今朝、彼は密行者であった。
十時に朝食をとったが、目が覚めたのはずっと以前である。
やかましい音がする。五郎は掛け布団を頭までかぶる。
うるさいじゃないか。病院だというのに。
布団の重さや感触の違うことにすぐ気がつく。
五郎は布団をはねて飛び起きた。
窓を開けると、数え切れぬほどのカラスが、
高く低く飛びかえ、わめきかわし、その声が空をひっかき回すようだ。
彼はいささか動転して、カラスたちの動作をしばらく見上げていた。
これはまるでカラスのマッチじゃないか。
乾いた下着を取り入れ、五郎は窓を閉め、寝床に取って返した。
しかしもう眠る気がしない。また窓を細めに開け、外の様子をうかがう。
こんなにかしましい鳴き声は記憶にない。
二千倍いるとのことだが、戦後急に増えたわけではあるまい。
戦争中にも鳴いていたはずだ。どうして記憶から脱落したのか。
戦争生活の荒々しさに紛れてしまったのか。
五郎は低い中二階の突き上げ窓から顔を覗かせ、しばらく外の様子をうかがっていた。
この宿は某のメインストリートから少し山手になっているので、家の屋根屋根が見える。
瓦は関東などと違って、木目が細かくしっとりした微妙な美しさをたたえている。
道が見えるが人通りはほとんどない。まだ塔を閉めている家さえある。
五郎は目を鷹のように光らせ、人や鳥の動きに注意を払っていた。
俺は密公者だ。だんだんそんな気分になってくる。
この部屋だってそうだ。
開かずの間や隠れ難度や飛び降り上司や不思議な作りになっている。
なぜそんな作り方をしたのか。密公者のためのものだという以外には考えられない。
五郎は目を細くしたり太くしたり、顔を傾けたりして約一時間下界の動きを観察していた。
やがてカラスの数が少しずつ減り、県政も収まり始めた時、五郎はやっと腰を上げ、トントンと階段を降りていった。
風呂場で顔を洗うと、快感に食事の用意が勤っていた。
庭に面した部屋で朝食をとる。庭にはサボテン、系統、ゼラニウム、その他の花が咲いている。
茶を飲みながら五郎は主人に弁当を頼んだ。主人は承諾していった。
「あんたはここで水死した兵隊さんの友達じゃそうですな。」
「ええ、あの女が喋ったな。」と思いながら五郎がうなずいた。主人はそれだけで後は追及しなかった。
やがてトラックがやってきた。彼は弁当を受け取り、主人の贈り物のサイダー瓶に入った芋焼酎を抱え、トラックの荷台に飛び乗る。
ヤチンは、ヤドチンは意外に安かった。手を振ってトラックは動き出した。
荷台の上のカンバスを畳んで、腰掛け代わりにする。
しかし道が悪いので車は揺れ、時々頭身と腰を突き上げてくる。
昨夜は熟睡したはずだが、まだまぶたのあたりに疲労が残っている。
荷台の若者と運転手は意味のわからない早口の会話を交わし、笑い合う。五郎は尋ねてみる。
この車、トマリを通るのかね?
