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2018-12-26 18:38

第103回 渡邊伸一氏(株式会社エバー代表取締役)【前編】

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今回は、「日本に金の糸美容術を広めたい」という想いで創立された株式会社エバー渡邊社長にお越しいただきました。

愛知県ご出身で、小学校の文化祭で主役の浦島太郎役をつとめたことをきっかけに、役者の道を目指し始めます。大学卒業後は、役者そして司会業等の声の仕事に邁進。その経験の中で、見た目年齢の重要性に気付いた渡邊氏は、テレビで見た若返り美容術をきっかけに、ロシアモスクワに飛び『金の糸美容術』を体験されます。そこで究極の若返り効果を実感し、日本に『金の糸美容術』を広めたいと、翌年に株式会社エバーを設立し、エステサロンへのアプローチに奔走。現在、「金の糸美容術」を受けた数は2万人に上り、クレームはゼロという実績ある美容術です。インタビューの後半、「懸命に行ってきたことに決して無駄なことはない、過去は変えられる」など大変あたたかく、勇気をいただけるメッセージを頂戴しました。ぜひ、お聞きください!





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社長に聞く!in WizBiz
本日の社長に聞く!in WizBizは、株式会社エバー代表取締役社長の渡辺伸一様です。
まずは、ご経歴をご紹介させていただきます。
1959年、愛知県生まれ。大学で演劇を学び、劇団青年座に所属。その後、司会業などで活躍。
2002年に、自ら金の糸美容術を体験。2003年には、株式会社エバーを設立し、
大曽徳島明社長にご就任されています。2004年には、ベル美容芸学クリニックを会員し、
1万人以上を超える奨励を誇っていらっしゃる金の糸美容術のパイオニアでいらっしゃいます。
渡辺社長様、本日はよろしくお願いいたします。
ご出身は愛知県ということですが、小学校・中学校時代はどんなお子さんでいらっしゃいましたか?
これがですね、目立ちたがり屋だったと思います。よく文化祭といいますか、何かで劇がありましたよね。
あの中で、今でもはっきり覚えているのが、主役の浦島太郎をやらせていただいて、
それがやみつきになり、役者の道に進んだと思われます。
それは小学校の時ですか?
そうですね。小学校1年生の時です。
小学校1年生の浦島太郎役が、劇団員といいますか、そこにつながっていくという感じでいらっしゃいますか?
そうなんです。亀の役の男の子がですね、実は学年で一番優秀だった山口くんというのが亀役だったんですね。
その上にまたがって主役をやっているというのが、もうなんかめちゃめちゃ心地よくて、
多分ね、そこが僕が役者になりたいと思ったルーツじゃないかなというふうに思っています。
じゃあ、ちっちゃい子の思いをそのままある意味叶えたという感じですか?
そうですね。うちのばあちゃんが児童劇団に申し込みをしまして、それはひまわりだったんですね。
ところが、ひまわりの最終面接まで行ったんですけれども、もし受かったら、当時でいくらぐらいだったかな、10万ぐらいだったですから、
もう今というと100万近いですよね。それぐらいに逆に支払いが必要になるということで、うちのばあちゃんは断念をしました。
なるほど。ひまわりというのは有名な子どもたちを劇団でそのまま役者にしてきたという集団で、
私の住んでいた恵比寿もひまわりがありましたけれども。
そうでらっしゃったんですね。
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中学校の時、北京で劇団活動をしていたというわけではないですか?
全く浦島太郎以来は、劇団を辞めてから、中学はまるっきり演劇とは縁のないことをやっていましたね。
中学時代はどのようになりましたか?
テニス部に入っていましたね。
なるほど。じゃあ劇とはちょっと離れていましたね。
そうですね。
高校は、また愛知県内で。高校時代はどんなことをされていましたか?
