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2025-07-23 27:44

第444回 及川智正氏(株式会社農業総合研究所代表取締役会長CEO)【前編】

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今回は、株式会社農業総合研究所の及川智正氏にお越し頂きました。

 

学生時代から農業への危機感を覚え、会社員を6年経験後、農業界へ転身。

自身で農業を3年、青果店を1年従事した経験をもとに創業。農業ベンチャーで初めて上場した経緯から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

 

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

 

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サマリー

及川智正氏は農業総合研究所のCEOとしての経歴を有し、東京農業大学を卒業後に同社を設立します。彼の生い立ちや趣味である水泳や読書、さらには岩手県の実家や著名人との関係についても語られます。及川氏は岩手県花巻市出身で、東京大学を卒業後に農業に従事することを決意します。彼は農業の改善に向けた思いや持続可能な農業の未来についてのビジョンを述べます。また、彼は自身の農業経験を通じて農業の流通と販売の重要性を語ります。農業総合研究所の設立に至るまでの経緯や農業の現場からの仕組みの変革を目指した挑戦についても探ります。

及川智正氏の経歴
社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社農業総合研究所代表取締役会長CEO及川智正でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
東京農業大学卒業後、株式会社友営総会入社。
その後、新規就農士、そしてFアグリシステム株式会社にご入社。
そして、2007年に農業総合研究所を設立代表取締役社長になっていらっしゃいます。
その後、東商グロス市場、当時のマザーズ市場に上場。
そして、農業総合研究所の代表取締役会長CEOに就任なさっていただいている
東商グロス市場上場企業の社長様でいらっしゃいます。会長様でいらっしゃいます。
本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますでしょうか。
出身ってすごく難しいなと思っていまして、
生まれた場所なのか、育った場所なのかというとこれどちらを指しますか。
何ならどっちもちょっと言っていただけばいいのかな。
なるほど。
生まれた場所は東京都で生まれまして、東京都で生まれた後に海外に少し行っていまして、
小学校上がる前に埼玉に戻ってきて、育ちは埼玉県かなと思っています。
なるほど。ありがとうございます。
小学校時代はアメリカですか。
小学校上がる前まで海外に行っておりまして、
どこだと思います?
どこですか。
アフリカなんですけども、地中海側のアルジェリアというところに小学校上がるまで父親の仕事で行っておりました。
アルジェリアでの思い出なんてあります?
ありますね。有名なサハラ砂漠の思い出もありますし、
地中海側なので海産物というかウニがたくさん採れるんですよ。
アフリカの方ってウニ食べられないので、ウニを採り放題で子供の頃を潜ってウニを採ってウニばっかり食べていたという思い出があります。
教育と家庭背景
ウニが地中海で採れるのが驚いていますが、海外の方はウニは食べないのかな?
今は多分日本食の文化も広がったので食べるとは思うんですけど、当時は誰も食べなくて、
採り放題でした。
ちょっと羨ましいお話を今。
ウニ好きとしてはそう思います。
僕もその頃からウニ好きなので。
ありがとうございます。
小学校は埼玉に流れました?
小学校は埼玉の小学校に入っておりました。
小学校時代はどんな少年だったかなと思うでございますか?
これは他の人にお聞きしたいんですけど、小学校の思い出って皆さん覚えてるんですかね?
これが結構覚えてる方多いです。
僕はあんまり覚えてなくて、多分何回か引っ越してしまったので、
