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他にもし、既にアートを楽しんでいる方も含めてですし、全くとっつきづらいという人に対しても、こういう楽しみ方があるんじゃないか、何かヒントがあればいただきたいなと思っています。
もしくは全く手ぶらで出くわすというのもありだなと思ったのは、先ほど私がアートサイダーと最初に出会った時に、まさに手ぶらで行って、いきなり衝撃を受けるという出会いが起きたわけですから。
一つでもそういう作品と出会ってしまうと、そこから広がっていく部分があります。それこそいろんな作品と正面一つずつ繰り返す中で、衝撃的な出会いがあれば、必ずそこから広がると思いますから、ランダムにそれを繰り返すということもあっていいと思います。
何でかわからないけど、すごく刺さるという作品があるわけなんですよね。そういう作品との出会いが最初の関心のきっかけになるわけで、何でかわからないけどというのが一番いいわけですよ。
たぶんこれこれこういうわけで、この作品は素晴らしいんだろうみたいな感じでは、今一つ考えも深まりますけれども。
確かに見に行かないことには絶対あり得ないですからね。まずそのきっかけというか、実際そこに触れてみないと。
私もあんまりしょっちゅう言ってるわけじゃないんで、偉そうなことは言えませんけど、やっぱり直に見るという経験というのはすごく大きな意味を持っていて、
それはさっきも言ったように、直に出くわすということにもつながりますから、直接こう出くわしに行くということはすごく大事なことだと思いますけどね。
今、痛み、病、アートそれぞれについていろいろ先生にお話がかかってきたんですけども、斉藤先生が考える、現代の痛み、病とはっていうところと、それに対してアートが果たせる役割は何かあるかっていう、その辺のお考えを聞きたいなと思った。
痛みと病に関して言うと、もうこれは万人が共有するものというふうに考えるところから出発するほかはないと思います。
万人が共有するもの。
全ての人が病んでいて、全ての人が痛みを抱えているという前提から出発するほかはないと思いますね。
これは私が批評の場合に依拠する精神分析の立場としてもそうなんですけれども、基本的にその精神分析の立場というのは、人間存在というのは、言葉を喋るという能力を持ってしまった時点で、
もう無垢な生き物でいられなくなってしまった、病を抱えてしまったという発想が根本にあるわけです。
なので、違いがあるとしたら、それは表面的な適応度の違い、病を持っているけど、うまくそれを人前では隠して、気がつかないふりをして、生きていられるかどうかということがまず一つあるでしょうし、
それからもう一つは、適応のレベルの違いということがありますよね。それから形式の違いですね。
形式の違い。
形式の違いというのは、病にも接触障害とか、対人恐怖とか、いろんなものがありますから、そういう形の違いということが当然出てくるわけで、
今はむしろ発達障害みたいなものがしばしば言われますけれども、ある意味、発達障害という言葉がすごく今、前面に出てきたのには背景があって、
おそらくこれも発達障害の発想自体がそうなんです。発達障害というものは、人間の発達をスペクトラムと言って、もう連続で捉える、連続で捉える。
連続というのはつまり、完璧な発達をした人はいないというのが大前提なわけです。
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完璧な発達した人はいない。
で、みんなデコボコ抱えていると。発達のいびつさをみんな抱えているけど、それが不適応をもたらすレベルに至った人は発達障害だし、
そこそこごまかしてできている人は定型発達者、うまくいった人、みたいな違いしかないと。
これもある意味、万人が問題を抱えているという発想ですよね。そういう考え方もあるわけで、
みなさんが何かしらの問題を抱えているという前提で考えていかないと、もう立ち行かないという状況になってきていると言っていいと思います。
今先生に、現代の病の状況というところをちょっとお話しかけましたけども、
痛みというところでいくと、やっぱり昨年の震災というのは、我々に多くの痛みをもたらしたと思うんですね。
先生、昨年7月に医師である奥様と共に医療ボランティアに行かれたりとか、
あと別のちょっと文献で拝見したんですけど、阪神大震災の時もやはり医療ボランティアで行かれて、
いろんな現状、それこそ痛みというのをダイレクトに受けていると思うんですけども、
