだけど、
そこに資本家っていうものがあって、
実は僕もう一個存在しているところが息苦しくなっているなと思っているのが、
労働者の中にも、
労働者的な振る舞いを求められる人と、
プロフェッショナルを求められる人が同じところにいるから、
でも実は労働者をやりながら、それを我慢の時間だと思っている人と、
自己実現で同じ労働をする人とによって、
そこの働きにくさ、並べられたらがらなさ、
みたいなものが生まれているみたいなものを含めると、
じゃあ労働者の中でも、
僕は労働者として契約しますっていう人と、
プロフェッショナルで契約しますっていう人が生まれた方が、
お互い生きやすいんじゃないか。
それがさっきの平凡非凡とか、
保守とリベラルみたいな。
本来僕そういうレッテル割、嫌いなんだけど、
自己認知として、
そこって意外と大事な気がしてきちゃったっていう。
そうかもしんないですね。
そうですね、なんか今のお話って、
そのレッテルの話というより、
自分は何を考えているのかとか、
自分は何を欲望しているのかっていう話なんだと思うんですよね。
それを分からなければいけないっていう話かなと思っていて、
で、なんていうのかな。
僕がさっきの政治状況、
日本だけじゃないグローバルな水準でもそうだと思うんですけど、
面白いなって思っているのが、
自分を改革者だと言って売り込んでいる人たちっていうのが、
ものすごい価値的保守であるっていう現象なんですよね。
つまり世の中にはこれまで、
保守の人と改革の人がいたんだけれども、
現在の政治状況っていうのは誰も改革の人を信じないしていなくて、
いるのは保守と、保守なんだけれども、
15:00
保守のメインストリームに乗れなかったので、
改革っぽいことを言っている人の
2つになっちゃってるじゃないですか。
この時に保守の人はまだいいと思うんですよ。
自分が保守だと思っているから。
でも自分は改革者だと思って、
めっちゃ価値的保守なことを言っている人は僕、
やっぱちょっとだっせえと思ってて。
それは社会規範が内面化したっていう人の逸脱に見えるに近いよね。
そうそう、そうなんですよ。
自分の欲望にもっと正直になっていいんじゃないって思うんですよね。
自分は保守的価値を持っていて、
しかも保守的価値のある社会の中で勝ちてえと思っていると。
それって別に誰からも否定されるべきではない、
その人の欲望だと思うんですよね。
なぜあなたがもっとそれに肯定的にならないと。
なぜ自分を偽るのかっていうのをやっぱすごい思うっていう感じで、
だからその人がリベラルであるか、革新者であるか、それとも保守であるかみたいなことは
僕にとっては本質的にはどうでもよくて、
でもあなたにとっては関係あるじゃんっていう話なんですよね。
だから僕も、僕がリベラルであるか保守であるかみたいなのは
僕にとってはすごく大事なんだけど、
僕以外の人にとってはあんまり大事ではないというか、
どうでもいいことだと思うんですよね。
それは投票行動の時にただ社会と接点を持つだけであって、
僕以外の人には本当にどうでもいいことだと思うんだけれども、
みんな自分以外の人がどのように考えるかっていうことをやっぱ気にして、
自分の欲望とか自分の考えみたいなのに、
表現できないみたいなことになっているっていうのが、
やっぱ大丈夫だよっていう気はしますよね。
だから多分個人的なマインドとしての強固さと、
あと実態としてさっきの、
例えばその人が議員バッジをつけるとか議員活動をするっていう、
椅子っていう土台っていうものを、
彼らってゼロ百じゃなくって、
自分のベターなチョイスを選んで、
そういうポジションを取っているような気がする。
でも僕らって、
宇宙人さんも僕も、
いわゆる就職とかを含めて、
社会規範というものに参加する椅子っていうのは、
与えられてない側だったじゃないですか。
本当に。
だから僕らはどうせ椅子なんて持ってないから、
そいつらを出せえなっていう権利もあると思うし、
言えるけどその声が届くかどうかっていう話に関しては、
椅子に座っている人の方が、
一言で声を届ける立場にいるみたいな、
そういうことな気もするんだよね。
そうですね。
それもおっしゃる通りだと思う。
それもおっしゃる通りなんだけど、
やっぱり時間軸をどう見るかっていう話だなと思っていて、
明日の社会を変えようと思うと、
18:02
椅子に座っている必要があると思うんですよ。
でも何て言うかな、
明日の社会ではない、
例えば何かを書く、
メチコロさんの作品を作られている時に、
それを通して、
じゃあ10年後、50年後、100年後っていうのに、
この時にこういうことを考えていた人がいるんだ、
っていう影響は与え得ると思うんですよね。
それが本当前回前々回話してたようなことなんだよね。
僕らのステートメントってそういう土台だよね。
だから僕は椅子がないから、
自分のボイスがないとあんまり思っていなくて、
そのボイスがあるかないかっていうのは、
その人が言うかどうかにしかかかってないと思うんですよね。
確かに、
今日この時この瞬間のボイスとしてはめちゃくちゃ小さいかもしれないし、
何も変えられないかもしれないけれども、
言ったということが、
この世界の中でどういう影響を与えるか誰にもわからないから、
それにかけて言ったらええんっていう感じだなっていうのは、
僕の所感なんですよね。
まじそうだね。
で、答えを先に言ってしまうと、
そういう人が非凡っていうものを引き受けるっていう感じなのかなとは思っていて。
恥ずかしい。
でさ、
僕らって立場上今二つを選べと言われたら、
非凡しか選べないから非凡って言っちゃうんだけど、
その恥ずかしさもあるじゃん。
平凡の側は平凡を選んだ側として、
平凡ということを称うことの格好悪さみたいなものの嫌だみがあったりすると思うんだけど、
でも公表するしないの話じゃなくて、
自分が何を引き受けてるのかっていうことの自覚の問題だと思っていて。
僕は結構保守の人も好きで、
保守である自分っていうものを引き受けてる人が保守的な動きをしてることに関してはリスペクトできたりするんですよ。
確かにそういうことってありますね。
僕は会社員みたいなことが経験がないので、
ちょっと偏見がある側なんだけれども、
その会社員として動くものを引き受けてやってる人の行動って、
僕はリスペクトできたりするんですよね。
確かに。
僕が最も仕事をしていてリスペクトできないのが、
会社員であって安全な場を選んでおきながら、
僕がクリエイターとして入っているその現場で、
僕のクリエイトに何か対抗しようと、
僕の能力に何か足してないにも関わらず、
彼らの組織の中での自分の見栄えのために、
何か僕に干渉してくるような態度を取る組織の人って、
21:01
すごく迷惑だったりするので、
そういう人は嫌いだったりする。
だから貴犯が内面化してるんだったら、
内面化した通りの行動を取ってくれればいい。
なぜそこで逸脱しようとするのかっていうところは、
日々の活動の中でもすごくあるんだよね。
確かに。引き受けてないですね。
引き受けてない。
自分のありようみたいなもの。
おっしゃる通りですね。
すっごいでっかい組織の時、
上司がもう完全に古田の木だったんですけど、
やっぱ尊敬してましたもんね、僕。
もうすげえやり込められたんで、
絶対自分が正しいと思ったんだけど、
何一つ通らなくて、
めちゃめちゃやり込められたんだけど、
やり込めることにかけての、
彼の手腕もそうだし、
手腕もめちゃくちゃ鮮やかだったし、
それをやるということの
引き受け方がやっぱすごかったなと思ってて。
だから組織の力学のために
理不尽というものを突きつけるわけじゃないですか。
下の人の正論に対して。
やっぱそれって引き受けてるんですよね。
そうですね。おっしゃる通りですね。
なぜ彼を尊敬してたのかわからないかったけど、
今のでわかりました。
引き受けてたからですね。
だからやっぱ前回からのお話で
やっぱすごく大事なのは
引き受けるって言葉だと思ってて、
それは社会に表明するってことでもなければ、
どこのポジションに属してるって話でもなくて、
あなたがあなたの意思によって何を引き受けてるのか
っていうことがすごく
時代変わらず重要なことだなってことは、
今回の僕らの話題の中でも結構重要だと思って。
でちょっと今さ、
わかりやすい現代っぽい話から入ったんだけど、
なんかこういう話って、
もうそれこそ昔から変わってない話だと思っていて、
引用できる場所がいろいろあるなと思ってる中でいくと、
僕のような立場で言うとちょっと
しらけちゃうかもしれないんだけど、
19世紀の後半から
20世紀前半ぐらいの言論の論談にいた人たちの言葉とかって
意外と今のこういう問題のことを意外と言っていて、
哲学で言うと実存主義の頃の人たちって
まさに今のこういうお話を100年前にしていて、
それで言うと、
一番エキセントリックな言論の例で言うと
ニーチェとかなんで、
ニーチェはまさにこういう実存の話をしていて、
彼ってあの時代において、
神は神は死んだっていうように、
キリスト教っていうものを断罪して、
実存主義っていうものを唱えた人だから、
かなり大胆な話をしてるんだけど、
ちょっとニーチェのせいにして言うんですけど、
僕の言葉じゃないよっていう言い方で言うんだけど、
24:02
さっきまでの話題に近いニーチェの引用でいくと、
ニーチェは奴隷と君主の話してたじゃないですか、
結局キリスト教っていうのは、
弱者が正義だからこそ、強者は悪っていうのを植え付けるんだ。
