寂しいなって思ってるんですか、実際。
いや、なんか、その時は一生懸命関わろうとするから、どっちかというと一生懸命なんだけど、
終わった後に、終わった後に、なんかアウェーやったなーとか、ふと寂しくなる。
気まずい時と、アウェーが気まずい時と寂しい時ってなんかありますよね。
違うけどありますよね。
いや、私気まずいがないよね。気まずいってどういう意味?
気まずいがあるでしょ。気まずいがないから。
気まずいはそんなにないかも。
アウェーで気まずいの方が割と一般的な気がしますけどね。
例えばアウェーで気まずいって。
えーっと、みんなおしゃれでファッション大好きで、ファッションの話に盛り上がってるけど、自分はユニクロしか着ませんみたいな状況だったら。
ユニクロの良さを伝えたらいいんじゃない?同じファッションみたいな。
でも多分彼らの方がファッション偏差値は圧倒的に高いので、ユニクロがどういいか理解してる前提なんですよ。
その上でおしゃれなんですよ。
なるほど。ユニクロを語っても下なわけね。逆に言うと。
ユニクロの理解すらそんなできてないみたいになるってこと?自分が。
同じように野球でもサッカーでもね、そういう状況ってあると思うし、みんな野球ファンで。
でも確かに野球の、福岡だとソフトバンクとか、私もおうちがずっとソフトバンクっていうか、フォークスファンだったから、
お父さんが連れてってくれて、内野席のときはいいよ。座ってゆっくり、野球等はなんだろう?ぐらいの感覚で見れるけど、
一回外野に行ったことがあって、みんな同じ動きしてるじゃん、応援で。それが分かんない、できない。
なんならもう、攻撃になったらみんな立たなきゃいけないみたいな、ある一定の、あるよね、みんなで共有してるものが。
それが一切分かんないときに、寂しいなって思ったことある。
寂しいなんだ、アウェーじゃなくて。
同じファンだからね、一応そのときは。
共に応援する人ではあるじゃん。
でも棒踊りとか言っても、分かんない振り付けとか、寂しいとは思わないですもんね。アウェーだな、分かんないな。
一員にはなれない、なりたいけどなれないっていう状態ですね。
ただ、自分のスキルや知識ではほぼ対応できない。さっきのファッションが近いけど、寂しいとことはちょっと違うっていうか。
そっか、やっぱそれがアウェーなんか。
アウェーだ、自分の日頃慣れ親しんだ場所ではない。
やっぱ気まずいのほうが近い感じですかね。
みんなと一体感が持てなくて、残念だったな、寂しいなって感じで。
確かに、アウェー感ってそういうことなのかもな。
でもそれを別に覚えようとはしないから、むずいね、確かに。
棒踊りはでも、比較的覚えやすくない?
