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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社イルグルム代表取締役 CEO 岩田進様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
2001年、大学在学中に株式会社ロックオンを創業。
その後、2014年に今現在の東証グロス市場に上場されている上場企業の社長様です。
そして、2019年8月には株式会社ロックオンから株式会社イルグルムへ社名を変更されていらっしゃいます。
IT・ネットの世界の会社様でいらっしゃいます。
岩田社長、本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますでしょうか。
私は関西の大阪ですね。大阪堺市というところになります。
なるほど。小学校時代はどんな少年でいらっしゃいますでしょうか。
小学校時代ですね。小学校時代は転校しまして、当時はその前に奈良に住んでたんですけど、大阪堺に引っ越しまして。
そこもあったんで、やっぱりまず最初ちょっと馴染めないと言いますか、やっぱり大阪のノリと奈良のノリ、若干実は違うところがありましたので。
そういったところで、自ら家に籠ると言いますか。
野球少年でもあったんで、一人野球の練習してるみたいな、そんな幼少期を過ごしておりましたね。
堺とかの地域柄だと活発な男の子が多いイメージなんですけど、それとは真逆という感じでいらっしゃったんですか。
そうですね。比較的内向派っていうのは当時から培われたものかなと思ってますね。
なるほど。ありがとうございます。中学時代はどんな感じで過ごしたかと思いますでしょうか。
中学はそうですね、中学の時もそう変わらずなんですけども、クラブ活動をちょっとやったりしながら、将来自分はどうなるんだろうみたいに悩む日々を送るという、
比較的、今日聞かれてる視聴者の方もそうかもしれないですけど、本当に悩める中二病みたいな、最近で言うとそんな感じかもしれないですね。
なるほど。ありがとうございます。高校は大阪でいらっしゃいますでしょうか。
そうですね。高校も堺市の大鳥っていう地域があるんですけども、そこの高校に行ってました。
高校時代はどんなことをして過ごしたという思いでございますでしょうか。
高校時代は、まあそれもそうですね、ラグビー部に入ってたので、ラグビーも頑張りつつなんですけども、
関西、大阪のラグビーっていうのは本当にメッカでもありますし、競合校たくさんありますんで、そんな中で上に乗し上がっていくというよりは、
本当に公立高校のラグビー部でみんなで頑張ってるみたいな、そんな感じの学生時代でありましたね。
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なんか小中高、割とスポーツも一生懸命やり、そんな引きこもりって感じでもないのかなっていう感じでお聞きしたんですけど、割とスポーツはお好きでいらっしゃるんですか。
そうですね、勉強の方が苦手だったっていうのもありますけども、スポーツ、クラブ活動はずっと一貫してやってましたね。
なるほど、ありがとうございます。大学はどちらにご進学されたんでしょうか。
大学は兵庫県西宮市にある関西学院大学というところに入学しまして、それも一浪して小学部に入ったっていうことだったので、
そんなに特別ですね、何かここの関西学院大学でこういう勉強したいっていうよりは、そこが比較的近くてちょうどいいんじゃないかみたいな、
それこそありがちだと思うんですけど、そういうノリで入ったのが関西学院大学でしたね。
なるほど、関西学院大学ですと割と頭もよろしい側だと思うんですけども。
いやいやいや。
勉強もできたんじゃないですか。
いやいやいや、もう全然ですね。何とか滑り込んだみたいな感じではありましたけども、やっぱり入ってからの方がやっぱりちょっとまた難しい時期があったかなと思いますね。
なるほど、大学時代は今難しいとおっしゃいました。どんなふうに過ごしたなって思えてございますでしょうか。
それがまず一浪して、無事晴れて関西学院大学入学したんですけども、入学してみるとですね、授業何個か出てみると、これちょっとあんまり面白くないなみたいな。
それこそ私立分系で行かれている学生の方々も言われる方が多いかもしれませんが、私も本当にそういうので、このまま4年間ここで勉強してどうしようかなみたいな、