はい、通ります。
ちゃんとした標準語で答える。
こちらの言葉を理解し、きちんと返事ができるのだ。
再び若者同士の会話になると、激絶の類に戻る。五郎は疎外観を感じながら思う。
俺はあまり喋らない方がいいらしいな。
トマリの町に入った時、五郎は背を丸め、何かを狙う目つきになって、町並や通行人の動きに注意を集中した。
しかし、町並は短くあっという間に通り過ぎた。五郎は緊張を解き、背を伸ばした。
それからしばらく、五郎は膝を立てて手を組み、車の揺れに体を任していた。
火がうらうらと照り、左手の方向に海が見えたり隠れたりする。
右手はずっと知らす大地で、所々に部落があり、時には煙突が見え、合同焼酎製造工場という文字なども読めた。
やがてトラックは橋を渡った。これが間の瀬川です。聞きもしないのに若者が教えてくれた。
ここらから吹き上げ浜になるんです。
君はどこの生まれかね。私の生訓は遺作です。若者は白い歯を見せて笑った。
アメリカ軍が吹き上げ浜に上陸してくるというので、あの頃はみんなびくびくしていましたよ。
20年前ね。君はいくつ?28歳です。
じゃあ国民学校の頃だね。はい、8歳の時です。
トラックを乗り捨て、まっすぐ浜の方へ歩く。防風林を抜けると砂丘となり、海浜植物が茂っている。
植物の名は知らないが、浜湯とか浜防風とか呼ぶのだろう。砂丘にしがみつくようにして群生している。
そこらに腰を下ろして彼は海を見渡した。沖に大きな島かげが見えた。
古式島だ。空気が霞んでいるので古式島は、ちょっと身には九州本土につながった半島か岬のように見える。水平線は漠として見えない。あそこらが東シナ海になるのだ。
シンとしている。いや、シンシンと耳鳴りがしている。
カラスの声、トラックの振動音、それから一挙に解放され、耳がバカになったようだ。
砂浜は大きく湾曲してへこんでいる。海が長年かかって浸食したのである。
今眺める海は静かだが石垣島あたりで発生した台風が枕崎や佐戸岬に上陸して荒れ狂い、鹿児島から北上する。
そんなときに吹き上げ浜の波は砂丘まで襲いかかり、砂をごっそり持っていくのだ。
ゴロウは戦争中、坊の津に行く前に吹き上げ浜の基地をてんてんとした。それでこの海の怖さは知っている。
おんみつたの日光社だのとつぶやきながら立ち上がる。
俺もちょっと甘ったれているな。
波打ち際に出てゴロウは靴を脱いだ。靴と弁当を振り分けにして肩にかけ、ズボンをまくり上げる。
サイダー瓶を下げたまま海の中に歩み入る。
すねまで浸してガバガバと歩き回り、また波打ち際に取って返す。
波打ち際で海に向かって立っていると、波が静かに押し寄せてきて、足裏やかかとの下の砂を少しずつさらっていく。
このくすぐったい感じは何年ぶりのものだろう。
ゴロウは北に向かって歩き出した。
歩くにつれて、右手の風景、防風林や砂丘の形は次々に変化するが、左手の海はほとんど変わらない。
砂は白く、粒が細やかで、所々に貝殻が散らばっている。
貝殻や巻貝、砂や波に磨き上げられ、真っ白に輝いている。
ゴロウは時々立ち止まり、珍しい形や美しいのを拾い上げてポケットに入れる。
約二キロ歩いた。
砂丘に上って腰を下す。
振り返ると彼の足跡が浜に一筋繋がっている。
それを眺めていると目が眩しく、少し眠くなってくる。
疲れてきたのだ。
少し飲むか。
まだ弁当を開くほど腹は減っていない。
彼は上衣を脱いだ。
背中が少し汗ばんでいる。
瓶が少々に厄介になってきている。
せっかくの贈り物だから捨てるわけにはいかない。
ゴロウは線を抜き、一口吹くんだ。
甘ったるく強烈なものが食堂を伝って胃に降りてくるのがわかる。
ゴロウはポケットから貝殻をザクザク掴み出してそこに並べる。
ついでにもう一口飲んだ。
風景が急に生き生きと立体感を持ち始めてきた。
ぼんやりと明るい風光が、むしろ壮然と輪郭をはっきりしてくる。
背中が微風でヒヤリとする。
なんだかだと言いながら、考えがつぶやきになって出てくる。
酔いが少し回ってきたのだ。
やっとその頃、手や足の先がジンとしてくる。
みんなどうにかやってるじゃないか。
トランク男の匂いや昨夜の女のことを思い出しながら、そう言ってみる。
次にヒマラヤスギに囲まれた精神科病室のことが胸によみがえってくる。
ゴロウは貝殻を手のひらにのせてしげしげと眺める。
どうせ俺もあの病室に戻らねばならないだろう。
瞬間、ゴロウはめまいを感じた。
ゴロウは追われていた。
いつの時か、どこの場所かもさらかでない。
青年の時だったような気がする。