小学校の記憶を思い出すことがあんまりなかったからだと思うんですけども、
あんまり記憶はないんですけども、覚えているのは学校のことよりもずっと水泳を。
アルジェリアで海で泳いでいたので、日本に帰ってきた時に母親が水泳を、
水泳教室に入れていただいて、ずっと6年間水泳をやっていたというところが一番の記憶かなと思っています。
じゃあ結構水泳お得意でらっしゃったんですね。
埼玉県自体、水泳に力を入れておりまして、
当時僕はバッタフライと個人メドレーと背泳ぎバックという選手で、埼玉県で2位でしたね。
小学校の大会ではその後中学の水泳部なんかですか?
中学の水泳部なくてですね。
その後中学校のバスケ部に。
私実は高校水泳部なので、詳しくはないですけど、
リスナーの皆さん方にお伝えすると、バッタフライとか個人メドレーはセンスのいい運動神経のいい優秀な水泳マンという感じでいらっしゃいますので、
運動神経もいいなと思いますけども。
運動神経という言い方は自由型の選手になりますんで。
自由型で勝てない人が個人メドレーとか。
中学はバスケ部ということで、中学時代はどんな思い出なんてございますか?
中学時代はあまり記憶にないんですけども、そこで楽しかったなという記憶しかないですね。
中学生の時に一度家を引っ越しまして、学校は変わらなかったんですけども、中学校3年間楽しい思い出しかなかったなと思っております。
割と勉強ばっかしだったとか、遊びばっかしだったとか、そういうこともなくという感じですか?
どうなんですかね。
勉強もできなかったし、スポーツもできなかったという。
たぶん地味な学生だったんじゃないのかなと、俗にいうクラスで埋め出す子ではなくて、地味めのほうに奮いされるほうじゃないかなと思っています。
ありがとうございます。
高校はどちらでお勧めになられましたでしょうか。
高校は埼玉県の鹿児島競泳高校に入らさせていただいて、3年間その当時は岩月市に、今は岩月区なんですけども住んでおりまして、
3年間かすか目まで自転車で通っていましたね。
高校はもっと中学よりも地味になった気がするなとか思うんですけど、ちょっと変わった高校生で、いろんな趣味があるんですけども、
当時から小説が好きで、明るい小説を読めばいいんですけども、なんとなくインテリぶりたかったんでしょうね。
寺山修司さんとか、太宰治さんとか、その辺を読みながら、ちょっと社会とか先生を少し、言葉にはしてないんですけども、馬鹿にするような、ちょっと社に構えていたような学生時代だったんじゃないのかなと記憶しております。
太宰治さんはどの辺のが好きですか。
どうなんですかね、何が好きって言われると困るんですけども、好きか嫌いかだったら太宰さん自体あまり得意じゃないかもしれません。
授業中に太宰治さんの本を読む、授業中に寺山修司さんの本を読むっていうのが、多分そういうことがやりたかったんじゃないのかなと。
河童康成さんとかも好きなんですけども、本当に読んでましたね。
その当時本当に古典文学をほぼほぼ全部読んだんじゃないのかな、今でも小説は好きなんですけども、たくさん読ませていただきましたね。
授業中に人間失格とか言うんですかね。
そうなんですよ。表現悪いんですけどね、いろいろ刺されるじゃないですか。
刺されたらですね、ちょっと下に構えているので先生に対してちょっと刺すんじゃないみたいなね。
でも刺すんじゃないって言いながら、本を読んでいるんですけどもちゃんと答えられると。
なぜかと言ったら、家帰ったら一生懸命勉強して、予習練習しっかりやって、刺されても答えるようにしておいて、自分は授業を受けないで本を読むっていうのが。
ちょっと変なことですよね。
いやいや、頭いいかと思うんですけど。
そんなことないです。頭悪いと思うんですけど、ちょっと本当に社会というか下に構えていたなと思っております。
でもそうして高校も楽しかったです。
なるほど、ありがとうございます。
霞壁教員というとスポーツも強くて、野球なり水泳なりも強いんですが、水泳部に入ろうとは思わないのか。
おっしゃるとおりですね、よくご存知です。水泳部めちゃくちゃ強いんですよね。
水泳部入ると思ったんですけども、ちょうど高校に入ったあたりがバブルの絶世紀だったんですけども、家庭の事情で入れなかったというのが正直なところでございました。