本当に人生初めてまともに向き合ったみたいな、そんなことがありましたね。
こういうふうに生きようみたいなことは大学時代は思われたりもしたんですか。
そうですね、最初は本当に勉強もして、いろいろ学生生活楽しみたいななんていうふうに漠然と思ってたんですけども、やっぱり入学してそういうふうにこれから何していけばいいんだろうって悩んでたので、
やっぱりこのまま4年間なり、大学過ごすというよりはバックパッカーに出て海外見てみるっていうのがすごくいいんじゃないかっていうふうに思い立ったんですよね。
バックパッカーでどちらの地域に行かれたんですか。
ここはですね、まずはシンガポールに入って、あとは陸路でマレーシアに行き、タイに行きっていうような感じで、
その当時実は沢木幸太郎の深夜特急が流行ってたみたいな時期でもあったんで、今でも平積みされてたりもしますけども、そういうのを見て、やっぱり世界一周みたいなところに対して憧れもありましたし、
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まずは入口はシンガポールだったんですけども、マレーシア、タイと行って、インドの方とか回っていこうかなと思ってたんですが、私も結構そういう意味では空きショーみたいなところもありまして、
これからぐるっと回っていくっていうのはすごい時間がかかっちゃうんじゃないかなと思いまして、ちょっと一足飛びにニューヨークに行ってみたいなということで、そこからタイからですね、バンコクからニューヨークに行きまして、そこで自分の人生観が大きく変わったなっていうふうには思ってます。
そのニューヨークではどんなふうに過ごして人生が変わられたんですか。
そうですね、バックパッカーだったので、バックパッカーが行く街ではあんまりないんですよね、そういう意味では。コストも非常にかかりますし、それこそタイに行ったときは1泊200円、300円とかの宿に泊まるわけなんですけども、ニューヨークだとやっぱりそうもいかないんで、やっぱり数千円単位にかかってきますし、やっぱりなかなか生活コストかかるなというふうに思う中で、ただやっぱり当時、それこそ9・11以前のニューヨークすごい盛り上がっていて、
本当に世界中から面白い人が集まっているという状況で、周りを見るとですね、自分自身がやっぱりそこの中で見た場合、本当にアウェーだなっていうかね、すごいアジアに行ったとき、日本はもちろんですけど、アジアに行ったときってなんかそこにいても比較的なじむんですけども、ニューヨークなり、その後ヨーロッパでも感じましたけど、すごいアウェーな感じがありまして、
一人ポツンと孤立しているというような感じですね。今だとネットで日本ともつながったりしますけど、当時はインターネットもなかったし、電話とかそういうのも使ってなかったので、本当にある日そのニューヨークで一人死んでても誰も気づかないようなですね、そんな一人孤立したい感覚を持って生活はしてたんですよね。
そんな中、やっぱりここにいてですね、人に、コミュニティに属さない生き方っていうのが、いかにこれほど寂しいものなのかっていうのを痛感しまして、できたらやっぱりそのコミュニティに受け入れられたいなっていうすごい渇望があったんですよね。
ただ、やっぱりどんなコミュニティでもそうだと思うんですけども、日本だとね、やっぱり仕事のコミュニティとか家族とか、家族あるいはスポーツのコミュニティとか、どんなコミュニティでもやっぱりある程度ですね、価値を提供していかないと、やっぱりすごいもらうばっかりだとなかなかね、やっぱりいい関係を築けないなっていうのもありまして、そういう意味でやっぱりニューヨークでそのコミュニティに受け入れられたいなって思ったんですけど、やっぱり価値を提供していかないと、やっぱりすごいもらうばっかりだとなかなかね、やっぱりいい関係を築けないなっていうのも
いく必要性もあるなと思っていて、それがなかなか20代前半の私からすると難しいなっていうふうに感じていたんですよね。
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それで自分の人生の転機にもなっているんですけども、いずれこのグローバルで価値を提供して受け入れられるような、そういう人間になっていきたいなっていう強い思いがですね、
そこでふつうふつう芽生えてきて、毎日そのことばっかり考えているっていうことになってきて、いかにすれば人から受け入れられる、感謝されるような生き方ができるのかなっていうのをずっと考えてたんですよね。
そのお考えになった時は大学の何年生?
