信じるって、一言で簡単に言える言葉ですけれど、
これめちゃくちゃ簡単そうで難しい問題ですよね。
では、この信じるという問いに対して、
信じるという言葉に対して、
哲学者たちはどういうふうに考えているのかというのを、
まずはご紹介したいと思います。
まず一人目、
フランスの数学者でもあり哲学者でもあるルネ・デ・カルト。
彼が提唱した信じる哲学というのは、
方法的会議というのがあるんです。
この方法的会議というのは、
絶対に間違いのない確実な知識って何じゃ?
っていう彼の疑問から始まるんですよ。
この疑問についていくつか例を出しますと、
例えば目の前に見えているもの、
この世界というのは本当に存在するのでしょうかと。
今僕らが生きているこの世界は、
今ホエラチを聞いてくださっている皆さんの世界というのは、
もしかしたら全部が夢なんじゃないかと。
思ったことないでしょうか。
僕は結構これ思うんですよね。
僕は実は植物人間かなんかで寝たきりなんじゃないかとか、
僕よく妄想するんですよ。
そういう妄想はよくするんですよ。
そういうやつです。
とか、あと1たす1は2っていうのは本当に正しいんかとかね。
もしかしたら悪魔が僕ら人間の脳を混乱させていて、
実は1たす1は2ではないのかもしれない。
それは嘘なのかもしれない。
数学ですら確実ではないんじゃないかというふうに疑問に思い始めたんですよ。
このルネ・デカルトさんは。
変わってますよね。
だから哲学者は変な人が多いって言われるんですよ。
で、そんなこのルネ・デカルトさんが行き着いた答えっていうのが有名な言葉。
我思うゆえに我ありという考えなんですよ。
これはどういうことかと言いますと、
たとえこの世界のすべてが夢であったとしても、
たとえ悪魔にたぶらかされて1たす1が2じゃないのに2と思い込まされていたとしても、
この世界で考えている自分というのは確かに存在している。
ここに今考えている自分というのが確固たる自分というのは確実に存在する。
それだけはもう絶対に間違いのない信じられるものであるっていうことなんですよ。
だからこの言い方も少し小難しいんでもっと分かりやすく言うと、
今ホエラジオ聞きながらふんふん難しいなとか何かを感じ取っているあなたっていうのは確実にあなたが信じていいものっていうことなんですよ。
確実にそこにあなたがいて何かを感じていて、
その感じたものっていうのは悪魔がたぶらかしたものでもないし夢でもないということですね。
夢の中で考えてたとしてもそれはあなたが考えたもの確固たるものだよっていうふうに彼は結論付けてくれているわけです。
では別の哲学者、例えば僕が大好きなドイツの哲学者ニーチェはどんなふうに言ってるのか。
ニーチェはみんなが当たり前だと思っていることを本当に簡単に信じていいんでしょうかというふうに考えた哲学者なんですね。
例えば善や偽善悪など昔は善とされていたことが今は悪になっていることもある。
例えばさ日本ではさ人様に迷惑をかけるななんていうふうによく言いますよね。
でもインドなんかでは人に迷惑をかけてもいい人は一人では生きられないから他人に迷惑をかけてもいい。
その代わり自分が迷惑をかけられたときはあなたも他人に優しくしなさいっていうふうに教えるとかあるじゃないですか。
これいい例ですよね。日本では人に迷惑をかけるのは悪とされているけれどもインドでは別にそれは悪いことではないよというふうな教えになってるわけですよ。
つまりこれは時代や文化によって場所によってその善や悪の価値というのが変わっていると言えるのではないでしょうか。
他にも神様をみんなが信じているからといって自分も信じていいのか。
自分で何も考えずに盲目的に信じるのは危険なんじゃないか。
なんでもかんでも神様のせい、運のせい、環境のせいみたいな何かのせいにするのは自分の責任から逃げているだけなんじゃないかと。
これも僕らの生活で言うとレビュー評価とかそういうのがわかりやすいんじゃないかなと思うんでしょう。
例えばAmazonとか楽天とかその他大手ECサイトで商品を購入するときにこれええやんって思ったけれどもレビュー評価が良くないから買うのやめたみたいなこととかないですか。
テレビやSNSで見た情報をすべて鵜呑みにして生きてませんかっていうところですね。
ルネデカルトやニーチェが伝えたかったのは決して何も信じるなということではないと思うんですよ僕は。
