00:03
社長に聞くin WizBiz
本日より社長様のインタビューを このポッドキャストを通じ流させていただきます。
WizBizは全国16万人を超える経営者向けに 情報発信をしている経営者向けネットメディアです。
常日頃、社長様とお会いすると社長は孤独だ、 社長は一人悶々と悩むもの、どう決断すればいいか社長として悩む
といった声が多く聞かれます。 その答えを出すために、
お仲間の社長のインタビューを流すことで 一助となればと思い、
この社長に聞くin WizBizを始めさせていただきます。
多くの社長様、社長を目指される方、 役員幹部の皆様にお聞きいただき、
社長業とは何かを考えていってほしいと思っております。
ぜひお聞きください。何卒よろしくお願いいたします。
本日より社長に聞くin WizBizを 始めさせていただきたいと存じます。
多くの社長様にインタビューをさせていただくことで、
視聴者の皆様にご参考になればと思い、 始めさせていただいております。
よろしくお願いいたします。
早ある1回目は、私が大変尊敬している ヒアナ・アツシ・カール教授です。
本日はよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いします。
まずは、系列をご紹介させていただきます。
東大経済学部を卒業後、日本工業銀行にお勤めになられ、
その後、NTTドコミに移られ、
iモード企画部担当部長をされ、 iモードを立ち上げられました。
その後、ハーバードビジネススクール教授陣と
株式会社ネットストラテジーを創業し、
かの有名なプラットフォーム戦略を 課金になっている先生が、
ヒアナ・アツシ・カール教授でございます。
それでは、ご質問をまずさせていただきたいなと思いますが、
経歴のほうからなんですが、
渋谷東大から通常だと官僚とかに 目指されるんじゃないかなと思ったんですが、
何か日本工業銀行にご入港された理由が あられたんでしょうか。
大学で、この間、戦前中ですかね、 亡くなられたんですけれども、
海塚啓明さんという東大名誉教授なんですけれども、
その方のゼミに入っておりまして、
その方が金融財政の日本の大会だったんですね。
そういう意味では、金融論をずっと大学のときは 勉強しておりましたので、
金融に行こうかなと。
同じ私のゼミの同期が14人ぐらいいるんですけれども、
うち11人が金融に行きまして、
公銀も3名ですかね。
あと日銀とか、だいたい銀行が多かったんですね。
それがあって、当時は天下の公銀と言われてましたので、
公銀に行ったという、そういう経緯でございますね。
なるほど。
じゃあ、金融分野で活躍しようというのは、
本当は一番最初だったということですか。
03:01
正直に言うと、あまりよく分かってなかったですね。
そうですか。
何がやりたいのかなというのもあまりなくて、
なんとなく就職をしなければいけないと。
始めは大学院に行くことも考えたんですけれども、
父が大学の先生でいたので、医学部だったんですけれども、
一旦は世の中を見ようと思いまして、
特定の業種に絞るということができなかったんですね。
もちろんそのときに銀行以外にも、
JALさんとかも受けたんですね。
結局、JALさんは組合が強すぎるということでやめて、
ただ夢があったので、私自身はJALに行きたかったんですけれども、
最終的には工銀が一番いろんなことができるんじゃないか。
特に業を起こすというか、工業銀行ですので、
産業を起こすというところに非常に魅力を感じて、
工銀マンになってしまったということですね。
ありがとうございます。
その後、工銀を辞められて、
NTTドクモに移られるiモードの立ち上げをなされていらっしゃいますけれども、
何か工銀を辞められた理由とかありましたか。
工銀では主にプロデュースファイナンス、
投資銀行業務、それからあとは国際業務の本部に長くおりましたので、
ずっと本店におりましたので、
最後は小倉省の関係の仕事もやらさせていただきまして、
そういう中で非常に停滞している状況がありまして、
ある程度は新しいことをやりたいなと思って、
正直また当時、アメリカの某有名投資銀行の方に内容をいただいていたんですけれども、
ドクモがちょうど工房だったんですね。
全くの工房で人を募集しているということだったので、
当時まだ携帯電話というのが普及し始めた間もないときだったので、
金融はある程度自分の中ではやり尽くしたなと思います。
大体7年ぐらいやると飽きてしまう性格なんですね。
ちょうど14年近くおりましたので、
違うもう一つ自分のメジャーというか先行を見つけたいなと。
それを掛け合わせたら面白いことができるんじゃないかなと思いまして、
あえてドクモに行ったと。
