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2024-12-12 39:13

芸術は医療になりうるのか?

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サマリー

今回のエピソードでは、医療と芸術の関係について議論され、稲葉敏郎の著書『命を呼び覚ますもの』を基に、心と体の全体性を回復するために芸術が果たす役割が探求されています。また、ギリシャのエピダウロスの例が挙げられ、古代から続く医療と芸術の結びつきが強調されています。芸術が医療に与える影響についても言及され、アートセラピーや病院でのアートの利用が心の健康にどのような効果を持つか、参加者の個人的な体験や短歌の効果についても語られています。伝統医療と西洋医学の違いや、芸術と健康の結びつきについての議論も交わされています。

医療と芸術の接点
様々なトピックを取り上げて、健康について考え直す番組、Rethink Healthということで、今回は森野くんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。 ちょっと間が空いてしまったんですけど、またいろいろ喋っていこうと思いますが、今回の大きな主題は
優れた芸術は医療になりうるのかみたいな テーマをベースに話してみようかなという感じで、森野くんが最近読んだ
命を呼び覚ますもの、人と心と 人の心と体っていう本
稲葉敏郎さんの書いた本を テーマに喋ってみようかなという感じで、ちょっと概要を教えてもらってもいいですか?
わかりました。 この稲葉敏郎さんという方はですね、東大病院で医師をやられている方で、ずっと医師
循環機内科をやってきている方なんですが、ちょっと変わっているのは、東大の先端科学技術研究センターの研究員とか、
その畑の研究というところもやりつつも、 東北芸術工科大学の客員教授をやったりとか、
山形美苑奈蕾っていう芸能祭典で芸術監督をやったりとか、なかなかそこが重なるのって珍しいなあっていうふうに感じていたんですけど、
そこのルーツとしては、西洋医学だけではなくて、伝統医療とか、保管大体医療、民間療法っていうところも広く収めている方で、
そこからじゃあ、地に根付いた民族学とか伝統芸能とか、そういうところとの会話をしていったときに、いろいろ見えてきたことがあって、
医療と芸術っていうことの関係っていうのを模索しているっていう、そんな方みたいですね。
エピダウロスの例
ちょっと概要ですね。概要としてはですね、最初の方は結構医療、どちらかというと医療寄りというか、
体の仕組みってどういうふうになっているのかということを、体と心と頭っていう三つに分けて進めていってます。
身体、精神、知的みたいな感じ。
そうですね。主には心と体っていうところだと思うんですけど、他にもNHK出版の方で、もっと子供向けの解説本とかでもあって、そっちでは頭っていう認知とか、
認知しているからこそ、不調に気づけるんだとかそういう話もあるんですけど、不調が出始めたときに、不調に関してどう捉えていくのかっていう、
これもこの方自身が元々結構子供の頃から体がちょっと弱かったっていうところもあって、そういう経験体験を踏まえながら話してらっしゃいますね。
なるほど。
このふうに芸術からの影響は、心の面への影響みたいなことが語られているのか?体に対して。
そうですね。どちらかというと、僕がイメージ、この中でイメージしやすいのは心の方だったんですけど、やっぱりその心と体の重なるところもすごく多いので、
それが彼の主張でいうと、医療的に人を治癒していくっていう、そういうものとして解釈されていたんですね。
ちょっとその中の話、内容についても進めていきたいんですけど、彼らが医療と芸術の接点っていう章で述べているのが、
ギリシャにあるエピダウロスっていう場所があるらしいんですけど、古代ギリシャ時代の劇場がまだ当時の形のまま残ってるみたいなんですよね。