それは間違ってるから目を覚ませ、
みたいなことをニーチェは言ってたじゃないですか、
そういうのも今の時代に結構近いなと思っていて、
ニーチェくらいの人があえて言えば、
分かるのかというと、
分かった人もいて、引き継がれた者もあるんだろうけど、
結局100年経っても同じことは起きていて、
宗教がもしかしたら消費社会みたいなものに置き換わっただけなのかもしれない。
要は今、宗教の教義の代わりに、
大量のポルノがばらまかれていて、
ポルノに端的していれば、
別に自分の人生なんて振り返らなくてもいいんだっていうことを、
やってるのが今の構造かもしれないしとか、
だからそういうちょっとずつ、
今の僕の言葉で言うと、
すごくポリティカルにコレクトじゃないから、
ニーチェさんやサルトドルさんの言葉を使いながら話すっていうのもありかなと。
なるほどですね。
でも確かに前回の話と連続してるかもしれないですね。
僕の理解ではニーチェが言ってるのは、
道徳というのは欺瞞であるっていう話だと思うんですよね。
道徳が欺瞞っていうのはどういうことかっていうと、
弱者が弱者でいるっていうのを正当化しちゃってると。
なので僕たちっていうのはあと文句言ってりゃいいっていう状態になっちゃってると。
でも僕たちが弱者でいるっていうのをいいって言ってるような、
道徳の最終根拠になるようなものは何もないと。
神様死んじゃってるから。
なのでそうなってくると、
僕たちっていうのはむき出しの世界の中で生きていかねばならず、
自分が何をするのかっていうことを
自分で決定するしかないっていう話になるなと思ってて、
それはもうその通りやなって。
それが室さんが3歳の頃に気づいた、
道徳や自分を下支えしてくれるものというものは存在しないっていう悟りに近い。
そうなんですけど、
僕がちょっと危惧してるのは、
今経済的な新自由主義っていう考え方が出てきたじゃないですか。
新自由主義って政府の規制っていうのをどんどん緩和して、
より自由にすれば市場の健全性によって
いろいろなシステムっていうのが正常化するっていうような考え方だと思うんですけど、
この新自由主義的な考え方っていうのが、
僕、昨今特にこの間の都知事選ぐらいの時に痛感したんですけど、
27:02
僕たちの倫理になりつつあるんだなと思っていて。
倫理。
倫理。
何が倫理となっているかっていうと、
自己責任論と強いやつっていうのは、
何をしてもいいという考え方ですよね。
これはさっきのニーチェの考え方みたいなのが、
これを僕としてはあんまり正しい援養の仕方じゃないと思うんだけれども、
援養しちゃってるように思っていて、
つまり弱いものと強いものがいた時に、
強いものっていうのは目覚めてて自由な人間なんだから何をしてもいいんだ。
それで弱いものっていうのは自己責任で弱いんだから、
もう何をされてもしょうがないんだっていう世界観。
これが今の僕たちにとっては倫理になっちゃっている。
これが30年前はこんなことは倫理ではなかったと思うんですよ。
弱い人間っていうのは助けなければいけない。
社会の中にはもっと平等とか、
御所の精神みたいなのがあったと思うんだけど、
それが失われつつあるのが今だなと思っていて、
僕は確かに世界には究極的に意味がないと思っているし、
我々は自己決定してこの中で生きていかなければいけないとは思っているんだけれども、
僕がすごく危惧するのは、
それは直ちにこの昨今の新自由主義的な倫理っていうものを
支持しているわけではないっていうことなんですよね。
むしろ僕がなぜリベラルを自認しているかというと、
逆向きで、
そういうふうに自己決定する人たちっていうのが
社会の中で生きていけるような社会制度っていうのを
やっぱり作った方がいいよねと思っていて、
それは僕の社会的地位から言ってもすごく合理的な意見というか、
これ僕いつ死んでもしょうがないよね。
社会福祉っていうのは充実してれば充実してるほど
僕には得なので、
もっと充実してくれっていう話だなと思っていて。
でもさ、さっきの
今起きている新自由主義で起きているその構造っていうのも、
19世紀の風刺画でよくあるさ、
労働者の背中に聖職者と王族が笑顔で乗ってるっていう、
あの姿もやっぱ同じことが起きていて、
結局人々、弱者っていうものを放出する教義を唱えている
宗教の組織の人たちっていうのは、
それをルフさせることによってより強大な力を持ち、
よりそのアヘンを配り続けるみたいなことによって
王族と一緒に笑顔で背中に乗っているっていう状態が、
自由主義だったら、自由にすることによって力を持つ人がいたとしたら、
やっぱその人たちも、現代にポルノ巻き続けることによって
自分たちが超えるっていう状況は、
同じように生まれていて、
で、じゃあそれ形が変わったからまた同じだよねって言って、
30:02
また同じような解決法を見出していくっていうことは、
別に僕はゼトは知らなくて、
僕らっていうのは様々なものを、
過去の文献も紐解けるし、
現代のテクノロジーも駆使できるわけだから、
同時並行的に僕らの中で変えられるものがあるんじゃないかって話だと思ってて、
今実存主義の頃のを引用したんだけども、
でもやっぱその後構造主義みたいなものが出ていって、
その後構造だったりっていうところで、
また新しい視点を見出そうとした人がいて、
今また、その100年があって今なんだとしたら、
その次っていうものを僕らの中で、
認知していかなければいけないなと思っているのが、
僕、今だと思ってて。
で、ムロさんなんだよね。
で、なんかその言葉のきっかけみたいなものを、
なんか紡ぎ出せるというか、
糸の一張り目みたいなものを作る人っていうのが、
なんかムロさんのような考え方や立場や、
社会的な場所にいる人なんじゃないかなと思ってて。
だから、ムロさん今リベラル側、
新自由主義的な形ができた中で、
リベラル側にいようとするムロさんって、
くさびをどこに打っていけばいいのかな、
ありかみたいなものって、
なんか見えてたりするんですか?
くさびっていうのはどうかな。
ちょっと僕が知ったある組織の話なんですけど、
自立分散組織を作ってるんですよね。
いわゆる普通の会社ってピラミッド構造じゃないですか。
で、トップが考えたことっていうのを上位形式でやっていくっていうのが、
普通の会社組織だと思うんですけど、
最近、特にIT関係の会社とかって、
上位形式っていうのはあまり良くないねっていう話になって、
より自立分散的なそれぞれの人間とか、
それぞれのセクションとか、
それぞれのセクターみたいなものが
自己判断して決定して実行できるような
組織構造っていうのに変えていくっていうのがあって、
これをしたところ、
構成員の売上に対するコミットメントっていうのが下がったっていう事例があるんですよね。
自立分散をしたら必ず下がるわけじゃないんだけど、
僕が見聞きしたその組織では一旦下がっちゃった。
その時に面白かったのが、
メンバーの生存に対する感覚みたいなのが、
やっぱりぼやけたなと思っていて、
自立分散になったことで。
これ、メチクロさんがさっき批判されていたリベラルのあり方と一緒だと思うんですよ。
生存戦略がある、経済戦略があるっていう保守のあり方があって、
33:02
それにアンチであるリベラルっていうのは、
福祉政策とか平等主義的なことを押し出すんだけれども、
それを実行して実現するための生存戦略みたいなものをあまり描ききれてないよねって批判があると思っていて、
全く同じことが起きたと思うんですよね。
でも、僕は思うんですけど、
別に生存しながら自立分散組織ってできるはずなんですよね。
生存戦略を描きながら平等主義的な考え方とか、
社会福祉を実施したりってことはおそらくできると思うんですよ。
70年代くらいまでみんなやってたわけだし、
今は難しいのかもしれないけれども、
それが絶対に不可能ってことではないと思うんですよね。
これをうまく調和させていくことっていうことが実はできるんだろうなと思ってて、
これを僕は今、便宜的に中性的な感覚っていう、
ミドルエイジ的な感覚っていうのと、
近代的な感覚っていう、モダンエイジ的な感覚っていう呼び方をしているんだけれども、
例えば会社組織っていうのはモダンエイジ的な感覚、
合目的的だし、
ルール、法律とかルールみたいなものによって縛られているっていうようなやり方。
中性っていうのはそれよりもうちょっと力とか権力とか、
ポリティクスみたいなものが幅を利かす社会。
組織っていうよりはもう少しコミュニティ的な集団みたいなものが威力を持っている人たち。
保険的とも言っていいの?
保険的とも言っていいと思います。
会社によっては機能体みたいな組織みたいなのが成り立っていなくて、
社長のカリスマによってさらに武士団みたいな感じで、
本部長と社長の個人的な中隊とか、本部長と専務の個人的な中隊によってあって、
専務とまたその下の個人的な中隊によって形作っているみたいなことっていうのはまあまああると思うんですけれども、
それってちょっと中性的な集団の作り方だと思うんですよね。
で、それがさっきおっしゃってたような実存的なやり方からこの構造的なやり方になってくるっていう話。
その後っていうのはどういうことか?
ポストモダン的な現代的なそのものっていうのを僕が今どう考えているかっていうと、
その中性の力、権力、ポリティクスとか暴力ですよね。
と近代の法、ルールっていうものに対応するのが、おそらくそのポストモダンでは徳に対応するんだろうなと思って。
徳は徳を積むの徳?それとも損徳の徳?
