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認知症母介護殺人事件 第2話
7時のニュースです。昨夜9時頃、市内の農業用のため池に車が転落したとの百刀番通報があり、地元の警察が駆けつけたところ、池の中に軽自動車が沈んでいるのを発見し、
消防によって車の中から中年の男女が救出され、病院に搬送されましたが、男性はすでに死亡、女性は意識不明の渋滞とのことです。
車内からは大量の酒瓶と複数の薬物が見つかっており、警察では2人が命定状態の上、心中を測ったものとして…
何気なく立ち寄った利用室で、私はマリコという女性に髪を切ってもらうことになった。
それは思いがけないアクシデントの遺症は、なりゆきのようなものだった。きっと私は心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。
向かいの国道から定期的に聞こえていたトラックの音が聞こえる。代わりに、裏山から蝉の鳴き声も聞こえる。
それじゃあ、半年近くも休まれていたんですか?
ええ。県や自治体からの要請があったわけではないんですが、やっぱり最初に利用室は危ないっていうイメージがついてしまったみたいで。
それに、皆さん外に出歩かないので、おしゃれする必要もないですね。人間、しばらく髪の毛を切らなくても生きていけますから。
その間、休業保証とかは?
あ、今業界では動いてくれてるみたいですが、もともと自粛要請の対象にすらなっていないので。
うちみたいな個人店はたくあいもないですし、横のつながりも薄いですから、声を上げたところでかき消されてしまうだけで。
なじみの方たちに支えられているので、その方たちが来なくなってしまったら、もう…
そうですか。
でも、仕方ないですね。世界的なことですし、大変なのは私たちだけじゃ。
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ご主人、今日はご主人は?
主人は…
一瞬鏡越しに目があったが、すぐに彼女は手を動かしながら答えた。
ちょっと外してまして、でも時期に戻るかと。
そうですか。いや、今はどこの業界も大変ですよ。
自分も昔小さな会社をやっていたものですから、お店を維持していく大変さは痛いほどよくわかります。
私はできるだけ明るく答えたつもりだったが、心の中でどこか寂しさのようなものを感じていた。
社長さんだったんですね。
いや、そんな大したものじゃありません。片手だけの従業員しかいない小さな広告屋ですから。
それでも立派ですよ。
もう10年以上前のことです。最初は猫の手も借りたいぐらいだったんですけど、
例の金融危機があってから仕事がパタッとなくなりまして、
ちょうど身内のことでバタバタしていたタイミングもあって手放すことに。
同じですよ。世の中から広告がなくなったところで人間は死にませんから。
彼女は軽く微笑むと再びハサミを動かし始めた。
何もかも変わってしまいましたね。
ええ。
すぐ戻ってくると思ったんですけど。
え?ああ、以前と同じ生活は難しいでしょうね。
気軽に旅行とかにだって行けなくなってますしね。
余してや誰かと話すだけでもある程度距離を取らないと。
主人。
え?
半年前、旅行に行くって言ってフラッと出て行ったんです。
それっきり。
それは、つまり。
わかってるんです。
誰といるのかは一時的な気の迷いだと思うようにしてたんですけど、こんなに長く続くとは。
彼女の突然の打ち明けに少々面食らったが、淡々としたその口ぶりと鏡越しに映る彼女の顔は遠い昔を懐かしむような諦めにも似た清々しさがあった。
まさかこんな風になってしまうなんて。
たった半年の間にいろんなことが変わってしまいました。
扇風機つけましょうか。
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そう言うと彼女は私に背を向け、柱に取り付けられた扇風機のスイッチを入れた。
緊張していたからだろうか。
8月だというのに不思議と暑さは感じなかった。
しかし白いブラス姿の彼女の背中はほんのりと汗ばみ、薄い麻の生地の下から水色のラインが透けていた。
すいません、何のお構いもしないで。
何か…
彼女が戸棚の下の小さな冷蔵庫を開けて言った。
麦茶ぐらいしか。
いいえ、十分です。いただきます。
まだあるといいですね。
お母様がやられていたお店。
ぼんやりと彼女の姿を眺めていた私は、思わずハッとした。
え、ああ、いや、たぶん、ないんです。
え?
もう何十年も前のことですし、それにお店自体本当に実在したのかどうか。
でも、この近くでやられていたんですよね。
実は、母は地方症だったんです。
麦茶を鏡の前に置こうとした彼女の手が止まった。
もう十五年ぐらい前からですかね。
最初のうちはだましだましなんとかやっていたんですが、さすがに手に負えなくなってきまして。
施設に入れることも考えたんですが、例の会社のこともあって、そんな余裕もなくて。
うちは母一人子一人なんで、他に頼る人もいなくて、結局私が月っ切りで面倒を。
すいません。なんだか無神経に。
あ、いいえ。勝手にこちらにお邪魔したのは僕の方ですから。
こちらこそすいません。なんだか身内の話に巻き込んでしまったみたいな。
わずかに首を横に振ると、彼女は再びハサミを手に取り、反対の手で私の髪をとかし始めた。
私は彼女の体温を感じながら話を続けた。
介護を始めてからしばらくして、母が突然、昔の思い出話をするようになりましてね。
症状にもよるんですが、地方を患うと近い記憶から薄れていくんです。
物をしまった場所を忘れたり、自分が何をしようとしていたのか思い出せなくなったり。
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その代わり昔の古い記憶は鮮明に残っているみたいで、まるで昨日のことみたいに嬉しそうに話すんですよ。
シャンプーの仕方やパーマの当て方。
どんなお客さんがいて、誰々はかくがりだの、誰々はくせっけだったとか。
おしゃべりのお客さんの口を聞かされたり。
あ、そうです。
え、なんでそれを?
