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2024-12-13 55:52

【朗読】梅崎春生『幻化』②[砂浜]

青空文庫より、梅崎春生『幻化』の「砂浜」を朗読しています。

サマリー

五郎は砂浜を歩きながら過去の思い出や感情と向き合っています。彼は言葉の壁を感じつつ、周囲の風景に迷いながら精神的な葛藤を経験しています。最終的に、彼の心の奥深くにある恐怖や孤独を掘り下げながら隠れ場所を探し求める姿が描かれています。このエピソードでは、五郎が砂浜で不安や恐怖、思い出を巡る心の葛藤を抱えています。彼の孤独感や過去の回想が交錯する中で、環境の変化に対する感受性が強調されています。梅崎春生の『幻化』の第2章では、五郎が砂浜で少年と出会い、食事を共有することで心の交流を深めています。また、彼の過去の思い出や人間関係の複雑さも描かれています。五郎は松井教授との衝突を経て、教授への不潔感を抱きながら学期を送っています。最終的に彼は教授の講義を欠席し、落題してしまいます。

五郎の葛藤
【砂浜】
さつまの言葉はわかりにくい。
早口でしゃべられると、全然わからない。
外国の言葉を聞いているようだ。
小型トラックの荷台に腰をおろして、
周りの風景を眺めながら、五郎はそう考えた。
空の荷台には五郎の他に、もう一人若者が乗っている。
それが運転手と話し合う。
何の意味か、さっぱり理解できない。
他国の人間や、隠密が入り込まないための、
島津藩の言語政策だという説を聞いたが、それは嘘だろう。
言葉とはそんなものでなかろう。
そう思ってはいるが、五郎は次第に自分が隠密であるような気がしてくる。
風景と記憶
今朝、彼は密行者であった。
十時に朝食をとったが、目が覚めたのはずっと以前である。
やかましい音がする。五郎は掛け布団を頭までかぶる。
うるさいじゃないか。病院だというのに。
布団の重さや感触の違うことにすぐ気がつく。
五郎は布団をはねて飛び起きた。
窓を開けると、数え切れぬほどのカラスが、
高く低く飛びかえ、わめきかわし、その声が空をひっかき回すようだ。
彼はいささか動転して、カラスたちの動作をしばらく見上げていた。
これはまるでカラスのマッチじゃないか。
乾いた下着を取り入れ、五郎は窓を閉め、寝床に取って返した。
しかしもう眠る気がしない。また窓を細めに開け、外の様子をうかがう。
こんなにかしましい鳴き声は記憶にない。
二千倍いるとのことだが、戦後急に増えたわけではあるまい。
戦争中にも鳴いていたはずだ。どうして記憶から脱落したのか。
戦争生活の荒々しさに紛れてしまったのか。
五郎は低い中二階の突き上げ窓から顔を覗かせ、しばらく外の様子をうかがっていた。
この宿は某のメインストリートから少し山手になっているので、家の屋根屋根が見える。
瓦は関東などと違って、木目が細かくしっとりした微妙な美しさをたたえている。
道が見えるが人通りはほとんどない。まだ塔を閉めている家さえある。
五郎は目を鷹のように光らせ、人や鳥の動きに注意を払っていた。
俺は密公者だ。だんだんそんな気分になってくる。
この部屋だってそうだ。
開かずの間や隠れ難度や飛び降り上司や不思議な作りになっている。
なぜそんな作り方をしたのか。密公者のためのものだという以外には考えられない。
五郎は目を細くしたり太くしたり、顔を傾けたりして約一時間下界の動きを観察していた。
やがてカラスの数が少しずつ減り、県政も収まり始めた時、五郎はやっと腰を上げ、トントンと階段を降りていった。
風呂場で顔を洗うと、快感に食事の用意が勤っていた。
庭に面した部屋で朝食をとる。庭にはサボテン、系統、ゼラニウム、その他の花が咲いている。
茶を飲みながら五郎は主人に弁当を頼んだ。主人は承諾していった。
「あんたはここで水死した兵隊さんの友達じゃそうですな。」
「ええ、あの女が喋ったな。」と思いながら五郎がうなずいた。主人はそれだけで後は追及しなかった。
やがてトラックがやってきた。彼は弁当を受け取り、主人の贈り物のサイダー瓶に入った芋焼酎を抱え、トラックの荷台に飛び乗る。
ヤチンは、ヤドチンは意外に安かった。手を振ってトラックは動き出した。
荷台の上のカンバスを畳んで、腰掛け代わりにする。
しかし道が悪いので車は揺れ、時々頭身と腰を突き上げてくる。
昨夜は熟睡したはずだが、まだまぶたのあたりに疲労が残っている。
荷台の若者と運転手は意味のわからない早口の会話を交わし、笑い合う。五郎は尋ねてみる。
この車、トマリを通るのかね?
