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2024-11-04 33:20

マンハッタン計画 | 核時代を生きる 3

レクチャーシリーズ「核時代を生きる」(全13回)は,核時代を生きた様々な人々を取り上げて,核兵器の歴史を多面的に理解することを目的としています。その第3回となるこのエピソード「マンハッタン計画」では,第二次世界大戦中のアメリカの原爆開発計画(マンハッタン計画)と,それに関わった科学者たちの考えと行動,ならびに機密保持をめぐる科学者と軍人・政治家との対立について解説します。

なお,このエピソードは,私(たな)が2017年度後期に大学で行った講義「科学技術と現代社会 第3回 マンハッタン計画」の録画ビデオを元に作成しました。途中,テレビ番組の一部を観てもらう部分がありますが,そこは省略しています。

ビデオでは,スライドを示しながら説明していますので,そのスライドを下に掲載します。文字起こし欄に,そこで参照してほしいスライドの番号を【スライド1】などと記載していますので,必要に応じて参照してください。

また,録画ビデオ自体も下に掲載していますので,必要に応じて参照してください。

最後に,参考文献を掲載しました。

スライド

スライド1

スライド2

スライド3

スライド4

スライド5

スライド6

スライド7

スライド8

スライド9

スライド10

スライド11

スライド12

スライド13

補足:ロスアラモス研究所は,当初軍の管理下に置かれるものと計画されましたが,科学者の士気を下げないため妥協が図られ,研究開発段階は文民管理下(具体的にはカリフォルニナ大学が管理),生産段階に(1944年1月以降のある時期から)軍の管理下に置き,しかも文民管理下時代に雇用された者は陸軍任官を義務付けないこととされました。それでもラビはロスアラモス研究所の一員とはなりませんでした(マーティン・J・シャーウィン『破滅への道』89-91頁)。なお,結局戦時中にロスアラモス研究所が軍の管理下に置かれることはなく,またその後も現在に至るまで同研究所はカリフォルニア大学が管理しています。

スライド14

スライド15

スライド16

スライド17

スライド18

スライド19

スライド20

録画ビデオ

授業で上映したビデオ

  • 失われた世界の謎「極秘の核施設」ヒストリーチャンネル,2006年。
  • ジョン・エルス監督「The Day After Trinity」1980年。授業で上映したビデオ(日本語字幕付き映像)は,ジョン・エルス監督,富田晶子・富田倫生訳『ヒロシマ・ナガサキのまえに——オッペンハイマーと原子爆弾』ボイジャー,1996.8.6,CD-ROM(エキスパンドブック)所収。このCD-ROMは現在入手不可能ですが,動画部分を除いたものが電子書籍の形で読めます(有料ですが,初めの方は一部無料で読むことができます)。

参考文献

  • 山崎正勝・日野川静枝編著『原爆はこうして開発された』増補版,青木書店,1997年,第2章「研究と開発の組織化」,第7章「核と科学者たち」。この本は,アメリカの原爆開発に関する基本的な文献です。
  • R.P.ファインマン『ご冗談でしょう,ファインマンさん(上)』大貫昌子訳,岩波書店(岩波現代文庫),2000年(初版1986年),第3章「ファインマンと原爆と軍隊」。マンハッタン計画に関わった科学者の手記。
  • J.ウィルソン編『原爆をつくった科学者たち』中村誠太郞・奥地幹雄訳,岩波書店(同時代ライブラリー),1990年(初版『われらの時代におこったこと』岩波書店,1979年)。マンハッタン計画に関わった12人の科学者の手記。
  • マーティン・J・シャーウィン(加藤幹雄訳)『破滅への道程——原爆と第二次世界大戦』TBSブリタニカ,1978年。
  • ジョン・エルス(富田晶子・富田倫生訳)『ヒロシマ・ナガサキのまえに——オッペンハイマーと原爆』ボイジャー,2012年(電子書籍)。

AIによる比較的詳細な要約

マンハッタン計画の概要と意義

今日の講義では、アメリカの原爆開発計画である「マンハッタン計画」について、その成り立ちから規模、組織の変遷、科学者の動員状況、さらには科学のあり方の変化について解説します。マンハッタン計画は、20世紀に入って初めて行われた巨大な研究開発プロジェクトで、総費用は20億ドル(現在の価値で約240億ドル、日本円に換算すると約2.4兆円)に上ります。この計画にはおよそ13万人が関わっており、その中には多くの科学者や技術者、さらに施設の運営や建設に従事する労働者も含まれていました。

マンハッタン計画のように国家資源を集中投下する大規模科学技術プロジェクトは、後に「Big Science(巨大科学)」と呼ばれるようになり、その後の宇宙開発(アポロ計画など)やソ連での大型プロジェクトにも影響を与えました。アポロ計画は人類初の月面着陸を成功させましたが、平和目的だけでなく、軍事的な要素も背景に持っていたことは重要な点です。マンハッタン計画も同様に、兵器開発を目的としたもので、科学者が政府や軍、企業と密接に協力しなければならなかったことが、科学のあり方に大きな影響を与えました。

