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2025-01-01 22:52

第415回 植村健志氏(株式会社アズパートナーズ代表取締役社長兼CEO)【前編】

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今回は、株式会社アズパートナーズの植村健志氏にお越し頂きました。 

 

東証一部上場企業の常務取締役を経験後、アズパートナーズを創業。 

首都圏で介護付きホームなどを展開し、上場企業へと導かれたお姿から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

 

 なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。 

■経営者インタビューメディア「経営ノート」

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 ■WizBiz社長塾

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サマリー

今回のエピソードでは、株式会社アズパートナーズの代表取締役社長兼CEOである植村健志氏が自身の経歴やリクルートコスモスでの経験、そしてアズパートナーズの設立について語っています。植村氏は、新たな挑戦として、2024年に東京証券取引所スタンダード市場への上場を予定しています。このポッドキャストでは、彼がキャリアと独立の志向について話しており、特に宝公務店への転職や上場企業までの成長過程、経営者の重要性について深く掘り下げています。

植村健志の経歴
社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社アズパートナーズ代表取締役社長兼CEO 植村健志様でいらっしゃいます。
まずは経歴をご紹介させていただきます。
早稲田大学卒業後、上場デベロッパーにて共同住宅開発に従事、
当初一部上場企業で常務取締役になられていらっしゃいます。
その後、アズパートナーズを創業。
そして、2024年には東京証券取引所スタンダード市場に上場している上場企業の社長様でいらっしゃいます。
本日はよろしくお願いいたします。
上村です。よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますか?
埼玉県の、昔は岩月市って言ったんですけど、今は埼玉市の岩月区って言うんですけども、岩月の出身です。
なるほど。浦和レッツファンですか?
残念ながらあんまりサッカーでどこファンっていうのはないんですけども、埼玉で生まれ育った感じですね。
小学校も埼玉?
そうですね。岩月の小学校で。
小学校時代はどんな少年でいらっしゃいましたでしょうか?
野球少年でして、時代も時代だったでしょうけども、結構地域の野球チームに入って、野球少年で、
甲子園に行きたいなというのを目指してた少年です。
なるほど。じゃあ、夏は真っ黒になりながら。
そうですね。もう本当に野球が大好きで、野球ばっかりやってて、それで野球の強いところに行きたいって言って、
ちょっと中学からは違うところに行ったっていう感じですね。
そうですよね。埼玉県も野球ね、大変強い方向に中学を送っていらっしゃると思います。
中学はどちらにお勧めなんですか?
もう当時は、そこが有名だったのかな?
早稲田実業って早日が、野球といえば甲子園といえば早日みたいな感じだったので、
中学の受験が2科目しかないっていう風に聞いて、これは行けんじゃないかと思って、
中学受験をして早日に行きました。
じゃあ、岩月の方から東京の方に通ってらっしゃったんですね。
そうです。当時、早稲田実業は大学の前、早稲田の鶴巻町にあったんで、
岩月から新宿まで1時間半くらいかけて6年間通ってました。
なるほど。でも早稲田実業っていうのは、野球も強いですが、頭もよろしい。
頭もよろしい。
今はだいぶ良くなったみたいですけど、当時もそういう感じではあったんですけど、
僕はその頃は甲子園しかなくて、甲子園のために早日に行くみたいな感じで、