はい、通ります。
ちゃんとした標準語で答える。
こちらの言葉を理解し、きちんと返事ができるのだ。
再び若者同士の会話になると、激絶の類に戻る。五郎は疎外観を感じながら思う。
俺はあまり喋らない方がいいらしいな。
トマリの町に入った時、五郎は背を丸め、何かを狙う目つきになって、町並や通行人の動きに注意を集中した。
しかし、町並は短くあっという間に通り過ぎた。五郎は緊張を解き、背を伸ばした。
それからしばらく、五郎は膝を立てて手を組み、車の揺れに体を任していた。
火がうらうらと照り、左手の方向に海が見えたり隠れたりする。
右手はずっと知らす大地で、所々に部落があり、時には煙突が見え、合同焼酎製造工場という文字なども読めた。
やがてトラックは橋を渡った。これが間の瀬川です。聞きもしないのに若者が教えてくれた。
ここらから吹き上げ浜になるんです。
君はどこの生まれかね。私の生訓は遺作です。若者は白い歯を見せて笑った。
アメリカ軍が吹き上げ浜に上陸してくるというので、あの頃はみんなびくびくしていましたよ。
20年前ね。君はいくつ?28歳です。
じゃあ国民学校の頃だね。はい、8歳の時です。
トラックを乗り捨て、まっすぐ浜の方へ歩く。防風林を抜けると砂丘となり、海浜植物が茂っている。
植物の名は知らないが、浜湯とか浜防風とか呼ぶのだろう。砂丘にしがみつくようにして群生している。
そこらに腰を下ろして彼は海を見渡した。沖に大きな島かげが見えた。
古式島だ。空気が霞んでいるので古式島は、ちょっと身には九州本土につながった半島か岬のように見える。水平線は漠として見えない。あそこらが東シナ海になるのだ。
シンとしている。いや、シンシンと耳鳴りがしている。
カラスの声、トラックの振動音、それから一挙に解放され、耳がバカになったようだ。
砂浜は大きく湾曲してへこんでいる。海が長年かかって浸食したのである。
今眺める海は静かだが石垣島あたりで発生した台風が枕崎や佐戸岬に上陸して荒れ狂い、鹿児島から北上する。
そんなときに吹き上げ浜の波は砂丘まで襲いかかり、砂をごっそり持っていくのだ。
ゴロウは戦争中、坊の津に行く前に吹き上げ浜の基地をてんてんとした。それでこの海の怖さは知っている。
おんみつたの日光社だのとつぶやきながら立ち上がる。
俺もちょっと甘ったれているな。
波打ち際に出てゴロウは靴を脱いだ。靴と弁当を振り分けにして肩にかけ、ズボンをまくり上げる。
サイダー瓶を下げたまま海の中に歩み入る。
すねまで浸してガバガバと歩き回り、また波打ち際に取って返す。
波打ち際で海に向かって立っていると、波が静かに押し寄せてきて、足裏やかかとの下の砂を少しずつさらっていく。
このくすぐったい感じは何年ぶりのものだろう。
ゴロウは北に向かって歩き出した。
歩くにつれて、右手の風景、防風林や砂丘の形は次々に変化するが、左手の海はほとんど変わらない。
砂は白く、粒が細やかで、所々に貝殻が散らばっている。
貝殻や巻貝、砂や波に磨き上げられ、真っ白に輝いている。
ゴロウは時々立ち止まり、珍しい形や美しいのを拾い上げてポケットに入れる。
約二キロ歩いた。
砂丘に上って腰を下す。
振り返ると彼の足跡が浜に一筋繋がっている。
それを眺めていると目が眩しく、少し眠くなってくる。
疲れてきたのだ。
少し飲むか。
逃避と孤独
まだ弁当を開くほど腹は減っていない。
彼は上衣を脱いだ。
背中が少し汗ばんでいる。
瓶が少々に厄介になってきている。
せっかくの贈り物だから捨てるわけにはいかない。
ゴロウは線を抜き、一口吹くんだ。
甘ったるく強烈なものが食堂を伝って胃に降りてくるのがわかる。
ゴロウはポケットから貝殻をザクザク掴み出してそこに並べる。
ついでにもう一口飲んだ。
風景が急に生き生きと立体感を持ち始めてきた。
ぼんやりと明るい風光が、むしろ壮然と輪郭をはっきりしてくる。
背中が微風でヒヤリとする。
なんだかだと言いながら、考えがつぶやきになって出てくる。
酔いが少し回ってきたのだ。
やっとその頃、手や足の先がジンとしてくる。
みんなどうにかやってるじゃないか。
トランク男の匂いや昨夜の女のことを思い出しながら、そう言ってみる。
次にヒマラヤスギに囲まれた精神科病室のことが胸によみがえってくる。
ゴロウは貝殻を手のひらにのせてしげしげと眺める。
どうせ俺もあの病室に戻らねばならないだろう。
瞬間、ゴロウはめまいを感じた。
ゴロウは追われていた。
いつの時か、どこの場所かもさらかでない。
青年の時だったような気がする。