そうですね、それも大学1年生ですね。バックパッカーやって3ヶ月ぐらいだったぐらいですかね。なのでちょうど大学1年生の年の10月ぐらいだったかなと思います。
授業とかも全然別に?
そうですね。大学は入ってすぐ、4月、5月には休学しましたんで、そこからバックパッカーに行く準備をして、7月ぐらいに旅だったっていう形でした。
ご両親に心配はされませんでしたか?
相当心配されましたね。今とは時代がちょっと違うので、本当に海外に行く、バックパッカーに行く、しかも10代、19かなぐらいで、初めて海外に行くと、
しかも安全かどうかわからない国をバック一つで回るって言ってるわけなんで、今自分が親になったら心配する気持ちもわかりますけど、当時は本当に親も関西国際空港から見送る時は泣いてましたね。
なるほど。逆に大学1年で入ってすぐ休学され、バックパッカーに行こうってなったきっかけなんてございますか?
そうですね。やっぱり日本に行った時に、やっぱりその先があんまりイメージがつかなかったっていうのは正直なところで、今はちょっと環境違いますけども、20年ぐらい前だと本当に海外ってどんなもんなんだろうっていうすごい好奇心もありましたし、
まあ留学生は当時もたくさんいましたんで、留学するっていうパターンはあったんですけども、留学だと一箇所しか行けないので、学びも限定的なんじゃないかなって、そこで小説なんか読みながら、バックパッカーだったら世界中いろいろその時の自分の好奇心の赴くままに見聞きできるんじゃないかなっていうことで、よしこれで行ってみようっていうふうな感じでしたね。
なるほど。英語とかお得意でいらっしゃったんですか?
英語なんかも全然できなかったですよ。ただよく考えてそのバックパッカーで喋る英語ってだいたいホワッチュアネームとウェアエフロムでだいたい対応できるんですよね。お店に行ってお金払いさえすればだいたい対応できるっていうところもあったんで、そんなに困らなかったですね。
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なるほど。ありがとうございます。そうすると岩田社長様は、もともとチャレンジャーで、創業者らしい、企業家らしい精神をお持ちでいらっしゃった感じですか?
いや、そうでもないと思うんですけどね。実は本当に企業家になりたいと思ったこと一回もないんですよ。
そのバックパッカーの話、もう少しだけちょっとお聞きすると、ニューヨークの後もまだご旅行というかバックパッカーをお続けになったんですか?
それでやっぱりニューヨークに行った時に、この人から監視されるようなこと、それが世界中の人から監視されるような生き方をしたいなっていうふうなことが、一つ自分の人生の指針みたいなもので明確になりましたので、
それをどうやって実現するのかっていうのをそこで考えたんですよね。そこではやっぱり歌うとか野球するとか、今だと大谷とかね、あんな感じでできるのが理想系なんですけど、簡単にそれもできないですし、
現実的にどうすれば海外の人から監視されるような生き方ができるんだろうと思うと、当時やっぱりソニーとか東芝もそうですけど、日本の車とかもそうですけど、世界中でニューヨークでも使われてたので、そういうのを見て、ビジネスだったら世界の人から監視されるようなことできるんだなっていうのを感じたんですよね。
じゃあ何かビジネスしようと思って、ニューヨークでビジネスしようにビザもないですし、一旦日本に帰って、ビジネスマンとしてしっかり基礎を作って、10年後にまた改めて海外でチャレンジするようになりたいなっていう、そういう思いで帰国することになりましたね。
じゃあある意味、ニューヨークの時がある意味、企業に繋がる一番の転機みたいな。
そうですね。そこはかなり大きかったと思いますね。ただ、起業しようと思って日本に帰ってきたわけではなかったんですよ。
大学、大学中に創業というふうにお聞きしてるんですが、どのタイミングで起業しようということになったんでしょうか。
そうなんですけど、起業しようと思って起業したというよりは、まず帰ってきて、何のために帰ってきたかというと、とにかく仕事をすると。
世界で通用するビジネスパーソンになるっていうことだったので、何かを仕事はしなければいけなかったんですけど、いきなりじゃあITの仕事ができるかとか、金融の仕事ができるのかとか、難しいじゃないですか。
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最初にやりだしたのが飲食店アルバイトだったんですよね。
最も身近な最寄駅にあった飲食店でバイト募集って書いてたので、そこで初めアルバイトとして入ったんですけども。
普通でいうとアルバイトのままなんですが、私は本当に世界に行くためにその飲食店バイトやってると。
多くは時給をもらうためにアルバイトやってるっていう感じなので、ちょっと話がかみ合いにくい部分があったんですよね。
自分も辞めようかなと思ったんですけども、辞めても他に行っても同じなんじゃないかなということで、オーナーのところに行きまして、何とかこの店を譲ってくれないかというお話をしたんですよね。
結果的にいろいろあったんですけども、譲っていただきまして、自分の店になったんですよね。
それが大学1年生の年でいう2月ぐらいの話です。
そうですね。ある意味、本当は飲食店オーナーが一番最初の創業ってことでいらっしゃいますか?
