1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/01/20:聖日礼拝(旧音源)
2013-01-20 31:06

2013/01/20:聖日礼拝(旧音源)

2013/01/20 聖日礼拝(旧音源)




00:02
おはようございます。
御言葉の時が与えられていますことを感謝いたします。
今日の歌唱を開く前に一言、お祈りをさせていただきます。
ハレルヤ、私の魂よ、主を褒め讃えよ。
私は生きている限り、主を褒め讃えよ。
命のある限り、私の神に褒め歌を歌おう。
恵み深い天の父なる神様、
こうして1月の第三聖日、
ここにあなたを礼拝する時が与えられてありがとうございます。
またここに集うことができたことを感謝いたします。
私の魂は、主を褒め讃えますと。
そして私の生涯、あなたから離れ、
またあなたを慕って、
生きている限り、主を褒め讃えるという、
その生涯を送らせてくださいますように。
そしてまた今日も変わらず、
中の初めの日の朝、
さたに礼拝を捧げるこの特権をありがとうございます。
礼拝の主であるあなたがここに共にいてくださって、
この礼拝を最後までお導きくださるように。
どうぞ私たちの内にあるものを主はご存知であります。
主は心を見られるお方、
私たちが今捧げているこの礼拝を、
心から捧げていますから、
主をどうぞそのところをご覧ください。
そしてまた私たちの内にある、
あなたが喜ばれないものも、あなたはご存知でありましょう。
そのことも主がどうぞ光を当ててくださいますように、
お願いをいたします。
私たちが日々こうして、
主のお守りの中にあいましていただいていることを、
感謝をいたしますけれども、
世を見渡してみますときに、
相も変わらず争いがあり、
そしてまた気が流され、
そして悲しみをまた苦しみを与えられる世の中であります。
神様はそれをご覧になって何と思われているでしょうか。
主をどうぞ憐れんでください。
人間のしていることをどうぞ主は私たちに示し、
その罪があなたによって許され、
また悔いあがためへと導き、
あなたのその御愛にあって生きることができるものへと変えてください。
そのためにまた御言葉が必要でありますから、
今日いただく御言葉をもって、
私たち一人一人を主の御元へと引き上げてくださるようお願いいたします。
語るものは乏しく弱いものですから、
御言葉があなたのお言葉として私たちに迫ってくださるように、
03:04
今日ここに来ることができたことを感謝をいたします。
いわきを覚え、あるいは用事があってここに来れなかった兄弟姉妹方をも、
主はご存知でありますその場にあって、
主との交わり、また礼拝が捧げられますように、
一切をお枝にして、
主イエス様の尊いお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
読んでいただきましたマルコの福音書の14章、
17節から25節までですから、
私たちがこのマルコの福音書を読んでいく一つの目的は、
イエス様というお方がどういうお方であるか、
私たちの信仰の基本であります。
イエス様ご自身を深く知り、
主キリストが何を語り、何をなさったのか、
そして今日生きる私たちに何を示そうとなさっているのか、
それを一緒に見ていきましょうということでありました。
ですから今日の箇所もそのことを踏まえて見ていきたいと思います。
今日のテーマ、タイトルは、
最後の晩餐ということでありました。
最後の晩餐といえば、皆さんも思い浮かべられると思うんですが、
レオナルド・ダ・ビンチが描いた絵のことであります。
何度もご覧に戻ったと思うんですけれども、
このことが街に出てきますけれども、
このダ・ビンチが、
イタリアのミラノのサンタマリアデレグラシアという
聖堂というか教会というか修道院、
そこの職堂の壁に描いた絵でありますが、
なんと横が8メートル80センチ、縦が4メートル60センチの壁画であるんですが、
この絵は聖書の箇所から題材を取って、
そして描かれているということであります。
その最後の晩餐、
聖書の中には最後の晩餐とかいう言葉は出てこないんですけれども、
これは彼が描いた絵のタイトルとしてあるということですね。
06:00
今日の箇所の中にそれも出てきますけれども、
それだけではない大切なことが今日も示されているということを見ていきたいと思います。
18節のところでミラが席について食事をしているとき、
これはイエス様と十二弟子が一緒に食事をしていたということですね。
食事をしているということがその前後何度も出てきます。
12節、種なしパンの祝いの第一日、すなわち杉越の子羊をほふる日に弟子たちはイエスに行った。
杉越の食事をなさるのに私たちはどこへ行って用意をしましょうか。
14節、弟子たちと一緒に杉越の食事をする。
16節、彼らはそこで杉越の食事の用意をした。
そして18節、ミラが席について食事をしているとき。
こうして食事をしていたということがここに分かるわけですけれども、
これは先ほどの12節にありました杉越の食事。