世界遺産にも登録されているところなんですけど、古い円形の劇場らしいんですよ。
そこが注目されているのが、この場全体が総合的な医療施設だったらしいんですよね。
で、その場所には温泉が湧いてるらしいんですよ。
プラス、演劇とか音楽を見る劇場もあって、身体技能を競い合う、見せ合うような競技場もあり、
さらには眠りによって神託、神が託す神託を受けるための神殿っていうのもあると。
で、ギリシャ神話の医療の神であるアスクレピオス神公の聖地でもあったっていう場所があって、
古来からそういう医療、芸術っていうところが重なる部分があったと。
農学の影響
なんでそこが重なるのかっていうところがやっぱり一番のポイントだとは思うんですけど、
これ自身が言っているのは…
つなぎで話しちゃうと、なんかハイグレードなスーパー戦闘みたいだねって思っちゃった。
確かに確かに、ハイグレードですね。
スーパー戦闘もいろいろマッサージとか、ちょっと医療に近いようなものもあったりしますよね。
スパー的なものもあるし、最近だと漫画読めるとかね、あるし。
なんかこうちょっとした劇っていうか、そういうの見ながら食事できるとか、いろいろあるよね、場所によっては。
まさにまさに。
芸術とその医療の流れっていうところで言うと、病気をしてしまうっていう、
要は体だったりも心の病気もあると思うんですけど、そういうときに何が起こるかというと、
彼いわく本来持っている全体性が失われるっていうふうに読んでるんですよね。
そこはこう、本来正常と言われてるのは臓器の働きが失われることで、
他のところもこう連携してだんだん弱ってきてしまったりとか、
単純にこう自分が病気っていうことを認知していることで、心がどうしても膨らんでしまったりとか、
そういうことを一つ全体性というふうに失われるっていうふうに読んでるんですけど、
芸術自体が失われた自分自身の全体性を取り戻すために必要なものなんだ、
っていうふうにおっしゃってるんですよね。
人類がアートっていうのを想像し始めたっていうのは、
それに作る中で聞いたり触れたり、
作り上げていくプロセスの中で生きる力を得ることができる。
ここで語られる芸術は、どっちかっていうとこう見るとか受け取る方って感じ?
自分で作るっていうのも入るのかな?
どちらかというと見る、受ける方ですね。
作る側のスタンスというか姿勢としても、
人間の心の深い場所を通過して生まれ落ちた作品っていうのは、
自分自身に対しても治療的な効果があり、
それが自分だけじゃなくて他者に対しても同じような効果として作用すると。
なるほど。
いうふうに言ってますね。
なるほど。
何かしらの心と体の乱れが起きてるとか、
調和して動いてないみたいな時は、
その全体性が損なわれてるみたいな感じで、
それを純粋に医療として、
手術とか薬とか治療を施すっていうこともあるけど、
そうじゃない方法として、
そういう手術みたいなものが採用することもあるんじゃなかろうかと。
そうですね、まさに。
それはご本人の中でそういう経験もあったとか、
周りで関わる患者さんとかで、
そういう実例もあったとか、
そういうところからって感じなのかな。
どちらかというと、
自分自身がというよりは、
その地に根付いた伝統芸能とか、
そういうところに触れていく中で、
自分の一番の背骨である、
医療っていうところとの関連を見出していったっていう、
はいはいはい。
そういうふうに受け取りましたね。
なるほど。
何か自分の例だと、
うちの地元も結構お祭り盛んなものがあって、
毎年一個。
そこにずっと自分のおじいちゃんとかも関わってるけど、
やっぱそれに関わり続けるからっていうか、
そこでの役割があるから、
もうちょっと元気でいとかないとなみたいなこともあるような気がするし、
もしそういうのはなかったらどうかっていうのを考えていくと、
そういうものがあった方がいいんだろうなっていうのも感じるし、
ちょっとそういうところも一部通じるところもあるのかな。
あると思いますね。
彼自身の現体験でいうと、
西洋医学っていうのを中心に収めてきた中で、