科学者と軍の関係:研究の自由と機密保持

マンハッタン計画の進行にあたり、科学者と軍の間では「研究の自由」と「機密保持」の対立が大きな問題となりました。従来、科学は科学者が自由に研究を進め、その成果を公開し合うことで発展してきました。特に、自由な情報交換や討論が科学の進展には欠かせないと科学者たちは信じていました。しかし、軍事目的で行われるマンハッタン計画では、原爆という兵器の開発を秘匿するため、情報の厳格な管理が求められました。このため、軍は情報を細かく区分して担当者以外にはアクセスできないようにする「区分化(コンパートメンタリゼーション)」という方式を採用しました。

具体的には、各担当者が自分の担当分野に関する情報のみを持ち、他の分野の情報にはアクセスできないようにし、情報が計画外に漏れないよう徹底しました。この制約は科学者にとって士気の低下を引き起こすものであり、彼らは自分が行っている研究の目的や全体像がわからないため、意義を見出せないという問題を抱えることになりました。こうした制約にも関わらず、マンハッタン計画の情報は最終的にソ連に漏洩し、戦後の核開発に利用されることになります。

マンハッタン計画の成り立ちと組織の変遷

マンハッタン計画を進めたのは陸軍の「マンハッタン管区(Manhattan District)」であり、これは1942年6月に設置されました。マンハッタン管区は工兵隊(Corps of Engineers)の一部として創設され、初期の責任者は工兵隊のグローブス准将です。マンハッタン管区という名称は、当時陸軍内で用いられた秘匿名であり、原爆開発計画の実態を隠すためのものでした。元々は「DSM計画(Development of Substitute Materials)」という名称が使われていましたが、「代用材料開発計画」という名前は関心を引きやすいため、ありふれた地名の「マンハッタン」を採用したのです。

当初、計画は科学者たちが中心となって進めていました。科学研究開発局(OSRD)という大統領直属の組織が担当し、ブッシュ局長やコナントといった科学者がリーダーシップを取り、カリフォルニア大学やコロンビア大学、シカゴ大学の研究所で研究が行われました。例えば、電磁分離法を用いたウラン濃縮はカリフォルニア大学の「放射線研究所」で、気体拡散法によるウラン濃縮はコロンビア大学の「SAM研究所」で、プルトニウムの研究はシカゴ大学の「冶金研究所」で進められました。ただし、いずれも秘匿名で、実際の研究内容が外部に知られないようにされていました。

しかし、1943年5月にマンハッタン管区へと権限が移され、以降は軍が指揮を取るようになりました。責任者にはグローブス准将が就任し、工場や研究所の管理も軍の監督下に置かれました。実際のウラン濃縮は、ユニオン・カーバイド社が運営するクリントン工場(オークリッジ)、プルトニウム生産はデュポン社が担当するハンフォード工場で行われました。そして、原爆の設計と製造は、物理学者オッペンハイマーが所長を務めたロスアラモス研究所で進められました。

科学者の動員とその役割

マンハッタン計画には、大学から物理学者や化学者など多くの科学者が個別に招聘され、動員されました。例えば、若き日のファインマンは、プリンストン大学の院生でありながら計画に参加しました。彼は「ドイツが先に原子爆弾を開発する危険性」を理由に参画したと述べています。他方、シカゴ大学で核連鎖反応の研究を行っていたウィルソンは、原爆の破壊力に恐れを抱き、いったんはレーダー研究に転向しましたが、日本による真珠湾攻撃の報を受けて原爆開発に復帰しました。このように、多くの科学者がナチス・ドイツへの対抗や日本との戦争を動機に動員されましたが、一部には計画に参加しなかった科学者もいました。

例えば、MITでレーダー研究を行っていたラビは、オッペンハイマーからの参加要請を断りました。その理由は、ロスアラモス研究所が陸軍の管理下にあり、科学者としての自由が保証されていないからです。ラビは、研究所が軍から独立し、機密保持体制や人事の権限が科学者の手にあるならば参加すると条件を出しましたが、グローブスはそれを認めませんでした。したがって、すべての科学者が計画に強制的に従事したわけではなく、一定の選択の自由があったことが分かります。

科学者の士気と機密保持の対立

ロスアラモス研究所では、科学者と軍人、政治家、企業の派遣研究者が異なる価値観を持ちながら共同で研究にあたりました。大学の研究者は「自由」を最も重要視し、軍人や政治家は「国家的利益」、企業の研究者は「利潤や安全性」を重視していました。このような価値観の違いがしばしば対立を引き起こし、研究の進行を妨げる要因ともなりました。特に、科学者たちは自分たちの意見が計画に十分反映されていないことに不満を募らせ、プロジェクトが進まない原因を科学者の権限が制限されていることにあると考えました。

