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なんか伝わらないから「包括的性教育」って言うのをやめたい
2026-07-09 15:16

なんか伝わらないから「包括的性教育」って言うのをやめたい

包括的セクシュアリティ教育は、自分を知り、他人を知り、違いを活かし合うマインド作りのために必要な学問だと思っています。
性的なトピックはそのうちの一分野。そして、自分と他人を知り活かし合う文化を作るために、性的トピックも当然重要な知識と理解が必要です。性の学びを、性行為をするためだけのことと認識しているとすれば、とても危ういことだと思います。
(人権問題という側面も持っていますが、今回の配信ではその視点には触れていません。)

そういう大事なことを伝えたくても、残念ながら今の日本では、先入観で「性教育」という“ワード”に過剰反応する人が多すぎる。この国は今はそういう文化です。だからそのワードは使うとなんか遠回りというか、変わらないんじゃないかとすら思ってしまいます。
とは言え、包括的性教育という言葉のほうが浸透し始め、共通語(むしろ公式な言葉?)として使われてもいるので、私も全く使わないということはないし、使っている人や文などは全く問題ないと思います。
問題ないけど、先入観で不毛な反論とか書かれてるのを見ると、ただただ無駄な時間としか言いようがないので、そういう“性教育”の話はしていません、って言いたいだけってのが本音のところ。

#包括的セクシュアリティ教育
#包括的性教育
#セクシュアリティ
#性
#同位
#バウンダリー
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はい、どうもこんにちは、たからんです。
今日はですね、包括的性教育の話をしようと思ってるんですけども、
今日ちょっと話したい趣旨は、包括的性教育って言葉をちょっと使わないようにしようかなと思ってる。
具体的には、包括的セクシュアリティ教育っていう言葉で私が話していくことにしようかなと思ってるっていうことですね。
それはちょっとちゃんとした意味を伝えるためには、この性教育って言葉が邪魔してるんじゃないかなっていうのをちょっと話したいと思っています。
で、包括的セクシュアリティ教育っていうのを、私が何で話したい、伝えたいかというか考えていきたいっていうふうに思ってるからなんですよね。
私の中では一つ目指したい社会の姿というか世界の姿というか、今日本人というか日本の文化の中に必要なこととして、
自分というものを客観的に理解して、他人というものも客観的に理解して、それぞれの違いをしっかりと認識して尊重して、
互いに利用し合ったり補い合ったりと言って協力して物事を進めていく。
そういう文化というか考え方っていうのが、日本人の教育の中というのかな、意識の中に、やっぱり日本文化に少ないと思っていて、少ないというか足りないと思っていて、
そこをもっと力をつけなきゃいけないし、力がついたらすごく日本文化、日本の社会って飛躍的に良くなるんじゃないかという思いがあるので、そこを重視したいんですね。
その自分を知る、他人を知るっていうところに大事な要素、今一番勉強しなきゃいけないことと思っているのが、
この前ちょっと話した保育の話と、今日の話である包括セキュアリティ教育の話と、あとジェンダー拡散の解消っていう、この三つが私の中ではすごく最重要課題だというふうに思っているところがあります。
そのうちの今言った二つ目の包括的セキュアリティ教育に関してなんですけど、包括的セキュアリティ教育って、もともと包括的性教育っていうふうによく言われてるやつなんですけど、
これね、セキュアリティって言葉には、いわゆる日本語の性とか性教育って言ってる言葉よりももっと広い概念があるっぽいんですよね。
私もまだ勉強中なので、まだっぽいぐらいしか分かってないところがあるんですけど、性ってどっちかっていうとですね、性って言葉に逆に日本人が、多くの人が固定概念を持っちゃってる。
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いわゆる性交渉、セックス、否認とか妊娠とか、そういうところの印象が強すぎて、あとタブー感が強すぎて、なんかいやらしいこと、汚らしいこと、ケッチなこと、あんまり話しちゃいけないこととか、そういうイメージがどうしてもついちゃってるんですよね。
なんていうのかな、もっと体系的に、包括的セキュアリティ教育って、性交渉のことを話すとか、性についての話、性って言葉が日本語で、性イコールセックスになっちゃうとちょっとおかしいと思ってるんですけど、でもそっちに結びついちゃうだけじゃないんですよね。