日本の医療にはオリジナルの医療としての学問はなかったと。
中国医学とかインド医学、
そこから卵学、ドイツ医学、アメリカ医学っていうのを自動的に受け入れてきたと。
ただ、この稲葉さん自身は、
いや、もっと日本にも原点ってものはあるんじゃないかと。
輸入してきたものだけじゃなくて。
っていうところで、古くから残っている伝統的な文化っていうところから紐解いていこうとしたときに、
農学に目をつけたと。
学生時代の結果、海外はバックパックから旅したらしいんですけど、
中に外国人から日本の農学について教えてほしいって言われたらしいんですけど、
全く分かんなかったと。
僕も今聞かれても分かんないですけど。
なので、その稲葉さんは帰国してからすぐに国立農学堂ってとこに行ったらしいですね。
初めて行ったときは本当に何が起きてるのか分かんなくて、寝ちゃってましたと。
なんですけど、なんかこう巨大な謎っていうものを感じて、何なんだこれって。
強烈に惹かれていき、農学堂に足を運ぶようになったと。
なんですけど、実際に一種として活動して始めてからは結構忙しくなって、
なかなかその農っていうものに理解っていうのも手は止まっちゃってたらしいんですけど、
東北の地震災が起きたというときに、ボランティアとして行ったんですけど、
もう何も、意思として何もできずに立ち尽くすしかなかったと。
もっとじゃあ先に瓦礫のなんとかしなきゃとか、
もちろんそのあとリアージするとかいろいろやることあるみたいなんですけど、
なんか本本的に自分は何ができてるんだろうっていうことを、
すごいこと方にくれてしまったみたいなんですね。
そんなときに、生に向けていくだけじゃなくて、死にも遭遇することがたくさんあると。
そういうときにこの死者の鎮魂っていうことをより強く考えるようになっていった。
そのときに農学っていうものを思い出して、
農学って結構死っていうものにも一つ学させている文化というか芸術でもあるんだなっていうことを、
改めて学び始めたいみたいなんですよね。
僕もそこのところあんまりまだ理解はできていないんですけど、
農学の再生したゼアミ、
カンアミ、ゼアミのゼアミの風刺花伝っていう有名な文章があるんですけど、
ここに書いてあったのが結構原点になっていて、
そもそも芸能っていうのはみんなの心を和らげて、
神や死も、などという考えから自由になって、
音吹や服を増やしていき、寮を長くするためのものなのです。
すべての道は極めると同じことです。
音吹や服を増やしていくためのものなのです。
っていうのを読んだときに、これもう医療と全く同じなんじゃない?
いうふうに感じたみたいなんですよね。
みんなの心を和らげて、音吹や服を増やしていくためのものなのです。
そこから医療と芸能、芸術って合流する心があるんじゃないかっていうのを深めていくということが書いてあります。
確かに西洋医学っていうとまさに西洋だし、
東洋医学とか伝統医学みたいなものもあるけど、
大体中国とかインドとかそういうところって感じで、
日本の伝統の医学的なものって何?って言われても、
あんまりないなって確かにそうだなと思うんだけど。
脳ね。
あとやっぱり、体と心って言って特に心の中だと、
やっぱり人の死とか、
生きてるうちに何か不調があるっていうのももちろん、
気の全体性が崩れるとか乱れることはあるかもしれないけど、
やっぱり身の回りの死とか起きた時の乱れは大きいだろうから、
そういうのをどう癒すのかっていうか、
っていう時に、気の発揮した部分はあるんだろうね。
確かに確かに。
この中で出てきた話で、
MOMOっていう童話を書いてるミハイル・エンデが、
インタビューで言っていたことがあって、
彼自身は心に作用するっていう意味での物語について、
真剣に追求していた作家みたいなんですよね。
インタビューの中でも、音楽に理解はいらない。
そこには体験しかないっていうふうに言ってるんですよ。
シェイクスピアの芝居を見に行ったとすると、
私は決して利口になって買えるわけではありません。