さらに、機密保持の徹底に関しても対立が起こりました。科学者たちは自由な情報交換が研究を促進すると信じていましたが、軍はスパイによる情報漏洩を懸念し、厳格な秘密主義を敷きました。これに対処するため、ロスアラモス研究所では外部との接触を遮断し、所内ではある程度自由に情報交換ができるような環境を整えました。しかし、軍は研究所内での討論会に対しても出席者を制限し、内容を科学的なテーマに限定するなどの規制を行い、政治的な議論が起こらないようにしました。

マンハッタン計画の成功とその影響

こうして厳格な機密保持がなされたため、ナチス・ドイツには原爆開発の情報が漏洩することはありませんでしたが、同盟国であったソ連には一部の情報が流出し、戦後ソ連が核開発を進める際に利用されました。このような一部の機密保持の失敗はありましたが、自由な討論を制限したことには、ある意味での「成功」もありました。すなわち、科学者たちが原爆開発そのものに集中し、開発した原爆の使用の是非について討論が分散しなかったことです。これは、軍が迅速に原爆を完成させることを望んでいたためであり、科学者たちが余計な議論に意識を向けることを避けたことにより、計画は効率的に進められました。

以上、マンハッタン計画を通じて、科学と軍事が協力しつつも対立し合いながら進められた歴史的経緯が描かれます。この計画は、科学者と軍が協力しながらも価値観の違いで軋轢を生み出し、それを乗り越えつつプロジェクトを推進した例であり、20世紀における科学と軍事の関係性に大きな影響を与えた重要な事例として位置づけられます。

サマリー

このエピソードでは、第二次世界大戦中のアメリカの原爆開発計画(マンハッタン計画)と、それに関わった科学者たちの考えと行動、ならびに機密保持をめぐる科学者と軍人・政治家との対立について解説します。

