はい、始まりました。 余白のエクリチュール、訳して余白ちゅる。
この番組は、異なる時間や場所を生きてきた2人が、 お互いをよく知らないところから始めたポッドキャストです。
様々なテーマについて、それぞれの感想や解釈を起点に、 違いや分かり合いなさを楽しみながら、言葉を交わします。
よろしくお願いします。
はい、お願いします。
はい、お願いします。
えっと、今回はですね、
チュヒチョルさんの、バラバラな世界で共に生きる、 ビチャード・ローティーの哲学を読んで話していきます。
はい。
はい、えっと、これですね、ちょっと選んだ系っていうのが、
なんかこの前、その対面会収録した時に、 これいいよって話になったんですけど、
私がチュヒチョルさんのバザールド・クラブと、
あとローティーの人類の火曜のための哲学ってやつを積んでて、
それがちょっと難しかったから、
ちょっと別のなんか導入の本を読みたいなって思ってたところで、
これがその本屋さんに売ってたからちょうど、 いいなって思って手に取ってみました。
で、これがなんだっけ、NHK出版から出てるやつで、
100分で名著のチュヒチョルさんがした回の、 ローティーのまた別の本があって、
偶然性アイロニー連体っていうのがあって、
それをちょっと大幅に過失修正した本らしいです。
なので、なんかローティーのその今までの会話についての哲学について書いてるって感じですね。
ちなみにローティーのことは知ってたんですか?
ローティーのことは多分チュヒチョルさん経由で知って、
最初バザールド・クラブのことを言ってたから、 そこで知ったって感じですね。
チュヒチョルさんのことは知ってたんですか?
チュヒチョルさんのことは知ってました。
チュヒチョルさんはどこで知ったかな、でも。
チュヒチョルさんは最近どこで知ったのかな。
全然記憶にないけど、なんかバザールド・クラブと同時に知ったんだよな。
なんかチュヒチョルさんの存在単体で知ったわけじゃなくて。
どこで知ったかな。
ちなみに僕は多分フェアネスを乗りこなすはなんとなく知ってて、
こういう人がいるんだなって思ってて、
詰んではなかったけど、いつか読みたいなって思ってて、
多分明確にチュヒチョルさんのことを認識したのは、
三宅さんのポッドキャストに出てた時で、
うわー、この人やべーわ、マジで知的マッチョというか、
マジで行動量がエグすぎると思って。
そうなんですよね。会社員をしながらだしなって。
そこもあんまりちゃんと知らなかったから、
普通にガチで、調べられててくるから言ってもいいと思うけど、
普通にガチで電通で働いてて、英語教授でやってて、
普通にいろんなところに行ったりもしてて、みたいな。
どういう、つやちゃんもそうだけど、
どういう時間の使い方したらそうなのか、
俺にはよくわかんないんだけど、
そういう人の体感覚が多分自分にも合ってるっていうか、
なんかピンとくるところがあるから、
なんか気になるんだろうなって思って、
特にチュさんのことは最近気になってたしから、
この本はもともとつやちゃん達とスタジオエッセンスと話すのに、
もしかしたらなんか関係あるかもなって思って、
ちょっと事前に読んだのが僕のあれだったんで、
僕もローティンのことは全然知らんのですが、
はい、そんな感じです。
私はこのポッドキャストで、
お互いがどういうところに刺さりポイントだったのか、
みたいなことを聞きたくて、
私の刺さりポイントは、
私は結構これを読んで反省したというか、
反省した。
反省したっていうか、
自分ってこうだったのかもっていうのを、
客観的に捉え直す機会になったなっていうのがめっちゃ思ってて、
私はこのポッドキャストで、
政治の話ってあんまりしたくないし、
それポリシー的になんですけど、
政治の話っていうよりも、
自分の一人間の思想的な話と、
それがどう解釈されたのかっていう話として話したいし、
それを受け取ってほしいんですけど、
私って、
あんまり自分のことをずっと中立って思ってたんですけど、
よくよく振り返ってみると、
ずっとゆるリベラル的な価値観の中で生きてきたなっていうのが、
めっちゃ思ったんですよ。
で、
私、
ずっとそうで、
逆に公衆的な人が周りにずっといなかったんですね。
