毎朝弾いてたら、中3ぐらいかな。うちの父ちゃんが、もう買ったってなったんですよね。ギター。
新しいやつをね。
で、何が欲しいんだってなった時に、やっぱりビートルズのリッケンバッカーが欲しかった。
リッケンバッカー。
リッケンバッカー売ってるところなんて、もう名古屋やったらパルコの島村楽器しかなくて、島村楽器見に行こうってなった時に、うちの父ちゃんが、
そういえばこの前中古屋さん見つけたんだわ、あつまるって言って。
で、そこ行こうって言ったら、たまたまその日の朝に売りに来た人のギターがあったのが、
それこそ後期にジョン・レノンが使ってたエピフォンカジノっていうのが売りに来たんで、
弾いてみたらしっくり来て、うちの父ちゃんがこれだって言って、それを一番最初に買ってくれたんですね。
そうなんですね。それも出会いですよね。
それも出会いなんですよ。
それを持って、ずっとギターはやってたんですけど、コピーバンドやったりとか。
20代になった時に、成人祝いに金がしたので、お前イギリス行ってこいと。
え?急だね。お父さんが言ったの?
で、イギリス行くって話になった時に、リバプールに行こうってなって、
リバプールのキャバンクラブ、ビートルズがずっとやってたライブハウスで、
ライブができるっていうツアーが組まれたんですよ、JTBから。
え、たまたま?
たまたま。ラジオで聴いたって言って。それ行ってこいってなって。
すごい情報だね、キャッチの仕方がお父さん。
ハードゲースのエプフォンカジノを持って、僕リバプールにそのツアーで行ったんですよ。
で、キャバンクラブでライブさせてもらったりとかして、っていう時でしたね。
その時はバンドとか何か組んでらっしゃったの?
高校の時のバンド、コピーバンドみたいのはやってましたけど、
今みたいにみんな上手ではない時代なので、ただ単にやってる感じですよね。
で、名古屋でヤヤヤっていうビートルズのライブハウス、
コピーバンドのやってるところがあったりとか、
今はアポロシアターがあれですけども、
昔のアポロシアターってそういうアンス・ウィンド・アンド・ワイヤーがコピーやったりとかっていう、
コピーバンドをやってるライブ結構ハウスがあって、
そういうとこに行きながら生音を聴くっていうことが結構連れてってもらってましたね。
お父さんに?
それで勉強っていうか、いろんなミュージシャンの人たちと話したりとかしてたっていう。
そのイギリスはお父さんの一言でツアーで行って演奏したっていうことなんですね。
そういう経験ができたっていうことなんですね。
で、そのあとなんかプロフィールに愛知急泊っていうあの万博とか、
チベットで演奏して、どういうことって思ったんですけど、そのあたりも。
飲食店もやってたんです、僕。
そうですよね、並行してね。
音楽がずっと好きで、僕ロスにおじさんがいたんですよ。
で、ロスのおじさんがイタリアンをロサンゼルスの中でやってて、
僕はもうおじさんのとこに行けば、
いわゆるアメリカに行けば夢が開くんじゃないかっていう、
安易なのでアメリカに行きたいってずっと言ってたんですよ。
それは高校生ぐらいの時に言ってたんですけど、
高校中退は許さんと。高校卒業してから行ってと。
で、高校卒業しますと言って、
で、大学行けるのと行けないのっては違うから、
まずは大学受けてみろと。
でもなんかどんどんどんどんそういうペースに乗っちゃって、
大学を買って結局大学行ったんですよ。
で、その時にバイトをしてたんですよ。
で、僕はもうずっとロスのおじさんのとこで、
イタリアのレストランにお世話になって、
アメリカで生活するっていう夢を描いたんで、
ペペロンチーノ一つでも作れなかったから、
イタリアのバイトをしてたんですよね。
日本で。
日本で。
ただ、パスタって面白いなってなってきて、
で、そのレストランとかで、
いろいろ社員さんとかに教えてもらうと、
ピザとかパスタって面白いなっていうのを学びながら、
うちで作ってたんですよ、父ちゃんとかに。
それが最初のパスタの気に入ってくれたところのそれがあるんですよね。
会場でライブやらないかって話になって、
めちゃくちゃ面白いねって僕の相方経緯で話が来て、
それをやるようになったのが愛知球博でライブをやったっていう実績ですね。
そうなんですね。その後その方とはどうなったんですか?
その後、2005年にそれを結成して、数年間はそういうライブをやってたんですけど。
お店やりながらね。
お店やりながら。で、その時にたまたま僕が仲良くなったバンドは、
メジャーにどんどん行っちゃったんですよ。
僕ら中途半端というか、音楽だけに専念できてなかった部分があったので、
全国にライブしに行くとか、やっぱり難しかったんですよね。
そうですよね。お店やりながらとなかなか。
ってなるとやっぱりファン層拡大もできなかったから、
結果的に音楽としてちゃんとやるっていうことが難しくなっちゃったから、
そこは一回やめようってなったのが2008年、9年ですね。
で、自分の店もそこで閉店。
飲酒運転の取り締まり、住金の取り締まりとかっていうのが、
飲酒運転して帰る人がいたわけではないけど、
警察がこうやっていろんなところで検問とかをすると、
やっぱり流れが全部変わってきて、飲食店がすごい、
食べに行こうっていう空気がなくなっちゃった時代になったんですよね。
で、結局そこからどーんとやっぱり経営も難しくなってきて、
一旦閉めたのが僕が28、29の時でしたね。
2008年とか9年とか。
大変だったと思うんですよね、今からお話を伺うと。
お店閉店時点、そのバンドも縮小していったっていう感じなんですよね。
でもそこでまた違う展開ってやっぱり起こるじゃないですか。
その時はすごい大変だとか、人生の山あり谷の時って、
何かの次があるからその部分に入るっていうことってよくあると思うんですけど、
今それ振り返るとどういう時期だったと思います?