霞壁教員自体が私立でしたので、あんまり親に負担をかけられないなというのがございまして、入りたかったんですけど、部活に入らないで地元の市民サークルのバドミントンサークルに入れていただいて、
3年間ずっと部活ではないんですけどもバドミントンをやらさせていただきました。
ありがとうございます。その後東京農業大学にお勧めになっていらっしゃいますが、東京農業大学にお勧めになった理由とかはございましたでしょうか。
これはどうですかね、表バージョンと裏バージョンがあるんですけど、どちらですかね。
両方がいいですかね。
そうですよね。まず表バージョンで言いますと、父親の実家が岩手県でございまして、実家は農業をやられていたんですね。
ちょっと昔の昭和の人間なんで、お盆になると必ず父方の実家に帰るということがございました。
そうすると非常に裕福には見えないですね、父方の実家がですね。
子供の頃から思っていたのはですね、なんで食べ物を作る仕事をやっているのに裕福にならないんだろうというのを非常に不思議に思っていたということと、
うちの父親はプラント建設の方の仕事をやっていたんですけども、あまり愚痴で寡黙な人間なんですけども、
子供の頃のですね、本当に農業大変だったと、お金がなくて大変で、小学校に行く前にゴルフのキャリーをやってお金を稼いで、
その後川に行って魚を捕って、ご飯を食べてから農作業をしてから学校に行って、
学校も全て授業を受けられるわけではなくて早めに帰ってきて、また農作業を手伝ったと、非常に苦しかったというのをボソッと言うんですよね。
あれっておかしくないかなという、農業に対して興味があったということと、
あとはすごく大切な仕事なのに全然裕福に見えないという感情があったので、東京農業大学に入ったというのが表バージョンでございます。
裏は何でしょうか。
裏は実は違う国立大学なんですけれども、推薦が決まっておりまして、そこの推薦は当時センター試験と言うんですけれども、
センター試験とあとは確か小論文の試験があったんですね。
センター試験は大丈夫だろうと、でも小論文はやったことがないと思うので、どこかセンター試験前に練習で推薦で受けてみたらどうだと先生から言われて、
当時東京農業大学の推薦入試小論文というのがあったので、チロッと行ったらまさか受かってしまいまして、
受かってしまうとこれは笑い話なんですけれども、国立の大学の空きができるので、高校としてはそちらに行ってもらいたいですし、
あとは僕は筑波の方の国立大学だったんですけれども、やっぱり地方の大学よりも東京の大学がいいんじゃないかというですね、
まだ勉強するのかと説得が入りまして、そうだよなと思って遊んじゃおうがいいなと思ってしまって、
東京の農大でいいやということで東京農大に入ったという裏話でございます。
なるほど。笠原教授先生方、なかなかさすが私立渋谷じゃないですか。
そうですね。当時も今はわからないんですけど、新学校でございまして、何人大学に入れたか、どこに大学に入れたかというのはかなり渋谷だったんだろうなと思いますね。
今でも笠原教授は、新学校です。
新学校です。ありがとうございます。
素晴らしい学校でいらっしゃいます。
ありがとうございます。
岩手の方のご実家というか田舎は、岩手県のどちらですか。
岩手県の花巻市です。
ちょうど大谷翔平とかで。
その通りです。大谷翔平さんの高校の近くに実家がありまして、あとは有名なところで言うと宮沢賢二さんですね。
はい。
とてもいいところです。私、岩手県の文化大使も実は。
そうですか。
いらっしゃっていただいてですね、ちょくちょく岩手県にもまだ行かせていただいております。
花巻東高校が大谷翔平とか菊池雄生の高校でございますので、花巻というと蕎麦も有名だと思います。
蕎麦の実とかもお作りになっていらっしゃったんですか。
花巻市の思い出
その当時は基本的にお米だけでしたね。
蕎麦と雑穀ですね。
雑穀も岩手県の花巻市はすごい有名でございまして、
多分雑穀の生産量かなり上位の方だと思われます。
あと果物でいうリンゴですね。
とてもいい場所ですね。温泉あり、山あり。
食べ物おいしいですし、岩手県花巻市大好きでございます。
ありがとうございます。
東京の大時代はどんなことをして過ごしたかと思いますでしょうか。
多分よく何々デビューという話があるじゃないですか。