そうなんですよ。
起業しようと思ってたわけじゃないけど、飲食店のオーナーにはなられたってことは、やっぱり起業家精神相当現れたんですよね。
あったんだと思いますね。
飲食店に入った店がありまして、オーナーがいて、オーナーが3店舗ぐらい持ってるような個店の数店舗って感じだったんですけど、そのうちの1店舗にたまたま入ったんですが、赤字でもあるっていうのはすぐ分かったんですよね。
改善、こうすればもっと改善するだろうっていうのもイメージがついていたので、そこをもっと推進していくためには、自分がリーダーシップを取ってその店をやっていったほうがより良くなるし、お客様も喜んでくれるんじゃないかなっていうのもあったんで、
やっぱり自分がやりたいな、やらせてくださいっていうふうに、そういうふうな提案をしたっていう経緯ではあるんですよね。なので、起業家になりたいというよりも、そこの目の前にあるこういう課題なり困ってる人なりがいた場合に、何とかしてちょっとでも良くしたいなっていう気持ちの延長線上に起業なり創業なりっていうのがあって、そのまま今に至ってるっていう感覚ではありますね。
なるほど。赤地の店舗をいただく際に怖さとかそういうのはなかったでしょうか。
なかったですね。何でなかったのかっていうほうが不思議なぐらいではあるんですけども、何も失敗した経験もなかったっていうのは大きかったと思いますけどもね。
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大変ご優秀でいらっしゃるんだと思うんですが、19歳の少年が買うっていうのがちょっと今時ではありますが、その当時だとかなり珍しいんじゃないかと思うんですけども、周りにいらっしゃらなかったですよね、19歳の社長っていうのは。
いなかったですね。誰もいなかったですね。
そこもちょっとお聞きしたいんですが、ご両親が延長線のオーナーになるわって言った時のご両親はどんな感じだったかなみたいな。
もうなるわというか、なってから自己報告みたいなもんなんで。海外のバックパッカーの時もそうでしたけどね。
先に行くことを決めて、チケットも全部予約もして、バックも買って用意して、ちょっと行ってくるという話をしてたんですけども。
飲食店の時も同じで、オーナーとも話もつけて、自分の店になるということが決まって、親にもバイトで入った店を今回譲り受けることになって、自分が店の経営をやっていくことになったという話を。
事後的に説明してたという感じですね。
ご両親はお許しによくなられましたね。
もう決まってる話なんで、どうしてもなかったじゃないですか。
もうそういう生き方をずっとやってきてるんで、もはや諦めの境地になってるのかもしれないですけどね。
なるほど、ありがとうございます。その印象はすぐに黒字化されたんですか?