巨大研究開発プロジェクト
【スライド1】では、今日のテーマ、「マンハッタン計画」ですけれども、
今日は、前回のようないきさつで、アメリカが原爆開発に向かうことになりました。
実際の原爆開発計画の名前がマンハッタン計画という名前で呼ばれていたということは、前に言ったとおりです。
そのマンハッタン計画というのは、どのように進められたのか、どんなものだったのかということ、
それからその計画が進んでいく中で、どういう問題が起こり、
それがどのように解決されていったのかというようなことを見ていきます。
特にこの授業では、科学者というものに焦点を当てて、
科学者とそれからそれ以外の人がどういう関係を持ったのか、
そういったところにも注目していきたいと思います。
【スライド2】まずは「マンハッタン計画の概要」ですね。
どんなものであったかということですけれども、
【スライド3】このマンハッタン計画というのは一言で言えば、
それまでにない巨大研究開発プロジェクトといっていいものだったと思います。
総費用20億ドル、現在のアメリカのお金では240億ドル、
日本円に直しますと2.4兆円か、それよりちょっと多いぐらいだと思いますけれども、
それぐらいですので、一つの兵器開発計画でこのような巨大な金額の費用を使うというのは、
そうそうありませんでしたし、その後もそうあるものではなかったわけです。
そういう意味では、これまでにない規模の研究開発プロジェクトであったということが言えます。
これはお金だけではなくて、いろんな面で言えるんですけれども、
例えばそれに関わった人の数で見ても、約13万人ぐらい関わったと言われていまして、
この中にはもちろん科学者技術者以外にも多くの労働者も含まれています。
ですので、巨大なプロジェクトですから、たくさんの人がいろんなものを作ったりしたんですね。
あと、その施設を運転するのにも多くの人が必要でしたので、それぐらい必要だったということです。
また、このほかにも、そこで使われた様々な資源、エネルギー、これもものすごいものでした。
これはこの後、ビデオを見てもらう中で出てきますけれども、
やはりこの巨大なプロジェクトに見合うだけの非常に多くの資源をふんだんに使い、
その結果として原爆という恐ろしい兵器ができてきたということになるわけです。
こういった巨大研究開発プロジェクトは、よくBig Scienceという言葉で言われます。
Big Scienceというのは、直訳すれば「大きな科学」ですけれども、
日本語ではこれを「巨大科学」というふうに訳しています。
これは非常に巨大な研究開発プロジェクトを指す言葉で、
これは大体20世紀になって生まれてきた、一つの科学の特徴的な姿というふうに考えられています。
マンハッタン計画が一番最初のものでしたけれども、
それ以降にも特にアメリカとかソ連とかそういうところで、超大国で進められていったものにいくつかあります。
例えば原爆以外の有名な例が宇宙開発ですね。
アメリカでアポロ計画というのがありまして、
有人宇宙飛行ですね。
宇宙飛行だけじゃないな。
人間を月まで送り届けるという、とてつもないプロジェクトを実際に実現したんですね。
これはアメリカしかやっていません。
人間を宇宙に送るのは、地球の周りを宇宙ステーションなんかで回して、そこに滞在するというのはいくつもの国がやっていますけれども、
アメリカはそこからさらに離れて、月まで人間を送り込んだということですから、それはものすごいことだったんですけれども、
そんなのも巨大科学の一つというふうに考えられています。
そういうことで20世紀になりますと、いくつかこういったBig Scienceというふうに言われるようなものが出てくるんですけれども、
マンハッタン計画はその最初のものであった。
国家の莫大な資源をそこに投入して、科学というものが行われるようになったということです。
それが兵器開発だったというのが非常に残念なところではありますね。
アポロ計画にしたって、あれは単なる平和利用ではなくて、軍事的な意味合いも非常に強かったわけです。
やはり軍事というものが関わると、このように科学はふんだんにお金や資源を使うことになっていってしまうということですね。
そしてこの科学は、それまで科学者が細々とやっていたような、非常に小さな規模の科学を一変させました。
ここではもう科学者だけではなくて、いろんな人がそこに関わるような形で進められたんですね。
科学者だけでこの計画を進めることは到底できなかった。
そこには政府、軍、企業など、それまで科学者があまり関わったことのないような人たちと、いろんな関係を持ち協力しながら、この計画を進めていかなければいけませんでした。
スムーズにいくことはあまりなかったようですね。
いろんな軋轢を生じさせながら、何とかそれを克服しながら進めていくという形になりました。
それによって科学者のあり方というのも、それまでとはだいぶ変わったものになっていったんだろうと思います。
特にこの授業では、その科学者とそれ以外の人たちとの関わりを考える一つのテーマとして、
「研究の自由と機密保持の問題」というのを取り上げてみたいと思います。
それまでの科学というのは、基本的に科学者が自由に行っていました。
科学者がやりたいように行い、その研究成果も科学者が自由に発表していた。
そういう自由のあるところでこそ、科学は一番よく進歩するんだという、そういう信念のようなものが科学者の中にはあったと思います。
しかし他方で、このような軍事機密を含んだ研究は、当然そこに機密保持の問題が生じてきます。
特に軍の側は、そういうことに非常に敏感ですので、軍事機密が漏れないようにするということを徹底しました。
もちろんそれを科学者にも要求したわけですね。
ですので、その研究の自由と機密保持の問題というのは、非常に対立する、そこに問題をはらむ、そういったテーマとなっていったわけです。
