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完全に光を遮断されたブラックボックスの中で、いつなるかわからない時計の針が進むのをただ待っている。
みなさん、ちょっとそんな状況を想像してみてほしいんですが、実はこれ、日本における死刑執行という、国家が個人の命を奪う究極の権力行使の現実なんですよね。
そうですね、非常に重いテーマです。
日本の死刑囚って外部から厳格に隔離されていて、執行の告知は当日のわずか数時間前。家族にすら自己報告という、徹底した秘密主義が貫かれているんです。
はい。
なぜ国家はこれほど不透明な形で命を扱うのか。そして、この命に対する国家のスタンスって、私たちの毎日の生活を支える権利と、実はどう繋がっているのか。
ええ、そこが今回の肝ですよね。
というわけで、今回の深掘りでは、ある大学で行われた日本国憲法の抗議音声とか、歴史的な裁判の記録といった資料の束から、国家と私たちの間の非常にリアルな力関係を紐解いていきます。
はい。ここで非常に興味深いのは、憲法というものが時代とともに、国家から干渉されないという国家からの自由から、国家に生活を支えてもらう国家による自由へと、その役割を大きく変えてきたという点なんです。
なるほど、役割のシフトですね。じゃあまず最初のテーマからいきましょうか。抗議資料の前半にあった、国家は人の命をどう扱っているのか、という部分です。
ええ、まさに日米の死刑制度の比較ですね。日本の運用を他の国、例えばアメリカのテキサス州なんかと比較すると、その思想の対立が非常に鮮明になります。
これ、資料を読んで本当に驚いたんですけど、テキサス州って日本とは正反対ですよね。
そうなんですよ。いわばガラス張りの法廷が最後まで続くようなシステムが採用されています。執行日は数ヶ月前には事前告知されますし、顔写真や事件の詳細もネットなどで広く公開される。
しかも執行の瞬間にはメディアとか被害者遺族も立ち会うんですよね。日本のブラックボックスとは完全に真逆じゃないですか。
ええ、同じ死刑制度を持つ国なのに、なぜここまでアプローチが違うのか。
そこですよ。日本のその当日告知の理由って、抗議資料によると受刑者の心情の安定のためってなってましたけど。
はい、それが公式な理由とされています。
でもそれだと、即前に、いや、冤罪かもしれないって最新理を求める機会すら事実上奪われてしまいますよね。それってどうなのかなって。
おっしゃる通りです。これを大きな視点で捉えると、アメリカのシステムにはスーパーデュープロセスという考え方があるんです。
スーパーデュープロセス、究極的な適正手続きですね。
ええ。国家が個人の生命を奪うという最も重い権力を行使する以上、それは絶対に密執で行われてはならないと、社会の厳重な監視下に置かれるべきパブリックな問題だという論理なんです。
なるほど。国家の暴走を防ぐために、あえて全部を明るみに出すってことですね。国家権力に対する根本的な警戒心があるんだな。
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そうなんです。この国家が個人の生命に対してどこまで強い権力を行使できるのかという問いは、憲法の歴史そのものとも言えます。
だからこそ、国家が命を奪う、絶大な権力を持っているならその逆、つまり命を維持させる、生かす責任はどうなっているんだって話に繋がってくるわけですね。
ええ、まさにそこからが近代憲法と現代憲法の最大の違いです。ここから日本国憲法第25条の生存権、つまり健康で文化的の最低限の生活を営む権利の話に入っていきます。
皆さんも絶対聞いたことある条文ですよね。でもこれ昔から当然にあったわけじゃないんですよね。
はい。19世紀までの資本主義は劣性フェール、自由法人主義でした。国家は治安維持だけやって、経済には一切介入するなというスタンスです。
弱肉強食の世界ですよね、要するに。
そうです。その結果貧富の差が激しく拡大して持たざる者は生きていくことすらできなくなった。そこで国家が積極的に介入して命を支える社会権という概念が不可欠になったわけです。