何事かを体験したんです。
すべての芸術において言えることです。
本物の芸術では人は教訓など受けないものです。
芸術と心の健康の関係
より利口になったわけではない。ゆるい高いになったのです。
心が豊かに。もっと言えば、私の中の何かが健康になったのだ。
秩序をもたらされた。
っていうふうに言っていて。
現代文学っていうところで見落とされてしまったのは、
芸術が何よりも自由の課題を追っているというこの点です。
っていうふうに述べていて。
この一説が一番この本の中で印象に残ったんですね。
そういう作品を作る人とかも、
心の救済というか、何か良い効果をもたらすんじゃないか、
みたいなのは考えながら作っているとか。
でもそれがなかなか言語化できないというか、
する必要もないみたいなことを言ったりしているのね。
そうですね。なんて言うんですかね。
芸術って、本当に言語化する必要なくただ感じればいいんですよ、
っていうアドバイスもあると思うんですけど、
一方で理解したいっていう感情もあるじゃないですか。
そうだね。
ここは結構、逆にさっきもちょっと話しましたけど、
病院にアートを飾るとかっていうその飾る側からしたら、
どう差し出していけばいいのか。
医療者が芸術っていうとの合流するところを踏まえて、
医療していく上ではどう取り入れていったらいいのか。
っていうところは、読んで考えていきたいなっていうふうに感じましたね。
そうだよね。
だからアートを活用して、
例えば誰かこの人の心をもうちょっと直していきたいというか、
救っていきたいっていう人にどういうアートがいいのかっていうのは、
ただ差し出したらOKっていうか、
またそれはどう受け取ったかっていうのをちゃんと聞いたりとか、
行動を見ていかないと変わったかどうかってわかんないと思うし、
そういう意味でだからどっちかというとアートセラピーの文脈だと、
アートを作ってもらうっていうか、絵に描いてもらった時に、
表現の様子とかを見てみて心の様子を評価するっていうか、
そういうのはよくあるような気がするけど。
確かに確かに。
差し出す難しさはあるなーって感じるけど、
でも一定やっぱりアートによって心が救われたみたいなのはあるんだろうねって気はするかな。
そうですね。
通常病院のエントランス、廊下に一枚絵画飾ってやるだけで、
なんとなく救われるまでいかなくても豊かな気分になるっていうことは、
何か今の話のようなことが心の中で起こっているのかもしれないですね。
そうだね。
まあちょっと自分の例とかも考えてみると、
自分が芸術とかにちょっと意識して触れ出したのって大学院生ぐらいの頃なんだけど、
その頃って研究のアイディア考えないとなーとか、
自分の独自のアイディア作り出したい欲求みたいなのもあった時に、
なかなかうまくいかないなーとか思ってた時に、
ちょっと突拍子もないアート作品とか見たりすると、
ちょっと救われるっていうか、
そんなわけわからんでもないけど、
人とは違う作品作る人もいて、こうやって世の中に知られる存在にもなってるなーみたいな見ると、
ちょっともうちょっと頑張ろうとか、
ちょっと人とは違うこと考えてみようって思えたのはあったりしたから、
なんかちょっと救われたなって気はするし、
そういうふうなちょっとクリエイティブな状態で救われるっていうのは、
ちょっと自分の事例だけど、
多分さっきの死とか、
アートセラピーの可能性
だから向き合ってる課題とか感じてるものによって、
こういう刺激を受けると救われやすいみたいな、
ある程度パターンとかはありそうな気はするんだけど。
確かに確かに。
絵画、音楽、劇。
森野くんってこういう何でも、森野くん例えば短歌とかあらつきだと思うけど、
死とか短歌とか絵とか音楽とかで、
人生のこういうタイミングでこういうのに触れてなんか影響を受けたなーみたいなのって記憶にあったりする。
そうですね。
最近で言うとやっぱ短歌はすごくハマっているというか、
よく傾倒している文化の一つではあるんですけど、
なんか短歌によって確かに救われることって結構あったなーと思っていて、