なぜ追われていたのか、それもはっきりしない。
そんな夢をある時見たのか、あるいは何かのきっかけで生じた偽の記憶なのか。
追われてゴロウは砂浜を歩いていた。
追うものの正体はわからず、姿も見えなかった。
しかし追われていることだけは確かであった。
その実感がゴロウの全身にみなぎり、彼を足早にさせていた。
漁村があった。
浜には網が干してあり、屋根の低い粗末な漁夫の家が並んでいる。
磯には海藻が打ち上げられている。
岩陰などに特に溜まっている。
大潮の時に打ち上げられ、そのまま波に持っていかれなくなったのだろう。
その物体積は腐敗し、絶望的な匂いを放っていた。
まことにそれはめまいのするような嫌な臭気であった。
嫌だな、ああ嫌だ。
ゴロウはそう思いながら漁家の方に近づいて行った。
水汲み場があり、中年の女がせっせと洗濯をしている。
ゴロウはふと奉仕にして、その傍らに立ち止まり、洗濯の様子を眺めていた。
たらいの中にあるのは厚ぼったい差し粉である。
女はゴロウを無視してしきりに手を動かしていた。
女の顔や手や足は日焼けして黒かった。
ぶつぶつ呟いている。
ダメだ、どうしてもダメだ。このままじゃダメになってしまう。
そんな風に聞こえた。
同じことを繰り返し繰り返しして呟いている。
砂浜には誰の姿も見えなかった。
白い犬が一匹、網の傍に寝そべっているだけだ。
変だな、ゴロウは思った。
何が変なのか自分でもよくわからなかった。
人気のないのは変なのか、自分がここに立っているのは変なのか、そこがぼんやりしている。
やがてゴロウは気がついた。
彼が眺めているのは腕や洗濯物でなく女の足であった。
膝までしかない着物を着ているので、つやつやした浅黒い足の全貌が見えた。
5分ほど経ってゴロウは絶えがたくなり話しかけた。
おばさん、女はびっくりしたようにつぶやきをやめゴロウを見上げた。
それまでゴロウが傍に立っていることに、女は明らかに気がついていなかった。
なんだね、女は棘のある声で答えた。
あたしはムシムシしてんだよ。あんまり気やすく話しかけないでおくれ。
僕、追っかけられているんです。
誰に?警察2回?悪いことをすれば追っかけられるのは当たり前だよ。
いいえ、違います。ゴロウは懸命に弁解した。悪者に追っかけられているんです。
悪いものなんかこの世にいるもんかね。
女は苛立たしげに言いながら、力んで足を広げるようにした。
ゴロウは眩しくて思わず視線を海の方にそらした。
水平線には黒い雲がおどろおどろと動いていた。
そのために船が出ないのだとゴロウは思った。
いや、女は言い損ないに気がついた。
悪くないやつなんてこの世にいてたまるもんかね。
だから、かくまってください。
だから?だからだって?
女はびっくりしたように立ち上がって、目をゴロウに据えたままサシコを絞り始めた。
サシコはまだ汚れはとれていなかった。
厚ぼったいサシコは絞りにくそうなのでゴロウが手伝おうとすると、女は邪剣にその手を払いのけた。
余計なことしないでくれ。
僕は隠れたいんです。
ゴロウは必死になって言った。
その瞬間の気持ちに嘘偽りはなかった。
吹きさなしのどこからでも見えるこの場所にいるのが怖くて怖くてたまらなかった。
女はじろりとゴロウを見た。
そんなに隠れたいのかい?
ゴロウがうなずいた。
途端に涙がポロポロとこぼれてきた。
女の声は少し優しくなった。
じゃあそこらに隠れな。
ああむしむしする。
ゴロウは手で涙をおさえながらその片わらの小屋にヨロヨロと歩んだ。
小屋の入り口には縄むしろがぶら下がっている。
それを這いして家に入ると六畳ぐらいの板の間があり、あとは土間になっていた。
土間というより砂地に近く小石や貝殻などが散らばっている。
ゴロウは板の間にずり上がった。
涙はもう乾いていた。
まだまだとゴロウはつぶやいてあたりを見回した。
油断できないぞ。
ゴロウはゴソゴソと這い回り小屋の構造を調べ始めた。
柱はわりに太かった。
しかし砂地なので土台がしっかりしてないらしく。
押すとグラグラ入れる。
柱は何の木かは知らないが、長年の潮風にさらされ、材質の柔らかい部分は風化し、木目だけがくっきりと浮き上がっている。
板の間の一番奥にすのこが敷いてあり、そこに橋台があった。
橋台の木質部にも木目は際立っていた。
潮風は家の中身まで吹き入るのか。
鏡には布がかけてあった。
布からはみ出た鏡、鏡面も塩分で黒く腐食していた。
何が映るかわからない。
その恐怖でゴロウにはとてもその布をめくる勇気が出ない。
ゴロウの孤独と恐怖