ローティの哲学について、
この本を読んで思ったんですけど、
基本的にずっとそういう価値観の中で生きてきて、
それは自分が気づかず、
そういう側だったんですね、ずっと。
小学生の時からも、
親が普通に自民党の政権を批判してて、
中学生とか小学生の時とかも、
自分のクラスの人とかと議員の給料下げないとやばいとか、
政府の厳寒政策見直さないとやばいみたいなことを普通に話してた記憶があるんですよ。
ずっと大学入っても、
あんまり保守系の人ってほんといなくって、
逆にリベラル系の教授が、
すごい強烈なリベラル系の教授がいて、
その人の話を聞いてたりとか、
社会人になってからも、
周りにいる人ってそういう系の人だったんですよ。
資本論の倫読会に参加したり、
その中にいる人はやっぱりリベラルの人が多くてみたいな感じで、
ずっとそれが普通って思って生きてきたけど、
そうじゃなかったなって気づいたってことがあって、
それで気づいたのが、
私よくディスコードで、
某連続なにがしの名前を出すんですけど、
誰にも分かられない某連続なにがし。
誰にも分からない話で、
その時に佐藤彦君の話が一時期あったんですよ。
それが私が自分のTwitterのタイムラインには、
普通にいっぱい出てきてたから、
その話とその周囲のこう思うみたいな話が出てきて、
これって自分の現実の話、
現実で周りで、
これって届いてるのかなみたいなことを気になって、
話してみたんですよ、同僚に。
これ知ってるみたいな。
そしたら、佐藤彦君っていう話があってみたいなことを言ったら、
同僚がすごい今の首相に対して、
すごい相性を込めた言葉で、
その首相のことを表現してた時に、
私めちゃくちゃびっくりして驚いて、
そういう人が本当に周りにいなかったから、
普通にスレッドでしか見たことなかったんですよ、
そういう人を。
スレッドでは逆に見たことあんの?
なんかね、めっちゃ。
Xだと本当にリベラルの人しかいないんですよ、
おすすめに上がってくる。
私のタイムラインではね。
でも逆にスレッドだとめっちゃそういう人がいて、
本当にそうそう、そういう推し活的な感じでやってるみたいな。
それはスレッドのアルゴリズムが機能してないのかもしれないんですけど、
私すごくその時びっくりして、
その時はもう何も言わなかったんですよ。
別にこれを追求したところで何もならないしみたいなことを、
その時は単純に思ってたんだけど、
このバラバラな世界で共に生きるっていうのを読んで、
この読んだ時に、
その時の出来事を事後的に解釈すると、
結構自分の中で発見があって、
たぶん私は自分がリベラル側の人間で、
今まで出会ってきたことがない人に出会って、
その時に私はたぶん、
なんでそういうふうに親しみを持って話し、
そういうふうに接してるの?みたいなことを、
たぶん聞きたくなったと思うんですよ。
でも聞きたくなった時の自分の感情を深掘りしてみると、
それで事後的にそれを解釈すると、
たぶんおそらくその人に対して、
それは何か良くないことだよみたいな、
啓蒙に走りたい気持ちが、
1ミリぐらいはあったかもしれないみたいなことを思って、
それってたぶんまさにこの本で書かれてることだよなって思ったんですよね。
自分は正しい側にいて、
それを信じていて、
だけどこの本で書かれてるのは、
その自分の価値観というのも偶然性によって規定されたものだから、
その正しさ、本当に正しいとは言えないんだ、
そのことを自覚することが大事で、
そこから連帯が生まれるみたいなことを言ってたと思うんですけど、
まさにそうだなと思って、
私は無直角にそういう気持ちを相手に対して持ってたかもしれないけど、
それって自分が今置かれてる立場っていうのを客観的に認識するっていうか、
自分が選び取ってきたものを、
ただ私は別にめちゃくちゃ自分がこういう気持ちを持って、
こういう生徒に入れてますっていうのはあんまりなくって、
逆にある種自然的に自分が作られた価値観の上で、
生徒をどこを支持するとまではいかないけど、
どこに投票するかっていうのを決めてたな、
みたいなのを思ったんですよね。
その偶然性に対して自分も自覚的にならないといけないっていう、