その社会権を現実のものにするためのものすごい戦いの記録が資料にありました。朝日訴訟ですね。これ1957年に始まった裁判ですけど。
はい。非常に有名な、そして象徴的な裁判です。
重い結核を患っていた朝日茂さんという方がいらっしゃって、国から支給されていた日用品費が月額たったの600円。
当時の物価で考えてもパンツが年に1回買えるかどうかというギリギリの額ですね。
いやそれだけでも過酷なのに、イキベレをあっていたお兄さんが月1500円の仕送りを決意してくれた途端、国はその仕送りを収留とみなして月600円の支給を打ち切った。
えー、それだけではありません。
そう。さらに医療費の一部として900円を徴収し始めたんですよね。
血も涙もないというか。
ここで私が本当に驚いたのが、この裁判での国側の学者の主張なんですよ。
あー、法廷での発言ですね。
ええ。日本のチベットと言われる岩手の山奥では、葉っぱで葉を耐している。それに比べればチリカミが1日1枚半でも使えるなら文化的だって言い放ったっていう。
今の感覚からするとちょっと信じられない発言ですよね。
いや、いくら昔の時代背景があったとしても、国家が定義する生存権のハードル少すぎませんかって突っ込みたくなりますよ。
もちろん第一審の浅沼裁判長もその主張は一触しました。その時に残したのが、憲法は絵に描いた餅ではないという歴史的な名言です。
おお、かっこいいですね。
人間らしい生活水準を下回る保護基準は違法だとして、朝日さんを少訴させたんです。これが結果的に日本の生活保護基準が大きく引き上げられる原動力になりました。
でもそれでハッピーエンドとはいかなかったんですよね。資料の続きを見ると、最高裁の判断ってまたちょっと違っていて。
そうですね。その後の最高裁は朝日訴訟や障害年金に関する保力訴訟などで、第25条はあくまで国の政策方針に過ぎないという見解を示しました。
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いわゆるプログラム規定説ってやつですよね。国にお金払えて直接言える権利じゃないと。
なぜ最高裁はそんな弱気なというか消極的な判断をしたんですか。
それは三権分立のメカニズムが深く関係しているからです。具体的な予算の配分や福祉制度の構築は選挙で選ばれた国民の代表である国会が広い裁量を持つべきだという論理ですね。
なるほど。裁判所がこの人に毎月いくら払いなさいって命令しちゃうと。
ええ。司法が国の財布の中身、つまり行政や立法の領域に過剰に踏み込むことになってしまう。だから裁判所としては、憲法の理念は来時だけど予算を決めるのは政治の仕事だと線を引いたわけです。
役割分担ってことですね。ただ、抗議資料に含まれていた近年のニュースを見ると、この状況にも変化が起きているみたいです。
はい。いわゆるいなちの取り出裁断ですね。
そうです。2013年から2015年にかけて、当時の自民党政権が物価下落などを理由に生活保護基準を引き下げた件です。これに対して最高裁は、引き下げを違法と判断したんですよね。
ええ。直近の非常に重要なニュースです。
プログラム規定説があって、国会に裁量があるはずなのに、なぜ今回は違法判決が出たんでしょうか。
この判決で最高裁が着目したのは、政治的なイデオロギーや予算額そのものではなく、決定に至るまでのプロセスだったんです。
プロセスですか。
はい。国は物価変動率のみを直接の指標として原額を決定したんですが、最高裁は、専門的知見に基づく客観的な検討を経ておらず、裁量権の逸脱があると指摘しました。
ああ、なるほど。つまり裁量があるとは言っても、専門的な検証をすっ飛ばして適当に予算をカットするのは法的に許されないよと。
その通りです。恣意的な運用には明確な歯止めをかけたわけです。
政治的変化足りなく事実だけを見ても、生存権に関する国家の裁量って決してアンタッチャブルな性域じゃないってことがよくわかります。
ええ。国家と国民の緊張関係が常にそこにあるということですね。
さて、肉体的な生存、つまり第25条のラインが確保されたとしましょう。でも人間、ご飯を食べるだけじゃ社会で生きていけないじゃないですか。