徳を積むの徳ですね。
で、確かになんで孔子とかがその徳の話をするんだろうと、
なんでブッダとかは苦徳の話をするんだろうってよく分からなかったんだけれどもずっと。
36:01
でも、自由な意思を持った主体っていうものがそれでも公共性を保とうとすると、徳を持つしかねえんだなって思ったんですよ。
もうなんかね、いきなり日に近づいたよそれ。
もうかなりそれ、かなりそれなんですよ。
ちょっともっとさ、そこを具体性を帯びさせていこうよ。
でも本当それだと思ってて。
だから会社組織の中で自立分散ということと売上の維持っていうものを両立させようと思うと、
その両立する感覚っていうのを個人個人のメンバーが持たざるを得ないんですよね。
で、それを持ったメンバーっていうのは徳がある振る舞いができるはずなんですよ。
あなたの主体性も維持するんだけれども、我々は売上も大事だよねっていう話をすべてのメンバーとできるようになるわけで、
そうするとその点においてどんなに政治的なものとか過去の意向とかがあっても、
その徳のポイントでアラインできるはずなんですよね。
例えばだけど、個人で自立できた人がチームにおいて徳を積むっていうことが、
要はウィンウィンになってきたって話だと思うんだけど、
それの例でいくと、かつては本当に成功した人っていう例がわかりやすくて、
その人って本当に成功してしまったからこそ、彼らの行動原理の中に寄付をするとか、
そういう徳の積み方っていうことはしょうがなくやってるんじゃなくて、
彼らにとっても良きこととして寄付という形の福祉活動をやることになっちゃうんですか。
ああいうものが民主化されてきてるんじゃないかなと思っていて、
なぜなら全体的な生活、マズロー的な意味でいくと、
生命の危機みたいなものっていうのの起きにくさっていう意味でいったら、
ずいぶんボトムアップしたからこそ、
人がそういう貴族のような個人にそれぞれになってきていて、
個人はそれぞれ尊き民として何かのプロジェクトに関わる。
そこでの自分に対する損得、損得っていう意味での得って、
結局今の得を積むの方の得になる。
僕よく言う言い方だと、マーケティング的な思考からブランディング的な思考に
人ってならざらを得なくなった時って得を積むんですよ。
だから今個人がマーケティングをやってた時代がモダンだとしたら、
ポストモダンはブランディングをしていく時代になった。
だから得を積むっていうことが正しいんじゃないかっていうところに
品のキーワードがあるんじゃないかな。
そうなんですよ。
だから新自由主義的な倫理によって自己利益を追求してる人って
品がないから、得がない、公共の感覚がないので、
支持されなくなっていくんだろうなと。
そういう人と働きたい人もいなくなっていくし、
そういう人の作った製品を買いたい人もいなくなっていくし、
39:05
何て言うかな、見捨てられていくんじゃないかなと思ってて。
そこがその力学が圧倒的に強くなったら、
僕らの望んでるような空気になるんだろうけど、
今はまだ個人的利益みたいなものの方が効力を発揮するから、
僕らの声っていうのはまだまだ綺麗ごとに聞こえるかもしれないんだけど、
空気や実感としては多分僕ら側のお話って分かるようになってきてるんだと思うんだよね。
なってきてると思いますね。
まだマーケットとしての力が弱いからだと思うんですけど、
でもこのマーケットって確実に存在してると思うんですよ、既に。
最近、コテンラジオの樋口さんがやってる
いい金パレットって福岡の施設があってクラウドファンディングしてるんですけど、
目標金額はじめ500万円だったのかな?
500万円が10時間くらいで集まったんですよ。
ヤベーことだなと思っていて、
僕、いい金パレットの存在ってめっちゃすごいと思っているし、
その500万円のお金を払った人がどれくらいすごいと思っているかよく分からないけれども、
それってやっぱり樋口さん内緒は今の社長の青柳孝也さんいらっしゃるんですけど、
樋口さんや青柳さんの僕の力だなと思ってて。
そうだよね。
で、それって今1200万か300万円くらい集めてるんですけど、
それってまだちっちゃいマーケットだけど確実に金が動いてると思うんですよ。
で、マネーが動けばそれが現実になっていくので、
これが続けば続くほど、今僕たちが言ってるような世界って現実化していくと思うんですよね。
だから、ここ30年くらいの言葉遣いで言うと、
お金よりも時間の方が価値を持つようになった。
資本価値を持つようになったって言われた後、
その後岡田斗司夫さんが言う言い方だと評価経済の社会が来た。
評価経済っていうところに今言った得みたいなものが紐づいてくるのかなと思ってて、
だからお金、時間、得みたいな順番で、
個人が持てる資本のものって変わってきてるような気がする。
全部が、すべて両方持つ、3つとも持つんですけれども、
どれが一番監禁可能性が高いかっていうと、
やっぱ得になってくるんだろうなってことはだんだんみんなわかっていて、
だからお金や時間っていうものをゲットするために悪セク動くよりも、
得を貯めていくような動きの方が、
結局将来価値っていうものが何となくこう、
担保だったり安全みたいに見えるよね普通っていう。
42:03
ところがさっき言った格好悪いか格好いいかみたいな、
すごく曖昧な概念のとこにも侵食してきていて、
だからさっきキリスト教的な価値観のところとかニーチェを引用すると、
弱いものが正義で強いものを叩くっていうストーリーが、
こんだけみんな当たり前になった中でいくと、
金を稼いでる奴は悪だとかダサいとかって言ったのって、
なんかあれも今の得の話からすると、
もう関係ないストーリーになってるはず。
だけど未だにそういう完全懲悪や強いものを叩く、
政治家総理大臣っていうのはうさんくさい奴だ、
みたいな感情を無自覚に持つみたいなものの、
何となくのダサさって、
もうそういうルール自体が執行されていて、
得の視点から見ていくと、
どっちにも両方痛いとか、
僕らの仲間側にも悪がいたりとかっていう、
そういう目を持つことができるんだよ、みたいな。
おっしゃる通りですね。
感じかなと思ってて。
でもポストモダン、
さっきのニーチェから続く実存主義、構造主義、
今はポスト構造主義から以降、
まだクリティカルなものがないんだとした場合、
今ってそういうフェーズで言うと、
ポストモダンがまだ引きずってるって捉えるんですか?
室さんのような。
僕は、
ポストモダンが到来したというより、
やっぱモダンの社会が存続しているだろうな、
って言っている人たちの方を支持していて、
もっと言うと、
今の社会っていうのは、
モダンの世界からポストモダンに移行するのではなく、
むしろミドルエイジ的なものに戻ろうとしている世界だなと思っている。
法の秩序よりパワーが支配する世界っていうのに戻ろうとしており、
法の支配って不完全だから、
批判したくなる気持ちはすごく分かる。
それはそうなんだけれども、
法の支配を批判して、
なぜ力の世界へ戻ろうとするのかって、
それ一回失敗したというか、
一回大変だったから法の支配になったわけで、
なぜ戻ろうとするのかよく分からないけど、
それを支持している人が増えているなと思っていますね。
だからそこが構造主義の頃で、
いわゆる高度っていうものだったり、
それこそボードリアルとかの言い方で言うと、
全部が消費っていうもので作られてるんだよみたいなものまで分かったのだとしても、
じゃあ結局それが分かったところでっていうところで、
でも時代や力学っていうのは大きく、
有無を言わさず、
45:00
なんかぶん回してくるから、
だから構造じゃ弱いよねって、
また中線に戻るみたいなのを感じてる。
感じてますね。
でも結果的に力、力学的に言ったら特に中性的なというか、
資本主義における法権的な構造っていうのは、
もう世界を覆う力学としてはできてしまってはいるよね。
それをどう認識するのかっていうところがまだ決まってないだけであって、
現象としてはもうそうなってるなと思っていて、
だから僕らの認知っていうものは、
現象はどうであれ、現象はもう中性のような力、
みたいなものによって作られてたとしても、
それを見る眼差しや自分の認知っていうものは、
全然かつてのような捉えられ方しなくていいんじゃないかなっていうのが僕の考え。
なるほどな。
世界はもう力によって動いてるんだけども、
個々人が今の世界をどう見るのかっていうのは、
かつてほど脆弱じゃなくて、
個人がそれをどう見るのかの自由はそれぞれ生まれてると思ってるし、
そのテクノロジーを持ってると思うんだよね。
だから僕ら矢室さんのように何かに所属しなくても、
霞を食ってるような状態だとしても、
僕らの心の誇りや、僕らが実際行動を取れるものっていうのは、
結構昔の貴族がやったような徳を積むようなことを実行力としてできる。
だからインカネパレットっていうのは、
徳を積んだ人の行動が500万円を集められたりするっていうことだと思うんだよ。
かつての中性の頃って、その一人の人間が500万円を集めるような行動って、
おそらく徳の力だけだとできなかったはずなんですよっていう、
なんかそういう感じ?
なるほどな。
500万とイーロンマスクの数百兆みたいなものを比べたら、
さっきの中性的なスコープで行くと、
もう本当話にならない、何かなのかもしれないんだけど、
個々人のその500万パワーの徳みたいなものって、
結構集合体としての力って200兆を超えるんじゃない?