すごいそこが勉強になりました。
だからこれまで読んでよかったなってすごい思えた。
この読む前はもうちょっと会話の方を、
会話について考えるってことに重きを置きたいって思って、
そういう気持ちで読んだんだけど、
逆にそっちの方向ですごい学びがあったなっていう、
そういう私の感覚ですね。
そこが私の刺さりポイントだった。
ここは私の中ではつながってるんだけど、
どう言えばいいかな。
ちょっと話をもう一回整理すると、
クロスリーグのジェミニーに読み込ませた結果で、
記憶的無関心っていうのが改めてどういうことなのかっていうのが書いてあったから、
それをちょっと一回復習すると、
書いてあるのは、リベラルにおける寛容とは、
相手への思いやりというよりも、
むしろ頑張って相手に無関心であろうとすることです。
他者との違いに直面した際、
なぜ理解してくれないのかと踏み込むのではなく、
互いに干渉しないためのブレーキ、ガードレールを意識的に作動させることが、
バラバラなまま社会の崩壊を防ぐ最低限の作法とされます。
と言って、ジェミニーはまとめていますと。
で、なんとなくこれはわかるなと思ってて、
今、ぽむさんはそれを共感とかフィクションの話につなげてくれたんだけど、
俺はそこがまずピンとこないんだよな。
どっかの回でも言ったと思うんだけど、
そもそも共感っていうものに対して結構警戒してる。
はい、言ってましたね。
ですよね。
なんていうか、そもそも共感するということは、
相手に関心を持つということな感じがしていて、
なんかもうその時点で、この積極的無関心という話から話が変わっている気が、
個人的にはしているのが一個。
しょうごさんにとっては、共感も過剰すぎるようになっちゃう。
共感じゃない気がするんだよなって思ってるかな。
無関心ってどういうことなのかっていうことだと思うんだけど、
俺の今の直感、俺もあんまりここはそこまで考え切れてないんだけど、
さっきのぽむさんの事例、同僚と話したときのみたいな話に引き寄せると、
俺の感覚だと、だからその話を聞いて、
そういう人もいるんだね、ぐらいにするっていうのが、
俺の今の解釈、積極的無関心。
そこで終えるっていう感じ。
だからどこまでいかない、そういう人もいるんだなっていう、
もうそれくらい、テレビでこういうことやってるんだぐらいな感じにする。
だからこそ今、俺の課題認識に引き寄せちゃうと、
SNSみたいのはどうしても過剰につながりすぎてると思う。
もはやいいねを押すこと自体もちょっとつながりすぎてるかもしれないって最近は思っている。
引用リツイートみたいなものは明らかに過剰すぎる気がしている。
なんかね、そこら辺なんだよな。
ちょっと話がそれちゃうかもしれないけど、
サイジワイセンスと話したときも俺が言って、あんまりみんなピンとこなかったかもしれないけど、
最近俺は多くの人とつながりすぎてるみたいな感覚をちょっと得ていて、
もうちょっと、これは福岡さんのいう概念とちょっと違うかもしれないんだけど、
もうちょっとそうであるべきな感じがなんとなくしているというか、
ここで言うと、もう少し相手のことは知っててもいいし、もちろん知ってたほうがいいと思うんだけど、
なんかそこがちょっと強く結びつきすぎちゃってる人が多くなりすぎてる気がして、
多分もうちょっと、ダンバースみたいな話もあるけど、
やっぱり人が仲良くなれる人の数ってそんなに多くないはずなのだが、
なんか結構そこがインターネットとかの話とかアルゴリズムの話で、
どんどん多くの人と付き合う感じになっちゃってる気がしていて、
だからこそそこから少し寄り戻すための積極的無関心みたいなものが結構重要なんじゃなかろうか、
みたいなことが今俺が思ってることだけど、なんかあんまり上手く自分の中でも深まってない気はする。
そうですね、なんか関心を持ちすぎた結果がやっぱあのSNSの炎上とか、
なんか、なんだっけ、らしいなってるから、それはめちゃくちゃ確かに過剰だなっては思うんですけど、
そうなった時に、そのちょっと無関心の話で言うと、
でもそのローティは、人類のミッションは会話を存続させることだって言ってるわけですよね。
それが、どうやったら実現できるのかっていうのは、めっちゃ難しいなって思ってて、