そうですね。思想や知識を形成する必要があります。
ここで国家の介入は、私たちの頭の中、つまり第26条の教育を受ける権利へと向かっていくわけですが。
この領域に入ると、学問の自由と教育を受ける権利という2つの概念の違いをしっかり分けて考える必要があります。
第23条と第26条ですね。これ私なりに理解したんですけど。
はい、ぜひ聞かせください。
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学問の自由って図書館みたいなものかなと。自分が好きな本を自由に選んで読むから国家は放っておいてくれっていう。
ええ。国家は介入するな、ですね。
対して、教育を受ける権利は学校給食みたいなもの。子供自身では栄養のあるメニューを用意できないから国家が責任を持って提供してくれと。
非常に分かりやすい例えですね。
でも給食となると、じゃあそのメニューに何を入れ何を外すのかで決定権を巡って揉めるわけですよね。ピーマン入れるなとか。
まさにその誰がこんだてを決めるのかが日本の教育史における最大の争点なんです。
やはりそこですか。
この背景には戦前の日本で教育直後を中心に行われた国家主導の軍国主義教育への深い反省があります。
ああ、国家が頭の中をコントロールしてしまった歴史ですね。
はい。だからこそ国家が教育内容を決定する国家教育建設と子供に最も近い親や教師が決定すべきだとする国民教育建設が激しく対立してきたんです。
その衝突が物理的な行動にまで発展したのが資料にあった1961年の朝日川学力テスト事件ですね。あのニュース映像ちょっと異様でしたよ。
ええ。全国一斉の学力テストを実施しようとする国に対して教師たちが実力行使に出ましたからね。
これは教育の国家統制だって反発してピケを張ってテストを阻止しようとするんですから。学校の教室がまるで労働葬儀の最前線みたいになっていて。
同じ構図としては家永教科書裁判も挙げられます。歴史家の家永三郎氏が書いた日本史の教科書が戦争の記述などを理由に国の検定で不合格にされた事件ですね。
それも結局誰が歴史の解釈をつまり教育の建立を決めるんだって話ですよね。司法はこれに対してどういう結論を下したんですか。
最高裁は国家か国民かという二者脱逸は極端だとしました。親には学校選択の権利があり、教師には具体的な教育方法の裁量がある。
でも同時に全国どこでも一定の教育水準を保つために国が学習指導要領などの大枠の基準を設定する権限も認めたんです。つまりそれぞれの主体に役割を分配する節中案ですね。
節中案って聞こえはいいですけど、それって結局誰も最終的な責任を負わない綱引きがずっと続く曖昧な状態になりませんか。
ええ。
国家が関与する以上一定の思想誘導のリスクってどうしても消えない気がするんですよね。
この問題が提起している重要な問いはまさにそこなんです。国家が良かれと思って提供する教育内容が時として国民の思想を特定の方向へ誘導してしまうリスクをどう防ぐか。
はい。だからこそ特定の主体が独占しない仕組み、親や教師、社会全体が国家の基準を常に批判的に監視し続ける緊張関係が必要なんです。
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完全なおまかしは危険だぞと。
皆さんも自分が受けてきた教育のメニューを誰が決めたのかちょっと考えてみると面白いかもしれませんね。
そうですね。そしてそうやって教育を受けた国民はやがて社会に出て労働者になります。
ついに資本主義という過酷なゲームへの参加ですね。
ええ。ここで憲法は第27条と28条の労働基本権で彼らを守ろうとします。民法上は雇用主と労働者は自由で対等な契約を結んでいる建前ですが。
現実は全然対等じゃないですよね。雇側と雇われる側じゃ圧倒的な力関係の差がある。一人の社員が社長に給料をあげてって言っても、じゃあ明日から来なくていいよで終わっちゃいますし。
だからこそ憲法は労働者が束になって交渉する権利、つまり団結権、団体交渉権、そしてストライキーを起こす団体行動権を保障しているんです。
戦うになって強力な武器を憲法が与えてくれているわけですね。でも資料のデータを見るとその武器、今やすっかり棚の奥で埃をかぶってませんか。