どうやらエスカレーターで楽に早稲田に行けるみたいなのもあったので、
一石二鳥かなみたいな感じですかね。
でも、小学校の時はスポーツ万能で勉強もできてと。
そうなんですけど、田舎だったので、埼玉の岩月は当時、
まだ蛍とかが夜見れたぐらいの場所だったんで、
田舎の中では多少できたものなのかもしれないですね。
なるほど。ありがとうございます。
中学時代は早日の中学は野球ばっかりですかね。
そうですね。中学3年間は野球をやってました。
どんな思い出とかございますかね。
そうですね。やっぱり埼玉の田舎もんというのをまざまざと見せつけられたというか、
小学校の時はピッチャーで夜晩みたいな感じで、野球では自信があったんですけども、
早日の中学入った瞬間に僕よりでかい人間、うまい人間がたくさんいて、
1年生、2年生の時は当然レギュラーにもなれないみたいな感じで、
勉強もそうでしたけども、野球も東京のレベルは高いなみたいなのをすごく実感した中学時代かもしれないですね。
なるほど。ありがとうございます。
高校も早日だと思うんですが、高校でも野球はお続けになられたんですか。
これが中学3年で、中学3年の時は副キャプテンをやってレギュラーだったんですけども、
野球ばかりが人生じゃないとその頃思ってしまったり、
ただスポーツは好きだったので、スポーツはやりたいなということで、
高校の野球部からも当然来るだろうと思われていたんですけども、
ちょっとそこはご遠慮して、ハンドボールという地味なスポーツ部活に移って、
高校時代を過ごしました。
野球部側では、監督、コーチ、OB、先輩達や同期の方々から、
なんで来ないんだとか言われなかったんですか。
そこまでの選手ではなかったと思うんですけども、
来るだろうな、高校でもやるんだろうなと思ってもらったんですけども、
ちょっとそこはいいかな、みたいな感じで。
当時の早日の野球部というのが、有名な荒木大輔さんが入った頃で、
めっちゃ強くなって人気もあったんですけども、
結構まだまだ昔ながらの部活で、
リクルートコスモスでのキャリア
ちょっと高校時代、それで終わっちゃうのは嫌だなと思って、
野球部はそこで引退しました。
早日を言えばね、大沢大輔か荒木大輔か。
そうですね、その後は斉藤祐樹ですよね。
僕の時代は荒木大輔さんが3年生の時の僕1年生になります。
なるほど、ありがとうございます。
その後、渡辺大輔に御進学になっていらっしゃいますが、
学部は何学部になったんですか。
社会科学部という、今はすごく偏差値が高くなった学部らしいんですけども、
僕らの時はどっちかというと、
推薦で行けるギリギリみたいなところで、
教育学部、文学部、社会科学部、
この3つだったらお前はいけるって言われて、
教育学部、文学部はちょっと違うなと思って、
その3つから選ぶんだったら社会科学部行きます、みたいな感じでした。
なるほど、浅野大学ではどんなことを過ごしていたと思いますか。
本当にぼーっと生きてきちゃったんで、
ちょっと自分で一人暮らしをして、
自活しなきゃいけないなと思って、
まず大学入学と同時に岩月の家を出て、
中野にボロアパートを借りて、
自分で生活するということで、
自活した生活を始めたというのがあります。
なるほど、一人暮らしは楽しかったですか。
楽しかったですよね。
本当にお金もなくて、
最近はあんまりないですけど、
俗に神田川みたいな世界を、
結構当時で言うと地でやっていて、
神田川のそばに住んでたんですけども、
あの世界がなんとなく楽しくて、
本当に4畳1間で、
当然お風呂はせんと行ってみたいな生活で、
アルバイトでどうですかね、
当時8万円から10万円くらい稼げたんですかね、
それで家賃が1万9千円みたいなところに住んで、
何らかでも楽しかったですね。
自分の生活が、
自分でいろいろコントロールできるということが、
すごく楽しかったですね。
基本的にはハンドブローとか野球とか、
そういうほうからは大学は?
そうですね、大学はまた今度ちょっとそういう感じで、
一旦数で自分で一人暮らしをして、
自活しようみたいな感じになって、
それこそフォークギター1本持って下宿に行ったみたいな、
そんな世界でしたかね。
ちょっと変ですけど。
バンドとか音楽系はお続けになった?
そこは趣味の範囲ですかね。