僕は何々デビューという言葉を当てはめるのであれば、大学デビューだったんだろうなと思っておりまして。
先ほどから申し上げましたが、少し中高は社会に対してしゃに構えていたんですね。
大学に入った当初もしゃに構えていたんですけれども、
東京の大学はうちの大学はすごく面白い大学でございまして、
勉強ができるという人はあまり偉くない方、当時はですね。
どういう人が偉いかというと、勉強でできる、スポーツできる、お金持ち、全然偉くないですよ。
一番偉い方はお酒がたくさん飲めるという方が一番偉くてですね。
偉くてですね。当時あまりいいことではないんですけれども、
大学入学したらすぐお酒が飲めるような文化がございましたので、
たくさん飲ませていただいて、たまたまお酒が飲めたので、かわいがっていただいて。
やはり僕も僕なりに自分で今まで生きてきた中の哲学とか考え方があるんですけど、
それを全部否定されまして、先輩にですね。
今はそんなことはだめだと思うんですけれども、いい意味でボコボコにされまして。
そこからですね、今たくさん話していると思うんですけれども、こんな性格になってたくさんコミュニケーションができるようになったら、
本当に大学でいろんな先輩にかわいがっていただいて、もっと言うと後輩にもかわいがっていただいて、今があるのかなと。
具体的に部活は何をやっていたかというと、ローバークルーブという部活に入らさせていただいて、
何もか全くわからないんですよね、ローバークルーブって。
何かというと、ボーイスカートの上部のことをローバーと言いまして、簡単に言うとボーイスカートの部活なんですよね。
なので、普段は紳士にともに鍛えようということで、山を登って体を鍛えたりですね、
そういうことをやりながら、誘致があったときにボランティア活動をしようという、そんな部活でございました。
たまたま私が首相を幹事やっているときに阪神淡路大震災がございまして、行っていろいろ支援をさせていただいたんですけれども、
そこも自分が生意気だったなと思っているんですけれども、ずっと1年のころから体力もあったし、ある程度のことはできたので、自分は何でもできるものだと。
少しぐらいの逆光が来ても、僕はできる人間なんだと思って、阪神淡路大震災が起こってから1週間以内に現場に入って、
農業への転職
よし、ボランティア活動をしようと思ったら、3日で心が折れまして。
本当に恥ずかしい話なんですけれども、体がきついというよりもその雰囲気が苦しくて、
今まで鍛えてきたのに自分って弱い人間だなと、そこでかなり打ちのめされましたね。いい意味でですね。
なるほど。そういうお話からすると、花巻が田舎でいらっしゃるので、東日本大震災のときもすごく心を痛められたんじゃないですか。
そうですね。東日本大震災のときはたまたまなんですけれども、2時間前に成田を飛び出しました。
飛行機乗っている最中にオランダに向かっていたんですけれども、東北地方で大きな地震がありましたと。
私はてっきりですね、オランダの東北地方で地震が起きた、災害が起きたのかなと思って空港に着いたらですね、
周りの海外の方から日本人かな、大変なことになっているぞということで、インターネットで調べてみたら大変なことになっておりまして、
せっかくの海外、1週間ちょい予定がですね、ずっと海外から遠隔で仕事をやらないといけないということで大変だと思いますが、
本当にですね、岩手県に実際に住んだことはないので知り合いは少ないんですけれども、
いろんな話を聞いて少しでも何かお手伝いできることはないかなということで、いろいろさせていただきました。
ありがとうございます。じゃあ元にちょっと戻らせていただきまして、東京大学卒業後、トモエ商会さんというところにご就職されているんですが、
このトモエ商会さんはどういう会社さんですか。
ですよね、何かわからないですよね。怪しい名前ですよね。
商会なんてね、今時みたいな。
大学卒業、僕はですね、大学はですね、お酒をたくさん飲んでいると卒業できるもんだと思ってたんですね。
大学4年間一生懸命お酒を飲んでたんですけれども、ご存知のとおり大学を卒業しようと思ったらですね、卒論を書かないといけないんですよ。
その卒論で何をやったかといったら、ちょっと未来の農業について調べてみようというような卒論をやりました。