橋台には引き出しがついている。
ゴロウはそれを引き出した。
毛髪がへばりついたビン付け、貝殻が数個、それにコッペパン一つ。
彼はそのコッペパンを食べるつもりで手に取ったが、古くて皮がコチコチになっている。
口に持っていったが歯が立たない。
余儀なく元に戻す。
貝殻はマキガイやコヤスガイの類。
それを一つ一つ調べていると裏口から突然足音が入ってきた。
何してんだい?びっくりとして振り返ると先ほどの洗濯女がドマに突っ立っていた。
もう半分ほど目がつり上がっている。
ゴロウは返事に急して黙っていた。
すると女は裸足のままスノコの上に上がってきた。
子探ししているな。言わないでもわかっているぞ。
女は立ったまま両手でゴロウを引きずり倒した。
女の腕は太かった。筋肉がもりもりして男の腕のようだ。
ゴロウが押さえつけられながら謝った。
許してください。許してください。もう絶対に子探しはしませんから。
許してやらない。許してやらない。絶対に許してやらない。
女は手を緩めなかった。子荷物を扱うようにゴロウを乱暴に取り扱った。
それはまるで機械体操のようなものであった。
観念して全身の力を抜いたとき裏山の方から大勢の歌声がかすかに聞こえてきた。
意味も何もわからない。
一節歌い終わるたびに囃しい言葉のようなものが聞こえる。
はんはんはん、はんはんはん。そんな具合にゴロウの耳には聞き取れた。
その歌声がだんだん近づいてくる。
ダメだ。どうしてもダメだ。
ゴロウを強引に処理し終わって女は立ち上がり苛立たしげに言った。
このままじゃダメになってしまう。
そしてゴロウを振り返りもせずせかせかと裏口から出て行った。
一人になると別の恐怖が彼にこみ上げてきた。
ここにいたら大変だ。
ゴロウは立ち上がり大急ぎで水黒いをして土間に降りた。
表の入口の縄むしろから覗くとやはり人影は一つも見えなかった。
思い出の回想
沖から風が吹き黒い雲が次第に近づいてくる。
今だ。ゴロウは砂浜に飛び出した。
浜にあげられた魚船のロベソの上に飛び乗りガタガタ歩いて船板をめくった。
中は小さな船底になっている。
そこに体を滑り込ませた。
あ、そこに体を滑り込ませ船板を元に戻した。
そして体を胎児のように縮める。
濡れた足がくっつき合う。
低くつぶやいた。
これで当分安心だ。
船底は暗かった。
かすかな光が島になって差し入ってくる。
差し入ってくる。
やがて目が慣れてくる。
船虫が何匹も這い回っている。
長い触角をピクピク動かしながらしきりに走る。
その中の何匹かがゴロウの体に取り付いて這い上ったり下りたりする。
別に不快な感じではない。
ただ顔を這われるとくすぐったい。
額や頬は手で払い落とし、
唇近くに来たのはふっと呼吸で吹き飛ばす。
次第にゴロウは眠くなってきた。
縮こまった姿勢のまま意識以前の状態に戻りかけていた。
記憶はそこで途切れる。
ゴロウはふっとめまいから覚めた。
秋の強い日に照らされて貧血を起こしたらしい。
ゴロウは靴を履き弁当と瓶を持って立ち上がり
防風林の中にふらふらと入っていった。
辺りに誰もいないということが安心でもありまた不気味である。
松の木の露出した根の適当なのを選び上位を畳んで乗せた。
それを枕にして長々と横たわった。
目をつむる。
うとうとと眠りに入った。
どのくらい眠っていたかわからないが
なんだか首筋や手の骨の痛さで目が覚めた。
誰かが俺に理不尽なことをしている。
不気味な感じがあってしぶしぶ目を見開いた。
しばらく木の梢や空を眺めながら
ここはどこだろうと考えていた。
そしてゆっくりと上半身を起こした。
ああ、ここで眠っていたんだな。
それが納得できるまでに三十秒ほどかかった。
誰も理不尽なことをしたわけではない。
木の根の硬さと不自然な体位が
五老の体に痛みをもたらしたのだ。
彼は手を屈伸し肩を叩き体操の真似事をした。
ふと見るとサイザービンは倒れ
栓の隙間からこぼれて砂に染みたらしく
内容は半分ぐらいになっていた。
こぼれたって別に惜しいとは思わない。
五老はそれを拾い上げまた一口飲んで
もうこぼれないようにしっかり栓をした。
そして立ち上がる。
昨日も今日も昼酒を飲んだな。
五老は歩き出しながら
大正エビのことを思い出した。
大正エビはアル中患者だ。
まだ若くてすっきりした顔で
月祖父や看護婦にもよくモテた。
アル中患者なんてものは
アルコールをたたれると禁断症状を起こして
バタバタ暴れるのかと思っていたが
そうではない。けろりとしている。
酒、欲しくないか?