そこで何かアート、広い意味でのアートというのは何か、実際役立ってたものを見たとか、何か果たせる役割というのはあると思われますか。
今のアートのスタイルの中には、形式が自由ですから、メディアアートとか、コミュニケーションそのものをアートにするとか、
そういう発想が当たり前になってきてますから、そういった意味では、現地の人々は子どもたちを巻き込んでアート活動をしている人とか、
別に知り合いのアーティストでもいますけれども、そういう活動がすごくプラスになっているだろうと思いますし、
アーティストも、アート自身も傷を負いながら、心を痛めながらもそういう活動を通じて、
結果的に自分の心を癒すコインを繋げているという部分もあるかもしれないというふうに思いますね。
そういった意味では、広い意味で関係性のきっかけとして、関係性を持つきっかけとしてのアートということも大事なんじゃないかというふうに思いますし、
もっと言うと、このアートの話も繋がるのかもしれませんけれども、アートの持っている一番原初的な技能として、関係性に人を巻き込むという機能が僕はあると思っていて、
特にアウトサイドアートについてはそれは顕著なわけですけれども、実際その作品と関わったり作者と関わったりすればするほどよくわかるようになってくるという部分とあるわけで、
それは作品単体を鑑賞するのが理想的といわれた古典的な鑑賞法とは少し違いますけれども、
私はむしろ一番プリミティブなアートの機能としてはそっちのほうだと思うんですよね。
関係性。
作家と関わったり、作られた状況と関わったり、それが作られた時代とかそういったものがわかればわかるほど面白く思えてくるとか、それも含めて広い意味での関係性ですけれども、
関係性の媒体という意味でアートというのはすごく最も自由なメディアの一つなんじゃないかなと思っているところがありますね。
最後に鑑賞者という言葉がありましたけれども、今日のテーマと関係あっても関係なくてもいいんですけれども、
斎藤先生が今一番注目しているアートアーティストだったり、こんなのを今後鑑賞してみたいみたいな、
今一番アート関係で何か熱いものがあれば教えていただきたいんですけど。
じゃあちょうどいいので申し上げますけれども、私はホウキノブヤさんという方の作品、
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たぶん私が一番自分で購入しているのはこのホウキさんの作品だと思います。
どういう作品かというとドローイングなんですよね。線画なんですよ。
どういう線画かというと、ボールペンを2本持ってそれで描かれた風景画みたいな、
うさぎっぽいものを描いたり、キャラクターっぽいものを描いたりとかですね。
何を描くかってよく分からないんです。分からないけど、非常に面白い描き方なんですね。
この人はドットの作品も作っていて、ドットの集積体で中小点を表現しているという作品もあります。
この間私、気軽に作品注文したら、なんと縦2メートル、横1.5メートルで巨大な作品が届いてしまいまして。
すごいですね。よく家に入りましたね。
どこを置こうかと思ってですね。置き場所がないかと思って悩んだんですけど、
ちょうど今住んでいる家のリビングに、無理やり空間を作り出して、この絵を置きましたらですね。
これもドローイングなんですよ。
これやっぱり筆2本で描かれた作品で、何が描かれているかよく分からないんですけど、
その曲線が非常に魅力的なんですよね。
無機的な線じゃなくて、人が描いた線。
しかもその線が描かれるまでに、これ技巧なんですよ。
何枚も失敗したことを重ねている。
でもシャリスマンじゃないですから、何が失敗かよく分からないですよね。
確かに。
だけどご本人は、しっくりする線が引っかかるまで何枚も無駄にして、やっとこれだと思う線が引いたら作品にするそうです。
ご本人にはあるわけですよね。
あるわけです。基準があるわけです。
まさにこれね、技巧そのものを観察している感じで非常に面白いです。
やっぱりもっと皆さん買いましょうということを私としては言いたいわけですよね。
やっぱり買い支えていかないと安心を取っていくという分野でもありますし、流通してなんぼという部分もあるわけですから。
確かに見るというところまでしかもなかなか持てないですもんね、普通は。
ただ実際に買うこともやっぱり選択肢に入れていくという。
横浜美術館塾のラジオ美術館精神科医の斉藤珠樹先生をお迎えしてお話ししていただきました。
斉藤先生どうもありがとうございました。
ありがとうございました。