やった結果どんなデータが出てきたかというと、今と全く同じでございまして、農業やる方減りますよ、農業やる方平均年に上がりますよ、今69歳なんですよ。
耕作保護基地広がりますよ、今滋賀県ぐらいになるんですね。
食糧自給率が40%切ってきます、今39%でございます。
大学の卒論でそのデータが出てきたときに、あれ、日本の農業やばくねって思ったんですよね。
違いますよ、一番やばいのは、大学4年生やっと気づく。
お前やばくないんですけれども、大学卒業するときに、日本の農業って衰弱してるんだと。
これを何とかしないといけないと思って、社会に出たのが1997年に私、社会に出ております。
何があったかというと、多分同年代なので、バブルが弾けた直後に出ておりまして、残念ながら私、勉強全くしていなかったので、農業関係引き取っていただけなくて。
たまたま引き取っていただいた会社が、トモエ消火駅という会社なんですけど、何やってるかといったら、半導体の工場向けに産業用ガスを売る。
ガスの専門商社ですね。ガスの専門商社というくらいであれば、多分一番大きな会社ではあるんですけども、
たまたまそこに入れていただいて、東京で就職をして、栃木の宇都宮で6年間ガスの営業をやらさせていただきました。
なるほど。かなりレアな分野の会社さんになられましたね。
そうですね。めちゃくちゃ営業楽しかったですね。
本当にいろんな工場さんに行って、ガスを販売させてもらったんですけども、いろんな方にかわいがっていただいて、
数え切れないですけど、一番お世話になったのは、小松製作所さんの関連会社でギガポトンという、
半導体のステッパー装置というものを作る工場さんなんですけど、そこの皆様には本当にかわいがっていただいて、
仕事でも、プライベートでも、ときには厳しく、ときには優しくですね、かわいがっていただいて、
またプライベートでお付き合いもさせていただくくらい、本当にかわいがっていただいて、今の僕があるんじゃないのかなと思っています。
なるほど。ありがとうございます。
で、そのトンマイ紹介さんを途中で辞められて、和歌山県で新規収納というふうにおっしゃっているんですが、
この新規収納という言葉がですね、李澤前さん方も私もちょっと正確にわからないんですが、
新規収納というのはどういう意味でいらっしゃいますか?
新しく農業を始めるっていうのを新規収納って言うんですけども、これはうちのUFOとか見ていただきたいんですけども、
新規収納って書けないんですよね。新規収納は仕事じゃないらしくて、この辺がやっぱり農業って少し地世界が違うなって僕は思うんですけども、
何かもう少し変えていかないといけないかなと。
仕事本当にサラリーマン、楽しかったんですよね。仕事も楽しいし、お客さまに輝かせていただけるし、
あと私、新入社員100名の新入社員代表をやらさせてもらっていたので、この会社にいても仕事も楽しいし、出世もできるのかなと思ってたんですけども、
やっぱりですね、卒論で先ほど言いました、農業をちょっとどうにかしたいなと。
たまたま付き合っていた彼女が今の奥様なんですけども、大学の同級生で和歌山出身で働いていて、
じゃあ結婚期に自分の好きなことを始めてみようかなということで、多分男の子だと珍しいと思うんですけども、
結婚期に私が会社を男期待者として和歌山に行って、農業を始めた四季中の下っていうのは、
僕の農業人生のスタート、もしくは農業総合研究所の本当に歴史のスタートになるんじゃないのかなと思ってます。
知事 友達紹介の皆さん方とかお客さまから反対はされなかった?
知事 ありがたいことにたくさん反対していただいて、ただ話を総合するとどんな形の反対かっていうと、
みんな偉いねって言ってくれたんですよ。偉いねって言葉の裏には何が隠れているかっていうと、
この仕事をこのままやっても多分君は出世できるし、いいとこまで行くのにその仕事を辞めてまで、
農業っていう仕事をやるのは偉いよねっていう言葉は悪いんですけども、
産経だし、そんな仕事をやらなくてもいいのに偉いねって言われたのが、ちょっと逆ショックでございまして、
そういう業界なんだなと、やっぱり新規収納、新しく農業をやるといったときに偉いねって言わなくて、
すごいねって言われるような業界にしないといけないなと、君農業やれるんだ、やることできるんだ、