もっとわざわざ包括的って言ってる言葉がついてるのも、そういう広い意味があるっていうことを示してるんですけど、もっとこの人間の自分と他人のアイデンティティというか、それをちゃんとあるってことを認識することとか認めることとかですね、人と人との関係性、人間関係とかコミュニケーションとか、
そういうところの基本的な在り方を考えるっていう、そういうもっと広く、人間社会の生活を、
お互いにウェルビーング、ウェルビーングって言葉よくありますけど、心地よいものにするというか、人間社会を円滑にそれぞれの人生を良くしていく考え方、そういうところに結びつくものですよっていうのがまず前提にあるんですよ。
で、その中で、自分や他人っていうことを大事にする要素の一つとして、性というものもある。だから要素の一つであって、一部なんですよね、大切な一部なんですけど、全体を勉強しつつ、その格論として性のことも学ぶっていうのが包括的性教育と言われたものなんですね。
だと私は解釈してます。
で、この包括的性教育っていうのを知ったときに出会った言葉が、同意とバウンダリーっていう境界っていう話なんですね。
人は一人一人自分の境界っていうのがあって、感じ方っていうのはそういうのがあって、自分はここまではいい心地よく思うけど、ここからは嫌だと思う、そういうところっていうのは一人一人違うし、自分が持っているものなんだよと。
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自分で決めるし、自分が感じたことはそのままその通りだし、誰かがみんなここまで大丈夫だよねっていう、全員統一で決めることじゃなくて、自分が感じて自分で決めること、日によっても年によっても変わるかもしれないけど、
そういうのはそれぞれみんな持っていること。だからそれをむやみに侵害していくのは、自分のまたは他者の尊厳を無視している。
それを犯すという、この境界を気にしないし守らないし勝手に入ってくるっていうのは、お前なんかどうでもいいやって思われている。そんなの許しちゃダメだよっていう、そういう基本概念みたいなところっていうのがあるよっていう話なんですね。
境界があるからこそ、お互いの境界って自分しか感じられないところだから分からないから、ここはこういうふうに大丈夫っていうふうに同意を取る。
これは別に性交渉するためにの同意を取るという話だけじゃなくて、性的同意って言葉は別にあるんですけど、同意っていうのは全てのことがあって、
手を繋ぐとか、ただ話すとかね。話す距離感、距離とか。すっげー近くに寄ってきて喋るとかっていうのも、え?みたいな感じになりますよね、普通にね。知らない人が近くに来たりとかしたら。
そういう距離感とか、あとは一緒に遊ぼうよって言って、公園に行って遊ぶのはいいけど、家に入って遊ぶのは嫌だとか、そういうところですね。
いろんな人間関係のいろんなコミュニケーションの中で、相手はどんどん家に来て、そうすれば親密に仲良くなれるしっていう感覚でいいこととして思っていることだとしても、
いや、一応家の中にちょっと空けるっていうのはちょっと良いことじゃないという感じでもあったりとかして、そこってそれぞれあるよね。そういう日常的な生活の中のとこからもあるよねっていうことを知るってことなんですよね。
なんか、それは人それぞれあるよねと思いつつ、でも普通こんくらいまではいいでしょう。こんくらいまではするでしょう。社会のコミュニケーションを連携するために社交事例としてとか、ここぐらいまでは一緒にとか、LINEは交換するでしょうじゃないけど。
そういう、だいたいみんなこうするよね、みんなで合わせようねってするのが、これまでの日本人の協調の仕方だと思うんですよね。和の作り方。そうじゃなくて、やっぱり一人一人違うものがあるから、もちろんそれがプライベートとしてはあって、だけどみんなとも合わせましょうねっていう考え方があるのは、それはそれでいいんだけども、
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もっと個人としての考え方っていうのはちゃんと尊重しようよ。それがあるってことをもっとちゃんと認識して、そこにもっと気を使えってことですね、簡単に言うと。
自分に対してもそうですね。自分も自分の境界とかがあるから、そこを勝手に犯してくるのはダメだよねっていう認識の中で、いや、私は今それは嫌だから、そこはやめてくれって言えばいい。
それは、ただ嫌なこと言われたら嫌な奴だっていう意味ではなくて、相手が分からなかったからそうおっしゃったんだよね。それはしょうがない、分からないんだから、それを自分にしか分からないことだから、分からなかったらしょうがないけど、ここはダメなんですよ。私にとってダメなんですよ。そこは理解してくれますよねって。