またこれはまた。
そうなんだ。
そうなんです、これ多分最初の方に。
その文明がわかってるんだけど、なんかそれは今の話の流れから、
それをじゃあ人類が会話を存続させるっていうのが難しいねっていう気結に俺はなってない。
人類が別に会話を存続させることは、むしろその積極的無関心的な態度だからこそできるんじゃないかって思ってる。
なんかちょっと話を俺の理解で進めちゃうと、なんかちゅさんの話の中でもう一個面白いなって思ってるのが、
そのカンバセーションっていう会話と、そのディスカッションとかダイアログ、議論とか対話っていうものの違いみたいなことを多分この本でも述べていると思います。
その議論とかダイアログみたいなのって、ちょっとうまく説明できないかもしれないけど、やっぱりなんかこの合意形成が目的だとか、
言葉で論理的に重ねていって何かゴールを導き出すみたいなことが議論とか対話とされてるけれど、会話はそうじゃないって言ってると思っていて、
カンバセーションっていうのは、ラテン語の共に時間を過ごすとか一緒にいるっていうみたいなところからに由来してるって言ってるから、
別に話す必要はそもそもないんじゃないかってことを弦外に言ってると、弦外?直接的に言ってたかもしれないけど、なんかそう言ってる気がしていて、
余談をもう一個挟んじゃうと、これを読んだ時に俺が思い出したのは渡辺幸太郎の表現の手引きであって、
あそこの中でそもそも人が近くにいるということ自体が表現であり得るんだみたいなことを言っていたことを俺は思い出したんだけど、
めちゃくちゃ拡大的な解釈が。
でもなんか繋がってる気がしていて、一緒にいるということ、共に時間を過ごすっていうことの重要性みたいなことをもう少し考えられるんじゃないかって思ったんですよね。
って考えるとさっきの話は、だからそういう考え方あるんだねみたいな、それくらいの接し方がむしろ適切な気がしていて、
そうすると別にその場の会話はそれで終わるかもしれないけど、その後、その先の会話は無限に開かれていると思うから、
別にローティが言ってる人類の会話の存続性みたいなこととは全く反しないし、むしろ整合が取れているという見方はできるんじゃなかろうかと俺は思っている。
今ちょっとなんか不倫おじさんですけど、私はその会話と対話の区別っていうのをしてなかったなって思ってて、
確かにローティが存続すべき会話っていうのは対話じゃなくて、議論とかじゃなくて、あくまで会話の方だなってことですね。
そうそう理解してる。
やられてるのは多分どっちかというと議論よりで、合意を目指すとか打ちまかすとかそういうところでやっちゃってるから多分過剰になりすぎてるって多分しょうごさんも思う。
だけどあれが会話であれば多分同じ回数やってたとしても別に何か過剰ではないだろうし、
多分何か朝尾博記が言ってるのもそういうことなんだろうなってその平和と愚かさ。
語りすぎてるとこは、私は何も読んでないですけど、なんかざっくり、ざっくりでね。
そう、語りすぎてるっていうのは多分議論をしようとしすぎてる。
まあそうかもね。
その自分たちに置かれてる立場について。
だけどもっとその会話で意味がないものとかが大事。
そうね。
いや本当に難しい、難しいんだけど。
ちょっと余談を挟むと、さっき最初ポムさんはなんか私はずっとゆるリベラルであったみたいなことを言ってたけど、
俺の話をしておくと、俺は全く、まあそうとも言えるんだけど、
ポムさんよりは少なくともそういう環境ではなくて、
うちでは親は政治の話はしないっていうもうそういうスタンスだったんで、
そういうことは全く話したことがない、今もないほとんど。
別に学校とかでも別にそういうことを話したことは本当になかったし、
リベラルみたいなことの自覚がほとんどないなって思う。
けど、これは前にタイタンとか言ってた気がするけど、
やっぱただちょっと時代的になんとなく内面化されているリベラル感みたいなのは確実にあって、
そういうことに多分社会に出て本を読んだりとか、
なんかその人文みたいなところについて少し触れてきた中では、
まあ確かに振り返ってみるとそういう感じだったんだろうなーみたいなことをちょっと思ってはいますと。