五老は聞いたことがある。
入院して二、三日目のことだ。
別にそれほど。
大正エビは彼の目を伺いながら答えた。
あれば飲みますがね。
朝から飲むとのことであった。
つまり一日中酒の気の切れるときがない。
しかし大正エビの言葉が嘘であることは
洞室になってやっとわかった。
彼は月祖父を買収して
薬瓶かっこうがい用の大瓶に
酒を買って運ばせていた。
飲んでも顔には出ない。
態度も変わらない。
ただ酒が切れると不安になり
怖くなってくる。
今の俺とよく似ている。
五老は思う。
歩きながら左手の海の広がりが
なんとなく気になる。
一旦波打ち際に行くが
歩いている中に
次第に足が防風林の方に寄っていく。
振り返ると足跡がそうなっている。
やがて川にぶつかった。
川口は南側
南方は湾曲し
石で護岸工事が施してある。
岸はかなり高い。
五老は腰を下ろした。
また瓶の栓を抜いた。
熱いものが喉を貫いた。
さて五老は岸壁が怖かった。
生まれて最初に水死人を見たところが
これによく似た岸であった。
材木を三本三脚式に立て
結合部から網が数本水に立てている。
その網で水死体を絡めようとするのだが
なかなか引っかからない。
波は荒れていた。
流れ込む淡水と海水が混じり合って
三角波を立てている。
五老は小学生で
お下がりの河童を着ていた。
早く投降しなければならないが
誰が水死したのか知りたくて
人だかりの中をうろうろしていた。
引き上げ作業の男たちは
裸のもいたし黒葉っぱのもいた。
雨かしぶきかわからないが
水滴が絶えもなく飛んできて顔を濡らす。
子供たちは邪魔だからあっち行け。
ゴソゴソしていると蹴飛ばすぞ。
みな気が立っているので
言葉も動作も荒い。
そう怒られてもほっとけない気がして
五老はあっちこっちに
頭や肩をぶつけながらうろうろしていた。
水死人が女であることは
作業の男たちの会話で分かっていた。
お母さんじゃなかろうか。
五老は至近にそんなことを考えていた。
しかし五老の母は
彼が家を出るとき
逃避と現実
台所で後片付けをしていた。
五老は家を出てまっすぐここへ来たのだから
母であるはずがない。
やがて死体が引っかかったと見え
作業員の動作が急に慎重になる。
網が引かれる。
網の先にぶら下がった死体が見える。
浴衣を着ているのだが
岩壁や岩や波にぶつかって
ギレギレになり
海藻がまつわりついたように見える。
網は脇の下にかかっている。
まだ若い女らしい。
もうすぐ死にあげられようとした途端
死体は網から離れて
元の水に落ちていった。
胆性が人ごみの中から起こった。
なぜお母さんじゃないかと思ったんだろうな。
五老はゆっくりと立ち上がった。
川口を徒歩で渡る気持ちはなかった。
防風林の方にも登り
小さな木橋を渡り
また砂丘に戻ってきた。
眠っている中に日が陰り
沖の島陰も濃くなっている。
風が立ち始めた。
波はうねりながら波に
浜に打ち寄せ
静かにしかし大幅に引いていく。
五老はかすかなおかんを感じた。
眠っている中に風をひいたのだろう。
だんだん元に戻っていくようだ。
五老はつぶやいた。
睡眠療法でどうにかなおりかけていたのに
脱走して思うままのことをした。
やはりあのコーヒーを飲んで思ったことは
衝動的なものか
あるいは正常人に思いたくない気持ちからだったのか。
しかし予定していたことと
実際の行動はずいぶん食い違った。
一体俺は福の死を確かめることで
何を得ようとしたのだろう。
俺の青春をか。
結局俺は福の死をだしにして
女をくどいた。
そしてわいざつな中年男の旅人であることを
確認しただけにすぎない。
しかし症状としては
昨日はまだよかった。
不安や憂鬱はほとんどなかった。
今日はどうも具合が悪い。
ぼんやりと死が彼の心に影をさしている。
この長い砂浜に一人でいるのがいけないのか。
橋を渡ってまた2キロほど歩いた。
疲労がやってきた。
砂浜は足がバクバク生えるので
普通の平地を歩くよりずっと疲れるのである。
大きな流木が打ち上げられていた。
そこまでたどり着くと
五郎がほっとして腰を下ろし
しばらく海を眺めていた。
眺めているというより睨んでいた。
流木はずいぶん波に揉まれたらしく
皮はハゲ、枝もササラのようになり
地肌は白く乾いていた。
このままで
ごと五郎は口に出していった。
振り出しまで戻るか
それとも全皮を食いて病院に戻り
五郎は線を歯でこじ開け
残りのすべてを喉の中に流し込んだ。
飲んだらなお気持ちが荒れる。
それはよくわかっていたが
早くケリをつけてしまいたいという気分が先に立つ。
このまま服を脱いで裸になり
沖に泳ぎ出す。
くたびれて手足も動かなくなるまで泳ぐ。
するともう浜には戻れない。
その壮年がさっきから彼を誘惑している。
海がおいでおいでをしている。
まだ大丈夫だ
五郎はお気を睨みながら思う。
まだその手には乗らないぞ。
彼はなおも服のことを考えていた。
俺は服に友情を感じていたのか
いや感じていなかった。
あるとすれば奴隷としての連帯感だけだ。
それ以外には何もない。
それはあの精神科病室の四人
五郎も含めての繋がり方に似ている。
神経が病んでいるという点だけが共通で
後の繋がりは何もない。
たまたま同室にいられ会話したり遊んだりするが
それだけのことだ。
あの陳丼じいさんは面白いな。
内山という六十くらいの太ったじいさんで
町に陳丼屋に会うと気分が変になり
入院してくるのだ。
陳丼屋を見るとなぜ変になるのか
一歩踏み込むとわかりそうな気がするのだが
その一歩が踏み込めない。
じいさんにもわかっていないらしい。
一度尋ねたことがある。
じいさんは答えた。
わしにもわからんがね
なんか気分がおかしくなるんだ。
おかしなもんだね。
うん、おかしなもんだ。
ある日ごろうは大正エビと伝心柱と凶暴して
三人で陳丼屋の真似をしたことがある。
じいさんがどんな反応を示すか知りたかったのだ。
思えば危険で残酷な試みであった。
鐘の代わりに茶碗を
太鼓の代わりに足踏みをして
夕食が済んだ後
三人がいきなり立ち上がり
茶碗を叩きながら
ちんちんどんどんちんどんどん
口ではやして床を踏みならして歩いた。
大正エビは頭に派手な手ぬぐいをかぶり
エモンを抜いている。
お山のつもりなのだ。
じいさんはキョトンとした表情で
しばらくごろうたちの動作を眺めていた。
それからニヤニヤ笑うと
自分も茶碗を持ってベッドから飛び降り
ちんどん行列に参加した。
病室は壁が厚いし
床も頑丈にできているので
音は外部に漏れない。
月ソイフが入ってくるまで
その騒ぎは続けられた。
叱られてベッドに這い上っても
這い上っても
じいさんは愉快そうであった。
死亡者の伝心柱は悔しがって
じいさん気分がおかしくならないのかい?