そうですね。
観測の仕方の話じゃないっていう感じなんだよね。
おっしゃる通りだと思います。
まずはじめに、もうすでに力の時代になっていて、
それをどう捉えるかっていう話はまさにそうだなと思っていて、
僕もう本当、正直言うと今年まで自分のことをリベラルだとか、
人前で言ったことなかったんですよ。
なぜ言わなきゃいけないと思ったかっていうと、
力の時代になってるからですよね。
そうなんだ。
はい。
なんていうのかな、
誰かが言わないと理念すらなくなってしまう時代になりつつあるなと思っていて、
確かに僕の言ってることも後外れ、
サハの言ってることも後外れかもしれないけど、
言う人がいなくなれば、
明日共に力の世界になるだろうなと思って言ってるっていう感じなんですよね。
48:02
現実がそうじゃないことなんか重々承知なんだけれども、
これを言うことが社会を現実的にどういう風に変えるかっていうのに
実効力がないのは重々承知なんだけれども、
でも言っとかねえとなみたいなのがあるっていう。
だから思想体系や自分の心、
社会と個人のあり方みたいなものを何を信じてますよっていう表明がリベラルっていう話であって、
今の政治闘争における自分のポジションの話とは必ずしも言えないってことですよね。
そうですね、必ずしも一致してないと思います。
その後半に出てきた、じゃあこの力の時代をどう見るかっていうことそのものに
現実を変革する力があるっていうのはまさにオシャレだなと思ってて、
イーロンマスクの20兆円、確かにめっちゃパワフルなんだけれども、
これも突き詰めて言えば、マネーの力ってどこから来るかっていうと
我々の信心から来てるに過ぎないので、
我々が彼の20兆円に力がないと思えば力はないわけですよね。
現実的に言えばマネーにはもっといろんな社会システムを実際に動かす力があるので、
そう簡単にはいかないんだけれども、
その抽象的なモデルで言えばまさにそういうことで、
そうすると、いかなパレットに500万円集めた力と、
イーロンマスクの20兆円持ってる力っていうのは、
我々のある種のイマジネーション、想像力の域において転倒し得るなと思っており、
それこそが人間の力なんだろうなと思っているんですよ。
前回僕、価値について考えてるっていうお話したじゃないですか。
僕、すげえ考えてて、
っていうのはビジネスの現場に来たら、
やたら価値出せ、価値出せって言われるじゃないですか。
僕、30代仲間まで人生で一回も言われたことないんですよ。
価値出せって。
使う機会がない。
アカデミア行政だと価値出す必要ないんですよ。
そうだね。
で、価値出せって何かなって思ったんですよね。
ジョゼフ・ラズっていう、
イスラエル出身のアメリカの哲学者いるんですけど、
道徳哲学とかをやってる人。
そいつは、バッチリ価値というのはどういうことかっていう本を出してるんですよ。
それで、ラズが言ってることを、
僕なりに、すっごい難解なんで、
僕誤読してると思うんですけど、
僕なりに咀嚼して言うと、
まず価値を生み出すのは愛着であるっていう話をしていて。
愛着って言葉使うんだ。
愛着っていうのは、その対象物と自分との特別な歴史があるかどうかだと。
51:03
ここで注意しないといけないのは、
愛着があるものすなわち価値があるものではないんだけど、
価値っていうのは基本的に愛着からやってくるんだっていう。
これは、例えば日本人が日本という国に愛着を持つみたいな、
社会的水準でもあり得る、個人的水準でもあり得るっていう話をしていて。
じゃあ、その愛着による価値っていうのは、
闘争を引き起こし得るわけですよね。
僕の愛着とメチクロさんの愛着っていうのが衝突した場合、利害衝突した場合、
価値を巡って争いになるわけじゃないですか。
じゃあ、それをどう考えるかっていうと、
僕たち、人間存在っていうものにどういう価値があるかってことを考えていくんだと。
人間存在には根本的には何の価値もありません。
だけれども、僕たちは価値判断をする主体であるという意味で価値があるんだと。
その価値判断する主体として価値があるので、
僕たちっていうのは基本的に価値というものを通して
総合理解が可能なんだっていう話をするんですよ。
価値っていうのは独立で存在することはなくて、
共通の認識によらないと、
普遍性を持たないと価値にはならないんだっていう話をしていて、
そうすると、僕たち自身が持っている判断者としての価値っていうのも
普遍性を通してお互いに了解可能なはずなんだ。
それを持って僕たちはお互いを尊重できるはずなんだっていう話をしていて、
それもまさに徳の話だなと思ったんですよ。
我々がお互いを尊重しなきゃいけないっていうのは、
結構、徳の概念に重要な要素だと思うんだけれども、
それをちゃんと説明している。
なぜ、尊重しないといけないかっていう。
その意味で価値はわかったんだけど、
だからといってビジネスの現場で価値を出すっていうことが
よくわからないままなんですけど。
でも、もし、徳を詰めっていう意味での価値を出せって
ビジネスの現場で言われたとしたら、
それは飲み込める可能性ありますよね。
確かに、飲み込めますね。
徳は詰めますね。
でも、相手がビジネスの人間だっていう
こっちの先入観やバイアスによって、
彼が言っている価値っていうのは、
何かの向こうのビジネスルールにおける
お金らしきもの、力らしきもの、権力らしきものっていうものを
僕に求めているのか。
もしくは、消費者に対してポルノを売って
数字を持ってこいみたいなことを
強要されているのかみたいな、
僕らが作ってしまっているストーリーで
ビジネスの人の話を聞いている可能性もあるかもしれない。
確かにな。それはそうかもしれない。
ちなみに僕の観察でいうと、
価値を出せって言っている人が何を価値と捉えているかっていうと、
相手の認知みたいなものを
ハックして、相手を感動させて
勾配行動で起こさせるっていうのを
価値と呼んでるなって。
54:00
勾配行動じゃないけど、
何らかの行動を起こさせるっていうのを
価値と呼んでるなと思っていて、
それって、ジョゼフ・ラズが言うところの
人間の価値っていうもの、
結構鋭く対立してるなって思ってるんですよね。
本当そう思いますよ。
そういう気がすごくしていて、
僕もエンタメとかアートとかに
すごく関わるビジネスをしているので、
ストーリーを持って人を感動させて、
思考を奪って感動させて
勾配行動に移すみたいな現場を山ほど見るし、
僕もその一端を担えって言われることがすごく多かったので、
そこで僕はそれを選ぶか選ばないかの
ジャッジってすごい頻度あったわけです。
でもやっぱり僕は、
今のような言葉の認知ではなかったんだけれども、
それはやらないと、
あとそういうことを僕に教養してくる人とは
手を組まないみたいなことによって
避け続けていて、
結果、前回前々回言ってたような、
僕は文化に準拠する人間なので、
民衆にポルノを配って、
自分たちに力や金や権力っていうものを
誘導する動きには加担しませんよっていうことを
結果的にやってたんです。
今の段になると、
対立軸を作って話すんじゃなくて、
さっきの前提の話のような、
そういう世界だけれども、
もしかしたら見るスコープというか
レンズを変えることによって、
何が間違ってる、何が合ってる、
何が強い弱いなんじゃなくて、
僕がそう見えるっていうものをはっきり
得たほうが、
結果、世界っていうのは僕によって
作られてるわけだから。
それを、
僕も早めにしっかり認知して、
僕がそれを伝えることによって、
それぞれ僕と出会った人たちが
同じようなそれぞれの認知をできる活動を
したいなと思ったのが、
それこそポストモダン以降の
哲学みたいな気がすごいしてる。
で、ポッドキャストな気がしてる。
わかる?
ポッドキャストで、
みんなのいろいろな考えとか
生活とかを聞いてるわけ。
なるほどね。
何か偉い人が、
大冗談から語ったものを
全員で信仰するみたいな、
かつてのようなネットワークじゃなくて、
市政の人々の勝手に
自立分散的に話してたことの
共通項みたいなものっていうのが、
今、仮にだけど、
得、得みたいなものの哲学。
何度としたら、それがポストモダン以降の
何かみんながちゃんとアグリーできた
21世紀の哲学な気がするみたいな。
そのプラットフォームとして
ポッドキャストがすげー合ってる気がする。
57:01
確かになー。
それはそうかも。
ハックしにくいっすもんね、ポッドキャストで。
ハック難しいし、
あと、ムロさんみたいな人や
僕みたいな人を、
さっきの中性的な力学や力を持って、
僕らの信仰してる何かを
変えようっていうのは難しいんですよ。
改修、宗教を変えろっていう動きは、
この個々人が分散してる状況って
多分難しいと思うんですよね。
でも、前の言い方だと
レンズによって映し出した
投射された画面によって
動かすメディア、それは動画の時代から
今はネットの時代、YouTubeの時代になってるんだけど
そこにおけるプロポアガンダって
