沖縄慰霊の日と政府関係者の発言
この時間は、日替わりコメンテーターによる解説で日々のニュースを掘り下げるBrush Up。 月曜日は、法学者の谷口真由美さんです。谷口さん、おはようございます。
おはようございます。
さて、今日はどんなニュースでしょうか。
今日はですね、6月23日に迎えた沖縄の慰霊の日を振り返りながら、 本土に住む私たちが今何を考えるべきなのかということをお話ししたいと思います。
沖縄戦から81年がたちまして、もう本当に戦争体験者の方が少なくなって、 教育現場、平和学習の継続にも苦慮しているというふうに、6月27日付けの琉球新報は伝えています。
そんな中で、今年の慰霊日もいくつもの思い出事と発言があったというので、一つ一つ丁寧に見ていきたいと思います。
まず6月23日の沖縄県伊都満市の平和記念公演で行われた沖縄全戦没者追悼式というものに、高市さなえ総理大臣が挨拶をしているところ、会場から戦争反対、救助を守れ、沖縄差別をやめろといった声が上がって、
式典後高市総理は記者団に、今日本は戦争をやっておりませんというふうに発言し、小泉慎二郎防衛大臣はSNSでこういったことを残念というふうに投稿し、賛否両論を起こっているわけですね。
表現の自由というかですね、一つはやっぱりこの戦没者を静かに祈りたいという方が沖縄にもいらっしゃるというのは一つ事実としてありまして、もう一つは憲法21条が保障する表現の自由、
とりわけ日本における権力者である内閣総理大臣に対する政治的表現というのは、憲法上極めて高い価値があるというふうにされています。
総理大臣が沖縄を訪れる機会というのは、ほぼ年に一度なんですね。この慰霊の日にしかも限られるということで、演説中に八字があったりとかっていうのはありますけれども、そういう機会すらないので、他に声を届ける機会がないからこそ、
この場で声を上げざるを得ないという状況があるということも重く受け止めておかなければならないんですね。他に表現の仕方があって、自分たちの声が届いているなという状況であれば、そこまでする必要ないわけで。
この声を上げた人っていうのは、警察によって排除されていくというのがあって、有形力の排除っていうのが果たして法的に許されるのか。北海道での八字で警察に排除された人の裁判とかもありましたけれども、排除されることまではやっぱりしたらダメだということが判決でも出てるんですね。
なのでやっぱり、声を封じる側の適法性というものが問われなければならないということも忘れてはならないことだと思いますね。
ああいう八字やる人は悪いんだみたいな風なイメージを植え付けることっていうのも良くなくて、そこは表現の自由とか政治的表現というものには最大限配慮が必要だということですね。
平和教育と歴史認識を巡る問題
そんな中、三聖堂代表の神谷さんが追悼式に参列した後に、那覇市内の街頭演説で、日本の平和教育はほぼ意味がないというふうに発言したと。
神谷さんは昨年から沖縄戦の歴史認識をめぐっても、日本軍は沖縄県民を守りに来たといった発言を繰り返して、地元の新聞に事実と異なるというふうな指摘をされています。
本人はその意味を撤回しないと表明していると言われるんですけども、戦争体験者の方々が心と体の傷を抱えながらも、次世代のために立位できた営みについて、それをほぼ意味がないというふうに切り捨ててしまうっていうのは、多くの沖縄の方々を傷つけているということもあります。
こうやって、権力側にいらっしゃる方ですね。憲法99条というのは、天皇、摂政大臣であったりとか、国会議員、国務大臣、裁判官、その他の公務員というのは、憲法を尊重して遵守する義務があるってあって、国民とか私たちじゃないんですね、実は。
そういう憲法を守らなきゃいけない人たちが、こういった発言をするっていうのは、時代を遡ってもあったわけですね。
例えば1998年に、当時の官房長官であった、亡くなられた梶山誠六さんは、普天間飛行場の圏外移設について、必ず本土の反対勢力が組織的に住民投票運動を起こすというのを所感に残してるっていうことが、後年明らかになってるんですね。
なので地理的優位性という公式説明、政府は沖縄に基地が集中しているのは、地理的にそういうものがあるんだということを言ってるんですけども、
本土の反発を避けるために沖縄に基地を集中させたという政府の本音が文書として残ってたっていうことがあるんですね。