たまたま初めは投資を担当する部署にいまして、
ほとんど新しい、計画部というところがあったんですけれども、
そこからちょうど分かれたばかりの投資などを担当する部署に行ったんですけれども、
ちょうどアイムモードが2月、
私が1999年の5月にドクモに入ったんですけれども、
06:00
2月にスタートしておりまして、
その関係でちょうどアイムモードが始まって3ヶ月ぐらいですかね。
立ち上げというよりはなかなか立ち上がらなかったんですね。
なるほど。
ですのでそのときに初めは投資という形でお手伝いをして、
その後アイムモード核部のほうに移りまして、
担当部長ということで財布形態の普及とか、
あるいはベンチ会の投資などもやっておりました。
ちょっと前のほうのお話に戻りますが、
モフタンだったっていうことを出らっしゃいます。
モフタンとは言っちゃいけないことになってるんですけど。
そうですか。
当時大倉省、今財務省ですけれども、
大倉省のほうが金融庁ですかね、
銀行の不良債券の査定を行っておりまして、
国内部隊が一応モフタンというのがおりまして、
私は投資銀行グループというのがありました。
ハンドウェイとかプロジェクトファイナルとか、
そういった部隊の全体の取りまとめを、
担当常務と2人で担当しまして、
それをまとめて大倉省になるという形の担当でした。
通常銀行で考えられると、
いわゆる大倉省担当部門ってことは、
遠取り候補でらっしゃるはずなんですけど。
そういう人もいたんだと思いますけど、
ただ私の知り合いはほとんどみんな辞めちゃいます。
そうですか。なるほど。
実態がわかるんですよね。
不良債券がこんなにあるのかというので、
私の知り合いの優秀な方も先輩なんかもモフタンで、
みなさんお辞めになります。
なるほど。そうでらっしゃるんですか。
ちょっと私も銀行コンサルタント出身なんで、
よく知ってますもんですかって聞きたくなってしまいましたが、
アイモードのほうちょっともうちょっとだけ、
お教えいただきたいなと思いますが、
アイモードの開発はやられたのは何年ぐらいの話ですか。
先ほど申しましたように1999年の5月に入社をいたしまして、
初めいわゆる企画部隊におりまして、
その後アイモードと一緒に部隊というのがありまして、
そこと一緒にアイモード成長戦略というのを作成する
プロジェクトチームがあったんですね。
それはボストンコンサルティングさんと一緒にやってたんです。
6人、7人ぐらいのグループで。
そこで例えば会員が1000万人いったら広告をやろうとか、
そういう、初め100万人いたらやろうという話だったんですが、
結局できたのは1000万人いったときになっちゃったんですけども、
そういった、例えば電通さんと一緒に会社を作ったりとか、
あるいはいろんな会社に投資をしたりとかいうところから
アイモードには絡んできて、
途中で1年半ぐらいですかね、
そういうところでアイモードのほうに移って、
アイモード自体の成長戦略の企画を行ったということですね。
09:01
アイモードの開発というか、商品開発をされていらっしゃって、
時代を感じたり、未来を感じたりとか、
そういうのはいろんなことを感じられたことは覚えていらっしゃいますか。
そうですね。
やっぱりまさにプラットフォーム戦略に出てくる話なんですけども、
今は当時はポータルという言い方をしていたと思うんですけども、
一番最初にアイモードが出たときに公式サイトというのはあまり数がなかったんですね。
お願いに行って何とか出してもらうという形だったんですけども、
ほとんど無料で皆さんやっていただいたんですけども、
そのときに思ったのが、リスクを一緒に取ってくれる企業、
これをいかにその方々に成功してもらうかと。
これがやっぱり一番重要だなというのをすごく学びました。
そのあと財布携帯が出たときにも普及を担当したんですけども、
初めほとんど断られたんですね。
ところが先方様の、例えばローソンさん、当時新波さんがまだ社長でしたので、
非常に差畜させていただいていたので、
最終的には泣き落としでお願いをしたという感じだったんですけども、
やっぱり使われるかどうかわからないようなものを当初、先方にもしていただくわけですから、
そこはお互いにリスクをシェアすると。
必ず成功させましょうという形での一体感みたいなのが、
会社を超えて行うっていうことの楽しさと大変さと両方を経験した感じがしますね。
まさにプラットフォーム戦略だったと思います。
そのあと、かの有名なプラットフォーム戦略を著者として書かれてらっしゃいますが、
このきっかけは何からあられたんですか。
もともとその前に、著者レビューというのは、たまたまバンダイナムコの、