いわゆるイエス様がよく主税人や積み人たちと食事をなさったとか、
そういう日常の食事ではない。
これは大切な杉越の祭りのときになされる杉越の食事である。
ですから最後の食事ではない。晩餐という一つの大事なディナーです。
ですから最後の晩餐と言われるようになっているわけですが、
この杉越についてもう一度復習しなければなりません。
この杉越の食事、杉越のこの晩餐がなぜ大切なのかということですね。
それは室谷ジプト記の12章までさかのぼるんですけれども、
かつてイスラエルの民がエジプトの市で虐げられていた。
その嘆き叫びに神様は応えてくださって、
エジプトからイスラエルの民を解放しようと言ってくださったわけですね。
そのところですけれども、
モーセはイスラエルの教老たちを皆呼び寄せて行った。
室谷ジプト記12章の21節からですが、
あなた方の家族のために羊をためらうことなく取り、杉越の生贄としてほふりなさい。
貴族の一束を取って箸の中の木にひたし、
09:02
その箸の中の血を鴨尾と二本の門中につけなさい。
朝まで誰も家の戸口から外に出てはならない。
主がエジプトを討つために行きめぐられ、
鴨尾と二本の門中にある血をごらんになれば、
主はその戸口を杉越され、
滅ぼす者があなた方の家に入って討つことがないようにされる。
主は杉越されるということで、
こうしてイスラエルの民は、
エジプトになされたその災い、
それから逃れることができて、
やがて太郎はこのイスラエルの民をエジプトから出ていくように、
ということで彼らはエジプトの家から解放されたという、
イスラエル民族にとっては本当に大事な、忘れてはならない出来事であったということですね。
その杉越、これを年に一度彼らはお祭りとして祝い、
そしてそこで食事をする。
その食事にとって一番大事なことは、
子羊をほふるということ。
そこにありました種なしパンの祝いの第一日、
すなわち杉越の子羊をほふる日とあります。
必ず子羊がほふられた、
その子羊の血によって彼らは救われたということを覚えるためであるというんですね。
この血というのはすなわち命を象徴するものであります。
ですから救いのために尊い子羊の血が代価として払われている、
そのことを覚えるために、この杉越の食事を彼らは守ってきたわけであります。
それが夕方になってイエスは十二弟子と一緒にそこに来られ、
そして皆が席について食事をしていた時、これが杉越の食事でございます。
さてその後先ほど見ましたレオナルド・ダ・リンチの最後の晩餐。
彼が聖書の福音書のどこにでもあるんですけれども、
どの福音書にも書かれてあるんですが、マルコの福音書はこのように書いています。
イエスは言われた、まことにあなた方に告げます。
あなた方のうちの一人で私と一緒に食事をしている者が私を裏切ります。
弟子たちは悲しくなって、まさか私ではないでしょうと変わる変わるイエスに言い出した。
12:00
イエスは言われた、この十二人の中の一人で私と一緒に蜂に浸している者です。
確かに人の子は自分について書いてある通りに去って行きます。
しかし人の子を裏切るような人間は災いです。
そういう人は生まれなかった方がよかったのです。
この最後の晩餐のテーマになっているのは、ここにあります私を裏切る者。
これはすなわちイスカリヨテのユダのことがテーマになっているわけですけれども、
イエス様のこの発せられた言葉、この中に私を裏切る者がいますと言った時の
その弟子たちの戸惑い、あるいは疑い、そして動揺、衝撃が走ったその一瞬を見事に捉えてガビンチはこの絵を描いたわけですね。
私を裏切る者がいます。
このイスカリヨテのユダは私を裏切り、そして私を売るのだという一つの予言であります。
しかしルカとヨハネは違った角度からこのイスカリヨテのユダを見ているということも見逃してはいけません。
イエス様を売るのはユダですけれども、ルカはユダにサタンが入った。そしてユダはイスマを売る。
ヨハネは悪魔がユダの心にイエスを売る思いを入れた。もちろんしたのはユダです。
しかしそれをさせている根本にあるものがサタンであり悪魔であるということ。
いわばユダもサタンに心を許してしまったということをルカとヨハネは言っているわけであります。
私たちもそのことは十分心得ています。
そしてこの記事を通して何を思うか。
私たちはユダのようにはならないぞ。私はユダのようなものではありません。と言い切れるかどうかということ。
そんなことを考えてみますときに、こういう本があります。
謙遜の日和という、レオ13世が書いたいろんな言葉の中にこういう言葉がありました。
15:00
どんな罪でも、どんな凶悪な罪悪でも、人が行ったならば、あなたも行う可能性があるのである。
もしそれを今日まであなたが犯さずに済んだならば、それは神の恩憐れみと恩助けによるものである。
要するに神様の助けがなければ、私たちもこのユダのように、あるいは後ペテロのように死を否め死を売ってしまう。
そういうようなものになる可能性はあるのだ。
だから神様に寄りすがって、そして常に神様の憐れみと助けを求めていくものになりなさい。