それは何とか折り合いをつけながら解決されていくことになるんですけれども、
それはどのようにして行われたのかということも、今日の授業で見ていきたいと思っています。
【スライド4】ではまず、今日も前回と同じようにビデオを見ることから始めたいと思います。
これから見てもらうのは、マンハッタン計画の中でも、濃縮ウランというのを作る工場ですね。
これは広島に落とされたウラン爆弾の原料になったものですけれども、
その濃縮ウランというのを作るために建設され運転された工場の跡地を取材した番組を見てもらいたいと思います。
この工場はオークリッジという場所にあったクリントン工場というふうに言われている工場なんですけれども、
ここでは主にウランを濃縮するために2つの方法を使って2つの工場が建設されました。
1つは電磁分離プラントといって、巨大な電磁石を使って分離する方法を応用したものです。
それからもう1つはガス拡散プラントとか気体拡散プラントというふうに言われているもので、
ウランを気体の状態にしてそれをフィルターで濾すような形で、
だんだんとウラン235という原爆の材料になるウランを濃縮していくプラントです。
どちらも非常に巨大なものなんですけれども、
これはいくら口で言ってもピンとこないと思いますので、
ぜひこれから見てもらうビデオでそれを感じてもらいたいと思います。【ビデオ上映部分は省略】
マンハッタン管区
【スライド5】ではここからマンハッタン計画について私の方で補足の説明をしていきます。
まず「マンハッタン管区」です。
このマンハッタン計画というのを進めていた担当部隊、これは陸軍の部隊だったんですけれども、
それがマンハッタン管区というふうに呼ばれました。
Manhattan Districtというのが英語名ですね。
これは1942年の6月に設置されまして、陸軍工兵隊の一管区として設置されたものです。
ちなみに工兵隊というのは英語で言いますとCorps of Engineersというふうに言いまして、
エンジニアの部隊というのが元々の意味なんですけれども、
ここで言うエンジニアというのは皆さんが考えるようなエンジニアとはちょっと違うかもしれません。
これは軍隊の中の工兵という一つの種類を指しています。
基本的に軍隊の中で建設を担当するそういう任務の兵隊を工兵というふうに言いますが、
その工兵というのは管区というのを持っていました。
つまり場所ごとにこの部隊が作られていたんですね。
マンハッタン管区というのはそういうものの一つの管区ですので、
マンハッタンという地名ですからマンハッタンという地区を担当する工兵隊というふうに考えられるのが普通ですけれども、
もちろんこれは秘匿名、つまり隠すための名前でして、
実際にはこれは原爆を開発製造するそういう任務を持ったもので一般的な工兵とは全く違います。
この原爆の開発製造の計画はマンハッタン管区がやっている計画なのでマンハッタン計画というふうに呼ばれるようになったんですけれども、
もともとはこれDSM計画というふうに呼ばれていたそうです。
DSMというのは英語で言いますとDevelopment of Substitute Materialsですね。
代用材料開発とでも訳すような名前ですけれども、
これももちろん実態を隠すための名前ですね。
代用材料開発計画というふうに言って、
何らかの軍事に関わるような研究開発なんだろうというふうに思わせて原爆ということは表に出さなかったわけですけれども、
ただこの最初のDSM計画というのはやはり代用材料って何なんだろうという、
そういう好奇心をかきたてるような名前だったためにあまり好ましくないということで、
結局マンハッタン計画という、マンハッタンという地名はありふれたものですから、
それほど人々の関心を引かないということで、
そういう名前がその後一般的になっていきました。
この責任者がグローブス准将という工兵隊の将校です。
先ほどのビデオの中でも何度か名前が出てきましたし、
この写真も確か出てきたと思いますけれども、
1942年の9月に任命されました。
つまりマンハッタン管区が作られて、3ヶ月後というかなり早い時期に責任者に任命されて、
終戦まで、つまり原爆開発が成功するときまでずっとこの人が責任者であったわけです。
つまりこの原爆開発計画の責任者というのは軍人だったということですね。
ただその責任者がグローブスになるのは、
このマンハッタン管区の長、責任者に任命されるよりも後です。
つまりちょっと分かりにくいんですけれども、
元々原爆開発計画というのは科学者たちによって始められたんですね。
これは前回見たように、科学者たちの指導のもとにこういった計画が始まったので、
最初はアメリカの中でもこの研究は科学者中心でやっていました。
その科学者中心の組織が、この後ですぐに説明しますが、OSRDという組織です。
科学研究開発局という大統領直属の組織があったんですけれども、
そこが最初は原爆開発を担当していたんですが、
そこから1943年の5月、つまりある程度研究が進んだ途中の段階から、
このマンハッタン管区に移りまして、グローブスが責任者となっていくということですね。
【スライド6】このマンハッタン計画の組織についてちょっと見ておきたいんですけれども、
2つ図を示しますが、これが1つ目です。
これは1942年の6月ということで、マンハッタン管区が設置されたときの組織図なんですけれども、
この中で中心となるのはどこかというところの真ん中に書いてあるOSRD、
すなわち科学研究開発局という大統領直属の組織です。
ここがアメリカの戦時中の様々な軍事に関わる研究開発をすべて取りまとめていたところで、
そこの局長はブッシュという人ですけれども、この人も科学者です。
その下にいろんな戦機開発の委員会が作られたんですけれども、