高校時代にスポーツをかなりのめり込むタイプで、当時ラクビーが強い高校を選んだんですね。
ラクビー部に入って、よしこれから活躍するぞと思って、バックスというポジションがあるんですけれども、
そこで活躍をしようと思っていたんですけれども、
本当に一年生の、実はこれまた文化祭で、男子がいないと。
女子の演劇部ばかりで、それで悲劇をやるということで、男がいないと。
どこで聞きつけたのか、渡辺君ちょっとやってくれないかということで、
ちょうどその頃、ラクビーの練習がめっちゃきつくて、よしということで、
しかも声をかけてくれた子がめちゃくちゃ可愛くて、好きになってしまいまして、
さっさとラクビー部を辞めて、その学園祭を、文化祭をきっかけにラクビー部を辞めて、演劇部に入りました。
なるほど、じゃあもう高校時代は演劇ばっかりみたいな感じですかね。
そうですね、もうそこからプロアーマ劇団みたいなところにも入りまして、
今またTBSでNHKと関係ないと思うんですけれども、中学生日記というのは当時名古屋でやってたんですけど、
その番組なんかにも携わっている劇団で、高校生ながら大学生の役で中学生日記に出たりだとか、
演劇部だけの、高校の演劇部だけの活動だけでは物足りなくて、そういうもうセミプロみたいなところで結構通ってました。
なるほど、ちょっと西澤明さんはお若い方もいるので、今の中学生日記とは違う中学生日記というのがわからないかもしれません。
NHKのサンちゃんで。
みんなですね、見る番組ですね。結構見られる番組でございますが、それにもご出演とかされたんですか。
してました。
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唯一名古屋でやっているNHKのドラマというか番組だったんで、
あれでわりと名古屋地区、愛知県地区では、もちろん高校演劇の方も全国大会とかも出たりしてましたので、ちょい有名だったんですね。
いわゆる小役と言いますか、そういう感じですかね。
高校生ですから、本当に今で言うね、それこそジャニーズとは全然違いますけれども、そんな感じで意外に人気者でしたね。
大学も愛知ですか、東京で。
大学が東方学園という、音楽ではね、桐友で有名な小沢聖智が音楽部では有名なんですけれども、演劇部、演劇科というのがあるんですね。
そちらの方で入学をしまして、そこで4年ほど頑張ってました。
東方学園というと日本では有数のレベルの高い音楽系が一番強いんですかね。
そうですね。
じゃあ演劇をするために大学も選んだということですね。
もちろんです。
じゃあ大学時代も演劇ばっかりでした。
もう舞台一筋でしたよね。
もう当然年に2度3度舞台がありますので、もう本当に4年間はみっちりアルバイトもしながら演劇、青年でしたね。
なるほど。で、そのまま劇団青年団に大学の頃から所属。
いえいえ、卒業してその青年団の一番大好きな演出家がいまして、その演出家が、
実は劇団を旗揚げすると、もう青年団を飛び出して自分たちで劇団を創立するんで、それでお前も来ないかって言われて、それでついていったような形なんですね。
それが電劇っていう、知る人と知る劇団だったんですけれども、元キャンディーズの伊藤蘭ちゃんなんかも一緒に舞台とかやってました。
じゃあその大学卒業後はいわゆる劇団所属で役者としてやってらっしゃったんですね。
そうですね。はい。
じゃあ何年くらいその役者とかをやられてらっしゃったんですか。
もう10年近くやってたと思いますんで、はい。
過去やられた役とか、そういうのはテレビとかでられてとかあられたんですか。
その後に、実はずっと舞台だけでずっとやってたんですけれども、そのうちにMCという役者舞台だけではちょっと食っていけなかったものですから、
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声の仕事やっぱりやるようになって、その声の仕事をやると同時にプロダクションにもまた所属をしまして、
そのときには本当に数多くのコマーシャルだとかいろんなそういうメディアの仕事は結構させていただきました。
でもやっぱり圧倒的に多かったのはやっぱり声の仕事ですね。
じゃあナレーションとか、司会とかそんな感じですか。
そうですね。イベント、東京だったらビッグサイトがあったりだとか、モーターショーだとかビジネスショーとかありますよね。
土曜日、日曜日とかは、例えば結婚式の司会とか、本当に人前でしゃべるという仕事を、
もう本当に役者の仕事よりももう明らかにそちらの方に変わっていきましたね。
なるほど。今の社長業というところからはずいぶん離れたところだと思うんですが、
どうしてエヴァを設立して社長をやろうなんて思われたきっかけというのはあられたんですか。
よくぞ聞いていただきました。もう転職だと思ったんですね、このしゃべる仕事が。
もう役者は、役者の方がもし聞いていたらがっかりするかもしれないですけれど、
なかなかやっぱり食っていくの大変なわけですよね。
ところが、やっぱりしゃべる仕事ってうまくいけばお金にもなるし、本当に僕自身は転職だと思ってました。
もうこれを一生続けていくつもりでいたんですね。
だったら見た目がね、いくらしゃべる仕事、声の仕事とはいえども、
どちらかというと人前で立つ方が多かったものですから、人に見られている機会が多かったので、
だったら実年齢よりも見た目年齢が少しでも若い方がこのしゃべる仕事をずっと続けられるなと思っていたところなんです。
なんとなく、ベテランの、僕の声の仕事をやっている大先輩が、
僕なんかよりも司会の発注の数が少なかったりしたんですね。
例えば結婚式例にとってみると、やっぱり大ベテランを選ぶ新郎新婦もいるんですけれども、
同年代の新郎新婦の気持ちが友達のように別れ合えるフレンドリーなね、そういう司会をやってもらいたいっていう人がやっぱり多くて、
これ将来減っていくんじゃないかと。
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だったら見た目が若い方が少しでもプレイヤーとして活躍できるなって、そんなことをなんとなく溺れながら感じていた時だったんですね。
その時にたまたまテレビで世界のびっくり業展ニュースみたいなのをやっていて、いろんな若返りの美容術の特集をやっていたんです。
その時にたまたまクレオパトラも実は入れていたんではないかと言われている、この金の糸の美容術の特集といいますか、そこの番組をやっていたもので、
それを見てこれだと思って、山田でもたまらず僕はロシアに行って金の糸を入れてきたのがきっかけです。
金の糸を入れるのは怖いなとか、合っているのかなとか、本当に信用しているのかなとか思ったりはしなかったものなんですか?