で、何を言いたかったかっていうと、
ただ多分だから俺は根本がそれだから結構人間に対して諦めてるところが多分あって、
俺の関係だとリベラルみたいな人たちは結構、
これはいい意味であえて言うけど、
その理想をちゃんと高く持って、
それを実現することの方が絶対に社会にとって世界にとっていいはずだっていうのが根本にあると俺は思っていて、
多分俺はそういうのはあんまない。
あんまないから、
そのさっき言った固いすぎてるみたいな話とかに対してなんだけど、
あーずーはヒロキが言ってることが俺は結構ふに落ちるのは、やっぱ人間は愚かだよねと。
愚かであって、
SNS的なものとかあんなのあったらみんなやっちゃうんだから、
SNS規制とか俺は多分した方がいいと思ってるんだけど、
だからさっきもちょっと言ったけど、
だからもうそのSNSの、もちろんいい面があるのはわかってるけど、
そのリポスト、いいねみたいな、
やっぱそういう構造自体がちょっと間違ってるんじゃないかなっていうのを最近すごく思っている。
それで私ピンときてないんですよ。
それは何なの?
それも繋がりすぎを助長しちゃうからって。
そうね、そういうこと。
そういうこと。
機能としてはあってもいいのかもしれないけど、
例えばそれが数字として見えるみたいな話とかって、
やっぱちょっとやりすぎなんじゃないかな。
少なくとも、
これは異論がある上であえて言ってるけど、
普通に人間社会、人間が普通にインターネットから離れて社会を生きているときって、
言うて数百ぐらいまでの数しかうまく認知できないんじゃないかって、
なんとなく最近思ってるんですよ。
人数とか例えば、
これはポッドキャストエピソードとか言っても思ったんですけど、
数百ぐらいの人が盛り上がってたら、
すごい盛り上がってるって多分思うと思っていて、
それが数千、
万とかになってくると、
ちょっと話は違うかもしれないけど、
例えばゼロと数百の差分と、
数百と数万の差分って、
全然違う。前者の方が明らかに多くて、
後者の方はそんなに差分がない気がしていて、
何が言いたいかっていうと、
その数字っていうものはあんまりうまくちゃんと認知できないんじゃないかって思っているから、
100万インプレッションですみたいなのが、
一体どれくらいすごいのかみたいなのを、
うまくよく理解できない気がするんですよね。
140万リポスト1万いいねみたいな、
マンバズみたいなのが。
だからそういう数をそもそも出すこと自体もやめた方がいいんじゃないかなっていう感じがしていて、
みたいなことを思っている。
だからあれが人間の認知をバグらせているんじゃないかなって感じがしちゃう。
そうですね、しかもそれが絶対的な数だとして、
例えば出版社とかもSNSで何人インプレッションみたいな感じで帯に書いちゃうから、
それが売れていることの指標で認識しちゃって、
お行き着く先はアテンション、エコノミーって感じになっちゃうんですよね。
確かに。
そう。
ちょっと話が外れちゃったかもしれないけど、
俺が言いたかったのはそういうことで、
100万インプレッションって一体何を指すのかよくわかんないんだよなと思って。
それは一体何なんだろうか。
私もわかんない、それは。
だからそういうことが人の余計な関心みたいなのをあまり引き過ぎている気がしていて、
だからそういうところを変えたほうがいいと思っているんだけど、
話をあっききに戻すと、
だからこそ積極的無関心みたいなものをどうふうに実現していくのかっていうのは、
結構大事な話な気がすごくしていて、
っていうのが俺の今の課題認識。
人との関わりでもそうだし、
数字一つとっても関心を持たざるを得ない、
そういう設計になっちゃってるって話。
うん、そうね。
それはやっぱ難しいですよね。
こういうことを自覚をしようって言って、
私たちは多分それでこういうふうな、
これは良くないよねみたいなことを自分で反省するかもしれないけど、
別にそれで私が思ったところで別に世界って変わらないんだよなみたいなことをめっちゃ思うんですよね。
そうだと思うよ、別に。
そうなんだけどさ、みたいな。
そうなんですよね。難しいよ。
難しいね。
ぽんさん、他話したいテーマはあるんですか?