彼らが伝えたかったのはよく考えて自分の物差しで物事を判断して信じましょう。
自分の考えや判断に自分で責任を持とうと言いたかったんじゃないかなというふうに思うんですよ。
哲学者たちは人にせよ物にせよ無条件に信じるというのは幾何なものかというふうに考えているのではないかというふうに僕は捉えております。
今回の本題というか信じるというところになってくるんですけれど、
ホエラジパクられてるなっていう話を前回したんですけれども、
それでショックや怒りを感じたっていうのは、
僕がホエラジを聞いている人の中には僕を裏切るわけがないという無条件の信頼、
言い換えるとおごりや傲慢っていうのが僕の中に存在していたっていうことの現れなんやと思うんですよね。
変な話、ホエラジを聞いている人の中にそんなバカなことや恥ずかしいことをうちのリスナーがするわけないやんって思ってたんですよ。
それは意識的なものじゃなくて無意識に僕はそう捉えてたんやと思うんです。
だから僕が先週吐き出したような負の感情っていうのはある意味で自業自得でもあるというふうに今は思ってるんですね。
もともと僕はあんまり誰のことも信じたくないと思ってるし、
どちらかというと誰も彼も最初は疑ってかかってる人間なんです。
だけどもポッドキャストはその人の素っていうんでしょうかね。
作られたキャラを演じている方も中にはいらっしゃいますけれど、
僕とかみたいに自分の考えを発信されている方っていうのも多いので、
今回そのパクって聞き寄ったなと思った人もどちらかというと自分の素でお話をされているような雰囲気の方だったので、
僕自身がその人のことを勝手に理解した気になって、勝手に信じて、勝手に裏切られた気持ちになっている、勝手に傷ついているっていうのが実態やったんかなっていうふうに今となっては思ってるんですね。
一人で茶番を演じてたのかもしれへんなっていうふうに。
そんなふうに思いたくはないけれど、でも実際そうなのかもしれへんっていうふうに今はようやく落ち着いてきて、
俯瞰で物事を見られるようになってきたらそんなふうに感じているというところがあります。
それと同時にですね、僕はですね、もしかしたら人っていうのは誰かを常に信じていたい生き物なのかもしれないというふうに思ったわけですよ。
では、結局この信じるって何なのか、信じるってどういうムーブなのか、どんな答えなのかっていうところにフォーカスを当てていきたいんですけれど、
僕この信じるっていうのは一言で言える言葉やけど、いろんな形があると思っていて、そのどれもが実は信じるという行為において正解なんじゃないかというふうに思ってるんですね。
今回のパクられたとか言うて、僕が一人で勝手に傷ついた経験から、僕が得た答え信じるとは何なのかという問いに対して、
3つ信じるってこういうことじゃないかなっていうふうに3つ答えを出してきたんですよ。
まず一つ目、相手に何かを期待することですよね。
僕はホエラジを聞いている人がホエラジの中身をパクったりするわけないという理想をその人に押し付けていたんです。
でもそれはあくまでも僕の中にある理想でしかないんですよ。
最終的に理想通りではない事実に直面をして勝手に裏切られたと僕が錯覚しただけなんですよ。
これさっき言った茶番ですよね。
でも裏切られたわけじゃないでしょ。
そうじゃないんですよね。
その人は元からそういうことをする人である。
まあ言うたら真似をする、パクるっていうことをする人であるっていう事実を僕が知らなかっただけであって、
別にその人自体は裏切ってもなんでもないんですよ。
だってそういう人なんやもん。僕が知らなかったから僕がそう思い込んでただけなんですよ。
だから信じるっていうのは一つの意味では相手のことをよく知るっていうことでもあるんやと思うんですね。
それは難しいんやけど、長い年月、10年、20年、30年かけたからといって相手のことを100%知るなんてできへんのよ。
そういう性質を持ってる人である、こういう性質であるっていうことを100%知るなんて絶対的にできへんわけ。
そこの100%を知ることはできへんかったとしてもそれをいかに0%から100%に近づけていくかの積み重ねが信じるということなんじゃないかなと。
なので信じるということの一つは相手を知ることなんじゃないかというふうに考えたわけです。