おかしくならないね。
なぜ?
お前さんたちが本物のちんどん屋でないからさ。
砂浜での出会い
とじいさんは答えた。
はじめわしは
お前さんたちが気が狂ったのか。
かわいそうに。
と思ったよ。
もちろんこの病室の四人は
自分が気が狂っているとは
夢にも思っていないのである。
伝心柱が下打ちをしてベッドに戻ると
じいさんは追い打ちをかけるように言った。
しかし面白かったよ。またやろうや。
五郎はその会話を聞いていた。
最後のその言葉には同感であった。
自分が他の人間になることは
なんと素晴らしいことだろう。
じいさんの言うように
格好は本物でないが
気持ちの上では五郎は完全に
ちんどん屋になりきっていた。
たとえばこんな風に
五郎は今流木の傍らに投げ捨てた
サイダー瓶を拾い
ついでに流木の枝を取り
折り取ろうとしたが
樹液を失った枝はしなうばかりで
幹から離れようとしない。
そこらを探して細長い石を拾う。
弁当は腰にくくりつける。
それ。
足を斜めに踏み出しながら
瓶を石で叩く。
ひょいひょいと飛び交いながら
ちんちんどんどん
ちんどんどん
誰も見ていないのでもいいのだ。
ただ一人五郎は踊りながら砂浜を行く。
しかし三十メートルほど行くと
さすがにくたびれて足がもつれる。
彼は踊りやめた。
そのまま腰を下ろそうとして
砂丘に目をやると
そこに見物人が一人いるのを見つけた。
子供である。
そちらに歩みを踏み出すと
その子供は慌てたように水の中に入った。
そこはイリスみたいになっていて
細い水路で
渚から海につながっている。
それを網でせきとめてあるので
イリスは百坪ばかりの池になっている。
その中にいる魚を
子供はすくい網で取ろうとしているのだ。
これは何という魚かね。
車上のバケツを覗こうとすると
子供は慌ててジャブジャブと駆け寄り
バケツの位置を移そうとした。
十二三の男の子で
白いふんどしをつけている。
おじさんはきちがいじゃないんだ。
安心しなさい。
少年の目の軽快の色を見ながら
五郎は優しい声を出した。
芋じょうちゅうを飲んだら
踊りたくなったんだ。
少年は思い直したように
バケツから手を離した。
五郎と並んで腰を下ろした。
これボラだろう。
ボラか。ボラだろう。
五郎は言った。
少年は首を振った。
しかし五郎にはボラとしか思えなかった。
ボラだよ。
子供はまた首を振った。
濡れた砂の上に指で
ズクラと書いた。
口が利けないのかなと五郎は思った。
ズクラというのか。美味しいかね。
また少年は砂に
うまいと書いた。
五郎は突然空腹を感じた。
彼は腰に酔われた弁当のほろしきを解いた。
大きな握り飯が二つ。
豚の煮付け。
それに縄のようなたくあん。
切らずにそのまま入っている。
君もおにぎりを食わないか。
食う。
初めて口を切った。
立ち上がると
自分の服を脱いだ場所にかけていき
小さな平たい板と
小刀と
ビニールに包んだ
味噌らしいものを持って戻ってきた。
何をするのかと五郎は
少年の動作を見守っている。
少年はバケツからつかみ出し
頭をはね
鱗を落とし
内臓を抜いた。
鮮やかな手つきで
三枚におろす。
骨は捨てる。
四匹を調理し
ビニールの結び目を解く。
五郎は驚きの目で
それを眺めていた。
それでもう食えるのかい。
握り飯を一つ少年に渡しながら
五郎は言った。
少年はおなずいて
肉片に味噌をなすって
五郎に差し出す。
酢味噌がよく効いて
案外うまかった。
うまいな。
五郎もおかずを差し出し
生たくわんを板の上に乗せた。
ついでにこれも切ってくれ。
づくらの刺身と
豚煮漬けとたくあんで
五郎と少年は並んで食事をした。
どれもうまい。
夜店の豪華な
真昼の宴だ。
生たくわんの味は
二十年前の記憶にある。
これは壺漬けというのだ。
薩摩半島で作られ
軍艦や潜水艦に搭載して
赤道を越えても腐らないので
海軍ではこれを
全部買い占めてしまった。
そんな話を当時五郎が聞いた。
微妙な匂いと味を持つたくあんで
食事の共有
鹿児島の基地にいるときは
三度三度の食事にこれが出た。
この味は
敗戦の喜びに通じるところがある。
食べ終わると
彼はほっと息を吐き
煙草に火をつけた。
おにぎりはもちろん
おかずも全部姿を消していた。
君の家はここらかね?
うん。
少年はうなずいた。
少年は日焼けして
肌も朝黒かった。
目が大きく
羊毛はキリッと引き締まっていた。
お父さんは何してる?
町で自動車の運転手をしておる。
町ってどこ?