ああ、そこはダメだったんだね。分かった分かった。すみません。今、君との対応する関係だけではそこは気をつけるわっていうふうにして、僕はこうだったんだよね。ああ、そうですか。そっちの考えじゃなかったんですよね。そこは合ってなかったから、ああ、それはしょうがなかったねっていうふうになってそこに擦り合わせて、その擦り合わせた結果、お互いのちょうどいい部分でうまく関係性を作ってその先に進みましょうと。
そういう形に考えるっていうのが、人と人同士の協調してやっていくっていうことの一番大事なところですよ。そういう考え方があるっていうことを、結構私はこの懲戒戦があるっていう話を聞いたとき、すごい衝撃だったんですよ。大人になってから。
日本ではこの教育は全然されてないっていうふうに思いました。絶対されてない。聞いたことがなかった。ああ、そういう概念なんだ。なんとなく気持ちの中に、なんとなく言われてわかるような部分があるけど、それを明確に、ああ、そういうのがあるんだ。だから大切にしなきゃダメだ。自分に対しても大切にしなきゃいけないし、相手に対しても大切にしなきゃいけないんだっていう、その考え方ってなかったんですよ。
これがあると、自分ってどういう人間だな、ここまで許せないなっていう話とか、自分はどういうことが好きだと思うんだなとか、自分ってこういう人間だなっていうふうに考えるきっかけになるんですよ。
で、きっと相手にもそういうのがあって、自分とは違う形のものがあるんだなっていうことが前提として自分の中で認識されると。そうすると相手のことはどうなのかなって気にしたりとか、確認したりとか、同意を取ったりとかね。
で、じゃあ今の自分と今のあなたの関係性だったらこういうふうにやるといいかもねっていうふうに物事を進められる措置ができるんですね。
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そういうことを学ぶために、この包括セクシュアリティ教育の、まずは境界と同意っていうことが概念としてインストールしなきゃいけない、日本人に。
それができるとめちゃくちゃ飛躍的に、周りと協調するっていうのはすごく得意な日本人にとって、そこでさらに自分もちゃんと大切にするし、相手のことももう一回しっかり考えて、違いを吸収するっていう力がついたら、超無敵になると思うんですね、日本の社会って。
そのための措置を作るのが包括セクシュアリティ教育だと思っているので、そこが大事なんです。性の話も大事なんだけど、性以前の問題なんですよね。性の以前の以前の以前の問題。
なので、そこを学ぶ話だから、包括セクシュアリティ教育はちゃんと学ばなきゃいけないし、そして性の部分っていうのも自分っていうことをしっかりと定義して、自分はここが大切なこと、自分の大切な部分っていうのをどうすればいいかっていうことを考えるっていうことがすごく大事になってくるので、これを大事にしたいですね。
だけど、いわゆる性教育っていうのは、日本の中では、もう、なんだろう、本当にいやらしいことというか、何なんでしょうね、隠していることを隠すことというか、けがらわしいことぐらいに思う人もたくさんいて、ちょっとこれだとまずいと思うんですね。
でも、それも教育されてこなかったんで、大人たちも。教育させてもらえなかったというか、誰も知らなかったというか、しょうがないことなんですけど、しょうがないから放っておくわけにはいかないと思ってて、習ってないなら自分たちでなんとか学ばなきゃいけない。
だから、そこを、だけど、性教育って言葉にすごいいろんな偏見が入るので、それだとお話にならないので、話し切るようにならないので、性教育やめたいと思いました。
性教育って言葉をやめて、セクシャリティ教育。セクシャリティっていうのは、性のことだけじゃなくて、もっと人間関係を構築するすごい基本的な部分を学べる、そういう素晴らしい学問なんだよっていうことをちょっと考えていきたいなというふうに思って、包括的セクシャリティ教育っていうのを話していきたいなと思っています。
はい、ということで、私の中では保育、包括的セクシャリティ教育とジェンダー格差っていう話が一番重要かなと思っているので、この辺の話をもっといろんな角度でしていけたらいいなと思っています。
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はい、ということで今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。私の将来の新しい世界を教えてくれるあなたの存在に感謝します。皆さんにも素敵な息づきのある毎日となりますように。
ダカランでした。それではまた会いましょう。
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