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はい、みなさんおはようございます。こんにちは、こんばんは、ゆうさく先生です。
さあ、今日もね、ラジオの方を収録していきたいと思います。
はい、前回ですね、カウンセリング放送室スタートしますよという風に、えっと、一発目ね、ラジオ撮ったら、なんとですね、6人も何も告知してないのにフォローしてくれた方がいるんですよ。
嬉しい!これは嬉しい!6人の方々ありがとうございます。
俗に言う、これ子さんっていうやつなんでしょうか。はい、この6人の方は特別に今回はね、ちょっとお名前をお呼びしたいと思います。
マーハさん、はちこさん、つきつきさん、すぎべさん、うおさん、かよんさん、この6名の方、もう同志です。
同志です。そしてなんとね、あのポッドキャストで有名なすぎべさんがフォローしてくださっているということで、一気に緊張、やばい。
ポッドキャスト初心者の僕をフォローしてくださって本当にありがとうございます。
これすごいよね、フォロワーのところにさ、バッチついてますからね、もうレベチ、レベチだみたいな。
はい、そんな風に思いましたが、改めましてこの6人の皆さん、ぜひぜひ一緒に盛り上がっていきましょう。
それから新しくね、僕のことを知ってくださって、お、なんかこのラジオためになるなとか、すごく心があったかくなるなとか、
こんなことやってみようかな、そんな気持ちになるようなラジオ、ポッドキャストにしていきたいと思いますので、ぜひぜひフォローしていただければなというふうに思います。
はい、ということでじゃあ今日は何をお話しするかっていうことを決めたんですよ。
珍しい、前回はね、何も決めずにとりあえず収録ボスターンを押してしまえという、こう、マッチョな思考でやっていましたが、今回はですね、やっぱり初めなので、
ゆうさく先生ってどんな人?っていう僕の自己紹介をね、まあ撮ろうじゃないかというふうに思います。
はい、なので今日はちょっと3分より長めかなと思いますが、皆さんぜひぜひお付き合いいただければなというふうに思っております。
では行きましょう。まずですね、僕の名前は長瀬ゆうさくと言います。はい、長瀬は長い短いの長いに瀬戸内海の瀬。
ゆうさくはわかるかな、松田ゆうさくと同じ、ゆうさく、つまり優しさを作るというふうに書きます。
平成3年生まれの10月22日生まれの33歳です。はい、ギリギリ平成ですね。はい、33歳です。
で、僕自身の家庭の話をすると、お父さん実は先生なんですよ。
そう、実は校長先生までやって退職をして、今は実家で農業をしてのほほんと暮らしております。
母も実は保育士をしてて、そこから今は別の仕事をしているという形になります。
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そして10個上の兄、8個上の姉という3人兄弟の末っ子なんですよ。
そう、年の離れた兄姉がいる。
そんな3人兄弟の末っ子として生を受けたという家族関係になっております。
はい、なのでまあ上の子に可愛がられたというふうによく言われておりますが、僕は記憶があまりないです。
そんな感じで過ごすんですが、僕の地元がすんごい岐阜県の日田高山の田舎で、
なんと小学校の頃の同級生12名、男子7人、女子5人っていう12名。
中学校に行って3校合同になるんですよ、実は。
なのに3校合同になっても19人しかいないっていうすっごい小さい学校だったんですよね。
で、高校は高山市内ですね。市内の方に来て、普通に280人っていう大きな一学年ね。
280人って大きな学校に移ったんですけど、そんな田舎育ちなんですよ。
で、僕自身はどんなことをやってきたかっていうと、兄が野球が好きで、兄じゃないごめんなさい。
父が野球が好きで、あとアルペンスキーっていうものが好きで、野球とスキーってものを幼少期からずっとやってました。
ただ全然結果が出なかったんですよ、僕の場合は。
そう、もうアルペンスキーに関しては冬ですよ。毎日スキー場行くんですよ、練習しに。
なのに地元の大会が結構あって、6位の入賞すらできないっていう落ちこぼれだったんですよ。
そう、その反面兄はインカレーに出場したりとか、国体選手だったりとかして、実際に地元の新聞に載ったりとか。
さらに姉はもっともっとすごくて、中学校1年生の時点で全国大会に出て10位とか、ジュニアオリンピックに出るとか、もうそういったレベルの方々だったんですよ。
なので比較をしてすごく劣等感を感じていたっていう実は背景があります。
なので僕自身は、野球はチームプレーだったんでよかったんですけど、中学校に行ったらスキーはやめようと思ってたんですね。
そこで辞める前に、どうしようかなって思った時に兄ちゃん、兄が10個上なので、中学校1年生だと僕が23になって、大学までスキーをやって地元に帰ってきて就職をして、スキーのコーチになったんですよね。
その時に僕のコーチをしてくれたんですよ、初め。