私あともう一個は、ちょっと一個話したいことあったんですけど、
忘れちゃった。
忘れちゃったの?
じゃあこの間つなぎで話しておくと。
でもちょっと待って、一個挟んどくと、今自分で話しててなんとなく一個思ったのは、
SNS的なものがダメだよねみたいな今の話をすごくごくシンプルに話すとそうなっちゃうんだと思うんだけど、
それに対する多分異論として普通にあり得るのは、
じゃあマスメディアだったら良かったのかみたいな話はあって、
それは今俺もちゃんと考えてなかったから今考えてるんだけど、
でもなんか俺の感覚、マスメディア的なものに対しての関心ってみんなそんなあったのかなみたいな感じがあって、
意外と例えば市長率みたいなのは確かにあったのかもしれないけど、
みんなそんなになんか関心を持ってたってよりかは、
なんか良くも悪くもみんな見てるから見てるぐらいな、
なんかそういう要素も結構あったんじゃないかなみたいなことをちょっと今ぼんやり考えていて、
そうするともしかしたらそういう話の中から積極的無関心みたいなことも言い出せられないかなみたいなことは、
なんかちょっとぼんやり思ってたっていうのはちょっと感想、今。
ちょっと待って聞き逃しちゃったんですけど、
マスメディアの話はどっから出てきたんですっけ?
俺が今話した話はすごく極端にまとめると、
SNS的なものは良くないっていうことを俺は言ったと思うんだけど、
でもそうすると多分普通にあり得る反論として、
じゃあマスメディアの方だったら良かったの?みたいな話はあると思っていて、
それでマスメディア的なものについてちょっと考えてましたっていうのが今の話。
ぼんやりと考えてましたっていう。
それがその積極的無関心とどう繋がるかって話ですね。
マスメディアは、
マスメディアも別に、それも結局はどうなんだろうな、
SNSとマスメディアの違いで言うと、
マスメディアは、マスメディアの方がもうなんか、
所有のものとしてそれがあって、
もうなんかなんだろうな、それを選んでる感覚はない。
ですけど、
でもSNSも、
SNSもそうだもんな。
別にそのとき消えてるんで、
そうなんですよね。
マスメディアだからこそ、
無関心に、
どっちにその無関心性があるかというと、
別にそれはどっちも、
それって使う人の、
結局それって使う人がどういう意識でやってるかって話で、
別に本当に認識ない人は、
マスメディアを使っていいほうが、
SNSを使っていいほうが、
選ばされてる感覚はないままに見ちゃうみたいなところはありますよね。
やばい、つまんない話になっちゃった。
そうなんじゃない?
そうなんじゃないって感じするね。
難しいな。
無関心を、これは何?