覚えようとして覚えれなかった人みたいになってるけど、そういうことじゃなくて。
とりあえず行って入ろうとしたら、難しい、練習してる人じゃないと踊れないようなやつとかもあるんですね。
でも、むずいな、自分の意思次第な気もしてきた。
そう考えて私、能を習ってるけど、本当はめっちゃアウェーだった可能性あるもんな。
だったっていうか、アウェーなんじゃないですか。
今も。
分かんないけど。
今はもう何年もやってるからアウェーとは言えないけど。
その中ではアウェーじゃないって感じですか。
道業界全体からすると相当ドアウェーなんですよ。
私もそれが好きってあると、アウェーだとは思ってないよね、自分では。
私も好きです、みたいな。
でもさっきの野球の例とかドアウェーじゃないですか。
ファンかもしらんけど、応援の一つも分かんないわけでしょ。
ファンからしたらファンじゃないみたいになっちゃうわけじゃないですか、ファンからしたらね。
私がファンですって言っても、この間僕ポッドキャスターのイベント行ったんですよ、渋谷で。
で、300人くらい来てて。
すごいそれアウェー感じそうだな。
で、僕そんなにファンじゃないって感じだけど、普通にちょっと聞いてるくらいの感じだから。
ガチファンの人が300人いるわけじゃん。
やっぱアウェーやったもんね。
それに寂しさは感じなかったですか。
寂しくはない。アウェーだな、みたいな。
もう大人しくしておかんないといけないな、みたいな。
早々押したいけない。
なるほど。だから分かった分かった。
そっち側の目線がないから、私は好きなのに共有できんかったな、終わり、寂しい、みたいな感じ。
向こうにとって私がこんな存在なんだろうな、みたいなのまで、ちょっと資料が言ってませんでしたね。
私も好きなのに、できなかった、とかいう寂しさかな。
関係が微妙になってきた彼女と一緒にいるクリスマスとか、そういうときに寂しさを感じるときがあって。
今の嫁はないんですけど。
そりゃそうだろうね。
もしあったらちょっと。
あったら多分、もうすでに別れてると思うんですよ。
でも過去に付き合ってきた人、そういうケースは結構あったんですよね。
でもその感覚が、のんさんの言ってることに結構近い気がするんですよね。
人はおるけど、なんか共有しきれない感じっていうか。
その、コミュニティに入りきらないのは気まずさではあると思うんですけど。
彼女とっていうところで、そういうのはありましたね。
でも今聞いて、ユンがそういう気持ちだって言うのを、うすうす感じてる相手のほうが寂しそうやけどね。
感じてたらそうでしょうね、たぶん。
自分がおるやん。
でも、お前じゃ足りないよってことだから。
なるほどね。
つまり、一緒にいるけど、一緒にいる感じがしないでしょ?
うーん。
なんでそれを感じて、感じる人と感じない人がいるわけですけど、なんでその違いがあるのかがわかんないですよね。
でも、もしかしたら似てる気もするんですよ、のんさんを感じてる寂しさに。
なんか前、上水くんがニューヨークに行った話してて、サンビカーを歌ってる教会かなんかに行って。
サスペルの機器に行ったら、観光客の席が、教会がすごい豪華な金ピカなところがあって、2階席とか3階席みたいにスタジアムみたいになってるんよ。
で、信者の方はより下のほうの席で、観光客の席で一番上の観覧席みたいなのがあって、上のほうから見るみたいな。
で、間違って信者の席に行っちゃったんよ。
だから、前後左右ガチ信者の方で、歌始まったら大熱唱してる中に、友達と、僕はキリスト教信者じゃないし、コスペルファンでもないから、曲もわかんないし、
みんなもう泣きながら歌ってるくらいのレベルなわけ。全員。
だから、今すごいところに来てしまった。外国に来たんだって思って。
あれは寂しいのレベルじゃなかったっすよ。
恐怖?