高校時代は流行ってもいたんで、
ちっちゃいライブハウスとかで、
いくつかのバンドで、
学園祭でとかっていうのはやりましたけども、
大学時代はどっちかというと、
アルバイトしないと生活できないってこともあったりして、
ただその頃からちょっとだけ独立で、
自分で会社ってやってみたいなっていうのはチラッとあって、
アルバイトしてお金もなかったっていうのもあったんですけども、
仲間とイベントの企画とか、
スキーツアーの企画とか、
当時は流行ってたんですけども、
そんなのをちょっとやって、
楽しみながらちょっとお金儲けとか経営みたいなのに、
ほんのちょっと興味を持ったっていうのはあったかもしれないです。
なるほど。
まさであれば、
ウェアルアントレプレイナーをよくも出してるし、
そういう研究をなさっている学生企業家も非常に多かったと思うんですが、
そういうお仲間も多かったんですか?
そうですね。
当時イベントっていうのは、
例えばディスコパーティーみたいなイベントを含めたり、
ただそこに学生を動員して、
その代わり企業のスポンサーをつけてみたいなのは、
やってる企業が多かった、
学校が多かったんで、
まさやだけじゃなくて、
いろんな大学と一緒になって、
そういうイベントをやったりとか、
スポンサーをつけて、
いろんな学生を呼んでみたいなのはやったり、
あとはスキーツアーなんかも、
結構企画をして、
宿とバスとを手配して、
スキー場でイベントを打つようなスキーツアーを企画してっていうのは、
まさやの中にもいくつかそういうのをやってる、
サークルというか団体はあって、
それで自分もちょっとやったって感じかもしれないですね。
なるほど。ありがとうございます。
その後、新卒で最初に上場企業の、
いわゆる住宅会社さんでやってらっしゃいました。
リクルートグループの、
当時名前だけちょっと有名になった、
リクルートコスモスって会社がありまして、
当時リクルートの創業の江添さんが株を配った、
株がリクルートコスモス株だったんですけども、
リクルートコスモスっていうのは、
リクルートグループの中で不動産をやってる会社で、
私のキャリアのスタートはリクルートコスモスです。
なるほど。リクルートコスモスを選ばれた理由っていうのは何かございましたか?
当時就職が変なのですし、
楽な時期で売り手資料で、
どこでも結構内定がもらえて、
大手の伊藤中とか当時に一緒祝いって言ってたんですけども、
そういうところからも何となく大きい仕事したいなみたいな感じで就活してて、
リクルート本体、雑誌とかやってる本体も含めて受けて、
ありがたいことに全部内定をもらったんですけども、
大きい会社よりも、
もうちょっと小さい会社の方が自分の中では何となく楽しそうだなっていうのがすごくあって、
それで内定をもらった中で一番小さい会社がリクルートコスモスだったんですね。
それで最後はそこで働いてる社員が一番輝いてたっていうのもあって、
大手商社とかではなくてリクルートコスモスを選んだって感じですかね。
なるほど。リクルートコスモスへの思い出とかはございましたか?
リクルートコスモスに平成元年に入ったんですけども、
当時社員が五、六百人だったんですけども、
僕の新卒の同期が三百人いるんですね。
なので社員の三分の一ぐらい新卒で僕らが入るぐらいな感じで、
ガンガン伸びてる勢いのある会社っていうのはあったんですけども、
残念ながら一年半でバブル崩壊ということで、
三百人ぐらいいた同期が半分以上リクルートグループの
お前はフロムウェイだ、お前はピノスキー場だ、お前はどこだって言ってガンガン飛ばされたのがもう二年目ですね。
平成二年のバブルの崩壊があって、そこからもう不動産含めてぐしゃぐしゃになって、
リクルートコスモスのせいでリクルートグループもおかしくなって、
大変に見売りしてみたいな、ちょっとそこからは結構20代は会社は激動だったです。
宮村社長はその20代はどうだったんですか?
僕はですね、たまたまですけどもリクルートコスモスにずっと残っていまして、
住宅の用地の仕入れとか企画開発、街づくりみたいな部署でずっとやっていて、
ただバブル崩壊したらもう仕入れなんかしてる場合じゃないんで、
売れ残ったマンションをひたすら売るっていうのをどうですかね、