テレビのプロモーションがすごい上手だったんですね。
もちろん外人の症例写真とかを見させて映っていたんですけれども、それは衝撃的で、
でも僕も医者ではない、色実写でもないわけですから、こんなに慣れるんだったらちょっとチャレンジしてみようかなという、
そんな喋る仕事をずっと続けられるという思いの方が強かったものですから、あんまり怖いとかそういう気持ちはなかったですね。
情報が少なすぎて、テレビの中だけの情報しかなかったので、わくわく感しかなかったですね。
私も高齢の時期に入ってきたため、近づいて息子へ譲りたいと考えていました。
しかし1年ほど前に、大学時代の友人と会社を抱き合うことになったと私に告げ、店を辞め、東京へ上京していってしまいました。
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それから何度も息子と話し合いましたが、息子の意思は堅く、私は息子への受容職業を諦めました。
店の売り上げが立っており、おかげさまでプロ時代がありますが、後継者と言える存在が息子が辞めてからおらず、そのまま廃業していたのではありません。
いわゆるM&Aという選択肢にもなるのでしょうが、地元の方に愛されてくれている私たちのお店がまたか違うものになってしまうのではないかという思いから、いわゆるM&Aになるものは積極的には調べていない次第です。
私は今どういう選択肢があるのでしょうか。ぜひとも審査員さんのご意見をお聞かせください。
大変難しい後継者の話ですが、1つはやはりMAというのは選択肢になるのではないかな。
だからお調べいただいたり勉強することは大切なんじゃないかなと思います。
知らずにそのままあるいは知って辞めるという選択肢の方が正しいような気がします。
そういう意味ではM&Aはぜひ勉強していただきたいなと思います。
一方でまだ68歳ということであれば、どうでしょう。あと20年ぐらいもうちょっと頑張っていただいて、人生100年時代に入ってきましたので、
私の周りでも86歳か7歳で現役で100まで生きると言っている方もいらっしゃいますし、
70代後半で最近つまんないからということでもう一社作ろうかという方もいらっしゃいます。
そういうような方々が多く日本には存在していらっしゃいますので、68歳で後継者のことを考えるのは正しいと思いますが、
辞めるという選択肢と考えるのはちょっと早すぎるんじゃないでしょうか。
そういう意味ではあと20年ぐらい頑張ろうかというふうに思ったらいかがでしょう。
そうすると息子さんがもしかすると、お友達であった会社が失敗するなり戻ろうかという話になったり、
うまくいっていたとしてもいろいろあって戻ろうかという話になったりするかもしれません。
そうするとこの2年4年を息子さんにお渡しすることもできるし、
20年と考えると社内から育てるということも考えようがあるんじゃないでしょうか。
第三者に任せる、そんなこともあります。
もちろんM&Aもあるかもしれません。
ということで3つぐらいございますね。
息子さんが戻ろうかもしれない、第三者の後継者を育ててしまうという方法もある。
そしてM&A、3つありますがどれもこれも一番いい方法としてはもう20年頑張る。
もう20年頑張る。
そうすると時間が解決をしてくれる部分が多少出てくる。
時間に余裕があります。
そういう話になってくるんじゃないでしょうか。
そういう意味でまだ68ですから、もう10年20年頑張るというのはいかがでしょうか。
お聞きのリスナーの皆さん方も60代で引退とか50代で引退という方いらっしゃいますが、
もう80、90までやられたらいいんじゃないかなと思います。
私の師匠も昔は50代やめるとか60代やめるとかよく言ってたのに、
今じゃ働き続けて死ねたら幸せだなって言ってました。
そういうものだと思いますので、ぜひもうちょっと頑張っていただければと思います。
本日の3分間はここまで。また来週。
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最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました。
本日のポッドキャストはここまでになります。
また来週お楽しみに。
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