恐怖のレベル。世界で一人なんじゃないかみたいな。
でも、常にそれを感じる感じやね、私は。だから、いろんなとこに行って。
だから、それが寂しいみたいな。でも、私も、例えば信じてるとするじゃん。キリストを信じてるとするじゃん。
で、一緒に歌おうとするんだけど、知らないだけ。でも、なんとなくその人たちに受け入られてない感覚を後で振り返って気づくんよ。それが寂しいって感じ。
だから、どうぞどうぞ一緒に歌いましょう。いいのいいのわかんなくても歌いましょうとか言われると、全然寂しさがないわけ。自分ができなくても。
でも、後で振り返ったらすっごいみんなウェルカムじゃなかったなとか思うと、私もすごい好きなのにな。私も参加しようという主体性があったのにな。寂しいみたいな。
なんかこう、まさに全く自分が興味ないところでそれになってもあんまり寂しいとか思わないんだけど。
じゃあ違うわ、僕は。主体性が持てないことが寂しいって思ってるかもしれない。
そこにね、完全に。
例えばその場に行って、歌えなくても歌いたいって気持ちがあったら、なんかその中では歌えてない素人なんだけど、
でも仲間たち強い、すごくその道に長けた仲間たちがいるっていう心強さになる。僕だったら。歌えなくても。
けど、歌うつもりもなければ信者になる手もなかったから、本当に全然考え方も違うし、
合わせて熱唱するかって言ったら、そこでどうかもできないし。
だからそこにコミットできない自分に寂しさを感じる。
なるほどね。
だから恋人とかもそうかもしれない。この人にフルコミットできないなって気持ちがどっかにあるときに寂しさがあるとか。
言うのはそっちかもね。どっちかというと。
結果だからそういう人で分かれてるので。
本当は多分コミットしないといけない存在、恋人だから。しないといけない存在なのにできないとか、会社とかでもそうかもしれない。
入ってても一生懸命頑張ろうって一人だって思ってたらいいけど、なんかここで頑張ってもなみたいな気持ちになってると、ちょっと寂しさがあるというか。
確かにね。ちょっと違ったね。寂しいがね。
主体性を持てない寂しさ。
そうだね。
私は多分主体性を発揮しても喜ばれない環境。
だからその彼女が合わせた感覚が。
そうやね。
自分の言うところの。
だっけ、2人でクリスマス嬉しいねとかって言って、なんかワイワイやったけど、帰って、ゆん全然なんか楽しそうじゃなかったなとか思う。
クリスマスはまだいいんですけど、正月がもっときついんですよ。正月ってお店も開いてないじゃないですか。だからもっときついんですよね、俺からしたら。
しかも家族、両親も亡くなってるし、集まれるファミリーもそんないなくてみたいな感じだから。
その時に彼女がいろいろ考えてやってくれたけど、最終的に泣かれましたね。
のんさんだと思った。
そうだと思う。
それだと思った。
一生懸命やってるのにでしょ。
たぶんやってくれてはいたんでしょうけど。
確かにな、そういう方もあるのか。主体性を発揮したけど、全然自分だけ空回っていた女性に対しての。
そんなことばっかり。だからその行為自体は迷惑だけど、あなたのその主体性はとてもわかってるよみたいな人に出会うと救われる。
いろんな団体でトラブルを起こさないでとか、揉め事を起こさないで感みたいなのはよくあったよね。それはどういうコミュニティでも。
家族っていうのは誰目線なの?
例えば奥さんが、夫と子が楽しく遊んでるのを、自分はそこに遊びに入ってないけど、微笑ましく見るみたいな。
そう言ってるんですよ。奥さんからしたら、自分がその場を作ったって解釈できるじゃないですか。子供産んだの自分だし、自分が選んだ夫なわけじゃないですか。
でも私だったら、自分が参加できない遊びとかされてたら、ちょっと遊び変えようよみたいな、そこに参加してないと微笑ましいとかあんまり思わないというか。
自分はクラブイベントを主催することもあるんですけど、誰かと誰かが楽しそうにしてたら、開いてよかったなって思うんですよね。
それと近い感覚って持て得るのかなと思ったんですよね。
じゃあ例えば、自分が呼んだ2人が仲良く映画の話をしてたら、微笑ましく見れる。
それは場を主催してるからね。
主催してるで、そうか、微笑ましくはなんないんだよな。自分が参加してないとやだ。
なんか討論カフェ最初に始めたとき、自分参加者じゃなかったよ。コーヒー入れたりとかお題出したりとか、そういうどっちかというとウエイトレス的な存在だったんだけど、もう耐えられなかったもん。参加したくて。
嬉しかったけど、なんかもう全然。
でも寂しかったですか?
