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5回に1回、シミポタとは離れた話もさせていただいておりますが、今日は知らんけどという話です。
関西の伝統的和法にですね、こうこうこうで、こうなんやろか、知らんけどって最後に言葉を、知らんけどという言葉をつけて、
にごすという伝統的和法がございます。伝統的か、わからんけどね、それこそ知らんけど。
話の話題というか、会話のやりとりの潤滑油として、知らんけどなっていう、無責任さをあえて表現するという、
そういうね、会話の手法とかいうわけでもないですよね。よく使われる感じがあるんですけれども、
私が今の活動しているイクノックでですね、知らんけどイクノーというね、あのインスタのアカウントが静かになんか流行っておりましてですね、
それはなんかイクノークのことを書いてるんですけど、最後に知らんけどって必ずつけるんですよね。
そういうこう、ルール、一定のリズムを刻んでまして、これあの、いいんです別に。はい、あの、いいんですというか、あのむしろ面白いんですけどね。
なんでかって言ったら、知らんけどって必ず最後に言うんですが、知ってるのがわかるから。はい、知ってて、最後に知らんけどって言ってるので、それがわかるので、
そしてさっき言ったあのね、関西の和法をあえてそうやって遊んでいる。
まああのね、何のあの、えっとね、利害もないあのね、発信ですから、知らんけどを言うて毎日毎日されて面白い話題を提供してくれるという事で面白いのでね、全然それは問題ないんですけども、
これですね、例えば、あの、情報を発信する時に知らんけどっていうのはちょっとやっぱりね、あの正しい情報を発信する時に知らんけどはね、良くないですよね。
緊急時はもちろんですけど、あの、まあ災害があった時に、まあデモをね、あえて流す奴はもう当然とんでもないですが、あの、わからんのんやけどこんなんちゃうかとかいうね、あの、
推測、ご自分の意見だけでその発信をされると、やっぱり逆にそれは混乱をしてしまいますし、知らんにやったらやっぱりあんまり言うとあかんのちゃうかなというふうに思います。
認識せずして評価せずという言葉がありますが、少なくとも評価をしようとするならば、相手のことを正しく認識しようと努力することがまず大事でございまして、
しっかり相手のことを調べたり、相手のことを知ろうとする努力をした上で、その上で評価をするべきかなという、知らんけどものを言うというのはですね、
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やっぱりあの伝統的技法でない限りはやっぱり無責任になってしまうかなというふうに思います。はい、まあどうなんですかね、知らんけどね。