そう彼は私たちに教えるわけです。
さて、22節。
それから皆が食事をしている時に、イエスはパンを取り祝福してのし、これを先彼らに与えて言われた。
取りなさい。これは私の体です。
イエス様がパンを取って祝福して、これを先とありました。
これは私の体です。
パンを示して、これは私の体である。
一つの例えですけれども、例えではない。
イエス様は精霊によってこのパンそのものが私の体なんだということを私たちに示したわけです。
これもイエス様に示された予言であるわけですけれども、
なるほど、そういえばかつてイエス様は私は命のパンですとおっしゃったことがこの聖書にも書かれてありました。
これはヨハネの福音書の6章の中にある言葉ですが、6章の47節から。
まことにあなた方に告げます。信じる者は永遠の命を持ちます。
私は命のパンです。
あなた方の父とたちはアラノでマナを食べたが死にました。
しかしこれは天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
私は天から下ってきた生けるパンです。
誰でもこのパンを食べるなら永遠に生きます。
また私が与えようとするパンは世の命のための私の肉です。
イエス様ははっきりと私は命のパンです。
18:02
私は天から下ってきた生けるパンですとおっしゃった。
そのことをもう一度繰り返して、これはパンであるけれども私の体なのです。
そしてそれを裂いたということ。パンを裂いた。
裂いたということは、これはご自分がやがて自分のこのパンを、そして体、
これを鞭打たれ、そして傷つけられ、ズタズタにされるというそのことの予言としてパンを裂いた。
私の体は裂かれる、傷つき、ズタズタにされるというこの予言をなさったわけですね。
ですからこのイエス様のお体なるそのパンをいただくということは、
このイエス様が身に覚えられた苦悩、苦痛、痛み、
そしてその肉体的な全ての痛みを私も味わうということ。
そのことを覚えるためにイエス様は、これはパンではあるけれども私の体なんだ。
このパンを裂くということは私の体が裂かれるということなんだ。
そしてこのパンを口にするということは、その体を私のうちにいただくということなんだ。
それはその体が覚えた痛み苦しみを、私も共にそれを味わうためなのだと弟子たちに教えられたわけですね。
なぜイエス様はこのような目に合わなければならないのでしょうか。
それは予言の成就のためでありました。
その予言というのが五十三章に示されています。
その予言が成就するために私は身を裂かれ、そして多くの痛み苦しみを味わうであろう。
そのようにされたわけです。
五十三章の三節あたりから読んでみます。
彼は下げつまれ、人々からのけものにされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔を背けるほど下げつまれ、私たちも彼をたっ飛ばなかった。
誠に彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
だが私たちは思った。
彼は罰せられ、神に討たれ、苦しめられたのだと。
しかし彼は私たちの背きの罪のために殺しとされ、私たちの徒がのために砕かれた。
21:03
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちは癒された。
私たちは皆、羊のようにさまよい、各々自分勝手な道に向かって行った。
しかし彼は私たちの全ての徒がを彼に負わせた。
この予言が成就するために、ここにある彼、彼というのはすなわちイエス・キリストのことでありますが、
その予言が成就するために、私は体を鞭で打たれ、
そしてずたずたに引き裂かれ、苦悩を、痛みを味わうのだということを私たちに教えなさったわけです。
それがこの杉越の食事の意味であったわけです。
それが最後の晩餐であったわけです。
なぜ最後の晩餐なのか。
それは、もうイエス様が弟子たちと一緒に食事をする時は来ないということ。
弟子たちはそれは知りませんでしたけれども、この時の杉越の晩餐が最後になるわけです。
というのは、次の金曜日にはイエスマン十字架におかかわりになるという、その予言のもとにこれがなされているということ。
そのことを弟子たちは後知ることになるわけです。
23節から24節。
また、盃を取り感謝を捧げて後彼らに与えられた。
彼らは皆その盃から飲んだ。イエスは彼らに言われた。
これは私の契約の地です。多くの人のために流されるものです。
今度は盃を取って、それを弟子たちに示された。
当然その盃には葡萄酒が入っています。
この葡萄酒は赤い葡萄酒であります。
この葡萄酒はまるで死の如く赤い葡萄酒。
ですから、この葡萄酒は葡萄酒だけれども葡萄酒ではない。
これは私の地なのだ。私が流す地であるとイエス様はおっしゃったわけです。
24:01
精霊によってこの葡萄酒は今イエス、キリスト御自身の地であると宣言なさったわけです。
多くの人のために流される私の契約の地であると宣言なさったわけです。
多くの人のために流される?イエス様の地?