遺作。
お母さんは
家におる。
ふん。
彼はこの少年の一家のことを考えていた。
もう少しお酒が飲みたいな。
君ん家で飲ませてくれないか?
少年は黙っていた。
立って服のところに行き
服を着た。
もう
づくら鳥はやめる気になったらしい。
バケツの中に板と小刀を放り込んだ。
五郎は性欲を感じた。
少年に対してではない。
海や雲や風の中で
自然発生的に浮かんできたのだ。
酔いのせいもあった。
過去の回想
流木のところで煽った焼酎の酔いが
そのまま動かなきゃ暗く沈むところを
沈殿屋の真似をしたり
少年と話を交わしたばかりに
外に発散した。
海からの誘惑はもう消失していた。
少年がポツンと答えた。
うちは困る。
なぜ。
うちは酒屋じゃなか。
それは知っているが、と言いかけて
五郎は口をつぐんだ。
少年の家に押しかけて行くべき理由は
何もないのだ。
彼はサイダー瓶を防風林へ投げ
弁当の殻や筒にがみをまとめて火をつけた。
透き通った炎をあげ、すぐに焼けこえた。
物多くて立ち上がる気がしない。
遺作って遠いのかい。
ちっと遠い。
案内してくれるかね。
少年はうなずいた。
立ち上がらざるを得ない。
掛け声をかけて立ち上がる。
イリスに手をつけて
飯粒などをザブザブと洗い落とす。
少年の後について歩き出した。
松林に入る。
しばらく歩くと
林の中に大きな縄が置いてある。
長さ二十メートルばかり。
立ち止まって調べると
松根を芯にして
周りを藁で巻いたもので
何のために作られ
何のためにここに置かれているかわからない。
少年を読み止めて聞いた。
これで何をするんだね。
綱引き。
綱引き?
両方から引っ張り合うのか?
少年をうなずく。
なるほどね。
ゴロウが答えたが
納得したわけではない。
納得したいとも思わない。
納得したいという気持ちは
ずいぶん前から
彼の心の中で死んでいる。
ゴロウは言った。
ちょっとここで休憩しよう。
少年は負傷部署を
ゴロウに並んで
綱に腰を下ろした。
ゴロウは内ポケットから金を取り出した。
百円玉を少年に渡した。
あそこに査点があるだろう。
ジュースを二本買ってきてくれ。
のどが渇いた。
少年はちょっとためらったが
ゴロウは無理に手に押し付けた。
少年が立ち去ると
ゴロウは自分の有金を
全部つかみ出して勘定した。
もし遺作に泊まるとすると
その分をポケットに入れた。
残りの金では
とても東京まで戻れない。
しばらく手に乗せたまま考えていた。
熊本まで行って
三田村に電報を打って
送金してもらうか。
三田村というのは
病院を紹介してくれた
友人のことだ。
今ガロウを経営している。
ゴロウは熊本で
学生生活を四年送ったことがある。
三田村はその時からの
友人であった。
熊本から電報を打つという
思いつきはそこから出た。
三田村ならためらわず
送金してくれるだろう。
学生時代にそば屋だった店があり
二人ともそこによく通い
酒を飲みそばを食べた。
それが戦後旅館に転校して
繁盛していると聞いた。
女主人とは顔なじみだし
そこから電報を打てばいい。
そうだ、ニオも
阿蘇に登ると言っていたな。
ゴロウは枕崎までの
同行者を思い出した。
別にニオに再会したいとは思わないが
金が送られてくるまでに
時間がかかるだろう。
阿蘇に登ってもいいなと
ゴロウは考えた。
彼は学生時代、二度
阿蘇に登ったことがある。
しかし二度とも
重磅には失敗した。
一度は雨で
ほとんど視界ゼロで
何も見えなかった。
もう一度は晴天だったが
もうすぐ河口に達するときに
小爆発が起きて
河口にいた何百という登山客が
山を見出して急坂を駆け下りた。
まるで映画のロケーションみたいだと
ゴロウは一瞬見とれたが
その間にも小さな火山弾が
彼の周りに落ちてきて
じじっと煙を上げた。
しかしほとんど危険は感じなかった
とゴロウは思う。
まだ若くて生命力に
溢れていたのだろう。
生命に対して自信があったのだ。
今とは違う。
三田村はゴロウの良友であると同時に
悪友でもあった。
主食を本格的に教えたのは
三田村である。
いつだったか酒りわで酒を飲み
月宿に戻る途中
赤冗賃を軒にぶら下げた
売春宿があった。
それを指して三田村は言った。
この店にだけは泊まるなよ。
後できっと後悔するから。
なぜ?
理由はどうでもいい。
泊まるなというだけだ。
三田村は同年配のくせに
変に老成し
先輩ぶりたがるところがあった。
ゴロウはそれが嫌だったし
その時も心の中で反発を感じた。
そこは思想だから
病気を恐れろという意味なのか?
それならそうとはっきり言えばいい
とゴロウは思った。
しかしもう一度聞き直すのは
彼の自尊心が許さなかった。
それから一週間後
一人で酒を飲み
夜更けして戻る時
赤冗賃の前を通りかかった。
ふと千夜の三田村の
もったいぶった言い方を思い出した。
一度は通り過ぎたが
ためらいながら元に戻り
油上紙を貼った引き戸をそっと引き開ける。
寒い夜で年老いたのと若いのと
二人の女が火鉢に当たっていた。
二人とも会話をやめ
不思議そうな顔つきで
制服姿のゴロウを見た。
ゴロウは若い方を指していった。
その人空いてる?