3年、4年やったんですかね、それをやりまして、
でも何でしょうね、やっぱり仲間先輩が大好きな人たちに
会社はめちゃくちゃしんどくて給料も全然上がらなかったんですけども、
何かがむしゃらに働いて、実は僕的には楽しかった。
先ほど言ったように会社、リクルートグループは大変だったんですけども、
僕自身は楽しくて、20代ひたすら不動産をやりまくって、
成長できたかなという感じで、
リクルートコスモスにはずっといらっしゃったんですかね、
約10年、9年半くらいいまして、そこで転職したのが、
ご縁があった今の宝レーベングループの、
今はミラスホールディングスっていう名前になったんですけども、
当時宝公務店っていう名前だったんですが、そこに転職をして、
板橋の町場の公務店みたいな、でもマンションを始めてから
意外と勢いがあって、ご縁があって転職して、
その会社をジャスタック二部一部というふうに上場させたときに、
常務をやらせてもらって、ボードで上場の経験は、
キャリアの始まりと転職
普通の取締役のサラリーマンですけども、経験したっていうのがあって、
そこで5年くらいして、
37歳で今の会社を創業したという感じです。
なるほど。
宝公務店、元々の宝公務店に転職しようと思ったきっかけというのは何か?
そうやってもリクルートコスモスがですね、
結構社員がどんどん増えていって、
バブルとかで大変だったんですけども、復活始めてて、
社員が増えてきていて、
ありがたいことに同期で一番最初に課長にさせてもらったんですけども、
28課級で課長になったんですけども、
上見ると10校ぐらい上の人も課長がいてですね、
あれこれいつになったら部長とか役員系に携われるのかなっていうのが
ちょっと見えなくなって、
で、生意気でしたけども、
何回か会社に行って、
早くそういう経営とかに携わりたいなっていうのがあって、
ちょっとそういう小さい会社で、
部長役員でやってみないかっていう声がかかったんで、
勢いで、29とかだったんで勢いで転職したっていうそんな感じですかね。
企業成長の要因
なるほど。
もうその頃からいつか独立をと思ってらっしゃったんですか?
あれはリクルートコスモスで、
もうその頃からいつか独立をと思ってらっしゃったんですか?
リクルートグループに入った時に、
今もリクルートグループそうかもしれませんが、
就寝雇用で最後まで働くような社風の会社ではないので、
どっかのタイミングで自分は多分、
転職するか独立するかっていうのは、
多分意識して会社に生活はしてたんじゃないかなと今思うと。
なるほど。
宝コンテンはその当時未成長でいらっしゃったんですか?
未成長でした。
未成長でいらっしゃった時は、
宝コンテンという板橋の小さい100人いるかいないかぐらいの、
未成長のマンションデベロッパーと言えるかどうかぐらいな
コンテンっていう名前ですから、そんな会社でした。
未成長企業へのある意味上場企業化の転職というか、
怖さとかそういうのはなかったんですか?
そうですね。あまりそこは怖さはなくて、
なんか怖さはなかったですかね。
ただ、転職したらすごく周りの人の反応はすごく変わって、
やっぱりリクルートグループ、リクルートコスモスにいた上村と
町場のコンテンにいた上村がやっぱり違って、
なんか等しい取引先がスーッと離れてったりとかいうのがすごくあって、
こういうもんなんだろうなみたいな感じで。
そうですね。幸い別に家族とか友達とか周りは別に何ともなかったんですけど、
仕事している中で上場会社の仕入れの課長をやっているときの扱いと、
未成長の会社で仕事をするというのはこういうふうに違うんだなというのはすごく感じましたね。
なるほど。ありがとうございます。
その未成長から当初一部上場企業まで上がっていく企業の見極め方なんて
そんなのをお聞きになる方がいらっしゃったらどういうふうにお答えになられますか。
やっぱりトップ、経営者のトップは大事だろうなと思いますよね。
トップがどんな方かっていうのはすごく大事かなと。
僕はそのトップだけじゃなくて、トップと会社の役員みたいなのを見て、
その役員の方とのご縁があって、誘われて、それからトップの人に会ったって感じなんですけども、
その人たち、結局最後は人かなと思います。