今は社長ですけども、大下さんという方と親しくさせていただいてて、
その方がたまたま職場ランチをしたんですけども、辞めた後ですね。
昨日、出版社の社長とゴルフだったんですよねって質問されたんで、
平野さん、本を書けばいいじゃない、と。
なんかおサービス携帯とかね、普及させたし、
クレジット、おサービス携帯を作ったクレジット事業というのは、
僕が発案をしたので、今IDという名前になってますけども、
そういう話を書いたら面白いんじゃないっていうふうに言われてですね。
当時、ゴモブックスの社長だったウレシノさんという、今は会長ですけども、
ご紹介いただいたんですね。
始めに出したのがアライアンス仕事術という本で、
これは結構Amazonでも一位になってですね、そこそこ2万部ぐらいですかね、
今日売れまして。
そこでいろんなことを書いたんですけども、
アライアンス、企業とのアライアンスをどうするべきかみたいなこともそうだし、
個人としてもですね、どういうふうに人脈を広げるとかですね、
12:03
勉強法とかですね。
その中で一番皆さん、読者の反応があったのが、自分をプラットフォーム化すると。
プラットフォームを作りましょうというところが、
すごく皆さん共感したというような声をいただいたんですね。
それが元で、なるほどプラットフォームというものに皆さん興味があるんだというところで、
私はドコモを辞めてですね、
実はアメリカのボストンにあるですね、MPDというマーケットプラットフォームダイナミックスというですね、
アメリカのハーバード大学の先生とか四角大学の先生、
MITのスローンスクールというビジネススクールの学部長等が作った会社の、
実はシニアアドバイザーに1年かやってたんですね。
2年ぐらいですかね。
そこがまさにプラットフォーム戦略を研究しているコンサルティングファームでした。
実はそのメンバーが12月に日本に来るのでまた会ってですね、
これちょっと先題してるんですけど、実はそのメンバーが書いた新しい本を私また翻訳監修で来年になりますけども、
それがまさにプラットフォーム戦略。
自分がやってきた経験をどう理論化するかというところをMPDでのノウハウというものと一緒にしてですね、
日本に紹介しようと。
それが萩生さんというハーバードの先生と一緒に協調になったという経緯ですね。
萩生もそのMPDのメンバーでしょう。
このプラットフォーム戦略って誰でもできる戦略なんでしょうか。
そうですね。
なかなか実際に成功するのは難しいというかですね、大変ですけども、
ただ今非常にハードルが下がってきてると思うんですね。
昔でしたらイメージとしては銀座の4丁目の角に自分のお店を持つというのはなかなか大変ですけども、
今はインターネットの世界で、しかも特に最近はワードプレスとかが出てきたので、
ワードプレスであればニューヨークタイムズもワードプレスですから、
同じようなツールを大企業でも個人でも使えると。
あとは人が集まるような場を作るというのはそれほど難しくはなくなってきていると。
そういう意味では誰でもできるし、今プラットフォームとして成功している企業の多くも、
ほとんど部品、例えばAppleもパソコンメーカーでしたし、
マイクロソフトなんかはソフトウェアさんですよね。
ですので誰でもプラットフォームになっていると。
Amazonももともとは本のオンライン商店ですよね。
そこからプラットフォームになっていったので、
初めからプラットフォームというよりはむしろ途中からプラットフォーム化していったということだと思いますね。
なるほど。
教授が見られていて、今後プラットフォーム戦略をやっている企業で、
15:01
こんなビジネスモデルが流行るんじゃないかなというふうに注目されているビジネスさんはございますでしょうか。
やっぱりC to Cというか、シェアリングエコノミーって最近は言われていますけども、
エアビアンドビとかウーバーとかですね、
とてつもない時価総額で今度上場するという噂が出ておりますけども、
一つ彼らがすごいのは余っているもの、
皆さんが家に例えば使ってないもの、
例えばゴルフバックとか、別に毎日使っていらっしゃいませんよね。
そういうものを例えば近所の人に貸すとか、
そういったものだけでももう一つの取引が起きるわけですよね。
C to Cのプラットフォームというのは限りなくあるわけで、
本棚もそうですし洋服ダンスもそうですし、
あらゆるものが多分プラットフォーム化できるんじゃないかなというふうに思っていますね。
なるほど。
我々もぜひプラットフォームを作って頑張っていきたいなというふうに多分思っています。
本日はありがとうございました。
本日のフォトキャスターはここまででございます。
また来週よろしくお願いいたします。