はい。
女はしょうふらしくなく
小学生のような素直な声を出した。
ゴロウは靴を脱いで二階に上がった。
ここに勤め始めて二ヶ月だそうで
女の体はまだ未熟なように思えた。
なんでここに泊まってはいけないのだろう?
その訳は翌朝になってわかった。
七時過ぎに目が覚め
服を着て窓を開けた。
窓の下を人が通っている。
ゴロウはハッとした。
通行人のほとんどが学生であり
彼の同窓生であった。
なるほど、これは困ったな。
ゴロウは窓を閉めまた細めに開けた。
今朝の某の宿と同じ姿勢で
女の持ってきた茶をすすりながら
道を見下ろしていた。
道を通る人は前方ばかり注意して
案外上を見ないことに彼は気がついた。
背徳と疎外の感じはあったが
別に妙な優越感がやがて
彼に沸き上がってきた。
お前たちはせっせと
ありのように同行していくが
俺はこんなところで
一夜を明かしたんだぞ。
そんな言われのない優越感で
彼は茶をすすり
煙草を吹かしていた。
と言っても今すぐ堂々と
外に出ていく勇気はなかった。
優越感と言っても
それは若さが持つ虚勢に過ぎなかった。
その時通行人の中の一人が
どんな弾みからか
五郎と松井教授の対立
ふっと顔を上にねじ向けた。
五郎と視線がピタリと合ってしまった。
それは五郎が教わっている
松井というドイツ語の教授であった。
中年にして頭の剥げた
小太りの教授で
足を止めて
いぶかしげに五郎を見ている。
今さら五郎も
顔を引っ込めるわけにはいかない。
目を据えて松井教授を睨みつけた。
時間にすると
二、三秒だったかもしれない。
感じからすると
十秒から十五秒くらいに思われた。
教授は顔を元に戻すと
スタスタと歩き出した。
五郎は荒々しく窓を閉めた。
睨み合いに勝ったという感じは全然なかった。
打ちのめされたような敗北感だけがあった。
彼は震えながら女に酒を頼んだ。
熱いコップ酒に口をつけながらつぶやいた。
不潔なやつだなあいつは。
不潔なのは自分であることは
理屈ではわかっていた。
しかし実感としては
教授の方が不潔でいやらしいと思う。
教授が窓を見上げねば
不潔感は生じなかった。
見上げたばかりに
けがらわしい感じになってしまった。
しかも教授が表情を少しも動かさず
動物園の檻の中の
獣でも見る目つきだったことが
五郎を一層傷つけた。
やはり俺の負けだったんだ。
太縄の藁の毛歯をむしりながら
今五郎は思う。
少年がジュースを二本ぶら下げて戻ってきた。
五郎は受け取りながら言った。
千抜きはないのか。
忘れた。
ダメじゃないか。借りておいで。
そして五郎は言い直した。
借りてこなくてもいい。
向こうで開けてもらってこいよ。
千抜きがなくても歯で開ける。
あれは寒い夜で
確か三学期の始めであった。
九時過ぎに赤城地震の裏口から忍び出て
下宿に戻った。
松井教授に対する不潔感は
まだ長く残っていた。
どうしても教授の講義を聞く気がしない。
で、その学期中、五郎は
松井の講義に出席しなかった。
学期末、五郎はとうとう落題した。
教授の講義の欠席
実際に点数が足りなかったのか
松井教授が彼を憎んだのか
今もってわからない。
もう教授も死んだはずだし
問いたらす術はないのだ。
赤城地震の一件は
三田村にも話さなかった。
少年が歯で抜いたジュースは
生ぬるかった。
陽光にさらしていたのか
甘さにひむく
これは甘さにひむく
草さ
ひむかうかな
甘さにひむかう草さがある。
半分ほど飲み
五郎は少年に話しかけた。
遺作に床屋があるかい?
ある。
瓶から口を離して少年は声を力ませた。
床屋ぐらいはある。
ああ、そうだ。
トラックの荷台の若者との会話を思い出した。
遺作の生まれだと聞いた。
近くに温泉があるそうだね。
うん。
飲み干した瓶を
少年は丁寧に松の根に持たせかけた。
湯の裏温泉。
近いのか?
ちっと遠い。
少年は初めて笑いを見せた。
自転車で行くとすぐじゃ。
父親の職業を思い出したのだろう。
日を受けて額に汗の玉が出ている。
今夜そこに泊まろうかな。
五郎は海を見ながら考えた。
立ち上がってジュースの残りを砂にぶちまける。
床屋に行ってさっぱりして。
五郎は流木の方を眺めていた。
流木からの足跡がまだ残っている。
きちんと並んでいるのではなく、
ジグザグに乱れている。
沈殿屋の真似をしたためだ。
流木の彼方の足跡はもう定かではない。
武蔵野の逃げ水のようにチラチラと水が漂い動いているようだ。
一帯を鈍い光が射している。
太陽は薄い雲の中でことのほか巨大に見える。
光が散乱するのだ。
行こう。
五郎は瓶を捨て少年を促した。
巨大な海と日に背を向け、
二人はゆっくりと歩き出す。
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