その中の1つがS-1執行委員会というもので、
このS-1執行委員会の責任者がコナントという、やはりこの人も科学者です。
その下に各大学に研究所が作られて、それぞれ研究を進めていました。
例えば先ほどのビデオで見た電磁分離法、これを研究していたのがカリフォルニア大学です。
そこに放射線研究所という研究所が作られまして、そこで研究がなされていました。
ちなみにこの放射線研究所というのも実は秘匿名です。
それらしい名前がついているんですけれどもね。
放射線の研究をしているわけではなくて、ここでは原爆の材料の研究をやっていたんです。
それから気体拡散法に関してはコロンビア大学というところで、
SAM研究所というのが作られてここで研究していました。
それから原爆の材料はウランだけではなくてプルトニウムもありますね。
プルトニウムというのはウランを燃料にした原子炉から作られます。
原子炉を運転することによってウランがプルトニウムに変わっていくんですけれども、
そのプルトニウム生産のための研究、つまり原子炉の研究をシカゴ大学というところでやっていました。
それが冶金研究所というところで、これも別に冶金という分野があるんですけれど、
その研究をやっていたわけではありません。
全部研究所の名前は秘匿名で実際やっていたこととはずれています。
このように当初は研究も科学者中心で大学でやっていたんですけれども、それが変わってきます。
【スライド7】それから今言ったいくつかの研究所の場所をちょっと確認してもらいたいので、今地図をお示ししました。
コロンビア大学というのはこの東海岸、カリフォルニア大学は西海岸、そしてシカゴ大学は真ん中あたりということで、
非常にバラバラに離れて研究が行われていたということがわかるかと思います。
どこかに集中してみんなで一緒にやっていたわけではないんですね。
すでにあるさまざまな研究所をそのまま使って、そこの科学者たちを利用して研究が進められていたわけです。
【スライド8】それが1943年の5月、つまりマンハッタン管区に権限が移るとこういう組織図になります。
大統領から陸軍長官、そして陸軍長官の下に工兵隊の一管区であるマンハッタン管区が置かれました。
責任者は軍人のグローブスです。
そしてその下に原爆を作るための工場や研究所が置かれます。
まず先ほどのビデオで見てもらったクリントン工場。
ここはユニオン・カーバイドという有名な化学企業が建設運営を任されましたけれども、
そこでウラン235という濃縮ウランを作っていました。
それからハンフォードというところにあった工場が、
これはデュポン社というやはりアメリカの有名な化学企業がそこの責任を担っていたのですけれども、
ここではプルトニウムを生産していた。
つまりそこでは原子炉を運転してプルトニウムを作っていた。
これそれぞれ原爆の材料になります。
その材料を使って実際に爆発する爆弾に作り上げていたのがロスアラモス研究所という秘密の研究所でした。
ここは責任者がオッペンハイマーという有名な物理学者です。
もちろんそれ以外にもまだこの時期以降もいろんな大学の研究所あるいは企業の研究所、
そういったものが関わっていましたけれども、
主に重要な役割を果たしたのはこの3つになっていくということで、
研究開発の段階が進んでいくと組織もこういうふうに変わっていくということですね。
そのことがわかったかと思います。
【スライド9】この地図は、今度は後半の段階で重要な役割を果たした施設の場所を示したものですけれども、
クリントン工場、オークリッジの濃縮ウランを作っていた工場はどちらかというと東の方、
それからプルトニウムを作っていたのは北西部ですね。
そして爆弾を作っていたのがロスアラモスで、
これは中西部の原野の中に人がほとんど住んでいないような、
そういうところに秘密研究所を作ったんですけれども。
このようにマンハッタン計画というのは、
広いアメリカのあちこちでバラバラに研究が進められていたというのが一つの特徴かと思います。
科学者の動員
【スライド10】さて、ではこういった研究に多くの科学者が関わっていた、
いわば動員されたんですけれども、その話に移りたいと思います。
まずはこの動員というのをどのように行ったかということの実際の様子を見るために、
これから一つの映画を見てもらいたいと思います。
【スライド11】映画の一部ですね。
『The Day After Trinity』というタイトルの映画で、
これはロスアラモス研究所の所長であったオッペンハイマーを取り上げた映画で、
昔のドキュメンタリー的な映画なんですけれども、
この映画の特徴はオッペンハイマーに関わったいろんな人のインタビューから構成されているんですね。
いろんな人にインタビューして、その証言からオッペンハイマーというのがどういう人だったのか、
あるいはオッペンハイマーが関わった原爆開発計画というのはどういうものだったのか、
また戦後もオッペンハイマーはいろんな波乱に富んだ人生を送るんですけれども、
これについてもいろいろと描かれています。
ここではロスアラモス研究所というところの所長になったオッペンハイマーが、
同僚の科学者をどうやって集めてきたか、
そしてまた集められた科学者たちはどういう環境で研究をしていったのかということを、
この映画から見てもらいたいと思います。【ビデオ上映部分は省略】
【スライド12】ではちょっと時間が足らなめになってきたので若干駆け足になるかもしれませんが、
説明を続けます。
「科学者の動員」ですね。
これ見てもらいましたように一本釣り的な形で、
多くの大学から科学者あるいはその弟子が集められたわけですけれども、
例えばファインマンという非常に有名な物理学者がいます。
当時はプリンストン大学の院生だったようですけれども、
こんなことを書いています。
「ドイツにはヒットラーがいて、原子爆弾を開発するおそれは大いにある。