無関心をどう形成していけばいいのかっていう話になるのかな。
俺が興味を持ってるのはそういうこと。
どういう態度が無関心であって、
それはどうやったら実現できるのかっていうのが、
多分俺の理解だとリベラル的な思想っていうのは、
関心を持つことが重要だってずっと言ってたんだと思うんですよ。
そうですね。
共感みたいなこともそうだと思っていて、
社会に対して、いろんな人がいることに対して、
ちゃんと関心を持ちましょうってずっと言ってきたと思っていて、
それが多分、
多重化なくなってきてるのがここ数年。
特に顕著になってきてるのがここ数年だと思っているから、
じゃあそこに対してどうする?の一つの考え方は、
やっぱり無関心的なものが重要なんじゃない?って言い戻しだと思っていて、
それに対してはやっぱりちょっと考えなきゃいけないんじゃないかなって思うんだよなって。
無関心的なものが表れてる場所ってあるのかな?
それは俺もあんまちょっとまだ、あそこまではわかってないけど、
やっぱり一つは、さっき言った会話みたいな話の中の、
一緒にいるっていうことが結構重要なんじゃない?とは思っていて、
何回か前に話したエピソードの中でも、
一人とみんなの淡いみたいなタイトルつけたと思うけど、
あれとかも結構重要なのは一緒にいることなんじゃないか。
同じ場で、みんなが体験してるけれど一人でもあるみたいな、
そういうことを話した気がしていて、
それもこの文脈から考えると向上線は引けそうだなとは思っている。
今思い出しました、それ聞いてて、私が話したかったこと。
まさにプロジェクトヘールメアリー的な立場だなって、めっちゃ思った。
そうなんですよね。
あれって、その中にこれ、ちょっと待って。
あれは会話をして、会話はあれって言い換えによって会話が進んでいたんですね。
お互いの文化と思っている言語体系を交換し合う、
それで翻訳し合うことで会話が進んでいて、
なんか通じ合うとかじゃないんですよ、あれって。
同じ創作物を作るにあたって、別に通じ合うっていうことは一回隅に置いといて、
一つのものを作り上げてくることが大事で、
その中でだけど、あの二人が象徴的なシーンとして描かれてたのは、
抱きしめ合うっていうことが、
つながることの手段というか、それによってつながる話があって、
プロジェクトヘールメアリーってそう考えると、
今の時代にこういうことが大事だったんだよってことを伝えているような気がするっていうことを思って。
これってね、このバラバラな世界で共に生きるを読んだときに、
ここっていうものはただデカルトの発明物なんだっていうことが話があって、
それともリンクしたんですよね、
私はリンクしたときの切な的なリンクの瞬間だけを覚えていて、
別にそれがどうリンクしていったかっていうのを全然小道にできてないんですけど、
そう思った。
分かんないけど分かる気もしなくもない。
プロジェクトヘールメアリー的だなっていう話は分かるっていうか、
結局ちょさんが言ってるのは、
言葉遣いみたいなのが、いろいろ考えていくしかないまでいってないかもしれないけど、
考えるのがいいんじゃないかみたいなことを言ってるのは、
すごいプロジェクトヘールメアリー的だなと思ったね。
そうなんですよね。
言葉遣いっていうのも面白い概念だなって思って、
確かにそうなんですよね。
そこが、それはめっちゃ確かにそこに現れてくるよなっていうのは、
すごい思いましたね。
これは思ったなぁ。
そうね。
すごい大事だなって思った。
ぽんぽんさんが話したいことはそんな感じですか?