それはいつそんなことがなされるんですか?
それは次の金曜日。
それはどこでそんなことがなされるんですか?
それはゴルゴダという丘の上に建てられた十字架の上で流される?
それは何のためにそんなことがなされるんですか?
イエス様はなぜ地を流されなければならないんですか?
それは十字架刑という当時の極刑、死刑、その罰を受けてイエス様が命をその代償として払うためである。
十字架刑と言いますけれども、ではイエス様はどんな罪を犯したのですか?
なぜ十字架にかけられなければならないんですか?
いいえ、何の罪も犯してはいません。
それはピラートも証明したことであります。
何の罪も犯していない、その者がなぜ十字架で地を流し、命を断たれなければならないんですか?
二十四節。これが答えです。
これは私の契約の地です。
多くの人のために流されるものです。
多くの人のために。どれだけ多くの人のためなんですか?
それは地球の果てにいる一人の人のために流す。
今もあちらで、こちらで争いをしている。
そして犠牲になっている人も多くいて悲しい現実があります。
あるいはどこかで植えている人たち、悩み苦しんでいる人たち、私たちの身近にいる人たち、
そういう人たちの全部を含む多くの人たち、
これは間違いなく当時の極東と言われる地球の東の端の日本にいるこの私を含むその多くの人たち、
27:02
21世紀に生きるこの私たち一人一人、時を越え場所を越えて、
すべての人を含むその多くの人のために流すものです。
ではその多くの人が一体何をしたと言うんでしょうか。
それは後イエスが十字架の上で祈られたその祈りが答えであります。
神よ彼らを許してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。
ですから神様どうか彼らがわからずにいるその罪を許してください。
どうか許してください。彼らが罰を受けないで滅びることのないように。
私が身代わりにその十字架を受けて、その罰を一切私が引き受けます。
そして私の命の代価をもって彼らを許してください。許してあげてくださいという、
そのことのために流すこれは私の血である。
この血をもってその一人一人が神様と新しい契約を結んで歩んでいけるように。
これはイエスがおっしゃったこれは私の契約の血です。
多くの人のために流されるものです。
そしてこの葡萄酒を飲むものすなわちこれはイエスの血をいただくということ。
このものが神様の命を討ちにいただいて、そして神のことを生きていくようにという、
その願いがここに表されているわけです。
この咲かれたイエス様の体をいただき、そして十字架で流されるこのイエス様の血をいただくときに、
私たちは神様との新しい契約を交わし、そして新しいここから歩みをさせていただく。
誰でもキリストのうちにあるならばそのものは古いものは過ぎ去って身をすべてが新しくなりました。
そのお言葉を持ってまたそこから歩み出すことができるという恵みに預かることができる。
これがイエス様の約束であり、弟子たちに語られたことです。
お祈りをいたしましょう。
また、杯を取り感謝を捧げて後彼らに与えられた。
彼らは皆その杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。
これは私の契約の血です。
私の人のために流されるものです。
30:01
天の父なる神様、イエス様の書かれたお体と十字架で流された御血を覚えて皆を崇めます。
一生イエス様を信じる信仰によって罪の許しを与えられ、解放を与えられ、御霊の自由を与えられますことを感謝をいたします。
新しい命を与え、新しい日々の生活をあえましてくださる、そのための私たちに与えてくださった命の代償、この尊い命を無にすることのないように、
命を捧げてまで私たちを許してくださる、一生イエス様を今信じ受け入れます。
そして私のすべてをあなたに委ね、お捧げいたします。
主をどうかお見知りください。
主キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン
31:06

コメント

スクロール