利用しあるあるなんで。
ああ、そうなんですね。
いや、最初はそうかそうかと聞いていたんですが、あまりにも同じ話を繰り返すもので、いつしか聞き流すようになってしまって。
大まかな店の場所や、いくつかの断片はぼんやりと覚えているんですが、今となってはもう。
でも、きっとお母様は嬉しいと思いますよ。
こうして記憶を手繰り寄せてもらえて。
せめてもの、罪滅ぼしです。
ハサミの音が止まった。覚悟がなかったわけじゃないんですけどね。
それまでずっと仕事人間だった僕が、何十年も母親の介護を続けるには無理があったんです。
機嫌がいい時はまだよかったんですが、進行が進むにつれて、いい争いも多くなってきて。
いくら親子といえども、80を超えた母親と24時間一緒にいる生活がこのまま永遠に続くんじゃないかって、
ここ数年は僕が息子だっていうことすらわからなくなって。
夜中に幻覚を見るんですよ。
部屋に小人が住んでるとか、飼ってもいない犬が逃げたとか言って大騒ぎするんです。
それを笑って受け止める余裕があればよかったんですけどね、僕には。
だから偽の話もどこまで本当のことか、もしかしたら全部作り話かもしれないですし。
すいません、母親の妄想にまでつきあわせてしまって。
いいえ、全部妄想だった方がいいのかもしれません。
鋭いハサミの音だけが聞こえる店内。
それは左利きの彼女と私だけの空間だった。
天井近くに取り付けられた扇風機のわずかな風が、
時折彼女の体の隙間を抜け、私の首筋まで届いてくる。
あ、降ってきちゃいましたね。
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彼女がカーテンの隙間から外の様子をうかがう。
先ほどまで映画のワンシーンのようだったオレンジ色の夕日が、
鈍い雨雲に変わっていた。
窓際に立つ彼女の横顔がガラスに反射し、
雨粒と重なって泣いているように見えた。
どちらにお泊まりなんですか?
え?ああ、まだ決めてないんですが、市内の方まで出ようと思っています。
それなら安心ですね。
この近くだと山を少し上がらないと泊まるところがないので、
あの辺りは見晴らしはいいんですけど、
この時期はたまに土砂崩れが起こるんです。
土砂崩れ?
近頃はまとまって降るので、地盤が緩みやすいみたいで、
去年も何度か山が崩れて、宿までの道が寸断されてしまって。
それは大変でしたね。
役所の方でも見回りをしているみたいですけど、
あんな人気のない山の中で取り残されたら大変ですから。
後でどこか適当に探してみます。
雨が止むまでゆっくりしていってください。
そう言いながら彼女は再び背後に回ると、
私の首筋についた髪の毛を軽く払った。
鼓動が速くなるのを感じ、私は思わず鏡から目をそらした。
わずかに開いたカーテンの隙間から、
雨に打たれたサインポールが寂しそうに佇んでいる。
あれって、なんであの三色なんですか?
え?
ああ、サインポール。
昔から気になっていたんです。
なんで赤、白、青なんだろうって。
私も詳しいことはよくわからないんですけど、
聞いた話だと、昔は病院が床屋も兼ねていて、
その頃の病院の色の名残だっていう説と、
フランスの国旗から由来しているっていう人もいるみたいです。
でも、本当のところは誰もわからないみたいですね。
どちらにしても癒しの場所ですね。
癒しの場所?
フランスは自由・平等・友愛の国だって、
学校で習いませんでした。
そうだといいんですけど。
もう一つ伺ってもいいですか。
はい。
どうして営業していないのに電源を。
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それは。
彼女の顔がゆっくりと変化していく。
それは、悲しみよりも深く、
逃れられない苦しみを抱えたまま、
断崖絶壁の淵に立った時のような複雑な表情だった。
待てよ、この表情、どこかで。
何もない田舎町にいると、
噂話ぐらいしかすることがないんです。
噂?
主人のことがあって、
仕方なく数日店を閉めていただけで、
あっという間にあることないことを言いふらされて、
悪いのは主人です。
いえ、もしかしたら私がその原因を作ったのかもしれません。
でも、何の関係もない人たちが、
無責任に広めた作り話の方が、
お話としては面白いんでしょうね。
気がついたら、
誰もこの店に寄りつかなくなってしまって、
この店は世の中がこんなことになる前から、
とっくに息をしていなかったんです。
静寂だけが店の中を支配していた。
その時だった。
一瞬目の前が明るくなった。
その光はわずかなカーテンの隙間からだけではなく、
その薄い生地を切り裂くように、
窓全体から店内を明るく照らした。
彼女は微動だにせずに、
私の背後に立ち尽くしていた。
もう、疲れました。
え?
私の声は、書き消されていた。
出演 石曽根優也
塩湯真由美
近藤ひよ
曲本・演出 石曽根優也
制作 ピトパでお送りしました。