結構人を投水状態に導きやすいし
ハックしやすいんですよ。
でもやっぱりポッドキャストって
そのレンズを通した写像っていうものがないので
技術的にもうハックしづらい。
しかもさらに分散している。
個々人の力っていうものが見えにくい。
だからやっぱりここって意外と今言ったような
こういう曖昧な概念みたいな哲学って
どこまで醸成されるのかは断言できないけれども
そこを潰すっていう行動が難しい。
鍋ツネがコラって言っても
僕らのこの発言っていうのは
褒められないし
SpotifyのダニエルFが
お前らバンするぞって言ったとこで
僕らのこの行動原理っていうのは
変えられないんですよ。
プラットフォーム他にいっぱいあるしね。
あれせっさえあれば誰でも飛んでいっちゃいますからね。
でもさっき言った写像を元にした画面によって
やるプロポアガンダって
YouTubeって今バンすると
彼らはなんつーのかな
スポイルできちゃうっていうか
ポッドキャストってそういうところのレジリエンスが
異常に高いんですよね。
面白いっすね。
面白いっすねそれ。
変なメディアですね。
だからあのね
今のさっきの中性的なものと大きく違うのと
あとその後室野さんが語った会社の構造の話に
もし近いんだとすると
連帯しなくていいんですよ。
この僕らの言論空間って
イコールそれって何かって言うと
スケールしなくていいんですよ。
連帯とスケールっていうものから
開放されてる僕らのような人間って
特のようなものの原理主義のお話や行動を取りやすいはずなんですよ。
なんかそういう感じ。
なるほどね。
なるほどな。
あー面白いな。
面白いな。
だから中性的な世界とか近代的な世界っていうのは
1:00:02
集団の構成員がある種の一致を見る必要があったと思うんですよね。
でもポストモダンの世界においては
それが必要ないっていう話で
ポッドキャストはそれにすごいフィットしてるっていう話だなと思うし
でも他方を別に完全一致してなくても
合意可能な範囲で共同のプロジェクトが可能ということでもあると思うんですよ。
100連帯しなくてもいいんだけど
10連帯したい人がいれば10連帯できるし
50連帯したい人がいれば50連帯できるみたいな
それこそ僕も参加してる樋口塾もそうだし
ポッドキャストウィークエンドとかもそうだと思うんですよね。
アラインできるところでアラインするみたいな。
そうなんだよな。
本来自立分散組織とかもそういう感じなんだろうなってすごい思うんですよね。
さっきの僕のエンタメの話でいくと
人を感動させたり倒水させたりして
一つの一致した行動を取らせる時の
かつての人たちが全員やってた手段ってやっぱストーリーなんですよ。
ストーリーを用いて感動させたり
そのストーリーを軸にして連帯させたりして
大きな力に導いて
人をそこに疑いもなく参加させるっていうことをやったんですけど
今僕らの言ってるこのポッドキャストの世界って
ストーリーを軸に動いてないんですよ。
何かのストーリーに駆動された人間たちじゃないんですよ。
怖い。
ストーリーがない中
自立分散的に何か集まっちゃってる群れであって
だからストーリーがない怖さももしかしたらあるのかもしれないんだけど
少なくても僕らっていうのは
ストーリーによって結束して連帯して突き動かされてないので
だから分散的にある一瞬のシーンだよね。
ある一瞬のシーンとして
いいかねパレットのああいう活動みたいなものの
盛り上がりを生み出されたりしたんだけど
別にいいかねパレットのあの現象や
ラジオの成功や
ポッドキャストウィークエンドのわちゃわちゃっていうのは
ストーリーで全く繋がってないんですよ。
だからそういうことっていう。
なるほどね。
うわ。
過去の事例を遡っても
何か人が共通の動きを見せてる中に
ストーリーを用いずにそこに集まったような現象って
あんまり僕類を知らないんだよね。
ないですね。
ないですね。
ストーリーを必ずキーにしてますね。
それ多分我々の脳に最もフレンドリーなやり方なんだと思うんですけど。
だって人間って恋愛においても勝手にストーリーを作り上げていくじゃないですか。
現象っていうのは突発的に起きたものの繋ぎ合わせなんだけど
人っていうのは別れっていうのが見えた瞬間に
その別れのストーリーを個々人勝手に作るじゃないですか。
お互い一緒に生きた二人だとしても
1:03:01
別れた二人が語るストーリーって
めちゃくちゃバラバラなことを言うじゃないですか。
そのくらい人間ってストーリーによって駆動する。
なるほどな。
価値があるって思いたいものほど
ストーリーってものをくっつけるんですか。
そうですよね。愛着って歴史の物語だから。
ストーリーの物語っていうわけですもんね。
なるほどね。
愛着を自分で認知し続けるためには
ストーリーっていう置き換えをしなければいけないっていう意味でいくと
価値の話にも繋げられる。
おっしゃる通りだな。
ってことはポッドキャストって価値がないのかもしれない。
その言語で言うと。
交換不可能なものしかない。
監禁不可能だし、交換不可能だし、連帯不可能だし
スケール不納でよって監視されないみたいな。
面白いな。
ごめん。得っていうものにもう一回フォーカスし直すと
得を語ったり感じることにおいて
ストーリーみたいなものって重要なんですかね?
得って。
僕、授学の理解が本当に素人なんで
あんまり正確には言えないんですけど
友達がすごいおもろいこと言ってたなと思ってて
得っていうのが何かっていうことは説明されてないんだと。
で、孔子はこういう時得やでって
こうやったら得やでみたいな話はしてるんだけど
得とは何かって聞かれた時に
得とはこういうもんですって全然説明してないんだと。
つまり得っていうのは空虚な概念なんだっていう話をしていて
ただ得っていうものを信頼する社会集団があると。
そうすると社会集団の中では
あいつ得あるよねっていう話になってくると
そうすると空虚な得っていうものの内実っていうのを
社会集団の信頼関係の中で埋めることが可能なんだと。
そうすることで得を持つ人間っていうのを駆動することが
可能になるんじゃないかっていう話をしてる友人がいて
確かにそれはその通りだなって思ったんです。
器ともイコールかもね。
あいつは器がでかいとか得があるっていうものって
得を器として見立てれば器さえでかければ
中に埋めるのはそこで構成して
酸化する人たちによって内実っていうのは埋められる。
だから器の中に水を張るにもお酒を張るにも
お米を埋めるのもそれは構成員によって可能。
可能なんだけれどもそれはその器に入ってくる人たち
内実を埋める人たち、内実を埋める社会集団の中で
なんとなくの合意みたいなのがあって
そこから反したことをやると
そこからはじかれる。
あなたは得意のない人間ですっていうことになっていく
1:06:02
ということですよね。
だからみんなが米で埋めようとしているときに
一人だけ水入れようとしている人がやっていたら
お前どうないなとねってなるっていう話。
だからそのぐらい得っていうものは曖昧で
そこを共通認知、全員ができた瞬間っていうのは
むしろ奇跡のような瞬間。
全員がそれをたらいだと思っていて
そこには米を埋めるんだっていうことを
そこの事象やルール、さっき言ったコード、ルールや
力が発生していないのに
そこは米をみんなで埋めるんだって思い込めるっていう
幻想の一致みたいなことが生まれたときっていうのは
本当に美しく形作られた得なのかもしれないと
今聞こえた。
確かに厳密には幻想なんだと思うんですけど
近代性とか暴力性のような幻想では多分なくて
僕はやっぱ公共性に対するイマジネーションだと思うんですよ。
どうなったら我々が最も良いのかという
タイプのイニシアチブに絶対になるだろうなと思ってて
それはあんまり共同幻想的なものではないはず
かなり具体的で現実的なことになっていくだろうなって思うんですよ。
だから儒教がかなり具体的な社会行動で
やらなきゃいけないことが決まっているっていうことは
その結果なんだと思うんですよね。
親に高校しなきゃいけないとか
男女の別がありますよね、徴用の条がありますよねみたいな
めっちゃ具体的な話しかしてないのは
公共性を維持するっていうのは
具体的な話に乗らざるを得ないからだと思うんですよね。
そっか、徳っていうものを考えたら
必然的に公共性っていうものがくっつく
それは人為的なものじゃないっていう印象も今受けた。
公共性を持とうぜっていうのを誰かが信じたんじゃなくて
徳っていうものを中心に人が集まってきたら
勝手に公共性みたいなものっていうのは
そういうことだと思います。
もっと言うと誰かと何かをする時に
自分の話だけをしてたら絶対にうまくいかないから
俺とお前でやった時にどうやったらうまくいくんだっていう話をする人しか
プロジェクトできないっていうのと同じだと思うんですよ。
ちなみにそれってさっき中世と近代っていうのを
二軸で話した上での今の話だとした場合
中世よりもっと過去に遡ると
そういう空間ってあったとされるんですか?