寂しくはなかった、確かに。感動的ではあったよ、確かに。
自分がいいと思うものをやってみて、みんながそれで喜んでるっていうのは確かに嬉しかったけど、その嬉しさを継続しようとは思わなかったって感じ。
そこは分けてるかもな。自分が参加者としてそこにいるのか、場をオーガナイズしてるのか、じゃあ全然見方が違う。
オーガナイズしてて、自分以外が映画の話で盛り上がったらむしろ。
むしろいい。こっちを見ないでやってもらうのが一番いい。最高って感じ。
自分が存在してないぐらいの感じが一番いい。そういうのはね。場として機能するわけでしょ。
意外に神視点じゃない?それ。
場を作ってるから、それが僕がいないとどうにもならないっていうのは、場っていうよりはマンパワーでどうにかするみたいな感じじゃん。
じゃあ飲み会でもよかったわけじゃんってなるわけでしょ。
なんかそれが自然と自分が作ってない場で起こるのは微妙じゃん。
いや起こってていいけど、僕が参加者だったら参加できてない時は微妙。参加者だからね。
参加者なのに参加できてない自分で参加すればいいんだけど、なんか気持ちが参加しようってコミットするっていう気が起こらない。
けど失礼がないように愛想笑いしてるとか辛いなって。
参加者側か主催者側かでね。
結構変わる。
変わりますよね。
勝手に疎外感を感じてるみたいに私思っちゃうよね、そういう。
なんか盛り上がってるからうまく話せなかったみたいなのって。
そんななんか、自分からおいでよ、入っといでよみたいな気分になるんやけど。
これまさに価値観の違い。
人間が何十人か集まったら多分中心で喋ってるのは多分数人で、そこにグループができるって感じになるから、みんな主体的に話題を自分の話題で話しましょうみたいな感じには多分ならないと思うんですよ。
めっちゃ中心で話題作って自分の話に持って、自分の話したいテーマに持っていく人とそこでちゃんと受け答えする人と、
たまに合図打ちを打つ人と何も言わずに解くからっていう感じで、これもなんか層になってしまうっていうのはやっぱり人間のあるあるな気がしますね。
で、それでも多分いいんですけど、いいんですけどっていうのは気持ちの問題だから、喋ってるかどうかが問題じゃなくて、喋ってなくても一員だと思えれば多分いいんですけど、
なんかね、僕は割と思えないって感じ。
寂しさを感じるってことやろ?
そうそうそうそう。
今日理解しました。勝手に寂しくなってるみたいに思いがちだった、自分は。
勝手に寂しくなってますよ。寂しくさせられてるなんてことはないですよ。
そうそう、それはでも大事な分け方だと思う。
なんかこの人たちといるとすごいなんか自分はなんか入れないからとか言ったら、いやそれは自分が入ろうとしないからじゃないって言った時に、そうなんだよねとは言わずに、
いや入る好きないもんとか言われると勝手にこう自分から自ら離れてるみたいに思っちゃってたけど、
気を使ってこの人たちが楽しく話してる話題をなんか変にこう薄めた話にするの悪いなとか思ってるなんて思わないから、
入ってこいよ!ぐらいにしか思ってなかったっていう。
そうだと思う。そうだと思う。
強者の集まりみたいなね、積極的に発言する人のラリーに入ってこいよは入れない、パス回しとかしたことないですみたいな。
なんか蹴り方教えてください、ボールのみたいなとこから始まってる人からすると急に試合に入りなよは多分きついんです。
だから自分はパスパスパスとか言っちゃうからね。
やったことないのにでしょ。
そうそうそうそう。
だから時々やったことないのに入ってくんないのに怒られるってことでしょ。
たまにパスしてあげる人もいるでしょ。
あ、そうそうそうそう。
でもそれはそれでなんかまた違うんですよね。パスしてあげるっていう。
あーなるほどね。
それがまた分かっちゃうとね、申し訳ないなみたいな。気遣ってパス出されたなみたいな。
そんなこと考えてたら入れないじゃん。