そう、そんな感じです。
じゃあちょっと最後、僕が一個だけ話しておくと、
週6日、6月27日ですけど、
おととい、ちょさんと政治学者の宇野秀樹さんが対談してるイベントがあって、
ちょっと配信で見たんですけど、結構面白いと思うんで、
もし興味がある人いたら見てもらうといいと思うんですけど、
有料なんであんまり深み話すのあれなんですけど、
やっぱりリベラル、2人とも多分自認リベラルで、
じゃあどうしていくみたいなことを結構話してたんですけど、
やっぱきついよねみたいなことをすごく率直に話してた感じがしていて、
なんだろうな、どこまで、
リベラルっていうものが今の状況を含めて、
どこで合意できるのかみたいなのがすごく難しいよねっていうことを、
難しい世の中になったよねっていう、
風向きは非常に悪いということを改めて話していたと思っていて、
これぐらいは言ってもいいかと思って言うんだけど、
結構その中で1個かなり大きなテーマだったのが、
ちょっと俺はあんまりリベラルについて詳しくないから、
へーって思って聞いてたんだけど、
宇野さんは新書の中で政治とは何かかな、
ちょっと俺も読めてないから読みたいなと思ったんだけど、
書いてることが、朱さんがすごく聞きかかったって言っていて、
その話がすごく面白かったんだけど、
宇野さんは共通禅っていうものが、
重要まで書いてるかわかんないけど、
共通禅っていうことについてその本で書いてるらしいですと。
共通禅、初めて聞きました。
共通禅ってことは多分その時期どおりであって、
みんなで共通的にいいとできるものっていうことについてみたいなんだけど、
でもこれって多分リベラル界隈だと、
明らかに良くない考え方であると。
なぜなら共通禅っていう話をしちゃったときに、
何か正解がある、
何か唯一絶対の正解があるっていう話になっちゃうから、
なんて言ったらいいかな、
フェアネスに乗りこなしてもそういう話してると思うんだけど、
だからこそ禅っていうことと構成みたいな話っていうのは、
ちゃんと分けて考えないといけないっていう話をしてる中で、
リベラルを辞任している宇野さんは、
共通禅っていうのは、
もちろんそれはリベラルの中ではあまり良くないとされている話では、
普通にそんなことは当たり前的に分かっていながらも、
でも今共通禅的なものを考えないとダメなんじゃないかって、
直感的にある意味を持って、
こういう言葉を使ったみたいなことを話してて、
そこからのやり取りがすごく面白かったんだけど、
だからもうね、この辺の話はすごく面白いっていうか、
今そういうことについて考えないといけないんじゃないかなーみたいなことも、
そうなんですよね。
改めて思っちゃうし、
その話の中で、
だからすごい言論的な、
東広木、言論的な話ともすごく通じてるなって思ったんだけど、
その話の中でも、
そもそもこの考え方って、
宇野さん的には転向ってことは使ってたかもしれないけど、
哲学とか考え方が変わるみたいな意味があるかもしれないけど、
それでなんかすごい訂正するみたいな話とも、
すごい親和性を感じるなと思ったし、
やっぱその共通禅、
訂正することの重要性みたいな話も、
このローティー的な話の中では結構してると思うんだけど、
繋がりますね。
し、
共通的な何かが必要だっていう話になったときに、
最終的に行き着いたところが、
やっぱその日本的なものって何なんだろうねみたいな話だったりとか、
やっぱそこに行き着くみたいなことだと、
最近やっぱ言論界隈でもその、
日本って一体何なのだみたいなこと結構何回もやってると思っていて、
みたいなところに行き着くから、
やっぱなんか、
保守リベラルみたいな話じゃない?ないんだろうなみたいな話が。
本当にそう。
私が今言いたいのは本当にそうで、
それがもう回転されてきてるし、
どっちの立場だからこういうことを言うとか、
どっちの立場だからこういうことを大切にしたいって、
もうないんだって思いますね。
本当に。
多分どっちも、
どうやったら、
連帯って言葉でいいのかわかんないけど、
何か共有できるものを維持できるのかっていうことを、
話してるという風に思う。
し、
やっぱそれしかない気がする。
もうちょっとだけ言っちゃうと、
やっぱそれを解体してきたのは、
俺はテクノロジーだと思うから、
やっぱテクノロジーについてもっとちゃんと考えないと、
ダメなんだろうなって思う。
そうですね。
私もちょっとそこら辺、
覚えてないから、
でもこれは終わらないといけないなって本当に覚えますね。
テクノロジーが帰ってきたって、
特にアメリカでっていうのは、
あるから、
それがちょっと政治と結びついてきて、
っていうのもあるので、
考えるべき、本当に考えるべき言葉だと思います。
うん。