僕の学校の外部コーチとして入ってくれて、そこからすごい変わったんですよ、僕。
中学校2年生の時にスキーで東海大会に出場できて、中学校3年生の時に県3位になって全国大会に出れた。
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この成功体験が僕の中ですごく大きくて、兄のような人の成長を支援したりとか、落ちこぼれとか才能がないと言われている。
そんなこと関係なくその人の可能性を広げていけるような人間になりたいと思って、教師になると中学校3年生の時に決めました。
そして学校の先生になったっていう背景があります。
そこから中学校3年間実は勤めていて、岐阜県は小中の移動があるんですよ。
そこでとにかく子供たちに向けようっていう時間をずっと過ごしていました。
割かし評価していただいた部分もたくさんあって、初任者指導員に選ばれたりとか、母校の学校に行って講演をしてくれないかって言われたりとか、
1年間の実践をまとめた論文を提出して書をいただいたりとか、そういったことを実はしました。
ところが中学校に行って部活動を持った時にすごくハードに働いていたんですけども、
ヘルニアになるっていう病気ですね。
水管盤症ヘルニアっていうものになってダウンをしました。
そこから中々自分の思うように働けなかったりとか、部活動の指導、または外部のコーチの方との人間関係がうまくいかなくて、
1回休職をするという実は挫折をしてるんですね。
そこで僕は実家に戻ってちょっと引きこもったっていう時期があるんですよ。
その時に僕自身人生のどん底を経験して、
自己肯定感はゼロよりマイナスにいくというか、自分って生きてる意味あるのかなっていう部分まですごく落ちた経験があります。
そこで自分自身がこれからどう生きていこうかってことにすごく見つめ直した半年、1年間だったなって思います。
そこから僕は学校の外から子どもたちの支援をする、親御さんの支援をするっていう道を選んで、
1年半発達障害や身体的に障害を持っている方々のサポートをする会社を高山市が運営していて、そこに入りました。
俗に言う領域とか、そういった部分ですね。
そこに携わらせてもらって、1年半発達に悩んでいる子どもたちの支援をどっぷりやりました。
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そこで多くのお母さん方とかお父さん方ともお話をする機会があって、
とにかくたくさん話し合いながら子どもがどうすればもっと生き生きと学校の中でも学校の外でも生きていくことができるのかっていうことをたくさん考えながら働きました。
そこで僕が得た知見とかをインスタグラムを通じて結構発信をし始めたんですよ。
その時にすごくフォロワーさんがバーッと増えたんですよね。
そこで今までの経験っていうものが誰かの役に立つかもしれないという思いでインスタグラムを発信し始めたっていうのが僕の経緯としてあります。
そこから今に至ってはるか先生とも実は出会って、世界を回っている時ですね、はるか先生が。
出会ってティーチャーティーチャーっていうものができてそこに携わらせてもらうようになって、
それこそ僕が小学校中学校で働いていた時にも不登校の子はいたし、何よりも実は僕自身が不登校になって引きこもった。
その体験をしているので誰よりも子供の気持ちをわかる大人なんじゃないかなって自信があります。
なので僕は子供と仲良くなったりとか子供の気持ちを汲み取るってところが息を吸うようにできるんですよ。
本当に。
なのでこういったことを何かお手伝いすることができればなというふうな思いで今活動をしています。
僕自身の強みとしてカウンセリングであったり人をどんどん伸ばしていくコーチングっていうものがめちゃくちゃ得意なので
そういったお仕事を今しているという流れになっております。
はい、ということで。
もう10分過ぎましたね。
はい、こんな自己紹介です。
なんとなく分かりましたかね。
人柄が分かったかなと思います。
そう、なんかめちゃくちゃ人を元気づけたり勇気づけたりすることが得意。
じゃあねっからのポジティブなのかっていうと実はそんなことなくて過去にいろんな痛み、傷っていうものを負っているからこそ
本当の意味で強く優しい人間になれるんじゃないかなっていうのが僕が思っていることです。
そして僕が大好きな言葉を今日は最後に伝えて終わりにしたいと思います。
一つ目が全ての人に可能性があるこの言葉。
そして全てのことに意味があるという言葉。
ぜひ今のあなたが苦しい状態であっても必ずあなたには可能性がある。
そして今過去の苦しい出来事は絶対に何かの意味になって帰ってくる。
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こんな風に思っております。
ということで今日は自己紹介も含めて僕のお話を少しさせていただきました。
それでは皆さん今日も素晴らしい一日を。
いってらっしゃい。