どうか入れないでしょ。
入れないけどその人たちが悪いとは思わなくて、ただ入れないから寂しいなとは思う。
寂しさが全然違うね。
結構だからデリケートなと思いますね、コミュニケーションはね。
場だけ用意して、オッケー、じゃあ喋っていいよって喋るほど、人はそんなに器用じゃないっていうか。
確かに。
なんかでも、確かに繊細っていうので言うと、同じものを好きでも、例えばさっき言ったファッションが好きでも、
なんかどうもそこに濃淡があるみたいなのがあるんだろうなと思ったのが、
友達がめちゃくちゃラッコ好きなんよ。
で、ラッコを見に、あんま今ほら水族館にラッコがいないから、いるラッコがいるところに見に行ったら、
やっぱラッコファンがいるんだってたくさん、カメラとか持って。
でもう、なんか、もう多分その一番濃いラッコファンは、もう飼育員さんとめっちゃ喋って、
今日のラッコ様子どうでした?みたいな。やりとりがあるぐらい。
もうそこでなんかちょっと安倍感を感じるみたいな話を聞いたときに、
同じラッコが好きなのに、なんか残念感もあるけど、やっぱそこでもやっぱ濃淡みたいなのあって、
なんかこの辺の話をどこまでしていいのか、さっき私が言った審査ものみたいな、なんかこう気持ちになるみたいなのあるんかなとか思ったりはしたけどね。
なんか好きが一緒の人が集まるだけで、すごいじゃん、いいじゃんとか勝手に思ってたけど、濃淡が見えるときついよね。
そうですね。でもかなんか、大ラッコファンもつながってるっていうこと?
飼育員とつながってることをマウントとして、マウント行動としてやってる人もいる感じもするんですよね。
純粋に聞きたいんじゃない?ラッコの様子を。
いや、本当はそうかもしれないですけど。
周りからそう見られてる?
ラッコに関して、例えばアートとかだったら、作者とつながることもできるじゃないですか、むっちゃファンだったら。
でも、たぶんつながってる方が平らき上なんですよ。
どれだけ好きかよりも?
だから、好きな表現としてつながってる方が上だっていう風に、たぶん見るんですよね、みんな。
その価値があると共有しているものに、自分はどれだけ近いかってことを言ってるんですよね。
その価値にこれくらいの距離で私はいるんですよって、距離マウントっていうのがある。
ラッコはちょっとね、難しいですけど。
純粋に好きそうな感じがするよね。
アートとかだとそれは結構あるんじゃないかと思うんですよ。
俺は好きだから買っちゃうけどね、みたいな。
いや、この人の絵が大好きで、もう3枚買ったんだよねって言って、
いや、俺30枚買ってるからのマウントは理解できるんよ。
でも、例えば1枚も買ってなくて、自分作者と知り合いだからは、なんで上なんだろうって今すごい不思議な感じ。
今わかる?3枚買ったんだよね。
それは作品しか見てないじゃん。作品が誰から生み出されてるかってことですよね。
なんか問題、なんかある?
誰から生み出されてるかは、アートにおいては重要ですよね。
難しいな。
でも難しいよね。生きてるんでしょう?逆に不穏ぐらいじゃない?
経済価値としては繋がってる方が偉いんですよね。
小学生の時、小3ぐらいの時にすごいクラスで嫌われてる女子がいたんですけど、パフィとかがすごい売れてた時期で。
時代だね。
パフィが売れ始めてて、その子みんな嫌われてるんだけど、なんで嫌われてるかって嘘つきだからなんですけど、
私パフィの親戚なんだよねってめっちゃ言ってて。
それは繋がりが、価値があると思って言ってますよね。
小3ながらに。
パフィのCDを持ってるではないんですよ。
パフィのライブに行ったでもない。
パフィと血が繋がっているということを言ってるんですから。
確かに。
力をマウントで使ってる。
でも実際さ、自分がそうだったら言っちゃうんかな。
なんか誇りに思って言ってるだけかもしれんけど。
例えばよ。
本当だったら、嘘なんですよね。
嘘なの?
嘘です嘘です。