非常に象徴的なデータですね。
1970年代には年間約1万件も労働葬儀ストライキーがあったのに、今のグラフを見ると血を這うようにほぼゼロですよ。
最近蘇豪西部のストライキーがありましたけど、あれが何十年ぶりだ珍しいってニュースになること自体が、今の日本の労働環境を物語っているというか。
労働組合の弱体化が現在の日本の低賃金や経済の長期的な停滞の一心となっている可能性は高いでしょうね。声を上げる権利が行使されなければ富は自然と企業側に偏りますから。
ここでちょっと素朴というか意地悪な質問してもいいですか。
はい何でしょう。
もしある製鉄会社の労働組合が資本主義は搾取だ会社の機会を全部国有化しろって叫んでストライキーを起こしたら、これって憲法28条で守られる正当な権利になるんですか。
いえそこが重要な線引きです。結論から言うとそのストライキーは労働基本権では保護されません。
違うんですね。
労働基本権の目的はあくまで雇用主が決定できる範囲の労働条件の改善にあるからです。企業の国有化というのは雇用主の裁量を完全に超えた政治的な問題ですよね。
なるほど社長に言ってもどうにもならないことだと。
はいですのでそれは労働問題ではなく第21条の表現の自由に基づく政治的デモとして扱われることになります。
つまり要求の相手と内容がルールの範囲内に収まっていないとダメなんですね。憲法は資本主義をぶっくらす権利まで与えているわけじゃないとスッキリしました。
ただ日本でストライキーが減った背景には別の制度上の問題もあります。そもそもストライキー権を持ってない人たちがいるんです。
ああ公務員の方々ですか。
はい日本では警察官や消防士などにはストライキー権をおろか団結権すら認められていません。国民の安全に直結するからという理由です。
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でも資料にあったロイター通信の記事だとイギリスなんかでは消防士が堂々とチン上げストライキーを行っているって書いてありましたよ。
そうなんです。世界の常識と日本の現状の間にはかなりのギャップが存在しているという現実も知っておくべきですね。
本来なら私たちを守る強力なセーフティーネットが日本ではうまく機能していない部分もあると。
ええ。
さてここまで生存の確保精神の形成そして労働による経済的自立と見てきました。これらすべてにおいて社会権というのは国家がどう介入しどうバランスを取るかの戦いだったんですね。
まさにその通りです。
皆さん自身はこの国家との距離感についてどう感じましたでしょうか。国家に頼りすぎずかといって見捨てられないその絶妙なラインをどう引くか。
最後に一つ皆さんに考えてみていただきたいことがあるんです。この労働と生存のバランスという観点から私たちは今全く新しい転換点に立たされています。
と言いますと。
現代はAIが急速に進化し人間の労働そのものの意味が変わりつつありますよね。もし将来AIが生産の大部分を担うようならと想像してみてください。
はい。
そしてユニバーサルベーシックインカムいわゆるUBIのように働かなくても国家が一定の生活資金を全員に配る時代が来たとしたら。
働かなくていい社会ですか。
ええ。その時憲法が想定している生存権や勤労の義務権利の前提は根底から崩れます。
労働組合は一体何に対してストライキを起こすのでしょうか。
うわあ確かに雇い主がいなくなるってことですからね。
はい。そしてただ国家から資金を配給されるだけの存在となった時私たちは何を基準に健康で文化的な最低限度を定義しどうやって国家権力から自立を保つのか。
それは私たちがこれまで頼りにしてきた国家との契約そのものを書き換える必要が出てくるわけですね。
次の社会のルール作りはまさにこれから始まるのかもしれません。
これは私たちがこれから直面するこれまでで最大の深掘りテーマになりそうですね。
皆さんの頭の中にも新たな問いが生まれたんじゃないでしょうか。
ええぜひ考えてみてほしいですね。
それでは今回の深掘りはここまでとさせていただきましょう。また次回のテーマでお会いしましょう。