それはなんか短歌の独特のこの形式によるものだと思うんですけど、
当たり前ですけど57571で31文字っていう非常に短い詩なわけですよね。
小説1作読むよりも圧倒的に短いと。
そのときに小説って誰かが言ってたんですけど、
ドーナツのなんかこの、表現忘れちゃったんですけど、
ドーナツの空白を描くようなものだみたいなことを確かに言ってて、
で、その中にあるそのものを描く、ドーナツそのものを描くんじゃなくて、
そのスワッと周りだけ描くことで想像をさせるみたいな、
描く具体性に限界はあるので、
どっちかというと描きすぎずに想像させる、感じさせるっていう、
そういう文学なんだってことを言ってて、
だからこう31文字でみんなにみんなドンピシャに刺さる単価ってあんまりないと思うんですけど、
でも有名なサラダ記念日みたいに、
この味がいいねと君が言ったから7月6日サラダ記念日っていう単価を読んで、
それがじゃあ自分の家庭とか自分の家族とのパートナーとね、
っていう時に、こういうささやかな日常を大事にしていきたいなって思ったりとか、
自分の中全く同じ7月6日なわけじゃないと思うんですけど、
じゃあ今日はいつものカレーかもしれないけど、
これちゃんと味わって食べようかなとか、
心の歯車がちょっと噛み合ってなかったところを整えてくれるような、
具体的じゃないからこそ入り込める隙間があって、
自分に投影して考えることができると。
そういう効果がなんとなく単価ってある気がして、
なんかすごい刺さるみたいなことがあるわけじゃないんですけど、
なんとなくこう風呂に浸かるみたいな感じで通入できるような、
こんなものな気がするんですよね。
なるほどね。
そうだな。だから、作り手の意思はどうかわかんないけど、
その時代の大多数の大衆に響くみたいなものもあるだろうし、
先見性がありすぎて、その時代の人には響かなかったけど、
後の時代の人には響くみたいなこともあるかもしれないし、
アートってね、そういう意味で、
だから完全にパターン化はできないけど、
余白がある分いろんな人に響く可能性があるなと思うね。
受け入れられている人の単価は余白っていうものがある気がして、
もう一個単価をシェアすると、タワラ町の単価なんですけど、
これまでに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海っていう単価があって、
なんかこれも一個僕の中でお守りみたいになってる単価ですね。
まあね、誰しも嘘とかちょっと言い過ぎてしまったなとかってあると思うんですけど、
なんか自分、そういう時になんかへこんだら海に行くみたいな、
そういう収集があるじゃないですか。
それはなんか行かなく、実際に行かなくてもこの単価を読むと、
なんかその海の前に来たような気分になるんですよね。
ダサーンっていう音が聞こえてきて砂浜にじゃりっと砂ってみたいな。
なんかそういうこうシーンを想像させてくれて、
なんか海、大きい海でまあこんな誰かをちょっと傷つけてしまったけど、
まあまた明日からちょっとその謝って一緒に関係を作っていこうとか、
そういう気分にさせてくれるんですよね。
なるほどね。
短歌と個人的な体験
なんか海とかそういうなんか壮大な自然とかは、
そういう効果を生み出しやすそうな気がする。
確かに確かに。
星空とか宇宙とかなんかこう壮大なものを感じると。
確かに。
なんかね、自分の悩みってまたちっぽけだなとか思えたりとか。
またちょっと話は変わるけど、
最近こうサカナクションの山口一郎さんとかが結構YouTubeとかで発信とかもされてて、
この曲を書いた由来はとかどういう思いが込められててとか。
なんかもちろんこうなんだろう、曲自体聞くだけでも結構響く部分ってあったのはあるんだけど、
やっぱなんかね、こう作者の意図とか、
そういう時代の背景とか知るとこう違った味わい方ができたりするし。
だからさっき、芸術とかアートは触れて言語化しなくても影響があるっていうのはあったけど、