ビジネスモデルとかその辺って、そういう意味ではいろいろ流動的ですし、
僕なんか不動産だったんで、そんなに大層なビジネスモデルがあるわけじゃないんで、
トップとか経営の考え方とかっていうのは大事なのかなというふうに思いますね。
なるほど、ありがとうございます。
未上場から投資落ちまで上がってくる企業さんっていうのは、
やっぱり他の企業さんも見られてらっしゃると思いますが、違いはございましたでしょうか。
そうですね、やっぱり先ほど言ったトップが絶対に上場会社になるぞ、何のためになるぞみたいなところをちゃんと持っていて、
やっぱり人を引き付けられる部分と、あとは事業としてしっかりと収益が上げられるっていう、
ここだと思うんですよね。
なので、その部分で僕は用地の仕入れを担当してたんですけども、
マンション事業、マンションデベロッパーとして、この会社は営業力がしっかりあるとか、
僕が仕入れをしっかりやれば、ちゃんと収益を上げて販売できるとかっていう、
そこの部分は最低限見てたのかなというのはありますが、
転職して、やっぱり1年目、2年目は、結構その文化の違いみたいなのには、実は戸惑いまして、
ちょっと転職失敗したかなと思って、そのオーナー社長に、
すいません、ちょっと僕、この会社で続かないと思いますみたいな話を実はしたことがあって、
そのフード文化がちょっと僕、しんどいですって話をしたんですね。
そしたら、僕上村で上ちゃんと呼ばれてたんですけども、
じゃあ上ちゃんがそのフード文化を変えればいいじゃん、作ればいいじゃんっていう風に
そのオーナーに言ってもらえて、そうかなと。
そのオーナーは、じゃあお前は本社に入らなくていいと。
お前の支社を作ってやると。上村支社を作ってやるから、
ここで頑張れみたいなことを言って、そこまで言ってくださるんだったなと思って、
そのままその会社で頑張って、上場会社になっていったっていうのはありますかね。
出世の秘訣
なるほど。宝コミュニケーションさん、宝レーベルさんの思い出なんてございますか。
そうですね。今、社長をやっている島田さんっていうのは、
僕とほぼ年が一緒なんですけども、そういう意味では本当に、
お互いに宝の文化とか仕事のやり方と、僕がリクルートグループでやってきたことを
本当にいい意味でぶつけ合って、宝レーベル、宝コミュニケーションをこういう形で成長させようみたいなのは、
本気でガツガツやったなっていうのがあります。
なるほど。あともう一つだけ、リースの皆さん方、多分ですね、
やっぱり当初一部の常務になるというのは、どうやったら出世できるんだろうかって興味持っている若い方もいらっしゃると思うんですが、
出世のコツなんてございますでしょうか。
あんまり僕出世っていう感じはなかったんですけどね、やっぱりオーナーとともに、
僕はそうは言っても常務と言ってもやっぱり会社員でしたから、当時は。
会社員としてきちっと当然、数字を上げるとか、
人を束ねるとかっていう当たり前のことはやってたのと、
オーナーともちゃんと向き合って、納得いかないことは納得いかないって言ったりとか、
ちょっと煙たいかったんじゃないかなと思います。
結構イエスマンが多い会社だったんで、そんな中で多分僕は戸様で入って、
そういう意味ではちょっと身にざわりな役員だったのかもしれないですけども、
会社を良くするためにはこうしましょうとか、
僕はこういう考え方で仕事をしたいですとかっていうことをちゃんとオーナー、社長に言っていくみたいなのは、
逆に最後は結果を出して認めてもらえることになったのかなと、そんなふうに思います。
なるほど。ありがとうございます。
本日も社長に聞くインウィズウィズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズウィズが運営するウェブサイト経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆さんの会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければと思っております。
本日の社長に聞くインウィズではここまで。また来週。
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