そして2つ目は覚悟を決めることなんじゃないかと思ったんですよ。
先ほども言いましたけれども相手のことを100%知るなんて絶対無理なんです。
0から100に近づけていくとしても100%を知るなんて絶対無理なんです。
意思をかけたって絶対無理です。
だから相手に最悪裏切られてもいいっていうような覚悟をすること決意をすることでもあるんじゃないかというふうに思ったんですよ。
99.9%知ってたとしても0.1%の余白があなたの知らない部分として残っている限りは期待と違う動きをする可能性があるんですよね。
だから相手が自分の思っている期待と違う動きをして傷つけられたとしても相手に裏切られてもいいっていう覚悟をすること決意を決めることなのかもしれへんなというふうに思ったんですよ。
今回でいうと僕にその覚悟や決意が足りてなかったんですよね。
みんなはどう思いますでしょうか。
あなたにとって信頼や信用はどんなものかというと、
というわけで、本日のホエラジオはいかがだったでしょうか。
楽しんでいただけましたでしょうか。
久々に哲学っぽいお話をしたかな。
このさあ、信頼問題って、いかようにも話の広げ方が実はあって、
信頼問題ってどんなものかっていうと、
信頼問題ってどんなものかっていうと、
石場さんの10万円の書品権配ったお話とか、
財務省解体の話とかも本回したいし、広げていきたいなって実は思ってたんですけど、
タイミング逃してて、
事実ネタ的にはもう古いかなみたいなとこもあったりとか、
あとは高野のババアで視察されてしまった女性のお話、
事件簿シリーズ、たぶんあんまり需要ないんですけど、
リリちゃんの回であんまり需要はなかったんですけど、
例えばリリちゃんの話とかだったら、
リリちゃんの話とかだったら、
リリちゃんの話とかだったら、
リリちゃんの話とかだったら、
リリちゃんの話とかだったら、
だからあれを哲学的に読み解くことも実はできるんですよ。
この高野のババアで指された女性のお話も、
哲学的なものの見方をしていくことも実は僕可能やと思っていて、
そういうお話も本もあしたいなあと思ってたし。
あとはパクリ問題でいくと、
あとはパクリ問題でいくと AI生成の話とかも実はしたかったんですよね
なんか今の世の中ってほんまに倫理観とかが問われる時代になってきてるなっていう風に最近は僕考えるんですよね
だから別になくてもいいんですけど それぞれがそんなものを持ってる必要はないと思うんですけれど
自分の中の倫理観とか哲学観っていうのは今後より必要になる時代がやってくるんじゃないかと
もちろんボケーって言ったらあかんか 何も考えずって言ったらおかしいんやけど
そんなことを考えずに楽っていうのもおかしいか なんて言えばいい?
オープラットに包み方を考えている
そんなことは別に考える必要ないし 考えてなくても生きていけるから
そんな難しいことを考える必要はないんですけど 絶対的にね
でもそういう自分の中のかっこたる倫理観とか哲学観が
よりあなたをあなたとしてたらしめるものになっていくんじゃないかと
いうふうに僕は最近考えるんですよね
その人の魅力であったり世界観になっていく その人らしさを形作っていくんじゃないかなというふうに最近は考えております
以上最後までお聞き下さり またホエラジオを通して私と出会ってくださりありがとうございます
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何より東風天がとても嬉しいという ハッピーの輪がバシバシ広がっていきますので
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番組の感想は各種SNSでハッシュタグホエラジ
ホエラジは全てひらがなでホエラジとつぶやいていただけると 東風天からの熱いコメントをお返ししに伺います
最後に東風天に吠えてもらいたいこと
褒めてもらいたいこと
ホエパのみんなに聞いてもらいたいこと
聞いてみたいことなどなど
なーんでも構いませんので
何かございましたら番組概要欄にございます
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それでは本日のお相手は
あなたの
あなたの
あなたのあなたのあなたの
あ、間違えた
あなただけのゲートも東風天ウルフでした
さいちゃーん