でもやっぱなんかね、その背景知ることで、なんだろう、見方が変わるとかある気はしてるから。
確かに。
まあ両方ね、どっちも意義あるんだろうなと思うけど。
確かに確かに。何のこっちゃわからんけど、すごいビシビシ感じるものもあれば、
何のこっちゃわからんくて、なんやこれっていうのもあるじゃないですか。
それは確かにこう校舎の方で言うと、なんか補助線があると結構急に入ってくるものがあったり、
そういうことはまあまあありますよね。
自分の例だと、結構そのクリエイティブ的な活動しようとしてて悩んでる時に、
美術館とか行くと救われるみたいな感覚が結構あって、
だから突拍子もないものを見ると結構救われるなっていう感覚があるんだけど、
例えば日本だと岡本太郎さんとか、最近も欧米でジョルジュ・デ・キリコっていう画家の作品ちょっと見に行ったんだけど、
シュルレアリスムって言われるような、まあいわゆるシュールっていうような僕の語源だけど、
こうなんか本当想像上の産物っていうか、何でこれとこれ組み合わせたんとか、こういう描き方してんのとか、
人巾包袱ってるやんみたいな絵とかを見ると、なんかこう想像力かき立てられるっていうか、そういうの好きなんだけど。
で、まあなんでそういう絵を描いたかっていうと結構、キリコっていう作家だと、
20世紀初頭ぐらい、1900年ちょっとぐらいで結構活躍してたって感じなんだけど、
やっぱニーチェの哲学章とか、ショーペン・ハン・ワーとか、あの辺からめっちゃ影響を受けてますみたいなとかがあったりして、
で、自分はなんか最近哲学とかよく読むから、そのニーチェとかショーペン・ハン・ワーとかもたまに読んだりしてたんだけど、
なるほどこういう文章から影響を受けてこういう時代背景でこういうのを描くんだみたいなとかがわかると、
なんかね、絵見てこうなんか没入するだけじゃなくて、もうちょっとこう作家の心情を読めるっていうか、
やっぱそういう面白さはあるなぁと思うから、
まあまあやっぱり両方あるよねって感じ。
そうですね。
なんか、まあ絵なんてわかんなくてもいいんだよみたいなことを言ってる人って結構クロートというか、
作り手か評論家みたいなクロートが多い気がしていて、
なんかそれをまあ素人の僕とかが聞くと、なんか突き放されたような気分になるんですよね。
なんなんですかね、そういうものなのかもしれないんですけど、
今何も感じてないけど何かを欲してるものからしたら、
いやいやちょっと待ってくださいよと、理解したいんですよっていうので、
なんかその人のインタビュー読むとか、なんかキャプションをじっくり読んでみるとか、
そういうこの理解しようとする先に何かちょっとでもつかめることがあったら、
それはそれでいい芸術鑑賞だとは思うんですけどね。
そうだね。
まあただねやっぱり自分以外の人が描いた作品だから、
いかに心情を読んだりとか背景を知ったとしてもそれが本当に正解かわかんないし、
だからこそそこまで知らなくても見るだけでもいいんだよって思ってるかもしれないけど、
だから味わうだけ、だからそうだね、味わうだけでもいいし、
芸術と医療の相互作用
なんか背景を知りながら、なんか知ったつもりになるぐらいかもしれないけど、
それでもいいし、もっと深く入り込むでもいいし。
それで言うと今思い出したのが、コンテキストデザインっていう本があって、
ファクラムっていうデザインイノベーションアームの人が書いてる本なんですけど、
世の中には芸術作品しかり、サービスしかり、文脈の強弱があるという風に言ってて、
例えば強い文脈っていうもので言うと、これはこういう風に使うものですっていうのが、
はっきりされているもの、例えばリモコンとかそうですね、チャンネルを変える、
番組を見るってここに余白がどれぐらいあるかっていうと、そんなにはない。
なんですけど、世の中に弱い文脈として演じされているものもあって、
例えば、芸術とか本当にそうですよね、委ねられてるというか見る側とか、
あとはその人が作ったプロダクトで砂時計があるんですけど、
この砂時計をどう使うかっていうのをいろんな人に使って、試しに使ってもらったら、