例えば修了祭司時代っていうのはそういうものだったとか
多くの人類学者や考古学者が
あったような言い方をしてたんだけど
1:09:00
最近出たデビッド・グレーバーの万物の霊名っていう本で
いやないでしょっていう
そうなったんだ。修了祭司っぽいようなさ
レビィストロースぐらいのところからまた
修了祭司っぽいの言ったら今の話につなげられると思ったら
ないという話もある
ないという話なんだけれども
でも共通しているのは
なんていうのかな
レビィストロースの弟子にクラストルっていう人がいて
クラストルは社会は国家を持たないように
勤めてきたっていう本を出してるんですよね
知らないそれ
これは非常に面白くて
僕たちの一般的な感覚から言うと
人間っていうのはほっとくと国家を持つと
国家を持たない奴らっていうのは
何らか劣った部分があるから
国持てないんだと生産性が低いとか
だから修了祭司の生産性が低いか国家持てないと思ってたんだけれども
よくよく調べてみるとそうではなくて
修了祭司っていうのは
国家みたいな権力構造みたいなのを社会の中に生み出さないように
めっちゃたくさんのタブーとか義礼とかを持っていて
社会の中の上下関係っていうのが生み出されないように
ものすごく気を配っている人々なんだと
だからその気の配り方に失敗した人たちが
ここを持てるんだっていう見方なんですよね
それは本当レビィストロースにかなり近いというか
その系譜にある論ですよね
そうですおっしゃる通りです
だから何を言おうとしたのか
だからその白紗衆議の人たちっていうのも
そういう厳密な平等社会みたいなのもないし
厳密な得による社会みたいなのもないんだけれども
法権的な力が支配する
法権的な中性的な社会に比べると
かなり先進的な
その社会原理みたいなのを持っている人たちなんだ
っていうことが言えるかなと思います
だからさ
さっきのポッドキャストはスケールしないの話とも繋がるんだけど
ポッドキャスターって
スケールしないことをさっきの白紗衆議のように選んでるんだと思うんだよね
国家的になることを絶妙に避けながら
この自分のこの空間
言論空間というものを守ろうとする動きが
意識せずとも
してもしなくても
行動原理がそうなっているような気がするんですよ
ポッドキャストはマスメディアにならぬよう努めてきたってことですか
レビストロースの話ですよ
なるほど
それがさっきの
イーロン・マスク的な強大な力学みたいなものに対して
対抗すべきものなのかっていう話なんじゃなくて
並行してそういう世界が存在し得るっていう話
1:12:03
確かにね
全然共存できてるみたい
それも意外と相互に価値というか感覚を
交換可能な気がしていて
ある時イーロン・マスク的な発想をしている人が
本当に自分に欲しいと思った言葉を
引きたい時に
彼らが作ったメディアの側にあるんじゃなくて
こっち側で暮らしていた
レビストロースが野生の思考の時に
野生の中からそれを導き出したように
イーロン・マスクのような生き方をしている人たちが
本当に自分の本質を知りたくなった時に
知りたくなって訪ねてくる場所っていうのが
僕らのようなこういう言論空間で
それがサルトルとかのような
一大ムーブメントを起こして
ルフされたような
ああいうトップダウン的な哲学なんじゃなくて
全然こう
一瞬たりともそこが引用されたこともなかった
非生の人々のこういう言葉っていうのが
すごく強大な力を持った人が
突然それを欲しくなって
引用したりすることは
テクノロジー上可能になっているし
思想上もそれが自然なんじゃないかなと思ってて
なるほどな
分散された地の巨人っていうか
相対としての
だからそれこそ本当に
インターネットの時に
みんなが夢見た集合地って
こういうことな気がしていて
確かにな
中央集権化されない地のありようみたいな
のがポッドキャストにはあるってことですよね
それはSFのような形で描いていた
すごくビジュアルだったりビジョナリーな何かっていう
ストーリーにも導いた説得力じゃなくて
音声としてアミメのように
可視化されない何かっていうものが
地の体系としてできている
それは誰も吊るまずにやってるみたい
面白いな
面白い
手紙の次この話よ
ポッドキャストは手紙の後に
こういう感じ
分かるかな
分かります
分かります
ポッドキャストっていうのが
相対としてある種の生態系のようなものだ
っていう話だなと思っていて
つまり僕たちの多くっていうのは
ダウィンを誤解していて
進化論っていうのをストーリーのように
僕たちはこのようになりたいから
生き延びたいからこうなったんだ
っていうストーリーを受け入れているんだけれども
進化論っていうのはそうじゃないんだと
このような環境に適応したこういう
結果としてこうなりました
結果論でしか話せないという話だなと
1:15:01
僕は理解してるんですけど
ポッドキャストもまさにそうだという
いろんなものが生み出され死んでいき
大きくなったり小さくなったり大きくなったり
小さくなったりして食い壊れしていく中で
この相対としての生態系っていうのが
知のオルタナティブとしてそこに存在し続けているよね
っていう話だなと思っていて
それはすごい面白い見立てだなって思いましたね
それこそデリーダ的な言い方するとさ
パロールとエクリチュールっていうのは
話し言葉と書き言葉みたいなところで
彼らの時代に言わんとしてたことって
なんかこんな気がしていて
ネットワーク的な空中に浮遊するような
思考や言葉っていうものがもし残るとしたら
やっぱり音声みたいな形でしかありえないんじゃないかなと
それは誰が言ったっていうことの真実や
説得力の話なんじゃなくて
集合地としての現れってきっと
テキストベースのインターネットみたいなものなんじゃなくて
言葉によって浮遊してる何か
確かに
それが最も今の古典コンピューター的な
言語コードによるAIとかみたいなのを含めて
そういうネットワークじゃなくて
音声ってテキスト上コードに置き換えられない
法準な何かみたいなものがあるので
それもネットに漂わせることができるっていうのが
音声な気がしてるみたいな
多分デリタとかが言ってたパロールとかとはちょっと違うんだけど
なるほどな
そういうイメージ
確かに
おまけにインターネットに入っていることによって
無時間的であるっていうのも気になると思っていて
それが2006年に収録された音声でも
2018年に収録された音声でも
同じタイミングに聞きうるというか
そこに引用関係があったりなかったりして
ある人が言って別の人が言ってみたいな関係があるっていうのは
すごく面白い宇宙を構成している
そうだから論文的な時系列の引用みたいな
ああいう系譜じゃなくて
音声によるインフルエンスって
感染して他者が読み人知らずの形で
他者の思考によってまた翻訳されてみたいな
その飴ばせっていうか
それを見てるんだよね俺は
うわー
うわー
変なもの見てますね
でも
メチクロさん以外にそれを見てる人
1:18:01
わからないけど
だからこの話をこういう話でできる人って
俺知らないので室さんに話したくて
岸正彦呼びましょう
いやいや違うんだよ
愛情ってあるじゃん
いやでもさなんか
今の時代をどう見るのかっていうことによって
生きづらさみたいなものも生じてるし
社会的な改装みたいなものもストーリーとして作られちゃってるし
お金っていうバリューの数値によって
人は自分っていうものの存在っていうものを
勝手に規定してしまうっていう
今本当に現実として起きてるって認知してしまってる
あらゆるものっていうのは
気のせいなんだよ
だから僕の認知
僕の心持ちっていうのはこうやって作るんだよっていうのって
やっぱり別回路として持てなきゃいけないはずで
だからその運動をやりたい
なるほどな
なるほどな
だから実存の話をされてるんですね
おのれの実存以外に書けるものがないっていう話をしてる
決してサルトルとかニーチェンの言葉を引用して
僕の今のアップデートされた言論を聞いてほしいっていう引用じゃないんです
今のこの話をしたくって
一回可視化されたというか
傾向として起きやすい定義として
やっぱそこを置きたいっていう
なるほどな
このベースがあって品の話をしたいっていう感じ
難しい?
ややこしいね
品の話はどう展開するんですか?
品の話は今の
それこそ僕が
僕が社会にとって何であるのかとか
僕は何であるのかっていう
大前提っていうものを
握った人たちが
行う品格っていうものと
すごくさっきの言い方で
社会規範的によって作られた品っていうものっていうのは
同じ品格っていうワードなんだけど
やっぱ違うんだよねっていう
だから僕が
僕の価値観としての品格の話をしたい時っていうのは
今までの論調からすると異なるんだけど
ある線を引かないと
僕の今話したい品の話ってできない
なるほどな
そういうことか
確かに僕がイメージしてた品とはちょっと違うなと思ってて
僕がイメージしてるのはやっぱ繰り返しになるんですけど
その公共性に自らを投げ出しているかどうか
で測ってるっていう感じなんですよね
それはかなりいろんな事例を持っても
そこを当てはめられる
例えば男女の性愛における言動においての品とかっていうのを
1:21:03
言う時も
その今言った公共性を向いてるかみたいなものって
活用可能な
活用可能だと思いますね
さっきの規範を内面化している人たち
も品がある時とない時があるなと思っていて
それもやっぱり公共性に準じているかどうかで判別可能だな
なるほど
分かった
いわゆるさ
ネットで検索して品格とはとかって聞くと多分出てくるであろう
品のある人の特徴みたいなのが多分あるとした場合
それの多くは道徳的である行動のことを言ってるような気がしていて
それって品なのって話をしたくて
今そういう話をしたかったんだけど
でもそこは公共性に向いているのかっていう話をしたら
公共性に向いたが故に道徳的な振る舞いをしてる可能性もあるし
道徳的な振る舞いをしてるんだけども
公共性に向いてないから
そこは品があるように見えないしっていう言い方でいくと
確かにそこの定義って使えるね
なあと思ってて
例えば
同じこと
茶道のマナーがあって
その茶道のマナーに
乗っ取ってる人と乗っ取ってない人がいて
その乗っ取ってない人に対して乗っ取ってないよっていうメッセージを出すときに
品があるやり方とないやり方があると思っていて
僕が品があるやり方っていうのは
茶道というものを今ここにあらしめる
コミュニティだったり歴史的空間みたいのがあると思っていて
それの存続というものに対して
あなたが行っているものがどういう意味合いを持つのかっていう
メッセージを発せられるっていうのは品がある振る舞いなんですよ僕にとって
でもそうではなくて
私は師範であり偉くて
あなたは未熟者であるのだから
あなたには品がない
あなたのやり方間違ってるっていう言い方は
それはあなたのポジションを巡る
詩的な私の闘争なので
それはやっぱり品がないって感じなんですよね
なるほど
あーもう納得ですね
一方僕が話したかった事例で言うと
道徳って非常にストーリーに乗っ取った振る舞いだと思ってるので
僕はさっきまで表明している通り
やっぱりアウトライヤーというか外れた側の人間なので
そのストーリーの登場人物じゃないことが多い
その一連のストーリーじゃないところから脇道からいきなり入る
1:24:00
僕のような舞台者が
どうやってそのストーリーにおける品格を振る舞うのか
そういうことを言いたい時
その説明をしたくてこの話を始めたんだけど
その時どうしても悪を引き受けている存在かみたいな話で
どうしても出てきちゃうんだよね
前回僕の言い方で言う
与えられたものでただ動くロボットのような存在
みたいな言い方したんだけど
集団において無自覚な振る舞いを
型通りにしている存在っておそらく品のある行動を取れない気がする
そうですね
その自主性みたいなものって結構重要だったりする?