断捨離でしょうね。
僕らの中では。
僕がやりたいやりたいばかりなんですよ。
どうにかして世に出る手段ってないのかなっていうのが、
良い意味で言えばハングリーなんですけど、
悪い意味で言えば中途半端なんですよ。
だから飲食、飲食だけやってりゃいいのに飲食から音楽もやるし。
で、僕書もやってたんですよね。
メニュー書いてたら書が面白くなっちゃって、
高山とかのブランドが書書いてくださいとかって言われて書いたりとかのやってたりとかしたら、
書も好きで、イラストも書いてて。
お前何がやりたいの?っていうのが多分その当時の周りの人が思ってた僕だったんですよ。
器用貧乏ってのもあると思うんですけど、
全部やりたくなっちゃうっていうのがやっぱあって、
自分のやりたいことは1個ずつ消していかなあかんなと。
その時に、料理はもうやめよう。音楽はもうやめよう。
で、書とイラストをやる時に、別に僕書道家でもないから、
独自のメニューを書いたやつだけなので、
書を今後主軸にするのもちょっとちゃうなってなった時に、
絵だったんですよね。消去法で。
絵をちゃんと極めよう。絵でちゃんとご飯を食べるなと思った時に、
どんな絵が受けるのかなと思った時に、
僕ロックが格好だったり、ロックが好きだったから、
結局、骸骨とかスカルの絵をずっと書いてたんですよ。
で、それを書いたり、いろんなの書いて、それをポストカードにして、
クリエイターズマーケットとかのそういうマーケットに月に1回出るようにって言って、
12ヶ月、もう12、3箇所をやってたんですよね。
その時に、だんだん売れる傾向のポストカードが分かってきたんですよ。
それが、猫の絵。絵本のテイストだったんですよ。
こういう絵が世間から僕に求められてるんだっていうのが分かった時に、
絵本を書こうと思ったんですよ。
障害者の方たちに絵を教えるってことだったり、
その障害のことで会社に対して僕が何か貢献できる、絵で貢献できることがあるならやりたいなと思ってて、
今でもそういった業務委託をもらいながらやってるっていうのが今の現状になってきてる。
で、絵をずっと仕事にしてたんですよね。
絵を仕事にしてたんだけど、出てきたのが、僕が絵の会社を作ったんです。
アートの会社、ボストリーっていう。
だからイラストを描きます、デザインを描きますっていうんじゃなくて、
僕の絵を気に入ってくれたところに絵を描く。
僕のアートを気に入ってくれた人にアートを提供するっていうような会社で、
一見日本では難しい、ちょっと曖昧なアートっていうものなんですよ。
でもアート志向っていって、やっぱり普通よりも何か、
みんな、世間一般に響くような考え方だったり、
そういうものを大事にする思想を、例えば理念だったりそういうものにもって、
いろんなトライをしていくような、取り組みをしていくようなものをやりましょうっていうのをコンセプトに会社経営を始めたんですけど、
やっぱり日本ってハードルが結構いろんな部分が高かったので、
なんとかもうちょっとアート、絵よりも、
取っ掛かりやすいものは何なのかって思った時が、写真だったんですね。
っていうところに全部つながっていくっていう感じですね。
2021年にBOSSTORYっていう会社を立ち上げたっていうことで、今2年ちょっとになるんですかね。
3年かな。
あ、3年になるんかな。楽しいです。
楽しいですね。
だから僕今障害の方たちに絵を教えたりっていうのをやりながらしてるんですけど、
それこそ抽象画だったり、僕が今まで描いてきたイラストのこういうふうに描いたら、こういうふうに塗ったらっていうのを提案できたりするので、
その人たちがやっぱり手が動かなかったり、口でしか描けない。
手もやっぱりなかなか自由に動かないっていう方たちがいるんですけど、
その人たちに合った画材だったり、絵のテイストだったりっていうのがあるんですよね。
またその人たちに描きたいものもまたあったりするので、
なんとかして描きたいものを描ける手段でどう表現したらいいのかっていうのをやっぱりトライしていく。
っていうのって発見だったり成長につながるのでむちゃくちゃ面白いんですよ。
何よりも、絵が描きたいって思ってくれることってすごく嬉しくて、
みんながみんなアートだったり絵が好きだったりするわけではないと思うんですけど、
今までできなかった一つの表現をプラスで日常にできるようになるって結構広がるというか、
っていう部分に僕は携われているのはすごく今充実しているっていうのがありますね。
自分が本当に心から楽しいとか、自分が役に立っているっていうところが感じ取られるのがベースにあっての、
そういったことって嬉しいですよね。
そうですね。
それも障害福祉の会社の方から声がかからなかったら今の状況がないってことですもんね。
そう。でも考えるとやっぱりそれぞれのターニングポイントの縁なんですよね。全部。
だから僕が僕でこういう風にしたいと思っているよりも、その流れでこうすべきなんだなっていうのがちゃんと節目節目にあって。
だからね、障害福祉のお仕事のお話だって自分が求めていったわけじゃないじゃないですか。