全然いろんな違う使い方があるので、
ではそのコンテキストっていうこの言葉を紐解くと、テキストをコンで一緒に作ると。
受け手と差出しが一緒にその文脈を作っていく。
受け取った人が使い始めて予約完成するものがあって、
今そういう弱い文脈のサービスがもっと必要なんじゃないかってことになりますね。
なるほどね。
伝統医療と西洋医学の違い
だからなんか、自分最近聞いたボイシーの収録があって、
機能消費と記号消費っていう話がされてたりして、
機能消費はもうまさにその機能自体っていうのを求めて消費するっていうのがあって、
記号消費はブランドとかそういうそのもの自体っていうよりも、
それを持ってる自分がいいとかっていうのがあって、
結構その時代は移り変わってきてるって感じなんだけど、
だからそのさっきのコンテキストが高いのはどっちかっていうと機能的なもので、
低いのは記号的なものとかっていうのもあるかなって気がしたかな。
確かに確かに。そうですね。
なるほど。
だからまあアートはね、とか芸術はなんだろう、
機能的なものになりうるのかな。
なりづらいとは思うんだけど、基本的には記号とかそういう。
そうですね。
低そうではあるんだけど。
確かに確かに。
アートで、
記号的。
まあだからもう芸術は例えば医療であるみたいな、
一度決めたりするともう芸術による医療とか治療っていうと、
機能って感じだと思うけど、
そこまではなかなか言い切れはしないだろうけど、
基本ですね。
どうなんだろうね。
例えばこの絵とか音楽はこういう障害とか疾患を抱えている人にとってはめちゃめちゃ良くて、
すごい心の状態が良くなるんですみたいなエビデンスが出たりしたら、
それは機能的なアートって感じなのかな。
確かに確かに。
あるかもしれないですね。
そうなるともうそれは芸術って呼べないのかもしれないけど。
確かに。
なんかその、病気の人に芸術を差し出すっていう直接的なところもあれば、
なんか芸術の考え方で医療を行っていくっていうのも一個あるんじゃないかなと。
この本にもちょっとそういう描写があるんですけど、
例えばまあすごい乱暴かもしれないんですけど、
西洋医学が病気を治すことを目的するとしているとしたら、
他の伝統医療では健康になることを目的にしているものが多い。
はいはい。
だから、病気が治れば元気になるって考えるのが西洋医学。
はいはいはい。
部分としての病気に注意を向ける。
一方で伝統医療っていうのが元気になれば病気は治るって考えていて、
全体としての元気とか、東洋医学とかは多分近いと思うんですけど、
調和に注意を向けるのかっていうその違いを大きく分けるとあると。
なった時に伝統医療、さっきの脳学とかっていうのもどっちかというと伝統医療よりの考え方で、
健康というよりはいかによく死ねるかっていう。
そしてに注意を向けていくっていう、そういう考え方ももしかしたら西洋なんじゃないかっていうことも、
多分この本では言わんとしていると思うんですよね。
なるほどね。
なるほど。
うん、それはあると思う。
さっきの話でいうと、どっちかというと伝統医療の方が芸術とかに近い感じはあるし、
本当になんか前回も確か収録が西洋医学と東洋医学の違いからそういう話をしてたんだけど、
やっぱり両方がうまくバランス取れて機能していくと部分的な課題も解決できるし、
課題も整るし、ちょうどいいよねって感じだろうと思うから、
ちょっとまだね、100%芸術がどう医療と関わるかっていうのは見切れてない部分があるけど、
だいぶいろいろ考えるきっかけになったし。
そうですね。
一朝一夕、一石ではないテーマだと思うので、
そうだね。
ちょっと俺に触れて話題に出していきたいですね。
ですね。
はい。
じゃあ今日はこんな感じで、芸術と医療の接点というか関係性みたいな話をしてみました。
以上です。ありがとうございます。
ありがとうございます。
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