しかも向こうが先にそんな爆弾を作るという可能性は、
考えただけで身の毛がよだつ」ということですね。
ドイツに対抗するためにというのは、
これは他の今まで見てきた科学者と同じ考えかと思います。
他方ですね、ウィルソンという人、
シカゴ大学の教員をやっていた人ですけれども、
こんなふうに書いています。
「一度、核連鎖反応の研究に携わったが、
『あまりに恐ろしく破壊的』威力のため、
レーダー研究に転向」したということで、
ウィルソンという人はやはり原爆というのは恐ろしい兵器だと、
そんなものに携わりたくないという考え方を持っていたようです。
しかし、「日本に真珠湾攻撃の報を聞いて、原爆研究に復帰」したということで、
やはり日本の真珠湾攻撃、
日本とアメリカの戦争というのも原爆開発の一つの動機になっているというのは、
こういうところからもわかるかと思います。
【スライド13】他方ですね、声をかけられてもこれに加わらなかった科学者もいます。
例えばその一人がラビですね。
先ほどのインタビューの一番最初に出てきた人ですけれども、
MITでレーダーの研究をしていた人ですけれども、
オッペンハイマーから声をかけられましたけれども、
これを断るんですね。
なぜかというと、このロスアラモスの研究所というのは、
陸軍の管理下にあるからだということです。
陸軍の管理下にあるから、
科学者としての自由が保障されていないということですね。
そこでオッペンハイマーは何とか説得しようと交渉したんですけれども、
ラビはこういう条件を提示しました。
まず、研究所は軍部から独立すべきである。
機密保持の体制は研究所が決められるようにする。
そして人事に関しても研究所が権限を持つなどですね。
大学の研究者が持っているような権限をここでも持つことができるのであれば、
行ってもいいと。
こういうふうに言いまして、
こういった条件はですね、
もちろん軍の管理下にある研究所では認められませんので、
グローブスはその提示された条件は認めませんでした。
したがってラビはこのロスアラモスには行かなかったということですね。
このように当時ですね、
すべての研究者が強制的にこの研究に従事させられたのかというと、
そうではなくて選択の自由があったというところですね。
このことも知っておいていい事実かと思います。
【スライド14】では、そうやって集められた科学者たちはですね、
どのように仕事をしていったのか。
先ほどのビデオで見ると何か楽しそうな感じでですね、
スムーズにやっていたような感じもあるんですけれども、
しかし最初に言いましたように、
そういうことばかりではありませんでした。
大学の研究者ですね、
こういった人たちと、それから軍人や政治家、
そして企業から派遣された研究者ですね。
こういった人たちはもともと違う価値観を持っていましたので、
いろんなところで対立をしました。
それはですね、この研究自体を、
この研究開発をですね、
遅らせるような原因にもなったようです。
まず大学の研究者たちは、自由を一番大事にした。
軍人や政治家はもちろん国家的利益ですね。
そして企業の研究者は利潤や安全性、
労働者の管理を任されていますので、
そういった観点も重視したということで、
この3つはですね、必ずしもうまく調和しなかったんですね。
ですので、いろんなところで対立することがあったようです。
【スライド15】それは科学者の側の不満として湧き上がってきたんですね。
例えばモリソンはオッペンハイマーに対してこういう手紙を送っています。
「このような新しい分野に最も精通しているのは科学者だけ」であると。
「にもかかわらず、科学者に対する十分な相談が行われていないということが、
このプロジェクトを大幅に遅らせている原因」なんだと。
当時、科学者たちはこのプロジェクトがなかなかこう思うように進まない。
その原因をですね、科学者に十分な権限が与えられていないというようなことを見ています。
こうも言っています。
「現在科学者の間に見られる士気の低下は『科学者に対する命令的な政策、
研究所に責任が与えられていない体制、便宜主義や安全至上主義による開発スピードの鈍化、
契約企業側の利潤追求一辺倒の態度、そして問題に精通した人間
(すなわち科学者)を信用したがらない陸軍の態度』などによる」ということで、
軍側にもそれから企業の人たちにも不満を持っていたということがわかるかと思います。
機密保持の問題
【スライド16】特に問題になるのが、この「機密保持の問題」だということで、この話に移ります。
【スライド17】機密保持に対しては、科学者たちと軍人たちではかなり大きな考えの違いがありました。
科学者たちは、自由こそが大事である。
自由に情報を交換したいということから、秘密主義に反対しました。
これはこれまでの経験ですね。
自分たちの科学者たちの経験に基づいていると思います。
自由な情報交換と討論こそが研究を促進するという、
そういう実体験をもとにしてそういう態度を取ったんですね。
しかし、これはまたスパイに情報を盗まれる危険性がある行為でもあったわけですね。
もしその自由な交流の中にスパイが入っていたらどうなるか。
自由な情報が筒抜けに敵に伝わってしまうということになるわけです。
他方、政治家や軍人はやはりそういったことを防ぎたいので、
秘密主義を徹底させました。
敵であるドイツ、さらには当時同じ陣営にいたソ連やイギリスに対しても、
原爆に関する機密情報を漏らさないように、
自由な情報交換を制限していました。
特に、この情報交換の制限ということで取られた方法が、
区分化というふうに呼ばれているものです。
これは英語で言いますと、Compartmentalizationという単語なんですけれども、
コンパートメントって皆さん知ってますでしょうか。