いやいやいや、そこが本当に自分の挫折、最も苦い経験ではあるんですけども、飲食店の経営はできると思ってたんですよね。
周り見たら飲食店たくさんありますし、実は私の親も一時飲食店やってましたんで、飲食店以外もやってたんですけども、そういうのを見てましたから、飲食店の経営はできるというふうな、
全く根拠のない自信みたいなものからスタートしたんですけども、いざやってみると本当に大変で、
本当に長時間労働でもありますし、競合が本当に数多ありますし、結果的になんですが、その飲食店は1年も持たずに黒字になることもなく辞めることになったんですね。
資金面とか大変じゃなかったですか?
いや大変でしたね。本当に大変で、まず自分は給料当然取れないですし、ただ従業員の皆さんにはバイト代とかお支払いしないといけないですから、
そういう意味では本当にできるだけ自分で動いて、掃除とか仕入れとか調理とかホールとかもそうですけども、限りなく自分で動くことによって、
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そのキャッシュアウトっていうのできるだけ避けるようにっていうことで、本当にずっと頑張ってた時期ですね。
資金調達とかなかったんですか?
いやいや、そうでもないですね。ちょっと親から軽く借りたことはありましたが、それは最初の立ち上げ時にかかったお金だけで、それ以降は本当に調達はせずにやっていて、結果的にやっぱり難しいな、改善が厳しいということで辞めることにはなりましたね。
その失敗の体験から学ばれたことなんてございましたか?
いやもうたくさん学びましたね。代表的なものを一つ挙げると、まずリッチ。安易に聞こえるかもしれないんですけども、リッチがビジネスにおいて最も重要だなっていう気づきがですね、その時ありましたね。
リッチってどこにお店を作るのかっていう話になるんですけども、まずそうですね、私がやってた店も駅の中にある飲食店だったので、それ自体聞くと悪くはないんですけども、駅のこの改札から自転車置き場への通路みたいなところだったんですね。
なので人通りは多いんですけども、みんな自転車置き場に向けて急いで歩いてるっていう状況だったので、それを本当に19、20歳の私はですね、そのウィンドウの中からずっと見続けるっていうことをですね、毎日毎日やっていたので、本当にリッチの重要性っていうのを痛感しましたね。
なるほど、ありがとうございます。
飲食店が閉められた後はどうなさったんですか?
そうなんですよ。そこのリッチっていう点で言うと、やっぱり飲食っていうリッチ自体が、やっぱりその需要と供給とのバランスで考えた際に競合が非常に多いな。
もちろん人の胃袋を満たすための競合で言うと、私がやってたのはオムライス屋だったんですけども、そば屋も中華も、数多ある飲食店、それからコンビニのフード、あるいはスーパーマーケットとか、そういったものも含めて全てが競合になってくるので、かなりこのビジネスは難易度が高いなっていうふうに感じていました。
そういう意味では、これから伸びる需要と供給で、需要サイドの方が多い、あるいはこれからもっともっと大きくなってくるっていうようなビジネスを選択したいなっていうのを強く感じたんですよね。
それがまず一つの次に生きるべき指針で、もう一つが、飲食店の時は私エンジニアじゃなかったんですよね。
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調理師を入れていたんですけども、やっぱり自分自身がある程度作れないと、うまくマネジメントが難しいなっていうことが、特に初期段階には感じていまして、やはり一定できるとお互いに議論しながらより良いものができるんじゃないかなっていうことがあったので、
次は何か技術を身につけたいなっていうことを考えたんですよね。
まずその2つですね、このリッチという点とエンジニア、技術を身につけたいなっていう大きく2つで考えた際に、
インターネット当時1998年とかだったと思うんですけども、インターネットこれからすごい伸びそうだねということをエンジニアでっていうことを考えると、単純に書き合わせたんですけども、
ネットワークエンジニア、インターネットのエンジニア、ネットワークエンジニアで、今でいうとクラウドとかインフラ系エンジニアですけども、
そういうエンジニアになっていこうかなっていうのを当時、方向性として考えたんですよね。
そこからは本当にエンジニアになるべく、ネットワークエンジニアになるべくですね、日々パソコン小僧みたいな感じで、ずっとパソコンを触るみたいなことがまたそこからしばらく続きましたね。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。