科学技術の歴史と言及
朝のコーヒー、夜のビール、ときどき武術。
おはようございます、Takeです。
今日も楽しく話をしていきます。
今日から朝にとるチャレンジです。
最近、コテンラジオで科学技術の歴史というのをやっていますので、
それにちなんで思ったことをアウトプットしてみようと思います。
コテンラジオで今やっている科学技術の歴史というのがあります。
これが壮大なストーリーで、今まで聞いたすべてのコテンラジオのストーリーの中で一番とちらかっているというか、
広い範囲に及んでいます。人類の全史なんじゃないかぐらいのですね。
それぐらい科学技術というところ、技術というのは人間の本質に近い特徴というところでもあるかなと思います。
この話の中でちょっとすごく印象深かったのが、
科学と哲学が未文化だった時代と今の科学の違いというところで、
今の科学というのは要するにデータを大事にするということですね。
データを大事にして自分の肌感をどちらかというと2番手にすると。
2番目そのないがしろにするというか、そういう姿勢を持つこと。
自らの肌感を疑ってかかる。そしてそのためにデータを用いるよということですね。
これがすごい良いというか、私の中ですっきりしましたね。
世の中の科学というのは基本的に機能的、機能って変えるに収める、
数学的機能法の機能ですよね。で行われているんですけれども、
哲学と未文化だった時代には演劇法ですね。
こうであるからこうだろうみたいなそのあるべき論というか、
その論理の展開のみで実施しているわけですね。
で今の私がやっている仕事というのはどちらかというと機能的なプロセスでやってます。
そのデータをもとに推論をしてまたデータを取ってこうだろうみたいな風にやっていくんですけれども、
でそのデータとデータの間を補完するストーリーっていうのはやっぱり肌感というか演劇的な演劇、
データと現場の重要性
まあ論理の積み重ねみたいな頭の中で考えたことでやるわけですよね。
でこれって永久にやるんですけども、僕がね会社で考えている感じているジレンマっていうのがねいくつかあるんですよ。
それは何でかっていうと、いわゆるその哲学的な思想で現場を語るみたいなことがやっぱりね多いんですよね。
不良をゼロにしろ、ゼロにしようと思ったら考えるアプローチが変わるよみたいなことを言うんですけれども、
ゼロという概念を持ち出した瞬間にですね、
僕はちょっとね冷めるところがあって、ゼロって存在しない数字なんですよ。
だってゼロってあり得ないでしょ。
頭の中にしかないんですよ。現実世界にゼロってないんですよ。
デジタルの世界をあえて仮想空間で作ったものにはゼロは存在するんですけれども、
自然の中にゼロって本当にあるのっていうとないんですよね。
要するにイデアの世界で、イデア、ソクラテスかプラトンが言う、
イデアっていうものの中でだけ考えて、実際の現場を見ないで発言をしている人が多いなっていうのがやっぱり違和感がありますね。
現場を見てリアリスティックな落とし所をどうやって作るか。
もちろんね、理想論としてこういうふうにした方がいいよねっていうのはいいんだけど、
現場にいる我々としてはその理想状態ばっかりを語られてもうまくいかないというところがあって、
そこの通訳みたいなことをやっぱり管理職はやらなくちゃいけないんだろうなというふうに最近トミーに思いました。
科学技術っていうものはそのデータに基づいた本来人間が不自然な動きですよね。
人間としては頭で考えてこれでいいだろうってなるのが普通なところをあえて証明とか実験をしようっていう姿勢を持つっていうことなんですよね。
この実験をしようって姿勢を持つっていうことがやっぱり重要なので、
私は自分がやっている現場に足を運んで実際にものを見てデータを取ってっていう活動を一人の科学を信奉するものとしてやっていきたいなと思います。
陰謀論に侵されるのも自分で実験をしない、自分で確認をしないからっていうのが本当にそういう理由でなるんだなっていうのがよく理解できましたね。
とにかく自分の目で見たものを信じましょう。
自分の目で見てない人が言うことをあんまり信じるのもやめましょうというのが改めて感じた姿勢でした。
日曜日の朝にふさわしいちょっともやっとした話になったと思います。
では今日はこれで終わりにしたいと思います。
外で撮ってみました。ピヨピヨと鳥が鳴いております。
さあ今日一日また部屋の片付けをしてリフォームに備えようと思います。
では今日一日頑張りましょう!バイチャ!