しますね
それは道黒さんが実存が第一だって言っていることと
まさに同じことだと思うんだけれども
なんていうかな
実存をかけていない限り
その人の言っていることややっていることっていうのが
社会的な意味を帯びることがないと思っているんですよ
残酷だよね
どうなんだろうね
ニイチェくらい残酷な思想に僕らは言っているような気がするっていうか
そうかな
どうなんだろうねこれ
これをねニイチェの言い方だと
めっちゃ大変なことを言っているように感じると思うんですけど
でも僕の考えではそんなに誤対性な話じゃないと思うんですよ
そうだね
今日何を食いたいみたいなのを
自分の存在をかけて言えるかどうかみたいな話だと思うんですよね
そうそうだから本当にニイチェの言っていることと全く一緒なんだけど
僕らはなんかそういう感じなんだけど
そんなに誤対性な話じゃない
お前の命を懸けて社会を変革してくれみたいな話をしているわけじゃなくて
あなたが今日着たい服を着るとか
今日食べたいものを食べるとか
今日寝たい時間に寝るみたいなのっていうのは
あなたの意思においてやる権利があるっていう話をしていて
でもさそれが規範が内面化されていることに気づいていない人からすると
その言葉ってものすごく強い大層なことに聞こえちゃうんじゃないかなっていう危惧なんだよね
そうなんですかねそうなのかな
さっきのその自由の苦しさみたいなのとイコールだと思うんだけども
あなたが今日食べるものはあなたが決めてくださいって言ってるだけの話なんですよ
って言ってるこの言葉すらが
その自由を行使するための責任っていう重さに耐えられないっていう人もいるっていう
責任かその自由を行使できない社会的状況にある人はイメージできるんですよ
家事とか果汁労働とか
だから僕がリベラルでなきゃいけないって思ってるのは
1:27:01
そういったものに制限されるべきではないって思ってるからなんですよね
その日食いたいもんぐらい選ばしたれやっていう
それは生活保護でもなんでもやって選ばしたればええやないかっていう
それが人間として生きるってことでしょって僕は思ってるから
そういう立ち位置を取ってるんですけど
自分が選ぶ能力があるのに選ぶ社会的自由
社会的なスペースが存在するのに
それでも苦しいっていう人がいるっていう話
でもさっきの100年前の話を引用すると
それこそサルトルとかエリフフロムが言ってた
その自由からの闘争みたいな
ああいう概念って未だ解決されてない気がしていて
だからよりあなたは自由ですよって言われることが苦しい人が
より量産し続けられてるような気もするっていうか
そうなのか
そういう時世においては今の僕らのような
すごく足元を見たよ
こういう言葉すら
すごく重たくって
そういうことをケッって思われるような言葉に響くような気もするっていうかね
そうなのか
あんまり僕の中でそのリアリティがないかもしれない
そうか
自流としてというか
人間が生きてる出会う人たちも含めて
そういうものが望まれてるような気がしてるっていう
機運としてそう感じてるって感じなのか
そうですね
というか僕は基本的に人間にはその能力があると思っていて
それができないのは
それができないようにしている社会的システムがあると思っているから
そのシステムの方は改善しなきゃいけないよねと
貧困があるなら改善しなきゃいけないし
例えば自由が恐ろしいっていうのは
自分の行為っていうのが社会的にどのように身づけられるかっていうことが恐ろしいってことだと思うんですよ
自由そのものが恐ろしいわけじゃなくて
それが何らかのメッセージになることが恐ろしいんだと思うんですよね
僕その丸の内とか虎の門とかのお客さんのオフィスに
あのガラガラのアロハで言ってるんですけど
それができない人はそれが引き起こす事態が恐ろしいわけだと思うんですよ
なんかその丸の内の凄い商社に
友達がいて会いに行った時に
僕その時髪が長くて髪をこう結んで
髭も凄い長くて顔みたいな髭で
でガラッガラのアロハ来て造理で行ったんですけど
その喫煙所でタバコ吸ってる社員の人がみんなこうやって喉を引き込んでて
あの凄い居心地が悪かったんですけど
その居心地の悪さをこうなんて言うかな
嫌だっていう話だと思ってて
でもなんか
それってささっきの話に無理矢理くっつけるんだけど
社会規範っていう妄想のストーリーがあるじゃない
そこの一員としてそういう登場人物で登場するのは
耐えられないみたいな気持ちだったりするのかな
1:30:00
耐えられないって事だと思うんですけど
大丈夫あなたの体は耐えられるっていう話だよね
だからやっぱりさっきから全部繋がるんだけど
勝手なストーリーに自分を紐付けなければ
自由なんて大した重荷じゃないんだよっていう話なんだと思うんだよね
なんかねストーリーに囚われすぎな気がすごいしてて
なぜなら今の消費活動や与えられるものや自分たちの欲望を駆動するものって
全てがストーリーで埋め尽くされてるので
それはそうなんだと思うんだけど
そのストーリーから離脱することができるだけで
あらゆる行動がすごく楽になるみたいな
ガラシャツを着て会社に行ったら
もう社会生活営めないみたいな思い込みがあるから
多分苦しいんだと思うんですけど
でも憲法に僕たち社会的に
健康で文化的な最低限度の生活を保障するって
国が約束してくれてるんだから
それで弾かれて保障されないってあったら
そりゃ国の責任だと僕は思うんですよ
そうだね
さっきの行動主義的な言い方をする
ルールとか行動のせいにすればいい
そうそう約束されてるから既にルールとして
本当は弾かれちゃいけないわけでそんなことぐらい
でもそれが事実上弾かれてしまうっていう
社会的現実に怯えてると思うんだけど
そんなのあってないようなものだから
それは役員以下各部長各課長に
前にガレシャツ着てこいっていう指示が下ったら
1日でひっくり返る
観念に過ぎないんだから
あんまり気にしなさんなと思うんですよね
さっきの中世は力
近代は構造
法、ルール
今はもしかしたら
ストーリーが圧倒的に支配していて
ストーリーっていうものから
逃れるのか逃れられないのかっていう
方法を欲してるのかもしれないなと思った
僕はほらアニメとか漫画とか
そういうカルチャーで活動してきた人間だから
すごい感じるんだけど
フィクションと自分を同一化してる人を
すごく見過ぎなくらい見てきたんですよ
今はバウンダリーっていう言葉で
自分と他者は違うっていう言葉が生まれて
だんだん認知されてるけれども
自分と他者の違いどころか
自分のストーリー、自分の人生のストーリーと
フィクションによってインストールされたストーリーが
ごっちゃになって
自分の夢や呪いっていうものを強化してる人も
1:33:01
やっぱ多数見かけていて
それがさっき言った自分を
自分を引き受けるっていうことを
非常に阻害する要因にもなり
うまく使えばそれを強化することもできるんだけども
今はどうしても情報量的に
阻害する方になりつつある
そうですね、もう本当に言いたい
あなたは麦わら海賊団ではない
あなたの仲間うちを
麦わら海賊団のキャラクターに当てはめて
理解するのをやめろって
きゆにも現れるし
あと自分の性愛行動においても
その推しみたいな言葉が免罪符となって
何かガチ恋やったらバカだよねって言いながらも
そういうスレスレみたいなものが
何回気づけば
自分の性愛のストーリーみたいなものの
立法を見たくなっている人がいて
そうですね
ガチ恋の罪を引き受けてほしいですね
一緒に苦しもうよっていう
むしろそれを引き受けてるんだったら
僕はリスペクトできるんだけど
引き受けずに中途半端な立ち位置で
リアルとフィクションを分かってるよって
思いながらも呪いかかってるような人とかっていうのは
公共に対して攻撃
パッシブな攻撃をする側になり得るよっていう
そうなんですよね
僕たちの生活を支えてる社会基盤を
骨抜きにしていきますからねそれ
そうだね
なんかさ
ダラダラ話したけど
ちょっと今日の話の振り返りとして
まず前回の文化と非凡のテーマに対しての
僕らの今日話したことをもう一回振り返ると
僕らは平凡であろうが非凡であろうが
自分っていう存在を何かしら引き受ける
引き受けるっていうことから始めないと
なんかこっから先の時代っていうのは
生きづらいんじゃないかなっていうところは
なんか同意できてんのかな
でどうやら話をしていると
僕と室さんは望む望まずに関わらず
非凡側を引き受けなければいけない存在な気はしている
これは室さんはどうなんですか
室田 いやだ
平凡でありたいんですか
室田 いや平凡でやりたいですね
でもやっぱちょっと僕の人生の中で
みんなが大切にしているものを
僕は大切にできないみたいなことが多すぎたんで
非凡という言い方はなんかちょっと言葉が
よっきに過ぎると思うんですけど
ならずものです
ならずものを僕らの用語では非凡と言いましょうと
で非凡を引き受けた人の歴史上のパターンを全部振り返っても
1:36:05
やっぱ非凡の存在って
平凡を引き受けた人たちから
何かしら託されるっていうことが起きるんです
それこそ封建社会における王様だったりしても
結局は意思決定僕らしたくないから
意思決定しろよっていうことを
押し付けられる存在が王様だとした場合
非凡な存在って
どれだけ光輝かおうが
名声を得ようが富を得ようが
平凡な存在によって断罪されるっていう
交換可能な存在であるっていうところは
やっぱり非凡の引き受けたからには
何かしら運命としては背負わなければいけない
僕らは王様でもないし
なんだけれどもきっと僕らは
非凡の存在によって公共性に利する行動を取ることにより
結果的にどこかで
罰を受ける
釘されるというか
サクリファイスされてしまうということですよね
僕はそこを悪くないなと思ったから
前回文化に殉教したいっていう
ちょっと極端な言葉を使ったっていうのがあって
なぜならなんだけど
僕っていう子の存在がなしたことっていうのが
何か社会的な要請によって
断罪されたとしても
僕が行った行為っていうのは
誰かによって引き継がれる
もしくは僕がやったっていうことを意識しない人たちが
僕のなしたことを
威厄しながら
何かネットワークとして広がっていくっていう
そこの自信はあるという
そこがたった1個のシナプスだとしても
それは僕の行動には意味があったと言えるっていう
そういう感じなんだけど
室野さんも
世間から見てでっかくなるのかちっちゃいのかは分からないけど
室野さんの行動がそういうような
行動になってるっていう自負というか自認はあるのか
そうですねそうなればいいなと思ってますね