それは日本のためのって本当にすごいねって言えるような業界にしないといけないなってすごく感じましたね。
なるほど。ありがとうございます。当初はいわゆる農業で作ってた作物っていうのは何を作られたんでしょうか。
当初はいきなり農業をやったわけではなくて、たまたま妻の実家がきゅうり農家でしたので、
きゅうりを3年間作らさせていただきました。
なるほど。そこでのきゅうり作ってての思い出なんてございますか。
たくさんあるんですけども、義理のお父さんと一緒にきゅうりを作らさせていただいて、
1年間きゅうり栽培、きゅうり農家でさせていただいて、僕が感じたことはつまらないって思ったんですよ。
あ、世の中にこんなにつまらない仕事があるんだと。
表現が悪いんですけども、僕の主観なんですけども、あ、世の中にこんなにくだらない仕事があるんだと。
1年間やって思ったんですよね。
逆に僕今までいろんなアルバイトとサラリーマンをやってきたんですけども、仕事がつまらないと思ったことがないんですよ。
めちゃくちゃ楽しかったんですよね。
じゃあなんで農業はつまらないと思ったかというと、今までの仕事はですね。
じゃあなんで面白かったかというと、僕はお客さんからありがとう、助かったよって。
おい、お母さん今日土曜日じゃん。土曜日なのに来てくれて本当に助かった、ありがとうって言われるので、
農業の現場から販売へ
あ、明日も仕事頑張ろうって思っていたんですけども、僕のやっていた農業は100%自衛産出荷だったんですね。
きゅうり作って農協さん持ってきゅうりさん作って農協さん持ってって、
店票もらって終わるんですよ。
この店票にはおい、お母さんのきゅうりおいしいわなんて書いてないんですよね。
真っすぐなきゅうりが100本、曲がったきゅうりが50本、合計150本。
これが365人続くんですよ。
一体誰が僕のきゅうりを食べてるんでしょうかと。
一体誰が僕のきゅうりを食べておいしいまず言ってるんだよと。
全く聞こえてこないじゃないかと。
真っ端のお客様の声が全く聞こえてこないっていうことに関して、僕はこの農業仕事がつまらないって感じたのかなと今では思っています。
なるほど。ありがとうございます。
その辺が農業総合研究所さんの原点みたいな感じになってくるんですね。
その通りですね。
ここをなんとかしない限り農業は良くならないんじゃないかと思ってまして。
いろいろやったんですね。
いろいろ農業の現場でやったんですけども、
でもですね、やはり一農家っていう立場で日本の農業の仕組みを変えるっていうのはかなりハードルが高いですし、
かなり時間がかかるなっていうことで、3年間農業やった後に何やったかといったらですね、
私頭が悪いので、生産現場から日本の農業を変えられないのであれば、
よしじゃあ販売現場から日本の農業を変えてやろうということで、
Fアグリシステムズって当時そういう会社だったんですけど、
今でいう野菜のソムリエっていう協会がございまして、
そこと一緒になって大阪の千里中央というところで成果店、
つまり山直の八百屋さんを一人で始めたっていうのが次のステップでございます。
こちら農業は3年、八百屋さんは1年やらさせてもらったんですけども、
これはどの業界でも同じことが言えるかもしれないんですけども、
作っているときは1円でも高く売りたいんですよね、
値上げをしていたんですけども、
でも自分で八百屋を始めたら利益を出したくなるんですよ、利益を。
何したかといったら生産者を叩くんですよね。
そこであれって思いまして、両方やったことがあるのに立場が変わると考え方って変わってくるんだなと。
この水と油の関係は両方やった人間じゃここでできないなっていうことと、
あとはこの水と油が交わるところ、生産と販売が交わるところ、
たぶん農業は流通というものをやっていかないとよくならないんじゃないかなということで、
今から約18年前ですかね、また八百屋さんは1年で辞めて和歌山に戻ってきて、
今のこの農業総合研究所を立ち上げたっていうのがスタートでございます。
インタビューの継続
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。
27:44

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