例えば2016年にも東村高江のアメリカ軍のヘリパッドの建設現場で、大阪府警から派遣された機動隊員が抗議する市民に対して、土人とか品人というふうに発言して、
当時の沖縄担当大臣の鶴穂さんは国会で、土人ということが差別と断定できないというふうに答弁して、さらに大きな波紋を読んだということもあります。
去年、2025年の5月には自民党参議院議員の西田昌司さんが、「姫百合の塔の展示について歴史の書き換え」というふうに発言して、
姫百合平和記念資料館とか日本法律家協会から強い抗議を受けて、西田氏は当初発言の撤回を拒んだけれども、その後不適切だったというふうに陳謝してるということで、
もっともっと実はあるんですね。だけど、これ沖縄戦の史実ですね、歴史的な事実をどう扱うかということ、それから沖縄の声をどう聞いていくのかということ、
私たちが沖縄に何を押し付けているのかというような3つの軸で、本土側の問題としての繰り返しの差別的な意識ということが露呈されているということなんですね。
なので個別の発言が問題というよりも、繰り返される構造そのものが本土側に問われていることなんだということを認識しないとダメだと思います。
辺野古基地建設と事故、平和教育の継続
やっぱりこの異例の日のもう一つ、今回は辺野高記の事故にもやっぱり触れなきゃいけないと思うんですね。
今年の3月に研修旅行中の同社国際高校の生徒さんたちが乗った抗議船が2隻辺野高記で転覆して亡くなられたという事故がありました。
この事故をめぐっては極めて重い事実というのが次々に明らかになっていて、亡くなった船長については国土交通省で4年間6回の無登録運行があったとして、
刑事告発をする方針が示されていて、文部科学省学校側の安全管理を著しく不適切というふうに指摘しています。
院卒の先生が事故後に生徒の安否確認をしなかった形跡が安否確認してなかったんじゃないかということも報じられたりしています。
また6月17日には、亡くなった船長について過去に性暴力の加害があったとする被害女性の話が出てきて、それを琉球新報が報じていることもあり、
性暴力の加害というのはその人の活動の志とは全く別の問題で、独立に厳しく問われなければならないというので、
いろんな問題がちょっと出てきて、何が今議論しなきゃいけないことなのかということに非常に難しい状況になっています。
その上で申し上げたいのは、これらの責任を厳しく追求することと、それから本当に二度と繰り返さないということと、
沖縄についてとか辺野古について学ぼうとする営みそのものを萎縮させるのは全く別の問題だということなんですよね。
なので、亡くなった生徒さんには本当に辛い、ご家族も含めて胸が締め付けられる思いなんですけれども、
だからこそ運行の安全責任、それから学校の安全管理、それから性加害の問題もそれぞれ厳しく問うことではあります。
その上で、平和教育そのものというのは両立させなきゃいけない問題だというふうに私は考えるんですね。
本土と沖縄の関係性と無関心への警鐘
なので、沖縄の言葉に内茶という呼び方があります。
これは本土から来た人、内地の人という意味で、私は研究者としても人権に関わる者としても沖縄に寄り添ってきたつもりだったんですね、これまでも。
でも、やっぱり寄り添うという言葉そのものが、実は非常に危ういんじゃないかと最近感じます。
寄り添うというのは、対等な関係を前提とした言葉だけれども、やっぱり本土と沖縄の関係は対等ではないという現実があるということがあるので、
私もちょっとこの言葉の使い方について、自分自身が今ものすごく考えているところです。
なので、皆さんに申し上げたいのは、無関心をやめていただきたいということですね。
無関心というのは決して中立ではなくて、問題があるならやっぱり厳しく問いただして、それでも学ぶことを手放さないということが非常に大事で、
寄り添うという言葉に責任を持つということもすごい重要かなというふうに考えています。
本当そうですね。やっぱり平和学習ということの意義というのが、今回の事故で萎縮してしまうのは本当に残念でした。
文科省の教育基本法違反という認定自体も、それはちょっと行き過ぎなんじゃないかなと思う部分がありますよね。
考えるきっかけにもしていきたいと思います。谷口さんありがとうございました。
ありがとうございました。
この時間は谷口真由美のブラッシュアップでした。