だから僕が今その法人のお客さんに
やってるのっていうのは
あなた方を支配しているストーリーはこれですっていうのを
本当そうだね
あなた方は問題だと思ってるじゃないですか
問題1個もないですと
あんたが問題を作り出してます
どう問題を作り出してるかっていうと
あんたがこのストーリーを信じてるからです
っていうのを説明するっていうのをやってる
そうなんですね
迷惑の存在じゃん
その組織においてそういう行動を取る人って
外から王様は裸っていう役ってことだよね
1:39:01
あのストーリーでは子供だから
王様は裸っていうことが受け入れられてたけども
僕ら立派な大人です
立派な大人として組織に踏み入って
王様は裸だって言わなければいけない
僕らのような主体は
どういう品格を持ってそれを行ってるのかってことを話せれば
きっとこのお話って何か結びを迎えるのかなと思う
確かにそうかもしれない
僕はやっぱ公共性ですよね
僕を受け入れてもらっているその集団っていうのを
全体の利益に資する限りにおいて
言えるっていう感じですよね
少なくとも僕の中に何らかの確信みたいなのがないと言えない
っていう感じだなと思ってます
僕のやり方はどんな強大な組織だろうが
どんな有名な人だろうがそうじゃない人だろうが
基本的にはこの前言ったように
エレベーターピッチをやる前に勝負をつけなきゃと思ってる人間だから
かなり作為的にファーストインパクトの時に
何かをやるわけですよ
ってことは室さんの前回の言い方だと
人をコントロールする動きを僕はするんですね
何かプロジェクトに僕がアサインされるっていう結果が将来あったとしても
されない結果があったとしても
必ず僕は最初に何か作為的な誘導をしている
コミュニケーションや行動をとる人なんです
それが何かなんだけど
室さんの言った公共性に結構近くって
僕が決めてることは
僕はあなたたちからは何も奪いませんよっていう
見せた上で
彼らの本当にクリティカルなことを見せるんですね
要は無害であり舐められる存在のように見せかけながら
あなたたちが本当に困るであろう何かの時に
僕が思い浮かぶような仕掛けを
最初にやるんですよ
もし僕が
シュッとしていて有益そうに最初に見えていて
彼らにすごく僕に対してすごく対価を払わなければ
僕の能力を使えないって最初に思われてしまうと
その誘導ってできないんです
って考えるとこのコントロールって
意外と公共性あるよね
僕はあなたたちからは何も奪いませんよって
耳鳴りもしてるし
コミュニケーションも取った上で
彼らが本当に必要であろうっていうことの
ヒントになるようなことを最初から言っとくんです
1:42:01
僕のような存在はとうに忘れた頃に
彼らの中で何か僕が予想した何かが起きるはずなんですよね
多分起きた時に何か
いろんな解決案が生まれた中に
何となく引っかかっている僕みたいな存在が
確かいたな、ちんじくりんが
思ってもらえる
彼らは僕に対して大きな対価を払うみたいな
ハードルも下がってるので
すごくカジュアルに僕に相談してくるんです
僕からすると予期してた未来なので
そこで分かりました、何かできることがあったら
行きますっていう形でいきなり
超中核の位置決定者のところまで一気に近寄るんです
なるほど
そうするとことが動き出すみたいな形で
いろんな業界でいろんな新しいことやってきたんだけど
なるほど
これを品っていう形で僕は検証したことなかったので
もう一回今の行動を答え合わせしたいんだけど
確かに何かやった時に大きな対価として
結果的に帰ったこともあれば
一切ギャランティーみたいなものが発生せずに
すごく大事な仕事を成したこともあるし
僕の中での僕の行動の物価ってもうめちゃくちゃなんです
でもスタートする時の振る舞いと
実際物が動き出した時の振る舞いっていうのは絶対変えてないんです
だからもしかしたらだけど僕は純粋に
公共性に利するために動いたっていう意識はないんだけど
結果的には彼らの利益になるというか
その集団とかその公共性に対しては
利すなかったことはないのかなと
これを品というのであれば
室さんのルールでいう品に当てはまるかも
そうかもしれないですね
ちょっととても僕にできそうにない
それぞれじゃない?
そうやるんだっていう気持ち
そうやるんだって感じですね
だから今僕公開されてるポートフォリオとかもないし
なんだけどやっぱ仕事っていう僕の能力が必要なのは
僕の能力が必要とされてる仕事っていうのはやっぱり継続してあって
こういうカレーおじさんをこういう雑談でやりながら
僕の本当のキャリアっていうのはちゃんと並行しては動いていて
なるほど
すごい
それと品とを両立しているのは本当にすごい
全然イメージできない
1:45:00
なめられた存在が発動できる品ってあるのかもしれないとしたら
なんか俺のやり方に何かあるのかもしれないなと思うんだけど
でもそれは客観的に見て品と名付けられるものじゃないような
非常に品のないことをやってるような気がする
でも公共性っていう言い方をしてくれるんだとしたら
結果的にいろんな品のない行動をやってるんだけども
結果ベースでは室さんのルールでいう品を守れているのかなと思います
だなぁと思いますけどね
出会ったり別れたり儲かったり儲からなかったりっていう
ものに携わるわけじゃないですか
さっきのストーリーの話をすると
そのプロジェクトなりその出会いが終わった時に
僕らが関わったことってどういうそれこそ価値を残したんだろうって話なのだと思うんだよね
そこを自覚して関わってる人っておそらく品はあるような気がするっていうか
全部捨てて捨てて捨ててっていう考え方をしてる人って
公共に利するやり方や品のあるやり方を取れないような気がするんだよね
おっしゃる通りですね
おっしゃる通りだと思う
参考用紙みたいなのが一番いいっすもんね
本当はね
なんかストーリー上はこれって悲劇だったり破産破滅だったりを描いてるストーリーに見えるんだけども
結局そこに登場している人物たちっていうのはおそらくそれを納得していて
そのストーリーが終わった後の未来に対しても
決して公共性を阻害するようなメッセージを残してない結果だったみたいな
そういうことを望むかどうかな気がしていて
でもさっき言った前提で個人として責任を引き受けられない人の態度って
そういうストーリーっていうものの恐ろしさみたいなものを嫌だから
やらない進まない引き受けないっていう判断をするのかな
なるほどな
そっか
2024年はまあまあ上手にできたんで楽しい年でした
じゃあもう積み上がるんじゃないですか
このポッドキャストを聞いてる皆様次第です
そう
なんかこういう概念的な話を難しい言葉を使いながら喋っちゃうけど
1:48:02
メチクロとムロの出会いだと思ってて
ここにおいて何か2人の公共性に利する出会いにはしたいので
だからなんか次はさもうちょっとさ
ソリューションの話しようか
ソリューションの話?
僕が一番嫌いな話
今2人において解決したいトピックを持ち寄って
それを2人のディスカッションで何か
ソリューションを導き出すみたいなことをやってみようかな
多分なんか絶対形にならない気がするけど
面白い
楽しそうですね
でもさなんか実際さこのムロさんとのセッション会でやってるさ
この前フロム雑談で登場いただいたさ
桃山翔二のワッコさんとのさ
一連の出来事とか流れとかもさ
あれはあれでさ自己的だけでもさ
いろんなしさが含まれてるなと思うんですが
いやーあれはおもろかったっすね
あれも僕らの人生ではおきょうり得ないような
ソリューション型のサービスに乗っかったからこそ生まれたバグじゃん
確かにね
マッチングアプリっていう
いかにもソリューションのために生み出されたサービスに
ムロさんやワッコさんやプラスアルファの人たちが
参加したことによって生まれた
面白い気づきじゃん
いやでも僕は
マッチングアプリをソリューション型のサービスだと
あんま思ってないですよ
おー面白い
そうなの
でも作った側ってそうなんじゃないの
わかんないそうかもしんないですけど
マッチングアプリで起きてるのって
自然状態だから
何も解決されないって感じなんですよね
それは運営側がコントロールできない領域が
あまりにもでかいってこと
だし人間って
マッチングアプリもビジネスと一緒で
一瞬で価値を出さなきゃいけない領域だと思うんですよ
それに人間が晒されると
生存競争になるって感じなんですよね
いやでもそれってソリューションって言わないの
いやソリューションって
もうちょっとうまいことやることだと思うんですよ
解決を目指すってことだ
あなたパートナー探してますねって
こっちの人も探してますねって
カップルになってよかったですねみたいな
それがソリューションだと思いますよ
側はあたかもそれをやってるような感じだけど
パッケージ上そう書かれてるっていうね
でも実際に起きるのは
あなた探してますねみたいなことを全然やってくれずに
今ここで俺が何とかするしかないっていう
バトルロワイヤルの
これから殺し合いをしてもらいますっていうね
それがすごいランダムネスの中で置き続けるっていうのが
1:51:03
マッチングアプリだなと思ってて
だから僕と室さんのこの会話のパッケージを
いかにもソリューションを見出すようなパッケージを
掲げて話し始めれば
いきなりのカオスが生まれになる
生存競争にさらされる
俺と室さんのバトルが始まるみたいな
なんかそのぐらいの準備運動はできた気がするんだよね
確かに面白いかもしれないですね
なんかね僕らの会話を
そういう風に聞いてる人がいるらしくて
なんかこう講師が逆転する会話
最初まではかなり食いついてたんだけど
繰り返されたみたいな
なんかちょっとスポーツ的に聞いてる人がいるらしいんで
へー面白い
なんか僕らさもう3回もこんだけ長時間話してる
結構読み合うようになってきてさ
なんか一緒に共同作業をやって話しするようになってきちゃったじゃん
だから一回バトル持ち込んで
ぜひソリューションしましょう
じゃあ次はソリューションしましょう
じゃあ時代はソリューション
時代はソリューション
いい結び合いじゃないですか
じゃあ次回楽しみにしてます
ありがとうございます
この番組は東京東中野にある
クラフトビアバー雑談で収録しています
厳選されたクラフトビールとこだわりのスパイスカレーを楽しみながら
夜な夜な繰り広げられる雑談に参加したい方は概要欄をチェック
では次回の更新をお楽しみに
雑談
01:53:02

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