よく西洋のヨーロッパの列車なんかで、個室がありますよね。
日本の列車もたまにありますけれども、
個室、区切られた空間、あれをコンパートメントと言います。
ですので、このCompartmentalizationというのは、
情報が共有される範囲を小さく小さく区分に区切っていくという、
そういうやり方です。
あなたはこの担当なんだから、ここの情報しか知ってはいけません。
この情報は他の担当の人に知らせてはいけません、というふうにすることです。
先ほどのビデオの中にある女性が、このバッジを持っていたら、
自分の担当のところへ行ける、あるいはトイレやカフェテリアには行けるけれども、
他のところには入れないと言ってましたよね。
あれもこの区分化の一つの例です。
すべての関係者がああいうふうにバラバラにされたんですね。
自由な情報交換を禁じられたわけです。
しかし、これは科学者にとっては、自分がやっている研究、
自分が任された研究が何のためにあるのかということがわからないわけですね。
自分の研究はおそらく何かのために、役立つためにやっているんだけれども、
じゃあ何のためにかということは教えられていない。
そうなりますと、科学者というのはだんだんやる気がなくなってくるわけです。
やっぱり自分の研究の意義というものを知りたいわけですよね。
ですので、これをあまり徹底させると科学者の士気が下がるので、
かえって研究が滞る可能性があるということで、こちらの方も問題がありました。
ロスアラモス研究所の新設
【スライド18】その2つをうまく調和させる方法ということで取られた方策の1つが、
秘密研究所、ロスアラモス研究所の新設だったわけです。
当初、爆弾の研究、速い中性子の研究とも言われたんですけれども、
この研究はシカゴ大学で行われる予定でした。
責任者はブライトという人だったそうです。
しかし、この爆弾の研究に携わった人は全米各地に分かれていて、
その間で連絡を取り合いながらやっていたんですけれども、
当然その間には情報が漏れる可能性があったわけですね。
また、シカゴというのも大都市ですので、
いろんな人が入ってきますので、情報が漏れる可能性がありました。
ブライトは、こんな状況では機密保持が保てないということで不満を持っていまして、
結局やめてしまいます。1942年5月にやめてしまってですね。
やめるときにこういう提案をしていきます。
このシカゴの冶金研究所と重複しないメンバーで新しい研究所を作るべきだと、
こう言ってやめていくんですね。
それが実際に取り入れられまして、1943年の3月、
先ほどビデオで見てもらったような、あのような僻地に研究所を作ることになるわけです。
外界と人間の交流、あるいは情報の交流を遮断することによって、
この研究所から情報が漏れることを防ごうとした。
しかし、その研究所の中ではできるだけ自由な情報交換ができるようにという、
そういう配慮の下でこういう研究所を作ったということです。
【スライド19】しかし、その研究所の中でもやっぱりですね、
軍の側はできるだけこの情報の自由な交流をさせないようにということをしていたようです。
例えば一つの例がこれです。
ロスアラモスの研究所ではですね、毎週討論会が行われていたんですね。
これは大学なんかでよくやっているものなんです。
あるテーマを決めて、それに関心のある人たちが自由にそこで討論ができるような、
そういうものをここでもやりたいということでやっていたんですけれども、
これに対してですね、グローブスが解散を命令した。
そんなことをすると情報が漏れる可能性があるということですね。
しかし、科学者であるオッペンハイマーはこれも禁じてしまったら、
本当に科学者たちはやる気をなくしてしまうから、
これをやめさせるということには反対だということで、
グローブスに撤回を要求しました。
この2人はですね、結局こういうところで折り合ったわけです。
つまり出席者の人数をできるだけ制限すると。
そうすることによってですね、情報が漏れる可能性を下げるということ。
それからそこでの討論内容をですね、科学的な問題に限定するということですね。
この討論会はいろんなテーマを取り上げましたので、
社会的、政治的な問題も取り上げる可能性があったんですけれども、
そういうのはダメだと。
例えば原爆を使うべきかどうかというようなですね、
そういう政治的な問題はここでは討論してはいけないというようなことで、
軍の側は承知をしたようです。
機密保持政策の効果
【スライド20】その結果ですね、機密保持はそれなりにうまくいって、
例えば敵であるナチス・ドイツにはこの情報は漏れなかったようです。
ナチス・ドイツもアメリカの情報を得て原爆開発を進めるということはなかったようですけれども、
でもソ連に対しては漏れました。
ソ連は当時同じ陣営にいたんだから、漏れても不思議はないかもしれないんですけれども、
でもアメリカは漏らしたくなかったんですね。
けれどもソ連のスパイが入っていて、情報は漏れてしまい、
戦後ソ連が原爆を開発するときにその情報は活用されることになりました。
ですので部分的に失敗したということは言えるかと思います。
ただこの自由な討論を制限するというのはそれなりに政治的な効果があった。
それは原爆を作らせるということに科学者の関心を集中させることによって、
科学者たちが作られた原爆を例えば日本に対して使うべきではないとか、
作ったのはいいけれどもドイツが降伏したんだから、
これは戦争では使うべきではないからこれ以上研究をやらないとか、
そういう方向に行くと困るわけですね。
軍としてはできるだけ早くともかく原爆を作ってほしかったので、
そういう余計なことは考えさせないということでは効果があっただろうというふうに思います。
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