なぜ追われていたのか、それもはっきりしない。
そんな夢をある時見たのか、あるいは何かのきっかけで生じた偽の記憶なのか。
追われてゴロウは砂浜を歩いていた。
追うものの正体はわからず、姿も見えなかった。
しかし追われていることだけは確かであった。
その実感がゴロウの全身にみなぎり、彼を足早にさせていた。
漁村があった。
浜には網が干してあり、屋根の低い粗末な漁夫の家が並んでいる。
磯には海藻が打ち上げられている。
岩陰などに特に溜まっている。
大潮の時に打ち上げられ、そのまま波に持っていかれなくなったのだろう。
その物体積は腐敗し、絶望的な匂いを放っていた。
まことにそれはめまいのするような嫌な臭気であった。
嫌だな、ああ嫌だ。
ゴロウはそう思いながら漁家の方に近づいて行った。
水汲み場があり、中年の女がせっせと洗濯をしている。
ゴロウはふと奉仕にして、その傍らに立ち止まり、洗濯の様子を眺めていた。
たらいの中にあるのは厚ぼったい差し粉である。
女はゴロウを無視してしきりに手を動かしていた。
女の顔や手や足は日焼けして黒かった。
ぶつぶつ呟いている。
ダメだ、どうしてもダメだ。このままじゃダメになってしまう。
そんな風に聞こえた。
同じことを繰り返し繰り返しして呟いている。
砂浜には誰の姿も見えなかった。
白い犬が一匹、網の傍に寝そべっているだけだ。
変だな、ゴロウは思った。
何が変なのか自分でもよくわからなかった。
人気のないのは変なのか、自分がここに立っているのは変なのか、そこがぼんやりしている。
やがてゴロウは気がついた。
彼が眺めているのは腕や洗濯物でなく女の足であった。
膝までしかない着物を着ているので、つやつやした浅黒い足の全貌が見えた。
5分ほど経ってゴロウは絶えがたくなり話しかけた。
おばさん、女はびっくりしたようにつぶやきをやめゴロウを見上げた。
それまでゴロウが傍に立っていることに、女は明らかに気がついていなかった。
なんだね、女は棘のある声で答えた。
あたしはムシムシしてんだよ。あんまり気やすく話しかけないでおくれ。
僕、追っかけられているんです。
誰に?警察2回?悪いことをすれば追っかけられるのは当たり前だよ。
いいえ、違います。ゴロウは懸命に弁解した。悪者に追っかけられているんです。
悪いものなんかこの世にいるもんかね。
女は苛立たしげに言いながら、力んで足を広げるようにした。
ゴロウは眩しくて思わず視線を海の方にそらした。
水平線には黒い雲がおどろおどろと動いていた。
そのために船が出ないのだとゴロウは思った。
いや、女は言い損ないに気がついた。
悪くないやつなんてこの世にいてたまるもんかね。
だから、かくまってください。
だから?だからだって?
女はびっくりしたように立ち上がって、目をゴロウに据えたままサシコを絞り始めた。
サシコはまだ汚れはとれていなかった。
厚ぼったいサシコは絞りにくそうなのでゴロウが手伝おうとすると、女は邪剣にその手を払いのけた。
余計なことしないでくれ。
僕は隠れたいんです。
ゴロウは必死になって言った。
その瞬間の気持ちに嘘偽りはなかった。
吹きさなしのどこからでも見えるこの場所にいるのが怖くて怖くてたまらなかった。
女はじろりとゴロウを見た。
そんなに隠れたいのかい?
ゴロウがうなずいた。
途端に涙がポロポロとこぼれてきた。
女の声は少し優しくなった。
じゃあそこらに隠れな。
ああむしむしする。
ゴロウは手で涙をおさえながらその片わらの小屋にヨロヨロと歩んだ。
小屋の入り口には縄むしろがぶら下がっている。
それを這いして家に入ると六畳ぐらいの板の間があり、あとは土間になっていた。
土間というより砂地に近く小石や貝殻などが散らばっている。
ゴロウは板の間にずり上がった。
涙はもう乾いていた。
まだまだとゴロウはつぶやいてあたりを見回した。
油断できないぞ。
ゴロウはゴソゴソと這い回り小屋の構造を調べ始めた。
柱はわりに太かった。
しかし砂地なので土台がしっかりしてないらしく。
押すとグラグラ入れる。
柱は何の木かは知らないが、長年の潮風にさらされ、材質の柔らかい部分は風化し、木目だけがくっきりと浮き上がっている。
板の間の一番奥にすのこが敷いてあり、そこに橋台があった。
橋台の木質部にも木目は際立っていた。
潮風は家の中身まで吹き入るのか。
鏡には布がかけてあった。
布からはみ出た鏡、鏡面も塩分で黒く腐食していた。
何が映るかわからない。
その恐怖でゴロウにはとてもその布をめくる勇気が出ない。